『歴史学研究』No224号

1958年10月

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松川事件に至る反共意識の動員について


表紙

古屋哲夫


1


1948年12月18日、アメリカ政府は、マッカーサーに対して経済9原則の実施を指令し、日本を中国に於ける共産党の勝利に対する反共防波堤に仕立上げる意図を明らかにした。この本国政府の指令を実現するために、G. H. Q. は、既存の支配体制の強化と安定を図ったのである。  

  49年の時点に於て、この様な支配体制の再編り強化は、努働運動の抑圧、企業合理化による経済安定=独占資本の支配の強化として具体化される。そして、この年の初めから首切り、賃銀遲缺配、集中生産を名とする工場閉鎖が続出する。1月の総選挙には、マッカーサーは、民自党の絶対多数獲得に「保守的政治哲学にめいりような、決定的な委任をあたえたこの熱心な秩序整然たる選挙に満足」の意を表した。更にG.H.Q.ヘプラー労働課長は、石炭・電産・海員・繊維・私鉄等の組合に対しスト中止を勧告した。  

  ー方でこの様な労働者の「利益」の侵害を強行した支配者は、他面そこに生ずるに違いない強い抵抗を反共意識の動員によって克服しようとしたのである、だから一連の攻撃の主自標が「企業に不忠実なもの」として、共産党員に向けられたことは云うまでもないが、しかしこれらの政策は単に共産党員のみでなく労働者階級全体の 犠牲の上に支配体制を強化再編するものであっ,たから単なる「反共」の強調=舊意識への単なる観念的呼びかけでこと足りる筈はなかった。そこでは、戦前の握力によって蓄積された「赤」への恐怖を呼びさまし、「暴力」「破壊」「テロ」等、あらゆる悪徳のかたまりとしての「赤」を民衆の前に再現しなければならなかった。しかも絶対多数を獲得しながら、政治的信頼感をよびおこしえなかった吉田内閣が、再編政策の擔當者であったこの時期に、吉田より悪質な「民衆の敵」として「赤」を印象づけることは、再編策強行のための、必須の条件になっていたと言ってよい。フレーム・アップはもはや単なる偶然ではありえなかった。

 常時この様な反共意識の動員のために好都合ないくつかの条件が存在した。第一は、広汎な舊意識の残存である。勿論、共産党が35議席を獲得したことにもあらわれている様に、天皇制的意識は、その中核を失い、解体しつゝあった。しかし反共意識はまだ、「共産党はおっかない、天皇に反対するからいやだ」といった形で広く残留していた。支配置制の再編強化の強行にあたって、この「反共意識」を民主主義の名の下に、政治の表面に呼び出すことが企てられたのである。即ち占領軍によって変革のジンボルとしてもち込まれた「民主主義」は、自発的な政治参加=政治的自由を風土化しえないまゝに「秩序」と「安定」のシンボルに逆轉させられ、醇風美俗と中庸の道を支持するに至っていた。第二には、占領下に於ける最高の政治的権威として共産党にまで公認されたマッカーサーが反共の態度を明かにしたことである。1948年3月のトルーマン「封じ込め」政策以来顕著となる。G.H.Q.の反共的態度は、この年の7月4日のマ・カーサー声明で一つの頂点に達した。彼は、共産主義が犯罪分子、変態的分子の集りであるとして、反共体制の確立を説いた。この共産党非合法化を示唆した声明は、「反共」こそが占頷下での正統的イデオロギーであることを明示したのである。

  第三に、体制の側の再編成の強行と、赤裸な弾壓に直面して、多<の社会的運動が「反共」の旗をかかげることによって、占領下での正統性を主張し、自らを異端から区別しようとしたことである。そして地域闘争の可否をめぐる労働運動内部での戦術論争が、この異端=正統という対立に結びつき、組合内部で強い影響力を持った共産党の指導と、G.H.Q.に支持された国民同派の対立という形で激化し、組織を内部から崩壊させたの  であった。勿論そうした対立はすでに47年11月の国鉄労組反共連盟の結成に始り、翌48年7月、いわゆるボッダム政令による公務員法改悪に反対する全国的な職場離脱によって一層激化し、更にこの49年には、合理化政策のヤマとみられた国鉄人員整理を目前にして、いわば一つの頂点に達し、イデオロギー的対立は、組織全体に滲透していった。   

  即ち6月に入ると、公安条例反対闘争から、東交スト、 「人民電車」、国電スト(6月10日、中央線京浜線がストップ)と続く、闘争の盛り上りの中で、この様な組織内部での対立は極度にまでクロ−ズ:・アップされた。  そして労働者の具体的「利益」をまもるたゝかいは、暴力政治対議会政治、共産主義対民主主義という上からつ くり出された政治的争点の中にまき込まjれた。組織の分裂と闘争力め弱まりは、おゝうべくもなかった。まさにその時点をとらえて、フレーム・アップへの準備が始られたのは偶然ではない。



  この様な情勢をとらえて突如として列車妨害の記事が大新聞の紙上に噴出する。6月13日毎日新聞は、二面のトップに大々的に「御召列車妨書か、山陽、東海道線で線路に石」という見出しをかゝげ、二面の3分の1をつぷして列車妨害を報じた。当時、新聞がまだ2頁であったことを考えると、この記事にいかに大きな比重がおかれたかがわかる。そして最近「列車転覆を企てると思われる悪質事故の続出」があり、今度の御召列車通過の  線路に「不審な列車妨害事故が発生」したと傅え、更に「この種悪質事故はその手口から単なる子供などのいたずらとして片づけられぬなにか一連性(例えぼー種の予備行動)のある犯行の現れではないかともみられる」と述べている。しかし、その内容は東海道線掛川〜袋井間と熱海東方の線路に小石5、6個、こぶし大の石1個が置かれていたという2件にすぎず。一緒にのせられる奥原熱海保線分区長と国警刑事部小倉捜査課長の談話も「今回のことは子供のいたずら」とみられ、「計画的とは思えぬ」と述べていた。だから翌6月14日の朝日が「御召列車の妨害はデマ」という小さな記事をかゝげたのは当然であったと云えよ。しかし奇怪なことに、御召列車妨害を否定した朝日は、5月9日、10日、6月4目というまさに舊聞にぞくする事件をとりあげて「ふえた悪質な列車妨害、手のこんだ機関車転覆事件も」という3段披きの記事をかゝげたのである。その内容は次に掲げる通りであるが、この記事が、正にこの時点に現れる必然性は記事自体の中に見出すことは出来ない。

 

 最近原因不明の列車妨害が続出、五月に入ってからは特に多くなった。悪質な例では5月9日、豫譛線でレールの継目を丸太棒でコジリあけ、旅客列車を転覆させて死傷三を出した事件、つゞいて10日同所に同じような妨害があり、これは機関車脱線だけですん。東京近郊では横浜線に多く、京浜線でも4日、六郷鉄橋上と大井町とで継目板をレールの上においた2つの事件が報告されている。ー番多いのは、小石を線路に並べる手でこれは大部分子供のいたずらと見られているが、北海道追分機関区では入庫中の機関車をジャッキで持上げ転覆させたというのがあった。操作知ったものでなければ出来ないので当局側ではこの点を特に警戒している。


 そして朝日は、以来、3大新聞の中で最も詳細な列車妨害についての記事を掲げ始める。 こゝではその詳細を書く余裕はないが、6月中に於ける紀事を簡箪にひろってみよう。

  6.17

「線路に石、また2件」(レール上に小石)

  6.22

「列車の上に大石」(機関車の屋根にパケツ大の石を落す)

  6.23

「信越線々路に大右」(道路の舗装用大石、2米のスギ材)

  6.28

「列車妨害、1日20件、子供のいたずらが多!,ヽ」(この記事は相当なスペースをとって26日の日曜日の事故を一々報じているが内容はレール上に小石、10件、マクラ木1件、列車に投石3件、列車に発砲2件、その他1件である)

  6.28

「線路上に雷管」

  6.29

「トンネルにダイナマイト、妨害か、鹿児島本線で」(城山トンネル内にダイナマイト130個が散乱)

  6.29

「27日にも4四件」(列車に投石3、レ―ル上に角材1)

 

「各県に捜査本部」(國警県部隊長全國会議で取締り強化を指令)

  6.30

「列車妨害続く28日も4件」(投石3、レール上に青草一抱えと板一板)

  6.30

「“巡回予算増額せよ”国鉄労組中闘で声明」(政府や当局はこの原因をあたかも組合員の責任であるかのように宣傅しているが大部分は学童のいたずらで、これを首切り闘争反対戦術と結びつけるのは言語道断である。当局は速かに巡回予算を増額せよ)

  6.30

「“政治的意図の印象”国鉄下山総裁が反撃」(『組合員の責任である』といったことはない、しかし、最近のは学童のいたずらもあるが、専門的知識を持ち、内部の事情に通じている者が計画的に行っていると思われる所がある。またその地域もかつて急進分子が多かった地方に発生しており何等かの政治的意図によったものであったかの印象をうける」)


 こうしたしつようで、思わせぷりな妨害記事は共産党乃至国鉄労組の暴力化の前徴であるかの様な印象を読者に押しつけることに奉仕したものと云えよう。この様な記事は7月に入ると、平事件、下山事件、三鷹事件、等に紙面をとられて減少してくるが、7月4日「現業員3名の逮捕、取鳥で列車妨害の疑い」という記事あらわれたことは注目しておこう。
「列車妨害の激増」→「手口の専門家」→「現業員の逮捕」とつゞく、朝日、初めから「一連性のある犯行」とした毎日に対して、読売はやゝ出おくれれおくれていたが、6 月25日「列車妨害を厳戒、山手線にも大石、大半が少年?」として、゚列車妨害の増加を述べるや翌26日には、「列車妨害を逮捕;共産党名乗る二鉄員員」というセンセーショナルな見出しを3段抜きでかゝげ、朝日や毎日が暗示している方向をズバリと打出したのである。これにつゞけて、「昨年の3倍、こゝ6ケ月激増の妨害」という記事をかかげその中で「仙鉄でも同様捜査を進めた結果去月29日鉄道建設会社、米澤出張所人夫1名を検挙したが、背後関係、動機について一切語らないまゝに送検した」と、いかにも何か背後関係がある:かの様に報道した。3紙の中では、読売が最゚も露骨に反共的だったと云えよう。いずれにしろ、この様に3大新聞が6月中旬から突如として「列車妨害」を大々的とりあげ、一貫して何か暗い背後関係をにおわせ続けたのは何故だったのか、我々は今、その点について直接に実証するに足る資料は持ち合わせていない。しかし次の点には注目しなければなるまい。

 朝日年鑑、昭和25、26年版は、この様揉な事態を反映して、「列車妨害」という特別の項目を設けて、昭和14年以来の統計をのせている。それによると戦前は年間400件位、戦後になると、21年721件、22年1069件、23年1478件と激増しているが、これは、戦後、あらゆる犯罪が激増したことを考えれば特に不思議ではない。24年に入ると1月〜4月には100件台に増加しているのがわかる。そしてこの記事は、次の様に解説している。「国鉄当局の説明によれば24年5月以降急激に件数がふえたのは、従来報告のなかった様な小さな事件まですべて報告させる様にしたためでもあるが、 それにしても増加したのは事実である」として以下に、豫譛線事件(前掲朝日記事参照)を例としてあげている。では国鉄当局が5月から調査方法を変えて、事故件数の目立った増加を統計の上に表わそうとした意図はどこにあったのだろうか。5月と云えば、定員法によって27万の官公庁人員整理が決定された時である。そして6月に入り、労働者の闘争が高まりをみせようとした時、一面では、公安条例による警察支配の強化とG.H.Qの公然たる介入、―言ひかえれば裸の権力による弾圧が加えられると同時に、他面では、5月〜6月の人為的にうなぎ上りとたった列車妨害の記事を噴出させながら、大新聞が反共意識の動員にのり出してくるのである。松川事件とほゞ同様の事件である5月9日の豫譛線での列車転覆が、その時の新聞には全くあらわれず、1か月以上たった6月中旬に、各新聞が一せいに列車妨害の記事をとりあげた時、いずれもその最初の記事の中で「最近激増する列車妨害の悪質さ」を例証する事件として引き合いに出してこいることは注目に値する。(朝日 6.14. 毎日 6.13. 読売 6.26.)それは列車妨害の事例と統計が、最も好都合な時期まで蓄積されていたことを意味すると思われる。そして東交ストから「人民電車」に至る一連のたゝかいの直後の時点が選ばれたのだ。「レーノレの上に小石何個とか、コブシ大の石何個とか、幅何センチ長サ何メートルの角材」等の詳細な記事が突如として噴出する。それはこの程度の妨害さえ、この時になって初めて現れた重大事であるかの様に、常時のわずか2頁の新聞が足なみをそろえてこれだけのスペースを割いたことは、政治的なマス・コミ操作としか考えられないではないか。そして平事件を騒擾とした直後、マッカーサーは、その政治的意図を明かにする。前掲の共産主義者は変態的分子・犯罪者であるという彼の声明はこうした文脈の中でもう一度読み直して欲しい。そしてそれぽフレーム・アップの準備完了の合図ともきこえた。支配者は、何時、何処ででも、フレーム・アップを強行することが出来る条件を完成したのである。


3


 7月1日、各新聞は、共産党の警察不法占拠として、いわゆる「平事件」を報じ、翌日から共産党員の検挙と他県からの警官隊の応援の記事がつゞき、5日には仙台高検が「騒擾罪」の適用を決定したことが伝えられる。と同時に、平市につゞき、福島、若松両市が不穏な情勢にあると報ぜられた。(これは「県会赤旗事件」と「三菱廣田工場」の人員整理反対闘争であるが詳細は、塩田庄兵衛氏の別稿によられたい)。国警福島県本部隊長新井裕の談話は云う「県内は一応落着したが平はじめ福島、若松、郡山の事件はその底流は同じで、労組側は明らかに計画的な行動とみれらる」(朝日 7.2)「事態が長びき拡大する場合は非常事態宣言を政府に要請するつもりだ」(同 7.3)「非常事態宣言用意、樋貝国務相談」(読売 7.2)「福島県下に非常警備態勢」(同 7.5)「『国家非常事態の宣言』首相、布告準備を完了」(同 7.7)こうした中で7月4日、国鉄第1次首切り、37,000名、同13日62,000名が強行される。そして7月6日には下山事件とならんで「福島管理部事件」が寫具入りで報道された。6月中旬以来列車妨害が左翼勢力によって計画的に行われているとの印象をうえつけるのにに努力して来たマス・コミは、こゝでそれを具体化する。保守党の側から流されて来だ8―9月暴力革命説(例えば廣川幹事長の反共国民運動の提唱―朝日 49.6.15)の前哨戦が始まったかの様に騒ぎたてたのである。

 列車妨害についてのプレス・カンパニアによってつくり出にされた、不安感の上に、今度は地域闘争=暴力革命の実例とし福島県下の諸事件が推しつけられる。それは、不安感を人為的に恐怖にまで高め、フレーム・アップに対する警戒心の武装解除を目指したものと言えよう。つゞく下山、三鷹事件、その間をぬってくり返される列車妨害の報道を、共産党の暴力(8月暴力革命)という文脈の中で読ませようとする意図は、もはやおゝうべくもないものとなった。だからいち早くこれらの事件の調査にのり出した衆議院考査特別委員会、参議院地方行政委員会の報告が、上記諸の事件の間の相互の関連、全体としての計画性をつくり出してみせることに最も力をそゝいだのは当然であったと云えよう。彼等の結論は、次の如である。

 

 今回の事件は国鉄の人員整理、炭坑業、諸工業の企業整備に伴う労働不安の情勢に乗じて、日本共産党員 (必ずしも中央部を指さない)が国鉄労祖、炭坑労組その他左翼急進分子と結んで論文にいわゆる地域闘争を特に福島県地方を選んで実行したものであるとみとめられる。しかしこれら一連の事件が全く共産党の同時齊発的計画にもとづくものであったとは断言しがたく、又これを所謂暴力革命のテスト又はその前哨戦と判断するだけの適確な証明は今の所得られない。しかし巷間には早くから7月革命、8月革命などというデマが広く流布されていたこと、又あたかも帰って来たソ連引揚者が共産革命的に組織されていたことなどかれこれ考え合わせる時、それらは単に偶発的競合に過ぎないぎないとして看過すべ,きであろうか」(官報号外「第六国会参議院会議録」第25号附録その4) *こゝには野坂参三「政権えの闘争と国会活動」(「前衛」37号24.4)志田重男(「人民闘争より権力闘争え」 (同38号24.5)の2論文が援用されでいる。尚、衆院考査委の報告については詳細に述べる紙幅がないが、上述の福島県下の諸事件が、平事件を牽制するものであった、として、その計画性を強調している。(官報号外「第六国会衆議院会議録」第3号附録)

 
 この様な、支配者とマス・コミの動向は7月の国鉄整理、8月の全逓整理に対する反対闘争を、一部少数分子→反民主主義的不逞の輩→共産党の暴力→8月革命の名の下に一挙に弾圧するための伏線であったと理解される。では「福島県地方をえらんで実行したもの」とされた「地域闘争・権力闘争」(前掲参院地方行政委)の実態はどの様なものであったか、参院地方行政委の報告には、資料「福島県下の治安概況」として国家地方警察福島県本部の作成した治安警察日誌とでも云うべきものが掲載されている。それは(1)平事件前後の状況(平地方を中心として)(2)平事件前後における郡山、.福島方面の状況(3)三菱廣田工場事件とその後の会津方面の状況であり、そのすべてを引用する紙幅はないが、松川事件との関連 で、若干の点をみることにしたい。(尚、この報告は、8月4日―9日の6日間にわたる議員派遣(岡田喜久治・鈴木直人)によって作成されたものであり、従ってこの日誌も松川事件以前につくられたものと思われる。後出の塩田氏の論稿と合わせて読まれたい。)

6・30(日付)14・・53(時間) 東芝松川工場労組(県会デモヘの)応援のため、100名福島駅に下車、スクラム組んで議揚に入る。

7・2 8・30 福島地区内庭坂機関区150、郡山方面250管理部前に集合(国鉄人員整理反対)

 

〃 11・40 友誼団体但会員700名管理部前に集合。武田久他3名交々アジ演説を行う。

 

〃 12・10 外郭団体である東芝松川工場労組赤旗を先頭に応援合流その数800名気勢をあげ武田久外8名が管理部長に首切返上の交渉をした。(東芝労組が国鉄労組の外廊団体とみられていたことは注意する必要がある)

 

〃 14・00 管理部長は群衆の面前において行政整理に対する経過を述べさせられた。

 

〃 14・10 管理部長の経過報告に納得いかずとして斉藤千外200名は管理部長室に押入って交渉を始めた。当時室外に800名。

7・4 16・00 国鉄労組支部武田久外3名管理部長に面談、首切説明を求め午後5時退去した。

 

〃  17・40 国鉄福管第1次人員整理818名発表(41.1%)

 

〃  19・30 群衆管理部長室に押寄せて鉄道講習所教官本間某を階段より引下し殴打した。

 

〃  20・30 2階に押入ったもの100名、管理部長に面会強要、21時には150名となり、椅子を破壊し部長室のドアを破って侵入した。(これが福島管理部事件として報道された)

7・7  9・00 福島県貨物係斉藤千外30名は伊達駅駅長室に押入って行政整理の対象基準を明確にしろと暴行脅迫した。(伊達駅長事件、尚このすぐ後には斉藤千が伊達駅長の不正事実を摘発しこれを認めさせたと演説したという記事があり、両方での評価は大きく違っている)

7・13 19・00 福島市稲荷公園に於て国学院大学教授安津素彦一行反共演説会を開催、聴衆200名、午後10時終了、事故なし(専ら、組合と共産党員の活動を記録したこの日誌に、特別にこの項目が入れられていることは、警察活動が、「反共」=組合弾圧の枠の中で行われたことを示している)

7・14 5・00 7日伊達駅長及び横山助役を暴行脅迫した国鉄労組福島支部文化部長斉藤千外11名に対し、暴行など厳罰に関する法律違反者として逮捕状の執行を行い、梅津五郎外4名を除き7名逮捕、保原・福島地区(身柄は福島地区に留置) 

 

〃  9・00 斉藤千等の釈放について福島地区へ阿部市次、岡田十良松、保原地区へ福島地区労議長杉原清外1名交渉に来たが拒否されて退去

7・20 伊達駅長脅迫事件の容疑者更に3名逮捕、高橋時雄外2名

7・21 5・00 7月4日午後8時頃より福島管理部長室に不法侵入した支部委員長外9名の逮捕状執行を行ったが逮捕者9名未逮捕1名(諏訪誠二)

7・24 9・30 管理部不法侵入被疑者次の5名判事拘留で福島刑務所に収容、福島製作所近藤兼雄を除く4名ハンストに入った。武田久、上川知巳、岡田十良松、小山那夫。

〃  19・30 管理部不法侵入容疑の4名検事釈放午後10時、鈴木信


 これらの日誌はいずれも7月25日乃至26日で終っているが、こゝで確認出来ることは6月下旬から7月上旬 にかけて闘争が盛り上りをみせたこと、そしてそれが前掲の「事件」という形につくり上げられて、強い弾圧が行われ、7月下旬までに、福島管理部事件16名、伊達駅長事件25名と40名をこえる活動的分子が逮捕され、 闘争か弱まったということである。後に松川事件の容疑者とされた人々が、この様な形ですでに警察の日誌の上 に表われていたことは、松川事件の捜査が、事件そのものの分析の上にではなく、従来からの労働運動弾圧の延長上に、即ち「反共」という警察活動の骨組に合わせてつくりあげられたことを示している。

  しかし、松川事件を、下山、三鷹事件につづいて、フ レーム・アップする理由は何処に存したのであろうか。たゞ単に福島の運動を弾圧するだけなら、この日誌にみられる線を更に強行することで足りたのではないか。こ れまでの本稿の分析の上で考えると、反体制勢力の活動を決定的に打ちくだくための、最後の追打ちが松川事件のフレーム・アップではなかったかと考えられるのである。

 7月18日、国鉄当局は、国鉄労組中央闘争委員会の共産党員の全部と、革同派計14名の首切りを発表した。そして民同派は、被解雇者の中闘委員としての資格を否認してこれに追打ちをかけた。共産党対民同の対立は、7月22日民同派が零号指令を発して、民同派による中央委員会を召集した時、最大のヤマ場をむかえる。8月15日、国鉄労組の新執行委員会が成立し、民同派の勝利は決定的となった。そしてその直後に松川事件が起ったのである。(8月17日)

  松川事件直後8月20日、日経連は、「当面の労働情勢に対応して経営者のとるべき態度」を下部団体、会員会社に配布したが、それには次の様に記されている。

 

一、共産党員の排除は往々労組法11条違反として争われて来たが、この際新たな観点に立ち、企業防衛の信念に基き人員整理に際しては「意識的継続的非協力者」として職場から排除する。また就業規則、業務命令違反は迅速的確に處断する。

 

二、反共第二組合はたとえ組合員が少数といえども会社施策の重点をその組合に集中すべきである。

 

三、法延闘争を恐れず経営者は十分法規を検討、共産分子の排除を断行する所信を法廷でひれきし徹底的に争う(読売 8.21)


 労働者の「利益」を守る闘争が、共産主義対民主主義という抽象的争点の中にまき込まれた時、その中からこの様な資本の「利益」が強引に貫徹されて来る。この様な逆転こそ、この時点での体制強化再編めための政治的支配技術の中心であり、それは一連のフレーム・アップ によって初めて成功裡に遂行されえたということが出来るであろう。

  附記 本稿は、福島新吾氏の示唆に負う所が多い。又塩田庄兵衛氏には有益な御教示を頂いた。記して感謝の意を表したい。