1966年8月

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日露戦争


表紙

古屋 哲夫

はしがき
1ロシアの極東進出と日本
2戦争に踏み込む
3満州が主戦場に
4決戦を求めて
5ポーツマス講和条約
6日露協約―結びにかえて―

1ロシアの極東進出と日本
中国分割の進行
北清事変
朝鮮支配をめぐって
日英同盟の成立


1ロシアの極東進出と日本


北清事変



義和団の蜂起

  日清恍争での清国の敗北をきっかけとして始まった利権獲得競争に、新たな転機をもたらしたのは、北清事変であった。

  列強の暴力的な利権獲取は、当然、中国民衆の反感と怒りをさそった。モれを組織したのは、 独自の武術、拳法をもった新興宗教、義和団であった。一九〇〇年(明治三十三年)二月、山東省で蜂起した義和団は、「扶清滅洋」−欧米帝国主義打倒のスローガンをかかげて北上し、急速 に勢力を拡大した。帝国主義の抑圧にたえかねていた清朝も、この運動に期待をかけ、しだいに 積極的支持を与えた。五、六月にかけて、義和団は北京、天津地方を支配し、北京の列国公使館 はその包囲のなかにおち込んでいった。義和団は、帝国主義の軍事力と直接に対立しなければならない局面を迎えた。

  すでに四月五日、イギリス、アメリカ、ドイツ、フラソスの四国は軍艦を大沽に派遣し、義和団鎮圧を清国政府に要求、さらに五月二十日には、北京駐在の十一ヵ国公使団が同様の要求をつきつけた。しかし、清国政府内部では、西太后をはじめとして、義和団を援助する方向が強まっていた。五月三十一日には、列国公使団の要請によって、ロシア、イギリメ、フラソス、アメリカ、イタリア、ロ本の六ヵ国の陸戦隊約三百五十名が北京に到着したが、この出兵に怒った清国側は、六月十九目、各国公使に二十四時間以内に北京を立ち退くことを要求、さらに二十一日に は、清国皇帝は北京に出兵した各国に対する宣戦の上論を発した。

  このときすでに、清国正規軍は義和団をたすけて列国軍隊との戦闘を展開していた。六月十日、 約二千の列国海軍陸戦隊が編成され、十七日大沽砲台を占領したものの、清国軍にはばまれて前進することができなかった。義和団と清国軍をたたくためには、、もっと強力な陸軍部隊が必要であった。それは列強の一角にくい込もうとしていた日本にとって、願ってもない好機会にちがいなかった。



列強の一員に加わる

  六月十五目の臨時閣議は、まず小部隊の派兵を決定、福島安正少将のひきいる歩兵二個大隊が二十四日には大沽に上陸した。このとき、日本の指導者の関心は、義和団の蜂起そのものよりも、列強にいかに日本の力をみとめさせるかという問題に向けられていた。

  このときの陸軍大臣柱太郎は、今回のような数ヵ国の連合軍が成立したことは歴史上初めてであり、また日本がこうした同盟に参加するのも初めてである、そしてこの列強連合軍への参加こそ「将来東洋の覇権を掌握すべき端緒」になるにちがいないと考えた(「桂太郎自伝」『桂文書』)。いま派兵する軍隊は「列国の伴侶となる保険料」なのだと彼はいう。彼は福島少将に対して、 「子(福島)は列国に保険料を支払はんが為に赴くなり、宣く往て戦死すべし、子が小枝隊を率ゐて敗滅するとも、将来日本に対して偉大の功たるを失はざるべし」と訓令したという。そしてさ らに、北京の公使館の救出を急ぐとすれば、当然、地理的にいちばん近い日本に、列国が大部隊 の出兵を依頼してくることが予想された。

  その予想どおり、六月二十三日、七月三日、七月五日の三回にわたり、イギリスから日本の出兵を求める通牒がもたらされた。三国干渉以来痛切に味わってきた孤立感は、これでいっきょにふきとばされた。七月六日、第五師団の出動を決定した閣議決定は、「地理ノ便」を有する日本 が、列国の援軍の到着するまえに、大兵を送ってこの乱を平定すれば、その功績はおおむね日本 に帰し「各国ハ永ク我ヲ徳トセン」と述べている。この文面には列強の仲間入りをはたし、しか も恩を売る立場を得た、明治政府の指導者の喜びがあふれていた。そしてこの機会に、日本の武力で徹底的に義和回のような反帝国主義の民族運動を撲滅するために、さらに二、三個師団の動員をも準備した。



極東の憲兵

  同時にそこにはもしここでぐずぐずして敗れるようなことがあれば、「四方ノ乱徒相競フテ起り……全清国ヲ挙ゲテ無政府ノ境域ト化シ去ルベシ、此時二当テハ 列国大兵アリト雖モ復タ容易二之ヲ鎮圧スル能ハザルナリ……南清亦其ノ禍ヲ被ルニ至ラバ我国民経済ハ過半敗亡二帰シ、財政亦遂二其ノ累ヲ免ルルコトヲ得ズ」と述べているように、反帝国主義運動拡大の可能性に対する認識が根底におかれていたのであった。
         
  いいかえれば、反帝国主義的民族運動の抑圧者としての実力を示すことで、帝国主義陣営の一翼に参加したのであり、明治政府の指導者たちもこの点を明確に自覚したのであった。たとえば、 日露戦争直後の明治三十九年五月二十二日、元老たちと閣僚との満州問題にかんする協議会でも、 日本は清国の指導者となり、第二の義和団事変を予防しなければならないという点が強調されているが、さらに辛亥革命が始まった直後の明治四十四年十月二十四日の閣議決定では、つぎのよ うにより明確に述べられている。

「一旦不測ノ変ノ此(中国)地方二起生スルニ方リ、之二対シテ応急ノ手段ヲ講ジ得ルモノ、帝国ヲ措テ他二之ヲ発見スルコト能ハズ、此事実ハ帝国地理上ノ位置並二帝国ノ実カニ照シ更二疑ヲ容ルベカラザル所ニシテ、一面帝国ノ東亜二於ケルー大任務モ亦之二存スルモノト云ハザルベカ ラズ、帝国ハ今後自ラ叙上ノ地位ヲ覚認シ且之ヲ承認セシムルノ方策モ亦今ヨリ是非共之ヲ講ゼザルベカラズ」

  たしかに、「極東の憲兵」という目本に対する批評は、日本帝国主義のこうした側面をうまく言いあてていた。



北清事変の講和

  その最初の「憲兵」の役割を担って、広島の第五師団は七月十八日太沽に上陸、二十一日天津に到着、列国連合軍の主力となり、八月十四日には北京を占領した。

  宣戦の上論を発した清国皇帝も、全面的な抗戦に出る準備も力もなく、十月ハ目には早くも北京で講和のための列国会議が開かれ、十二月三十日には清国側は基本的な講和条件を受諾、翌一九〇一年九月七日「北清事変に関する最終議定書」が調印された。

  清国は、イギリス、ドイツ、フランス、ロシア、アメリカ、オーストリア=ハソガリー、イタ リア、オランダ、ベルギー、スペイン、日本の十一ヵ国に対し、三十九年に償金四億五千万海関両を支払い、公使館に護衛兵を常置する権利を与えただけでなく、北京とシナ海の間の自由交通 を確保するためという名目で、天津、塘沽、山海関など、列国相互の協議で勝手に決めた地点に 駐兵する権利をもみとめねばならなかった。さらにまた通商条約修正の要求に応ずるという義務 もおわされた。北清事変がこのまま終ったとしても、その半袖現地的地位はますます深められることになった。しかもそのうえ、ロシアがこれとも別に、満州にかんする要求を出してくるので あった。

  日本は初めて講和会議で欧米諸国の側に席を占めた。モれはいいかえれば、極東における帝国主義の側の一員になったということでもあった。それだけでも明治政府にとって非常に大きな出来事であった。しかし同時に、日本が大きな役割をはたせたのは、欧米側についた極東における唯一の国家という地理的な地位が大きくものをいった「応急措置」だったからにほかならず、こ れをきっかけに本格的な中国分割が始まったならば、大きな分け前を期待することは困難であった。だから列強と協調して、早く事態を平静にかえすことを基本とした。講和交渉の始まった十月には、出兵軍の半数をいち早く撤兵させたのも、このような立場からであった。



厦門出兵事件

  しかし同時に、列強との協調の範囲内で、なんとかこの機会に、利権獲得なり朝鮮支配なりといった目的のために、日本独自の行動をとりたいという欲望は政府にも民間にも強まっていた。八月二十日付の山県首相「北清事変善後策二関スル意見」でも 中国分割に備えるために南清に「勢力範囲ヲ拡張シ其方域内二在テ軍隊ヲ駐屯シ、鉄道ヲ布設シ鉱山ヲ採掘スルノ特権ヲ要求スベキナリ」と述べている。

  その二目後の八月二十二日、大山巌参謀総長は児玉台湾総督に対して、機会あれば厦門占領の 必要ある旨の奉勅命令を発していた。そして二十四日には、厦門の東本願寺布教所が火事で焼失すると、暴徒による焼打ちだとして、さっそく軍艦和泉から陸戦隊が上陸、二十八日には台湾から歩兵二個中隊が厦門に向け出発した。しかしこの間、現地の英・米・独領事がすぐさま陸戦隊上陸に抗議し、二十九日にはイギリス公使から正式の抗議がもたらされたため、政府も急に厦門派兵の中止を命じ、事件はこれ以上進展しなかった。この間の真相は現在でも十分明らかではないが、現地では火事は焼打ちではなく、日本側が故意にやったのだという風説がもっぱらだとの報告ももたらされており、駐兵権獲得などをねらった陰謀が、イギリスなどの抗議にあって、とりやめになったということではなかったかと思われる。つまり、なんらかの利権を獲得して中国進出の遅れをとりもどそうという要求は強かったものの、他の列強との正面衝突はできるだけ避 けようというのが、この時期の政府の基本的な態度であった。



政友会成立の意味

 国内の政治的世論も、海外進出と利権獲得を要求する声を高めていた。日清戦争後には、三国干渉−列強の中国侵略という事態を眼の前にみて、大陸政策への関心が高まり、「民力休養、政費節減」−つまり「安価な政府」を要求する形で展開さ れた自由民権運動の流れをつぐ民党の政治批判が影を消し、かわって、政府の対外政策をより積極的、強硬に行なえというかたちの批判と、地方的、あるいは産業部門別の経済的要求を政府につきつけるという活動とが、政党の政治活動の型となってきていた。こうした政党活動の性格転換の画期となった政友会が、北清事変のさなかに成立したことも偶然ではなかった。

  義和団鋲圧の見通しがついた九月十五目、伊藤博文を総裁とする立憲政友会の亮会式が行なわれた。自由党の後身である憲政党はみずから解党して政友会にはせ参じていた。伊藤は前年清国 察から帰ると、新政党組織のための遊説を精力的に行なっていたが、彼の演説の一つの力点は、 経済的な海外進出の重要性を説くことであった。最近の戦争は経済的利権をめぐる戦争であると述べた伊藤は、帝国主流時代の基本的な特徴を認識するとともに、帝国主義政策を遂行するために実業家を中核とする政治勢力を結集、拡大し、安定した政府をつくることが必要と考えたのであった。政友会結成にあたって、各地の商業会議所会頭、資本金十万円以上の銀行頭取、資本金 五万円以上の会社社長などに入会勧誘状が発せられているのは、伊藤のこのような意図によるものであった。

  憲政党の政友会参加は、帝国主義政策遂行を支援することを意味していたわけである。政友会機関誌の論説は、今や帝国主義は世界の大勢であり、この大勢に遅れないように万事を打算せよ、 と吽んでいた(「政友」六号「時事大観」、十二号「時務大観」)。



朝鮮占領論

 政友会発足の十日後には、こんどは貴族院議長の職にあった近衛篤麿を会長として国民同流会が発足した。これは政党ではなく、対アジア政策について関心を有する人々を広く集め、「支那保全、朝鮮扶液」をスローガンとするものであった。改進党の系統をひく憲政本党はこの会に同調的であり、犬養毅や大石正已などが参加した。こうした政治家のほかに、言論、新聞人、学者などを加え、その中心には、すでに近衛を中心に東亜同文会をつくっていた″大陸浪人″と呼ばれる人々が位置していた。

  このグループの特徴は、中国に対しては、劉坤一、張之洞、盛宣懐などの勢力を結びつけて親日派を拡大し、これと結んで日本の勢力をのばす必要があり、日本の出兵もこれら親日的になりりる勢力の不評を買わない範囲に止めるべきだとし、他面朝鮮に対しては強圧策をとることを主張している点にあった。彼らのアジア観には、中国の大国としての潜在的な力に対する高い評価 と、朝鮮蔑視が同居していたと思われる。近衛ら東亜同文会の人々は、北清事変の機会に朝鮮占領を行なうことを議論しあっていた。たとえば北清事変に大兵を送って列国をたすけるなら「其条件として朝鮮占領を承認せしむべしとの説ありしも、夫は不穏当なりとて決せず」(「近衛篤麿日記」明治三十三年七月四目書)とか、「南清も追々不穏となり、劉、張等も抑へ兼ぬるに至らんと思はる。これ今夕会合者一同之意見なり。又韓国に派兵之導火線として郡無石大刀会首領にして昨年来りを満州に放ち松倉善家を同行せしめんかとの説あり同地土民を煽勤し、時として韓国に進入せしむる事等の話あり。余も同意し先 づ準備金三千円位は余に於面支出之見込ありと告げ、井手、中西をして郡に相談せしむる事とす」(同前・八月六日)とかいった具合である。

  政府の方でも、さきの山県首相の北清事変善後意見をみると、「宜ク此ノ好機二乗ジテ朝鮮ヲ占領シ、露ノ南下ヲ未然二禦グベシト論者ノ言、実二然リ」と全面的に賛成しているが、「南方経営」を先にするとしていた。しかし厦門出兵失敗のあとでは、この企図を実行する機会はなか った。講和会議が開始されると、日本だけの抜け駈けの陰謀が成立する余地はなくなった。



ロシア、満州を単独占領

 日本がなにもできないでいるのに、ロシアのほうは、満州支配という既成事実をつくりあげようとしていた。六月ごろから義和団の勢力はヽ北京をこえて満州にも拡がり、ロシアが建設中の東清鉄道への攻撃もあらわれ始めた。とみるや、ロシアは、七月三日、清国軍による黒竜江の対岸ブラゴヴェシチェンスクに対する軽微な砲撃事件をきっかけとして、いっきに満州全土を占領してしまった。そしてロシアはこの機会に満州の実質的保護領化を進めるのであった。

  もはや、日本人が満州に潜入することすら困難になってしまったことは、参謀本部の指揮下に スパイ活動に従事した石光真清の手記にくわしく述べられている(『畷野の花』)。

  派遣軍の急迫な撤退によって、中国における帝国主義国相互の現状維持を基本にしようとした明治政府の意図も、「清国保全」を叫ぶ東亜同文会の声も、ロシアの侵略の前にはむなしかった。

  帝国主義の侵略の激化が、民衆の抵抗運動を呼び起こし、この民衆の反抗をきっかけとして侵略がさらに強められ、そこから帝国主義相互の対立が激化する、という典型的に帝国主義的な政治過程が、日本側の予想をこえたスピードで展開し始めていた。もはや、日本だけでこれに対処 することは困難になってきており、列強相互の対立を利川することに力を入れるほかはなくなってきた。



英独揚子江協定

  北情事変に対する列強の出兵が、中国分割を進めるきっかけとなる危険をもつことは、最初からだれもが感じていたことであった。したがって列強が出兵とともに相互に牽制し合う動きを示したのは当然であった。そしてモの視線は、もっとも大きな軍事力を清国周辺にもつ日本とロシアに集中されることになった。

  最初に声をあげたのはアメリカであった。1900年(明治33年)7月5日、国務長官ジョン・ヘイは、清国の領土保全、門戸開放を求める通牒を列国に発した。それは2年前の1898年(明治31年)、独、露、英、仏などの租借競争にさいして発せられたものと同趣旨のものであり、中国に軍事力を送ることが困難なアメリカの立場を示すものであった。イギリスと日本も これを支持した。ロシアも連合軍が北京に進入した10日後の8月25日には、満州占領は一時的な措置であると弁明する声明を発した。

  しかし、満州占領の事実が続くかぎり、列国の危惧も消えはしなかった。列国公使の講和会議が初めて聞かれてから1週間後の10月16日には、清国の領土保全、門戸開放を唱える英独協定 が調印され、29日には日本もこれに参加した。揚子江協定と通称されたこの協定は、(一)清国 の河川および沿岸諸港を何国という差別なく、諸国民の正当な経済活動に対して自由に開放する こと、(ニ)北清事変を利用して清国領土内に領土的利益を獲得しないこと、(三)第三国が領土的利益を獲得しようとするときは、両国は対抗措置につきあらかじめ協議をとげること、(四)この協定の主義を他の関係国がみとめるよう勧誘すること、という四カ条から成り立っていた。

 イギリスも日本もこの協定が、ロシアの満州占領をやめさせる力になることを期待した。
 しかしドイツは、華中にかんしてイギリスと協定することは必要であっても、満州におけるロシアの行動に対抗する考えはなかった。ロシアの満州領土化への意図が明らかになってきた1901年2月22日、ドイツ外相は、駐独井上公使に「ドイツは満州にかんして利害関係が少な いゆえに、いっそう大なる利害関係を有する他の列国が、本件にかんし行動するまで待つことにしたい」との意向を明らかにし、ついで3月15日、ピューロー首相は「英独協定は満州に適用 しない」と言明した。これでこの協定が、ロシアに対しては役に立たないことが明らかとなり、イギリスも日本も失望せざるを得なかった。

  といっても、イギリスも日本も、ロシアによってなにか具体的な利権を踏みにじられたわけではなかった。満州そのものに利権をもたない点では、両国ともドイツと変わりはなかった。イギ リスがおそれたのは、満州を支配したロシアの勢力が、長城線をこえて南下することであった。

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