『人物・日本の歴史』13

1966年7月

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山県有朋と宇垣一成


表紙

古屋 哲夫

1二個師団増設問題
2元老政治
3軍国主義

4総力戦への構想

2元老政治
第一次大戦と山県
元老たちの不満
元老の顔ぶれ
元老とは何か
派閥網をつくる山県
政党に政権を渡すな
「三党鼎立論」と「中央突貫之策」


2元老政治



第一次大戦と山県

 大正3年9月24日、病の床にあった井上馨を、山県有朋、松方正義、大山巌、大隈重信という4人の客がおとずれた。大隈は5か月前の4月16日から首相の座についており、他の4人はいずれも元老の地位にあった。この日、大隈首相は、元老たちの不満を聞き、彼らをなだめるためにやってきたのであった。

  ほぼ2か月前の7月28日には、ヨーロッパで第一次世界大戦がはじまり、8月23日には日本もドイツに宣戦布告し、この大戦に参加していた。井上馨は大隈首相と山県におくった覚え書きのなかで「今回欧州ノ大禍乱ハ、日本国運ニ対スル大正新時代ノ天佑」であると述べたが、こうした感じ方は元老だけでなく、政府にも共通のものであった。日露戦争に勝った後、それにつづく新しい発展の機会をつかみ得なかった日本の指導者たちにとって、大戦は乗ずべき絶好の機会であった。

  しかし、では具体的にどんな手を打って、どんな獲物をとるかという点になると、さまざまな意見が出てくるのは当然であった。なにしろ、世界大戦という事態が起こったのは、世界史上最初のことであったから、戦争がどんな形で終わるのか見当をつけるのも困難であった。山県は大正4年2月の意見書の中で、この戦争が五分五分ないし四分六分の勝負で終わるのではないかと書いている。ロシア革命とドイツの革命という結末は、予感することもできなかったわけである。

  しかし、国家の中枢に位置し、内閣の後見人と自負する元老たちは、戦後のことまで考慮に入れながら、根本的な対外政策を立てようとした。その関心は、国際政治のなかでの日本の発言力を強めることと、中国における日本の勢力を伸ばすことという、二つの点に向けられていた。

  山県は第一の点では、日露協商を日露同盟にまで強めること、第2点では、列強が中国問題に力を抜いているあいだに、なんとか、袁世凱を日本の影響下におくくふうをすることを主張した。井上も日英露仏同盟をとなえたが、当面の策では山県と同じだった。ところが加藤高明外相のやり方は、日英同盟を利用して強引に参戦し、中国にいわゆる二十一か条要求をつきつけるという露骨な帝国主義外交であり、山県らの考えとニュアンスを異にしていた。



元老たちの不満

 しかし、元老たちを怒らせたのは、こうした政策の内容よりも以前に、加藤外相が元老たちに、なんの報告も、なんの相談もしないことであった。それまで、重要な外交文書は元老たちに送り、重要政策の立案にあたっては、事前に元老の意向をただすのが慣例となっていたが、加藤は、こうしたなんの責任も持たない元老の発言権を、責任ある外交当局に対する不当な干渉と考え、このようなやり方を断固やめてしまったのであった。

  大隈を熱心に首相に推薦した井上も、加藤をかえてはどうかと不満をもらし、山県は、われわれの勧告を干渉だといい、われわれに協議するのを秘密漏洩だというのなら、現内閣と絶縁するのほかはない、と激怒した。この状態をどうにかしようと大浦兼武がとびまわり、けっきょく、首相と元老の会談となったのであった。この会談で大隈はしきりと加藤を弁護したが、4人の元老にかこまれては、「首相の不行き届き」と頭を下げざるを得なかった。

  会談の結果つくられた覚え書きでは、「挙国一致の実をあげ」ること、首相と元老のあいだで一致した外交に関する意見は、加藤外相が「遵行」すること、外交上の大方針は、首相が決定し外相に実行させること、重要事件に関する外交文書は元老に示し、交渉に関しては事前に元老に協議すること、などがきめられた。また政策面では、日露同盟を結び将来の日英露仏同盟の基礎をつくること、アメリカと親善の方針をとること、中国の日本に対する不審と疑惑を一掃すること、および、「機会均等主義に反」しない範囲で利権の拡大につとめること、などの覚え書きがつくられた。

  つまり、大隈は元老たちに全面的に屈服し、加藤の元老排除をやめさせる約束をしたのである。しかし加藤は、元老との事前協議について「時間の許す限り」と条件をつけたりして抵抗し、その後の二十一か条要求についても元老たちにはかろうとしなかった。そして大正4年8月の内閣改造で外相の地位を去っていった。その直後の9月1日、元老井上馨が死去した。元老のなかでの山県の比重はますます圧倒的なものとなっていった。



元老の顔ぶれ

 このとき山県は77歳、元老は彼のほかに大山巌(73歳)、松方正義(80歳)、西園寺公望(66歳)の3人となった。ついで翌年大山が死去する。

  ところで、山県が元老とよばれるようになったのは、明治24年(1891)5月6日、首相(第1次山県内閣)を辞職すると同時に、「元勲優遇」の詔勅をうけて以来である。それ以前には、明治22年(1889)11月1日、黒田内閣の辞職とともに、黒田清隆、伊藤博文の2人が同様の詔勅をうけていた。山県は3人目の元老となったわけである。

  もっとも、このころには「元勲」とよばれるほうが普通であり、そこには維新の元勲というニュアンスが含まれていた。それが「元老」ということばに固まってくるのは、明治35年(1902)の第一次桂内閣の成立以後である。これまでの内閣総理大臣の地位には、明治維新の風雲をくぐり抜けてきた薩長両藩出身者が交代でついていたが、ここではじめて、彼らよりいちだん若い、桂らの層に首相の座が移される。以後、「維新の元勲」たちは、政治の裏面へ後退していき、元勲は元老となった。山県以後、松方正義・井上馨・大山巌、さらに桂太郎・西園寺公望が元老に加わっていく。



元老とは何か


 元勲がいつのまにか元老になったということは、元老が何か明確な規定にもとづく責任や任務をもたない、あいまいな「存在」だったことを示している。

  さきに述べた詔勅も、「特ニ大臣ノ礼ヲ以テシ、元勲優遇ノ意ヲ昭ニス」という、待遇を規定しただけのものである。したがって彼らがこの詔勅によって元老の地位についたというよりも、彼らが政治の責任ある地位を引いたのちも、その実力によって政治に関与することを、この詔勅によって合理化していったというほうが正しいだろう。そして彼らの地位が固まっていくのは、明治憲法の天皇大権の規定と、政治の実際をどうつないでいくかが不分明なまま残されていたからであった。そしてそのことが天皇制の特色をなすことでもあった。たとえば、元老のもつ最大の仕事は首相の選定にあったが、首相をどうしてきめるかについては、明治憲法では「天皇ハ文武官ヲ任免ス」(10条)という条文があるだけだった。そこで実際には、元勲クラスの政治家の相互推薦で首相が選ばれたし、重要政策も彼らのあいだで協議されることが多かった。藩閥政府とか有司専制とか非難されたのは、こうしたひとにぎりの政治家グループで政治の中枢を独占している事態をさしていた。

  そして彼らは、首相の地位を一世代若い桂らにゆずった以後も、こうした実質的決定権を手放そうとはしなかった。第1次桂内閣(明治34〜39年)は成立早々、日英同盟から日露戦争にいたる重大な事態に直面するが、これらの重要問題決定のさいには、元老と閣僚との会議が開かれるのをつねとした。そして、こうしたやり方が、その後の慣例となっていった。



派閥網をつくる山県

 しかし、一口に元老といっても、その政治的力には大きなちがいがあった。そして最大の実力者が、伊藤博文と山県有朋であったことは、当時から衆目の一致するところであった。伊藤の場合には、維新以来つねに政府中枢におり、明治憲法をつくりあげた構想力と、天皇から得た信頼とが、その地位をささえていたが、山県の場合には、彼が慎重につくりあげた派閥網が、その力のささえになっていた。

  山県は天保9年(1838)、伊藤は天保12年(1841)の生まれで、ともに長州藩尊攘派に加わったが、伊藤がすでに文久3年(1863)、井上馨とともにイギリスに留学し、いち早く攘夷思想を捨てたことが、維新後の中央政界で年上の山県に一歩を先んじる1つの原因であったと思われる。

  伊藤がロンドンにいたころ、奇兵隊軍監となった山県は、維新後も軍事畑にとどまり、明治4年(1871)7月14日、兵部大輔の地位に進み、以後は、徴兵令の作成とその実施に全力をあげることになるのである。ここで旧武士層の解体、新陸軍の建設を指導した山県は、初代陸軍卿となり、西南戦争では参軍として征討軍を指揮、翌明治11年(1878)、初代参謀本部長となり、15年の軍人勅諭制定に関与するなど、文字通り、陸軍建設の中心人物となった。

  明治23年、西郷隆盛以後、皇族以外では最初の陸軍大将となり、日清戦争では第1軍司令官、明治31年元帥府創設とともに元帥に任じられた。この間、桂太郎・児玉源太郎・寺内正毅・田中義一などいずれも長州出身の後輩を、彼の直系として育てあげた。

  しかしこれだけならば、山県自身、みずからを好んで「一介の武弁」と称したように、軍閥の巨頭というだけに終わったかもしれない。明治16年(1883)、それまで一貫して陸軍の要職を占めてきた山県は、内務卿となり、さらに18年内閣制度の創設により第1次伊藤内閣の内相に就任、つづく黒田内閣にも留任した。ついで彼自身が内閣を組織したさいにも半年ばかり内相を兼任した。つまり彼は6年半にわたり、連続して内務行政を指揮したのであった。

  この間彼は、伊藤の憲法制定に呼応して、地方制度の創設をになったのである。21年4月には市制・町村制が、23年5月には郡制・府県制が公布された。と同時にこの間に彼に忠実な多くの官僚をひき立てたのである。その顔ぶれは、陸軍の場合のように長州に限らなかった。白根専一(長州)・品川弥二郎(同)・清浦奎吾(肥後)・大浦兼武(薩摩)・平田東助(米沢)・芳川顕正(阿波)・小松原英太郎(備前)らはいずれも彼の直系であったが、そこにはもう長州藩閥というよりも、山県閥という色彩が明確になっている。山県の勢力は、陸軍と内務官僚という2つの柱を得て確固たるものとなった。



政党に政権を渡すな

 それは一面からいえば、彼の強烈な権力欲を示すものであったが、他面からみれば、天皇制を一般民衆の政治運動から守り、その安定した発展を期そうという意図のあらわれでもあった。山県の勢力は、やがて貴族院・枢密院でも圧倒的となっていった。陸軍・内務・貴族院・枢密院という山県の布陣は、軍国主義を中核に、民衆運動弾圧、政党排除の姿勢を示していた。もちろん、このように君主権を強固にするために民権を制限しようとする考え方は、山県に特有のものではなく、伊藤の憲法制定方針にもつらぬかれているが、伊藤が政党の役割りをしだいに重視し、みずから政友会組織にふみ切っていったのと異なって、山県は民権運動に対する敵意を、その後の政党に対しても延長していった。

  明治20年(1889)12月、条約改正問題をめぐって高揚した民権派の三大事件建白運動(高知県代表片岡健吉らが「地租軽減、言論集会の自由、外交の挽回」の3項をかかげて建白)に対して、内相山県は、皇居から3里(約11.8キロ)外に退去を命じる保安条例を施行して、苛烈な弾圧を加えたが、こうした発想法はその後の政党対策にもあらわれていた。

  開設された帝国議会では、民党のはげしい政府攻撃によって、早くも第2議会が解散されたが、このとき山県は松方首相に手紙を送り、解散につぐ解散をもって民党を圧迫することが必要だとしたのである。このときすでに枢密院議長の職にあった伊藤は、野にくだって政府党を組織する意図をもったが、山県らの反対で実現に踏み切れなかった。松方内閣はここで有名な大選挙干渉を行ったが、その責任者は山県直系の品川弥二郎内相であり、山県もこの干渉に賛成であった。しかし、せっかくの干渉のかいもなく、民党は依然として多数を占め、その責任をめぐる閣内対立で松方内閣は倒れてしまうのである。ここでも伊藤は選挙干渉責任者全員の処分を強く主張して山県と対立した。以後、伊藤と山県は対議会・政党政策をめぐって、対抗的な立場に立ちつづけることになった。

  山県は、議会をもっぱら操縦の対象と考えていた。おそらく彼は議会を国民の不満を発散させる場という程度にしかみていなかったにちがいない。重要な政策は彼らの主観でいえば、「忠君愛国」の政治家がきめ、議会で不満を発散させたあとは、どんな手段でもつかって強引に実現すべきだということになる。議会や政党に政策決定に参加させることは、彼には天皇制の後退としか考えられなかったのであろう。したがって、選挙干渉も買収も必要な手段であった。



「三党鼎立論」と「中央突貫之策」


 彼は2回にわたって首相の座についたが、最初の首相のときは、陸奥宗光農商務相・後藤象二郎逓相らの線によって、自由党土佐派を切りくずしたし、第2次内閣では、買収や利権の提供によって議会を切り抜けている。

  おそらくこの前後から「三党鼎立論」「中央突貫之策」といった対政党策が山県の持論として固まっていった。それは、伊藤が明治31年、民党合同―憲政党成立を目の前にして、ふたたび政党組織を提議し、元老会議で山県と激論し、山県が政党内閣は国体に反するとして猛反対したにもかかわらず、憲政党大隈内閣を実現させ、みずからも明治33年の立憲政友会創立に踏み切っていった、この伊藤のコースに対置して、構想されたものと思われる。正当を、利用すべきものと考えていた山県は、伊藤のような元老クラスの政治家はみずから政党組織などに手を出すべきでなく、そのような仕事は部下にやらせればよいという意見をもっていた。そして理想的な政局運営の姿は勢力伯仲した二大政党のあいだにキャスチング・ボートをにぎる第3党がある状態だとした。

  この第3党を、元老に忠実な政党に仕立て、政府はこれをひきい、「解散」をふりかざして二大政党のあいだに割ってはいれば政党に基礎をおかない政府でも、議会を押し通ることができる、これが山県が「中央突貫之策」と名づけたやり方であった。

  このためには2つのことが必要であった。1つは、選挙干渉の強行などによって絶対多数党をつくらせないようにすること、1つは、第3党を相当な勢力に維持することであろう。しかし、政党が、鉄道・港湾施設などといった地方的利益をかかげて地盤を拡大するようになると、たんに政府の手兵というだけの第3党を維持することは困難になるし、また政治や法律の知識が普及するにしたがって、選挙干渉をたびたび行うこともむずかしくなってくる。第1議会の大成会以来、中央倶楽部(明治42年)維新会(大正6年)などという山県の息のかかった小会派は、いずれも数年で消えてしまったし、明治42年(1909)の総選挙では、はじめて政友会の絶対多数が実現している。

  こうなってくると、山県の意見にまったく忠実であった桂太郎でさえ、日露戦争後は政友会との「政権たらい回し」を行うようになり、護憲運動で政友会に反対されると桂みずから政党組織にのりだすことになった。

  山県は、この桂の企図に正面切った反対はしなかったが、平田東助・田健治郎らの山県直系で貴族院から新党参加者を出さないように工作し、また新党立憲同士会がけっきょく官僚派と国民党の一部を得た程度に終わったのに対して、山県自身「想ふに漫りにこの大事を軽視し身一たび立たば転化の党人忽ち集り来る可しと早断せるものの如し」と批判していることからみても、山県が桂の政党づくりに賛成でなかったことがわかる。

  さらに、すでにふれた4元老と大隈首相の覚え書きにある「挙国一致」にしても、加藤高明を総裁とする立憲同志会にばかり依拠するな、という意味が含まれていた。しかし、さすがの山県も、大正7年(1918)、米騒動が全国的な規模で荒れ狂うという 事態を前にしては、政党の力をかりなければならなくなった。

  その結果、政友会総裁原敬が、陸軍・海軍・外務以外の全閣僚を政友会員から起用した政党内閣を組織したさいにも、山県は原と政治上なんら意見のちがうところはないとして、原の力量を非常に高く評価したが、ただ一点だけちがう点は、原が政友会を絶対多数党にしようとしているのに対して、多数党はつくらぬほうがよいと考えているところだとして、三党鼎立論を固執した。

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