『人物・日本の歴史』13

1966年7月

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山県有朋と宇垣一成


表紙

古屋 哲夫

1二個師団増設問題
2元老政治
3軍国主義

4総力戦への構想

4総力戦への構想
山県没後
大陸に渦まく陰謀
総力戦のショックと軍縮問題
宇垣の登場
陸軍革新と政治改革
軍国主義の再編


4総力戦への構想



山県没後

  「一介の武弁」と自称した軍国主義者山県は、しかし、猪突猛進型の軍人ではなかった。彼は何事につけ慎重に事にあたったが、ことに対外政策に関しては、国際的孤立を避けるため、列国との協調に心をくだいた。たとえば、日露戦争後、すでに見てきたような、中国に対する強硬政策を主張する場合でも、いつも、イギリスやロシアとの事前の打ち合わせ、アメリカとの対立を避ける必要を強調するのを忘れなかった。

  彼は日露戦争について、つぎのように書いている。「蓋し日本が欧州の強国と戦ふて勝利を得たるは、決して有色人の白色人より強きことを証明するものに非ず、寧ろ欧州文明の勢力偉大にして、善く之を学び得たる有色人が文明の潮流に後れたる白色人に打勝ち得ることを証明するものに外ならず」(明治40年1月25日付け『意見書』)。つまり彼は、アジア主義的な考え方を排して、日本の発展の原因を、西欧文明の吸収に成功した点に求めたのであった。そしてその文明とは、近代思想ではなく近代技術、それも軍事力の点からみた文明にほかならなかった。したがって山県にとって日本の発展とは、軍事力の拡大によって保障される、植民地支配の拡大を意味するものとなっていった。

  いわば山県の構想は、軍国主義的な植民地支配の拡大と、列国との協調という2つのバランスをとりながら、日本の発展の具体的なあり方をきめていこうとするものであった。そしてこのバランスを保つ道具として、日英同盟と日露協商をつくりあげたのである。そして、そうしたやり方が可能になったのは、帝国主義的対立が第一次大戦に向かって激化しているという状態を、利用したからにほかならなかった。

  列国とは具体的にはいずれも植民地支配の拡大を求める帝国主義国であってみれば、「列国との協調」と「植民地の拡大」とは本来矛盾するものであった。にもかかわらず、両者のバランスのあいだをいく山県の構想が成り立つことができたのは、ヨーロッパではイギリス・フランス対ドイツ、アジアではイギリス対ロシアという異なった対立があらわれ、この相違を利用することができたからであった。したがってドイツの敗北とロシア革命によって、帝国主義世界におけるアメリカ・イギリスの主導権が確立するや、これまで日本が利用してきた間隙が消滅してしまったのは当然であった。

  山県が対外政策のなかに統一しようとした「列国との協調」と「植民地の拡大」の二つの方向は、こうした情勢の変化によって統一の媒介場を失って分裂していかざるを得ない。この対外政策の再統一が、山県死後の指導層にとって、緊急な課題であった。しかし、それをさまたげたのは、ほかならぬ山県自身がつくり出した軍国主義対制であった。



大陸に渦まく陰謀

 さきに「帝国国防方針」に関連して指摘したように、山県は兵力量や用兵について政府の干渉を排除して、統帥権の独立を実現していった。そして植民地支配のための軍部出先機関がつくられると「統帥権の独立」は、ひいては、植民地支配における軍部の独走を生み出すこととなった。山県の存命中から、彼の意図をこえた独走がはじまっていた。

  たとえば右翼浪人の川島浪速らが画策し、参謀次長の田中義一がその支援をきめた満蒙独立運動は、大正5年7月、内蒙古の巴布札布(ばぶちゃっぷ)王が3千の兵をひきい、日本の陸軍予備将校の指揮下に南下するというところまで発展した。

  満蒙独立運動はけっきょく歴史の裏面にほうむられてしまったが、それは植民地支配をめぐって、軍部が独走する条件がつくられていることを示した点で、重要であった。まして、袁世凱の死後、軍閥割拠の形成が強まると、陸軍の現役将校がそれぞれの軍閥に、軍事顧問としてはいりこんでいく。そこにさまざまの陰謀が展開される条件がより強まっていくのである。山県が意図した軍部の独立の意図は、国防方針や兵力量がくずれ去ったあとに、軍部の独走の条件を残していく結果となった。



総力戦のショックと軍縮問題

 しかし、こうして独走の条件をもった軍部ではあったが、第一次大戦後の国際的孤立のなかでは、一定の後退を余儀なくされた。満蒙独立運動、西原借款、シベリア出兵と、第一次大戦中の企図がいずれも失敗に終わったあとでは、軍部としても体制の立て直しが必要であった。軍部も国際協調の方向に同調せざるを得なくなり、ワシントン会議に加藤友三郎・徳川家達とともに全権となった重原喜重郎が、やがて加藤高明内閣の外相となり(大正13年6月)、幣原外交の名でよばれる協調外交を展開することになる。

  だが、軍部に一定の後退をしいたのは、こうした情勢の変化だけではなかった。それは大戦後の軍縮を要求する国際世論であり、それと同時に、第一次大戦がそれまでと異なった総力戦として展開されたことから、装備の近代化を急務とする反省が軍内部から起こってきたことにもよっていた。大正7年(1918)に軍用自動車補助法、軍需工業動員法が制定されたことは、総力戦という新しい情勢から受けた軍部のショックを物語っている。軍需工業動員法は、20年後の国家総動員法(昭和13年4月公布)の先駆をなすものであった。そこには戦時下の民間工場の管理を規定していたが、日中戦争開始の翌年昭和13年(1938)1月はじめて発動され、ついで総動員法によって廃止されるという経過をたどっている。つまり、第一次大戦末期に、早くもつぎの戦争にそなえた体制が考えられた点が重要である。軍縮と軍備の近代化、この2つをうまく統一することが、ワシントン会議後の軍部の課題となった。

  ワシントン会議で成立したのは海軍軍縮だけであったが、陸軍軍縮も議題として討議されていた。それに呼応して、国内でも各派共同提出の陸軍軍備縮小建議案が衆議院で可決されるという情勢があらわれていた(大正11年3月25日)。陸軍もこうした内外の世論を無視するわけにいかなかった。大正11年(1922)6月成立した加藤友三郎内閣は、さっそく軍縮の具体化に乗り出し、7月3日、海軍軍縮計画、翌4日、陸軍軍縮計画を発表した。

  山梨半造陸相の下でつくられたこの計画は、将校1千8百人などをふくむ人員整理、兵卒の在営年限短縮によって節約された費用で、戦闘力の強化をはかるという考え方に立っていた。この山梨軍縮は、8月から一部が実行に移されたが、しかしこの程度の軍縮では不十分とする批判が強かった。この批判をうけて立ち、さらに軍縮を推進する役割りを引き受けたのが、宇垣一成であった。



宇垣の登場

 大正12年(1923)10月、宇垣は山本権兵衛内閣の田中義一陸相のもとに陸軍次官となり、ついで翌年1月、清浦奎吾内閣で、はじめて陸軍大臣のイスについた。以後昭和6年(1931)4月まで、田中内閣を除く第1次・第2次加藤高明、第1次若槻礼次郎、浜口雄幸の各内閣の陸相をつとめ宇垣時代を築いていく。

  こうした陸軍内部での宇垣の地位を確立させたのが、軍縮の強行であった。岡山の貧農の出身である宇垣が陸相の座にまでのぼったのは田中義一に重用されたことが大きな原因となっていた。さきにみたように、大正2年(1913)軍部大臣の資格問題で軍事課長を去った宇垣は、大隈内閣でふたたび軍事課長となって2個師団増設を実現、ついで田中参謀次長の下で参謀本部第一部長となり、大正7年(1918)日華共同防敵軍事協定に日本側代表として調印、大正10年(1921)には姫路の第10師団長、翌年教育総監本部長をへて陸軍次官になっている。

  宇垣の陸相就任をめぐっては、田中義一と上原勇作がはげしく対立した。けっきょく、後任者は前任陸相で推薦すべきだという理屈で、田中が自分の主張を押し通したわけである。しかし宇垣は、長州藩閥の後継者に甘んじようとはしなかった。陸相就任にあたって「余に対する内外の期待は可なり大である」(『宇垣日記』大正12年10月7日)「光輝ある三千年の歴史を有する帝国の運命盛衰は繋りて吾一人にある」(同前、大正13年1月1日)と日記に書きつけている自信家の宇垣は、軍縮を機に、老化した藩閥的色彩の強い将軍たちを、どしどし退役させていくのである。

  つまり、このことに象徴的なように、宇垣にとって軍縮とは、陸軍の革新にほかならなかったのであった。



陸軍革新と政治改革

 陸相就任と同時に、陸軍省に軍制調査会をつくって軍縮案の作成を急いだ宇垣は、軍事参議官会議を、5対4というきわどい差で切り抜けて、大正14年(1925)3月、4個師団(岡山・久留米・豊橋・高田)廃止という思いきった軍縮を断行したのであった。ときは加藤高明の護憲三派内閣―表面的には軍国主義に対する大正デモクラシーの勝利のようにみえた。しかし宇垣の意図はそんなところにはなかった。

  宇垣は軍縮の意図を「世論に先手を打つ」ことにあったとして、つぎのように述べている。
 
 「国民は山梨の整理案を不徹底、姑息なりとして満足して居らぬ。更に陸軍軍縮を絶叫するの方向、師団減小を遂行せずんば止まざるの傾向ありしに鑑み之れに先んじて英断を施し其減じたるものを改善に転用する。すなわち国民の輿論を国軍の革新に利用し指導したのである」(『宇垣日記』大正14年5月1日)

  では「革新」とはなにか。その第1の目的が、節約した費用による軍備の近代化におかれたことは、すでに述べてきたことからも明らかであろう。宇垣はその目標として、航空部隊・機関銃隊の増強、戦車隊・自動車隊の新設、無線電信の改良などをあげている。しかしそれだけならば、山梨軍縮の延長線にあるにすぎない。

  大正12年(1923)8月、宇垣は「陸軍改革私案」をつくり、そこで「軍備整備の方針」としてつぎの3項目をあげた。「@短期戦にも長期戦にも堪え得るの準備をなすこと。A一部の軍隊戦も国民皆兵の挙国戦をも為し得るの施設を為すこと。B武力決戦を主とすべきも経済戦争にも応じ得るの用意あること」。さらに「国家総動員の施設(第一着手として本省内に管掌の一課を設く)と不足資源の充実策を講ずること」をも考えている。

  つまり、宇垣軍縮は、国家総動員にたえうる体制をつくることをめざしたものにほかならなかった。この面での彼の考えは、マスコミを利用する軍国主義思想の宣伝にまでおよんでいた。彼が実現した最も重要なものは、中学校以上に現役将校を配属して軍事教練を行うことと、義務教育を終えて中学校にいかない青年のために青年訓練所を置いたことであった。青年訓練所でも軍事教育が重視されたことはもちろんである。この措置は、師団廃止によりあまってきた将校の就職を確保し、軍国主義思想をふだんから培養しておき、事あるときは、全国民をすぐに兵隊に活用できる、という一石三鳥の策として考えられたのであった。こうしたやり方が、大正デモクラシーの方向と逆であることはいうまでもなかろう。



軍国主義の再編

 宇垣は加藤高明内閣以来、憲政会(民政党)と協調し、田中義一政友会内閣への留任を拒否したが、しかし政党を好んでいたのではなかった。むしろ政党政治の崩壊を待ち、軍国主義体制をはかりたいと考えていた。たとえば、護憲三派が分裂して第二次加藤内閣が成立したとき、彼は「現在の正統派権勢名利を獲得せんとする我利我利亡者の集合体なり…(略)…政党の離合集散のごときは彼らの墓穴を掘りつつあるに放任し置きて可なり」(『宇垣日記』大正14年9月25日)と書いている。そして、天皇をたすけて挙国一致の実をあげる中心となるのは政党ではなく、平時は貴族院であり、有事は陸軍であるとした。現役将校の学校配属や青年訓練所の設置は、その日のために陸軍と青年の密接なつながりを確保するものであり、「余は之等の企画によりて全帝国を引締め、将又必要ある場合は全帝国を引連れて至尊の膝下に大活動を行はしめんと欲するのである」(同前、大正14年12月30日)とした。ここには、一朝事ある時の軍部クーデターを肯定する思想がみえてくる。

  このころから彼は、大川周明らの右翼とも接触しはじめるのであり、やがて昭和6年(1931)3月、満州事変の半年前に軍部クーデターの計画(三月事件)にまつりあげられようとすることになっていく。

  しかし彼は、いわゆる皇道派青年将校たちのような無謀な独走をするには、いささか慎重であった。彼は山県の築いた長州藩閥をも国防方針をもとりこわしていったが、国際協調、とくにアメリカ、イギリスとの協調と植民地支配をバランスさせようとする山県の発想は捨てきれなかった。

  彼は、中国における植民地支配の問題を、満州などにおける既得権益の確保だけに限ることで、米英との協調を実現しようという幣原外交には批判的であった。彼は満州を親日的な軍閥の支配下におくことを必要とした。それは具体的には、張作霖の満州支配を維持するような政策をとることを意味した。そして張作霖の力が、中国中央に乗り出そうとするまで強くなったときには、反張作霖の勢力を援助してこれを弱め、彼の満州支配が危うくなるときには張作霖を援助して補強するのがよいとした。宇垣は表面は幣原にしたがっているときでも、たえずこの方針による裏面工作をつづけていた。しかし、中国革命が高揚するにつれて、出先軍部は、こうしたいわば姑息な方針をこえて独走をはじめる。ここではもはや、国際協調が捨てさられるのは当然であった。

  そして同時に宇垣もファシズム主流から捨てられていった。宇垣は確かにファシストにかつがれる側面をもっていたが、それに乗り切れない側面をももっていた。

  いわば宇垣は、山県の軍国主義を昭和のファシズムにつないでいく役割りを果たしたことになる。いいかえれば、大正デモクラシーは山県的な軍国主義を倒しはしたが、宇垣的な軍国主義の再編を許したということになろう。そしてそれは、宇垣が自負した彼の能力の大きさによるというよりは、大正デモクラシーの弱さだったというべきであろう。