1966年8月

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日露戦争


表紙

古屋 哲夫

はしがき
1ロシアの極東進出と日本
2戦争に踏み込む
3満州が主戦場に
4決戦を求めて
5ポーツマス講和条約
6日露協約―結びにかえて―

4決戦を求めて
列強、講和へ動く
奉天占領
戦力の限界
日本海海戦


4決戦を求めて


列強、講和へ動く



フランスの立場

  旅順が陥落すると、列強のあいだには戦争を調停して講和を実現させようとする動きがみえ始めてきた。ロシアが満州支配の象徴ともいえる旅順を失っては、戦争のヤマもみえたというわけである。列強もこの戦争を、日本とロシアのどちらかが倒 れるまで続けられる性格のものではないとみていた。つまり、局地的利害を争う戦争であり、適当なところで講和が成り立つと考えていたのであり、したがって戦後における自分の地位を有利 にするように戦争を終らせようという列強の動きが始まるのも当然であった。

  最初に調停工作を企てたのは、ロシアの同盟国であるフランスであった。旅順陥落が必至とな った12月14日、帰国中のフラソスのロシア駐在大使ボムパールは、日本の木野一郎公使を訪 れ、平和回復に力をつくしたいとの希望を述べ、日本側の講和条件について知るところがあれば漏らしてほしいとたのんだ。木野はこれに対して、ロシア側が講和の意思を十二分に示さないうちは、条件についてはむろん、日本が講和に応ずる意思があるかどうかについても語ることができないとつっぱねた。これは日本政府の基本的態度であり、小村外相は、ロシアが講和の意思を示すまで沈黙を守るよう訓令していた。

  フランスは初めからこの戦争でロシアを全面的に支援する考えはなかった。開戦2ヵ月後の4月には、日本の同盟国であるイギリスとのあいだに、植民地にかんする利害を調整する協定、い わゆる英仏協商を結んだ。それは両国が共同の行動をとるような約束をしたものではなかったが、 国際紛争の根本が植民地問題にあるこの帝国主義の時代にあっては、同盟に準ずる意味をもっていた。フラソスにとってはドイツとの対立が重大になってきていた。北アフリカのモロッコの植民地化を進めようとするフランスの行動を、ドイツが妨害し始めていた。1905年(明治38年)3月にはドイツ皇帝がモロッコに立ちよってモロッコの独立を宣言、独仏関係は鋭い緊張を示すという事件も起こっている。

  したがってフランスとしては、ロシアがこれ以上力を落とさないうちに戦争をやめさせたいと考えたのであったが、ロシア側はまだ講和どころではなく、日本軍に一撃を加える可能性を信ずる向きが強かった。フラソスの工作は進展しないまま消えていった。大体、フラソスやイギリスなど、日本とロシアの同盟国が、調停に乗り出すことはいろいろな意味で困難であり、こうした関係にない国が主導権をとったほうがやりやすいことはいうまでもない。当時、日本・ロシアと同盟関係にない強国は、アメリカとドイツであった。



ドイツとアメリ力

  日本が最初からアメリカの調停を期待して金子堅太郎を特使として送り込んだことはすでに述べたが、ドイツもまたアメリカの動きに期待していた。当時ドイツの駐米大使はローズベルト大統領に、日本がロシアに勝利した後は、おおいに活動を広 め、膠州湾におけるドイツの権益やアメリカのフィリピソ支配をおびやかすにいたるだろう、と いう危惧の念を述べている。急速な資本主流の発達を背景にしてアフリカや中近東への植民地の拡大をねらい、フラソスやイギリスとの対立を深め、国際政治の中で孤立の傾向にあったドイツとしては、日露戦争の結果、アジアとくに中国における利権奪取競争を激化させ、ドイツがそれに遅れをとるような事態が生まれはしないかとおそれていた。

  この報道を得た小村外相は、1905年(明治38年)1月3日、高平駐米大使に対し、アメリカ大統領に会見してドイツ大使の言を全面的に打ち消し、日本はロシアと争っている問題以外は現状維持で満足すること、戦争終結後は、戦争による疲労を回復し、ロシアの報復に備えねばならないのだから、他国との紛糾を避けることが必要であり、平和主流を実行しなければなら ないことなどの点を強調するように命じた。

  ローズベルトは、すでに早くから日露戦争の調停に乗り出す考えを固めていたが、1904年秋の選挙で、それまでの大統領選挙の記録を破る大差で再選され、パナマ運何の建設と日露戦争の調停を当面の二大目標とするにいたっていた。そしてそのさい、日本のこうした約束でドイツを安心させ、ドイツの支持を得て、調停者の地位を確立しようという構想をもった。彼は、清国 の領土保全、門戸開放という線でドイツ皇帝に働きかけた。皇帝はさっそく、1月7日、ローズベルトに回答を送り、領土保全、門戸開放の主朧に賛意を示した。そして、ドイツはこの戦争終結の機会を利用して、清国からなんらの利権も奪おうとしないことを約束し、同時にフラソスなど他の列強が、講和をあっせんして、その報酬として清国の利権を奪うような行動に出るのを防止しなければならないと述べた。そして最後に、もっとも日露両国は領土獲得を求めるかもしれないとつけ加えた。ドイツ皇帝としては、日露両国が満州を分割するという形で戦争をやめる可能性を考慮していたようである。



ローズベルトの意図


  ローズベルトはすぐさま金子堅太郎と会見して、このドイツ皇帝の回答を漏らすとともに、いったい日本は戦後の満州の行政のあり方をどうしようと考えているのか、と問うた。ローズベルトは、ロシアの満州支配を打破するために、日本の戦争を支持したが、そうかといって日本がロシアにかわって満州を支配することにも反対であった。そこに彼が日本からの働ぎかけをうけて、講和の主導権をとろうとした理由があった。

  彼は日露戦争について、少し後に、英国に旅行中の上院外交委員長ロッジにあてて、つぎのよ うに書いている。「思うに、ロシアの勝利は文明に対する一打撃であると同時に、東亜の一国と してのロシアの破滅も予の所見にては均しく不幸であろう、日露相対峙し互に牽制して、その行動の緩和を計るというのが最善である」(1905年6月16日付『小村外交史』)つまり、日本が勝ちすぎたり、ロシアが負けすぎたりしないところで戦争を終らせ、戦後も両国が対立し牽制しあうというのが「最善」の状態であり、そこに満州開放が維持される条件があるとされていたのである。ローズベルトにとって、戦争を自分の手で調停することは、このような条件をつくり出すことをめざしたものにほかならなかった。

  なおついでにいえば、彼はさきの書簡の中で、日本についてつぎのように書いている。「今から10年にして日本は太平洋上の主動的産業国となるであろう。……日本の偉大なる産業が、その古来の驚くべき軍事的精神を年々共に変化せしめ、緩和すべきか否かはこれを断言できない」と して、海軍充実の必要を語っている。ここにはすでに日本の軍国主義的発展についての強い警戒心が生まれていることが注目されよう。

  さて、ローズベルトから戦後の満州の行政について聞かれても、日本側ではまだそこまでの用意はなかった。金子もまだ成案はないと答えた。するとローズベルトは、1月14日、高平公使 に対して講和条件に対する積極的見解を打ち出した。彼は、戦後、日本は旅順を領有し、韓国を 勢力範囲に入れる権利があると考える、しかし満州は清国に返還し、列国保障のもとに中立地域 とすべきだと信ずる、自分はこの意見を書面にして英仏伊三国に送ったと語った。

  この満州中立化提案は日本政府に相当のショックを与えたと思われる。たとえば小村外相は前にも触れた1904年7月の講和意見書で、戦争以前には日本は、満州については既得の権利を維持することで満足しようとしたが、この穏和な要求をロシアがみとめないで戦争になったのだから、戦勝にともなって日本の要求を一歩進めざるを得ない、「満州ハ或程度マデ我利益範囲ト為シ我利権ノ擁護伸張ヲ期セザルベカラズ」(『外交文書』日露戦争のV)と書いている。ローズベ ルトの提案は、こうした思惑に冷水を浴びせたものであった。日本政府は、いまやローズベルト に日本の基本的要求を通告しておくことが必要だと考えざるを得なくなった。

  1月22日、小村外相はローズベルトに伝えるため、4つの問題について日本政府の見解を示した訓令を高平公使に送った。それは(一)韓国の保護権を日本の手に収めることが必要であるこ と、(ニ)遼東半島租借権をロシアから譲り受ける権利があると考えること、(三)一時の休戦に止まるような条件では講和できないこと、などのほか、満州については、(四)日露両国ともにできるだけすみやかに撤兵し清国に返還することが必要であり、満州将来の行政は、秩序を保持し生命財産の保護を完全にするような改革と善政の保障を条件として、清国に行なわせる方が、国際的中立化よりすぐれている、とローズベルトの見解に反対した。日本側は、「改革と善政の保障」という条件の中に、なんとか発言権の手がかりを残しておこうとしたものであった。ローズベルトも、これ以上、中立化案を固執しなかったが、すでに早くも戦後における日米対立の芽がふき始めていたのであった。ローズベルトはこうした準備のうえで、2月8日フランス大使を引見し、一個人としての講和勧告を、フランス大統領を介してロシア皇帝に送ってくれるように依頼した。しかしロシア皇帝 は、バルチック艦隊と満州の数十万の大軍に信頼して続戦を決意したと回答して講和の勧告を拒絶した。



一九〇五年の革命

 
ロシア皇帝とすれば、満州に増援軍を送り、バルチック艦隊を東航させていたこの時点で勝利の可能性を考えたのは当然であったが、同時に、勝利をかち得て国内での威信を回復することも必要になっていた。戦争が長びき、敗戦の報が伝えられるたびに、国内の革命運動が高まる気配を示していたからである。

  レーニンはこのころ書いている。「恥ずべき敗北に陥ったのは、ロシアの人民ではなく、専制である、ロシアの人民は専制の敗北によって利益を得た。旅順の降伏はツァーリズムの降伏の序幕である、戦争はまだけっして終っていないが、戦争が継続すれば、それだけロシアの人民のなかでの動揺と憤激はかぎりなく拡大し、新しい偉大な戦争、専制にたいする人民の戦争、自由のためのプロレタリアートの戦争の時機は近づいている。……そうだ、専制は弱められた、いちばん信じようとしない人々までが、革命がおこることを信じ始めている、人々が全般的に革命を信 じることは、すでに革命の始まりである」(「旅順の陥落」1905年1月14日「フぺリョード」2号、『レーニン全集』8巻) 

  開戦の年の7月には、ナロードニキの伝統をつぐ社会革命党(エス・エル)のテロ戦術によって、内相プレーヴェが暗殺され、秋からは自由主義者の憲法制定と立法権をもつ議会の開設を要求する運動が高まっていた。そして旅順の陥落に始まるこの年は、まさにレーニンが予言したとおり、 「1905年の革命」と通称されるような、大衆的な革命運動が高揚することになる。

  その先頭をきったのはペテルスブルグの労働者であった。年の初めから始まったストライキは、 しだいに政治的要求をかかげるゼネ・ストの様相を帯びてきた。この形勢の中で、警察などとも連絡をとりながら、融和的な労働者組織をつくっていた僧侶ガポソは、自己の地位と組織を維持するため、皇帝に対する請願運動を企画した。1月22日(ロシア暦1月9日)の日曜日、ガポソを先頭に10数万人の労働者やその家族たちが、皇帝の肖像をかかげ、讃美歌を歌いながら王宮に向かって行進した。しかしそこに彼らを待ちうけていたのは、皇帝の慈悲ではなく、軍隊によるいっせい射撃たった。無抵抗の民衆は1000名をこえる死者と、数千名の負傷者を出して追いはら われた。銃弾は労備者の肉体とともに、皇帝の慈愛への信仰を打ちくだいた。「血の日曜日」と呼ばれるこの事件は、革命運動に油をそそぐことになった。抗議ストは繰り返され、そこから革命的蜂起への条件が準備された。農村でも、地主を焼打ちする激しい農民運動が始まってきた。プロレタリアートを主力とし、農民を同盟軍として、全人民的蜂起を行なおうとするポルシェビキの革命戦略のための条件が生まれ始めていた。

  ツァーリズムは動揺と後退を余談なくされた。2月にはモスクワ総督のセルゲイ大公が暗殺され、3月の初めには、地方代表者を召集して法律の審議に参加させることを約束した詔書が、内相ブルィギソによって発表された。それはちようど奉天会戦のさなかのことであったが、この会戦での敗戦が伝えられると、革命運動はさらに力を得るというありさまだった。軍事的敗北と革命運動が重なりながら、ロシア皇帝をしだいに講和に追い込んでゆくことになるのである。



平民新聞終刊

 これに対して日本政府の方もしだいに講和への希望を強めていたが、それは軍事力が限界に達しつつあったためであり、国内での支配体制の動揺からくるも のではなかった。「血の日曜日」の事件を報じたのは偶然にも、「平民新聞」の終刊号(1月29日、第64号) であった。開戦後も大胆に戦争批判を続けたこの週刊新聞も、しだいに強まってくる抑圧をもちこたえられなくなっていた。1904年11月6日第52号が社説「小学校教師に告ぐ」で発売禁止となり、幸治秋水が禁錮5ヵ月、西川光二郎が同7ヵ月、罰金それぞれ50円の刑に処せられたうえ、印刷機械も没収された。ついで発刊1周年を記念して「共産党宣言」を訳載した53号も発売禁止で没収された。こうした発禁や罰金、あるいは没収機械の弁償などの経費が重なってくると、ついに財政的にもちこたえられなくなり、自発的廃刊が決定されたのである。1 年2ヵ月にわたり、延べ20万部を発行し、社会主義への関心を広めるうえで大きな役割をはたしたこの新聞も、運動の大衆的基礎をつくるまでにはゆかなかった。

  開戦直後の3月13日第18号では「与露国社会覚書」を掲載し、7月24目の第37号には、ロシア社会民主党機関紙「イスクラ」の回答をのせた。また8月には、アムステルダムで聞かれた第二イソターナショナル第六回大会では、片山潜がロシア代表のプレハーノフと握手して満場の大拍手を浴びた。しかしいうまでもなく、ロシアと日本の社会主義運動の内容は大きくへだたっていた。ロシアの運動がすでに革命の実行に着手しているのに対し、日本の運動は知識人による啓蒙運動の段階に止まっていた。彼らの運動は「平民新聞」の廃刊後も「直言」などの後継紙によって続けられた。しかし世論の主方向は、開戦前の対露強硬論、主戦論の延長上で戦勝に酔い、シベリアまで攻め込んでロシアを降伏させろという好戦論にほかならなかった。

  政府は軍事力の実情について国民になにも知らせることなく、この熱狂する好戦論を見送っていたが、それはやがて講和への必要が高まるにつれて、政府にとっても痛し痒しのものとなってくるのであった。ロシアが続戦の決意をもつ以上、政府としては、ローズベルトとの接触を密にしながら、つぎの決戦の結果をまつほかはなかったが、他方では、戦後のための措置を進めることを怠らなかった。



戦後のために日英同盟継続

 

2月15日、小村外相は日英同盟記念祝賀会で、この同盟が平時にも戦時にも絶大な価値をもつことが過去3年間の経験で明らかになったとし、将来もこの同盟が強固に保たれることを希望すると演説した。同盟の期限は5年とされていた。日英同盟なしには日露戦争も不可能であったことはすでに指摘したが、小村は、戦後もまたこの同盟を国際政治の中での日本の地位を支える中心的な支柱として構想したのであった。そしてその場合には、少なくとも、「韓国の独立の承認」という部分を改訂することが必要であった。

  この小村外相の演説にはイギリス側もただちに反応を示した。ラソスダウソ外相は3月24日、林公使を招き、同盟継続の方法などについて述べ、日本との正式交渉を始めたいとの希望を 表明したが、イギリス側の希望が同盟の対象を拡大する点にあることは明らかであった。

  すでに同盟締結のさいにもイギリスは、イソドの防衛をも同盟の対象に入れたいと希望していたが、日露戦争の勝利によって日本の軍車力に対する信頼の念を深めたイギリスが、この要求を ふたたびもち出すことは限にみえていた。小村はさっそく、同盟の範囲拡大について言質を与えないようにと訓令したが、結局、韓国併合の方向をイギリスにみとめさせるためには、インド防衛の要求と取引きするほかはなくなっていった。イギリスとの同盟交渉が本格化するのは5月に入ってからであったが、この間にも、韓国支配の強化は休みなく続けられていた。



韓国支配の強化

さきに述べた財政・外交顧問に続いて、1905年に入ると、まず2月3日、警務顧問に警視庁第一部長丸山重俊が、続いて2月16日、学部顧問に高等師範学校教授幣原坦が就任した。これで財政、外交についで警察、教育の面でも、日本人頭間の事前の承認なしにはなにごともなし得ないことになった。

  これが、併合への準備であることは、幣原が教育改革方針の第一に「将来韓国ガ帝国ノ保護国トシテ万般ノ施設改良ヲナスニ適当ナル教育ヲ施スヲ以テ旨トス」と述べていることでも明らかであろう。そしてその点からいって、警察を握ることの重要性は、日本政府も十分に認識してい た。たとえば一時は、収税事務と警察事務をかねた顧問を採用する案もあったが、小村外相は 「警察ハ外交財政ノ両者ト等ク最モ之ヲ重視スルモノ」と述べて、税務と別の警察顧問を傭用させるよう命じている。(2月1日訓令)さらに3月2日の訓令では、日本政府の方針は、「韓国政府ヲシテ我警察官ヲ傭聘セシメ以テ中央並ニ地方ニ於ケル同国警察ノ実権ヲ我ニ収メ」ることであると明示した(『外交文書』38の1)。

  丸山警務顧問はまず、日本の警視庁にあたる首都警察の警務庁改革に着手、所属警察署に日本人警部を任用させるとともに、韓国巡査の試験を行なって人員整理を企図した。韓国側はこれに激しく抵抗、一時は巡査のストライキの形勢にまで発展したが、丸山は日本軍憲兵隊の応接をたのんでこの措置を強行し、以後は巡査の進退懲罰についてまで顧問の同意を求めることを約束さ せた。

  ついで地方警察の掌握が企図され、各道の観察府に日本の警視1名、警部3名、巡査5名を置く案を立てた。当時、目賀田財政顧問も収税などの監督のため、日本人官吏の地方派遣を企てていたため、費用の点が問題となったが、結局日本政府が4万円をたて替えることで、地方警察の掌握も実現された。日本の各府県警察から選ばれた警視、警部が送られてきたのは、日本海海戦 も終った6月であり、巡査は8月であったが、こうして講和以前に、丸山を頂点とし、「顧問答察」と呼ばれる日本人警察官の組織ができあがっていた。

  丸山は6月5日、地方に赴任する日本人警視、警部に対して訓示し、韓国地方官吏を巡視し、その暴政非行を抑制することが急務であるとしたが、こうした韓国官吏の腐敗をつくことで、日本の実質的支配力がのばされてゆくことになる。彼はまた、日本軍憲兵、日本人財務官とも密接な連絡をとること、第一銀行兌換券の流通に努力することなどをも命じた(岩井敬太郎編『顧問警察小結』)。

  すでに1月27日、韓国政府と第一銀行とのあいだに国庫金取扱いにかんする契約が結ばれ、 7月1日から第一銀行発行兌換銀行券が全面的に通用させられることになっていた。4月1日には、韓国の郵便・電信・電話事業を日本政府に委託する取極め書が調印された。また、1905年からは、大倉・三井・渋沢・浅野らの財閥が、鉱山利権獲得のため積極的に活動を開始した。 陸軍が沙河付近で対陣し、海軍がバルチック艦隊を迎えうつ準備に忙しく、戦闘が小休止の状態にあったあいだにも、こうして朝鮮の植民地化は着々と進められていた。

  イギリスもアメリカもこの植民地化を承認する態度を明らかにしていた。そして日英同盟を強化し、ローズベルトを戦争の調停者に予定することで、日露戦争の最小限の目的、朝鮮支配を実現する手だてはこの時期にほぼ整えられていた。

  したがって、講和をいつ実現し、そこでどれだけ最小限度をこえた獲物を獲得できるかが、以後の政治と軍事の課題となってくるのである

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