『大正期の急進的自由主義』

1972年12月

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ファシズム前夜の政治論


表紙

古屋 哲夫

1 行詰り状態の認識
2 「自由討議の精神」と治安維持法批判
3 地方分権主義の提唱
4 政党・議会の改革をめぐって
5 ファッショ化のもとで



1 行詰り状態の認識


 1926年12月、「大正」は「昭和」に変わった。『東洋経済新報』は早速、翌27(昭和2)年2月19日号に社説「大正時代の真評価」を掲げたが、それは、新しい天皇をむかえて、『新報』がこれまでとってきた方向を再確認し、さらに今後もその方向を推し進めてゆくのだという宣言の意味をもつものであった。そこでは、大正時代を、「事もなげに貶ちつ」する「一般の評価」に反対して、種々の側面から大正期の価値が強調されているのであるが、政治については「デモクラシーの完成せられた」時代として、つぎのようにのべられている。 

 

 明治の政治は、表面の形式は立憲君主議会政治であつたが、真相は彼等(藩閥・軍閥・官僚)一党の寡頭政治で始終した。其寡頭政治が全く破られて、彼等一党の元老または手代にあらぬ政治家が、政治首領の故を以て首相に任ぜられ、所謂政党政治の実現せられたは大正である。之実に我デモクラシーの発展史上特筆大書すべき新時代を画した物である。

 そして昭和時代は、この大正時代の努力を継続してのみ大成されるというのである。

  このような、政党を中心とした議会政治の発展こそが、あるべき政治の姿であるとする考え方に立ち、普通選挙の実施をその当面の課題として推進するというのが、明治末期以来の『新報』の一貫した立場であったことは、すでに本書のほかの諸章で明らかにせられているとおりである。『新報』は原理的には昭和期にもこの立場に固執しようとした。

  しかし、大正時代の価値をおとしめるような「一般の評価」に反発した『新報』も、デモクラシーの発展を楽観していたわけではなかった。多年の目標であった普通選挙の実現が確実となった大正末年には、普選実施が政治の革新への突破口となりうるであろうとの期待はうすらぎ、デモクラシーの発展がある種の行詰り状態に陥っていることを認めざるをえなくなっていた。

  1928(昭和3)年11月10日号に「文化史上に占むる昭和新代の位地」なる社説を掲げた『新報』は、再び大正時代の評価の問題を取り上げた。そこではまず、明治時代がはなばなしい発展をとげたのは、西洋の近代文明という「見本」があったからにほかならないとした。そしてその結果、大正時代には「初めて世界文化史上に、西洋諸国と同列」となり、したがってもはやそれ以上の発展のための「出来合の見本」は外国にも見あたらなくなり、「日本は日本として自ら其改造を工夫し自ら新文化を創始せねばならな」い地位に立ったのだと論じた。しかもこの時期はちょうど第一次大戦を契機とする世界的な転機と重なっているため、問題は複雑とならざるをえないというのである。つまり、大正時代を低く評価する人々のいうごとく、「大正時代が、其末期に当つて、政治に、経済に、思想に、混沌たる行詰の状態を呈」したことは事実であるが、しかしそれは決して日本ばかりのことではなく「世界的の現象」なのであり、その打開策はまだ世界的にみても確立されていない。

 

 西洋近代の文化の流れは、世界大戦を一の転期として改造の必要に迫られた。而もそは唯だ其必要に迫られたと云ふだけで、未だ改造の方途はたつてゐない…大正末期に現れた我社会の一切の悩みは、実に此新文化を、世界的新日本を、生み出ださんとする苦みに外ならなんだ。何で之が衰頽であらう。

 この「悩み」「苦み」は、大正末期以来『新報』自身が悩み苦しんできたところのものでもあり、この時期の『新報』の論調の特色を生み出す源となるものでもあった。そして『新報』にとって、「行詰り」がこのように重大なものとして意識されたのは、それが、単に個々の政策の行詰りといった次元の問題ではなく、デモクラシーそのものの発展に関する問題として把えられたからにほかならなかった。

  すでに本書の他の諸章でもあきらかにされているように、『新報』は、政治を動かす基本的な力は一般国民の政治意識にあるとみ、したがってそこにデモクラシーを進展させる力を見出していた。たとえばつぎのような論じ方は、『新報』のこのような特色を示しているものといえる。

 

 貴族院改革論なども、近来ぼつぼつ耳にするが、それも蓋し必要であらうが、詮ずる所は、国民の心にあるので、若し国民が断乎として衆議院を後援し、国政に対しては他の干渉を許さずとの態度を取らば、何の貴族院、枢密院あるも、恐るゝには足りない。彼らは手も足も出せぬのである(大13・1・19、社説「清浦内閣成立の理由と貴族院」)。

  ここで「国民の心」とは、国民の政治意識にほかならないであろう。したがって、このような立場からいえば、国民の政治意識が行き詰まることは、デモクラシーの進展そのものが根底から行き詰まることを意味していた。そして『新報』がこのような問題を取り上げはじめたのは、ほぼ1921(大正10)年ごろからであり、直接には、普通選挙に対する国民の関心の冷却を契機としていた。

  21年2月3日、衆議院で普選法案が否決されたが、このとき『新報』は、国民の反応に眼を向けていた。「国民は、之に対して頗る冷淡で、今年は院外に、一つの民衆運動を計画する者もなかつた。昨年、一昨年等の景況とは、まるで反対である」点に注意をうながした。そして「吾輩は、此理由を一言に括つて、議会に対する国民の絶望に在ると見る。普選などと云ふて、議会を相手に運動した処が下らない、相手にするだけこつちが馬鹿である、期せずして、斯う皆が考へたことが、所謂、扇動者を動かさず、国民を熱せしめなんだ源である」(大10・2・12、小評論)と論じた。

  こうした民衆の政治意識の変化に直面しては『新報』の論調も大きく転換しなくてはならなかった。前年までの、とくに1919、20年段階では、『新報』は大衆的普選運動の発展に大きな期待をよせていた(第6章参照)。『新報』はそこに国民の政治意識の急速な進展をみ、そのエネルギーを普選によって吸収すれば、秩序ある政治改革が可能になると考えていたといえよう。

  たとえば1920年3月20日号の社説「民心に希望を与へよ」では、「民衆の要求」は「非常に漠然たるものである」が、強いて名づければ「国家の確固たる理想を築きたいと云ふ要求」であり、「斯う云ふ要求は、即ちここに普通選挙運動といふ一つの形ちで現れたのである。蓋し普通選挙制の施行は、確固たる国家の理想を打立つべき新政治家、新政党の出現を期待し得べき、最も手近な方法であるからである」と述べていることからも、『新報』のこの時期の見方は明らかであろう。

  しかし、1921(大正10)年にはいると、このような「民衆の要求」の熱度が急速に低下しはじめたと感ぜられたのである。いいかえれば、今みてきたような民衆の政治意識進展に関する期待が、あまりに楽観的であったことに気づかざるをえなかったということでもあろう。それは単に、普選運動に対する国民の関心の冷却というにとどまらず、民衆の間の政治的雰囲気の変化として把えられたのであった。1921年7月16日号の「小評論」はつぎのようにのべている。

 

 今の在野政治家には、まだ、大正の初めの憲政擁護運動の夢を見てゐるものがある。彼等は当時と今日と、時勢の全く変つてゐることに気着かない。時勢が変つて居るとは外でない、当時の我国民には、政党と云ふものに対する非常の信頼があつた。強力にして暴威を振ふ官僚を倒して、政党内閣をさへ作らば、国家の面目は全く一新すべしと、彼等は考へてゐた。国運を開拓する、唯だ此一途にありと信じてゐた。故に彼等は真剣になつて桂に突貫したのだ、山本に肉薄したのだ。併し今は全く之と違ふ。国民は政党に失望した。大隈内閣と原内閣との施政、近頃の議会の態たらく、此等は総て、政党に対する国民の信頼を裏切るに十分であつた。そは政権を私する為めの朋党で、国利民福を念とする団結でないことを証明するに、余りに雄弁であつた。国民の信望、斯くの如く既に政党を去つた今日、如何に好題目を捉え来つたとて、何うして国民の血を政党の為めに湧かすことが出来やう。憲政擁護の夢を尚ほ夢みる者は、先ず其夢をさまさなければならぬ。

 しかしこのときの『新報』は、民衆の政治的雰囲気の変化を、たんに議会や政党に対する失望という点だけからみていたわけではなかった。その民衆の失望の底に、ロシア革命による思想的衝撃と世界的な階級闘争の展開の影響があること、さらにその失望が社会主義的方向に吸収される傾向をもつことなどを感じとっていたのである。

  国民の議会に対する絶望について述べた1921年2月12日号の「小評論」は、さらにつづけて、この絶望には2つの流れがあり、1つは「依然、普選に望みは絶たぬが、併し今の議会では何うもならぬ」というもの、他は「普選そのものに、既に望みを絶」ち「更に根本に於て、政治組織を改むるに努めやう」とする人々であるという。そして「大体に於て、中年以上の、進歩的有識階級は、前者に属し、青年及労働階級は、後者に傾けりと云ふことが出来やう」と指摘した。さらにこの後者の主張をなす人々も、昨年一昨年(大正8、9年)までは自由主義者で普選の要求に熱していたのだが、「今は、其自由主義の理想は、経済上の改革を行つた後でなくては、仮令、形ちで達しても、効果はないと覚つた」のだというのである。

  『新報』は当時、世界の大勢は社会主義的方向に向かいつつあるとみていたのであり(第12章参照)、したがってこのような政治意識の変化も、そうした方向との関連でとらえられていたのである。

  最近、益々一般人に明白になつたことは、経済組織を現在の儘にして置く間は、政治上の所謂デモクラシーも、畢竟名のみにして、実無しと云ふことである。(当今の世では金がなくては何事も出来ず、労働者はデモクラシーの名の下に形式上資本家と同等の権利を持ったとしても)、事実に於て、之を資本家と対等に行使する力が無い。(選挙に於て候補者となることも金が無ければ出来ず、従って候補者は)自ら資本家であるか、或は資本家から金を貰ふ者である。…金無き者は、其投票すべき候補者をさへ、思ふやうには得られぬのである。完全に、普通選挙制の布かれた後と雖も、之が今日の政治組織の実況である(大10・4・9〜16、社説「世界統一の二大勢力」)。

  ここで述べられていることは、要するに経済組織の変革なくしては、デモクラシーも普通選挙も限界をもっているということであろう。『新報』は、国民の議会や政党に対する失望の底に、このような資本主義社会におけるデモクラシーの限界に関する意識を読みとっていたと考えられるのである。そこには社会主義の方向に一歩を踏み出そうとするかのような姿勢さえみられた。しかしそれは、世界の大勢の見通しに伴うものであり、その見通しの変化とともに変化する性質のものであった。したがって世界の社会主義的潮流が順調に発展しないとみると、翌年には早くも「人間の生活は、刻一刻変化を必要とすると同時に、又全く旧経験から切り離された突然変化はなし得ない」という根本法則(大11・7・29〜8・5、社説「世界の思想的行詰」)をかかげて「資本主義未だ死せず」(大13・3・15、社説)とする見方へと転換していったのであった。

  日本の現状についても、わが国ではまだ資本家の力は労働者に比べて比較にならぬほど強く、政治上ないし社会上の衝突はまだ資本家対労働者という点まで進んではいない(前掲「世界の思想的行詰」)との判断を示したのである。同じ観点は無産政党運動に対する論評の中にもあらわれていた。1925(大正14)年10月17日号の社説「無産政党の将来」において全国単一無産政党樹立の動きについて論評した『新報』は、従来の無産政党運動は「その要求も主張も、実は、一部の人が、机上で、大衆の要求や主張やを勝手に想像して作り上げたものである」から「勢ひ、その草案者の理解する大衆の生活そのものゝ異るに従つて、その主張や要求やも異らざるを得」ず、したがって無産政党の大同団結がスムースに進展することは困難であろうと予測した。そしてさらに根本的な問題をつぎのように指摘している。

 

所で、此際、我が無産政党が資本家党よりも、大衆の利益を果してより良く保障し得るか否かは、要するに、これ迄、わが国を今日の如く発達せしめ得た資本家的考へ方、資本家的経営方法、資本家本意の政治等が、今後も尚ほ従来の如く、間接に大衆の生活を向上せしめ得る能力を持つてゐるか否か、若し事情の変化のためにその能力に変化が起つてゐるとすれば、その変化に順応するだけの聡明を資本家が持つてゐるか否かに、 少なくともここ暫くは懸るものである。

 つまり、無産政党の当面の発展が、資本家の「聡明」にかかっているということは、政治的・社会的衝突の中心が資本家対労働者の間にはないということにほかならないであろう。ではそれはどこにあるというのか。1922年の前掲社説「世界の思想的行詰」で、すでにその点はつぎのようにのべられていた。

 

 (我国では)まだ資本家対労働者と云ふ程度までに進んでゐない点で、政治上乃至社会上の衝突がある。官僚主義(それは専制主義の変形したものだ)対民主主義の衝突である。而して其民主主義は、其叫びの大なるに拘らず常に官僚主義の為めに踏みにじられつゝある。…さうかと云ふて、官僚主義は、全然、民主主義を圧伏し終わり得たか、或は得る望みあるかと云へば、そんな事は夢にも思はれない。唯だ民主主義は或る場合に想像せられた如く、早急に我政治を、若くは我社会を支配し得ないと云ふだけで、漸次其勢力を強めつゝあることは疑ひない。

 それは、一時、世界の大勢の急進化にふりまわされた『新報』が、再びもとの地点に立ち返って、改めて、政治的雰囲気の変化の問題に立ち向かわなければならなくなったことを意味していた。すなわち政治の現状が当面社会主義の方向に動くものではなく、官僚主義対民主主義の軸で展開するものとすれば、国民の間に現われ始めた議会や政党に対する絶望が、社会主義の方向に吸収されることを期待するわけにはゆかず、それは民主主義の進展を阻害する要因として把え直されねばならなくなってくる。かくして『新報』は、問題を国民の政治意識の行詰りとして認識し、それをいかにして打開すべきかという課題に直面することとなるのであった。そのことを示すものとして1923(大正12)年8月25日号の社説「党弊を厭ふの行過ぎ」をあげることができよう。

  21(大正10)年の場合には、たんに民衆の間の政治的雰囲気の変化という現象を指摘するにとどまった『新報』は、翌年の前掲社説「世界の思想的行詰」を媒介として、ここでは人心の一転を明白に憂うべき事態として提示したのであった。さきにかかげた1921年7月16日号の「小評論」(310〜11ページ参照)との論調の変化を示すために、論旨の重複する部分をも含めて引用しておこう。

 

 時を指すなら、第3次桂内閣に対して爆発した大正2年の憲政擁護閥族打破運動以来と云へやう。我国は此時から最近に於ける政党政治熱望時代に入つた。然るに今や一転人心は、党弊の繁きを厭ふの余り、政党政治を呪詛するに至れるやに見ゆる。而して此為め我必要なる国務は漸く渋滞する憂あるのみならず、或は政党政治呪詛の極は、驚くべき時代錯誤の政治現象を生ずる虞なしとも限らない。

 ではどうすればよいのか、この社説はつぎのように結論する。

 

 併し乍ら幾許、政党政治を呪詛しても、今更官僚閥族政治に反るわけにはゆかぬ、反るべく既に余りに議会の勢力は強大に、而して官僚閥族は凋落した。然らば行くべき道は、唯だ政党の改造にある。而して政党の改造には、其一党専制の原因たる制限選挙制を打破し、普通選挙を施行するが第1の方法である。…実際に於て今日の党弊は殆んど堪へ難きものがある。そを呪詛する声の所在に起るは、無理もなき次第であるが、此際こそ識者は益々意気を盛んにして政党政治の完成を期し、其健全なる発達に肝胆をくだく心を堅くする要がある。

 『新報』は再び、普通選挙の即行を政党や内閣に要求する声を高めた。しかしそれだけでは、デモクラシーの進展のために十分でないことを自覚していた『新報』は、この年来の主張が実現されるのをみながら、皮肉にもそれをささえるべき、あるいはこの通路から噴出するはずの国民の政治的エネルギーの低下に悩まねばならなかったのである。普通選挙法案は1925(大正14)年5月5日、いわゆる護憲三派内閣のもとで公布されたが、その直後の5月16日号の社説「政革合同を如何に見るべきか」は、つぎのようにいう。

 

 吾輩も、普選に対して同様の(政党・議会・政府の改善という)希望をかける一人である。併しながら、問題は一にかかつて、新加の有権者がその投票を善用するか否かにある。若し新加の有権者が、旧来の有権者同様に無自覚なる場合には、政党にも、議会にも、政府にも、格別改善の希望をかけ得なくなる。

 『新報』にとって真に重大な問題は、国民の政治意識がいかに進展するかという点にあった。関東大震災後の『新報』の論調は、急速に、国民の責任を強調し、その自覚をうながすという色調を深めていった。

 

 日本の国民には…まだはつきりと、政治は衆議院を中心とすべきもの、政党に託すべきものとの観念がない。…政党が悪い、衆議院が依頼するに足らぬなら、国民は総選挙毎に之を改むる機会を持つてゐる。然るに国民は之をなさず、而して事あれば、衆議院が悪いの、政党が下等のと云ふのは、鏡に写つた自分の醜悪なるを見て、罪を鏡に帰するが如きものである。(大13・1・19、社説「清浦内閣成立の理由と貴族院」)。
観じ来れば、日本の政治は全く暗黒である。是に於て吾輩は、毎々繰返すことながら、深く国民に反省して貰ひたい。何となれば斯くの如く政党が腐敗し、政治が暗黒なるは、国民の自覚が足らぬ為めだからである(大13・2・2、社説「正解を清むる手段」)。
一体我政治は何が故に斯くも新味を欠き、沈滞し切つてゐるかと考ふる。原因は他にはない、唯だ国民に存する。が、さればとて国民は何うしたらば好いかと尋ぬるに、之亦実は誰れにもうまい勘弁はないらしい(昭2・1・22、時評)。

 では、この国民の政治意識の沈滞をもたらしたものは何か、1924年6月7日号の社説「人心の倦怠」は、それはわが国が「第二維新」を必要とするような「総行詰り」の状態に落ち込んだためであると答える。そして行詰りの直接の原因は「戦時戦後の好景気の反動と、震災との2つ」であるが、しかしそれが解決されたとしても「再び壮年の若々しき元気を回復して発展の途に上り得るかと云へば、さうした希望は何処にも認められない」と断じた。「希望」の失われた結果、「人心の倦怠の弛緩は実に憂ふべき程度に進んでゐる。其最も顕著なる事例をなすものは政治熱の冷却である。政治に対する倦怠である。…夫婦の間に愛が絶ゆればそこに夫婦なき如く、国民に政治熱が冷却すれば則ち国家の解体である」。そしてその根本の原因は、まさに帝国主義の破産にあるとしたのであった。この問題は、翌6月14日号の社説「財政改革の国民運動を起すべし」で、正面から取り上げられている。

 

 我全体の国情をして斯の如く総行詰りに陥れたる原因は是亦要するに、帝国主義の破産である。・・・我帝国主義政策の効果は大体日露戦争を以て終りを置かれ、爾来一歩も領土勢力圏の拡張を進め得ず、而して世界大戦の結果は予期の如く世界的に帝国主義を埋葬した。かくて国民の希望を托した唯一の根拠は破滅に帰し、只だ負担の過重と之を基礎に立てられた幾多の制度の邪魔だけが残る。

 それゆえ、明治維新が「封建制度の一切の束縛から国民を解放した」のに対して、第二維新の目標は、「帝国主義の政策に因縁して起れる一切の束縛を撤去して、国民を総て其なかりし前の状態に解放することである」と主張するのであった。

  『新報』の帝国主義批判については、すでにふれられているので、ここでは立ち入らないことにするが、『新報』の立場からすれば、帝国主義を打破する力は、デモクラシーにあり、つまりは国民の政治意識の進展にあるわけであった。したがって問題は、結局のところいかにすれば国民の政治意識を進展させることができるか、政党や議会にそのための有効な働きをさせるためにはどうしたらよいのか、という点に還流してこなければならなかったのである。

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