『人文学報』第38号

1974年10月

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北一輝論(2)


古屋 哲夫


6 『国体論』からの転回

7 辛亥革命への参加
8 中国革命認識の特徴
9 「東洋的共和政」論の再構成と国体論批判の後退
(以下次号)



8 中国革命認識の特徴


 『支那革命外史』の序文によれば、北は本書を2回に分けて執筆したという。すなわち前半の第8章「南京政府崩壊の真相」までは1915年(大正4)11月から12月の間に、第9章以下の後半は翌16年4月から5月の間に書き上げたものとされている。内容から言うと、前半は辛亥革命の勃発からいわゆる南北講和によって袁世凱が臨時大総統に就任するまでの過程を中心として、中国革命の基本的性格を明らかにすることに力点がおかれている。後半の方は、以後第三革命の問題にまで触れられてはいるが、その間の政治情勢の変化を検討することよりも、今後の中国革命の展開の方向を展望し、それに対応する日本の対外策のあり方を議論することの方に力点が置かれるようになっている。

  ところで3か月の時間をおいて書かれた前半と後半とでは、非常に異った印象をうけることが、刊行当時から注目されていた。例えば吉野作造は、前半は非常に立派な近来の名論だと思って国家学会雑誌で批評しようと思ったが、後半で意見を異にするのでやめたと述べている 1)し、また北自身もこの著作の反響について「初めの支那革命の説明は、皆喜んで了解して呉れました。後半の日本外交革命と謂ふ点になりましたら皆驚いて態度を変へました2)」と語っている。このように前半と後半とが全く異った評価をうけたのは、前半では中国革命を反帝国主義の民族革命として内在的に理解しようとし、日本の干渉にも反対しているのに対して、後半では叙述が進むに従って軍国主義・武断主義の主張が前面に押し出され、革命中国と日本とが手を握って対外戦争にのり出さねばならないと結論されるに至っているからであろう。北自身も、これらの後半の主張は「皮相的デモクラシーの徒の愕き否んだ所の者であった3)」と述べているが、そこには確かにデモクラシーの徒をおどろかせるに足る論理の異様な展開と飛躍とがみられるのである。

1)

佐渡新聞、大正6年7月28日、3-554頁。

2)

2.26事件関係憲兵隊調書、3-444頁。

3)

改題刊行の際の序文、2-序8頁。


 この飛躍は、北自身にとってもかなりな精神的エネルギーを必要としたのではなかったであろうか。というのは、彼が法華経読誦に専念し始めるのは、前半の執筆を終えて後半にかかる間のことであり、彼はそこに後半執筆の支えを求めたのではなかったかと思われるからである。北自身の述べているところによれば、彼は前半を書き終えた直後の1916年(大正5)1月、「突然信仰の生活に入り1)」「以来法華経読誦に専念し爾来此事のみを自分の生命として1年1年と修業2)」を重ねたという。そしてそれに対応して後半では「如来の使」「救済の為の折伏」「彌陀の利剣」などといった表現が用いられるようになった。それはいわば「仏の宇宙大に満つる大慈悲は道を妨ぐる一切の者を粉砕せずんば止まらず。──観世音首を回らせば則ち夜叉王」(2-154頁)といった観念の支えを得て、中国革命が大流血の局面を経なくては完成しないことを予言し、さらには日本と中国の将来に於ける武断主義・軍国主義を主張しようとするものであったように思われるのである。

  ともあれ、北は中国革命を支援することに日本の「正義」を見出し、そこに日本の発展を構想する基礎を求めたのであった。そして一度は中国革命派の立場に身を置こうとしたかにみえた北が、彼のいわゆる「革命的大帝国主義」(2-序3頁)の方向に飛躍してゆくのも、中国革命の将来を「日本国権の拡張と支那の覚醒の両輪的一致策如何」(2-1頁)という観点から模索する過程に於てであった。従ってここではまず、『支那革命外史』前半を中心としながら、北の中国革命認識がどのようなものであり、そこでどのような問題が彼を武断主義・軍国主義へと飛躍させる契機となったかを検討しておかなくてはなるまい。

1)

2.26事件関係憲兵隊調書、3-444頁。

2)

2.26事件関係憲兵隊調書、3-444頁。


  北はまず、中国革命はたんに満州王朝という異民族支配を打倒するに止まるものではなく、列強帝国主義の抑圧を排除して民族の独立を達成することを基本的な課題としており、この基本的な課題の故に、革命は長期にわたる全社会的な規模での変革の過程にならざるを得ないとみていた。この見方からすれば、満州王朝=清朝を打倒した辛亥革命は、全体の中国革命の序幕にすぎないということになるわけであるが、その序幕からしてすでに反帝国主義という課題によって規定されていたというのであった。即ち彼は当時の中国が直面した対外的危機を「支那の憂は北境よりする日露の武力的分割と、英米独仏が清室と結托してする経済的分割の二あるのみにして他無し」(2-31頁)と捉え、また財政の崩壊がそれに対応する国内の危機状況を象徴しているとした。つまり清朝の腐敗と列強の圧迫とは相乗的に財政危機を深化させており、その結果清朝の列強依存=列強の財政支配と領土的分割とが相関的に進行しているというわけである。そしてそれはもはや革命によってしか打破しえないまでに深化しているとみる。「清朝の財政が破産し終はれるが故に民国の革命あり」(2-115頁)と北は書いている。

  このような清朝の腐敗・弱体化の結果生じた民族的危機に対して、中国民衆は国家の独立を求めて起ちあがった、つまり民族的危機に直面して「国家」の意識にめざめた民衆が革命に立ちあがったと北は理解する。「全国土に拡汎せる民族的情操国家的覚醒」(2-79頁)は「愛国的革命」を「渇望」(2-18頁)していたというのである。従ってそこでの主題は「亡国」から「興国」ヘという点にあった。「革命とは亡国と興国との過渡に架する冒険なる丸木橋」(2-115頁)であり、その点で中国革命と明治維新とは同質であると捉えられた。腐敗した徳川幕府と腐敗した清朝とは売国的であるという点で同じであり、「封建国としての日本の固より亡国なりしことは、清国としての支那の亡国なりしと同様なり」(2-112頁)と。

  それは言いかえれば、中国革命の本質は興国階級と亡国階級との対決であり、漢民族による満州民族の排除という形では捉えられないということでもあった。清朝が打倒されねばならないのは、それが亡国階級の最上部をなしているからであり、従って清朝打倒ののちには、革命はさらに、清朝につかえていた漢人官僚を一掃する方向に深化・拡大しなければ完結しないというのである。何故なら清朝と共に腐敗し弱体化した漢人官僚は「内治外交たゞ強者の勢力に阿附随従する」にすぎない「事大主義者」(2-82頁)になり下っており、従って彼等の存在を許す限り、彼等は外国の後援をたのんで革命に対抗するに違いない、つまり北は清朝と漢人官僚を亡国階級という一つの範疇で捉えねばならないというのである。例えば、北は袁世凱を「奸雄」とする一般の見方に反対して、袁はこのような亡国階級の代表的人物でありイギリスの買弁となった事大主義者にすぎないと断じた。そして事大主義を「通有性」(同前)とする亡国階級を一掃しなければ、第2第3の袁世凱が出てくることは必然であり、列強の帝国主義的支配を排除することは出来ないとしたのであった。

  ところで、この亡国階級=漢人官僚とは、国内的にみれば、封建的支配者にほかならず、従って民族的危機を打開するために亡国階級の打倒をめざした革命は、必然的に封建国家を打倒して近代国家を創出する方向に発展する性格を持つものと考えられた。そしてその点でもまた、中国革命と明治維新は同質であるとされた。北は亡国階級の中核をなす清朝下の漢人官僚とは、「皇帝に対しては単純なる代官」にすぎなかったけれども、人民に対しては「封建的全権能を有する」「中世的統治者」=「其の制令する地域の人民に対する権能に於ては生殺興奪の絶対的自由を有し、軍事財政司法一切の専権を行使すること全く中世的統治者」(2-122頁)に他ならず、日本の大名と同質であるとした。北は次のように述べている。

  「人種的感情を除却して考ふる時は『排満』は自らにして満人及び満人の中世的統治権の代官たりし凡ての漢人官僚の排斥を包含すること、恰かも『倒幕』が幕府及び幕府を盟主とせ凡ての諸候武士の倒壊を意味せる如し」(2-136頁)と。即ち辛亥革命のスローガン・「排満興漢」に即して言えば、「排満」とは「亡国階級の根本的一掃を求むるもの」、「興漢」とは「真の近代的組織有機的統一の国家を建設」することを意味し、従って「排満は興漢の予備運動」(2-21〜2頁)に他ならない、そしてこの旧支配層の全体を打倒する「興漢」革命は、清朝を廃止するよりも困難な全社会的規模の変革の過程とならざるを得ず、従って長期にわたる過渡的な局面があらわれるであろうことが予測された。「1911年以後の支那は此の興国魂の或は顕現し或は潜伏する過渡期として察すべし」(2-48頁)、つまり清朝滅亡後の袁世凱の独裁も、軍閥の割拠も革命途上の過渡的な現象にすぎず、革命運動の一時的後退・潜伏期として考察しなければならないと北は言うのである。

  この見方は、前節でみたような、辛亥革命後中国は政権争奪の泥沼と化したとする内田良平的な見方に較べて、はるかに深く中国の情勢を見抜いていたと言える。そして北がこのような見方をとることが出来たのは、革命運動の指導者の背後にある民衆の「大勢」こそが、革命の動向を左右する基本的な力であると考えていたからにほかならなかった。「革命とは政府と与論とが統治権を交迭することなり」(2-32頁)、「革命は戦争に非ず大勢の決定なり」(2-38頁)とする彼は、「民衆に普汎せる愛国的覚醒」(2-12頁)が「与論」となり「大勢」となったと考える。そして武昌蜂起に呼応して「諸省の挙兵自立する前後通じて僅々月余の日子を要せざりしなり」(2-38頁)という革命運動の急速な展開は、「一石の投下が全局に饗応する如き支那現時の劃一的覚醒」(2-167頁)を立証するものとみたのであった。

  北はこの観点からさらに、辛亥革命が中国民衆の「自ら成せる革命」(2-39頁)であり、外国の援助によって成功したものでないことを強調しようとした。そしてこの論点は当然、自らの革命援助を誇示して何らかの利権を得ようとする日本側の態度、とくに彼の身近かな右翼勢力に対する批判ともならねばならなかった。彼は自らの経験にもとづいて、革命の発端において 「不肖を始めとして、所謂支那浪人なるものの全部が微少なる援助だに無かりし事を証明」 (同前)し、「渡来囂々たりし日本人が殆んど全部……酒間の声援者」(2-52頁)にすぎなかったと断じた。また日本からの武器輸出については、革命軍が南京を占領したのは、「日本商館の暴利を貪りたる廃銃廃砲が未だ横浜の税関をも通過せざりし」(同前)時ではなかったかと反論 している。

  北は日本が中国の革命運動に与えた影響は、思想的な側面に限定して捉えねばならないと主張した。彼はすでにみたように、辛亥革命の渦中からも革命運動における日本留学生の役割の大きさを強調していたが、ここでもまた、中国の革命派が自らの主体性において日本の国家民族主義を学びとったという理解を基本においていた。つまり「支那革命が日本的思想家の事業にして、革命の根本要求が日本と同様なる国家民族主義」(2-42頁)であったということは、彼等が決して無条件の親日家であることを意味するものではない、彼等は「同文同種と言い唇歯輔車と言ふが如き腐臭紛々たる親善論に傾聴すべく彼等は遥かに覚醒したり。亡国階級を凌迫 し慣れたる日本の伝習的軽侮感を以て親善ならんには彼等は余りに愛国者」(2-28頁)であり、従って日本が中国を脅威した場合に彼等が排日運動に立ちあがるのは当然ではないかと北は言うのである。そして「日本的愛国魂が漸く支那に曙光を露はして彼等革命党となれるに於ては、日本の或る場合の処置に対して排日運動を煽起するは寧ろ歎美すべき覚醒にあらずや」(同前) という立場から、21箇条要求に際しての排日運動の激発をも、中国民衆に於ける国家民族主義の発展として捉え、この点を理解しなくては日中両国の握手はありえないことを次のように強調していたのである。

  「是れを排日の−小部分たる彼の日貨排斥につきて見るも数年前の辰丸事件に施せし地方的 其れと、今春の日支交渉に対せし全国挙りての其れと、強烈の差等に較ぶべからざる国家的理解あり。袁の亡国階級の治下に於てすら己に然り。日本的精華に錬治されたる革命党の愛国者が統治すべき今後は予じめ想像に堪ふべきにあらずや」(2-28〜9頁)、従ってまた、中国革命に 於て「何等か重大の援助ありしかの如き虚構誣妄を流布するは、革命遂行後の両国々交に恐る べき爆弾を埋むるものにあらずや」(2-73頁)と。

  では辛亥革命は如何にして成功しえたのか。北はここでもまた明治維新と対比しながら、中国の革命派も維新の討幕派と同じ道を歩んだと説く。即ち辛亥革命においても、討幕派が外国の援助を求めることなしに、藩権力を奪取して討幕のための武力をつくりあげたのと同じ過程がくり返されたというのである。「維新革命に於て薩長の革党が其藩内の幾政争に身命を賭して戦ひしは蝸牛角上の争に非ず゜。其の藩侯の軍隊を把握せずんぱ倒幕の革命に着手する能はざりしを以てなり。攘夷せんとする外国の浪人より囂々たる助力を受けたることなし。支那が革命さるべきならば革命の途は古今一にして二なし」、「外邦の武器を待たず外人の援助を仰がざる革命の鮮血道」(2−26頁)を歩む以外にはない。

  「則ち叛逆の剣を統治者其人の腰間より盗まんとする軍隊との聯絡これなり。−革命さるべき同一なる原因の存在は革命の過程に於て同一なる道を行く。実に腐敗頽乱して統制すべからざる軍隊は古今東西、革命指導者の以て乗ずべしとする所。彼等は全党の心血を茲に傾注したり。」(2-25頁)「彼等は其の軍隊との連絡運動に於て大隊長以上に結托せざることを原則としたリ。革命されべき程に堕落せる国に於ては大隊長以上の栄位に在る者は悉く飽食暖衣の徒に して冒険の気慨なきは固よりなり。特に己に斯る栄位を得たるは軍功学識にあらずして一に請托贈賄の賜なるが故に、其の関係上直ちに反覆密告に出づべきは推想し得べし。彼等は又大隊長以下に連絡するに於ても下級士官に働ける手と、兵士を招ぐ手とを互に相聞知せざらしむる ことを規定したり。斯る複雑煩累なる手数を重ねずしては陰謀の漏洩を保つ能はざるほどに道念の頽廃し国家組織の崩壊せる支那の現状を察せよ。」(2-33〜34頁)

  北はここから「革命運動が軍隊運動ならざるべからざる活ける教訓」(2-32頁)をくみとり、さらに「古今凡ての革命が軍隊運動による歴史的通則を眼前に立証せられたる者」(2-41頁)と 一般化しており、この点はのちの青年将校たちに一定の影響を与えたのであった。

  このように軍隊運動を中心として、辛亥革命を「自ら成せる革命」と捉えた北は、中国革命が向うべき方向をも、民衆の「大勢」のなかから読みとろうとした。そしてこの「大勢」が 「統一」と「共和」とを要求しているとみた。北はまず、革命の大勢が「数十萬の書生によって支那の全土に同一なる民族的覚醒、同一なる愛国的情操、同一なる革命的理解が普汎せられしこと」(2-17頁)によって生れたとするのであり、従ってそこから「統一」ヘの要求が拡がるのは必然であると捉えた。彼は歴史の上からも「支那は歴史ありて以来統一せらる。……治者 と民衆の理想が常に統一に存して其の分立し抗争せる時代は統一的覚醒が未だ拡汎せざる所」(2-8頁)であり、統一の要求は中国の歴史を一貫しているとみるのであるが、さらにこの要求 は、帝国主義的分割の危機を打破することを目的とした革命運動においては更に、決定的に民衆にまで浸透したと言う。「四境より響く分割に恐'肺する彼等は、省的感情に従ひて各省分割的立法に禍さるるよりも統一の大勢を鞭撻するの遙かに困難少なきを洞見する者なり」(2-9頁)と。そして中国の地方的差異が大きいと言っても、その「省的感情は維新前の独立国的統治によりて養はれたる各藩の其れに比すべからざる稀薄なるもの」にすぎず、逆に「各省の頑強なる団結力が其実却て国家的統一の第一歩」(同前)となることが強調されているが、そこにもまた藩的結合を基底としながら中央集権国家をつくり出していった明治維新の討幕派の姿が投影されていたことであろう。

  北はさらに、この統一への要求は、軍閥として割拠する亡国階級打破の観点からも一層切実なものとならざるを得ないとする。即ち彼は、革命政府が樹立されたとしても、「中世的代官階級は或は都督となり絹紳となりて諸省に残存すべきが故に、自己等を掃滅せんとする新権力者に対しては極力抗争し、恐くは外国の後援を引きて対立を計ること仏蘭西貴族等の如くなるべし」(2-167頁)と予測したのであり、 それ故に「武断政策を取りて中世的代官を一掃し各省の乱雑を統一せざるべからず」(2-163頁)と強調したのであった。

  このように亡国|階級の打倒と結びついて強まってくる統一の要求は、当然に「共和」に結実することになる。「維新革命に於て攘夷鎖港の文字が倒幕の異名詞なりし如くに、共和政の主張は征服者の主権を転覆せずんば止まざる民族的要求の符号として政体論以上の意義を有したるものなりき」(2-84頁)。そして清朝が滅亡したあとの中国には、革命の中軸となしうる伝統的権威は残されていなかったと北はみる。即ち革命派は「国粋的復古主義者も日本的国家民族主義者も、異人種の統治を排除したる後にルヰ16世紀に代ふべきオルレアン公を有せず、徳川 に代ふべき天皇を持たず。為に茲に欧米の一政治的形式を取入れて東洋的消化を経たる共和政体を樹立」(2-59頁)せざるをえなかったのだと。そして北は、このような革命の大勢がもつ統 一と共和の要求から、革命後の中国の政治形態は中央集権制と大統領制を二つの柱とするに違いないと考えたのであった。

  ところで北が、時の政治指導者たちにこのような中国革命の大勢についての認識を、常に孫文批判とからませつつ提示したのは、日本のとなえる革命援助なるものが「革命の思想的系統 と革命的運動系の大綱」(2-39頁)を把握することなく、それと係りない孫文援助に集中してしまっているとみたからであった。彼の言う如く「支那の要求する所は孫君の与へんとする所と 全く別種の者」(2-6頁)であるとすれば、孫文を援助することは、 中国革命を妨害することに他ならなくなる。『支那革命外史』前半の叙述は、日本の朝野に「斯る革命に交渉なき別個の思想家を選びて援助したる自己の無知無理解」(2-71頁)の反省を求めようとする実践的意図に貫かれていた。

  北の孫文に対する批判は、彼が、ナショナリズムを基礎として「自ら成せる革命」として展開されている中国革命を内在的に理解しようとせず、アメリカの独立戦争を範として中国革命を考え、またアメリ力的な政治形態を中国に押しつけようとしているという点であった。北自身の言葉で言えば、「愛国的注意の欠乏、興国的気魄の薄弱」(2-10頁)と、「米国的迷想」(同前) とが、孫文と中国革命の本流とを分つ点だと言うことになる。北はまず、孫文がアメリカ独立戦争にならって、常に外国の援助を求めようとするのは、独立戦争と革命の区別を理解せず、 革命に対する援助が常に干渉に転化することを忘れた態度だと批判する。即ち「植民地の経済的政治的興隆によりて旧き本国の支配を要せずして分離せんとする別個の一新国家の創建」の場合には、「旧本国との開戦に於て、本国の敵国たる者に援助せらるることは恥辱にあらずして堂々たる国際間の攻守同盟なり」(同前)、 しかし革命はこのような「独立せる地域に拠りて 戦ふ一種の国際戦争」(2-11頁)としての独立戦争とは異って、一国内の内乱であリ従って援助 は干渉と同義となると北は言う。「革命とは疑ひなき一国内に於ける内乱にして、正邪孰れが援けらるるにせよ内乱に対して外国の援助とは則ち明白なる干渉なり」(2-10頁)と。そして北 はのちにみるように、この点の認識の欠如に孫文が臨時大総統の地位を失うにいたる最大の原 因を求めたのであった。

  つぎに国内政治体制の問題については、北は孫文がアメリカ的な連邦制と大統領制を主張し ているとして批判した。北が連邦制に反対したことは、彼が統一を革命の大勢とみ、また列強帝国主義に対抗するための必要から捉えていた以上当然のことであったが、アメリカ的大統領制への反対は、中国の情勢に対する独自の把握と結びついて出されてきた問題にほかならなかった。

  北が『支那革命史』前半で孫文を批判しつつ提起した「東洋的共和制」とは、「大総統は米国の責任制と反し自ら政治を為さず内閣をして責を負わしめ単に栄誉の国柱として立つ事と、 米国的連邦に非ずして統一的中央集権制なるべしと云ふ二大原則」(2−58頁)の上に立つもので あったが、ここで彼が政治的責任を負はない「栄誉の国柱」としての大総統という範疇を押し出してきたのは、革命の混乱期において革命派の権力を如何にして維持してゆくかという問題 に答えようとしたからであった。彼は「栄誉の国柱」をうち立てることが、「君主制より共和制に激変せんとする支那に於て、仏蘭西の如き反動と革命の反覆を避くべき」(2-62頁)唯一の方策とみたのであった。 彼はこの点について次のように書いている。「米国的大総統政治は大総統が責任を負ふものなるを以て、斯く議会と与論に弾劾さるゝに当りては大総統其者の引責辞職に至るべく、即ち国柱の交迭を見ざるべからず。平時ならば或は以て忍ぶべし。漸く覚醒せる各省の心的共通を統一せんとして求めたる心的中心を、今の南北対立の際に突として交迭 し得べくんば始めより孫君を上海の埠頭より逐ふに如かざるに非ずや」(2−68頁)と。

  北がこのような大総統の政治的無責任制を提起したのは、民族的危機を感じて革命へと昂揚 した民衆の「大勢」がその激しさの反面に、群衆心理としてゆれ動く浮動性を持つとみてとっ たからであり、またこの群衆心理の統御こそが、革命政権の当面する課題とみたからにほかならなかった。彼はまず、「革命の渦中は一切の事理性の判断を許さず」(2−55頁)として「大勢 と名くる群衆心理」(2-59頁)に注意をうながす。そして「一国の過渡期に於て賤民階級が常に新理想と没交渉なる歴史的通則を忘却」(2-57頁)すべからずと一般化して述べている。しかし彼は、アメリカ的大統領制を採用し難い理由として、中国民衆を規制している伝統的な「国民精神」のなかに、アメリカ的な「自由」が欠除していることをあげているのであり、中国民衆 の伝統的な在り方が、革命に際しての群衆心理的動揺を一層大きなものにする要因になってい ると考えていたと思われる。

  北は民衆の大勢を性格づけている伝統的在り方を「国民精神」と名づけ、アメリカと対比しながら中国の場合を次のように特徴づけている。即ちアメリカの場合には「自由は彼の歴史を 一貫せる国民精神なり。支那は之に反して全く自由と正反対なる服従の道徳即ち親に服し君に従ふ忠孝を以て家を斎ヘ国を治め来れる者、被治的道念のみ著しく発達せる歴史の下に生活す る国民なり」(2-7頁)と対比する。そしてこのアメリカ的な自由とは具体的には「反対の自由、 監督の自由、批評攻撃の自由、交迭して自ら代はるべき自由、則ち反対党の存立し得べき凡ての自由」(同前)として理解された。北は中国の歴史のなかにも、眼前に展開されている中国革命の進展のなかにも、 このような「自由」の存在を見出すことはできないとした。「支那の建国にも歴史にも在野党の自由を擁護すべき国民精神の自由を発見し得べからず。……実に自由の建国精神あるが故に独立後嘗て自由を犯すものなかりし米国の事実と、服従の歴史的約束あるを以て革命後忽ち袁の専制を見るに至れる支那の事実とを見よ。」(同前)

  彼は中国革命がこのような「国民精神」の根本的性格の変化の結果起ったものではなく、清朝を倒した後でも、まだそこに顕著な変化は始っていないと見たのであった。「革命の勃発は……愛国運動によりて火蓋を切りし者なり。民主共和にあらず、又自由平等にあらず」(2-30頁)、 「支那の革命は民主共和の空論より起りたるものにあらずして、割亡を救はんとする国民的自衛の本能的発奮なり」(2−12頁)といった言葉からは、中国革命が個人の立場を基礎とする自由・平等・民主などの要求からではなく、国家の自立と栄光への渇望から起こったとみる北の認識と、それ故にこそ同感と支援を惜しまなかった北の心情とを読みとることが出来る。つまり北は中国革命における「大勢」を個人の自立性の弱さと国家への渇望の強さという両面で捉えていたと言えよう。そしてその自立性の弱さの故に、この「大勢」は振幅の大きな群集心理的浮動性を持たざるを得ず、従って革命指導者にとって群集心理を如何に統御しうるかが、革命の成否を決する程の重大な課題とされたのであった。北が「栄誉の国柱」、「心的中心」と呼んだものは、言いかえれば「群集心理を統制すべき中枢」としての「新精神の体現者」(2-43頁)ということにほかならなかった。

  北は辛亥革命が袁世凱の独裁の下に敗退していく過程を、「新精神の体現者」をうち立てることが出来ず、群集心理の統御に失敗した過程として捉えた。北の意見によれば、革命派の最初の失敗は、武昌蜂起が成功したにも拘らず、革命派の政権を組織することなく、亡国階級の一司令官であり、革命軍の俘虜にすぎない黎元洪を表面に押し立てたことであった。「一個の俘虜を都督として全国の耳目を欺ける第一歩の発足点の不幸は、呪いの如く革命運動の展開に附き纏ひたりき」(2-43頁)。つまり革命の最初において革命派の権威を打ち立てなかった失敗は、中心的指導者であった黄興の漢陽での敗戦という事情も加わって、群集心理の統制をいちじるしく困難にしたというのである。

  北は革命派の第二の失敗は、南京政府臨時大総統として現実の革命と没交渉な孫文を擁立したことにあるとしたが、この間の事態は、群集心理という形で浮動する「大勢」をあるべき方向に導き得なかった指導者たちが、逆に「大勢」のなかにのみ込まれてしまったことを示しているとみた。即ち南京政府設立過程に於いて、宋教仁らは黎元洪を大元帥、黄興を副元帥とする新政府樹立を企てたが、「革命の洶濤に渦き流るゝ群集心理」(2-53頁)は、彼らを「俘虜と敗将」(2-54頁)とみてこの人事に不満を示し、その上に立つ「英雄」を求めた。そしてその時ようやく、中国同盟会総理孫文がアメリカから欧州を経て日本浪人団の熱狂的声援をうけながら帰国する、「群集心理は倖ひにも嘗て己等の指導者たり党首たりしものを担荷すべき偶像として得たり」(2-55頁)というのである。

北は孫文が擁立された根拠を彼が中国同盟会総理の地位にあったことと共に、共和政の首唱者とみられていたことのなかに求めた。「兎に角孫逸仙君は共和制の犯すべからざる首唱者にして同時に権化なりき」(2-59頁)、「彼の中華民国史に於ける百代不磨の功績として看過すべからざる事は、彼が此の新建国の始めに於いて支那の将来は必ず共和制ならざるべからずといふ大憲章の精神を宣布したることなりとす」(2-57頁)。しかしそれらの根拠もまた、中国革命と孫文との距離を縮めるものではなく、革命政府と孫文との結合は不合理であったと北は断ずる。「二者の接合の不合理なるは俘虜を大元帥となし敗将を副元帥となせるよりも優りて、殆ど悪魔の胴に天使の首を載せたる如し」(2-70頁)と。そしてこの不合理は、孫文が外国の干渉への警戒心を持たず、外国の援助を求めたことによってたちまちのうちに暴露されたというのである。具体的には孫文は三井との間に漢治萍借款を進めたことによって彼を偶像としてかつぎあげた筈の群集心理から見離され、南京政府崩壊の原因になったとして、北はこの間の経緯を次のように解説している。

  「外国に生まれて国家的執着心を有せず且つ現下の革命運動に局外者たること等しく外国人の如き孫君は該借款を以て目的の為の手段と考へたるべし。而も是れ目的の為の手段に非ずして臨時政府の政費に過ぎざる一手段の為に革命勃発の大目的とせるところを蹂躙する者に非ずや。粤川鉄道借款に反対して四川より起これる革命は、南京に拠れる革命党の首領が漢治萍借款を企つるを寛恕する能はず。満州に於て日露の武力的侵入を扞禦せんとしてさらに英米独仏の経済的侵略を誘引したる者は亡国階級の事なり。中原に於て四国が鉄道を奪取する事を坐視せざりし革命的新興階級は、他の一国が鉄山を占領することを拒斥せずして止む能はず。」 (2-66頁)「革命連動が彼に何の恩恵を蒙らざりしのみならず革命の理想に対して彼の理想は却て明白なる反逆者なりき」(2-71頁)、「彼等は革命の始めに於て四国に向けたる鋒先を今日本に転ぜざるを得ざる恐怖に戦慄すると共に、彼等の泰戴せる偶像を仰ぎ視て実に売国奴の相貌を 持てることに驚愕したり」(2-66頁)、そして孫文は「只自己に逆行して波立ち始めたる群衆心理を呆然として眺め」(2-67頁)ねばならなかった、と。

  つまり北に言わせれば、哀世凱をして「南北統一の役者たらしめしことは孫逸仙君の弁解すべからざる責任なり」(2-87頁)ということになる。彼は、孫文が日本の干渉を引き入れるので はないかという恐怖が、中国内部の統一を確保することを緊急の課題として意識させ、大勢は袁世凱による統一をも耐え忍ぶ方向に動かざるをえなかったとする。そしてさらには「被治的道念のみ著るしく発達」した中国民衆は袁世凱の専制をもうけいれてしまったとみるのである。

  『文那革命外史』前半は、中国革命に対して「日本人が感謝さるべき何の援助を与へざりしみならず、日本政府は革命の遂行を中途に阻止したる妨害者にあらざりしか」(2-74頁)という 痛'限の念によって貫かれている。そしてそこでの北は、日本帝国主義に対する痛烈なる批判者 として立ちあらわれているかにみえる。しかし彼が批判者たりえたのは、革命中国と日本の発 展を「正義」の名に於て結合させようとする欲求によるものであり、日本帝国の拡大を断念したからではなかった。彼が自らに課したのは「日本国権の拡張と支那の覚醒との両輪的一致策如何」(2-1頁)という問いに答えることであり、 中国革命をたすけるために、日本国権の拡張を思いとどまるということではなかった。しかしこれまでみてきたような形で中国革命を把握するとすれば、その革命の発展に一致する日本の政策は、中国より奪った利権を返還し、不干渉不侵略・反帝国主義の立場をとるという以外になくなる筈である。だが日露戦争を全面的に 肯定した北は、それによって得た在満権益を放棄しようなどとは考えてもいなかった。とすれば両輪的一致策は如何にして可能となるのか、北はこの難問に挑む前に一たん筆を休めた。

  彼は『支那革命外史』執筆中断の事情について、いわゆる第三革命の勃発によって、「革命党の諸友悉く動き、故譚人鳳の上京して時の大隅内閣との交渉を試むる等のことあり、為めに筆を中止した」(2-序1頁)と述べている。勿論そのような外的な事情の介在を否定するつもり はない。しかし同時に中国革命の将来と日本の発展を一致させるために、基礎的な問題の捉え 直しがこの間に行われたことも否定し難いことのように思われる。何故なら、3カ月の中断に書かれた後半においては、群衆心理についての議論も、大総統無責任制の提昌も姿を消し、「東洋的共和政」は全く新しい相貌の下に再登場してくるのであるから。

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