『歴史学研究』No246号

1960年10月

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新安保批准後の状況と指導


表紙

古屋哲夫



 巨大な、そして激しいたたかいであった安保闘争から、それにふさわしい成果をわれわれのものとして定着させるのは今後の課題である。だからその意味では安保闘争が勝ったか負けたかなどという議論はあまり意味がない。しかし、たたかいの高揚面だけに眼を奪われて、勝った勝ったと叫んでいる楽天家には、「本当に勝ったのか」と勝も負け論を持ち出してみることもまんざら無意味ではあるまい。何故なら、この巨大なエネルギーを 定着し、より大きく発展させなければならないと誰もが考えたにもかかわらず、安保批准後2カ月後にもなるのに、そのための有効な指導はまだ芽をふいてこないからだ。6月22日の第20次統一行動を境として運動は急速に鎮静していった。すでにこの日のデモのなかで私が語り合った多くの人々はこうなることを予想していた。間近かに予測された安保批准と岸の辞意表明による政治状況の変化に対して、用意された新たなスローガンが、どの程度有効か疑問に思われたからだ。実際、指導と呼ぶにふさわしいものは、安保批准後の段階では殆んどみられなかった。運動の後退を手をこまねいてみている傍観者的指導者(?)も居た。総評議員太田薫は次のように書いている。「私は、あの大衆運動の昂揚は、民主主義破壊の攻撃をうけた国民や、低賃金、職制の圧迫のなかで不満をうっせきさせている労働者の怒りの爆発であり、行動を通じて政治意識が高まったことは事実であるが、 それは岸退陣で全体としては落ちつく程度の高まりであり、ましてや、積極的な統一戦線結成の国民的意思を表明したものではないと考える。」(「日本共産党に答える」 社会タイムス8・1号外)。

  確かに運動の高まりが、そのまま持続する条件はなかったと云えるかもしれない。さまざまの動機と志向から 多様な階層が自発的に参加し、「岸内閣打倒」「国会解散」がひとつの接着剤となって、統一が生まれたところに、運動の高揚があったとすれば、この接着剤が失なわれた時、運動のエネルギーが分解してゆくことは充分考えられることであった。(日高六郎、「運動における多様性と統一について」思想8月号参照)しかし、ここでの指導とは、こうした分解の危険性を指摘すると同時に、それを克服する方向を提示することから始まるのではなかったのか。そこには壁がある。だからこの壁を見落す次のようなアジ演説が、われわれの耳をす通りしてゆくのは致しかたのないことであった。

  「日本人民は、けっして敗北の道をたどっているのではなく、明らかに勝利をめざす闘争の道を足音高く進んでいるのである。日本人民は、民族と人民の全愛国勢力を結集し、安保条約そのものを破棄し、サンフランシスコ体制の打破の方向にその闘争を発展させることのできる大きな土合をつくりだしたのである」(「民主勢力の闘争の展望」アカハタ6・23)この方向の問題はしばらくおくとしても、安保闘争のエネルギーを今後の闘争の土台として定着するためには、運動がぶつかった壁をつき破らなければならないのだ。その意味では、次の国鉄労働者の素朴な発言に耳をかたむける必要があるだろう。

  「安保闘争ではやはり負けたとおもう。国民会議が処分撤回闘争をやってくれると思っていたのが、実際に処分がでると本社のチョコチョコデモで終っている。組織的な闘いは何も行われない。闘えば処分される。その処分も時が経つと忘れられる。これではたまらない。実際この反対闘争をやってくれなかったことが、われわれに負けたという意識をもたせるのだ」(「安保闘争を総括する」週刊労働情報265号)。

  これは組合の幹部活動家と評論家などで開かれた討論集会での発言なのだが、討論はこれからのたたかいは処分反対だという点で一致しており、永野順三は「安保闘争は弾圧反対闘争をやる段階にきている。弾圧反対闘争をやらないのは、安保闘争をやらないことだ」と強く訴えている。こうした意見は、安保批准後の段階で、組合、政党などいわゆる既成組織の指導者かちたびたびくり返されていた。(例えば6月25日より開かれた動力車労組大会の決議「処分には、6・22ストを上回る実力行使でたたかう」あるいは、「弾圧反対のたたかいは安保闘争の当面の中心問題」アカハタ7・30など)運動は処分、弾圧反対を正面に押し出すことによって、明かに防衛の線に後退して行った。しかも処分をはねかえすことが出来なかった。6月30日〜7月1日に熱海で聞かれた総評拡大評議員会で岩井事務局長は「みとめないといったところで、安保はとおってしまっている。そのために、安保をたたかってきた全体の態勢は大きくそがれてきたことは否定することは出来ない‥‥‥‥政府が首をきったものを実力でてっかいさせることは、実際の問題として不可能である」と述べている。(週刊労働情報263号)ここで処分反対をさぼり、仲間を見殺しこしたという非難をあびせるのはたやすい。だが問題は、この岩井発言が、 国鉄の職場での「6月22日以降、組合員のほとんどが、すべての動員に無関心になってきており、100名動員を かけても10名くらいしかあつまらないありさまである。」(前掲討論集会)という状況とみあっているという点にある。安保闘争そのものが後退するなかで、処分反対のたたかいだけを高めることは「実際の問題として不可能」に違いない。だから岩井氏がせめられねばならないのは、あの運動のエネルギーを新しい局面に導いてくるための指導を怠ったという点についてなのだ。処分はこうした運動の後退をまって、しかもなるべく分散的に行われたのだから。

  このように第一線の活動家たちが、安保批准後の段階で、処分反対を当面の中心課題と考えたことは、それ以外のスローガンがそれまで運動に参加して来た大衆を把えるのに有効ではなかったということの反面にほかならない。安保闘争の発展を阻げた壁を、我々は未だに破りえていない。だから、我々が、あの運動の高まりをもたらしたエネルギーをこれからのたたかいの土台にすえようと望むならば、どうしても安保批准の時期を中心としながら,闘争全休をふりかえってみることが必要となる。


2


 6月23日、反対運動の眼をかすめた新安保の批准書交換がコソコソとすまされ、岸首相の辞意表明が行われると、国民の関心は、次の内閣と来るべき総選挙にそゝがれて行った。「清新で強力な新内閣をつくり、新しい政策をかかげて秋に総選挙を行え」という財界の要望のもとで、次の内閣をめざす自民党内の派閥争いがスタートする。ともかくも岸内閣打倒が実現し、反面では新安保条約の批准が終った。独裁への憎悪と、自然承認への時間の流れへの抵抗とが結びついたあの激しい緊張感がほぐれてくる。そしてまだ実現されていない、「国会解散」もおそくも今年中には実現する見通しだ、ということになれば、職場⇔家庭という日常生活のサイクルから、街頭へ、デモヘと流れ出したエネルギーが、もとのサイクルのなかに環流していくのは当然であった。しかし新安保は発効し、この非民主的な条約の要求するところに忠実である勢力が次期政権を握ろうとしている。つまり、 運動の目標が実現されていないのに、エネルギーの方は運動の場から、元の日常生活に還流してしまうというこのギャップに指導者たちが苦慮したであろうことは想像に難くない。

  7月2日の国民大会でかかげられた「新安保不承認」「岸亜流政権反対」「国会即時解散」「新安保締結主諜者の追放」「不当弾圧反対」などのスローガンは、安保闘争がまだ終ってないことを強調したものであった。つまり、新安保条約が不当不法な内容と手段で成立したことへの怒りを、永く大衆の心にきざみこみこの暴挙を敢えてした政治家たちを、「岸」というマイナス・シンボルでつつみ込んで政治の舞台から追い出して了おうというのである。なるほどそれは政治の責任性の回復を展望するものであり、安保闘争のなかで発展した「民主主義をつくり出す」という要求の、一つの展開方向に違いない。しかし、このいわば責任追及の方向が、何処で今後の闘争の基本的目標である安保体制の打破の方向と結びつくかを明らかにしなければ、闘争全体の指導をうち立てることは出来ない。安保批准後の指導方針は、この点をめぐって二つに分かれた。それは「憲法を守る民主主義と中立の政府」(社会党)と「安保条約反対の民主連合政府」(共産党)という政府スローガンの相異に端的にあらわれている。それは、また、民主主義擁護と安保反対の関連という形で論議された問題でもあった。

  例えば、社会党や国民会議が「新安保不承認」のスローガンを掲げた時、共産党は安保条約の破棄が運動の基本方向であることを明らかにせよと批判した。安保闘争のなかで、広範な人民は安保改悪のみでなく日米軍事同盟と安保条約そのものに反対する決意を固めているのに、新安保不承認の線だけに止っているのは運動の発展に「重大なたるみをつくる結果になる」というのである。(中央委員会総会決議)確かに安保批准の時点で安保条約破棄の目標をはっきり打ち出すべきであった。勿論、社会党も、安保破棄が次の目標であることを否定しているのではない。彼等は、不承認運動は新安保破棄闘争の一つの段階であり、新安保の違憲性に反対するだけでなく、いわゆる5月19日の事態を認めないという成立過程への反対を合んでおり、これまでの阻止闘争のエネルギーを正しく発展させるものだと主張する。(「政治方針解説」―7月15日中執承認―「組研月報」8月号)つまり、5月19・20日の事態によって初めて安保の問題性に勿づいた人や、岸の暴挙に反対だという点で運動に参加した人々をも今後の運動にまき込んでゆこうというのである。6月28日の国民会議全国代表者会議で、水口事務局炭は安保「破棄に転かんすることは、5月以降巾ひろく盛りあがったエネルギーを消すことになる」と述べている。(週刊労働情報262号)それは、知識人、例えば日高六郎の前掲論文からみちびきだせる政治責任の追及→憲法完全実施の政府→安保条約の破棄という構想と基本的に一致する方向をもち、そこでは安保破棄闘争はこの民主主義確立のたたかいの最大の目標として位置づ けられることになる。云いかえればそれは、民主主義を 実質的につくり出すことによって安保を打破するという考え方であるが、共産党は、それでは安保問題がぼけてしまうではないかと批判するのである。そして、社会党総評などが運動のはばを広げることに当面の課題を置いたのに対して、共産党は社共の共闘を中心とする共闘組織の強化と拡大、そして「安保破棄の方向に向って、日米軍事同盟の実体であるアメリカ軍基地への闘争を決定的につよめる」(前掲中総決議)という差が出てくるのである。この点をめぐって「アメリカ帝国主義と日本の売国的独占資本」という二つの敵を設定するか、主要な敵は日本の独占資本かという戦略論争が展開されているが、しかし今重要なのは、その底にある「民主主義」についての把え方のちがいを明らかにし、解決することではないかと思われる。

  現在の民主主義の問題について共産党は、「新安保条約は日米独占資本の搾取と収奪の維持、強化と内的関連をもっている……。このような対米従属と日米軍事同盟による主権のじゆうりんと平和の破壊は、人民の民主的権利の大きな破壊である」(前掲中総決議)と述べているように、安保の結果としての民主主義破壊という線でとらえている。だから、7月5・6日の都道府県委員長会議で宮本書記長は、安保「破棄の方向を明確に示す必要がある。それを中心としてさらに民主主義のための諸要求を加えることも、もちろん正しい方向である」(アカハタ7・30)として民主主義のためのたたかいを、安保闘争の補助的な役割に位置づけている。これに対して、勝間田清一「平和革命とこれを推進する民主化闘争」(「組研月報」4月号)では、国会に権力が集中している場合には、平和革命の可能性がある、として「諸制度の民主的内容を維持し拡大する闘争を行うことなくして、平和革命の進展はありえない。……この意味で民主化闘争はきわめて広汎な性質と決定的重要性をもっている」と主張する。安保闘争についても、この主張は原則的な正しさをもちうると私は考えている。つまり、民主主義を人民の望むことが実現されてゆくこと、という様に理解するならば、安保条約破棄とは、国際政治における日本の進路を日本人民自身が決定する体制をつくるという民主主義の要求に他ならない。アメリカの極東戦略体制からの離脱も、政治構造の底辺から頂点までの民主化によってはじめて実現出来るのではないか。

  だから以上述べたことに関する限りでは私は、「安保条約反対の民主連合政府」よりも「憲法を守る民主主義と中立の政府」というスローガンを支持する。しかし私は社会党の具体的指導が正しかったと云っているのではない。民主主義の問題を重視するという基本的正しさをもちながら、しかも「新安保不承認」の線で指導された安保批准後の運動がまさに共産党の指摘した「重大なたるみ」に直面したのは何故か。一つは確かに共産党の云うように「安保破棄」をはっきり打ち出さなかった点にある。そこでは民主主義の視角から、明確に安保破棄を訴えるべきであった。この点に―つまり、「新安保不承認jにとどまった、そのとどまり方のなかに、社会党の最大の弱点である、大衆追随的性格があからさまに露出しているのである。「新安保不承認」「岸亜流政権反対」「国会即時解散」この主要なスローガンの立て方は、一面から云えばこれまでの運動の高まりをそのままの形で持統させようとするものに他ならなかった。皮肉に云えば、高揚の外形にしがみついていれば大衆は今までと同じ形で高揚してくれるという身勝手な幻想であり、変わろうとする情勢にまでも、岸亜流のレッテルをはって変らせまいとする喜劇的努力であったと云うことも出来よう。そこには大衆追随的指導と民主主義の重要性の自覚とが奇妙に交錯していた。そして大衆の既存の生活秩序への還流と共に、運動は急速に後退して行ったのである。

  では問題は何処にあったのか。日常生活から街頭へとび出したエネルギーが、安保批准を境として日常生活に 、かえってゆくことは、この段階の情勢では必然であった。だからこの還流の仕方をどう変えてゆくかが、この段階での最も重要な問題だったのである。あの運動の空前の高揚にも拘わらず、そして大局的にはそれに参加したエネルギーが日常生活のなかにかえりついたにも拘らず、そこでの秩序は、運動以前と何んら変りがないということ、そこにこそ、私が「壁」とよんだものの存在が指摘されなくてはならないのである。それは、平和運動を始めとして、進歩的国民運動と呼ばれたものがこれまでぶつかり続けて来た壁であり、いわゆる「三分の一の壁」の実態でもあった。この問題を解くためには、この運動を盛りあげたエネルギーが、どのような仕方で運動に参加したかを明らかにしなくてはならない。



3


 「安保闘争とわれわれ労働者としての生活と権利のための独自闘争との結合に成功していないということが指摘出来る」(「安保闘争の総括」東京地評7・19号)そして「事実は経済闘争のマクラ言葉として安保が使われる傾向が強」かったという労働者の反省を読みながら、私は「安保と合理化」「安保と春闘」「安保と三池」その他さまざまの「安保と○○」の呼び声を今おもい出す。それらの言葉には2年間にわたる安保闘争を支えた組合指導者の汗がにじんでいるに違いない。それにも拘らず「マクラ言葉」、と反省されるとすれば(もっともこの部分は、後の討論で訂正されている―週刊労働情報265号)安保闘争にあれだけのエネルギーが出たのは何故だ ったか。国鉄労組の木田忠氏は次のように語っている。「われわれ自身が合理化は安保に通ずる道だと訴えながらも、実際の当局との団体交渉では、ダイヤ改正、あるいはデラックス車がどんどんつくられるという合理化が行なわれていったのです。安保問題を闘わなければならぬと動きだしたきっかけは、11月27日の国会突入事件です。……警職法以来、うっ積していた警察官に対する憎悪、権力に対する怒りに火をつけたのが、11・27の事件だったのです。」(座談会「安保―かくたたかえり」月刊労働問題8月号)もう一つの例を引こう。「川崎のある大工場の組合は弱い組合だ。安保の請願行動にも参加せず、政治活動はご法度をきめこんでいた。しかしある日のひる休み、若い女性ばかり4、5人が集まってゆうべのテレビに映った光景を話し合った。「いちどいってみたいワ」「行ってみようか」という結論にいたり、好奇心半分で2人が夜の国会へ出かけてみた。翌日の彼女のことば、「すごかったわよ!」というおどろきと感激の目の輝やきはたちまち周囲の人たちの心をとらえた。 その晩は6人、その翌日は10人と国会へ出かけた。そし て6月19日の数日前組合はついに貸切りパス4台をつらねて国会へゆくことになったのである。もちろん組合員 は一銭だってもらっていない」(「動向、安保闘争60日と今後」産業労働7月号)前のは、中心部隊の例であり、後のは高まりを支えた後衛部隊の例である。両者に共通なのは、職場や生活そのものの問題から安保はどうても困るという主張が出て来たのではなく、むしろ激しい行動への参加やマスコミによる報道からのショックに対す る反応の面が強いということである。つまり職場⇔家庭のサイクルが拡大して、そのなかに安保の問題をとりこんでいくというのではなく、外からの刺激によって、このサイクルはそのままにしておいて、いわぱ臨時にその枠外にとび出したというのが、運動の高まりをもたらしたエネルギーの主要なあり方であったと云える。だから事態の非常性が失われると、臨時のエネルギーは収まり、後には以前と変らない日常生活のサイクルがよみがえってくるのは当然である。だから運動の高まりをみて、「このような政治目標にたいするたたかいでは共通の敵(日米反動陣営、岸政府)が非常に明白になるため、企業をこえてたたかうことができることを示している。そしてそれは企業主義克服の基本を教えるものである。」(アカハタ7・22)などというのは、このエネルギーのあり方の問題を全く無視していると云わざるをえない。安保闘争で明らかになったことは、企業意識にとらわれているのにも拘わらず、企業をこえた政治行動ができるということに他ならない。だからこの「にも拘らず」は逆に云えば、安保闘争の空前の高まりを担ったにも拘らず、企業意識は変っていないと云うことになる。企業意識は、年功制賃金制度や企業別福祉厚生施設などさまざまな物質的基礎の上になり立っており、安保闘争は云うまでもなく、これらをつきくずすという性格を持っていなかった。だが勿論、運動に加わったという経験は貴重なものだ。しかしその経験は、すぐそのまま職場なり、 生活なりの秩序を変える力にはならない。その媒介項を さがし出し、経験をその媒介項のなかでろ過して新しいエネルギーに変えるのは指導の役割だ。

  このように日常生活に対する外からの刺激によって高まったという事態は、それに対応する指導の面にも独特の特性をあたえた。一言で云うならば「耳目衝動戦術」ということになる。勿論この言葉は全学連の、局部的激突で全体の情勢を変えようとする戦術を云ひあらわすのに使われた言葉だが、この言葉を拡張解釈すれば全学連と対立した国民会議の場合にもあてはめることができる。そこでは局部的激突が排された代りに、量的数的拡大が基本となる。つまり、デモや請願の参加数や度数などの量的積みあげによって、支配者の耳目にあたえる脅威を強めてゆくという方向をとる。だから、安保が如何に労働者の日常的利益を侵害するかを説き、その利益関心から出てくるエネルギーを街頭にひき出し、反対の意思を眼にみえる数に還元し、それを支配者の眼の前につきけるというのが運動の基本形となった。国会での新安保審議の始まるまで、運動はこのような形で積みあげられていった。

  しかし国会での野党の鋭い追及と政府のごまかし答弁、U2機問題、単独採決の強行という一連の出来事がマスコミを通じて大きく伝えられると、それは生活それ自身の危機感を生み出し、そこからそれまでの運動のエネルギーと違った形のエネルギーが街頭で活躍し始める。つまりそれまでの日常的利益関心の延長上に出て来たエネルギーに対して、外からマスコミで伝えられたショックを、生活秩序そのものの危機―非日常的な非常事態とうけとった抵抗のエネルギーが巨大な噴出を始めた。そこに運動の画期的な高揚が実現し、その高揚がまた未参加者の耳目を衝動して新たなエネルギーを引き出すという乗数効果が展開する。

  こうした情勢の変化に対しても、指導は数的拡大をつきつけて支配者を脅威するという基本形一本やりで行われていた。国民会議のジグザグデモ反対の決定は、すべての反対の意思をデモ参加者の数に還元することだけに運動を一元化しようとするものであった。巨大なデモの波は連日国会をとりまいた。しかし、支配者は、形式的合法性をもって支配の正当性と強弁し、このデモを国際共産主義の手先とするイデオロギーにたよりながら、この耳目への脅威をたえつづけた。だから情勢の変化は何処で支配者がたえきれなくなるか、という点にかけられており、運動の側はいわゆるキメ手をもち得なかった。 支配者の時間表は次々と実現されてゆく、そしてこれを破るのに、樺美智子さんを殺すという治安上のミスを引き出し、まさに世界の耳目を衝動させるといういたましい犠牲によらねばならなかった。しかも、この犠牲をはさんで全学連と共産党が全面的に対立するという悲劇を生み出した。だがこの時、指導者たちは、国民会議の指導も、その決定に服さなかった全学連の指導も、共に耳目衝動戦術であり、そのなかでの二つの形態の差にすぎず、そのいずれの形態をとるにせよ、この戦術では敵は破れない、ということに何故思いいたらなかったのであろうか。整然たる数的拡大一本にしぼる国民会議の指導が、すでに基本形による運動の統制、抑圧とうけとられ、デモ隊のなかから激しい批判の声がおこり、その批判はともすれば全学連の指導こそがこの情勢のなかでの正しい指導であるかのような錯覚におちいりはじめた時に、何故指導部は自らの指導についての理論的反省を行わなかったのか。

  樺さんの死の翌日、6月16日の午後、総評は羽田およびアイクのパレードの通過する沿道でのデモを行わないと決めた。そしてその直後アイク訪日中止が発表され た。6月10日のハガチー来日から、このアイク訪日中止に至る息づまる緊張のなかで、私はつぎのような情景を 夢想した。中央集中から地域分散へ。アイクのパレードが2万の警官と、自民党支持者の歓迎の中を妨害一つなく進んでゆく。そしてこの一本の道路を除いた全国のあらゆる道路は、岸とアイクに反対するデモと、政治秩序の大衆討議の集会で埋まってしまう。それこそがこの段階でのありうるぺき唯一の革命ではなかったか。

  安保闘争指導の最大の弱点は、国民→選挙→国会→政府→政策→国民という基本的政治過程の外側にエネルギーを集積することだけに終始した点にあった。岸政府が如何に国民を無視しているとしても、それが、われわれがそれを守ることを主張しつづけている日本国憲法によってつくられたという事実に眼をつぶる訳にはゆかない。日常の私生活に民主的秩序の感覚がしみとおっているのに、政治秩序は何時の間にかそれと真正面から対立するものになっており、安保を改悪し、それを強行する。従ってこの事態を非常事態と感じて噴出したエネルギーは、生活秩序による政治秩序の変革を本来的に要求していたとみることが出来る。指導はこの要求の方向でなされねばならなかった。

  勿論、地域の問題、自分達の選挙区の代議士の問題を とびこえて、国会へ国会へ人々がつめかけたのは、事態の非常性から、また、代議士と選挙民の日常的交流が存在しなかったことからしてやむをえないことであった。 しかし、指導者は国会への集中ばかりでなく、それぞれの選挙区の総点検を訴えるべきであった。少なくとも訴えるべき機会を常に探し求めるべきであった。

  安保闘争にそそがれたエネルギーを、政治の次元に定着するためには、日常生活のサイクルヘの還流に際して、この闘争が明らかにした成果と課題を日常生活にまでもちかえることが必要であった。運動は二つの課題を明らかにした。その一は、政治における民主主義の確立であり、その二は運動における連帯を発展させることである。この課題を国会→選挙区→地域へと持帰らせることが、安保批准後の段階における指導の基本的役割りであった。中央集中型の運動形態にしがみつくことではなく、むしろ積極的に分散させ、国会の次の段階である選挙区での運動の再編成を試みるぺきであった。その当面の具体的目標は選挙区での安保強行批准の政治責任の追及であり、そこから、政治過程の中核をなす政党の問題を大衆に訴えることだった筈である。




4

 
  国民会議が、7月2日の国民大会で安保強行の主謀者追放を訴えたことは、こうした方向が意識され始めたことを示している。しかし発表された19名の追放者リストは、何故19名でなけれぱならないかという原則論を欠いたものであり、従って思い付きの程度を出ず、実践ともならなかったのは当然である。だがこの時何故、より原則的な意味を持ち、あらゆる選挙区でもその下の地域でもとりあげることの出来る「自民党の政治責任追及」をスローガンに掲げなかったのか。そしてそこから出てくる帰結は「岸亜流政権反対」ではなく「自民党政権反対」である。当時最も岸亜流の色が濃いとみられていた池田勇人が「私は岸亜流ではない。しかし自民党の基本政策について岸内閣の政策をうけつぐのは当然である」という意味のことを語っていたのを、安保闘争の指導者たちはどのように聞いたであろうか。そして自民党そのものに批判が集中しなかったからこそ、ジャーナリズム が総裁ダービーとなづけた、あの民主主義的政治意識のカケラさえも見当らない次期政権をめぐる派閥争いを、のうのうと恥ずることもなく国民の眼前で展開することが出来たのである。それは疑いもなく、あの5月19・20日の岸暴挙につながる民主主義破壊の行為であった。あの安保闘争の全エネルギーを選挙区の段階に再結集して、自民党に追い打ちをかけるべき時であった。

  このことが実現しなかったのは、基本的にはこれまで指摘して来たような問題が運動のなかで充分つかまれなかったことによるが、他の原因として、安保闘争を一貫して、自民党反主流派への期待が強く存在していたことがあげられなくてはならない。五月末、共産党は、全反岸勢力が結集して、岸内閣を倒し、選挙管理内閣をつくることを提唱した。「自民党反主流派の60余名が加われば、議会においても正面から岸を打倒する可能性があった」(前掲中総決議)と主張する。それは岸が倒せさえすればいいという考え方であり、自民党反主流派との院内主義的取り引きによって情勢展開のカギを彼等にわたそうとすることに他ならなかった。それは、まさに院内的議会主議者ののぞむ所でもあった。6月2日の朝日新聞社説は、院内の大衆運動の高揚をふせぎ、議会主義を守るために、反主流派のけっきをうながしていた。だが反主流派は活溌な動きをみせたにも拘わらず、遂に決定的行動に立ちあがることはなかった。何故か。自民党の政党としての責任が追及されることなく、岸とその周囲だけが悪者であり、それに批判的なものは岸への憎しみの反面ですっかり免責されてしまっていた。しかしあの5月19・20日の事態をひきおこしたのは、政党としての自民党ではなかったか。そして自民党への大衆的批判を高めることの結果として、反主流派が岸を先頭とする主流の責任を分担することを拒否して決定的反岸行動に立ちあがる可能性がはじめて生れて来た筈であった。安保批准後のスローガンは「新安保不承認、安保破棄」「自民党政権反対」「選挙管理内閣による即時解散」「自民党の責任追及、選挙区総点検」などを柱とするべきであった。それでは、これまで自民党支持者までを加えて来た運動の巾がせまくなると考える人が居るかもしれない。しかしそうした無原則な巾広諭では、何のために運動しているのかさっぱりわからなくなる。岸の暴挙は自民党のあり方から必然的に出て来たものだという点こそを強調しなければならなかったのだ、そして「党より人」という投票の選択基準を、ボス活動を媒介とする補給金などの利益還元で裏づけてゆくという自民党のあり方の問題にまで大衆の関心をよびおこしてゆかねばならなかったのだ。政治における民主主義のとらえかたは、議会におけるルールの問題(院内的議会主義)個人の次元での行動様式(市民主義)、独占資本の打倒(経済の還元主義)。などに分裂し、それらのすべての側面をふくむ政治過程の問題、とくに政党の問題をとりおとしてしまっていた。この点が明確にされなかったからこそ、空前の高揚は、総裁ダービーに追打ちをかけることなく、今後の課題と当面の目標を土産とすることなく、ただ感覚的経 験のみを記憶として身につけただけで日常生活へと還流 してしまったのである。

  次の総選挙が間近かに追っている。それは残念ながら、財界のつくった、「新政策によって秋に総選挙」という時間表の実現に他ならないが、しかしそれはわれわれにとってもまた安保批准後の後退を立て直すための―つの機会である。そして今、次の三つの課題が我々の前にある。第一は、先に述べた「自民党の政治責任の追及」「政事における責任性の回復」であり、具体的には安保単独採決に加わった候補の落選運動や、民衆と議会をつなぐルートを広げ、選挙以外の例えば今度の運動にあらわれた請願の制度化などを各候補に約束させるなどの多様な活動の仕方が考えられよう。第二は連帯の問題を発展させることである。連帯といっても心構えの問題ではない。日常生活における共通の利害をつかみ出し、それを前進させるための共通の目標を探り出した時、初めて連帯は具体的なものとして成立する。云いかえればそれは、安保闘争のなかで成長した連帯感を日常生活のサイクルのなかで定着し、そのサイクルそのものを変革の方向に拡大してゆくことに他ならない。それは日常闘争の積み重ねなしには不可能であるが、同時に新しい政府の構想や構造的改良の全体的展望と結びつくことなしには、日常闘争も有効に積み重ね得ないという関係を明確にしておかなくてはならないであろう。第三は安保条約を実質的に無効にする政策を選挙での最大の争点にまで押しあげてゆくことである。その当面の目標は日中国交回復であろう。この三つの課題の全体的関連を明らかにしながら、次の運動を構想すること―それこそが安保闘争の成果を発展させる道であると私は考えている。

  安保条約の破棄は、全政治構想の民主化が実現しなくては倒達することの出来ない目標である。民主主義の問題のなかで安保問題を再検討し、安保闘争を反省することが、今後のたたかいの発展のための前提であることはもはや繰返す必要はないであろう。