『人文学報』第39号

1975年3月

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北一輝論 (3)


古屋 哲夫


10 亜細亜モンロー主義
11 改造法案への契機



10 亜細亜モンロー主義


 北の云う対外政策の「革命的一変」とは、中国革命の達成を支援することを「正義」とし、その「正義」を基礎として日本民族の新たな使命を構想すること、そしてそれを対外政策の中核に据えるということにほかならなかった。そしてそのため彼は、一方では前節でみたように、日本の膨脹と適合できる形に中国革命の将来を想定したのであったが、他方ではそれに対応した、「正義」に立脚した日本の対外政策を構築しなければならなかった。

  彼はそこでの原則的立場を「日本民族の対外行動は挙手投歩唯正義と強力とあるのみ」(2−92頁)と述べる。 正義はそれを遂行する強力と不可分のものとして捉えられていた。そしてここでの「強力」とは、極東に於ける日本の軍事的優位を前提とするものであった。北は日露戦争の勝利のあとでは、中国をめぐる国際関係に於ては、日本が圧倒的な軍事力を有すると信じていた。「支那を奪はんと欲せば須らく1個師団の陸兵と3隻の巡洋艦を以てすべし」(2−93頁)、「日本が其の陸軍と海軍とを有して、誠実に而して勇敢に全亜細亜の保護者を任じて毅立せば千百の不割譲条約ありと雖も反古に等し」(2−91頁)といった言葉からは、北が日本は極東において自ら望む方向に軍事行動を起し、勝利することが出来ると考えていた、あるいは少くともこの想定を対外政策論の前提としていたことを読みとることが出来る。従って「正義」とは、この力をどのような方向に行使し、あるいはどのような方向に行使してはならないかを決定する基準となるものであった。北はまず「支那保全主義」のなかに、対外政策における「正義」の基礎を求めようとした。

  と云っても「支那保全主義」は言葉としては決して北の発明になるものではなかった。というよりもむしろ、当時、対中国問題を論ずる場合の1つの基準として、一般に通用していた考え方であったと云う方が正しいであろう。「支那保全主義」が対中国政策論議のなかに登場してきたのは、すでに古く日清戦争直後に、列強の中国からの利権奪取が露骨な形で進行し、遂に領土的分割に至るかと考えられた時からであった。ここでの「保全」とは、列強の領土的中国分割によって日本の大陸発展の道が閉ざされることを防ごうとする発想から生れたものであり、従って「支那保全主義」は、一般的には、中国の領土的分割に反対しながら、中国に対する経済的進出や利権の獲得を果そうとするものであった。それ故、日露戦争もまた、ロシアの満州領有=中国の領土的分割に反対する保全主義の戦いと意識される場合が多く、北自身も「日露戦争は支那全部の保全的正義の為めに戦われたるもの」(2−90頁)と述べているのであった。

  北はこのような当時一般に通用していた「支那保全主義」を捉え、それを彼なりに純化することによって、対外政策論の出発点を築こうとしたのであった。彼はまず「人道的要求から迸発せる保全主義」(2−94頁)と述べているように、保全主義は列強の錯綜する利権奪取競争をかいくぐって自らの利権や勢力をのばすためのものではなく、文字通り中国の独立と自立的発展を保全するためのものでなければならないと主張した。それはまさに、当時一般に通用していた保全主義が、領土的分割を否定しながら、勢力範囲・優越権の設定や利権の獲得を肯定していたことへの批判であった。彼は云う、「由来正義に根拠する日本の支那保全主義と利権の保持に汲々たる英国の資本的侵略政策とは、仮令露西亜の分割的勢力に対抗せし期間外見上相似なるかの如きも根本精神に於て全く氷炭相容れざるものなり」(2−90頁)、「特に況んや優越権の如きは保全主義の本義に撞着する一個の侵略として許容すべき限りのものに非ず」(2−94頁)と。

  そして更に「支那保全」は中国自身の自立なくしては成立しえないものであることを強調した。「人道的要求より迸発せる保全主義は支那其者の自立によりて真の実現を見るべく、国家を白人の競売に附しつつありし亡国階級を存在せしめて期待すべきものにあらず」(2−94頁)、つまり「日本が誠実に支那の保全の為めに支那の復活を望」(同前)むことが「支那保全主義」の基本的態度でなければならないというのである。それはまさに中国革命が「自ら成せる革命」として発展しつつあるとみた中国革命認識と表裏をなすものであった。

  しかし、このように中国の自立的発展を望み、不侵略・不干渉の保全主義を貫くとすれば、当然、これまで中国から奪取した既得権益についてどう考えるのかという問題につきあたらざるを得ない。とくに焦点は在満権益の問題であった。しかし北はここではこうした論理の筋道を断ち切り、態度を一変して次のように叫ぶ。「不肖を以て南満州を獲得したることを非議するものとなす勿れ」(2−102頁)と。北も一応は「形式に於て」と留保をつけながら、日露戦争の結果が保全主義に反していることを認める。そしてその上で次のような反論を試みている。即ち日露戦争が「終に南北満州の分割を結果して戦前の保全主義を形式に於て損傷したることは、当時の清国が既に露国に割譲し更に加るに日露戦争に参加せざりし権利放棄として露西亜の領有より譲渡せられたる者」(2−90頁)だというのである。しかし清国がロシアに満州を割譲したというのは事実ではないし、また彼が在満権益を正当化する論拠とする「権利拠棄」にしても、それが日本の強制の結果であることを北自身も認めているのである。「又日露戦争に支那の参加せんことを申込みしに係らず日本は之を拒絶し、支那亦日本に拒絶せられたるが故に茫然として傍観したり」(2−101頁)、とすれば、「権利放棄」という理由づけには問題がおこってくる筈である。しかし北はこの問題にかえることなく、すぐつづけて「是れ両国の将来が同盟を以て露国の東進に対抗すべき運命に立てること」(同前)を示すものだ、という具合に問題をはぐらかしてしまった。

  ここでは明らかに北の保全主義は一貫していない。日露戦争を保全的正義のための戦いとみることは、ロシアの満州領有の意図を打破することが戦争目的であったということであり、すでに満州がロシアの領土になっていたということになれば、日露戦争は直接には「支那保全」にかかわらない日本とロシアの間の領土争いだということにならざるを得ない。しかも彼は、遼東租借地を除けば鉄道・鉱山の利権と鉄道守備兵の駐兵権を得ているにすぎない―従って明らかに中国の主権下にある南満州を日本の領土として論じているのである。北にとってもこの保全主義の矛盾は気になる所であったのであろう。「不肖等は日本の国家的正義に訴へて南満州領有の法理を考ふるに露西亜より得たる南樺太と同一なりと断ずる者なり」(2−102頁)と述べたのに続けて、「明確なる法理に基く南満州主権の了解は今後日支に取りて重大なる必要なり」(同前)と付記しているのであった。

  しかし北はこれ以上この問題に深入りしようとはしなかった。彼の問題関心は、「既往は追ふべからず」(2−101頁)として、将来に於ける日中の握手を、保全主義の「正義」の上に如何に実現してゆくのかという点に向けられていたからであった。満州問題にしても、日本の支配権を今後どのように運用してゆくのかという点に関心の中心がおかれ、保全主義はまさにその運用の点で強調されることになるのであった。即ち上述のようにして日露戦争による「南満州領有」を「支那保全主義」から切り離して擁護した北は、その後の事態については次のような形で保全主義の立場から批判するに至るのである。

  「不肖は日露戦争によりて露西亜より奪へる南満州を以て日本の正義を疑ふものにあらず。只正義の発動は一張し一弛す。日本が露西亜より其れを奪ひし時に緊張したる国家的正義は南満州を占拠すると共に崩然として跡なく、支那を露西亜の侵略より防護せんが為めの占有にあらずして全く北満州に拠れる其れと相携へて支那を脅かさんとする南満州に一変したり。日露戦争の南満州占有は支那保全主義の為めの城壁としてなりき。日露協約に至りての同一なる其れは露西亜の分割政策に協力し助勢する所の前営となれり。」(102〜3頁)

  ここには明らかに保全主義の転換がみられる。まず最初に、利権や勢力範囲を否定する保全主義によって自らの立場を「正義」とした北は、ついで保全主義の「ための」利権や地位の要求を肯定する方向へと一転してゆくのであった。そしてこの転換の鍵になるのが満州においてすでに権益を確保しているという現実であった。南満州を中国侵略の基地とせず、ロシアに対する城壁とするならば、保全主義の上に立った満州領有についての日中の了解が成立するであろうというのが北の想定であった。すでにみたような、中国革命において「露支戦争」を必然とするという主張が、満州領有を正当化し更にその拡張・強化を要求するために不可欠のものになることはもはや云うまでもあるまい。

  そして北はこの論理を更に、中国の周辺全部に城壁をめぐらすための侵略主義へと拡大してゆくことになるのであった。もしも事態がこのように進展するならば、満州支配には新たな根拠が与えられ、在満権益についての歴史的疑惑などは一挙に吹き飛んでしまう筈であった。彼は云う。「日本の保全主義を徹底せしむべく更に北満州を奪ひて支那の北境に万里延々の長城を築き、好機一閃黒竜沿海の一帯を掩有して彼が東進の根拠を覆へし、以て朝鮮と日本海とに一敵なからしめん」(2−103頁)、「而して南満州は日本の血を以て露西亜より得たる所。未解決のままに2個の主権を存立せしむることは断じて両国親善の所以に非ず。北満に至っては英の妨ぐるなくんば日露戦争当時既に獲得すべかりし者。大戦の意義に照して終に露西亜より奪はずんば止まず。−是れ支那の為めに絶対的保全の城廓を築くものに非ずや」(2−184頁)と。そして北は更に満州支配の代りに、21カ条要求によって得た内蒙古に関する権利を返還することで、「対露日支同盟」は完成すると夢想した。「内蒙古の権利は露支戦争を援助すべき一条件として『満蒙交換』の協定によりて対露日支同盟の条件たるべし。支那は外蒙古と共に内蒙古を得べし。日本は南満州と共に北満州を得べし。内外蒙古は支那存立の絶対的必要なり。彼が日本の後援によりて内外蒙古を得ることは西蔵を維持し支那全部を保全し得る保障を得る者にして南満の一角と較量し得べき者に非らず」(2−185頁)。

  北が中国革命完成の国際的局面として、「露支戦争」と「日英戦争」の組合せによる露英両国勢力の打破を唱えたことはすでにみたが、彼にとっては日本の対英開戦もまた、こうした「支那保全主義」の必然的結論にほかならなかった。「不肖は支那保全主義と日英同盟とが絶対的に両立する能はざることを信ずるものなり。而して支那の革命によりて支那自らの力を以て領土の保全を主張せんとする日は、当然に両立せざる日英同盟は日本及び支那の一撃により破却さるべきことを信ずるものなり」(2−82頁)とする彼は、「日本の対英露策に取りて独逸が支那保全主義の為に唯一同盟国たるべきことを思考だもせず」(2−175頁)に、日英同盟を利用してイギリス側に参戦してしまった政治指導者を痛烈に批判した。彼にとっては、第一次世界大戦は、「露支戦争」と「日英戦争」を組合せて中国革命を完成させると共に、南北にわたる「支那保全」の万里の城廓を築きあげるための絶好の機会とみえていたのであった。彼は云う。「日本が真に保全主義を唱ふるならば北露と南英との領土を奪ひて四百余州を抱く雄大なる箍を外交方針とすべかりしなり」(2−190頁)と。

  中国大陸全体を抱きかかえる「箍」とは、たしかに雄大な構想と云うべきであろう。しかしそれはもはや「支那保全主義」の枠からはみ出していると云わざるをえない。北はさきの文章につづけて「軍人と国論とが侵略主義を高調するは興国の正気にして妄りに抑圧すべきものに非ず。要は向うべき所に放つに在り」(同前)と書いている。それは彼の「支那保全主義」が、侵略主義そのものに対する原理的批判を意味するものではなく、たんに侵略の方向を規制し、侵略を正当化する根拠を提供するためのものにほかならなかったことを示している。『支那革命外史』においても叙述が後半に進むに従って、中国状勢にかかわりなく、日本が本来実現すべきものとしての領土拡張の要求が次第に前面に押し出されてくる。例えば彼は云う。「実に支那の英国を駆逐すべきことは、唯日本と英国との覇権争奪に於て日本を覚醒せしめ後援すれば足れり。英国がスエズ以東に威権を振ふことが東洋の英国を自負する日本と両立すべからざる覇権の衝突なることは明白なり。…則ち南亜細亜より英国を駆逐せんとする日英戦争は支那の如何に関せず、今の『小日本』が『大日本』として覇権を確立すべき領士を英国の持てる者に奪はずんば行く所なきを以てなり」(2−178頁)と。

  この主張は、云いかえれば、中国革命の反英的性格を認識することによって、日本民族はイギリスとの覇権争奪戦が必然であることにめざめ、この戦いに蹶起せよというに等しい。更にまた『支那革命外史』の末尾の部分で、北が「諸公何ぞ支那の革命が伊勢大廟の神風なることを悟らざるや」(2−203頁)と書いているのも同じ文脈で読める。つまり彼は、中国革命は、日本民族を自らの使命にめざめさせるために、天が与えたチャンスなのだと云いたかったのではなかったか。

  結局のところ、北が「支那保全主義」を対外政策論の出発点に据えたのは、それが日本の対外行動のすべてを律する根本原則であると考えたからではなかった。彼が試みたのは「保全主義」という「正義」の立場から中国革命をみるとき、日本民族の使命がどのようなものとして映し出されるかを問うことにほかならなかった。そして彼は、中国革命は日本に対して「白人投資の執達吏か東亜の盟主か」(2−116頁)の選択を迫っているとみた。勿論そこには、「黄白人種競争の決勝点」(3−84頁)として対露開戦を主張した人種意識・国家の強化を人類進化の道だと考える進化論・日露戦争の勝利に至る日本の対外発展の根本的な肯定などが前提されていることはもはや云うまでもあるまい。そして彼が、この選択に於て「東亜の盟主」の道を選んだこともまた。

  北は「支那及び他の黄人の独立自彊を保護指導すべき亜細亜の盟主」たることが「日本の天啓的使命」(2−111頁)であると説き始める。「天啓的」とは何かについて彼は多くを語ってはいない。しかし「亜細亜の自覚史に東天の曙光たるべき天啓的使命」と書き、また「日清戦争は日本が天佑によりて列強の分割より免かるゝと共に、黄人諸国の盟主たるべき覇位争奪の墺普戦争なり」(2−101頁)と述べているところからみれば、日本がアジアで最初に民族意識に基く独立国家を形成したこと、日清戦争の勝利によって、アジア諸国の中で最強の軍事力をもつことを実証したこと、という2つの点から「天啓的使命」を基礎づけているように思われる。

  日本が国家的独立の先駆者たることを以てアジアの指導者となし、日清戦争の勝利者たることを以て、欧米列強と抗争するアジアの保護者として位置づけるというこの使命観は、八紘一宇・大東亜共栄圏という怒号の時代を経験した我々にとっては、ひどく平凡なものにみえるかもしれない。しかしそれは西洋文明のあとを追いつづけてきた明治の風潮を逆転させるということであり、やはり辛亥革命と世界大戦という状況の変化なしにはなしえなかったことに違いない。辛亥革命にあたっては、革命派に接した多くの日本人が、その客観的内実がどうあったにもせよ、主観的にははじめて他のアジア人に対して指導的相談役的地位にあると感じることができたのであり、また第一次大戦はヨーロッパの弱体化を実感することをはじめて可能にしたものと云えた。北はこうした新しい感覚を明確な使命観として打出した点で、確かに先駆的であった。すでに辛亥革命の渦中にあって、革命が日本から学んだ国家民族主義によって指導されていると論じた北は、また第一次大戦という未曽有の大戦乱のさなかに於て、はやくも大英世界帝国解体の可能性について論じはじめたのであった。日英同盟を破棄しドイツと結んでイギリスを攻めるべきであったとする北は、「日独の海軍は大西洋と太平洋に彼の海軍を分割せしめ、本国の降伏は独逸によりて、本国其者に値する印度の独立は日本によりて実現せらるべし」(2−178頁)と述べて、はるかのちの、太平洋戦争期の政治指導者たちを想起させる。

  「支那保全主義」から出発し、「白人投資の執達吏」であることを拒否して「東亜の盟主」たることを選んだ北は、自らの立場を「亜細亜モンロー主義」と名づけた。そしてこの立場が確立されるに至るや、「支那保全主義」がその一側面として吸収されてゆくことは必然であった。「支那保全主義」は次のように云いかえられねばならなかった。「革命的(中国)新興階級の親日主義は日本の左顧右盻せる保全主義が亜細亜モンロー主義の天啓的使命によりて正義化したる後始めて至純至誠なる信頼に表現すべし」(2−95頁)と。それは、「支那保全主義」を基盤として生み出された筈の使命観が、亜細亜モンロー主義に到達すると同時に、逆に亜細亜モンロー主義が「支那保全主義」を従属化してゆく転換点を示すものとして読めないであろうか。

  亜細亜モンロー主義とは、『支那革命外史』に於ては、革命中国との 「日支同盟」によって、イギリスとロシアの勢力を駆逐することを目的とするものとして提示され、そのための方策が論議されるに至っている。そしてそこでは、亜細亜モンロー主義の成否こそが−中国革命が必然的に戦争によらなければ完成しないという想定を前提としながら−中国の将来を決定するものとされる。「支那保全主義」をもふくめてすべての問題は、亜細亜モンロー主義実現のための戦略に従属させられ、押しのけられていった。

  保全主義で否定された筈の利権獲得が、今度はモンロー主義の名によって正当化される。「亜細亜の安全の為めに支那と共に日本の擁護せざるべからざる経済的利権の存するあらば、至誠一貫堂々として支那と共に之を協るべし(2−93頁)。 そしてこの観方からすれば、さきには孫文の愛国心の欠除を示し失脚の原因とされた漢治萍問題も、次のような形で再登場することとなる。即ち「漢治萍が白人国の分割を予想したる債権の下に置かるることが日本及び支那の危機なりとせば、誠実聰明なる両国の協定は支那の進で求むる所なるべし」(同前)、つまりモンロー主義実現のための利権は中国が進んで提供するであろうというのであった。彼は更に漢治萍による一大兵器製造会社を夢みながら「日支の軍事同盟に依る軍器の共通は支那の側より進んで漢治萍の解決を求めざるを得ず」(2−191頁)とさえ書いているのであった。

  日中合弁の兵器廠とは、かの悪名高い21カ条要求の第5号にふくまれていたものではなかったか。北は遂に21カ条要求でさえも、亜細亜モンロー主義→「曰支同盟」の基盤としてならば、中国は喜んで応じたであろうとまで考えるに至るのであった。彼は次のように云う。文中の「曰支交渉案」が21カ条要求を指していることは云うまでもない。「彼の恥ずべき恫喝と譎詐とを闘はしめたる日支交渉案の如き、北、満蒙は日露大戦の正義に返ることによりて解決すべく、南、漢治萍の鉄は啻に日本の軍器独立に必要なるのみならず支那の存亡の為に支那の進んで共同経営を求むべきは論なし。日本第一の噴飯すべき外交家加藤氏の如く英国に致されて『第五項案』を保留するに及ばず、又或る種の陸軍系政客の如く漢治萍解決の為めに周特使を迎えて逆臣の纂奪を日本皇帝の名に於て承認せんとする国民道徳の指弾を受くるにも及ばず。−漢治萍其他の鉄炭を基礎とせる大々的クルップ会社を組織し、三分して其一を支那政府に、他の一を日本政府に、余の一を日支両国民の民有とせば両国軍事同盟の礎石茲に於て動かず」(2−191頁)。そして彼は更に次のようにつづける。「あゝ日支両国を永遠に結合する日支官民の一大軍器製造会社よ。営利は不肖の知る所に非ず。唯軍器の製造は国権の拡張を意味す」(同前)と。

  一大合弁兵器廠が、「国権の拡張」であり両国「永遠」のきづなであるということは、「亜細亜の盟主」による中国植民地化でなくて何であろうか。排日運動に対してさえ、国家民族主義の高まりとして同感を惜しまなかった彼の中国革命認識は、一体何処に消えたのであろうか。そして更に、合弁兵器廠と共に「日支同盟」を支えるもう一つの柱として、「日米経済同盟」による大鉄道網建設について語り始める時、北が語っているのは植民地経営論以外の何物でもなくなっている。列強の中国分割に反対して門戸開放を唱え、日露戦争に於ては日本を支援したアメリカが、「露支戦争及び日本の西比利亜侵略に対して再び有力なる同盟的立場に立ち得」(2-193頁)るであろうと考える北は、日米経済同盟の身勝手な幻想にふけるのであった。日米間には「彼(アメリカ)の弱点は支那の投資に於て日本の保証なくんば元利一切の不安なることにして、日本の弱点は彼の投資により支那の開発さるゝなくんば日本の富強なる能はざる利害の一致」(同前)があり、アメリカ資本は日本の保障があれば、中国に続々と投資されるであろうというのが北の想定であり、革命政権が没収した外国既設鉄道の上にこの米国資本を加えて、「軍隊輸送を基本とせる設計」(2−199頁)によって大鉄道網を建設するならば、中国統一の基礎条件となるであろうと云うのであった。

  「実に支那の統一者は袁孫に非ず譚黄に非ずして一に唯鉄道なり。支那の郡県制度は鉄道によりて統一せられ、支那の『産業革命』は鉄道によりて中世的経済生活を近代に飛躍せしむべし。鉄道は支那の主権者なり。…四百余州の郡県に連れる蒙古西蔵が軍隊輸送本位の鉄道に統一さるゝに至りて、支那は内地の為の軍隊浪費を要せざるべし。是れ日支軍器製造会社と共に支那が統一的有機的一国たる根本基礎にあらずや」(2−199頁)。

  『支那革命外史』前半においては、「同一なる民族的覚醒、同一なる愛国的情操、同一なる革命的理解」(2−17頁)という中国民衆の「大勢」の中に、中国統一の基礎を見出そうとした同じ著者が、わずか3か月の中断の後に書きあげた後半の末尾では、同じ問題について、アメリカ資本による軍隊本位の鉄道建設という全く異った答えを提示することは如何にして可能だったのであろうか。我々はもはや、北の亜細亜モンロー主義が不干渉・不侵略の「支那保全主義」の規制を全く断ち切って暴走し始めたことを確認しなくてはなるまい。「日本国権の拡張と支那の覚醒との両輪的一致策如何」(2−1頁)という北の最初の設問に即して云えば、「支那の覚醒」=中国革命に感応することによって生み出された筈の「天啓的使命」観が、中国革命をふり切って、「日本国権の拡張」のみを追求する「片輪的」方向に走り始めたということでもあろう。それは別の問題で云えば、中国革命の対外戦争への必然的発展という想定を媒介として生み出しされた積極的開戦論が、その媒介項を切り捨ててゆくことにほかならなかった。とすれば、『支那革命外史』の末尾は、すでに『国家改造案原理大綱』の「開戦ノ積極的権利」に接続していたと云いうるであろう。

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