『人物・日本の歴史』11 

1966年1月

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陸奥 宗光


古屋 哲夫

1戦争の口実をつくる
2条約改正と日清戦争
3藩閥・政党・政治技術

4三国干渉

3藩閥・政党・政治技術
政治ハ術ナリ
マリア・ルーズ号事件と大津事件
明治維新と陸奥
藩閥の間に立って
陰謀に加わる
智者と談ずべく愚者に語るべからず
政党の操縦


3藩閥・政党・政治技術



政治ハ術ナリ

 日清戦争の開戦を指導した陸奥外交の特色は、第1に状況の諸条件を的確につかみ、そのなかから、目標達成を阻害する条件をえり分けたことと、第2に、その阻害条件を回避することに外交の重点をおいたことであった。

  阻害条件回避のためにさまざまな手続きをほどこし、口実を設け、その間に有利な機会をつかむや一気に独走するわけである。それは的確な情勢判断とすぐれた速度感覚といいかえてもよかろう。つまり、陸奥外交が外交中の一流と評されるのは、その抱負や経綸に関してではなく、政治技術の点に関してなのである。そして陸奥自身も技術を中心にして政治を考えていたのであった。

  陸奥はいう。「抑モ政治ナル者ハ術ナリ、学ニアラズ、故ニ政治ヲ行フ人ニ巧拙ノ別アリ、巧ニ政治ヲ行ヒ人心ヲ収攬スルハ即チ実学実才アリテ広ク世務ニ練熟スル人ニ存シ決シテ白面書生机上ノ談ノ比ニアラザルベシ」(22年3月2日付け井上馨あて書簡)。

  若き日の陸奥について1つのエピソードが伝えられている。文久元年(1861)江戸に出た彼は、尊皇攘夷思想に傾き、長州の桂小五郎(木戸孝允)、乾退助(板垣退助)に交わりを求めたり、水戸学の代表的思想家会沢正志斎の門をたたいたりしたようであるが、この間、浅草などの雑踏のなかを巧みに駆け抜ける練習をしたという。友人から、「君は浅草で何をくだらないまねをしているのだ」ときかれると、陸奥は、「おれは非力でけんかをすれば負けるにきまっている。だから、どうしても早く逃げることが必要なので、いまそのけいこをしている。一つおれとけんかをしてみんか、おれの逃げ足をみせてやる」と答えたと伝えられている。こんな話が残っているのも、この話が、のちの陸奥の政治的活動と一脈通じるものがあったからであろう。
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マリア・ルーズ号事件と大津事件

 たしかに「逃げること」、主義や倫理にとらわれずに政治的争点を回避する点に、陸奥の政治行動の1つの特色があった。それは一面では、卑怯未練とあざけられることを恐れず、虚栄心を排してリアルな認識を得る可能性を持つと同時に、他面では、悪徳を肯認し、「手段を選ばず」という形で安易な悪へ、退廃へおちこむ可能性にも通じているわけである。

  明治5年(1872)6月、陸奥が神奈川県令(現在の知事にあたる)の地位にあったとき、有名なマリア・ルーズ号事件が起こった。横浜に入港したペルー国籍のマリア・ルーズ号から中国人2人が脱出して救助を求めたのである。この船は奴隷として売るために中国人苦力225人をのせてペルーに向う途中であり、彼らは船長以下の虐待に耐えかねているというのであった。当時日本は清国ともペルーともなんの条約も結んでおらず、この問題をどう処理するかについては、政治内部でも意見がわかれた。

  外務卿副島種臣は、人道上の重大問題であるとし、神奈川県に同船の不法を糾弾することを命じた。神奈川県参事大江卓もこの考え方を支持した。しかし陸奥は、「前年に廃藩置県を行なったばかりで内政上の問題が山積しているのに、このようなことに手を出すのは得策ではない。幸い条約を結んでいないのだから放置しておいたほうがよい」と反対した。けっきょく、かねてから辞意をもっていた陸奥は、この問題をきっかけに県令を辞任、あとをついだ大江が、みずから裁判長となって特別法廷を開き、清国苦力を解放し、その後の紛争は、明治8年(1875)ロシア皇帝アレキサンダー2世の仲裁で解決するという結末をたどった。

  この事件での陸奥の態度は、すでに指摘した彼の政治観の一面を端的に示すものであったが、そこにふくまれている危険は、のちに大津事件にさいして頭をもたげてきた。

  大津事件というのは、明治24年(1891)5月11日、シベリア鉄道起工式出席の途上来日したロシア皇太子が、大津市で反露感情をもつ巡査に切りつけられ負傷した事件であるが、なにしろ犯人は事もあろうに沿道警備の巡査であり、相手は世界の強国ロシアの皇太子というので、政府首脳は目もあてられないくらいとりみだした。そこで政府のほうでは、せめて犯人を皇室に対する罪に準じて扱い、死刑にして、ロシアにあやまろうという策を立てたが、裁判官のほうは、法律をまげることはできない、いちばん重くて無期懲役だと反対した。困った政府側では、死刑にするため戒厳令をしくとか詔勅を出すとか、さまざまの案が乱れとんだが、けっきょく、裁判官側に押し切られ、司法権の独立を守ったとして、大審院長児島惟謙の名を後世にまで残すことになったのは周知のところであろう。このとき陸奥は農商務相であったが、逓相の後藤象二郎とともに伊藤博文の下に駆けつけ、裁判で死刑にできなければ殺し屋をやとって犯人を暗殺し、病死と発表すればよい、と安易な陰謀を提議し、日本は法治国だ、と伊藤に一喝される一幕を演じている。

  こうした側面からわかるように、陸奥は自分のまわりに一大政治勢力を結集するとか、自分が中心となって政治運動を組織していくとかいう型の政治家ではなかった。むしろ、種々の政治勢力のあいだに立って、それらを操縦するとか、仲介するとかいう種類の活動を得意としていた。彼がそうした型の政治家となったことと、彼の生来の資質と関係は測定しにくいが、すくなくとも、彼のおいたちや経歴が大きな役割りをもっていることは疑いない。



明治維新と陸奥

 陸奥は弘化元年(1844)、紀州和歌山藩士伊達宗広の6番目の子として生まれた。宗広は寺社奉行、大番頭勘定奉行として藩の財政改革の中心となった人物で、天保から嘉永にかけて藩政の中枢に参画していた。しかし宗広は、嘉永5年(1852)12月、彼を愛した藩老公が死去すると、その数日後には安藤飛騨守にお預けとなり幽囚の身となった。宗光が9歳のときである。

  文久元年(1861)宗広はゆるされて和歌山に帰ったが、尊王思想に傾いた彼は藩政を不満として、翌年一家をあげて脱藩、京都に移住、姉小路公知らと交わり、長子五郎は中川宮の執権となるにいたっている。そして紀州藩も京都工作の必要から伊達親子をゆるし利用せざるをえなくなった。陸奥はこの3年間を江戸で貧窮の生活を送ったりしたが、京都で坂本竜馬に知られることになり、新しい道が開けていくのである。陸奥の本来の名は伊達小二郎であったが、坂本に知られて以後、みずから陸奥を名のり、陸奥陽之助と称するようになっている。いわば脱藩者の用いる変名の類であった。以後陸奥は坂本竜馬にしたがって行動し、勝海舟の海軍操連所に学び、のちに海援隊の一隊員として明治維新を迎えるわけである。ここから陸奥は、全国的政治情勢の展望と情勢判断の基礎を得、政治的仲介者の意義と技術とを体得したにちがいなかった。

  鳥羽伏見戦争の直後、大阪にイギリス公使パークスをおとずれたのも、そうした海援隊時代に得た情勢判断によるものであったろう。パークスと会談した陸奥は、すぐさま京都におもむき岩倉具視に面会、開国進取の政策をとり、まず大阪にいる各国公使に王政復古を告げ、外交を掌握することが急務だと進言した。このこと事態はさして独創的とはいえないが、この混乱の時期にこれだけの行動をとれるのはやはり非凡であった。岩倉はそこを見こんだのであろう、陸奥を外国事務局御用掛に任じた。同じ掛に長州の伊藤俊輔(博文)、井上(馨)、薩摩の寺島陶蔵(宗則)、五代才助、中井弘蔵などがいた。陸奥は独力で薩長を中心とする明治政府の一角にくいこんだわけである。



藩閥の間に立って

 しかし、この後の陸奥の行動をいろどっているのは、自分が重用されないことに対する絶え間ない不満であった。彼が1つの職に長くとどまることなく辞職と任官をくりかえしたのはそのためである。討幕運動が幕藩体制の打倒をめざし、討幕派という全国的つながりをもちながらも、きめ手は藩権力による軍事力にたよらざらるを得なかった矛盾は、明治政府においても、全国統一をめざしながら、討幕雄藩に依拠しその均衡を重視しなければならないという矛盾を生みだしていく。

  出身藩からとび出している陸奥は、藩の動向に制約されないかわりに、中央政府での自分の立場を強めるのに出身藩を利用するわけにはいかなかった。したがって藩を廃止し、全国的統一を促進する点で急進的意見をもったのはきわめて自然であった。彼は木戸孝允に大きな期待をよせ、また外国事務局の同僚であった伊藤博文、井上馨と生涯を通じて連携していくのである。

  明治2年(1869)正月、陸奥は中島信行らとともに伊藤に従って京都におもむき、六か条の建白を提出したが、それは「全国政治兵馬ノ大権ヲ朝廷ニ帰セシメ…区々偏頗ノ制ヲ除」くこと、職業、居住、交通の自由をみとめることなど、藩体制の全面的解体をねらうものであった。したがってこの時点では、まだ急進的な意見であり、藩体制に依拠する勢力からはげしい非難をあびせられた。そして明治2年7月には兵庫県知事を罷免されてしまった。

  こうした情勢のなかで、陸奥は藩体制の解体はすぐには実行できないと判断し、みずからも藩体制のうちに足場をもつことが必要だと感じたのであろう。明治2年から4年にかけて紀州藩の要請に応じて、その藩政改革の指導に専念している。この改革はとくに兵制の面で注目をあつめたものであり、士族に限らず20歳の独身者を徴集し、プロシャ式兵制を採用、歩兵6連隊13000人を中核とする洋式軍隊をつくりあげた。しかし廃藩置県は明治4年(1871)7月、おそらく陸奥の予想より早く、しかも混乱なく断行されたのであり、できたばかりの新式軍隊は解散、この藩政改革も陸奥の中央での立場を強めるものとはならなかった。

  廃藩置県を機として、陸奥はふたたび中央政府に返り咲くことになるが、みずからの才能と識見を自負する彼は、自分の地位の低さに不満をつのらせていった。そしてそこから藩閥批判が生まれた。しかし彼の藩閥批判は、民衆の政治参加の制度化(国会開設)の方向に関心を示していない点で、自由民権運動の藩閥批判と決定的に異なっていた。

  陸奥は明治7年(1874)1月、『日本人』と題する長文の意見書を木戸孝允に送った。そのなかで彼は、「日本人総懸り」つまり、国民的統合の強化という点からみた2つの問題を指摘した。1つは政府内部の派閥的対立の弊害であり、1つは国民一般の無気力、政治的無関心である。しかしこの後の問題は単に指摘するだけであり、前者すなわち藩閥問題が陸奥の関心の焦点なのであった。

  彼は藩閥が「公私ヲ混淆シ」権力を私物視している例をあげて批判し、たしかに明治維新の最大の功績は薩長にあり、これに恩賞をあたえるのは当然であるが、功績は過去のことであるのに、未来に向かって責任を負う官職をもって遇するのは筋ちがいであるとする。しかし藩閥そのものを除去しようというのではなく、政治の実際上からみれば、「強キ一党ハ弱キ一党ヲ圧服シ、自党ニ便利ナル挙動アルハ、必然ノ勢」であり、「若シ其強キ一党中、能ク協和一致シテ、其国ノ権衡ヲ失ハザル様注意スルトキハ、尚ホ其国ノ安全幸福ヲ保護シ得ベシ」とし、現在の強き一党である薩長土肥の内部対立の激化を現在の最大の弊害であるというのである。

  この意見書は具体的な対策を提示するものではなかったが、ここから出てくる結論は、藩地に特殊な体制をしいて政府を制約する薩摩の勢力を除去し、木戸を中心に統一国家建設の方向をまっすぐに志向する勢力を結集した、強力な中央政府をつくるというほかならない。陸奥の心のなかでは、薩摩への反感と、中央でますます強力な力をふるいつつある大久保利通への反感とが結びつき強められていたと推測される。



陰謀に加わる

 こうした考えをもっていた陸奥が、明治10年(1877)、西南戦争勃発にさいして、最初から西郷隆盛麾下の薩摩反乱軍をだんことして討伐することを主張したのは当然であった。しかし、奇妙なことに、彼は西郷に呼応して反乱を起こそうという土佐派の陰謀にまきこまれてしまうのである。

  当時、中央政府に対抗する地方集団としては鹿児島の私学校とともに、高知の立志社(7年設立)が最も有力なものであり、西南戦争に立志社がどう反応するかに世の注目が集まった。このとき板垣退助、片岡健吉らの立志社主流は、言論活動による政府批判の方法により建白運動などを行ったが、林有造、大江卓らは、西郷に呼応して挙兵すべきだとし、武器、弾薬の買い入れ、資金調達に奔走した。陸奥は明治10年4月中旬、大江からこの計画にさそわれ、元老院議官という地位を利用し、元老院の暗号電報使用の便宜などをあたえた。
このころ、陸奥は伊藤博文への手紙で、西南戦争の影響が拡大しないうちに早急に平定することが必要だと述べ、ついで土佐のことにふれ「高知県の義、道路粉々之説不少候、未ダ虚実難信候得共、兎角ニ天下多事御苦慮之程奉恐察候、宗光輩ニ於テモ実以テ苦心罷在候、何トカ御高案之上ニ禍害ヲ未萠ニ防御スルノ御名策モ有之間敷哉承リ度候」(10年6月4日付け)と書いている。これからみれば、彼は、林らの挙兵計画をなんとか未発におさえ、しかもそれを大久保の勢力削減のために利用したいと考えていたにちがいない。しかしそのための方策を立てられないでいるうちに、彼もまた捕えられたのであった。

  明治11年(1878)8月、陸奥は禁獄5年の刑に処せられ、獄にくだった。前半生の権力欲も策謀もついに失敗に帰したのである。この失策について、彼は生涯何事も語ろうとはしなかった。



智者と談ずべく愚者に語るべからず

 明治16年(1883)1月、特赦で出獄した陸奥は、もはや反政府運動に加わる意思はまったくなかった。伊藤博文、井上馨にたよりながら政治家として再出発をはかろうというのが、彼のえらんだ道であった。そして外遊後、井上外相の下で外務省にはいり、駐米公使として大隈の条約改正をたすけたことは、すでに述べたとおりである。

 しかし在米中の彼の重要な関心は、23年(1890)に開かれる最初の国会に向けられていた。そのためにアメリカの議会・選挙・政党の実際を調査・研究することをおこたらなかった。彼は国会開設後の政府が、政党操縦のために自分を必要とすると確信していた。陸奥は、最初の議会では絶対多数をとる政党はあらわれないだろうと予想した。また政党内部では、個々の党員の独立性が強く、党首を中心とした強固な党内統制を保ち得ないだろうと見通していた。彼はそこに政府の側からの政党操縦の可能性があるとみていたのである。

  こうした点からみれば、明治政府主流の考え方になっていた「超然主義」は、あまり得策とは考えられなかった。超然主義とは、内閣は政党の外に超然としていなければならないということであり、内閣は議会や国民に対してではなく、天皇に対してのみ責任をもつという明治憲法の建て前からいえば、内閣は政党となんらの関係を持つべきではないとするのである。しかし陸奥は理論上はともかく実際上は、政党に「超然主義」打破という目標をあたえ、超然主義反対の政党連合を形成させることになるのは必然であり、政党操縦を困難にする愚策だと批判した。そして今日の急務は「所謂ル政党以外ニ立ツ内閣が如何ニシテ国会ノ多数ヲ掣シ時々其政略ヲ行フヲ得ベキ歟ト云フ問題ヲ解スル」ことだとした(22年5月3日付け井上馨あて)。

  陸奥はいう。「立憲政治ハ専制政治ノ如ク簡易ナル能ハズ…又タ政治熱ニ浮サレタル人民ハ恰モ恋慕熱ヲ煩フ少年ノ如ク迷夢一覚ノ秋ニ至ル迄ハ殆ンドソノ良心ヲ失フモノノ如キ状アリ、而シテ此政治熱ナル者モ我国ニモ将来毎々流行スル事ナルベシ、之ヲ医治スルノ術如何ト云ヘバ唯ダ人民ノ意欲ニ訴ヘ其意欲ヲ制限スルニ在ルベシ、決シテ新奇ナル(実ハ陳腐ナル)哲学主義ヨリ理解シ得ベキモノニアラズ」(22年3月2日付け井上馨あて)。

  この“意欲ニ訴ヘ意欲ヲ制限スル”問題については彼は「智者ト談ズベク、愚者ニ語ルベカラズ」と述べているにすぎないが、具体的には、政党になんらかの利益を与えて体制化すること、もっと直接には、政党幹部に大臣以下の官職の一部をあたえて、立身出世欲を浸透させることなどの方策を暗示したのではなかったか。したがってその反面、露骨な選挙干渉や、行きあたりばったりの買収などの方法には反対であった。



政党の操縦

 明治23年(1890)、国会開設後の情勢は、だいたい、陸奥の予想どおりであった。自由・改進両党は政党内閣を主張して超然主義に反対、連合して予算削減の方法で政府に対決した。反政府勢力は議会の過半数を占めていた。山県有朋首相も最初の総選挙(23年7月1日)を目前にして、23年5月内閣改造を行ない、陸奥を農商務大臣にむかえて国会乗り切りをはからなければならなかった。

  陸奥の強味は自由党のなかに多くの知己をもっていることであった。海援隊いらいの土佐とのつながりは、西南戦争のさいの陰謀への加担によっていっそう強まっていた。また第ニ回総選挙(25年2月)で議会に登場してくる自由党の領袖星亨は、陸奥がかつての紀州藩政改革にあたり、英学教師として和歌山に招いていらい、陸奥の強い影響のもとにおかれていた。陸奥は山県首相の依頼により、こうした関係を利用して自由党土佐派を切りくずし、政府と妥協させて第一議会を乗り切ったのであった。第一議会閉会後、山県は辞職、かわって24年(1891)5月成立した松方内閣にも陸奥は留任したが、松方内閣が第ニ議会を解散、ついで第2回総選挙(25年5月25日)で、品川弥二郎内相、白根専一同次官が指揮する大選挙干渉を行ない、その責任を追及されて25年(1892)3月辞職した。

  陸奥はこの年8月、第2次伊藤内閣の外相に就任するまで5か月間在野生活を送ることになったが、この間、和歌山選出代議士で親類関係にある岡崎邦輔に工作させて、星亨を衆議院議長に当選させるのに成功した。以後、自由党内での星の力はしだいに強まっていく。星は第四議会終了(26年3月)後、改進党攻撃を開始して第一議会からの反政府連合を解体させ、第五議会で自由党を準与党の立場に立たせる大きな力となった。

  自由党は日清戦争後の明治28年(1895)11月、公然と伊藤内閣との提携を宣言、翌29年4月、板垣退助が内相として入閣するにいたっている。陸奥のいう「術」が、対政党政策の面ではみごとに成功したということができる。しかしその「術」も、操作可能な駒をもたない国際関係ではほどこすすべがなく、三国干渉を「術」をもって破ることはできなかった。

4三国干渉へ