『人物・日本の歴史』13

1966年7月

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山県有朋と宇垣一成


表紙

古屋 哲夫

1二個師団増設問題
2元老政治

3軍国主義
4総力戦への構想

1二個師団増設問題
辛亥革命と山県
行き詰まる軍備拡張
二個師団問題と長州の陸軍
藩閥と軍閥
山県・田中・宇垣
一歩後退
軍部大臣現役制の改正
宇垣の怪文書


1二個師団増設問題



辛亥革命と山県

 明治45年(1912)、つまりその年の7月30日から大正と改元されたこの明治最後の年は、山県有朋にとって、はなはだ不愉快な年であったにちがいない。

 2月12日には清国皇帝の退位の上諭が発せられ、300年にわたる清朝が姿を消し、共和制の中華民国ができ上がる。もちろん中国は以後軍閥割拠の混乱をくりかえすことになり、その統一は容易のわざではなかったが、ともかくも中国の君主制が復活されることは不可能となり、山県のきらいな共和制が、ますます強い潮流となっていくことをどうすることもできなかった。

  前年10月、武昌起義を発端として辛亥革命が起こって以来、山県は共和主義を排して君主主義を守るという考え方から、清朝を援助し、立憲君主制―つまり清朝を残す形で革命を妥協させることを望んでいた。また、彼は思想的にも共和主義に反対であったが、利権回収のスローガンをかかげて盛り上がりつつある中国の民主主義運動を押えるためにも、清朝の存続を望んでいた。彼はこの方向に日本の外交を動かそうとして、ときの第2次西園寺内閣に強力なはたらきかけをつづけた。しかしその努力はけっきょく、日本の対華外交をぶざまな孤立に終わらせるという結果しかもたらさなかった。

  山県の圧力の下に、内田康哉外相は清国への武器援助をはじめ、袁世凱に君主制維持を要求、さらにイギリス、アメリカなどに立憲君主制で革命を妥協させる共同干渉を申し入れたが、いずれも「内政不干渉」という回答ではねかえってきただけだった。

  明治44年(1911)12月26日の閣議は、清朝側の袁世凱と革命軍との交渉を静観する、という不干渉方針を決定するほかはなかった。

  山県はこの情勢のなかで今度は、45年1月14日、ロシアと協調して南満州に1ないし2個師団を出兵させるという意見書をつくり、陸相を通じて外相に提議した(『山県文書』)。しかしこのときすでに列強は、日本がなんらかの干渉に出るのではないかと警戒しており、政府も出兵を強行するわけにはいかなくなっていた。さすがの山県も翌大正2年(1913)には、中国南北のいずれにも加担せずに「暫時情勢を傍観」する以外に方策がないことをみとめざるを得なかった(5月3日井上馨あて書簡『井上文書』)。




行き詰まる軍備拡張

 山県のこうした干渉策は、国際的にはもちろん、国内にも不評であった。国内では山県の出兵政策とは反対に、軍備縮小論がしだいに強まっていた。

  清朝滅亡半年後の大正元年8月には、明治天皇大喪費の追加予算のための臨時議会が開かれたが、このころから2個師団増設問題をめぐる対立が頭をもたげてきた。

  軍備拡張は山県の一貫した主張であり、彼は明治初年以来、事あるごとに意見書を提出して軍拡をとなえてきたが、とくに日露戦争直後の明治40年(1907)2月には、、山県の作成した「帝国国防方針」および兵力量、用兵綱領が決定されていた。ここで、戦時50個師団の動員を可能にするために、8個師団を増設して平時25個師団とする目標が立てられたのである。

  日露戦争によって獲得した満州の利権の維持・拡大と、民衆の広範な武装反抗を鎮圧して併合した朝鮮の治安維持、さらにロシアからの報復戦争にそなえるためには、これだけの兵力が必要だと山県は考えた。彼の思想からいえば、このことは国家にとって至上至急の課題であった。

  しかしこの軍備を第一義とし、国民に負担に耐えることを求める軍国主義に対して、ようやく反対の声も高まってきていた。日露戦争の戦費の過半を外債でまかなって以来、戦勝の栄光がたたえられる反面で、戦後の財政は窮乏の一途をたどっていた。戦争のための非常特別税を恒久化し、さらに増税をしたにもかかわらず、政府の所有正貨は43年の2億円から大正元年8千万円へと激減、外債の利払いさえ困難になるというありさまであった。

  こうしたなかで明治40年に増師計画のうち2個師団拡張が実現されたが、他面では実業家の減税要求運動が広範に立ちあがり、その批判は「過重な軍事費」に向けられはじめてきた。

  たとえば明治41年2月14日、全国商業会議所連合会が発表した財政意見は、軍備充実というと一見積極的なようであるが、実際は「消極的の最たるもの」であるとし、この「最も不生産的なる国防軍備に政費の大部分を偏注」している財政のあり方を鋭く攻撃した。さらに、大正元年10月の財政経済に関する建議でも「軍事費の過大と産業の過小」を批判するなど、第一次大戦による好況に直面するまでは、「軍事費は不生産的」とする考え方が商業会議所を中心に大きな世論をつくっていた。それは商業会議所が、地方の中小実業家の声を反映していたことのあらわれであったが、ともかくもこうした考え方は、山県などの軍国主義に対する根本からの批判を意味した。



二個師団問題と長州の陸軍


 同時にそこには、山県を頂点とする長州藩閥への反感も含まれていた。日露戦争後、アメリカ本国での日本人移民排撃問題、あるいは満州の鉄道を列国の共同管理のもとにおこうというアメリカの中立化提案などにみられるように、アメリカとの対立が意識されてくると、世論は限られた財政のなかでは、陸軍より海軍を重視すべきだと考える傾向を示した。最大の藩閥として支配機構のあらゆる面に大きな力をふるったうえ、陸軍をがっちりにぎっている長州閥への反感が、この世論の傾向をささえたのは当然であった。

  さて、大正と改元された直後の大政治問題となった2個師団増設は、山県の指導する軍備拡張計画から当然出てくる問題ではあったが、同時に長州閥の陸軍が試みたこうした世論に対する1つの反撃でもあった。ことの起こりは、先に述べたような財政難を打開するため、西園寺内閣は行財政整備を中心的な政策にかかげ、大正2年度予算でその実をあげるため、各省とも予算縮小を実行することとしたが、このさい、海軍だけには約6百万円の予算増加をみとめたことにあった。

  この形勢をみた陸軍側は、陸軍の経費を約2百万円削減し、この費用で朝鮮に2個師団増設するという案を立てた。それは、清朝滅亡後の中国情勢がどうなるかわからない、という危機感を背景としながら、直接には海軍に対する派閥意識、対抗意識にもとづいていた。



藩閥と軍閥

 当時、「長の陸軍、薩の海軍」というよび方が一般化していたことにもみられるように、陸海の対立は、薩長藩閥対立の最も典型的なものとなっていた。

  行財政整理をめぐる西園寺内閣のやり方は、陸軍側からすれば、薩摩=海軍閥を利用して山県閥に打撃を与え、政党の地位をいっきょに拡大しようとする陰謀と映じたのであった。この場合、山県閥は自分たちこそが、議会や政党の勝手なふるまいから天皇制を守っている中核であり、明治憲法体制の支柱なのだという意識を強くもっていた。したがって、政党に対する反感のほうが、派閥対抗意識よりもさらに強烈であり、海軍が政友会に利用されていると考えることによって、「長の陸軍」の闘争心はますますかき立てられることになった。こうした意識は政治の中枢に元老として位置している山県よりも、陸軍の中堅階層のほうにかえって強かったようにみえる。

  この問題についての陸軍側の態度を示す1つの文書があるが、それはまず、政府の態度を「一時海軍ヲ利用シテ先ヅ陸軍ニ強大ナル圧迫ヲ加ヘ、其要求ヲ却ケ、以テ政友会ノ威信ヲ示」し、「政党内閣ノ基礎ヲ固フスルコトヲ謀ル」ものだとみている。そして種々の場合を考えて対策を立てているが、西園寺内閣が総辞職する場合について、「其場合ニ於テハ内閣ノ辞職ヲ勅許セラレ、寺内大将ニ新内閣組織を御下命アラセラレテ然ル可キ旨、桂大将ヨリ発言セラレ、山県、大山両元帥之レニ和セラレ、井上候ノ賛成ニ依リ決定ス」という場面を想定している。元老たちにもこのようにうごいてもらうよう運動するということであろう。



山形・田中・宇垣


 この文書には署名がないが、おそらく当時、陸軍省軍務局長であった田中義一少将が中心となってつくったものと思われる。増師案をうけいれられなかった上原陸相は、12月2日、単独で天皇に上奏して辞表を提出し、ついで5日、西園寺内閣は総辞職した。翌日から後継首相を決定するための元老会議がくりかえされる。

  西園寺の留任、松方正義・平田東助・山本権兵衛などの案がいずれも相手にことわられ、最後に、大正天皇践祚の直後、8月13日に内大臣兼侍従長に就任したばかりの桂太郎が、ふたたび宮中を出て、組閣に着手したのは12月17日であった。

  この間に、陸軍の横暴への反対は、藩閥政治打倒・憲政擁護のスローガンの下に、実業家・新聞記者から、政友会・国民党におよぶ憲政擁護運動をはげしく燃えあがらせていた。これらの運動は当然のことながら、山県を倒閣の張本人とにらんでおり、したがって、山県の一の子分と目されている桂太郎の組閣は、護憲運動に油をそそぐ結果となった。増師問題を発端として、全般的な政治改革を要求する声がまきおこってきたわけである。

  こうした情勢を横目でにらみながら、田中義一は寺内内閣の成立に期待をかけ、西園寺辞職から桂決定にいたる12月4日から13日まで、連日、朝鮮総督として京城にいた寺内正毅に電報を打ちつづけ、後継内閣問題について報告している。朝鮮での武断政治できこえた寺内によって政党を押え、海軍を押えて一気に師団増設を実現したいという田中ら陸軍中堅層の希望は、山県もじゅうぶん承知してはいたが、彼は、事態はそう簡単に直線的に解決できるほどあまくはないとみてとっていた。

  このころ山県は同じ長州出身の後輩であり、4年間の留学で陸軍きってのロシア通といわらた田中を重く用いていた。其の関係は、一夜田中が山県の門をたたけば、翌日には田中の主張が山県の意見となるとさえ評されていた。さきに述べた帝国国防方針案にしても、山県は田中に原案を作らせている。田中はいわば陸軍中堅における山県・長州閥の中心であり、山県と連絡をとりながら師団増設案を実際的に推進したのも田中であった。山県は明治44年7月31日、軍備拡張意見書を首相におくり、これは自分の「遺言状」だと述べたが、その直後の9月1日、軍務局長に就任した田中は、宇垣一成を軍事課長に起用、このコンビで山県の軍拡意見を実現させようとするのである。

  しかし山県は、西園寺内閣総辞職後の情勢では、これら中堅層の構想をそのまま押し通すのは無理と考えざるを得なかった。元老会議は、後継首相として、山県の官僚畑での一の子分である平田東助をあげたが、山県はこのころすでに平田や桂らと陸軍の増師と海軍拡張をともに延期し、まず財政整理を実現する案を立てていた。国防会議などをつくって、陸海軍の国防方針を具体的に調整するまでは、陸海両省の整理を他の各省と区別せず、減税などの恒久的支出に振り向けないという条件で整理金額を一般会計に提出させるというわけである(大正元年12月10日、桂太郎あて山県有朋書簡『桂文書』)。



一歩後退

 しかしそれでも平田は組閣を断わり、12月21日、けっきょく桂太郎が第3次の内閣を組織することになった。彼は山形らとの打ち合わせどおりに陸軍の師団増設も、前内閣のみとめた海軍拡張費もともにご破算にすることにした。海軍の不満に対しては、勅語によって斎藤海相を留任させるという手段をとった。田中は桂内閣成立と同時に軍務局長から第2旅団長に転じた。次いで宇垣も、後述する軍部大臣任用資格の問題をめぐって陸軍省から去っていく。

  この事件は、元老としての山県の保護の下に育ちながら、明治国家形成の責任の一端をにない、国政全般と軍事的要請との関連につねに拘束されざるを得なかった山県とは異なった、新たな中堅層の成長を意味するものであった。すでに国家体制が規制のものとなっており、そのなかを上昇した彼らにとっては、規制の体制のなかでいかにして陸軍の要求を押しとおしていくかという意識が強くなっていた。それは派閥的意識としてあらわれてくる反面、のちには総力戦的思想をばいかいとして、「高度国防国家」=ファシズム化を準備する存在ともなっていくのである。

  しかし、後のことはともかく、ここで彼らが敗北し、一歩後退をしいられたことは明らかであった。そしてさらにもう一歩後退して戦線を立て直そうとし、みずから政党組織に乗りだした桂太郎も、高まっていく護憲運動、議会に押し寄せる民衆の大波の前にはあえなく、わずか2か月後の大正2年2月20日には内閣を投げ出してしまうのである。



軍部大臣現役制の改正

 師団増設で陸軍が敗れ、ついで長州閥の大物、桂太郎の内閣もつぶれることとなっては、山県も後退をつづけるよりほかになかった。薩摩出身の海軍の巨頭山本権兵衛大将が首相の座についた。

  桂が藩閥なら山本も藩閥ではないか、という批判が護憲運動をつづけてきた諸勢力のなかから強まったが、原敬は党内を押えて政友会と山本内閣の提携を実現した。政友会から原を含めて3人が入閣、また閣僚のうち、蔵相高橋是清、農商務省山本達雄ら銀行畑出身の大物が政友会にはいった。

  山本内閣は、7千人近い官吏の首切りなど懸案の行政整理を実現させ、さらに文官任用令と陸海軍省官制の改正を企図した。それらはいずれも、山県がかつての第2次内閣(明治31〜33年)答辞に改正を加えたものであり、それをこんどは山県の意見とは逆の方向に再改正を加えようというのであった。

  第2次山県内閣は第1時大隈内閣、いわゆる隈板内閣をついで成立したが、この大隈内閣はわずか4ヶ月で終わったとはいえ、自由・進歩両党が合同した憲政党をきそとする、はじめての政党内閣であった。閣僚は陸相桂太郎・海相西郷従道以外はすべて政党員であり、高級官吏にも多くの党員を任命した。

  政党内閣は君主制を弱め、政治を混乱させると考えていた山県は、大隈内閣が旧自由・進歩両党系の内紛で自滅すると、つぎの内閣を引き受け、政党勢力の拡大を予防するいくつかの措置をとった。

  まず、文官任用令を改正し、任用の資格を幻覚西、自由任用・特別任用の範囲をせばめ、高級官僚に政党人を起用することを困難にした。ついで陸海軍省官制を改正し、大臣の資格がこれまで単に陸海軍大・中将とされていたのに対して、さらに「現役」大・中将に限ることにした。当時、現役軍人は政治結社・集会に加入・参加を禁じられていたが、予・後備役に退役すればこの制限はなくなることになっていた。したがって政党が政権をとり、予・後備役の大・中将を陸・海軍大臣として、軍部の意思に対抗することが、理論上は考えられるわけであった。つまり、大臣の資格を軍中央部の統制化にある「現役」に限定しておけば、気に入らない内閣には大臣を出さないことによって成立をはばんだり、倒したりすることはできるのであった。そのうえ、山県は、これらの法令の改廃は枢密院の審議を経なければならない、という手つづきをも定めた。

  山本内閣の改正は、官吏の自由任用・特別任用の範囲を拡大し、軍部大臣の資格を予・後備役まで拡大するという、山県のかつてのやり方とはまったく逆の改正を企てたのである。



宇垣の怪文書


 当然各方面から強い抵抗が起こったが、そのなかで最もはでに動いたのは、宇垣一成であった。彼は増師問題でも、田中義一軍務局長を積極的に補佐したが、田中の下の課長にすぎなかったから、人目をひく存在ではなかった。

  しかし、こんどは局長を補佐するという形ではなく、自分で独自に「陸海軍省官制改正ニ対スル研究」(大正2年5月)という文書をつくってばらまいた。もちろんこれは無署名の「怪文書」であった。

  宇垣はそのなかで、四つの理由をあげて軍部大臣の資格拡大に反対している。第一は、政党政派に加入できる予・後備役の将官を大臣にすることは「軍人に最も忌むべき党派的思潮を醸成」する。第二に、予・後備役の将官は定年を過ぎた老人か、途中で事故を起こしたものであり、つまりは「軍事知識の欠陥を有する者」や「軍人としてまったく無能力、すくなくとも低能の部類に属する落後者」である。したがって軍事上の発展を害することにもなる。第三に、陸軍刑法の規定からいうと、予・後備役の将官は軍人でも準軍人でもなく、さらに上官でもない、このような大臣ができあがっては「命令および服従の関係を破壊」することになるし、また第四として「統帥権の作用を害す」ることにもなる、というのであった。それはいってみれば、軍隊を天皇の直属とし、他の政治機構から独立させるという、「天皇の軍隊」の原則からいえば、軍部大臣は現役でなければならないというりろんであった。だからこの理論を後退させることは、軍国主義の要素をそれだけ後退させることを意味した。

  山県を議長とし、山県の勢力で固められている枢密院は、文官任用令改正にも、陸海軍省官制改正にも強い難色を示した。しかし山本首相は、場合によっては、枢密顧問官全員の免官を奏請することも辞さない、という強い態度を示して、枢密院を屈服させた。宇垣も、怪文書の責任を問われて陸軍省を去っていった。

  この勝利を得た山本首相は、ついで大正3年度予算編成にあたり、木越安綱陸相が例の師団増設要求をもちだすと、これを峻拒し、そのため木越が辞職すると、自分の判断で当時の陸軍部内で不遇であった楠瀬幸彦を陸相に任命、海軍拡張に重点をおいた予算案をつくりあげた。

  ここまでの経過は、確かに山県系勢力にとっては大きな敗北であり、山県有朋の政治生活のなかの最大の打撃であったといってよい。そしてこのままでいけば、軍国主義の勢力は大いに弱まることは確実であった。山本権兵衛によって、陸軍を押えた海軍も、軍事的要請を第一義とする軍国主義がくずれてしまえば、その政治的発言が弱まることは明らかであった。そしてその間隙をぬって、政党の地位が確立することになったかもしれない。また、2個師団問題を強行した上原勇作―田中義一―宇垣一成のラインが、ふたたび陸軍中央に返り咲くことは困難になったかもしれない。

  しかし、大正3年(1914)にはいると、ドイツのシーメンス社イギリスのピッカース社などへの軍艦建造発注をめぐる海軍の汚職事件が発覚し、山本内閣ははげしい攻撃のなかにおかれた。

  議会は民衆に包囲され、政府系新聞社は焼き討ちを受け、さらにデモと警官隊衝突の流血事件が起こるというぐあいに、護憲運動の再現を思わせる光景が展開された。山県系勢力はいっきょに反撃に転じた。貴族院は予算案を不成立においこんだ。それは、平田東助・田健次郎・小松原英太郎らの山県の子分たちの画策によるものであった。3月24日、山本内閣は約1年1か月で総辞職した。

  元老会議は次期首相に大隈重信をおした。明治40年、憲政本党総理を辞して以来、政界を離れ、早稲田大学の発展に尽くしていた大隈を、国民は在野の政治家として歓迎した。しかし山形らが大隈に期待したのは政友会打倒であり、また田中義一らの陸軍中堅層も、大隈を味方にひきいれていた。田中は軍務局長を去ってのち、寺内内閣ができる場合には「大隈モ必ズ閣下(寺内)ヲ助クベク約束」していたと書いている(大正2年2月2日、寺内正毅あて書簡『寺内文書』)。

  大正4年(1915)3月の総選挙では、政友会は前回総選挙(明治45年5月実施)で得た209人の絶対多数からいっきょに108人へと半減した。それは山県直系の大浦兼武内相の指揮する露骨な選挙干渉の結果であった。またこの年10月、田中義一は参謀次長に、12月上原勇作は参謀総長に任命された。そして宇垣も1月に軍事課長にかえり咲いていくのである。元老山県は、護憲運動と政党の攻撃の前にゆらぎはしたけれども、まだ、反撃に転ずるだけの余力を残していた。

2元老政治へ