1966年8月

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日露戦争


表紙

古屋 哲夫

はしがき
1ロシアの極東進出と日本
2戦争に踏み込む
3満州が主戦場に
4決戦を求めて
5ポーツマス講和条約
6日露協約―結びにかえて―

2戦争に踏み込む
ロシア、満州にいすわる
行き詰る日露交渉
宣戦布告


2戦争に踏み込む


ロシア、満州にいすわる



ロシアの撤兵条件

 
日英同盟の成立は、たしかに、ロシアに対する圧力となった。同盟調印から約2ヵ月後の4月8日、ロシアが清国に満州を返還する条約に調印したことは、少なくともその直接の成果とみられた。

  一方で日英同盟の交渉を進めるかたわら、それと並行して、日英両国は、ロシアの要求を強い態度で拒絶するよう、清国を支援する行動を続けていた。

  ロシアは、1901年4月、満州撤兵の代償を求めるための清国との交渉を、日英米三国の抗議によって打ち切って以来、満州を占領したまま北京の講和会議のなりゆきを見守るかたちであった。もちろんロシアも、列国の一員としてこの会議に加わっていたが、その主要な関心は満州に向けられていた。

  9月には、清国は賠償金支払い、北京―天津間における註兵権、通商条約の改訂などをみとめて講和議定書に調印したが、こうした北清事変の解決とともに、ロシアとしても満州占領をなんらかのかたちで解決する必要に迫られていた。

  10月5目、北京駐在のロシア公使は、清国に対して、撤兵条件にかんする新しい提案を行なった。それは、撤兵時期を盛京省以南からは1901年中、古林、黒竜江両省からは1902年から3年、つまり3年間に全部の撤兵を行なうこととするなど、先の条件よりいくぶん緩和されてはいたが、なお、満州における清国軍の数、配置をロシア側に通知すること、この軍隊に大砲を 装備してはならないなどの条件がつけられていた。この条件によって、満州における軍備が実質的にロシアの意のままになることは明らかであった。また、山海関−牛荘鉄道の返還については、 費用の賠償、線路護衛のために外国兵を用いないこと、外国技師を使用しないこと、新民屯以北および遼河以東に線路を延長しないことなどの条件をつけていた。

  さらに利権問題については、列国の反対を避けるために、露清銀行と清国政府のあいだの契約というかたちをとり、形式上政府間の交渉から切り離していた。この契約案は、満州開発は原則として清国と露清銀行との協力で行なうこととし、清国政府または清国人の設立した会社の金銭事務は露清銀行に経理させること、清国利で手をつけない事業は、露清銀行に優先的に許可すること、などの特権を求めるものであった。

  これらの内容を日本側は、1901年10月から翌年1月にかけて知ったが、それをすぐに、イギリス、アメリカ両国政府に知らせ、両国と協力してその成立を妨げようとした。

  まず10月21日、日本政府は、清国政府に対して古林、黒竜江両省からの撤兵も条約締結後1年以内とすべきであり、また軍備にかんする制限は、ロシア軍撤兵と同時に効力を失うよう規定すべきであると申し入れた。またイギリス政府は、ロシア政府に対して、ロシアが、調印されたばかりの北清事変講和議定書に定めた以上の賠償金をとろうというのは、列国の協定の意に反するものだと抗議した。ついでイギリス政府は、清国政府に対して、清国が露清銀国との契約をみとめるのならば、イギリスもロシアと同様な利権を要求しなければならないと通告した。アメ リカ政府もまた、清国とロシアの双方に、強硬な抗議を提出した。



満州還付条約

 日英同盟が調印された1902年1月には、他方でこうした露清協約への抗議を日英米三国共同で行なっている最中であった。

  2月12日、栗野公使から日英同盟の条約文を示されたラムスドルフ・ロシア外相は、非常に驚いたという態度を示し、条約中に戦争にかんする条項があるのははなはだ遺憾にたえないと述べたが、ともかくロシアにとって日英同盟の成立が一つのショックであったことはまちがいない。

  3月16日、ロシアとフランスは、日英同盟に対する宣言を発表し、表面的には日英同盟の領土保全、門戸開放の主義に賛成しながらも、清国における両国の特殊利益がおかされるときには防護手段をとるとして、露仏同盟が極東でも有効であることを示した。しかし、フランスに、イギリスとの戦争の意思がない以上、露仏同盟の威信を保つという以上には出なかった。

  ロシアは、すでに日本の示唆に従って清国から出された修正案に妥協して、満州撤兵に同意する態度を決めていた。4月8日、ロシアは清国とのあいだの、いわゆる満州還付条約に調印した。

  条約は、ロシア軍の撤兵を三期に分け、それぞれ6ヵ月ずつの期間をとり、合計1年半で撤兵を完了することとした。第一期は、盛京省の遼何の線以南から、第二期は盛京省残部と古林省から、第三期は黒竜紅省から、というぐあいである。その条件として、ロシア軍が撤兵するまでは、満州における清国軍の兵員数と駐屯地は、ロシア軍務官との協議によって決定すること、撤兵完了後は清国側の自由となるが、ただし、その後も兵員の増減はロシア側に通告すること、清国はロシア軍が撤退した地域を他の国が占領するのを許さないこと、南満州での新たな鉄道建設は、あらかじめロシア政府と清国政府のあいだで協議してからでなくては行なえないこと、清国に返還された欽道について、ロシアが経営、修繕のために費した費用を償還すること、などが規定された。

  露清銀行に特権を与える契約案は結局調印されずに終った。

  日本政府は、この満州還付条約を支持し、なるべく早く調印するよう清国にすすめた。イギリス政府は、この条約でもなおロシアに与える利権が大きいと考えて再修正を望み、日本の態度に若干不満の意をあらわしたが、小村外相は、多少の不満があっても、ロシア軍を早く撤退させることが重要だと主張していた。

  ロシアは、この条約に規定されたとおりに、半年後の10月8日までに第一期撤兵を実行した。この条約どおりさらに撤兵が続けば、日英同盟によって平和を維持するという、小村らの構想が実現するはずであった。対露強硬政策を唱えた国民同盟会もこの様子をみて解散した。しかしもしそれが実現したとしても、満州がロシアの勢力範囲に収められることは明らかであった。そこで、 満州をロシアに独占されないための足場をつくり出すことが、日本の外交のつぎの課題となった。



日清通商条約の改訂

 満州還付条約が調印されたのをみると、日本政府はすぐさま北清事変講和議定書に規定された権利を行使して、通商条約改訂の交渉を始めた。条約改訂のねらいは、清国内における経済活動の条件を拡げる点にあったが、同時にこれまでほとんど日本人の入り込んでいない満州へ入る足場をつくり、ロシアの実質的領土化に対抗することを も意図した。

  たとえば外洋航行船舶による内河航行権をみとめろという要求にも、そのような意図が含まれていた。10月29日、日本側委員から提出されたこの要求についての説明書にも、東三省に各国の利害を存在させて、一国の独占を防ぐことが急務であると強調し、現在の東三省ではロシアが勝手に行動しロシアがみとめなければ鉄道も敷けない情勢であるが、これを変えてゆくには東三省に各国の利害関係を引き入れなければならない、そのためには内河航行事業の拡張が重要ではないか、と述べている。また、開市開港場増設の要求の中に、長沙、成都などとともに、奉天と鴨緑江の入口にあたる大東溝の2カ所を含ませたことも同じ意図からであった。

  この条約改訂交渉にあたって、小村外相はとくに、イギリス、アメリカの両国と密接な連絡を とるように命じていた。結局イギリスは、華中、華南の問題や、清国内地での課税問題などを中心に、いも早く1902年9月に調印を終えたので、あまり協力の場面もなかったが、アメリカは、満州にも関心を向け、ハルビンと大孤山の開市開港を要求し、この点で日本と共通の立場にたつことになった。

  ところで、清国側は、初め8月6日の日本委員との第二回会合では、満州の開市開港には賛成するが、このことがロシアの満州撤兵以前に知れわたると、撤兵開題に影響しはしないかと心配だと述べていた。しかし、清国側もロシアによる植民地化を防ぐために、満州に列国の利害を引き入れるという考え方には賛成であり、日本側は、満州の二地を開くのは商業のためのものだから各国とも意議のあるはずはない、思いすごされることもなかろうという説明を繰り返した。

  だが、このような満州に対する要求は、ロシア側からみると、ロシアが後退するにしたがって、他国が満州に入り込んでくるという印象でうけとられたのであり、ロシア内部に、満州撤兵に反対する勢力を増大させるきっかけとなるものでもあった。条約が調印されたのは翌年10月、もう 開戦につながる日露交渉が始まっていた。



第二期撤兵不履行

 1903年(明治36年)4月8日、つまりロシアの第二期満州撤兵の期限が近づくにつれて、ロシア軍の動静にかんするさまざの情報が伝えられ始めた。

  3月には、一方で牛荘などからは、ロシアの撤兵準備が進められているという報告ももたらされたが、他方では、ロシア軍がむしろ遼陽から鴨緑江の方向にあたる鳳凰城に向けて進出しているという情報も入ってきた。また4月に入ると、ロシア兵が森林事業のため鴨緑江岸に到着したとの報も伝えられた。さらには清国駐在のロシア代理公使は内田公使に、日本は満州に開市開港場をつくるよう要求しているというが本当かと質問し、満州は日本が手をつけないように希望すると述べたという一幕もあった。ロシアが満州で新たな積極政策に出るかもしれないという気配が感ぜられた。

  はたして第二期撤兵は実行されなかった。4月8日、奉天のロシア軍は、いったん停車駅に向かって行軍を開始したが、結局もとの兵舎に引き返してしまった。

  撤兵期限を10日過ぎた4月18日、北京のロシア代理公使は清国政府に対して、七ヵ条の新しい要求を提出した。いち早くこのことを聞きつけた内田公使は、19日小村外相にあて打電、ちょうど小村は他の閣僚とともに第五回内国博覧会開会式に出席のため大阪にいたが、すぐさま、20日、清国側にロシアになんらの譲与も与えないように警告し、ロシアに回答する前に日本政府と協議するよう説得せよと訓令を発した。そして21日には、桂首相、伊藤枢密院議長とともに山県有朋を京都の別邸無隣庵に訪問して対策を打ち合わせた。

  清国側は日本の要求に応じて、4月25日、ロシアの新提議を内示したが、それはつぎのような内容であった。

 

(一)、ロシアが清国に返還するいかなる土地も、とくに営口と遼河の水域は、どんな事情があっても、他の国に売り渡したり、貸与したりしてはならない。もしそのようなことを行なえば、 ロシアヘの威嚇とみなしてロシアは利益保護のため断乎たる措置をとるであろう。

 

(二)、蒙古における現在の政治組織を変更しないこと、それを変えると人民の暴動などの騒乱が起こるおそれがある。

 

(三)、清国はロシアに予告せずに、満州に新たに開市開港を行ない、外国領事の駐在を許してはならない。

 

(四)、清国が行政事務のため傭う外国人の権力は北部地方(直隷省をも含む)におよんではならな い。もし清国が北部地方についても外国人傭用を望むときは、ロシア人管理のもとに特別の官局を設けねばならない。清国がもし鉱山事務のため外国人を傭う場合にも、満州と蒙古にかん してはロシア人技師にまかせらるべきである。

 

(五)、ロシアが北京―営口問の清国の電柱の上に架設した電信線は、ロシアが盛京省に有する電信線と連結し、維持されなければならない。

 

(六)、営口の税関をロシアが返還してのちも、収税金は露清銀行に預け入れなければならない。

 

(七)、満州占領中、ロシアの人民や会社が正当に獲得した権利は、撤兵後も有効とすること。流行病の蔓延を防ぐため、宮口に検疫局をおき、税関長と医師はロシア人を採用すること。


などである。

  この要求には、満州からさらに蒙古まで含めて、どんな権益をもロシア以外の国には与えまいとする姿勢があらわれており、日本が企てていた開市開港場の設定や内河航行権などで満州への足場を築こうというやり方にまっこうから反対するものであった。

  小村外相はこのロシアの要求をすぐさま、イギリス、アメリカ両国に通告、両国政府もこれに応じて強い抗議を行なった。この日英米三国の共同の反撃によってロシアは譲歩の色を示し、清国は要求の承諾を拒否した。英米はそれ以上深いせず、ロシアの満州撤兵を監視する態度をとったが、日本にとっては、ロシアの鴨緑江進出とあわせて撤兵不履行を考えれば、事態は危機的と感じられ始めていた。



ロシアの鴨緑江進出

 5月に入ると、ロシア人が中国人人夫などをひきいて、鴨緑江の朝鮮側河口にあたる竜岩浦で土地を買収し、整地や家屋の建築など大規模な工事に着手したとの情報がつぎつぎと入ってきた。竜岩涌は、日本が開港を要求していた大東溝の対岸にあたっている。日本側では、実情を探ることに努力するとともに、韓国政府に抗議を繰り返した。しかしロシア側は、1896年にロシア人が権利を狐得した森林事業の着手であるとし、7月20日にはロシア森林会社の代表は、韓国森林監理趙性協と土地租借契約に調印、さらに韓国政府にその承認をせまった。

  1896年の契約とは、日清戦争の翌年、韓国皇帝がロシア公使館に逃げ込んだとき、ウラジオストック在住のロシア商人に豆瑞江などの官有林での森林事業について20年の期限で独占権を与えたものであった。それはさらに事業の鴨緑江沿岸への拡張をみとめていた。

  この特権はその後実現されないままにすぎ、日本側もその存在に気づかなかったが、これに眼をつけたのは、ロシア皇帝にとり入って急速に官廷内での地位を強めた国務顧問ベゾブラゾフであった。彼は宮廷内にこの事業の利益の多いことを宣伝して、皇帝からの出資をも得た。したがって森林会社は事実上宮廷の手中にあり、満州にいたロシアの軍人たちが、軍服をぬいでこの会社のために勤務した。日本側からの抗議も、最初の森林契約は一私人に与えられたはずなのに、 これではまったくロシアの政府事業であり、契約の性格を根本的に変えてしまうことになるのではないか、という点にあった。

 ところで、韓国駐在の林公使は、5月15目の小村外相あての報告で、竜岩浦のロシア人は 「変装した軍人」、中国人は「馬賊」であり、ロシアの行動については、鳳凰城、安東県に軍隊を 駐留させ、竜岩浦と大東溝で積極的経営を行ない、また遼東から鴨緑江にいたる沿岸と鴨緑江上流の韓国国境の要所に兵隊を置いているとの情報を報告した。そして林はロシアの目的について、日本の利権拡張を鴨緑江でくいとめようとするものだと推測した。



撤兵をめぐるロシア内部の対立


 ロシア側では満州撤兵をめぐってさまざまな意見があらわれていた。これまでの極東政策の主導者であった蔵相ウィッテはすでに獲得した利権を 完全に強固なものに発展させるのが先決であり、それには撤兵を実行して列強、とくに日本との協調を実現しておくことが必要だとした。陸相クロパトキンは、ヨーロッパの西部国境の軍備を 重視する立場から、満州に大兵力を割くことに反対した。彼は、北部満州だけをロシアの勢力圏とすることを主張し、南満州を放棄することをも考えていた。日露の緊張が高まってきた11月には、彼は皇帝に意見書を提出して、旅順・大連や東清鉄道南部支線を清国に売却し、そのかわりに、北満州に特別の利権を獲得することが得策だと進言した。

  しかし、当時のロシアのような専制国家において、国際情勢の悪化や国内での革命運動におびやかされるといった危機が存在しないのに、既得の利益を手離すことは不可能であった。利益を求めることに熱中している支配階級のなかにあって、一歩後退すべきだとする意見が出ても、それはすぐ別の、より侵略的な意見に打ち消されてゆく。まして、世界一の陸軍国としての自負を もつロシアの支配階級には、日本との戦争に敗北するなどという懸念を抱くものはいなかった。

  ロシアが撤兵したあとに、日本や他の列国が利権を求めて入り込んでくることは、ロシアの利権を弱め、とくに旅順にのびる鉄道の安全をおびやかすという主張が強まっていた。この撤兵反対の勢力は、鴨緑江森林利権に限をつけたベゾブラゾフの活動によっていっきに支配的となっていった。鴨緑江を押えることで日本の進出を抑えるというわけである。ロシア軍はこれまで占領 していなかった鳳凰城に進出し、森林事業着手を支援する体制をとった。しかしこのときヘゾブラゾフらも、さらに朝鮮内部に南下しようという考えはなかったとみられる。その意味では林公使のいうように日本の進出に対する防御線をつくるのが目的だとする見方があたっていた。しか し一つの利権を守るために、そのまわりの他の利権を獲得するというやり方は、反対側からみれば侵略にほかならなかった。ロシアがこのまま進めば、朝鮮は彼の勢力下に陥ることになると日本側が考えたのはその意味では当然でもあった。

  しかし、日本の安全のためには、朝鮮を支配して防壁とし、その外側にさらに利権を扶植して 防壁の安全を守ろうとする日本側の論理も、論理の立て方はロシア側と同じであった。同じであったからこそ衝突は避けられなくなってきたのであった。



戦うなら今だ

 こうした情勢の中でクロパトキソ陸相は、極東視察旅行に出発、6月12日東京に到着、桂首相、小村外相らと会見、30日には旅順におもむいて、彼の日本滞在中にやってきたベゾブラゾフ、ロシア軍司令官アレキシエフ大将、駐清公使レッサー、駐韓公使パブロフなどと会談した。この会談でクロパトキソは彼の主張を述べたが、じっさいには鴨緑江森林事業から現役軍人を引きあげさせるための若干の措置をとり得たにすぎなかった。彼は東京滞在の4日間に、「旅順に向かっているベゾブラゾフが同地に着くまでは日本に滞在せよ」 との皇帝からの命令をうけとっていた。すでに彼が無力になっていることが明らかだった。

  しかし、ロシアの満州撤兵不履行、鴨緑江進出のニュースに緊張していた日本の世論はさらに クロパトキン来日によって刺激された。彼は日本との戦争のため偵察にやってきたと考えられた。

  軍部では参謀本部の中堅層がもっとも早くから動き始め、5月上句には、ロシアに対する強硬な政策をとるために必要な事項を消去した。その結果5月12目、参謀総員大山巌は「速かに帝国軍備の充実整頓を図るべし」との意見書を内閣に提出した。ついで5月29日には、陸軍・海軍・外務の中堅幹部が会合し、「戦争を賭して」ロシアの横暴を抑制しなければならないとの態度を決めた。

  参謀本部の主戦論の中心は総務部長井口省吾少将、第一部長松川敏胤大佐らであったが、彼ら は6月8日、とくに大山参謀総長、田村怡与造参謀次長の出席を求めて、部長会議を開き、ロシアとの開戦を主張した。このとき井口は長文の意見書を用意し、強硬な外交交渉を開始し、ロシアが日本の要求に従わないならば、「一大決戦を試むる」だけだと述べた。彼は、ロシアを満州 から追い出し、満州を開放して、列国の利害関係の錯綜する実質的中立地帯とする。さらに韓国を日本の支配下におき、旅順・大連の租借地を返還させ、そのうえできるならばウラジオストッ クを日本が領有してロシアの太平洋への出口をふさいでしまうのが日本の安全を確保する道だ、というイメージを描いていた。そしてこの夢の基礎として、シベリア鉄道や東清鉄道がまだ単線で完備せず、ロシア東洋艦隊が拡張の途中にある現在こそ、日本にもっとも有利でありロシアにもっとも不利であるとの判断を示していた。逆にいえば、いまやらないとやれなくなる、という わけであった。将来の戦争では勝てないというあせりが、主戦論を生み出し、激しくさせるもとになっていた。じっさい、旅順までの東清鉄道が全線営業を開始したのはこの翌月の7月であり、 ロシアがいかに世界一の陸軍国でも、この単線の鉄道で極東に送れる兵員にはかぎりがあるとみられていた。

  他の部長たちもこの点では井口と異ならなかった。このとき、田村次長は黙して語らず、大山総長は、ロシアは大国だからなぁ、と述べただけだったという(陸軍省編『明治軍事史』下)。

  しかし大山も、この軍事情勢の判断には賛成であり、6月22目、再度の意見書を内閣に提出し、日本が戦略的優位にある現在が朝鮮問題解決の好機だと強調した。このころから新聞などの世論が主戦論の方向に急迫に高まってゆくが、「戦って勝てるのは今だけだ」ということが大きな要素になっている点では参謀本部の場合と同様であった。

  大山意見書の2日後には(6月24目)、東京朝日新聞にいわゆる「七博士意見書」が発表された。東京帝国大学教授の富井政章、戸水寛人、寺尾亨、高橋作衛、中村進午、金井延、小野塚喜平次の7人の博士が、対露強硬策を主張したこの意見書は、開戦論を盛りあげるのに大きな役割をはたしたが、そこでも「彼れ尚ほ未だ確固たる根拠を極東に完成せず、地の利全く我れに在り」と述べられていた。

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