『現代歴史学と教科書裁判』

1973年4月

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日ソ中立条約と教科書裁判


 

古屋 哲夫


はじめに

1 検定側の意図と方法
2 対ソ政策の転換
3 日ソ中立条約の締結過程
4 中立条約締結後の日ソ関係



3 日ソ中立条約の締結過程

 日本から最初の中立条約の提議がソ連に対しておこなわれたのは、米内内閣の時代であった。阿部内閣をついだこの内閣も、前内閣同様、米英との妥協をのぞんでいたが、それを可能ならしめるような現実的政策を進めるだけの決断はなしえなかった。しかし、かといって、独伊の側に決定的に傾くことにも、反ソ政策を転換させることにも消極的であった。米内首相も有田外相も、平沼内閣時代にはそれぞれ海相、外相として、防共協定をソ連以外の第三国をふくめた軍事同盟に拡大することに反対した面々であった。結局、米内内閣は阿部内閣の矛盾にみちた対外政策をうけついだだけで、独自の構想を打ち出すことはなかったが、この時期にはさまざまな親ソ反米英的な動きが力を得つつあった。

  第1には、親独派がドイツからの働きかけもあって、日独伊にソ連を加えた四国協商の構想を打ち出していた。すでに、英仏の対独宣戦直後、リッベントロップは、大島大使に反英という点では日独伊の利益とソ連の利益は一致するとし、日独伊ソ四国同盟の実現を望む旨語っていたし、オットー大使もまた、ドイツは日ソの仲介者たりうることを説きまわっていた。独力での「東亜新秩序建設」が行詰っているとき、それを独伊と結んだ「世界新秩序」のなかで実現しようとする考え方は、日中戦争の行詰まりを「東亜新秩序」のなかで解決しようとする構想の拡大再編にほかならなかった。そしてその場合、不可侵条約という独ソ間の政治的関係や、日本とドイツの間に介在するというソ連の地理的位置や、あるいはまた、39年11月以来のフィンランドとの戦争によって欧米諸国に反ソ的気運が盛りあがっているといった条件が考えられていた。前駐伊大使白鳥敏夫らが四国協商実現のために活動し始めていた。

  第2には、援蒋ルート遮断の観点から対ソ接近を当面の課題とする考え方が参謀本部のなかから打ち出されていた。すでに39年10月-11月の南寧作戦は、いわゆる仏印ルート遮断のねらいを持っており、外交的ルートからの圧力も加えられていた。当時援蒋ルートとしては、仏印ルート、ビルマルート、西北ルートの3本が予想され、そのうち前2者は、欧州戦争という条件を利用すれば軍事的外交的圧力で閉鎖させることができると考えられており、それに対応して、不可侵条約と引きかえにソ連からの西北ルート閉鎖を実現させようという構想が生まれたのであった。

  1940年3月30日、汪兆銘の南京政府樹立によって米英との対立がさらに激化し、4月9日、ドイツ軍がノルウェー、デンマーク作戦を開始、どちらからも戦闘をしかけないという奇妙な対峙関係が破られる頃には、政府・軍部内でも親独・親ソ的な動きは1つの潮流になりつつあったとみられる。4月22日には外務省内で、独伊との政治的了解をとげ、提携を強化するという考え方の上に立った「第二次対外施策方針要綱」がつくられ、4月24日には、陸海軍との連絡委員会で検討されるに至っているが、その中には「ソ連の対華援助放棄および日満脅威軍備解消を適宜要求し、これが代償として日ソ不可侵条約締結を考慮す」との1項があらわれていた(前掲細谷論文『太平洋戦争への道』第5巻、249ページ)。

  しかし、反ソ・防共政策の推進者の1人であった有田外相は対ソ不可侵条約に反対であり、このような外務省主脳の消極的態度を考慮した参謀本部側は、より政治的結びつきの度合いの弱い中立条約案を用意し、外務省事務当局との間に5月11日大要次のような条約草案を作成した。

第1条

日ソ両国は1925年1月20日調印の日ソ基本条約を両国関係の基礎とする。

第2条

締約国の一方が其の平和的態度に拘らず1又は2以上の第3国より攻撃を受けた場合には、他の締約国は紛争の継続期間中終始中立を維持すること。

第3条

締約国の一方は他方の特殊緊密なる関係を有する地域に於ける平和及び安寧を尊重すること。

第4条

有効期間を5年とする。

(前掲細谷論文『太平洋戦争への道』第5巻、254-255ページによる)

 この案は第3条を削除した形で決定され、東郷大使に訓令された。しかしこの間5月10日ドイツ軍は西部戦線で大攻勢を開始、6月14日パリ占領、6月17日フランス降伏というように情勢は激変していた。前年来対ソ不可侵条約を主張していた東郷は、このような情勢の変化をも考慮し、中立条約という軽度の政治的結合の代償として援蒋行為中止を引き出すことは困難であるとの意見を具申したがいれられず、結局7月2日、モロトフに対し口頭で中立条約案を提議した。この際第1条後段として、「双方ハ平和的親善関係ヲ維持スヘク又互ニ領土的保全ヲ尊重スヘキコトヲ言明ス」との1項が加えられていた。

  これに対しモロトフは中立条約の趣旨に賛成する反面、ポーツマス条約の効力を承認し日本に北樺太における利権などをみとめている日ソ基本条約を、将来の日ソ関係の基礎とすることに難色を示した。東郷は回顧して次のように述べている。「『モロトフ』は右に対し両締約国は相互に両締約国の1を敵とする国家群に入らざることを約する旨の対案を提出すると共に、重慶政府非援助に関する予の要求に応ずるの意を示したが、『ソ』側の希望として日本の有する利権の解消を申出た」(『時代の一面』133ページ)。ソ連側の正式回答はすぐにはもたらされなかったが、日本の対外政策もドイツの電撃的勝利のあとを追って大きく転換しつつあった。

  阿部内閣時代に、南方をも東亜新秩序にふくめるとの方針が出されたことはすでに述べたが、フランス、オランダがドイツに屈伏するや、その東南アジアの植民地を日本の支配下に確保することが急がれたのであった。有田外相は4月15日の記者会見で日本が「蘭印」に特別の関心を持つことを明らかにし、6月29日の放送では「東亜ノ安定勢力タル帝国ノ使命ト責任」を強調する東亜モンロー主義とも言うべき立場を主張した。そして同時に、ドイツに対し、「蘭印」・「仏印」に対する日本の措置を支持してくれるよう申し入れていたが、ドイツの態度は必ずしも好意的なものではなかった。

  日本国内においても米内内閣・有田外交への不満は、軍部を中心として高まっていた。ドイツはひきつづき英本土攻勢を敢行し大英帝国を崩壊させるにちがいないとの予測が支配的となっていた軍部、とくに陸軍は、ドイツの支持によって「蘭印」・「仏印」への影響力を強める程度のことでは満足しなかった。陸軍は、さらに積極的にドイツに加担して「対英一戦」を試み、アジアのイギリス植民地をも手中に収めることを望んだのであった。

  大本営陸軍部は7月3日「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱」を決定したが、その中心をなしているのは「好機ヲ捕捉シ対南方問題ノ解決ニ努ム」という点にあり、そこではじめて「対南方武力行使」の構想が打ち出された。具体的には、アメリカとの開戦を避けながら「此際極力英国ノミニ之ヲ制限シ香港及び英領馬来半島ヲ攻略ス」とういう「対英一戦」の決意に踏み切ることを求めたのである。そしてこれに対応する外交を次のように規定する。

 

外交ニ関シテハ先ツ対独伊蘇施策ヲ重点トシ特ニ速ニ独伊トノ政治的結束ヲ強化シ対『ソ』国交ノ飛躍的調整ヲ図ル
米国ニ対シテハ世界情勢ノ推移ニ伴フ動向ニ留意シ我ヨリ求メテ摩擦ヲ多カラシムルハ之ヲ避クルモ帝国ノ必要トス施策遂行ニ伴フ自然的悪化ハ敢テ之ヲ辞セサルモノトス(防衛庁戦史室『大本営陸軍部(2)』50ページ)

 そしてこの方向を実現させるため、陸軍は米内内閣を打倒し、7月22日第2次近衛内閣を成立させた。外相は松岡洋右に変わった。陸軍の支援によって成立したこの内閣は、陸軍の政策構想の上に乗っていた。「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」は、陸軍案の表現を多少緩和しただけで7月27日大本営政府連絡会議決定となった。「対南方武力行使」は国策の次元に登場した。その前日閣議決定となった「基本国策要綱」は「世界ハ今ヤ歴史的一大転機ニ際会シ数個ノ国家群ノ生成発展ヲ基調トスル新ナル政治経済文化ノ創成ヲ見ントシ」ていると主張した。それは、将来の世界が、東亜、ソ連、欧州、米州の4大分野に分かれるとの「予見」を基礎とし、その方向に世界を再分割することをめざしたものであった。

  「基本国策要綱」はまた、「皇国ノ国是ハ…大東亜ノ新秩序ヲ建設スルニ在リ」として、「大東亜新秩序建設」なるスローガンを初めて公式に表明した。しかしそれはたんに今までのように「東亜新秩序」を南方に拡大したというだけでなく、それを世界再分割=世界新秩序のなかに位置づけようとしている点で画期的であった。

  対外政策はこの新たなる観点から組み直されねばならなかった。この新しい対外政策の構想は、7月30日に草案が作られ、8月6日に決定された「日独伊提携強化ニ関スル件」と題する文書のなかに示されている(前掲細谷論文注に全文引用『太平洋戦争への道』第5巻、346-354ページ)。さきの「四大分野」への分割の「予見」が述べられているのもこの文書であり、その中心は英国を主要なる敵性国とみ、日独伊の間に対英軍事同盟を結ぼうとするところにあったが、ソ連、アメリカについては次のような政策を打ち出している。

  すなわちソ連に対しては平和を維持するだけでなく、「東西両方面ヨリ牽制シ…其ノ勢力圏ノ進出方面ヲ日独伊三国ノ利害関係ニ直接影響少ナキ面例エバ波斯湾ニ向フ方面ニ指向セシム」というのである。つまりソ連をも世界再分割の方向にひき入れ、イギリスの勢力圏に向わせようというのである。このようにソ連に侵略をそそのかす反面、アメリカは「米大陸以外ノ方面ニ容喙セシメザル」ように封じ込めるというのが、この新構想の軸をなす考え方であった。つまり世界新秩序といっても、アメリカを除外し米州には手をつけないことによってアメリカに中立を保たせようということであるが、しかしそれは実際にはアメリカには手を出す力がないという希望的観測の表現にすぎず、アメリカにそのような行動をとらせるきめ手は皆無であった。このアメリカを封じ込めてイギリスをたたくという構想は、さきの「時局処理要綱」の「対英一戦」の思想に通ずるものであったが、そこでも、アメリカをイギリスから切り離すきめ手を欠くが故に、対英一戦に力点を置く陸軍と対米戦回避に力点をおく海軍の対立がつねにむし返されるのである。そしてドイツの英本土攻撃が容易に実現されないことが明らかになると、「好機ヲ捕捉シテ」対英一戦を試みるという構想も次第に影をひそめてしまった。

  それは「大東亜新秩序」の政策が、希望的観測というきわめて薄弱な基礎しか持たないものであったことを物語っているが、見方をかえれば、自力で日中戦争を解決できないという事態が日本の支配層をそこまでおい込んでいたということでもあった。

  ともあれ、松岡外相はこの「大東亜新秩序」の構想にもとづいて、8月1日オットー大使に三国同盟についての打診をおこなうと同時に、8月5日、東郷大使に次のように訓令した。

  新内閣は日ソ両国が大局的見地から各自の生存権を尊重し、東亜における平和を保持することを希望し、過般話合いの中立協定の急速締結を希望し、右提案にたいするソ連邦側の的確なる回答を承知したい(前掲細谷論文『太平洋戦争への道』第5巻、259ページ)。

  この訓令は、さきの村尾次郎証言の言う第1段階と第2段階とつなぐものとして重視しなければならない。すなわち、第1段階の有田外交と第2段階の松岡外交とはその構想を異にしていることはすでに述べたところから明らかであるが、しかし松岡も、第1段階で交渉中の中立条約でもそれが成立すれば、松岡構想実現の手がかりになると考えたことをこの訓令は示している。

  ソ連側の正式回答は8月14日にもたらされたが、その内容は昭和16年4月外務省作成の「日『ソ』国交調整交渉経過概要」(近衛文麿関係文書所収)によれば、要旨次のごときものであった。

 

(1)

『ソ』側ノ利益モ考慮サルルニ於テハ日本側提案ノ趣旨ニ賛同ス

 

(2)

『ポーツマス』条約ハ日本側ノ重大ナル違反ニ依リ全的ニ有効ナルモノト認ムルヲ得ス、如何ナル程度ニ『ポーツマス』条約ハ其ノ効力ヲ保持シ得ルヤハ審議ニ依リ決定シ得ヘシ

 

(3)

日『ソ』基本条約ハ若干ノ部分ニ於テ明カニ時代遅レトナレリ、『ソ』政府ハ北樺太利権ノ無活動ニ鑑ミ利権者ノ投資ニ対スル正当ナル賠償ヲ条件トシテ北樺太ニ於ケル石炭並ニ石油利権ヲ清算スヘキモノト認ム、但シ『ソ』政府ハ日本政府ニ対シ5年間10万噸北樺太原油ヲ提供スヘシ

 

(4)

依テ『ソ』政府ハ東郷案第1条前半ノ『ポーツマス』条約ニ立脚スル北京条約(日ソ中立条約)ヲ無条件ニ日『ソ』関ノ相互関係ノ基礎トシテ受諾スルコトヲ得ス

 

(5)

東郷案第1条後段第2条及第3条ヲ受諾スル用意アリ

 

(6)

『ソ』政府ハ日本政府ヨリ中立協定ヲ締結スルニ先チ『ソ』聯邦の蒙ルコトアルベキ『ソ』聯邦ノ利益ニ対スル毀損ヲ最少限度ニ滅シ得ヘキ措置問題ニ関スル日本政府ノ態度ニ付説明ヲ求ム

 この回答のうち(5)に注目して欲しい。すなわちそれは東郷の提案した中立条約案のうち、第1条前段─日ソ基本条約を日ソ間相互関係の基礎とすることを確認した部分を除けば、ここで中立条約そのものについての日ソ間の基本的な合意はできあがっていたということを意味している。後に述べるようにモロトフの中立条約案なるものも、この合意部分を内容としただけのものであり、以後の交渉はこの合意部分の中立条約案にいかなる議定書あるいは、交換公文をつけ加えるかという点を中心にして展開していくことになるわけである。東郷は次のように回顧する。

 

されば北樺太利権に関して話合ひ成立すれば当時我方より熱望したる蒋介石援助打切りの条項をも加えて即時にも条約成立の運びに至るべき状況になった。…(兎に角翌年松岡訪『ソ』の後成立した中立条約は条文的にも成立、但し蒋非援助なし。─其時日本の動きは頗る了解し難きものである。)(『時代の一面』133ページ)

 三国同盟にも反対であった東郷からみれば松岡外交は「了解し難きもの」であったにちがいない。しかし四国協商による世界再分割、アメリカ封じ込めによる大東亜新秩序建設をねらう松岡は、まず9月27日日独伊三国同盟を成立させたのち、さらに従来の日ソ交渉を一段と飛躍させることをねらって、新たに不可侵条約案を用意するに至るのである。と言ってもそれはこれまでのソ連側の態度を考慮した上で作成されているのであり、日ソ交渉が新たにここから始まるという性格のものではない。

  不可侵条約という形式にしても、さきの8月14日のソ連回答についての別の資料※によれば、「日本の提案は、中立条約にとどまらず実質上不侵略および敵対的な国家結合への不参加を約束する条約として了解する」との一節があり(前掲細谷論文『太平洋戦争への道』第5巻、259ページ)、これを不可侵条約への示唆として受け取ったものと言うことができる。

 

林健太郎氏は鑑定書のなかで「日本においては戦前の外交・内政に関する国家の機密文書、関係個人の私文書や回想記等が極めて豊富に公開されているのに反して、ソ連においては国家の機密文書は一切公開されておらず、私人が回想記や談話を発表することもほとんどない」と述べている。しかし、ソ連に関する事情については、他の専門家の発言を得たいが、少なくとも日本の資料が「極めて豊富に公開されている」とは考え難い。とくに政府が「国家の機密文書」を公開して、第二次大戦の真相を国民に知らせるということになんらの関心を示してこなかった点は、第二次大戦の主要関係国のなかでも特殊なのではなかろうか。
ここでの問題である日ソ中立条約に関する資料もまだ「公開」されているとは言えない。本稿が資料面では1963年に発表された細谷論文に依拠せざるを得ないのもそのためである。その後出版された外務省編『外務省の百年』、西春彦監修『日ソ国交問題』、堀内謙介監修『日独伊同盟・日ソ中立条約』などでも資料的な面では細谷論文をこえるものはほとんどない。
もし資料が系統的に公開されていたとすれば、検定側のような恣意的な資料操作の余地はきわめて制限されたものになったにちがいない。

 松岡外相のもとで用意された日ソ不可侵条約は、独ソ不可侵条約の内容をほとんどそのままとり入れると共に、ソ連側の意向を考慮して日ソ基本条約を基礎とすることを断念したものであった。松岡が望んだのは、不可侵条約の裏で相互の勢力範囲について協定することであった。10月3日外務省で作成された「日蘇国交調整要領案」は、「日ソ両国ハ新条約ニヨリ新タナル地盤ノ上ニ(ポーツマス条約及び基本条約を離るるの意)友好関係ニ入ルモノトス」との基本的態度を定め、ソ連との間に次のような「了解ノ成立ヲ期待」していた(前掲細谷論文『太平洋戦争への道』第5巻、266-267ページ)。

  すなわち第1に「内蒙及ビ北支三省ニ於ケル日本ノ伝統的関心」と「外蒙古及ビ新疆ニ関スルソ連ノ伝統的関心」を相互に承認する。つまりこれが現在の勢力範囲というわけである。第2に将来の勢力範囲として日本が「仏印・蘭印方面」に、ソ連が「アフガニスタン、ペルシャ方面(次第ニヨリテハ印度ヲ含ム)」に進出することを相互に容認する。第3に、北樺太と沿海州は将来「買収マタハ土地交換ニヨリ日本ノ勢力範囲ニ入ルルコトヲ予期ス」というのがその主な内容となっていた。したがって村尾証言が「日本はあくまでも、ポーツマス条約、日ソ基本条約の線にそって不可侵条約を推進しようとした」(『家永・教科書裁判 証言篇6』322ページ)と述べているのは誤りである。

  この構想は翌年の松岡訪ソの際にも基本的に維持されている。松岡はこの構想をドイツの仲介で実現することに望みをかけたのであった。10月30日、松岡人事により東郷に代わり駐ソ大使に任命されていた建川美次は、モロトフに対し大要次のような不可侵条約を提議した。

 

第1条

両締約国は相互にその領土権を尊重し、単独又は第3国と共同して一切の侵略行為を行わないことを約す。

 

第2条

締約国の一方が第3国の軍事行動の対象となる場合には、他方は如何なる形式でもその第3国を支持しない。

 

第3条

両国は共通の利害に関する問題についての情報交換・協議のため緊密な接触を維持する。

 

第4条

双方は、他の一方に直接又は間接に対抗する如何なる国家群にも参加しない。

 

第5条

両国間に紛争が生じた場合には紛争処理委員会によって平和的に解決する。

 

第6条

有効期間を10年とし、満期1年前に何れか一方が廃棄通告を行わなかった場合には自動的に5年間効力を延長する。

 

(前掲「日『ソ』国交調整交渉経過概要」による)

 この提案をうけとったのち、モロトフはベルリンを訪問し、11月12日、13日にわたり、リッベントロップと会談する。この会談でリッペントロップは四国協商案を提示し、松岡からの依頼もあって、日ソ国交調整問題の仲介をも試みるのであるが、話合いは不調に終わった。以後独ソ関係は急速に冷却することとなる。松岡の他力本願的な外交構想はすでにこのとき実現の可能性を失っていたと言ってよい。

  さきの8月14日のソ連側回答のなかの不可侵条約への言及がいかなる思惑によるものか明らかでないが、独ソ会談から戻ったモロトフが提示したのは、さきにもふれたように、東郷提案の中立条約案に対する前記回答を条約・議定書の形にまとめたものにほかならなかった。

  モロトフ提案の中立条約案は4条から成るが、東郷提案のものと比較してみると、その相違は次のような点にすぎない。第1条は東郷提案中の日ソ基本条約を両国関係の基礎とすることの確認の部分を除き、たんに友好関係の維持と領土保全の声名に止めた。第2条は、一方が第3国の軍事行動を受けた場合他方が中立を守ることを義務づけたものであるが、ここではその「行為ノ平和的ナルニ不拘」との限定を削除しただけである。第3条は有効期間5年は東郷提案のままであるが、満期1年前に廃棄通告のない場合の5年間自動延長の規定を加えた。第4条は東郷提案にはないものであるが、なるべく速やかに批准するという手続き的条項であり、条約の性格とは関係がない。

  付属議定書案は5項目より成り、(1)北樺太の石油・石炭利権は解消され、その企業及び財産は現状のままソ連に引渡す、(2)その代償は日ソ共同委員会で決定する、(3)ソ連政府は通常の商業条件を以て5年間毎年10万トンの石油供給を日本政府に保障する、(4)前記企業及び財産の引渡しは議定書署名の日より1ヵ月以内に行う、(5)議定書は署名の日より実施する、というものであった。この中立条約及議定書案がさきの東郷案に対する8月14日回答そのままであり、検定側の言うような、ここで新しく出されてきたというようなものでないことはもはや繰り返すまでもあるまい。

  このモロトフの回答=中立条約及議定書案の提示は、松岡の外交構想を拒否したことを意味していたが、松岡はなおも四国協商案に固執し、翌1941年にはいると独伊ソ訪問を決意する。しかしこの時、独ソ関係はさらに急速に悪化しつつあった。英本土攻撃を一応断念したヒットラーは、40年12月18日対ソ攻撃準備(バルバロッサ作戦)を極秘のうちに命令していた。このような情勢の変化を的確につかみ得なかった松岡は、41年2月3日の大本営政府連絡会議で「対独伊蘇交渉要綱」の決定を得て訪欧の準備を整えたが、「要綱」ではまだソ連にリッペントロップの四国協商案を受諾させるとか「独逸ノ仲介ニ依リ北樺太ヲ売却セシム」とか述べられており、松岡が依然としてドイツのソ連に対する影響力を過信していたことがわかる。

  ただ同「要綱」で注目すべきことは、「若シ蘇聨カ右(売却)ニ不同意ノ際ハ北樺太利権ヲ有償放棄スル代リニ向フ5ヶ年間ニ150万頓ノ石油供給ヲ約サシム」との1項がみえ、北樺太利権を放棄する場合の有り得ることが承認されていたことであろう。松岡が後述するように、北樺太利権の解消を約束するモロトフ宛書簡の提出を代償として中立条約に調印することができたのは、このような利権放棄についての了解が存在していたからであると考えられる。

  さて、41年3月12日に東京を出発した松岡は、モスクワを経由してベルリン、ローマを訪問した後、4月7日再びモスクワに至り、直ちに日ソ条約に関する交渉に入った。交渉は7日、9日、11日と3回にわたるモロトフとの交渉、12日スターリンとの会談、13日中立条約調印と進展するのであるが、この経過に関する検定側の意見はすこぶる不可解というほかはない。

  検定側の準備書面・証言・鑑定書を通じての主張は、要約すれば、松岡が終始不可侵条約に、ソ連側が中立条約に固執して交渉が行詰ったが、スターリンの「決断」によってこの行詰りが打破され、中立条約が調印されたということになる。森鑑定書の「結局松岡外相はスターリンに会い、スターリンの決断に敬意を表して不可侵条約案を撤回し、ソ連側の提案に応じて中立条約に切り変え」という叙述はその典型と言えよう。しかしもしそうなら、ソ連側提案の条約案にスターリンが同意するのに「決断」が必要なわけがない。「決断」が必要なのは、松岡のほうであり、松岡の劇的な「決断」で中立条約が成立したと言わねばなるまい。

  ではどうしてこんな奇妙なことになるかと言えば、松岡が不可侵条約を主張するのは7日の会談だけであり、次の9日からはすでにモロトフの中立条約案を中心に交渉がおこなわれているという点を無視してしまうからである。この間の経緯について建川大使は10日発本省宛電報で次のように報じている。

 

4月9日午後4時ヨリ7時半迄『モロトフ』総理ト懇談続行、建川大使列席、前回会談ノ際本大臣ヨリ強行ニ北樺太ノ譲渡ヲ主張シタルモ此際之ヲ応諾スル見込ナキモノト観取シタルニ付、本日ハ本大臣ヨリ簡単直截ニ不可侵条約案ヲ撤回シ、先方提出ニ係ル中立条約案(北樺太利権ニ関スル附属議定書ヲ除ク)ニ本大臣滞在中建川大使ト共ニ連著スル様致度キ旨ヲ申入レタル処『モロトフ』氏ハ極力北樺太利権ノ処理ニ関スル附属議定書ヲ此際成立セシムルコトノ必要ヲ縷述ス(参謀本部編『杉山メモ』上、196ページ)

 この電報は4月10日の政府・大本営連絡懇談会に大橋外務次官より提出され、その際次官は、「外相ヨリ場合ニヨリテハ『モスコー』ニ於テ調印スルヤモ知レサルニ付手配アリ度旨別電アリ」と報告している。すなわち、松岡は北樺太買収により不可侵条約を成立させようとはかったが、それが不可能とみるや、すでに実質的に合意に達していた中立条約を早急に調印する作戦に変更しているのである。そして松岡はこの日同時に、松岡の真のねらいである勢力範囲についての秘密議定書をつくることをも提議しているのであるが、モロトフに「右ハ後日ニ譲リテ可ナリ」と軽くいなされてしまった(同前建川電)。

  したがって残る問題は北樺太利権の取扱いということになる。そこで松岡は利権問題について譲歩しても中立条約を成立させることを決意し、11日のモロトフとの第3回会談では「北樺太利権に関する問題を、両国間の友好関係の維持に貢献しないすべての問題を除去するという見地に立って、解決するために努力する」旨の書簡を松岡からモロトフに提出するという妥協案を提議するのである。この案は、北樺太利権の解消を原則的に認めるだけで、具体的な解決は先にのばそうとするものであり、モロトフは難色を示した。

  スターリンの「決断」とはこの利権問題についての松岡書簡案に対する決断であり、松岡の中立条約を成立させようとする熱意と切り離しては意味がないことは明らかであろう。スターリンは松岡との会談において、利権問題に関する書簡案を「北樺太利権の解消に関する問題を数ヵ月内に解消すべく努力する」と修正し、これに松岡が同意して交渉は実質的に終了するのである。

  この取引は、スターリンが「数ヵ月内」という期限をつけたことで成功しているようにみえるが、実際にはソ連側からの度々の督促にもかかわらず日本側はこの問題に着手しようとはせず、松岡書簡に沿った解決の方針が決定されたのは1943年6月19日の大本営政府連絡会議であった。当時すでに戦局の不利は明白になっており、ソ連に中立条約を厳守させることがきわめて必要となったとの判断によって、はじめて利権解消問題が取りあげられるに至ったのである(44年3月30日議定書調印、西春彦監修『日ソ国交問題』241-243ページ参照)。このことは、日ソ中立条約の評価とどうかかわると検定側諸氏は考えられるであろうか。

  以上の日ソ交渉の経過で明らかなように、中立条約を不可侵条約に発展させようとした松岡の構想は実現しなかったし、中立条約調印で日本が何か具体的な利権を獲得したわけでもなかった。しかし松岡が中立条約に調印したのは彼が「大東亜新秩序」政策を捨てたことを意味するのではなく、それが次善のものであっても、あるいは冷却化した独ソ関係を再び改善する手がかりとなり、あるいは対米交渉での立場を強化する効果を持つと期待したからにほかならないであろう。なお検定側は、日ソ中立条約は南進の態勢を整えることを唯一の目的としたものとは言えない(中村証言)
とか、「時局処理要綱」の対英一戦の構想が死文化したから南進体制を強化するための中立条約という考え方は希薄になっていた(森鑑定書)とか主張しているが、中立条約が元来そのような特定の南進政策に対応したものでないことは明らかであり、南進態勢との関係とは、日ソ中立条約が大東亜新秩序(すぐさま大東亜共栄圏という用語に変えられる)の構想とどのように結びついているのかという観点から把えられるべき問題であることを強調しておきたい。すでに述べたようにこのような観点を切り捨てるところに検定側の特徴があると考えられるからである。

  さて、これまで述べてきた日ソ交渉の過程を、検定側の意見との対比を明確にするために、村尾氏の言う3段階によって条約面だけに局限してみると次のようになる。

第1段階、日本側が中立条約案を提示、ソ連側は、日ソ基本条約を両国関係を基礎とする点を除いて中立条約案に同意すると同時に、北樺太利権の解消を要求、また不可侵条約を示唆。

第2段階、日本側は日ソ基本条約を基礎としないことを了解し、独ソ不可侵条約にならった不可侵条約案を提示、ソ連側は前段階での回答を条文化した中立条約案並びに議定書を以て回答とする。

第3段階、日本側は一応不可侵条約案を主張するが、ソ連側が応じないとみるやさきの中立条約案を議定書抜きで調印することを主張、次いで利権解消に関する外相書簡を付ける妥協案を提出、ソ連側と書簡案修正で合意。

  これで明らかなことは、交渉は中立条約案を中心にした連続した過程であり、日本側の不可侵条約案についてはほとんど討議されていないということである。したがって、検定側の「ソ連側の提案に応じて」という文章を入れさせようという主張が、条約面だけに限ってみても、いかに根拠のない恣意的なものであるかは明白であるように思われるのである。

4中立条約締結後の日ソ関係へ