『人文学報』第36号

1973年3月



北一輝論 (1)


 

古屋 哲夫


は じ め に

1帝国主義と国家の必要
2社会の進化と個人
3公民国家=社会民主主義論
4国体論批判の性格と天皇機関論
5社会主義運動論の特徴と矛盾



1帝国主義と国家の必要


 1883年(明治16)佐渡ヶ島に生れた北は、日清戦争が開始された時12才であった。このことは、彼が戦争そのものと戦後の「臥薪嘗胆」のスローガンによって国家意識が大衆にまで浸透していった時代に、10代を過したことを意味している。またそれは同時に、日清戦争の敗北によって中国に対する列強の植民地侵略が急テンポで進められた時期でもあり、日本の国内でも、「支那分割論」「支那保全論」などといったテーマに世論の関心が向けられていた。このことは北の思想形成の1つの背景と考えておいてよいであろう。

  もちろん、それは北が10代において早くも強烈な国家主義者になったという意味ではない。彼は1900年(明治33)に『明星』が創刊されるとすぐさま投稿をはじめる文学青年であったし、また佐渡における自由民権の流を身近かにうけとり、同時に新しくおこってきた社会主義思想にも眼をむけていたことは、すでに田中惣五郎氏(『北一輝』増補版1971年、三一書房)や、松本健一氏(『若き北一輝』、1970年、現代評論社)などによって明らかにされている。そして特に内村鑑三に特別の敬意を払っていたことは、後で述べる「咄、非開戦を言ふ者」のなかの次のような内村についての叙述にもみることができる。

  「氏は十字架を指して人道の光を説きぬ、世が尊王忠君を食物にして私慾を働くの時に於て、氏は教育勅語の前に傲然として其の頭を屈せざりき、……実に内村鑑三の四字は過去数年間の吾人に於ては一種の電気力を有したるなり」(3−88頁)

  このような北の思想的出発点は、政治問題についての最初の論文「人道の大義」(佐渡新聞、明治34・11・21〜29)に掲げられている次のような改革項目からも推測することができる。

一、

天皇は一般民人を親近し拝謁を贈ふを得るの制度となすべし

 

二、

臣民間の階級制度を廃止すべし

 

三、

智識の分配を平等ならしむべきこと

 

四、

議員撰挙法を改正して広義なる普通法となすべし

 

五、

労働組合を組織して資本家利益の壟断を制し及び相互救護するの方法を講ずべし」

(3−5〜9頁)

 それは、自由民権や社会主義の主張を彼なりに整理したものとみることができる。そして、ここではまだ、国体論打破の志向はあらわれていない。「伏して惟みるに天皇は民の父母たり民は其子女に異ならず、是れ我が立国の大本にして万世不易の格言国情の列国に異なる所爰に在り」(3−5頁)として、「君臣の疎隔」を除去しようとする論法は、国体論の枠内のものであった。しかし後の北の思想展開との関連で言えば、ここで早くも国内改革と国際的発展を結合する視点がみられることに注意しておく必要があろう。

  彼は、さきにあげた諸改革の目的が「現在の散邦裂士を連合し……世界的大政府を建立するの一事」にあるとし、そのために「率先して人道の大義を唱へ以て世界列邦を指導」することが「君子国たる吾日本の以て畢世の任務となすべき所」と述べている。そしてその「順序」として「先づ自国の国力を養成し、文明の基礎を確立し上下相一致し君民相和同して、而る後始めて其志を一世に行ふべきのみ」とするのである。(3−4〜5頁〉すなわち、国力養成・文明の基礎確立→列国と異る君主国(日本の特殊性)→列邦に対する指導性→世界的大政府として、この「順序」を図式化することが出来る。そして国体論批判は、この「文明の基礎確立」のための試みとして出されてくるのであり、そのことによって日本の特殊性の問題は再検討せざるを得なくなったにちがいない。同時にまた1900年の義和団事件以後ロシアとの対立が激化しつつあるという現実のもとでは、戦争か平和かの問題を通して、列邦に対する指導性を確保 しながら世界的大政府に至る道程についても検討し直すことが必要となったと思われる。

  北が最初に国体論批判の声をあげたのは、明治36年6月25、26日にわたって「佐渡新聞」に掲載された「国民対皇室の歴史的観察(所謂国体論の打破)」と題する論説においてであったが、この連載が新聞社の側の自主規制によって2回だけで中止された一週間後には、彼は「日本国の将来と日露開戦」(明治36・7・4〜5)なる論説をもって、再び佐渡新聞に姿をあらわしている。この論説は「政界廓清策と普通選挙」(明治36・8・28〜30)をはさんで、「日本国の将来と日露開戦(再び)」(明治36・9・16〜22)と続き、更に「咄、非開戦を言ふ者」(明治36・10・27〜11・8)において、社会主義者の非戦論への反撃へと発展しているのである。つまりここでは日露開戦を唱えるような国家意識の高揚が国体論批判を生み出しているという点に注意しておきたい。すなわちこの関連がのちの『国体論及び純正社会主義』の基本的骨組みを形成したと考えられるからである。

  「国民対皇室の歴史的観察」は次のように書き出される。「克く忠に億兆心を一にして万世一系の皇統を載く、是れ国体の精華なりといひ、教育の淵源の存する所なりといふ。而して実に国体論なる名の下に殆ど神聖視さる。」(3−36頁)そしてこの神聖視される国体論は実は「妄想」にすぎないことを明らかにしようとする。

  そしてその意図を彼は次のように述べている。「迷妄虚偽を極めたる国体論といふ妄想の横はりて以て、学問の独立を犯し、信仰の自由を縛し、国民教育を其根源に於て腐敗毒しつゝあることこれなり。吾人が茲に無謀を知って而も其れが打破を敢てする所以の者、只、三千年の歴史に対して黄人種を代表して世界に立てる国家の面目と前途とに対して、実に慚愧恐倶に堪へざればなり。」(3−37頁)

  彼は「事実をして事実を語らしめよ」(同前)と言い、日本国民は1000年にわたって皇室を暗黒の底に衝き落してきたというのが歴史的事実ではないかと指摘した。しかしこの論文は新聞社側の自発的掲載中止によって、ほんの序論部分が発表されただけで姿を消したのであったが、 その末尾は「吾人の祖先は渾べて『乱臣』『賊子』なりき。」(3―38頁)なる一文で結ばれていた。我々はこの未完の短文から、3年後の『国体論及び純正社会主義』のうち、「例外は皇室の忠臣義士にして日本国民の殆ど凡ては皇室に対する乱臣賊子なり」(1-296頁)、「万世一系そのことは国民の奉戴とは些の係りなし」(1−328頁〉と述べられているような部分の構想がすでに出来あがっていたことを確認することができる。 しかし北の目的は、たんに歴史的事実をもって国体論の妄想にすぎないことを証明することだけではなかった。彼は国体論を排し、「以て我が皇室と国民との関係の全く支那欧米の其れに異ならざることを示さんと試む」(3−36頁)と述べているが、しかし彼の意図が君主と人民、あるいは国家と国民の一般的関係を解き明かすだけに止まるものでなかったことは、先の引用の「黄人種を代表して世界に立てる国家の面目と前途」という言葉のなかにあらわれているように思われるのである。彼にとっては、国体論の打破はあるべき国家意識を明確にするための第一歩にほかならなかった。そしてその点において、次の日露開戦論につながっていたと言える。

  北の日露開戦論は、彼にとっては、日本のあるべき姿の模索という意味をもっていた。「露国に対する開戦、然らずむば日本帝国の滅亡」(3−73頁)−北は再論をふくめると8回にわたって連載された「日本国の将来と日露開戦」をこう書き出している。この論説において彼は、まず世界的な帝国主義の潮流を認識し、日本もまた積極的にこの潮流に加わりこれを突き抜けてゆかねばならないと主張する、彼はすでに、かつて主張した世界的大政府の下での世界平和─「天下ハ乃ち泰平にして交戦は祖先の未開を証する話柄となるに至らん」(3−4頁)─は、帝国主義の段階を経過することなしには実現しないとの考えに傾いていたと思われる。

  彼は、「侵略的意味に解されたる民族的帝国主義は現下世界列強の理想なり」(3−73頁)と世界の現状を認識する。そしてこの帝国主義の原動力を「人口の増加」に求めた。「見よ。世界は電気と蒸気とを以て全く縮少せられたり。人口は恐るべき勢を以て増加しつつあり。この増加する人口がこの縮少されたる世界に於て其の利益と権利とを争ふ。帝国主義が多くの場合に於て血と火とを以て主張さるゝ当然のことに属す。」(3−78頁)北はこの「人口の増加」を基本におく見方からさらに帝国主義を「人種的競争」と捉えるに至るのである。そして「吾人は実に人種的競争の、砲火に於てか平和に於てか、終に吾人の時代に於て結着の勝敗を見ざるべからざるを想ふ」(3−4頁)、とすれば、「来るべき人種的大決戦」(同前)に勝ち残るための条件をさぐらねばならなくなる。

  すでに国体論を妄想としりぞけていた北は、まず「吾人は不幸にして甚だ優等なる人種に非ざること」を率直に認識せよと言う。日本の独立がおかされなかったといっても、それは「単に四囲の風浪と鎖国政策との為めに穴熊の如き冬眠的状態に於て僅かに」維持されたにすぎず、その結果として「人種の政治的法律的経世的能力無く」、残されたのは「小さき、醜くき、虚弱なる、神経質なる、早熟早老の吾人」(同前)にほかならない。さらばと言って、経済的資源があるわけでもなく、欧米帝国主義のように「経済的帝国主義」に立って商工的戦争を行うだけの力もない。「米大陸といひ、西比利亜といひ、濠州といひ、印度といひ、亜弗利加といひ、渾べて皆英米仏独露の列強によって握らるゝ者。彼等が是等豊饒にして広大な領土により、関税の塁を築きて其激甚なる経済的戦争を戦ひつゝあるの時。粟大の島国が奈何ぞ商工に於て立 を得むや」(3-79頁)つまり「この島々に籠城して農業立国といひ商工立国といひ早晩の滅亡を察せず」(3−82頁)というのである。

  では、日本が帝国主義的に発展するための条件は何なのか。北は「三千年間不断の乱世と、戊辰、西南、日清、北清の戦争とを以練磨されたろ戦闘的特性」(3−84頁)があるではないかと答える。日本人は「現今の世界に於ては最も能く戦争に長ず」(3−74頁)と。彼の結論は戦争しかありえなかった。「吾人は貧と戦闘の運命を荷いて二十世紀の日本に生る」(3−77頁)。三国干渉以来の「臥薪嘗胆」のスローガンによる軍備拡張の下で、10代の少年期を過し終えたばりの北にとって、対露戦準備は進捗し、軍事情勢は我に有利と思われた。「実に千歳の一遇なり」(3−83頁)、「吾人は言ふ、戦争のみ、戦争を以て帝国主義を主張するにあるのみと。」(3−81頁)

  北が戦争に期待したのは広大な領土の獲得であった。彼は帝国主義の本来的なあり方は経済的帝国主義だと考えていた。そして日本も帝国主義の列に加わるためには、領土の拡大が先決だというのである。「経済的帝国主義の戦争には領土てふ資本を要す」, 「吾人は残酷なる経済的帝国主義の敗者たるに堪へず。……帝国主義の残酷を免れむとする、或る場合に於ける方法として侵略は止むべからざるに非らずや。……吾人は商工的戦争を為すの前、前駆として必ず先づ傾土の拡張をなさゞるべからず」(3−82頁)。彼は対露戦争の勝利によって、「満州・朝鮮、而して西比利亜の東南部」を獲得した日本の将来を夢想する。それによって「来るべき人種的大決戦に於て再び成吉〔思〕汗たり、タメーラーンたる」(3-74頁)ことも可能になるであろうと。そしてそれが黄色人種のためにもなるであろうと。「吾人は嘗て清国を打撃して同胞の黄色人種を奴隷の境遇に陥れぬ、然らば吾人は其の罪滅ぼしとして其打撃を進で露に下さゞるべからざるに非ずや。……日本帝国の飛躍、黄色人種運命の挽回、今や三十歳の小児は世界歴史に向って最も壮厳なる頁を綴らむとす。吾人五千万の国民はこの光栄に対して大胆に覚悟する所なかるべからず」(3−84頁)。

  こうして帝国主義者として立ちあらわれた北も、自らは同時に社会主義者であるとの自覚を捨てることができなかった。

  従って、彼の尊敬した内村鑑三をふくめて、社会主義者たちが非戦論の主張を声高く主張しつづけるという現実に直面したとき、改めて社会主義と帝国主義の関係をどう理論づけるかの問題に直面しなければならなかった。そしてその過程で、単純明快な帝国主義の主張を微妙に修正しなければならなくなっていったように思われる。

  明治36年10月27日から11月8日まで9回にわたり、佐渡新聞に「咄、非開戦を言ふ者」を連載した北は、まず自らの立場を次のように述べている。「吾人は明白に告白せむ。吾人は社会主義を主張す。社会主義は吾人に於ては渾べての者なり。殆ど宗教なり。……而も同時に、吾人は亦明白に告白せざるべからず。吾人は社会主義を主張するが為めに帝国主義を捨つる能はず。否、吾人は社会主義の為めに断々〔乎〕として帝国主義を主張す。吾人に於ては帝国主義の主張は社会主義の実現の前提なり。吾人にして社会主義を抱かずむば帝国主義は主張せざるべく。吾人が帝国主義を掲げて日露開戦を呼号せる者、基く所実に社会主義の理想に存す」(3−86〜7頁)。彼にとっては、帝国主義から人種的大決戦への道は、社会主義をもってしても避けることの出来ない世界史の必然と考えられたのであった。そこで彼は、「帝国主義の敵は社会主義なり、社会主義の敵は帝国主義なり」とする「世界を通じての定論」(3−87頁)に挑戦を試みるのである。

  非戦論を唱える社会主義者に対する北の批判は、2つの論点に要約することが出来る。すなわち、第1には国家の必要という問題であり、第2は帝国主義における正義という観点である。 まず第1の問題について、北は自らの社会主義を次のように説明する。「吾人の社会主義は…… 無政府主義に非らず。社会主義の実現は団結的権力を恃む。国家の手によりて土地と資本との公有を図る。鉄血によらず筆舌を以て、弾丸によらず投票を以て。─生産と分配との平均、即ち経済的不公平を打破することが是れ吾人の社会主義なり。」(3−90頁)この限りでは、北は社会主義の実現のために権力の獲得が必要であることを強調しているにすぎないようにみえる。しかしここから彼の議論は国家一般へと飛躍する。彼の文章は次のようにつづく。「故に社会主義は必ず国家の存在を認む。故に国家の自由は絶対ならざるべからず。故に他の主権の支配の下に置かるべからず。故に国家の独立を要す」(同前)と。

  ここで「国家の自由」という言葉にどのような内容が含ませられているのか明らかでない。しかしそれがたんに「国家の独立」と等置されているものでないことは、次の一文からも推測される。すなわち彼は、社会主義の目的は「筆舌を以て国家の機関を社会主義の実現に運転せむとするに在り、……投票を以て国家の羅針盤を社会主義の理想に指導せしむとするに在り」とし、「科学的社会主義は機関の破壊と羅針盤の粉砕とを最も恐る。機関の破壊と羅針盤の粉砕とを企てる者は渾べて社会主義の敵なり。無政府党は社会主義の敵なり、国家の機関と国家の羅針盤とは社会主義者の全力を挙げて護らざるべからざる所なり。」(3-91頁)というのである。ここでも「国家の機関と羅針盤」とは何を指すのか説明がない。しかしその言わんとする所は、国家は人為的につくりえないものであり、国家の連続的な発展の上にしか社会主義も成り立ちえないという点にあったのではないかと思われる。勿論まだそのような方向が明示されているわけではなく、北自身もまた国家について明確な主張を持ち得ていなかったようにみえる。例えば、前掲引用文のすぐ前には 「固より社会主義の実現されたる状態が、今日の国家なる称呼と全く別物なるは言ふまでもなしと雖も、其の実現の手段として国家の手を煩はさゞるべからざるは亦論ずるの要なし」(同前)と書いている。これでは国家が社会主義のための「手段」であるようにみえるのであるが、このような表現は以後は全く使用されなくなっている。また、社会主義の下で国家が全く別物になるということは、社会主義によって国家がつくり変えられるということではなく、国家の発展を促進し進化させるというニュアンスで主張されたものと思われる。この論稿でも「人類が千年二千年の後進化して政府を要せざるに至らば無政府主義は夢想にあらざるべし」(3−90頁)と述べているのであり、それはやがて、「国家の進化」という方向に展開されてゆくことになるのであった。

  従って、北の言う「国家の独立」とは国家の発展と同義であり、その国家とは現実の明治国家にほかならなかった。彼の社会主義は明治国家の発展上にえがかれていたと言ってよい。そう理解しなければ、「満韓の併呑さるゝの日は、乃ち帝圃の独立の脅かさるるの時なり。帝国の独立の脅かさるゝの時は乃ちスラヴ蛮族の帝国主義に蹂躙さるゝの時なり。」(3−91頁)との主張を彼の社会主義や国家についての主張と結び合せて理解することは出来なくなろう。

  しかし、国家の独立と発展を肯定するとしても、それはただちに侵略的帝国主義を是認することを意味しはしない。さきには帝国主義を宿命としてうけいれ、「侵略」も止むべからずとした北は、ここで「国家の正義」という観点を引き入れてくる。彼はまず日本の戦争を国際的無産者の階級闘争になぞらえることで、社会主義者を納得させようと思い至ったのであった。「社会主義者なる吾人が日露開戦を呼号するはスラヴ蛮族の帝国主義に対する正当防禦なり。謂はゞ富豪の残酷暴戻に対して発する労働者の応戦と些の異る所なき者なり。」(3−87頁)この主張はのちのファシズムに於ける「持てる国」と「持たざる国」の論理につながっていると言えよう。つまり、北はさきには領土拡張によって「持てる国」になることが、帝国主義の商工的戦争に加わるための必須の課題であると説いたのであったが、今度は「持たざる国」の「持てる国」に対する挑戦を正義」の名によって擁護しようとしているのである。従ってここでは、その反面で「持てる国」の帝国主義を不正義として倫理的に断罪することが必要となってくる。そしてそこではさきの人口の増加→商工的戦争を軸とする帝国主義の一般的把握は、正義─不正義という倫理的価値づけによっておしのけられ、社会主義者の任務もこの帝国主義の倫理的価値に対応して異ったものにならねばならないとされるのであった。

  彼は「世界の社会主義者が、国民的利益線の膨脹と国権的勢力圏の拡大とを事とする帝国主義に反対することは事実なり」(3−92頁)と認める。 そして欧米帝国主義国における社会主義者が自国の帝国主義に反対するのは「大いに理あり」とするのである。すなわち、ロシアの帝国主義はピーター大帝の旧き夢想を追う「血を好む軍人と事を悦ぶ外交家の挑発」によるものであり、アメリカの帝国主義は「富豪資本家の私利私慾を図る」ものにほかならない。またヨーロッパ大陸の帝国主義は「皇帝や政治家の偏侠にして卑小なる名利の心と、旧思想の凝結せる国民の、国家的浮誇と国家的嫉妬の情との為めに、関税の城壁を築き海陸の防備を設け、全欧州をして尚戦争の恐怖より免かる能はざらしむる者」(3−93頁)なのであり、社会主義者がこれに反対するのは当然だというのである。

  欧米帝国主義をこのように規定した北は、日本帝国主義を次のように対置した。「吾人の帝国主義は国家の当然の権利─正義の主張のみ。外邦の残酷暴戻なる帝国主義の侵略に対して国家の機関と国家の羅針盤とを防禦するのみ。狭隘の国土より溢れ出づる国民をして外邦の残酷暴戻なる帝国主義の脚下に蹂躙せしめず、国家の正義に於て其の権利と自由とを保護するのみ。吾人の帝国主義とは乃ち是れなり」(3-94〜5頁)。さきには帝国主義一般の起動力の如くに説かれた「人口の増加」は、ここでは日本帝国主義の特殊性として、その正当化の根拠に転化させられているのである。そしてそれにもまして重要なことは、北における社会主義者は、国家の倫理的価値に従属させられているという問題であろう。彼は「日本に於ける社会主義者は、其の社会主義の為めに断じて帝国主義を執らざるべからず」(3−93〜4頁)として、社会主義者に日本帝国主義の正義への従属を求めているのであった。そして更にこの正義」を媒介として社会主義と帝国主義を内的に関連づけようと試みながら次のように書いている。

  「社会主義は『国民』の正義の主張なり。帝国主義は『国家』の正義の主張なり。経済的諸侯の貧慾なる帝国主義は、労働過多と生産過多とを以て国民の正義を蹂躙す、社会主義の敵なる所以なり。而も其の経済的諸侯の侵入に対して国家の正義を主張する帝国主義なくば、国民の正義を主張する社会主義は夢想に止まるべし。」(3−96頁)

  北が「国家の正義」を「国民の正義」に先行するものとして捉えようとしていることは明らかであろう。自ら社会主義者と称する北が、国内における「国民の正義」がすでに完全に実現されていると考えていた筈はないのだから。

  以上のような日露戦争前夜の北の言論をみるとき、社会主義者の非戦論に対する批判が彼の思想形成の上で大きな役割を果したと考えることが出来る。彼はそこで提起した問題に固執することによって、その後の思想を展開したといってもよい。問題は社会主義と帝国主義という形で提起されたけれども,その核心は「国家」の問題に他ならなかった。彼は社会主義者として、或いは反国体論者として現実の明治国家を批判したけれども、他方では帝国主義者として、その同じ明治国家の膨脹を擁護した。この間の矛盾を解決するためには、明治国家を本質的に肯定しうるものとして価値づけることが必要であった。彼自身もまた、この問題の解決を自分にとって切実な問題として考えたにちがいない。「咄、非開戦を言ふ者」の末尾を「社会主義と帝国主義とにつきての吾人の態度は、他日巨細に渉りて披瀝すべし」(3−98頁)と結んだこ とは、彼のそのような思いをあらわしたものに他ならなかったであろう。彼は、社会主義と帝国主義、国家の正義、明治国家の性格、国体論の反動的役割などの問題を統一的に説かんが為めに、国家論の構築を志したにちがいない。3年後の『国体論及び純正社会主義』はこの課題への彼なりの解答であった。日露戦争のさなか、明治37年夏に上京した彼は、日露講和条約成立の翌月、佐渡新聞に「社会主義の啓蒙運動」(明治38・10・13〜21)を発表、この著作が完成しつつあることを示していた。

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