1966年8月

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日露戦争


表紙

古屋 哲夫

はしがき
1ロシアの極東進出と日本
2戦争に踏み込む
3満州が主戦場に
4決戦を求めて
5ポーツマス講和条約
6日露協約―結びにかえて―

5ポーツマス講和条約
講和のための諸工作
ポーツマス会議
大陸経営の出発



5ポーツマス講和条約


ポーツマス会議



日露の対立点


  国際情勢も日露両国の国内の実情も、講和をうながす方向に動いていたとはいえ、ロシアが満州の野になお日本軍より優勢な兵力を集中しており、日本軍が進んでこれを撃破することが困難になっているという、いわば軍事的には中途半端なところで講和を成立させるのは容易なことではなかった。

  ポーツマスでの講和会議は8月9日の予備会議から始められた。日本側全権は小村、高平、ロ シア側はウィッテ、ローゼン、予備会議では会議録の作成、随員の出席問題、秘密保持と新聞への発表方法、会議時間などを決め、翌10日、さっそく第一回正式会談に入った。

  小村全権はまず、日本側の講和条件につきロシア側が各個条ごとに意見を述べ、ついで逐条審議に移ることを提議し、ウィッテの承諾を得て初めて十二ヵ条からなる諧和条件を手渡した。小村としては、ロシア側が条件中に承認できないものがあるという理由で、最初から一括して拒否する態度に出ることを妨げたものであった。ウィッテは、2日後には早くも回答書を作成し、10日の第二回会議に提出、逐条審議が開始された。

  ウィッテはこの回答書で八ヵ条を原則的に、あるいは条件つきで承諾し、四ヵ条を拒否、日露両国の対立点を明らかにした。ウィッテが承諾の意を示したのは、日本の韓国保護権、ロシア軍の満州からの撤兵、以後の門戸開放の保障、日本軍の満州撤兵、旅順・大連の租借権および東清鉄道南部支線の日本への譲渡、満州の鉄道を商工業の目的にのみ使用すること、オホーツク海、ベーリング海沿岸の漁業権を日本人に与えることなどの項目であり、日本側で絶対的必要条件としたものは承認したことになるが、それをこえる比較的必要条件としたものの中では漁業権の問題をみとめたにすぎなかった。

  ウィッテが拒否したのは、樺太割譲、賠償支払い、中立港で抑留されているロシア艦艇の引渡 し、ロシアの極東における海軍力の制限の四ヵ条であった。これらはいずれもロシアが筒単にうけいれることはあるまいと予想されていたものであり、日本側としてもそれを貫くきめ手を持たないため、比較的必要条件の中に入れていたものであった。



韓国の主権をめぐって

  このようなロシア側回答をもととして、さっそく8月12日午後の会議から逐条審議に入った。まず第一条は、ロシアは日本が韓国に対して「指導・保護及び監理」の措置をとることを妨げないことを内容とするものであり、小村はウィッテの意見を容れて、ロシア人が韓国において最恵国待遇をうける、日露両国とも露韓国境において相手の領土を脅かすような事実上の措置をとらない、という規定を加えることをみとめた。しかし、日本の韓国に対する措置が韓国皇帝の主権をおかさないことにするという、但し書を加えることには強硬に反対した。

  ウィッテは、この一句を加えなければ、日露両国が一独立国を亡ぼすことを約束するようで好ましくないし、列国から抗議をうけることになろうと主張した。しかし、すでに述べたように、 イギリス、アメリカからこの点の諒解を得ている小村は自信にみちて反論した。小村はいう。たとえ列国が抗議したとしても、それは列国と日本のあいだの問題であって、ロシアにかかわるこ とではあるまい、と。

  また「韓国ノ主権ナルモノハ既ニ今日ト雖完全ナルモノニアラズ、日本ハ既ニ同国ト協約ヲ訂シ同国主権ノー部ハ日本ニ委セラレ、韓国ハ外交上日本ノ承諾ナクンバ他国ト条約ヲ締結スルコ ト能ハザルノ地位ニ在リ、貴全権委員ノ所論ハ一方ニ於テ日本ノ完全ナル自由行動ヲ認ムト言ハルルモ、比ノ点ニ於テ其ノ認メタル自由ヲ制限セラルルコトトナル」と。つまり日本側は、韓国の主権を尊重するつもりはまったくなかったのであり、ウィッテも、会議録に、将来日本が韓国の主権を侵害する措置をとるときは韓国政府の合意のうえで行なうという、日本全権の奇妙な声明を残すことで妥協した。



満州同時撤兵

  第二条は、ロシアは満州から撤兵し、満州における清国の主権を侵害し、もしくは機会均等主義と相容れない特権や免許を放棄すること、第三条は、日本は遼東租借地を除き、「改革及善政ノ保障ノ下ニ」占領地を清国に返還すること、というのが日本の原案であった。これに対してウィッテは、この両条を合わせて相互的にすることを主張し、日本だけが「改革及善政ノ保障」という撤兵条件をつけるのは不当だと抗議した。小村は、ロシアは戦争前から撤兵を宣言しているのだから撤兵の義務があるが、日本はそんな義務がないから立場がちがうと抗弁したが、その理屈はいかにも無理であり、結局ウィッテの主張をみとめざるを得なかった。二つの条文は一つにまとめられ、日露両国は、遼東租借地以外の清国領土から同時に撤退し、清国への完全な返還を約束すること、ロシアは、清国の主権を侵害し機会均等主義に反するような領土上の利益や特権をもたないことを声明する、という条文がつくられた。後段の声明は、戦争前満州占領中にとりざたされた露清密約の無効を確認するものであった。

  第四条は、日露両国とも清国が満州の商工業を発達させるため、列国一般に対してとる措置を妨げないことというのであり、問題なかった。具体的には、戦争前のロシアが開市開港や居留地の設定に反対したような態度をとらないことを、日露両国が約束したものであリ、日本としては、 米英などの列強を満足させるためのものとしての意味が大きかった。



ロシア、樺太割譲に反対


  第五条はいよいよ樺太を日本に譲与するという条文であり、この問題を討議した8月15日の第四回本会議で、交渉は最初の難関にのりあげた。ウィッテが、大体領土の割譲などということは、もう戦争が続けられないほど決定的に敗北した国のすることで、ロシアの威厳にかけて譲れない、またロシアはこの島を領有して以来軍備をほどこしたこともないし、日本侵略の基地にしたこともないから、ロシアの樺太領有が日本の安全を勁かすとは言えない。ただ漁業権などの利権は日本に与えてもよいと主張した。小村の方は、樺太・千島交換条約によるロシアの領有はむろん合法的であるが、日本国民は感情的にはロシアに侵略されたとうけとって、同島の回復を強く求めている。同島はロシアにとっては辺境で、日本本土に近いのだから、ロシアにとっては利益の問題でしかないが、日本にとっては安全の問題である、樺太 は現在日本が占領しているのだから、ロシアにとっては、占領の継続を黙認するか割譲するかしかない、などと弁じたてたが、しょせんは水掛け論にすぎなかった。会議はこの問題をそのまま残してつぎに移るより仕方がなかった。



租借権・鉄道利権と清国の承認問題

 
ついで第六条は遼東租借権、第七条は東清鉄道南部支線(ハルビン―旅順間)を日本に譲与する規定であり、日本側が絶対的必要条件に数えていたものであったが、ここでは、清国の権利が問題とならざるを得なかった。ウィッテは遼東租借権は清国の同意を得て日本に譲る、鉄道については、現に日本軍が占領している部分にかぎって譲渡することとし、その譲渡については、清国との敷設契約で完成36年後に清国の買収権をみとめているのだから、清国に買収権をただちに実行することを許し、その代金を日本に交付することにしたいという代案を出してきた。これでゆくと遼東租借権は、清国が同意しないからといってロシアが譲渡を拒むことができ、また鉄道は清国のものとなり、日本はその代金を得るだけのことになってしまう。小村は租借権と鉄道はどうしても確実に疑得しなければならないとして、ウィッテに強く反対した。

  まず遼東租借権については、ロシアが日本のために権利を放棄するとだけ規定し、その後のこ とは日本と清国のあいだの交渉にまかせて、ロシアは関与しないという修正案を出した。つまり、どうしても、日本と清国との交渉を予定しておくことが小村にとって必要であった。後に述べるように、彼はこの交渉で、清国に対してロシアがもっていた利権以上のものを要求する予定であった。しかしウィッテはどうしても、ロシアを除いた日本と清国だけの交渉に同意しようとしたかった。結局、条文はロシアが「清国政府ノ承諾ヲ以テ」日本に譲るというウィッテの主張をみとめ、「両締約国ハ前記規定ニ係ル清国政府ノ承諾ヲ得ベキコトヲ互ニ約ス」という但し書で日清交渉の余地を残すというかたちで妥協せざるを得なかった。小村は、鉄道についても同様の形式でゆこうと主張し、ウィッテは、鉄道は政府の影響下にあるとはいえ、私立鉄道会社の所有物だから租借権と同じわけにはゆかないと抵抗したが、結局小村の言い分に同意した。譲渡する区間は日本軍占領地域北方の長春以南とし、長春―吉林間の敷設権などいっさいの支線、付属炭鉱を含めて日本に譲ることとした。第八条の満州(租借地内の区間を除く)の鉄道経営の目的を商工業にかぎり、軍事的に使用しないことは、日露両国がともに約束するという相互的なかたちにして、簡単に妥結した。もっとも、ロシアの古林―長春間の敷設権はあいまいなものであり、のちの清田との交渉で清国自身の敷設をみとめることになっている。



償金・樺太問題で難航

 さて残りは四ヵ条となったが、このうち、第九条賠収支仏い、第十条中立国追込みのロシア艦艇引渡し、第十一条ロシアの極東海軍力制限の三 ヵ条はロシア側が強く反対してまとまらず、そこで小村は、ロシア刊が樺太割譲と賠収をみとめれば艦艇引渡し、海軍力制限の二項目は撒回してもよいという意向を示したが、これでも妥協が成立しなかった。そこで第十二条のオホーツク海、ベーリング海沿岸の漁業権につき、既存のロ シア人あるいは外国人の権利を存続させるという条件で妥協し、8月18日午後4時30分、第七回本会議を散会し、いもおう講和条件の逐条審議を終った。

  講加会議は最後の段階にさしかかっていた。ウィッテは、ロシア皇帝の態度が変わらない以上、会談は決裂に終るほかはないと予想し、17日の第六回会議の最初に、逐条審議は明日中に終るだろうから、21日の月曜日を最後の会議にしようと提議し(23日に変更)、ポーツマスからの引揚げ準備を始めた。

  この日ウィッテは、皇帝に対して、交渉の難航を報告し、戦争の継続はロシアにとっていっそうの災禍であり、日本を征服する見込みはほとんどない。また日本の占領下にある樺太を今後数十日のあいだに奪回する見込みはほとんどないと述べ、暗に樺太を日本に与えて諧和を成立させた方がよいという意見を送ったが、皇帝は領土割譲、賠償支払いを拒否する態度を変えなかった。同じ日、小村も政府に電報して、ロシア側がポーツマス引揚げの気配を示し、態度を変えない可能性が大きいこと、その場合は戦争継続のほかはないことを報じ、20日までに最後の訓令を求めた。

  しかしウィッテも小村もなお、講和の成立を望んでおり、18日午前10時、第七回本会議が開かれるやすぐこれを秘密会とし、腹を割た話合いを行なった。ここでウィッテは、自分の考えとして賠償の件は絶対に譲れないが、樺太の南部を日本、北部をロシアとすることで妥協してはどうだろう。南部は日本の漁業にとって重要であろうし、北部はロシアの黒竜江州防衛にとって重要である、ただこの場合、ウラジオストックから太平洋への交通を確保するため、日本が宗谷海峡の通行を妨害しないことを約束してくれなくては困ると述べた。

  小村もこの案は妥協の手がかりになると考え、仮に樺太二分案をとるにしても、日本が現在全島を占領していて、北半をロシアに返すことになるのだから、相当の代償が必要で、それが少な くとも12億円でなければ日本政府は承知しないだろうと答えた。いわば、賠償の名目を避けて、 樺太北半返還の代償のかたちにしようというのである。日本政府もさっそくこの案を承認し、桂首相は20日、妥協の道を開いたことは政府の満足するところと述べ、代償は12億円より多少の減損は裁量にまかせると訓令した。

  アメリカ大統領ローズベルトも最後の調停に動いた。19日には、ローゼン全権を招いて、賠償問題はフランス大統領とイギリス皇帝の裁定にまかせることにしてはどうかと述べたが、21日、金子堅太郎から前述の秘密会談の内容をきくと、ロシア皇帝にこの線で諧和を実現するよ う勧告した。しかしまだロシア皇帝は意見を変えなかった。ローズベルトはさらに翌22日、 金子に書簡を送り、日本は金銭的要求をまったく放棄する方がよい、日本が償金のため戦争を継続するとなれば、文明世界の同情はロシアに傾くだろうと述べた。



両全権、決裂を決意

 23
日の第ハ回本会議で小村は、さきの秘密会での意見交換をもとにして作成した四ヵ条の覚え書を提示した。(一)樺太を北緯50度線で分割し、 北はロシア、南は日本に属させること、(二)日本およびロシアは宗谷海峡および韃靼海峡の自由航行を妨げるような措置をとらないこと、(三)ロシアは北樺太還付に対する報酬として12億円を日本に支払うこと、(四)右の協定が成立すれば日本は軍費賠償の要求を撤回することというのである。

  これに対してウィッテは、それでは賠償を支払うのと実質的に同じではないか、ロシアの求めているのは賠償なしの講和だと述べ、仮定の問題であるが、ロシアが北樺太を受けとらないでよいといえば、日本に金銭を支払わなくてよいことになるというのが、この日本案の論理的帰結であると思うがどうか、と反問した。ウィッテは樺太は全部を日本に与えるかわりに、償金を払わないかたちで諧和を結ぶことを望んでいた。長いこと蔵相の座にあった彼は、日露戦争でロシア財政が破綻しつつあり、革命の波を切りぬけるためにこそ、新たな外債を得る必要があることを心得ていた。彼は回顧して言う。「ロシアが革命の危機を切り抜けロマノフ王朝を安固な位置におくには、どうしても2つの問題を解決する必要がある。1つは数年間資金の逼迫をきたさないだけの外債を成立させること、もう1つはすみやかに軍隊の大部をザ・バイカルからヨーロ ッパ・ロシアに帰還させることである―というのが、当時私の抱懐していた意見であった」 (大竹博吉訳『日露戦争とロシア革命』)

  彼は講和全権としての渡米にさいして、フランスやアメリカの金融資本家の意向をただしたが、フランスでは、諧和後の外債なら応じてもよいとの返答を得ていた。つまり賠償なしの諧和を実現することがロマノフ王朝のために必要であり、そしてそのやり方が、欧米の金融資本の支持を得ることを心得ていたのである。彼は本国政府に、樺太も償金も両方とも拒否して戦争を続けるというのでは、欧米の世論はロシアに不利になるだろうと説いているが、それは無賠償講和のためには樺太を日本にやってもよく、欧米金融資本の関心の薄い樺太を固執することの不利を告げようとしたものであった。

  しかし、小村は、ウィッテの仮定の問題を否定し、この案は、償金と割地について半分ずつ譲歩するということであり、日本としては、樺太にかんする要求を全然放棄するのが不可能であるのと同様に、償金の要求を全然放棄するのも不可能であると断言した。26日にもう一度会談を行ない、28日を最終の会談と定めたが、小村もウィッテも、会談は決裂に終ったと考えていた。

  ウィッテは26日、ホテルの勘定書をとり寄せ、9月5日発の欧州行汽船に乗るため、ニューヨークのホテルの予約を命じた。小村も同じ日、桂首相に電報を送り、妥協案をロシアが拒否する以上、談判断絶のほかなく、戦争継続の責任は一にロシア側にあると宣言してただちにポー ツマスを引き揚げる旨を報じた。小村も引揚げ準備を始め、ポーツマス市民への答礼として同市慈善協会に寄付する2万ドルの小切手をもみとめた。

  小村も北樺太のかわりに償金12億円を得る案を最終のものとみていた。樺太も償金も比較的必要条件とされてはいたが、小村はこのていどは取らねばならぬと、考えていたのではないかと思われるし、そもそも償金・割地の条件を比較的必要条件としてしまうことにも、全面的に賛成ではなかったのではないかと推測される。このことを最初に決定したのは4月21日の閣議であり、児玉総参謀長はこのための斡旋にとびまわったことはすでに述べたが、児玉はこの間の事情を「外交進行之手良ニ付、伊藤、山県之論ト桂、小村之論ト致セズ、依テ両者之間ニ立チ之 ヲー致セシムルノ必要有之候間夫レノミニ四五日相費シ」(4月21日、大山巌宛、『外交文書』 別冊・日露戦争X)と述べ、また講和条件をみて「桂の馬鹿が償金をとる気になっている」とどなったと伝えられていることも、償金・割地問題でもなんらかの対立があったのではないかと思われるが、詳細は明らかになっていない。



日本政府、無賠償講和にふみきる

 小村の請訓に接した内閣は、とりあえず28日の最終会議を24時開廷期するように命じ、元老を加えた閣議を開いた。論議の中心は当然、これ以戦争が続けられるかどうかということであった。軍事的には今年中にハルビンを占領できるかもしれない、しかし、ハルビンやウラジオを占領してみてもロシアの死命を制することはできない、この間ロシアの増援軍に対抗するためには、数個師団を増設する必要があろうし、そうすると来年度の軍事費は17、8億円はふえると覚悟しなければならない、これはとても財政のたえられるところではない、といった議論が数時間続けられた。(山県有朋の覚え書による「桂文書」)そして結局、戦争は続けられないことを確認したのであった。

  8月28日午後8時35分、この結論を小村に伝える訓令が発せられた。軍事および経済上の事情を熟慮した結果、政府はこのさい、償金・割地の要求を放棄しても講和を成立させることに決定した、しかし従来の経過からいって、まず償金要求だけを撒回し、割地の要求は続けることにせよ、というのであった。この訓令を発した直後、イギリス公使から、ロシア皇帝は樺太南部の割譲をみとめる気になっている、との報告が入り、これも小村に急報された。

  29日の会議が始まると、まず小村はさきの妥協案への正式の回答を要求、ウィッテはロシアの俘虜給養費以外の金銭支払いの要求はいっさい拒絶する、ただし、皇帝は樺太南部の日本への譲与に同意された、との覚え書を提出した。

  そこで小村は、樺太全島の割譲を条件に軍費賠償の要求を撤回する新しい提案を行なったものの、それはいちおうロシア側の態度をうかがっただけだった。ウィッテがさきの覚え書から一歩 も譲歩できないことをたしかめたうえで、ついにロシア側回答を受諾すると回答した。会談の決裂を信じていたウィッテはこの回答におどろき、よろこんだ。急いで会議場を出たウィッテは、別室の随員に「平和だ、日本は全部譲歩した!」と叫んだという。

  ロシアは北緯50度以南の樺太を日本に譲ること、日露両国は樺太に軍事上の工作物を築造せず、宗谷・韃靼両海峡の自由な航行を妨げるような軍事上の措置をとらないこと、という条文はたちまちのうちにできあがった。これで講和条約は全部できあがったわけであり、会議はすぐさ ま付属細目協定の審議に入り、まず9月1日休戦議定書に調印、ついで9月5日、講和条約およ び付属協定が調印された。満州からの撤兵期限は条約批准後18ヵ月、鉄道守備隊は1キロメー トルにつき15名以内と協定された。

  1年7ヵ月にわたる戦争に終止符がうたれた。ロシア軍を満州から撤兵させてその実質的領土化を防ぎ、日本の韓国支配をみとめさせるという所期の目的を達したうえ、遼東半島租借権と南満州の鉄道を手中に収めた日本は、念願の大陸進出の足場を得たのであった。このポーツマス条約は近代日本の大きな曲り角をつくるものにほかならなかった。しかし国内には、この条約を不満とする声があふれていた。



講和反対の焼打ち事件と民衆の不満


 講和条約調印の9月5日には、東京の日比谷公園で講和反対国民大会が開かれており、これを解散させようとする警官と衝突した数万の大衆は、 やがて首相官邸、内相官邸、政府系新聞社などに押しかけ、また交番に火を放って焼打ちをかけるなど、暴動化するという大事件に発展した。政府はついに軍隊を出動させ、翌6日には東京付近に戒厳令をしいて弾圧につとめなければならなかった。焼打ちをうけて焼失もしくは破壊された交番は364ヵ所、東京市に設けられた交番の8割近くにものぼっており、約2000名が検挙された。

  戦争が軍事的にも経済的にも限界にきていることはなにも知らされず、連戦連勝のニュースだけ開かされてきた国民は、諧和にあたってなぜ政府が譲歩しなければならないのかさっぱりわからなかった。戦争によるいろいろな負担や犠牲をがまんしてきたのだから、それ相応の分け前をとらずに戦争をやめるのはけしがらん、という気分が民衆のあいだに広まっていた。とくに償金がとれないことは大きな不満を呼び起こしていた。

  たとえば、桂首相は9月2日、山県有朋にあてて「目下の処、車夫馬丁の輩より、償金が取れぬというより、小商人の仲間に迄、何となく其事柄の是非を弁ぜず、騒々しき有様」(『公爵桂太郎伝』坤巻)であると報告しているし、あるいは講和に対する各層の意見を集めた東京朝日新聞は、一職工の声をつぎのように伝えている。

  「戦争中は辛抱せいというて、去年の暮に上るはずの工賃も上らなんだ。平和になったら酒の一合も飲めるとたのしんでいたが、同じ平和でも条件が悪いから、景気もやはり悪かろう。こんな調子なら、ことしも苦しいなあ」

  国家主義的、膨脹主義的な政府攻撃がこうした民衆の気分をとらえていった。講和の動きが明確になった6月中旬から、各地で代議士や新聞記者などが中心となって、大きな講和条件を要求する大会が開かれ始めた。その要求はさまざまであったが、領土では樺太はもちろん、小は黒竜江以南の沿海州から大はバイカル湖以東、償金は20億円から40億円というのが大体の見当であった。7月になると開戦前の主戦論の中心であった対露同志会の人々が中心になって、講和問題同志連合会をつくり、檄文をまいたり、地方遊説を行なうなど活発な活動を始めた。9月5日の日比谷の国民大会も彼らの計画であった。しかし焼打ち事件まで彼らの予定にあったわけではない。民衆は、国家主義者の思惑をこえて不満を爆発させたのであった。

  東京の焼打ち事件ほどに暴動化はしなかったが、講和反対の大会は京都、神戸、大阪、横浜、名古屋などつぎつぎに大都会に波及していった。都市の大衆がこうした政治問題で動き出したのは、日本の近代で初めての出来事であり、戦争が大衆の生活に直接の影響をあたえ、そのことが、大衆の政治への関心を高めたことを意味していた。

  しかし大衆が国家主義者たちのように、不満足な講和より戦争の継続をほんとうに望んでいたとは考えられない。

  たとえば、長崎県知事は民衆一般の状況について、「開戦以来商況不振ニ陥リタルノミナラズ、 本年ノ農作物ハ稀有ノ減収ニシテ何レモ困憊セル中デ、此上戦争ヲ継続セラルトセバ重荷ノ負担ハ到底堪へ能フベキトコロニ非ズ、償金割地ノ如キヲ望ムハ所謂義戦ノ名ニ背クノ嫌ナシトセズトシ、只管ラ自己経済上ノ理想ヨリ、若クハ出征軍人ノ帰来ヲ望ンガ為メ、此際条件ノ如何ヲ問ハズ平和克復ノ一日モ速カナランコトヲ冀待スル者多ク」と報告している(9月4日、桂外相宛 『外交文書』別冊・日露戦争のX)。

  つまり民衆にとって戦争の継続は望ましいことではないが、そうかといって講和には不満であった。そしてこの矛盾を、自分たちをかえりみない政府への不満として爆発させたのであった。それは組織をもたず、自然発生的であり、したがって一時の爆発がおさまるとしだいに鎮静していった。桂内聞は11月19日まで東京付近の戒厳令を解かず、新聞、雑誌の言論に厳重な取締りを加えていた。

  焼打ち事件までともなった反対運動も、講和の実現を妨げることはできなかった。政府も軍部首脳も、財界に大きな力をもつ金融資本家たちも、講和がやむを得ないことを知っていた。政友会の実力者となっていた原敬には、元老井上馨から政府が早急な講和を望んでいる情報が流されていた。原敬は1905年4月から桂首相とのあいだに、講和を支持するかわりに政友会に内閣を渡すように秘密の話合いを続けていた。講和を成立させたところで内閣がかわってしまえば、反対運動も攻撃の的を失って気勢をそがれるだろうというわけであった。

  10月15日、講和条約の批准書が交換され、効力を発した。桂内閣は12月21日総辞職し、12月28日に開院式だけ行なった第二十二議会はすぐに休会、その間に1月7日政友会総裁 の西園寺公望が首相の座についた。講和反対に力を入れていた憲政本党も、弾圧の責任者である警視庁を廃止しろという要求を出すに止まってしまった。内閣の交代で講和の責任追及をはぐらかすという原敬の作戦は図にあたった。

  桂内聞はこうした原敬との暗黙の提携に頼りながら、講和条約の後始末をすませ、11月17日韓国を保護国化する第二次日韓協約、12月22日清国と満州にかんする条約を調印して総辞職したのであった。

  それはたしかに一面からいえば講和条約の後始末であったが、同時に大陸進出の出発点を固めることにほかならなかった。

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