『大正期の急進的自由主義』

1972年12月

印刷用ページはこちら



ファシズム前夜の政治論


古屋 哲夫

1 行詰り状態の認識
2 「自由討議の精神」と治安維持法批判
3 地方分権主義の提唱
4 政党・議会の改革をめぐって
5 ファッショ化のもとで



4 政党・議会の改革をめぐって


 『新報』は、地方分権主義の実現を既成の政党や議会に期待したばかりでなく、地方分権主義を政治的争点とすることによって、既成の政党や議会の改革のいとぐちがつかめるのではないかとさえ考えた。1926(大正15)年、政友会が市町村自治権拡張をスローガンの1つに掲げて以来、政友会に声援を送ったのもそのためであった。さらに政友会を基礎にした田中内閣に対しても、その対中国政策には強い批判を加えたが(第9章参照)、地租委譲問題に関しては、その不徹底さを攻撃しながらも、基本的には田中内閣によって実現されることを期待したのであった。

 また、田中内閣の地租委譲政策に対して、野党の民政党が義務教育費中の教員俸給の全額国庫負担を主張すると、『新報』はそれがますます地方自治体に対する中央政府の干渉を増大させる結果になることは明らかだと批判したが、同時に、この対立は地方分権主義と中央集権主義との対立にほかならず、「記者は此対立―我が国の政党間に於ては珍しい思想上の此対立―の成立を喜ぶ」(昭2・9・17、社説「政友会は地方分権主義に徹底すべし」)と述べたのであった。

  『新報』は、この対立が国民の関心を集め、政党を政策本位に改革することとなることを期待したのであったが、しかし国民の関心は『新報』の期待したようには動かなかった。たとえば、1927(昭2)年の府県会議員選挙において、選挙民の間では地方分権主義が問題とならず、民政党は真面目で健全であり、政友会はでたらめで放漫だと漠然とした評価が存在していたことを認めた『新報』は、つぎのような不満をもらさねばならなかった。

 

 真面目は政治の基本条件だ、併し若し唯だ之だけで我選挙民が政党を批判し、他を顧ることを知らぬとすれば、政治に対する彼等の理解は、余りに単純且つ感情的なりと評さねばならぬ…政治は真面目であるべきだが、併し政治の実体は政策に在る。政策を問はずして、唯だ「真面目」と云ふ如き抽象的の感じに支配せらるゝ選挙民は、又或は他の抽象的感じに支配せらるゝ危険を持つ(昭2・10・8、時評「民政党と政友会両党に対する世の評判」)。

 しかし『新報』も反面では、既成政党への不信が深まっていることも認めないわけにはゆかなかった。1928年に実施されることとなった最初の普通選挙に際しても、もはや一度や二度の選挙で状況が根本的に変化するとは考えず、普選が漸次政党を変化させるのを「気長く末を見るの覚悟」をもって見守ろうとする態度をとった(昭3・1・28、時評)。そして選挙民に向かって、一方ではこれまでの持論である地方分権主義の立場から政友会への投票を呼びかけたが、他方では、政友会に有権者を納得させるだけの「道徳的の信用が無い」ことも認めざるをえなかった。

  この点では民政党も政友会と五十歩百歩だとした『新報』は、地方分権主義に代わるもう1つの投票の標準として、「既成政党の打破、換言すれば政党の改造」をあげ、「それには今回の総選挙に於て成るべく多数の既成政党以外の新人物を議会に送り込むに限る」とも述べていた。そしてこの2つの標準の「孰れを執れとも勧めぬ」との態度をとったのであった(昭3・2・11、社説「我等は誰れに投票すべきか」)。それは、政策の面からでも、政党の面からでも、どちらからでも改革の手がかりが得られればよいということであった。

  しかし、この議論は、いいかえれば、改革実現のきめ手が容易に得られないという状況を表明するものでもあった。「きめ手」が見出しえない以上、改革策は、政策と担い手の観点から多角的に提起する以外になかった。それゆえ地方分権主義を強力に提唱しながらも、その実現のための推進力を見出しえなかった『新報』は、担い手の側面では、既成の議会・政党を改革する問題を提起するほかはなかった。『新報』は議会制民主主義の限界にも眼を向けたかにみえたが、議会制の原理的問題にふみこまない以上、現実には現に存在している政党や議会が政策を中心として活動するようになることに期待せざるをえず、そのためにはまず、議会と選挙の運営が改革されることが前提だと考えられたのであった。

  『新報』はすでに1916(大正5)年8月15日号に「帝国議会を年中常設とす可し」と題する社説をかかげていたが、この議会常設論は、政治的行詰りが問題となった大正末年以後には、議会改革の前提条件として繰り返しとなえられるようになった。たとえば、『新報』は1923(大正12)年2月24日号から3月3日号にわたって、「衆議院改善の方法」と題する社説をかかげ、議会常設化を改革の「第一策」として提示した。すなわち、現在の議会が「国務の相談所であることが忘れ去られて、唯だ政党政派の闘争場に化」しているのは、「現行憲法規定の通常会期では、今日の国力及社会の要求に相応する議案の審議に不足せること」が、大きな原因となっているというのである。

  大日本帝国憲法は、議会の会期を3ヵ月と規定したが12月召集で年末年始の休会があるので、実際に会議が開かれるのは2ヵ月程度であった。これくらいの会期では、多くの複雑な議案を慎重審議する暇はなく、政府党が必要な議案の通過を遮二無二強行することになるのは当然である。もし「会期にして長くば、幾ら日本の政党でも、もう少し、ゆとりのある、落ち着いた態度が取れるであらう、取らざるを得ぬであらう」というのであった。そしてこのためには、「必要あらば仮令憲法と雖も、其改正を辞すべきでない」が、そこまでゆかなくても、会期延長や臨時会の召集の規定を利用すれば、議会を常設に近いものにすることは不可能ではないと主張した。この議会常設論は以後たびたび繰り返されることになるが、しかしそれは、あくまで議会を「国務の相談所」とするための前提条件にすぎなかった。

  議会制度に関する『新報』の特徴ある主張は、委員会審議の段階では、党派の少数の関係を排除して、「相談に相談を重ね」るような審議の仕方をとるべきだとする点にあった。すなわち、多数党が多数の委員を出し、少数党には少数の委員しか割り当てられずに多数決で事が決せられるとすれば、「委員会に付したからとて、予め多数党の決した以外に、議案に何らの改善を加ふることは出来ない」というのである。そして、委員会では「全員の一致を見るまで、何処までも熟議し懇談する」ことが理想であると述べるとともに、委員選出の方法についてつぎのように提議した。

 

 理想を論ずれば、政党政派に拘らず、総ての委員は、それに適任の者を全院から推挙する方法を取るべきである(規定から云えば、現在でも左うあるべきである)。併し之は、今日の場合、実際に行ひ難い、されば吾輩は先づ権宜の策として、委員会は、各政党政派より同数の委員を選出して組織すべしと主張する。

 それは、とりあえずは、各政党政派の有する意見を対等に扱うということであり、さらに理想としては、議員各個人を独立の政見の所持者として平等に見てゆきたいということになろう。そしてそれは委員会審議の段階では、党議の名による党幹部の統制を排除して、議員個人の自由な討議に期待するということ―そうした方向への政党の改革を期待するということをも意味していたであろう。

  『新報』はさらに1924(大正13)年6月21日号の社説「議長及委員の選挙」でも、議長・副議長・全院委員長・各種委員を「人材本位」に選任せよとの主張を繰り返したが、とくに「議長の如きは、人材本位と云ふ中でも、殊に之を少数党より挙ぐるの慣習を作るこそ然るべきである」との意見を出していた。

  しかし『新報』はやがて、こうした改革を実現してもなお、政策審議のための議会の機能は十分とはいえないという問題につきあたらねばならなかった。貴族院における民事訴訟法改正法案の審議を取り上げた1926年2月27日号の社説「改革の機運迫れる議会制度」では、難解な法案に対する第一の対策として議会常設論を繰り返したが、しかし立法の仕事のなかには、審議時間を十分にとっても単なる常識だけでは処理しえない部分が増大していること、この面からも「議会制度は、近く何うしても改革を見ねばならぬ運命にある」ことを認めざるをえなかった。

  さきにふれた職能代表制の問題は、このような認識ともかかわるものであったにちがいない。そしてその点は『新報』の貴族院改革論のなかにうかがうことができる。『新報』は1925(大正14)年1月24日号の社説「貴族院改革の目標」において、貴族院を「知識と経験を集める第二院」とし、職能代表制を中心とする方向に改革して、下院選挙の欠点を補うものたらしめることを提唱した。そしてその理由として、下院の選挙は、一、二の限られた問題を係争点として争われ、したがって「下院が真に民意を代表する上に重大なる欠点の存することを看過し得ない」とのべているのである。それは下院選挙で選ばれる議員たちに、国政全般の問題を処理する能力のあることを保障しえないということであり、さきにあげた常識で処理しえない立法の複雑化に対応する問題にほかならなかった。

  しかし、現実主義的な『新報』の立場からすれば、こうした問題に深入りするよりも、議会改革の基本条件にみあうような、政党改革の問題を取り上げるほうが先決であった。

  『新報』は政党改革のかぎを選挙の改革に求めていた。普通選挙の問題はその1つの柱ではあったが、それだけでは十分ではなく、より異なった角度から問題を取り上げることが必要であった。それは、政党を政策本位にするためには、金銭の束縛から解放しなくてはならないということであり、その観点から「選挙費用国庫負担論」が展開されることになるのであった。

  『新報』がこの問題を提起した直接のきっかけは、『新報』がその活動に大きな期待をかけていた革新倶楽部が政友会に合同するというできごとであった。これは一般に、革新倶楽部の政治資金の行詰り、つまりは金のための身売りであると評された。この事件をとらえた『新報』は「政党が、かねの為に身売りせねばならぬことは、国の政治上の重大事件である。…何となれば、これ、政党に独立なく、従つて議会に独立なく、又政府にも独立がないこと」、つまり「悉くかねの為に、左右せられてゐること」を物語っているからだ。そして、このような「政党のかねの苦労」がなぜ起こるかと云えば、選挙費用が選挙ごとに増大しているからにほかならず、この増大する選挙費を負担しうるもののみしか候補者たりえないとすれば、「政党は富豪政党、政治は富豪政治になる外はない。それでいゝなら、面倒な選挙は止めにして、三井、三菱、住友、安田等に、政治を托する方が遥かにましであらう」と論じた。

  そしてこの対策としては、「選挙費用を政府の負担となすことが出来れば、これに優る方法はないであらう」と、はじめて選挙費用国庫負担の考え方を示唆したのであった(大14・5・16、社説「政革合同を如何に見るべきか」)。

  ついで、1926年5月1日号の社説「政治を金銭より解放すべし」において、その具体的方法をつぎのように提示した。

 

 結局選挙運動費は全部之を国家が支弁し、候補者及其他の私人或は団体には一切其支出を許さゞる方法を取るより外に方法はない、…換言すれば、選挙の為めに必要とする各候補者の印刷、郵送、演説、車馬、運動員の食料等は、総て適当の方法を以て国家が之を引受け支給する、而して候補者及之を援助する者は、唯だ其印刷すべき文書を起案し或は演説場に身を運べば事足るやうにするのである。


  『新報』はさらに初の普選実施を目前にして、「選挙運動費国庫負担論」(昭3・2・4、社説)、「選挙運動費国庫負担の実行方法」(昭3・2・18、社説)などの社説をかかげ、その趣旨を解説しその実行方法について種々の具体案を提示した。

 しかし『新報』は、政党を金銭から解放することによって、政党にどのような変化が生まれ、政党がどのように改造されることを望んだのであろうか。この点に関しては、先の「政革合同を如何に見るべきか」の末尾に、つぎのような数行を書き残すにとどまっている。

 

  選挙費の国家負担が行はれゝば、政党は全然かねの苦労から、免がれる。その結果は、勿論政党及び議会の面目を一変せしむるに相違ない、蓋し代議士の個人的自由は極度に拡張せられ、所謂、党議の束縛の如きも自然に除かれるからである。

 それはまさに、さきにみた議会制度改革の構想に対応するものであった。『新報』は政党・議会の改革の先に、自立した代議士が、政策をめぐって自由に十分な討議を重ねる有様を思い描いていたにちがいない。しかし、現実の政党の反発を買うことが明らかなこうした構想について論じたてるよりも、一方で基本的な政策を、他方では政党・議会の改革を具体的に提起しながら、国民の政治意識の盛り上がりを「気長に」待つというのが、『新報』の基本的姿勢であったように思われるのである。逆にいえば、『新報』の政治的行詰り打開のための改革構想は、堂々めぐりをするだけで、実現のための突破口を求めえず、気長に待つしか方法のないところに落ち込んでいたともいえよう。

  しかも、現実には、『新報』の改革構想を根底から否定し、政党=議会制を軸とするデモクラシーの代りに、「国家改造」によって総力戦体制の構築をめざすファッショ的勢力が台頭しつつあったのである。かれらは、ロンドン海軍軍縮会議への攻撃によって、その姿を明確にしてきていた。

5ファッショ化のもとでへ