『人物・日本の歴史』11 

1966年1月



陸奥 宗光


古屋 哲夫

1戦争の口実をつくる
2条約改正と日清戦争
3藩閥・政党・政治技術
4三国干渉


2条約改正と日清戦争
大隈の条約改正と陸奥
大隈条約案と憲法問題
内より破裂せざるの方針
議会三百の百姓ども
列強、日清間の調停に乗り出す
条約改正の成功
日清開戦


2条約改正と日清戦争



大隈の条約改正と陸奥

 条約改正、つまり、幕末から明治初年にかけて締結した不平等な和親条約を対等な条約に改正することは、明治4年(1871)、岩倉具視以下の遣外使節団派遣このかた政府の宿願であった。しかし、欧米諸国は容易にこの交渉に応じようとしなかった。この間、明治政府の側では、一気に不平等条約を改正することは困難であり、段階的改正が必要であり、しかも、それを相手にみとめさせるためには、相当の譲歩をしなければならないと考えるようになった。

  陸奥宗光が外務省にはいったのは、最初の本格的な条約改正交渉をはじめた井上外相の時代であった。明治19年(1886)10月28日、無任所の弁理公使となった彼は20年4月、外務省の法律取調委員会に加わったが、翌21年2月10日、駐米公使に任命され、大隈外相の下で条約改正事業に参加することになった。

  大隈は、井上外相の改正案が、多数の外国人判事の採用をみとめたため、政府内外からはげしい反対をうけて失敗したことを考慮し、外国人判事任用を大審院だけに4人を入れるにとどめ、交渉方式も、井上のように円卓会議方式をやめ国別交渉の方式をとった。つまり、日本の希望をうけいれてくれそうな国から条約改正を実現していこうというのである。そのための方法として、これまで無条件にみとめていた最恵国待遇を条件付きにすることが考えられた。最恵国待遇というのは、ある国に特別の権利を与えると、最恵国条項のある条約を結んでいる他のすべての国は自動的にそれと同じ待遇にあずかるという規定である。ある国への代償条件を与えて領事裁判権を撤廃させる交渉に成功しても、その代償条件が自動的に他国におよんでしまうのでは、国別交渉方式は成り立たない。そこで大隈は最恵国条項を有条件とする解釈を押しとおす決心をし、そうした条約のモデルをつくることにして、その相手にメキシコを選んだ。

  当時まだメキシコとは通商条約が結ばれていなかったので、これは新条約の締結であり、したがって、両国の駐米公使を全権委員として、ワシントンで交渉を行うことにした。日本側全権は陸奥であり、これが陸奥の名を外交史上に残す最初の事業となった。条約は明治21年(1888)11月30日調印、翌年1月29日批准、7月18日公布された。この条約は、日本で最初の領事裁判権の規定をもたない対等条約であった。そして、そのかわりに、とくにメキシコ国民にだけ、いっさいの合法的職業に従事する「特権」をみとめた。当時の条約では、外国人は外人居留地内の活動しかみとめられていなかったのであり、この日本領土全般での活動をみとめたのはまったく新しい措置であった。当時のことばでいえば「内地雑居」である。そして大隈は、これは領事裁判権をもたないメキシコの「特権」であり、最恵国条項によって無条件に他の国に与えることはできないという立場を貫いたのである。



大隈条約案と憲法問題

 メキシコとの条約締結に気をよくした大隈は、さっそく条約改正にのり出した。彼は、みずから各国公使と直接交渉にあたり、日本の在外公使に側面から援助させるというやり方をとったが、そのうち、日本の要求に最も同情的とみられたのがアメリカであり、ここでも陸奥の活躍は大隈をたすけた。日米条約は明治22年(1889)2月20日調印、大隈の最初の改正条約となったのであった。大隈はつづいて6月11日ドイツ、8月8日ロシアとの改正条約調印に成功した。

  ところで、日米改正条約調印の翌日、2月21日、大日本帝国憲法、いわゆる明治憲法が発布された。近い将来、日本の中央政治に登場する野心をもっていた陸奥は、さっそくこの憲法の研究にとりかかったが、そこで彼は、さきの大隈の条約改正案がこの憲法と矛盾する点を発見した。陸奥は3月29日、大隈にあてて、「帝国憲法の規定をみると、日本国民に日本人裁判官による裁判を受ける権利を保証しているように考えられる。もしそうだとすれば、大審院に外国人判事を任用することは、憲法が保障する日本人裁判官による裁判を受ける権利を侵害することになり、憲法違反になるのではないか」と問い合わせた。これに対して、大隈は5月14日、「憲法と改正条約とは矛盾しない。58条の裁判官の資格を定める法律とは、これから発布される裁判所構成法をさし、このなかで両方が矛盾しないように規定すればよい」というそっけない回答をよこした。

  しかしこの問題はすぐさま大問題となった。これまで秘密にされていた大隈案の内容が、4月19日付け『ロンドン・タイムス』に掲載され、それが日本の新聞に訳載されると、これを憲法違反とする世論がはげしくわきあがってきたのである。さらに、7月4日、法制局長官井上毅が、「憲法違反の非難を避けるためには、外国人帰化法を制定し、外国人判事を帰化させなければならない」と上申するにおよんで大きな政治問題となった。閣内では逓相後藤象二郎、蔵相松方正義らが大隈の方針に反対、さらに枢密院議長伊藤博文が憲法違反論を支持、そのうえ、帰化した外人を任用すれば憲法にはかなうが、外国人判事を任用するという条約改正案に反するから、条約案を修正しなければならないというややこしい議論に発展、黒田首相、大隈外相は最後まで既定方針強行の態度をとったが、伊藤は辞職して反対、閣外でも海外視察から帰国した内相山県有朋が反対にまわったため、収拾できない混乱におちいった。そして大隈外相が玄洋社員に襲撃されて負傷するなどの事件も起こり、ついに大隈の条約改正も失敗に帰した。せっかくアメリカ・ドイツ・ロシアなどと調印した改正条約も、ご破算にしなければならなかった。



内より破裂せざるの方針

 こうした2度にわたる失敗のため、以後、条約改正方針を根本から再検討しなくてはならなかった。25年8月成立した伊藤内閣の条約改正方針は、翌26年7月8日の閣議で決定されたが、その大要は、陸奥外相の条約案によるもので、交渉はイギリス・アメリカ・ドイツ3国からはじめ、ついでロシア・フランス2国におよぶという順序とし、日本の在外公使と相手国政府とのあいだの国別交渉方式によること。条約実施を調印後数年の後とし、調印ののびる国ほど実施までの期間を縮めていっせいに発効するようにすることなどであった。

  陸奥の条約改正案の特色は、すくなくとも文面上は相互対等主義を貫徹した点にあった。たとえば領事裁判権の問題にしても、陸奥は条約調印から実施までの準備期間を5年とし、実施と同時に領事裁判権も消滅することとした。また条約改正のもう1つの眼目である関税自主権についても、条約中には規定せず、付属税目表で国別に相手国が強く希望する品目についてだけ協定関税とし、それ以外のものについては自主的に関税率をきめられるようにした。つまり列国の主張に妥協しながら、しかも条文に日本の主権が制限されている跡を残さないくふうをしたのであった。

  陸奥は「要スルニ今回ノ条約改正ハ寧ロ外ニ向テ難キモ、内ヨリ破裂セザルノ方針ヲ取ル事第一ナリ」(37年1月2日付井上馨あて書簡)と述べていた。つまり彼は、井上・大隈両外相の失敗を考えて、すくなくとも政府内部からの反対でだめになることのないような案をつくり、列強からの反対で不成功に終わるには仕方がないとしたわけである。彼はこの案なら国内から攻撃される理由はないという自信をもち、また同時に、列強も、極東での対立の激化・拡大にともない、憲法制定、議会開設その他あらゆる面で急速な発展を示している日本を無視しえなくなっている情勢を読みとっていたにちがいない。



議会三百の百姓ども

 しかし、そうした陸奥の自信は、議会での政党からの政府批判とはげしくぶつかることとなった。

  国会開設いらい、自由民権運動をつぐ自由・改進両党は、「政費節減、民力休養」のスローガンをかかげ、予算案の審議・削減の方法で政府との対立をくりかえした。しかしそうした闘争のやり方は、早くも第四会議で大きな壁につきあたった。この議会で民党は、官吏の俸給および官庁経費の減額、軍艦建造費の削除など884万円、26年度予算原案の1割1分にのぼる削減を議決すると、政府は「詔勅」という奥の手で対抗してきた。天皇は、「国家軍防ノ事ニ至テハ苟モ一日ヲ暖クスルトキハ或ハ百年ノ悔ヲ遺サム」とし、さらに、6年間内廷費から年々30万を下付し、文武の官僚もこの間俸給の10分の1を納め、合わせて製艦費にあてることを命じた。民党はこの詔勅を受けいれて抗争に終止符を打った。このことは、民党のこれまでの抗争が、憲法の枠を破らなければ成功しないことを示しており、民党を体制変革の方向に進めるか、体制そのものにかかわる闘争をやめるかのわかれ道に立たせることになった。そして民党は後者の道をえらんだ。当然、以後の議会と政党のあり方は大きく変化することとなった。

  変化は、つぎの第五議会からすぐさま、2つの形であらわれてきた。第1には、これまで、民党として、ともかく手を結んで藩閥政府反対のためにたたかった自由・改進両党の対立の表面化であり、第2には、政府批判の焦点が、対外政策におかれはじめたことである。つまり政府の政策は軟弱だとする批判であり、国家の対外的発展に対する積極さを政府と競い合うという形で争点を設定していくわけである。このやり方も以後、政府批判の1つの定型となっていくのであるが、第五議会では12月8日、提出の現行条約励行建議案という形であらわれていた。この案は、改進党はじめそれまで政府党、吏党とみなされていた諸会派が支持し、自由党が反対したが、衆議院で可決されることは確実であった。その内容は、政府が外国人に対し、条約に規定されている以上の便宜を与えている例を集めて、政府を非難するものであった。そして、この建議案とともに、議会外でも、条約違反とみられる外人の旅行者、遊歩者への暴行事件などが起こりはじめた。

  自分の条約案は日本の発展の方向にあると信じていた陸奥は、この動向に激怒した。彼はさっそく議会解散をとなえたが、閣議でそれは過激すぎると批判されると、辞表を伊藤首相に送りつけ、伊藤から「煩慮短気」をいさめられる一幕もあった。陸奥はその激怒ぶりをつぎのように書いている。「議会300の百姓共、…此半攘夷家流は今に於て厳重の処置無之候而は実に国家の安危に可関と被存候」(26年12月20日付け井上馨あて)。

  第五議会はけっきょく12月30日解散され、翌27年3月1日総選挙が実施されたが、反政府派は過半数を維持した。そしてつぎの第六議会でも5月31日、内閣弾劾上奏案が可決された。6月2日、政府はふたたび解散をもってこれにこたえた。そしてこの日の解散を決定した閣議は、さきに述べた清国に対抗して日本を朝鮮に出兵することも決定したのであった。

  この朝鮮出兵は、条約改正に対する国内の批判を終わらせる役割を果たした。政府の軟弱外交を非難していた諸勢力は、「清国打つべし」として政府を励ます態度に変わっていった。新聞・雑誌などをはじめ世論も対清開戦の方向へ沸騰していった。したがって陸奥は国内の情勢に拘束されることなく、いっぽうで青木駐英公使を督促して条約改正交渉を進め、他方では、すでに述べたように、朝鮮内政改革の問題を提起して、日清戦争の口実をつくる工作に専念することができた。



列強、日清間の調停に乗り出す

 イギリスとの条約交渉は明治27年(1894)6月末には、重要な問題はすべて解決され、調印まであと1歩のところにきていた。それは朝鮮でいうと、日本朝鮮共同改革の提案を清国が拒否したのを機に、仁川の大島旅団が京城に進入するという時期であった。しかし、そのころから、列強は日清間の紛争に介入・干渉する動きを示しはじめてきた。この列強の動きをどうさばくかに、陸奥は苦心しなければならなくなった。

  6月30日、ヒトロウォ・ロシア公使は陸奥と会談、「ロシア政府は、日本が朝鮮政府の日清両国の撤兵という希望をうけいれるよう勧告し、かつ、日本が清国と同時撤兵をうけいれないならば、日本政府は重大な責めを負うことになる旨忠告する」と申し入れた。それは外交文書としては、きわめてきびしいものであり、日本が撤兵しなければ、ロシア政府はなんらかの行動をとって積極的に介入するという意味に受け取れる。当時、朝鮮問題に軍事力を使ってまで介入する可能性があるのは、ロシアだと考えられていた。

  陸奥はロシアの言い分をいれて撤兵することはできないが、そうかといって、ロシアと対決するだけの軍事的準備はない。ロシアとの衝突は絶対避けなければならない。しかし、この危機を脱するような名案も浮かんではこなかった。陸奥は7月2日、ヒトロウォにつぎのように回答した。「日本政府は、東学反乱の原因はのぞかれていないし、反乱そのものもなおまったく跡をたつにいたっていないのではないかと考える。日本政府は侵略の意思はないし、反乱再発のおそれがなくなれば撤兵する」というのである。

  しかし陸奥はこんな答えでロシア政府が満足するかどうか疑問だと考えていた。ロシアは何をいいだすか、のちに陸奥は「今に於て当時の事情を追想するも猶ほ悚然膚に粟するの感なき能はざるなり」(『蹇蹇録』)と書いている。

  このとき、ヒトロウォも、駐清公使カシニーもともに、朝鮮内政改革のため、ロシアを加えた日清露三国委員会設置の構想を本国に伝えている。ロシア政府がこの提議を現実に行っていたならば、陸奥外交は進退きわまる危機におちいったにちがいない。しかしヨーロッパでのドイツとの対立を重視していたロシア政府は、7月10日、これ以上朝鮮問題に深入りすることを禁じた。7月13日ヒトロウォは陸奥に、「ロシア政府は、日本政府が侵略の意図のないこと、反乱再発のおそれがなくなれば撤兵する保障をしたことに満足する」と伝えた。陸奥はほっと安堵の胸をなでおろした。

  この間にイギリスの調停も失敗に終わっていた。イギリスの場合には日清両国の条件をさぐりながら、調停案を作成する努力をつづけた。陸奥はこうした形でイギリスが介入してくることは好ましくないと考えたが、最後の段階にきている条約改正を実現させるためにも、イギリスの好意に感謝して、日本側の条件を伝えるほかなかった。陸奥は、清国が朝鮮内政の共同改革に応じることのほかに、朝鮮において政治上、通商上で清国と同一の地位に立つことを要求した。陸奥はこれを清国が断わるにちがいないと予想した。

  駐清イギリス公使オコーナーもこれでは調停にならないと考えて、朝鮮での日清対等の問題から「政治上」を削り、通商上の問題に限った。しかし、清国側は7月12日のこの案を拒否した。清国側にすれば、通商上の特権は宗主国の地位にとって重要であったが、このことをオコーナーがどの程度認識していたかは疑問である。

  ともかくイギリスの調停が清国側の拒絶でだめになったのは、陸奥にとってよろこぶべきことだった。日英改正条約は2日後の7月14日に調印されるまでに進んでいた。陸奥はこのいわば国際関係の切れめに、日清戦争に向かって急いだ、つぎの干渉の来ないうちに。



条約改正の成功

 イギリスの調停を清国が断わった7月12日、陸奥は、駐清公使小村寿太郎に電訓して、イギリスの仲裁失敗は、清国がいたずらに事を好む態度をとったからであり、将来「不測ノ変」が起こっても日本政府の責任ではない、と清国に向かい声明することを命じ、また朝鮮の大鳥公使に対しては、「今ハ断然タル処置ヲ施スノ必要アリ、故ニ閣下ハ克ク注意シテ、世上ノ非難ヲ来サザル或口実ヲ撰ビ、之ヲ以テ実際運動ヲ初ムベシ」と訓令し、翌日、本野参事官を派遣してより詳細な意向を伝えた。陸奥はこの日、開戦外交と条約改正の責任を果たしたと考えて、ほっとしたにちがいない。

  しかし、7月15日、陸奥は青木駐英公使が前日に打電した電報を手にして愕然となった。電報はいう、改正条約は14日調印予定のところ、イギリス政府は、大鳥公使が朝鮮政府に向かい、同政府に海軍教師として任用されているイギリス人コールドウィルの解任を要求したことをあげ、条約調印を拒絶したと。しかもこの件につき期限つきで回答を求めている。

  陸奥は大鳥に事実を問い合わせている暇はない。彼は「帝国政府はコールドウィルの解傭を要求したることなし」と打電し、あとのことはあとのことで、つじつまを合わせるつもりだった。だがその直後にきた大鳥の電報をみると、京城のイギリス総領事が袁世凱とはかって日本の立場を困難にしているようであるが、それはイギリス政府の方針なのかどうかという問い合わせである。これは、さきのイギリスの抗議を相殺するニュースだと考えた陸奥は、重ねてロンドンの青木公使に打電してこのニュースを伝え、このように京城には流言浮説が横行し、京城からの報告はあてにならないことを強調するように命じた。

  この陸奥の作戦は図にあたった。予定より2日おくれただけで、日英通商航海条約は7月16日調印を終わった。世界の強国イギリスとの条約改正が成功した以上、他の国ぐにがこれにならうことは明白であった。しかもこれで日清戦開戦にいたる国際的障害はなくなったわけであった。



日清開戦

 7月20日、大鳥公使は、朝鮮政府に対し、清国の宗主権をみとめる中朝商民水陸貿易章程の廃棄、属邦保護を名とする清国軍を退去させることを、22日までの期限付きで要求した。ついで23日、日本軍は朝鮮軍の抵抗を排して王宮にはいり、また朝鮮軍の武装解除を強行、この間、裏面工作により大院君を引き出して政府の中枢にすえた。25日、朝鮮政府は清国の宗主権破棄を宣言、清国兵駆逐を日本に依頼した。ようやく日本は日清戦争の名目を獲得した。この日豊島沖で日本海軍は清国軍艦を攻撃、戦争状態にはいった。いわば、朝鮮政府の宗属関係破棄の宣言は、かろうじて軍事行動開始に間に合ったわけである。日本軍はすでに朝鮮政府の行動いかんにかかわらず戦争に突入する体制をとっていたのである。27日、大島旅団は牙山の清国軍攻撃を開始、明治27年(1894)8月1日、正式の宣戦布告が行われた。

  国際関係のなかをすばやく駆け抜けた陸奥外交は、ともかくも平地に波乱を起して戦争にもちこみ、しかもこの間に条約改正の実現に成功した。

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