1966年8月

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日露戦争


表紙

古屋 哲夫

はしがき
1ロシアの極東進出と日本
2戦争に踏み込む
3満州が主戦場に
4決戦を求めて
5ポーツマス講和条約
6日露協約―結びにかえて―

4決戦を求めて
列強、講和へ動く
奉天占領
戦力の限界
日本海海戦


4決戦を求めて


奉天占領



鴨緑江軍の編成

 旅順の陥落とともに、北方での決戦の準備が具体化していった。1月12日、第三軍の編成替えと、新しく鴨緑江軍を編成することが決定された。大本営は第三車から第十一師団を引き抜き、これに後備第一師団を加えて鴨緑江軍をつくり、韓国駐とう軍司令部のもとにおいた。鴨緑江軍の任務は韓国西北境を防衛し、本任務に妨げなければ満州のロシア軍の左翼に策励することとされていたが、大本営では、この軍をロシア軍主力の左側に遠く進出させれば、ロシア軍主力から多くの軍隊をこの方面にさかせることができるし、同時に韓国の防衛にもなるという考え方をしていた。さらに、将来この軍によって、ウラジオ占領作戦を行ないたいという希望が、大本営の一部に強く存在していた。鴨緑江軍を満州軍総司令部のもとに加えずに、大本営直属の形にしておこうという意図の裏にはそうした思惑があったのである。

  しかし満州軍総司令部はこれに反対であった。大本営が望む方向の山地では、日露両軍とも大軍を動かすことは困難であり、鴨緑江軍を進めてみても、敵はより少数の軍隊で守ることができ、 敵を牽制しようとしてかえって敵に牽制されるという結果になってしまう、こんな方法はロシア 軍にくらべて兵力が不足している日本車がやるべきことではなく、奉天付近に予想される両軍主力の決戦のために、一兵でも多く集中すべきであるとした。敵の主力を打破すれば、韓国の防衛も自然に達成されるではないかというのであった。

  大本営は最初の案どおり、満州軍と独立に鴨緑江軍を編成したが、山県参謀総長は鴨緑江軍司令官として赴任する川村景明大将に満州軍総司令部との協議を指示し、川村は満州軍児玉総参謀長と会談して、満州軍からの協議を命令とこころえること、韓国駐とう軍司令部を通さずに、満州軍の指示をうけとることなどを協定した。これで鴨緑江軍は、実質的に満州軍総司令部のもとに行動することになり、その希望どおり、できるだけ早く撫順方面に進出して、奉天会戦に参加することになった。



脚気こ悩む満州軍


  第三軍も旅順をひきあげ、満州軍左翼を担うべく北進を続けた。この間1月18日、満州軍総司令部は、氷が解け始める3月10日頃までに、 奉天を占領するという方針を決定していた。日本側は寒さが厳しいあいだは大きな戦闘はないものと仮定し、給養や防寒の完備に力をそそいでいた。

  日清戦争で凍傷に悩まされた経験から、防寒は比較的成功し、戦争中の凍傷患者は4373名に止まった。問題はむしろ食糧であった。食糧が固く凍りついてしまうのをどう防ぐかに頭を悩まさねばならなかった。にぎりめしにして焼いておき、体温に近づけて携帯するなどの方法をとったが、それでもコチコチに凍ってしまうと石のようになり、2、30分も煮なければ食えなかった。結局、重焼パンが支給されこれをかじりながら戦わねばならなかった。

  パンの支給は脚気対策としても考えられていた。戦争中を通じて病気で入院したものは、約25万名であったが、そのうち脚気患者が最高で11万名をこえた。白米食がその最大の原因であった。開戦初期から軍医側からは、脚気対策として米麦混食とする主張が出されていたが、大本営側では、補給物資の種類をふやし、主食を複雑にすることは種々の困難がともなうとして賛成しなかった。しかし、1904年8月から月々1万名をこえる脚気患者が出るにおよんで、麦の混用実施に踏み切らざるを得なかった。全軍が麦めしになるのは奉天会戦後であったが、8月―12月に1万名台を数えた脚気患者が、翌年1月―3月、7千名台、4月、5千名台と落ちたのは麦めしの効果と考えられた(西村文雄『軍医の観たる日露戦争』)。

  日本側が厳寒期には大戦闘はないと判断し、給氷期末期の作戦を考えていたころ、ロシア軍は日本側の予想を裏切って、大規模な反撃に勣き出していた。



黒溝台の戦い

  ロシア軍南下の報はヨーロッパからの電報でも伝えられていたが、前線でも、日本軍右翼に対峙しているロシア車が減少し、左翼方面で増加している気配が感じられた。そして1月25日には、日本車左翼の黒溝台付近で戦闘が始まった。日本軍は最初、後退してロシア軍を東方にひき出してたたく作戦をとり、黒溝台から退却したが、ロシア車 は前進せずこの作戦は失敗に終った。また満州軍参謀部は厳冬積雪の時期には大作戦はないものと信じ込み、このロシア軍の攻撃も一、二個師団くらいの兵力による威力偵察と考えていた。しかし、戦闘が進んでみると、七、八個師団の大兵力であることがわかり、日本車もつぎつぎと増援軍をつぎ込まねばならなかった。

  当時ロシア軍は、三軍編成に拡大されており、この攻撃を行なったのは第二軍であったが、第二軍攻撃が成功すれば、第一、第三軍も総攻撃に出る計画になっていた。しかし第二軍攻撃中に他の両軍はそれを助けるような作戦を行なわず、第二軍も27日から29日にわたる日本車の反撃によって撃退されてしまった。この黒溝台付近の会戦で日本車の死傷者9300名、負傷者の半分は凍傷を併発していた。

  ロシア軍の反撃を撃退した日本車は、ついで総攻撃に移る準備を急いだ。2月20日、大山総司令官は、各軍司令官を集め、近く開始される会戦は、両軍が最大の軍隊をあげて衝突する決戦であり、「最重要中の重要なる会戦」となるであろうと訓示した。同時に、この大作戦の主眼は、できるだけ多くの損害を敵に与えて、再び たてないようにすることであり、土地や陣地を奪うことではない、したがって敵の堡 塁を正面から攻撃して多くの損害を出すような愚をさけ、側面あるいは背面より攻撃し、敵の動揺に乗じていっきに撃滅する方策をとれと命じた。また、敵の捕虜をしらべてみると、砲弾による傷はきわめて少な い、この会戦でも、弾丸の製造能力からいって豊富な予備弾を持つことはできないのであるから、一発たりとも無効の弾丸を射たないようにとの注意をも与えた。

  満州軍総司令部の作戦計画は、まず鴨緑江軍を最右翼に前進させて、敵を牽制し、 この間、なるべく敵に気づかれないように第三軍を左翼から北進させて敵を包囲しようというのであった。

  2月22日、まず鴨緑江軍が行動を開始、24日清河城を占領、馬郡鄲日方面に進撃、第四郡からは有力な敵部隊が東進しつつあるとの報告がもたらされ、総司令部は牽制作戦成功と喜び、27日、第三軍の行動開始を命じた。27日朝から第一、第二、第四郡はいっせいに砲撃を 開始した。旅順で活躍した28センチ榴弾砲も加わり轟々たる砲声をとどろかせた。この砲撃は、ロシア軍に正面からの攻撃開始を思わせ、第三軍の行動に気づかせないことが目的であった。 第三軍はこの砲声の中を迂回北上の行軍に出発していった。



奉天会戦


  3月1日、全線にわたる総攻撃が開始された。しかし攻撃は容易に進展しなかった。鴨緑江軍は馬郡鄲付近で頑強な抵抗にぶつかり、総司令部は第一軍より第二師団の一部をさいて側面から援助させたが、戦線は膠着したままだった。奉天正面に向かう攻撃も進まず、ために夜襲による強襲といういままでどおりの正面攻撃に逆もどりすることも多かった。とくに、沙河会戦で激戦の末、奪い返された万宝山はこの攻撃でも容易に落ちず、第四軍は多大の損害を蒙った。迂回攻撃という総司令官の指示も、敵陣の弱点の発見が前提となるのであり、じ っさいにはなかなか徹底しなかった。

  第三軍の迂回北進だけが順調に進んだが、あまり進みすぎては孤立するおそれがあり、3月3日には、奉天西北に深く北進する計画を変え、第二軍左翼と連結しながら奉天西側面に向かって包囲線を縮める方針をとった。総司令部は、第二軍を左翼方面に迂回させ、第三軍を奉天の後方に進めようとしたが、戦場で交戦中の部隊を移動させるために種々の混乱が起こった。このため、3月7日、総司令部から第三軍の運動は緩慢だと指摘されると、怒った乃本司令官は、軍司令部を急進させ、軍司令部が小銃弾のとんでくる第一戦にとび出してしまったというエピソードも伝えられている(『機密日露戦史』)。

  しかしこの日、ロシア軍は退却を始めた。第一軍前面では砲火の減少、車輛の往復が激しくな り、敵陣内部に火災が起こるなど退却の徴候がみえ始め、夜に入って将校斥候が敵に出会うことなしに敵の本陣にまで達したとの報告が入った。日本軍左翼と対峙していたロシア軍は、日本車の攻撃で追い出される先に、自分で後退を始めたのであった。鴨緑江軍と第一軍は8日から追撃を開始し、9日夕刻には渾河の線に達したが、ロシア軍主力を捕捉することができなかった。

  しかし、第二、第三軍の担当する左翼方面では、ロシア車は退路を確保するために、むしろ反撃に転じていた。9日正午頃から吹き出した強風が砂塵をまきあげるなかを、敵の退路に迫った後備第一旅団は、クロパトキソ総予備軍の逆襲にあって全滅に近い大打撃をうけるなど、第二、 第三軍の攻撃は進まず、第四軍の攻撃もはかばかしくなかった。翌10日、後退するロシア軍を追って、第四、第二軍は奉天付近を占領、第一、第三軍は左右から鉄道線路に迫り、両軍の距離20キロまで包囲網をちぢめたが、ロシア軍も強力に抵抗して主力を後退させることに成功した。第三軍からは、ロシア兵を満載した列車が30分おきに北上しているのが見えたが、この退路を たち切るだけの力はなかった。

  16日、前進部隊が鉄嶺を占領、ここで追撃をうち切り戦線の整理に入った。この奉天会戦において、日本車の死傷約7万名、ロシア軍の死傷約9万名、捕虜約2万名にのぼり、日露戦争中最大の会戦であったが、敵主力の殲滅という日本車の目的は達せられなかった。戦闘に参加した日本軍25万、ロシア軍32万から損害を差し引いてみると、まだロシア軍の方が優勢であ った。

しかし、ここで、日本軍の戦争能力は一つの壁につきあたっていた。さらに北進して再度の決戦を企てることは困難であり、軍事面からも早急の講和が望まれることとなった。

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