『岩波講座日本歴史(第一次)』近世5 

1964年2月

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現代史の研究視覚をめぐって


古屋 哲夫



 現在のマルクス主義の理論状況の特長を一言でいうとすれば、「独占資本論」が盛行しているのにくらべて「独占社会論」とでもいうべきものの理論化がおくれているということになるだろう。

  それはいわば「敵」の指摘に熱心である反面で、「味方」の組織化の条件が十分解明されないという結果を生んでいるように思われる。独占段階の成熟によって生まれてくる組織化の新しい条件と、組織化を阻害する新しい条件を探るためには、その基礎として「独占社会論」という視角を立てることが必要であり、それは同時にわれわれ現在史研究者の課題ということにもなるだろう。問題をマルクス主義の文脈の中でいうならば、次のような問題提起が十分展開されないままに終わっているということである。

 

「歴史上のあらゆる衝突は、われわれの見解からいえば、生産力と交通形態とのあいだの矛盾のうちにその根源をもっている」(古在由重訳『ドイツ・イデオロギー』(岩波文庫版)、112ページ)。
「この歴史観はつぎの点にもとづいている。すなわち現実的な生産過程を、しかも直接的な生活の物質的生産から出発して展開すること、そしてこの生産様式とつながっていて、これによってうみだされるところの交通形態を、したがって種々の段階における市民社会を全歴史の基礎としてつかむこと」(同、51ページ)。
「生産力、資本および社会的な交通形態のこの総和こそ、哲学者たちが『実体』や『人間の本質』として心にえがいてきたもの……の実在的根拠である」(同、52―53ページ)。


 少し長い引用をしたのは、要は「交通形態」が社会のあり方を規定する基礎的な条件として強調されている点に注意を向けたいためである。この概念はわれわれが普通に使っている意味の交通(国内・国外を含めて)から「精神的交通」にまで及ぶ広い概念であり、したがってまた複雑・難解であるが、こうした角度からの社会的変化の把握を理論化してゆくことが、マルクス主義の前進のためにぜひとも必要になってきているのではないだろうか。

 極めて大雑把な形でいえば、生産力と生産関係を縦糸とし、交通形態を横糸とすることによって初めて、個々の生活様式、行動様式から社会的・政治的勢力・集団の組織化、さらには体制の問題に至る社会的変化の動態を、全体として把えることが可能となるのではあるまいか。

 こうした観点に近づくような方法で、この講座の「現代」編から若干の問題をとり出してみることにしたい。まず「ファシズム」の問題から見てゆこう。ファシズムの本質が反革命であることはすでに常識であるが(もっとも日本の場合には、国内における予防的反革命という性格と、中国革命に対する反革命という性格の結びつき方がもっと分析されねばならないが)、しかし反革命がなぜファシズムという形をとるかということになると問題はまだまだ残っている。まず、ファシズムは、種々の社会に波及することがあるとしても、基本的には社会形態の問題をも含めた意味での、独占段階の成熟を前提にした反革命なのではなかろうか。ファシズムにおける基本的問題の一つである国民の強制的同質化ということにしても、一方では独占段階における総力戦体制の問題にかかわると同時に、他方ではいわゆる大衆化状況に対する強制的組織化の方策として打ち出されているのである。したがって日本のファシズムの特殊性を解くためには、既存の体制の特殊性と個々の生活過程から社会形態を貫く特殊性を有機的に把える努力がなされねばなるまい。この講座の勝部元「天皇制ファシズム論」(『現代4』)では、支配体制の特殊性という論点が中心であり強制的同質化が言葉としては出てくるが、それがなぜ、どういう過程で、どんな内容をもって必然となるのかは明らかにされていない。

 ところでこうした観点から日本のファシズムの特殊性を見るためには、いわゆる「急進ファシズム運動」の形成と展開を分析することがぜひとも必要だと思うのだが、この講座にはこの問題を正面から扱った論文が見あたらないのはどういうわけか。もっとも、ファシズムに限らず一般に社会的・政治的勢力・集団の組織化の条件についての分析は弱いように思われる。

 例えば日比谷焼討事件から米騒動に至る非組織的な大衆運動の続発の条件を探るためには、独占段階への過渡期としての社会の特殊な条件を設定してみることが必要なのではないか。こうした角度からの分析の弱さは、何もこの講座だけの問題ではなく、一般に生活様式・生活過程の追及が「風俗史」という形でしか行われていないことなどにもあらわれているように思う。同じ問題を戦後史についてみれば、総力戦体制の強行と破滅、それに追いうちをかける戦後インフレーションの過程で、既存の生活様式がどのように破壊され、どのような変化がおこったかを分析することが基礎的な仕事となるだろう(この講座では藤原彰「太平洋戦争」(『現代4』)が簡単に触れているに止まる)。そしてこの生活様式の変化の結びつき方によって、民主化の定着の仕方と度合いとがきまってきているのではないか。戦後の労働運動をとってみても、急速な高揚につづく急速な後退を単に弾圧の強化と指導部の分裂を中心に叙述するやり方(井上清「第二次大戦後の日本と世界」(『現代4』)では不十分であり、急速な高揚をもたらした特殊性が後退の特殊性をどのように規定し、同時に生活様式のあり方とどのように関連しているか、という観点からの分析が必要であろう。一般的にいえば「独占資本の政策そのものが、独占資本に対する全勤労人民の統一の客観的条件を成熟させている」(井上、前掲論文)という指摘は重要であるが、更に統一の阻害条件についての指摘をつけ加えることが一層重要だろう。統一の客観的条件は同時にファシズムの条件ともなりうることに注意を怠るわけにはゆくまい。

 これまで述べてきたような問題は、政党に対する歴史的分析の仕方にも関連しているにちがいない。この講座の政党に関する叙述は一見多様に見えるけれども、しかし視角という点からいえば、政党とブルジョアジーの結合の程度という角度だけから問題を見てゆく傾向が強いように思われる。もちろんブルジョアジーとの結合の問題は重要である。しかし資本主義社会における政党は、資本主義の発展によって生ずる多種多様の利益関心を体制の側にひきつけるための装置であり、支配階級の利益も多種多様なものの1つとしてこの装置を通すことで、支配性をかくしながら実現されてゆく。そしてこのためには、反体制政党の存在をも容認するに至るのである。もちろんこれは典型的な政党制についての想定であり、天皇制統治機構のなかでは、はるかに小さな位置しか占めていなかったことは周知のところであろう。しかし帝国憲法の予定した以上に政党の地位は向上し、まがりなりにも政党内閣時代が実現したのは、利益関心の政党による吸引という統治方式が、支配体制にとって、より必要になってきたことを示すものであろう。したがって政党の地位の向上は、単に独占資本との結合を指摘し、あるいは大衆運動が政党を押し上げたと評するだけでは不十分であり、政党が社会的変化のどのような側面と結びつき、組織化しえたかを明らかにする必要があるだろう。こうした面での分析を理論化することは現在、実践的意味をもつ仕事でもあろう。