『帝国議会誌』第1巻

1975年6月

印刷用ページはこちら



第五五回帝国議会 貴族院・衆議院解説


 

古屋 哲夫

 

第五五回帝国議会 貴族院解説
第五五回帝国議会 衆議院解説


第五五回帝国議会 貴族院解説

1帝国議会の権限と構成
2帝国議会の運営
3貴族院の組織
4貴族院の会派
5第五五議会

1帝国議会の権限と構成
天皇主権と帝国議会
帝国議会の権限
議会に対する政府の優位
二院制とその特色


1帝国議会の権限と構成



天皇主権と帝国議会

 帝国議会の設置を決定したのは、明治22(1889)年2月11日に公布された「大日本帝国憲法」であり、憲法と同時に議院法・衆議院議員選挙法・貴族院令などが制定されている。ついで翌年6月から9月にかけて各種の選挙などによって貴・衆両院議員が選任され、11月29日、第一議会の開院式が行なわれて、立法機関としての帝国議会が現実に発足したのであった。

 この議会開設は、すでに自由民権運動が大衆的な盛り上がりを示していた明治14(1881)年10月12日の詔勅で予約されていたことからも明らかなように、一面では確かに国民の政治参加の要求にこたえたものであった。しかし他面では、主権は天皇にあるとして国民の政治参加を出来るだけ狭い範囲に局限していることがこの憲法の特色であり、従ってまたこの点が帝国議会を基本的に性格づけることにもなった。

  まず、大日本帝国憲法は、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」(第4条)と規定した。この点について伊藤博文の名を以て発表された憲法制定者の公式注釈書「憲法義解」は、「統治権を総攬するは主権の体なり、憲法の条規に依り之を行ふは主権の用なり」と述べており、この条文が天皇主権の原則を示したものであることを明らかにしていた。そして憲法はこの主権の運用を補佐するためのさまざまな機関を規定したが、いずれの場合にも最終決定権は天皇にあり、これらの機関に主権を分与するものではないとの建前を貫いていた。帝国議会についてみても、議会は立法権そのものを有するのではなく、天皇の立法権を「協賛」するにすぎないものと位置づけられた。憲法第五条は「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」と規定し、「憲法義解」は「議会は立法に参するものにして主権を分つ者に非ず。法を議するの権ありて法を定むるの権なし」と述べている。
 このことは別の面からいえば、議会は直接には立法権だけにかかわるだけで、主権の他の側面には関与することが出来ないということにほかならなかった。例えば、「天皇ハ…文武官ヲ任免ス」(第10条)、「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」との規定から、大臣は議会に責任を持つものではなく、また議会は大臣の任免に関与できないとの解釈が出される。「憲法既に大臣の任免を以て君主の大権に属したり、…大臣の責を裁判する者は君主にして人民に非ざるなり。何となれば、君主は国の主権を有すればなり」(「憲法義解」)という解釈は、議員内閣制を原理的に拒否するものであった。
 つまり、一般的に言えば、憲法がたんに「天皇ハ何何ス」という形で規定しているものは「天皇の大権事項」と呼ばれ、議会が直接に関与することができないとされたのであった。このような大権事項は、行政各部の官制・文武官の任免・文武官の俸給、陸海軍の統帥・陸海軍の編制及び常備兵額の決定、宣戦・講和・条約の締結などきわめて広い範囲にわたっている。こうした広汎な大権事項の存在が、議会の権限をいちじるしく弱めることを意味したことは言うまでもない。



帝国議会の権限


 (1) 法律議定権 憲法はまずすべての法律案は帝国議会の議決を経なければならないと規定すると共に、法律案の発案権を政府だけでなく議会にも認めた。これをうけて、議院法では、個々の議員に、20名以上の賛成者を得て法律案を提出する権利を与えた。これによりあらゆる法律は貴・衆両院を通過し、天皇の裁可を得て公布されなければ効力を発しないこととなった。しかも天皇は議会を通過した法律案にはすべて裁可を与えているのであり、憲法の建前はともかくとして、実質的には議会は法律家に関する限り立法権を行使することができたと言ってよい。しかし、この権限は「法律」に関してだけであり、さきの「大権事項」は法律をもって定める必要のない事項として、議会の審議権の外におかれたのであった。

 (2) 予算議定権 憲法は次に「国家ノ歳出歳入ハ毎年予算ヲ以テ帝国議会ノ協賛ヲ経ヘシ」(第六四条)と規定し、議会の予算議定権を認めた。しかしここでも法律議定権の場合と同様に、「大権事項」から来る制限が設けられていた。憲法は第六七条として次のような条文を掲げた。

 

 第六七条 憲法上ノ大権ニ基ツケル既定ノ歳出及法律ノ結果ニ由り又ハ法律上政府ノ義務ニ属スル歳出ハ政府ノ同意ナクシテ帝国議会之ヲ廃除シ又ハ削減スルコトヲ得ス

  そしてこの条文について制定者は次のような解釈を 示していた。

  「憲法上の大権に基づける既定の歳出とは、第一章(憲法)に掲げたる天皇の大権に依れる支出、即ち行政各部の官制・陸海軍の編制に要する費用・文武官の俸給並びに外国条約に依れる費用にして、憲法施行の前と施行の後とを論ぜず、予算提議の前に既に定まれる経常費額を成す者を謂ふ。法律の結果に由る歳出とは議院の費用・議員の歳費手当・諸般の恩給年金・法律に依れる官制の費用及俸給の類を謂ふ。法律上政府の義務に属する歳出とは国債の利子及償還・会社営業の補助又は保證・政府の民法上の義務又は諸般の賠償の類を謂ふ」(「憲法義解」)。


ここにあげられた歳出のうち、天皇大権にもとづいた支出が最も重要なものであることは言うまでもない。

  この条文は開設当初の議会から、予算審議に対する最大の障害となってたちあらわれてきた。当時、自由民権運動の流れをくむ、いわゆる民党が衆議院の多数を占めており、彼等は「民力休養・政費節減」のスローガンのもとに、行政費・軍事費に削減を加えて、地租などの租税負担の軽減をはかろうとした。しかしこれらの経費はいずれも、憲法第六七条に該当するものであり、その削減には政府の同意が必要とされた。第一議会から第四議会にかけては、こうした予算削減に同意を要求する政党とこれを拒否しようとする政府との間の対立と駆け引きとが議会政治の中心となっていたと言ってよい。

  とくに第四議会では、衆議院が軍艦建造費削減についての同意を強硬な態度で政府に要求し、政府が再度にわたって不同意を表明するや、上奏案を可決して直接天皇に訴えるに至った。このときには「在廷の臣僚及帝国議会各員」に対する勅語が下されたが、その内容は「憲法第六七条に掲げたる費目は既に正文の保障する所に属し、今に於て紛議の因たるべからず」とすると共に、軍艦建造費補助のため、6年間毎年内廷費30万円を下付するほか、文武の官僚に俸給の10分の1を納めることを命じたものであった。政党はこの勅語の前に屈し、以後いわゆる藩閥政府との妥協により、閣僚の地位を得ようとする方向に転じたが、そのことはここでの問題に即して言えば、六七条関係の費目に手をふれることは、議会の予算議定権の行使という方法によってはきわめて困難であり、政府の予算編成過程に直接に参与する以外にないと考え始めたことを示すものとも言いうるであろう。

  こうした憲法六七条をめぐる初期議会の動向のなかで、もう一つの注目しておきたいことは、第一議会において衆議院が官制改革を要求する形で予算案中の行政費削減を企てたのに対して、政府が「(衆議院の)修正案は官制を変革せんとするの点に於て予算議定権の区域を超越したり」として拒否したことである。政府は更にこの点について島田三郎外60名の質問に、「官制・軍制の君主の大権に属することは我帝国憲法の明文に於て一点の疑義を残さざらしめたり。若し予算議定権に依りて年々官制又は軍制を変動することを 企つることを得ば、行政の大権は実際に於て全く予算議定者の手に侈らんとす」と答えている。つまり憲法第六七条は、予算の議決を通じて議会が、天皇の大権事項に属する官制や軍制の改変を、政府に余儀なくさせることを禁じたものと解されているのであった。

  (3) その他の権限 憲法は、法律・予算の議定権のほかに、上奏・建議をなすこと、請願を受理することなどの権限を認めた。上奏とは天皇に対するものであり、建議とは政府に対するものである。また請願の受理とは、国民からの請願を受けて審査し、その結果適当と認めたものは政府に紹介するとか、意見書を付して政府の報告を求めるなどの手続をさしている。これらの権限は、それぞれの議院が、他の議院と関係なく単独で行使し得るものとされた。

  このほか、議院法では個々の議員が30人以上の賛成を得て、政府に質問をなすことが認められている。 これは議案審議の際における質問ではなく、議案と関係なく、政府の意見を求める手段であり、この質問と区別するために、議案審議における質問は「質疑」と呼ばれていた。



議会に対する政府の優位


  憲法はまた、天皇に対する議会・政府との関係を、「協賛」と「輔弼」という異った用語で規定した。それは天皇の主権行使にあたって、政府の役割を議会よりも重要なものとする考え方に立つものであった。即ち「協賛」は立法過程における手続にすぎないのに対 して、「輔弼」は統治権の行使に直接に責任を負うことを意味した。そして憲法はこうした立場から政府を議会に対して優位に立たせようとし、次のような権限を与えた。

  (1) 衆議院解散権 形式的に言えば、詔書によって解散を命ぜられるのであり、天皇の権限ということになるが、実際には政府の奏請をそのままうけて詔書が下されているのであり、実質的には政府の権限であった。衆議院解散と同時に貴族院は停会を命ぜられ、議会の機能は全く停止するものとされた。解散は政府に、世論に訴えて議会の党派構成を変化させる機会を与えるものであった。

  (2) 停会権 停会は議会の活動を一時停止させることであり、貴・衆両院は同時に停会となる。従って、解散の場合と異って、貴族院の行動に対する対抗手役としても行使することができる。詔書によって命ぜられるが、実質的に政府の権限であったことは解散の場合と変わらない。法文上においても憲法第七条が「天皇ハ帝国議会ヲ召集シ其ノ開会閉会停会及衆議院ノ解散ヲ命ス」と規定して天皇の大権事項に数えているのに対して、議院法第三三条は「政府ハ何時タリトモ一五日以内ニ於テ議院ノ停会ヲ命スルコトヲ碍」として、政府の権限とする形で規定している。停会は政府に反対党の切り崩しや妥協工作に専念する余裕を与え、これが成功しない場合、政府は停会あけの議会に再度の停会を命ずることも出来た。

  (3) 前年度予算施行権 憲法はその第七一条に「帝国議会ニ於テ予算ヲ議定セス又ハ予算成立ニ至ラサルトキハ政府ハ前年度ノ予算ヲ施行スヘシ」との規定を 置いた。この規定は、議会が予算案を不成立におわらせて政府を決定的な危機においこむことを防止したものであった。また、会期を三箇月に限定されている(憲法第四二条)帝国議会の場合には、この規定なしには、解散権や停会権を自由に行使することは事実上きわめ て困難となることは明らかであった。この3つの権限に、、さらにすでに述べた憲法第六七条による予算審議権が加わって、議会に対する政府の優位を支えていたと言えよう。



二院制とその特色

憲法は、皇族・華族を中心とする上流社会の代表から或る貴族院と、一般国民から公選された議員から或る衆議院の二院を以て帝国議会を構成した。二院制の目的は、衆議院の力をできるだけ小さく局限しておこうとする点にあり、そのために次のような形で貴族院の地位をきわめて強固なものとした点に、二院制の特色がみられた。

  (1) 貴族院令の特殊性 まず第一に貴族院の組織を定める貴族院令に特殊な地位が与えられた。憲法第三四条は「貴族院ハ貴族院令ノ定ムル所ニ依り皇族華族及勅任セラレタル議員ヲ以テ組織ス」と規定したが、このことは、貴族院の組織を法律ではなく勅令によって定めることを意味した。勅令はきわめて大まかに言えば、次の二種類に分けることが出来る。第1は、すでに述べた法律の範囲外とされた事項、例えば官庁の 組織、官吏の任免、俸給などを定めたものであり、第2は法律の施行のための行政命令・施行規則などの類である。そして議会の追認を必要とする緊急勅令という例外を除いては、勅令によって法律を変えることができないというのが大原則とされた。一般的に言えば、この範囲内で勅令の内容を定めることは実質的には政府の権限であった。従って、法律の範囲外である第1 の種類の勅令は政府の一存で、議会の承認を必要とせずに制定・改廃することができた。貴族院令をこの種の勅令としたことは、貴族院の組織について衆議院が関与する道を閉ざしたことを意味した。

  しかし、貴族院の地泣を強固ならしめる事を意図し憲法制定者は、さらに貴族院令に勅令のなかでもきわわめて特殊な性格を与えた。貴族院令第一三条に「将来此ノ勅令ノ条項ヲ改正シ又ハ増補スルトキハ貴族院 ノ議決ヲ経ヘシ」との規定をおいたのがそれである。これによって政府も貴族院の同意なしに、その組織を 変更できないことになった。後述するように、貴族院改革が大きな問題とされながら、充分の改革が実現できなかったのもこの条項によるところが大きい。改革論議のなかでは、この条項の底止も諭ぜられたが、結局最後まで実現せずに終わった。

  さらに、世襲・終身議員をふくむ貴族院には、解散という制度もなく、政府が貴族院に対抗する手段は停会だけであった。

貴族院にこうした強固な地位を与えたことは、憲法制定者の関心が、もっぱら衆議院を足場として進出してくるであろう政党勢力との対抗の問題に注がれ、貴族院と政府との衝突を予想していなかったことを示している。憲法制定の中心となった伊藤博文が、のち明冶33年に政友会を結成、第四次内聞を組織するや、政党に反感を抱く貴族院の強い抵抗をうけ、詔勅によって局面を打開しなければならなかったことは、彼がつくりあげた貴族院の強固な地位に起因するものであった。その際伊藤は上奏して「嚮キニ憲法制定ニ当リ 臣実ニ大命ヲ奉ジ、其経画ノ任ニ居ル、而シテ今日ノ 如キ疏通スベカラサル難境ニ陥ル。早畢竟臣ガ経画ノ時ニ於テ周密ヲ缺クニ基カザルヲ得ズ」と自らの不明を 恥じ、茲ニ於テ乎、将来憲法政治ノ生活ヲシテ永続セシメントスルニ於テハ、貴族院改造ノ一方アルノミ」 と、貴族院改造の決意を述べねばならなかった。しかし一たん出来あがった貴族院を改革するのはきわめてむずかしい問題となっていた。

  (2) 権限の対等と予算先議権 明治憲法下の二院制も著しい特色は、貴・衆両院の権限を全く対等とした点にあった。いわば一般国民の世論を背景とした衆議院の要求は、貴族院という装置で濾過された分だけしか実現しないという仕組みであった。この両院対等の仕組みのなかで、唯一つの例外となっていたのが、衆議院の予算先議権であったが、これも政府が予算案はまず衆議院に提出しなければならないという手続だけの問題とされ、両院の審議権の内容を規制するものではないと解釈されてしまった(法律案の場合には両院のどちらに先にかけてもよかった)。

  しかし「予算ハ前ニ衆議院ニ提出スヘシ」という憲法弟六五条をどう解釈するかは初期議会の争点となっており、前述の解釈が確定するのは、第三議会における貴・衆両院の争いに対して枢密院が下した銃定にもとづいている。第三議会に於ける両院の論争は、衆議院が削除した軍艦製造費の項目を貴族院が復活したことに対して、衆議院側がこれを不法の議決としてその受理を拒否するという形で始まった。衆議院側の論拠は、予算先議権は衆議院の議決が貴族院にとっての原案となると解すべきであるとする点にあった。つまり貴族院は、政府提出案を原案とするのではなく、衆議院が議決して回付した案を原案としなければならないというのである。そしてこの論から言えば、予算については議会は発議権がなく、従って原案にない款項をつけ加えることが出来ないのだから、衆議院議決案を 原案とする貴族院は、衆議院で削除した款項を復活することは出来ない、ということになる。それ故、貴族院が行なった款項の復活は、議会が持たない筈の予算発議崖の行使であり、従って不法であるというのが衆議院側の言い分であった。

  こうした解釈は、憲法制定者の公式註解書「憲法義解」からも引き出すことができた。同書は問題の第六五条について次のように述べている。 「本条予算議案を以て衆議院に最大の特権を付したり、蓋予算を議するは政府の財務と国民の生計とを対照し、両々顧応し豊検の程度を得せしむるを要す。此れ乃衆民の公選に依り成立する代議士の職任に於て尤緊切なりとする所なり」。

  この解釈は、予算案は国民の生計に重大な関係をもっているから公選議員から成る衆議院に先議の特権を与えたというわけであり、そうだとすれば、衆議院の審議を貴族院の審議よりも内容的に重視しなければならない筈であった。

  これに対して貴族院の側は、貴族院の審議権を制限しようとする衆議院の主張に強く反対し、先議権とはただたんに先に議するというだけの話であって、衆議院の議決によって政府原案が消滅するのではない、政府案は貴族院の議決においても原案として存続しており、実質的には衆議院の議決案は唯参考として貴族院に送付されているに過ぎないと主張した。しかし、衆議院側が貴族院議決案の受理を拒否し続けたため、貴族院は遂に上奏して天皇の親裁を仰ぎ、天皇は枢密院に諮洵し、次のような審議結果を貴族院に通達した。それは貴族院側の主張を全面的に支持するものであった。

 

「我帝国憲法第六五条ニ依リ、衆議院ハ貴族院ニ先チ、政府ヨリ予算案ノ提出ヲ承クルノ外、両院ノ間ニ軒輊スル所ナキモノナリ。故ニ後議ノ議院ハ前議ノ議院ニ対シテ何等羈束セラルルコトナク、従ッテ前議ノ議院ニ於テ削除セル款項ヲ存留スルハ素ヨリ後議ノ議院ノ修正権内ニ属スベキモノトス」


  衆議院側も、天皇の名によって伝えられたこの裁定に服した。従って両院が全く対等の権限を持つという二院制は、こうした憲法解釈の結果としてできあがったものにほかならなかった。

2帝国議会の運営