会期
天皇の立法権に協賛する機関として設立された帝国議会は、召集・開会・閉会・会期などすべて天皇の命令によって行なわれ、定められる建前であった。しかもこの天皇大権の行使の「輔弼」者は国務大臣に限られていたから、これらの事柄は実質的には政府の一存できめられることになった。つまり、会期やその延長についても議会が自主的に決定することはできなかった。
議会には、毎年1回召集される通常議会、臨時緊急の必要ある場合に召集させる臨時議会、解散→総選挙が行なわれた場合に、解散の日から5箇月以内に召集される特別議会の3種類があったが、通常議会の会期は憲法第42条で3箇月以内と定められており、臨時・特別議会はそれよりはるかに短い会期で聞かれている。この場合には会期についての規定はなかったが、臨時議会は2日から10日以内、特別議会は10日以上30日以内で会期がきめられていた。会期の延長も数日、長くても10日以内で行なわれたにすぎなかった。なお通常議会の会期3箇月は、慣例として90日と解釈されていた。既って通常議会は予算案審議の関係から、 11月乃至こ12月に召集された。
ところで、議会の会期は開院式の日を第1日として計算される。しかし閉院式は会期が終了した翌日に行なわれるので会間のうちにはいらない。開院式・閉院式はいずれも貴族院本会議場で行なわれ、天皇から勅語が下される。そしてこの開院式の勅語に対する奉答文の作成が、議会の最初の仕事であった。奉答文は両院別々に作成され、初期には議長が起草したが、第19議会で衆議院議長河野広中が、内閣弾劾の意味をこめた奉答文を提出し、このため衆議院が解散されるという事件が起こって以後、18名の起草委員によって作成されることになった。
院の成立
しかし、開院式が議員の最初の集会ではない、それ以前に各院が成立していなくてはならない。院の成立とは議長・副議長、各議員の議席・部属、各部の部長・ 理事が決定した状態を指している。議会の召奥目は召集の詔書に示されるわけであるが(詔書は召集目の少なくとも40日前に発布されねばならない)、召集第1日日から選挙その他によって、これらの決定が行なわれた後に開院式が開かれることになるのである。
(1) 議長・副議長 貴族院の場合には、院の意思とは無関係に、議員中より7年の任期で勅任される。これに対して衆議院の場合は、議長・副議長のそれぞれについて3名ずつの候補者を選挙し、その中から1名を天皇が任命するという形式をとっている。しかし実際には、最高得票者が任命されている。任期は「議員 ノ任期ニ依ル」(議院法)とされているから、一たん任命されるとその任期中は議長・副議長の職にあるのであり、衆議院においても、毎議会ごとに議長選挙が行なわれるわけではない。
(2) 議席 貴族院の場合には、皇族を最初におき、宮中席次などを基準として議長が指定した。衆議院の場合は最初は抽せんによって議席を決定した。これは議会の運営においては政党の存在を認めまいとする立場を反映するものであったが、しかし結局政党を無視しつづけることは出来ず、第21議会から議長が党派別に議席を指定するというやり方が行なわれるようになった。
(3) 部 貴・衆両院とも議員を9部に分けることに定められていた。これも政党無視の立場に立つ制度であり、議員が全員で議案に関する調査等を行なうのは不便であるから、9グループに分けて、政務調査のための便宜を与えようというのが立案の趣旨であった。 部分けは両院とも抽せんによって行なわれ、部長及び理事が互選された。また部が常任委員を選出する母体ともなった。両院の常任委員会及び特別委員会の委員数が9または9の倍数とされたのは、この9部制にもとづいた慣行であった。しかし実際に於ては、政務調査は、政党会派で行なわれており、委員の選任も各政党会派で候補者を内定しているのであるから、この9部制は、常任委員選出の際の形式として機能するだけのものに終わっていた。
委員会
帝国議会は本会議中心主義を運営の建前としていたが、審議の必要を考慮して、全院委員会・常任委員会・特別委員会の3種の委員会が設けられた。
(1) 全院委員会 全院委員会は全議員が出席して本会議場で行なわれる委員会であり、形の上からみると本会議と異るのは、議長が退席して全院委員長が座長をつとめるという点だけであった。全院委員長は各議会の会期のはじめに、あらかじめ選挙できめられている。しかしこの委員会の性格はあいまいであり、初期の議会では議案の内容にかかわらない議案の扱い方についての院の意思を決定するために聞かれたようであるが、衆議院では、第1・3・4・13議会で、貴族院では第1・13議会で開かれたのみで、その後はこの制度は利用されなくなっている。しかし、全院委員長の選挙だけは最後まで行なわれている。
(2) 常任委員会 帝国議会では法律案はすべてまず 本会議にかけられてから、必要があれば特別委員会に付託することになっていたが、法律案以外で、その性質が明らかな議案については、その処理のためにあらかじめ常任委員会が設置された。常任委員会は会期の はじめに各部ごとの投票によって選出される。しかし各部内での互選ではなく、他の部の議員に投票してもよかった。委員長は委員の互選によった。
両院に共通な常任委員会は、最初は予算・懲罰・請願の3委員会であり、のち第6議会にはじめて決算(明治24年度)が提出されるに及んで決算委員会が追加され4委員会となった。この他、貴族院にだけ資格審査委員会がおかれていた。これは貴族院に対する外部からの干渉を排除しようとする前述の法制の一環として、貴族院議員の資格及び選挙に関する争訟を裁定する権限が裁判所ではなしに、貴族院自体に与えられた(貴族院令第9条)ため、これらの争訟事件を蜜査するために常設された委貝会である。
これら常任委員会の審議の対象となる案件は、議会に提出されると本会議を経ずに、直ちに常任委員会にかけられ、その結果が本会議に報告されるという仕組みになっていた。常任委員の数は、貴族院規則・衆議院規則で定められ、次表の如く変遷している。なお、規則は院内自治の原則によって、各院の院議のみによ って制定・改廃できることになっていた。
貴族院 |
明23制定 |
明27改正 |
明40改正 |
明43改正 |
大2改正 |
大10改正 |
予算請願懲
罰資格決算
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45 27 9 9 ― |
45 27 9 9 27 |
54 27 9 9 36 |
54 36 9 9 36 |
63 36 9 9 36 |
63 45 9 9 45 |
衆議院 |
明23制定 |
明24改正 |
明28改正 |
明35改正 |
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予算請願懲
罰決算 |
63 36 27 ― |
45 36 18 ― |
45 36 18 27 |
63 45 27 27 |
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衆議院では最初の決め方があまりに多すぎたとして一時削減されたが、両院ともその後の増員は、議員の定員増や審議事項の増加を理由とするものであった。 なお、審議事項の多い予算・決算・請願の各委・員会では、審議の能率をあげるため分科会が設けられ、これに 対して委員会の全体会議は予算総会などのように総会の名で呼ばれた。
(3) 特別委員会 特別委員は特定の案件を審議することを付託された委員であり、本会議で選挙又は議長による指名できめられる。従ってその案件の処理が終われば委員の地位も消滅することになる。貴・衆両院ともその規則で「特別委員ノ数ハ九名トス、但シ付託事件ノ種順ニ由り議院ノ決議ヲ以テ之ヲ増加スルコトヲ得」と定めており、原則として特別委員会は9名の委員で構成された。しかし18名の場合も少なくなく、27名の場合もあったが、ご36名となるときわめてまれであった。
(4) 予算委員会の審議期限 各種の委員会のうち、予算委員会だけには、審議期間の制限が設けられていた。しかも最初は衆議院についてだけこうした制限が置かれていたことは、衆議院の強い抵抗を予想し、出来るだけ早期にこの難関を突破することが、90日ときめられた会期内に予算を成立させる前提と考えられたことを示している。この制限は議院法によって定められ、制定当初は、衆議院の予算委員は政府から予算案を受取った日からて15日以内にその審査を終わり本会議に報告しなければならないとされた。しかし以後急速に膨脹し複雑化する一方の予算案を審査するにはこの期間は短かすぎるとの理由から、明治39年にい たり、21目以内とすることに改正された。
貴族院についてはこのような制限は置かれていなかったが、加藤高明内閣は大正14年第50議会に貴族院令改正系と共に議院法改正宗を提出し、貴族院の予算案審議開聞にも衆議院と同様な制服を加えることを 提議した。しかし、貴族院側からは、予算の確実な成立を望むのなら、こうした制限を加えるよりも、予算案の提出を早めるべきであるとの反論がなされ、政府は早期編成の困難なことを弁明したが、この議会では未成立に終わった。この改正が成立するのは、昭和2年第52議会であり、結局、両院の予算委員は、政府又は衆議院から予算案を受取った日から21日以内に審査してその院に報告しなければならない、但しやむをえざる事由のある時は、各議院は院議によって5日問まで延長することができる、ということになった。
法律案と三読会制
帝国議会の運営の特色は、法律案について三読会制 をとったことであった。読会とは朗読する会という意味であり、例えば、貴・衆両院の規則が、「第一読会ニ於テ議案ヲ朗読シタル後国務大臣政府委員又ハ発議者ハ其ノ趣旨ヲ弁明スルコトヲ得」と規定しているよう に、議案の朗読から会議を始めることを原則としたからであった。もっとも実際には「議長ハ便宜議案ノ朗読ヲ省略セシムルコトヲ得」という但し書の方を利用 して、議案を印刷配布し朗読を省略する方が通例となったが、呼び方は読会の名が最後までもちいられた。
三読会制とは、審議を3段階に分かつということで ある。
(1) 第一読会 まず第一読会は、その法律案の趣旨 と大体の内容を審議する。そしてこれが悪法であるということになれば、この段階で廃棄されてしまう。手続としては、議長は、第二読会を開くべきか否かという形で採決を行ない、否となれば、その法案は否決されたことを意味した。特別委員への付託もこの段階で行なわれる。この場合政府提出の法律案については、政府が緊急の必要ありとして要求しない限り、委員の審議を経ないで議決することはできないと定められていたが(議院法)、議員提出の法律案は委員付託の動議が成立した場合だけ、特別委員会の審議にかけられる ことになっていた。これらの場合には、第一読会は最初の会議と読会との2回の会議が必要となる。即ち最初の会議は、提案者の趣旨弁明、質疑応答、特別委員の選任、委員付託というところで終わり、法律案は特別委員会の審議に移される、そして委員会の審議が終 わったところで読会が開かれることになる。本速記録の目次で言えば、「何々法律案第一読会ノ続」とあるのがこの会議にあたる。ここではまず委員長の報告が行なわれ、質疑応答のあと、第二読会を開くべきか否かの採決が行なわれて、法律案審議の第一段階が完了することになっていた。
(2) 第二読会 第二読会は、議院規則に「議案ヲ逐条朗読シテ之ヲ議決スヘシ」とあるように、法律案の逐条審議を行ない、修正があれば修正を行なって、最後の採決にかけるべき案を決定するという建前になっていた。しかし委員会で詳細な審議が行なわれるのであるから、本会議での逐条審議は省略され、実際には修正案作成のための会議であったといってよい。ここで の採決は、まず修正案から行なわれ、修正案が全部否決されると、原案が採決にかけられるという仕組みになっていた。
(3) 第三読会 第三読会は、第二読会の議決についての可否を問い、院議を確定するための会議である。 この段階では「議案中互ニ抵触スル事項又ハ現行法律 ト抵触スル事項アルコトヲ発見シタルトキ」(議院規則) 以外には、修正の動議を出すことはできないことにな っていた。
この三読会制は、法律案の基本的内容の審査、逐条審議と修正案作成、院議の確定という3段階を想定したものであり、更に審議に慎重を期するため各読会は少なくとも2日の間を置いて開くというのが、議院規則の原則であった。しかし現実には、修正意見もなしに通過する法案もありうるし、また、本会議が同じ構成員で開かれる以上、第二読会の議決が第三読会でくつがえることはきわめて異例のことと考えてよかった。 従って議院規則も例外として、読会省略や日数短縮の手続を定めており、議会運営の実際はこの例外の手続の方が通例となっていった。
(4) 読会の省略 読会の省略とは、第一読会又は第二読会の議決をもって、院の確定議とすることである。 しかしそのためには、政府又は議員10名以上の要求があり、それが出席議員の3分の2以上の多数をもって可決されなくてはならなかった。これに対して読会間の日数短縮については、議長が提案し、単純多数決で可決されればよいという、より簡単な手続で行なう ことが出来、次の読会を同日に開くこともできた。つまり読会とは審議の段階を示すものであるから、実質的には同一の会議で、三つの読会を次々にすませてゆくことも可能であった。委員付託となった法律家でも、第一読会の続、第二読会、第三読会が同じ日に開かれることが多くなった。このことは、議院規則が想定し た審議過程が実状と合わなくなったことを意味しているが、さきの9部制などと同様に、三読会制も建前と しては最後まで存続した。
発言・動議・発議・採決
議員の議場における活動の形態としては、
(1)発言を 求めて討論に参加すること、(2)種々の動議を提出し、又はその賛成者となって議事の進行を推進すること、
(3)自ら議案を提出し、またその発議の賛成者となること、(4)自ら政府に対する質問を提出し、又はその賛成者となること、(5)採決に参加して院議形成の一端を担うこと、の5種の行動を基本的なものとみることが出来る。
(1) 発言 議場での発言は、議席から立ち上がって「議長」と呼び、議長の許可・指名を得れば発言する ことが出来るが、議事日程(次の開議日の会議に付する案件とその順序を記載したもので、議長が作成し議員に配布する)にのせられている議題については、会議開始前に賛成・反対を明らかにして発言の通告をしておくことが出来た。討論はまず反対の発言から始め、次に賛成・反対を交互に発言させるのを原則とした。発言はこの原則に従って通告順に行なわれ、通告者の発言が終われば、議席から発言を求めることができることになっていた。しかしこの間、討論終局の動議が成立すれば討論は打切られてしまうのであり、通告していなかった者は勿論、事前に発言の通告をしておいたと しても、発言の機会が得られるかどうかわからなかっ た。
発言の内容については、議院法によって「皇室ニ対シテ不敬ノ言語論説ヲ為スコト」、「無礼ノ語ヲ用ヰルコト」、「他人ノ身上ニ渉り言論ヲ為スコト」を禁じられていたが、院外において刑事・民事上の責任を追及されないことは、憲法第52条によって保証されていた。 この規定は、議院内の自治を認め、発言内容については議院において処罰にまかせるという趣旨にもとづいており、懲罰の対象の1つになっていた。懲罰には、「一、公開シタル議場ニ於テ譴責ス、二、公開シタル議場ニ於テ適当ノ謝辞ヲ表セシム、三、一定ノ時間出席ヲ停止ス、四、除名」(議院法)の4種があり、除名は出席議員の3分の2以上の多数による決議が必要であった。しかし除名は再選を妨げるものではなかった。
このように議場での発言内容は、懲罰の対象となるだけであったが、但し同じ内容を院外で演説し、刊行 した場合には一般の法律によって処分されることになっていた。
(2) 動議 議案以外の議題を提起して会議の決定を求めるのが動議である。議案修正の動議以外では、委員付託、討論終筒、読会省略、議事延期、延会、休会、国務犬匝の出席要求など議事進行に関するものが主要なものである。一般に動議は1人以上の賛成者があれば議題としてとりあげられることになっているが、特殊なものについては、より多くの賛成者を必要とした。まず両院の規定の同じものは次の通りである。
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10人以上の賛成者を要するもの――本会議を秘密会とする動議。 |
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20人以上の賛成者を要するもの――議案に対する修正の動議(ただし「委員ノ報告ニ係ル修正」は賛成者を要しない)、懲罰に付することを求める動議。 |
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30人以上の賛成者を要するもの――予算修正の動議。 |
動議に要する賛成者数は、議院法か議院規則のいずれかで規定されており、両院で異なる規定が生まれてくるのは、議院規則の場合である。もっとも制定当時の規則では両院とも同じであったが、規則はその院の院議だけで改正しうるのであり、この改正の結果、差異が生じたものである。そのような例としては次のようなものがある。
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討論終局の動議――制定時は一般の動議の扱いで1人の賛成者があればよかったが、乱用を防ぐため、衆議院では明治24年、貴族院では同32年に、20人以上の賛成者を必要とすることに改められた。賛成者数の点は同じであるが、貴族院の場合はさらにその上に、賛否それぞれ2人以上の発言があった後でなければこの動議を提出できないという制限を加えた。
全院委員会を開くことを求める動議――‐制定時は、10人以上の賛成者で足りたが、衆議院のみ大正14年の改正で20人以上と改めた。
投票による採決を求める動議――‐採決は賛成者の起立を求めるのが一般的方式であるが、とくに投票による採決を求める場合には20名以上の賛成者を得て動議を提出することが必要とされた。この規定を衆議院のみ大正14年の改正で30人以上と改めた。 |
(3) 議案の提出 各議員は一定数の賛成者を得れば、法律案、上奏案・建議案・決議案をその属する議院に提出することが出来た。上奏は天皇に対するもの、建議は政府に対するもの、決議は院の意思を外部に発表するためのものである。前三者は議院法に規定があり、 法律案は20人以上、上奏・建議案には30人以上の賛成者が必要とされた。しかし決議案については規定がなく、従って一般の動議として、1人以上の賛成者があれば現出できるものと解された。このことは議院制度の制定者が、決議案という形式が重要な役割を果たすことを予想していなかったことを示していると考えられる。貴族院側はこの点についての手直しを行なわなかったが、衆議院側では決議案を一般動議と同等に扱うのは不合理であるとし、大正10年に衆議院規則を改正して、20人以上の賛成者を必要とするとの条項を加えた。
(4) 質問 特定の議案についての質問は、さきの「発言」の重要な内容をなすものであり、ここで言う質問 は、議案から離れて政府の施策や意見を問い、答弁を 求めようとすることである。両院の各議員は30人以上の賛成者を弓ればこのような質問を行なうことができた。また質問には院の議決を必要とせず、ただ質問 主意書を作り賛成者と連著して議長に現出すれば、議長から政府に伝送される仕組みになっていた。この質問書に対しては国務大臣が答弁するか、或は答弁しない理由を明示しなければならないという建前になっていた。
(5) 採決 議院規則では、議長が賛成者を起立させ、可否いずれが多数かを認定するというやり方を、採決の基本方式としていた。しかし、議論の少ない場合には、異議の有無を問うという、より簡単な方法もとられたし、逆にまた、より精密な方法も定められていた。まず、起立を求めてみたものの、議長席から多数の認定が困難な場合や、議長の認定に異議が出た場合には、「点呼」の方法がとられることになっていた。点呼と は、書記官が氏名を呼ぶと、呼ばれた議員は起立して賛否の発言をするというやり方である。次に議長が必要と認めた場合か、一定数の賛成者(最初は20人以上、のち衆議院のみ30人以上)がある場合は、投票による ことにしていた。投票には記名投票と無名投票があった(無記名と言わずに、議院規則の用語に従って無名投票と呼ばれた)。記名投票は、賛成は白票、反対は青票に氏名を記入して投票するのに対して、無名投票は賛成は白球、反対は黒球を投ずることになっていた。しかし実際には、点呼や無名投票はあまり利用されなくなっ た。
採決にあたっては、議員は賛否を表明するだけで、条件を付けることは認められていなかったし、また一度表明した意思を変更することは許されなかった。
両院協議会
それぞれ組織を異にし、しかも相互に独立する二院制をとる限り、両院の意思が異なる事例が多発することは当然予想されるところであり、その最終的調整のために、両院協議会の制度が設けられていた。もちろん甲院で可決したものを乙院で否決すれば、両院間に調整の余地はなく、その議案は廃棄されてしまうのであり、問題は甲院を通過した案を乙院が修正した場合であった。この場合には乙院修正案が甲院に回付されるのであり、甲院がこの修正に同意すれば、そこで議案は成立するが、不同意の場合には乙院に対して両院協議会の開会を請求し、乙院はこれを拒むことができないという仕組みになっていた。
協議員は各院同数・10名以下で選挙又は議長の指名により選任されることになっていたが、両院10名ずつというのが慣行であった。各院の協議最はそれぞれ互選によって、議長及び副議長となるべき者を選んでおき、開会第1日目は拍せんによってどちらの院から議長を出し、第2日目は他の院が議長を出すというように、双方が交互に議長をつとめることになっていた。会議では、協議会の請求に応じた院の議決案を原案、請求した院の議決案を修正案として討議が行なわれ、新たな妥協案が出来なければ、原案・修正案によって採決が行なわれることになる。この場合議長は採決に加わらず、可決同数の場合のみ議長に決定権が与えられていた。しかし採決は議長をもふくめて、両院の出席議員を同数とする、即ち一方の院に欠店者があれば、他の院の委員を抽せんで減員して同数にしてから採決するのであり、各院選出委員がそれぞれ一致した行動に出れば、議長を出している方が敗れるという 結果になった。しかしともかく、協議会で可決された案が成案として再び各院の議決にかけられるのであり、そこで両腕で可決されなければ、その議案は廃棄されることになっている。
両院協議会には、国務大臣・政府委員・両院議長が 出席し、自由に意見をのべることが認められており、予算案等の重要議案については、政府側が妥協成立のために積極的に活動する機会ともなっていた。
会議の公開
議会を開設する以上、会議を公開して国民にその内容を知らせることが、どうしても必要であった。憲法もその第48粂で「両議院ノ会議ハ公開ス」と規定して、原則的にその公開性を保証した。一般国民も議員の紹介があれば、会議を傍聴することができた。新聞社に対しては、最初は一定枚数の会期を通じる傍聴巻(貴族院は在京新聞社に20枚、衆議院は在京新聞社に25枚、地方新聞に10枚)を交付していたが、のちには数を指定せずに公明を通じる傍聴章を交付するようになった。
しかしこの公開の原則も、本会議及び本会議場で開かれる全院委員会に限られており、委員会及び両院協議会の傍聴は許されていなかった。ただし委員会には、委員以外の議員の傍聴が認められていたし(ただし委員会の決議があれば禁止できる)、委員会審議が重要になるに従って、衆議院では新聞記者が委員会の議場に入ることを認めるようになった。
しかしこの本会議公開の原則にも、次のような重大な糾限が加えられていた。憲法第48粂はさきの公開原則肢次のような但し書をつけている。「但シ政府ノ要求又ハ其ノ院ノ決議ニ依り秘密会ト為スコトヲ碍」と。これをうけて、議院法では公開停止の場合を次のように規定した。
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一、議長又ハ議員10人以上ノ発謙ニ由り議院之ヲ可シタルトキ
ニ、政府ヨリ要求ヲ受ケタルトキ |
これによれば、政府は議院の意思とは無関係に、その一存で本会議を槌密会こすることが出来、いつでも国民の眼から密議内容をかくすことが可能となるのであった。
議会における政府の活動
すでにみてきたように、政府は議会の活動を制限する大きな権限を有していた。召集の時期・会期とその延長・解散・停会の決定などは実質的に政府の権限であったし、議会の運営においても、その要求だけで読会を省略させたり、公開を停止させたりする特権を有していた。そしてそのうえに、政府側委員は議案を審議するあらゆる会議に出席し発言する自由を与えられていた。つまり、政府側委員の出席や発言には、議会側の要求や許可を必要としないということであり、逆に言えば、議会側には政府側委員の退席を求める権限は与えられていなかったということである。
ここでは、国務大臣と政府委員とをまとめて、政府側委員と総称したが、この政府側委員の権限もまた憲法によって保障されていた。第54条に言う。「国務大臣及政府委員ハ何時タリトモ各議院ニ出席シ及発言スルコトヲ得」と。また議院法は委員会についても、「議院ニ於テ議案ヲ委員ニ付シタルトキハ国務大臣及政府委員ハ何時タリトモ委員会ニ出席シ意見ヲ述フルコトヲ得」と規定していた。法規の上だけから言えば、提出議案の趣旨弁明を国務大臣でない政府委員にやらせることも可能であった。
ところでこの政府委員については、国務大臣以外でこうした権限を行使しうるものという以上の規定はなく、政府側がその国会での議案密議を想定して必要な各省幹部を指定して各議院に通告すればたりた。主として局長以上の役職にあるものが指定されたが、局長以上という制限があるわげではなく、また会期中でも必要に応じて追加することができた。さらに政府委員が特定の問題についてその下僚に説明させることもできたが、発言の自由はこの説明員にまでは及ばなかったことは言うまでもない。
議会の調査権の制限
このように政府側委員は議会運営に関して大きな権限を与えられていたが、さらに、議会側に議案審査のための資料を提供するルートを独占している存在でもあった。議会側から言えば、請願を受理するような受身の活動を別にすれば、この政府側委員との折衝が公認されたほとんど唯一の調査活動の形態であったと言ってよい。
議院法第74条は「各議院ヨリ審査ノ為ニ政府ニ向テ必要ナル報告又ハ文書ヲ求ムルトキハ政府ハ秘密ニ渉ルモノヲ除ク外其ノ求ニ応スヘシ」として、一応政府側に資料提出を義務づけたが(しかし官庁文書の広汎な(○+秘)扱いによってこの条文が空文化されたことは周知のところであろう)、しかしこの規定が、各省庁に対する直接の調査活動を認めたものでないことは、それにつづ く次の条文によって明らかにされていた。同法第75条は「各議院ハ国務大匝及政府委員ノ外他ノ官庁及地方議会ニ向テ照会往復スルコトヲ得ス」として、政府に対する資斜視供の要求を、政府側委員との交渉に限定したのであった。
さらにまた同法は、各議院が「人民ニ向テ告示ヲ発スルコト」、「審査ノ為ニ人民ヲ召喚シ及議員ヲ派出スルコト」、すなわち、議員が直接に国民と接触すること禁じたのでみった。これらの規定が、すでに触れたよような、議会制度を政党活動と切り跳そうとする思考と同一の発想から出ていることは、もはや繰返すまでもないことであろう。
会期の不継続
最後にもう1つ、政府の議会運営に関する特権としてつけ加えておきたいのは、議案の継続密議に関する権限の問題である。
帝国議会は、会期を継続しないことを運営原則の1つとしていた。会則の不継続とは、それぞれの会期を独立したものとして扱うということであり、例えば委員付託となった法律案を委員会が審査中に会期が終了した場合に、次の議会で委員会審査を引きつづいて行なうことは出来ず、改めて同じ法律案を議会に提出し、第一読会にかけるという手続をとらねばならないということである。つまり、会期が切れた時にまだ議案であったものは一切廃棄されてしまうわけである。これはたんに法律案に限らず、建議や請願でも同じことである。例えば請願についてみると、請願委員の審査の結果が本会議にかけられて、そこで採択すべきだとする議決が行なわれると、その請願書は議院の意見書をつけて政府に送付されることになる。しかしこの手続の途中で会期が切れてしまうと、その請願は廃棄されてしまうのであるから、請願者は次の議会に改めて請願を行なわなければ採択の議決を得ることはできないという仕組みになっていた。
ただし、この会期不継続の原則の例外として、各議院は政府の要求があった場合か、政府の同意を沿だ場合には、議会閉会中も委員をして議案の蜜議を根続することができることになっていた。つまりある議案の審議を継続させるかどうかは、政府の決定に委ねられているのであり、政府の議会運営に関する大きな特権の1つであった。しかし実際には政府はこの権限を行使しなかったが、それによって継続審議が行なわれなかったことは、帝国議会運営の1つの特色となっていたと言いうるであろう。
議会関係法令と枢密院
以上帝国議会の運営について、とくに新憲法下の国会と異なる点を中心にしてみてきたわけであるが、この政府主導型の議会運営のあり方を定めた議院法は、昭和22年4月、国公法の公布によって廃止されるまで、その重要な点は明治22年に制定されて以来全く変わることなく存続していた。もちろんそこには憲法を改正しなければ如何ともしがたい問題があり、また 憲法に抵触しない問題でも貴族院の強い抵抗が予想されるという事情もあったが、もう1つ、一般の法律と異なって、議会提出以前の草案の段階で枢密院の蜜議にかけねばならなかったことが、その改正を困難なものにしていたと言えよう。
枢密院は、「天皇ノ諮詢ニ応へ重要国務ヲ審議」するために、憲法(第56粂)によって設定された天皇の諮問機関であったが、その審議対象には、皇室典範によって権限を与えられた事項、憲法の解釈、条約・協定、 緊急勅令、主要官制などとともに、憲法付属の法令の草案が加えられていた。憲法付属の法令とは、憲法の条文のなかにその名称が出てくる法令であり、帝国議会関係で言えば、議院法、貴族院令、肯族院各種議員の選挙規則、衆議院議員選挙法などであった。つまり帝国議会の制度は、枢密院によってまもられており、この関門を突破するには普選運動のような強力な世論を背景とすることが必要であり、議院法のような、一般国民の関心を呼びがたい法案の改正を企てることは、このような事情によってきわめて困難になっていたのであった。
歳費
最後に議員歳費の問題に触れておきたい。帝国議会の場合にも、議会活動のための費用が、歳費という形で支給されたが、その場合、貴族院の皇族及び公侯爵議員を除外していた点が特徴であった。皇族についてはその経費が皇室の一員として全く別個に処理されていたことによるものであり、公侯爵については、貴族院議員として活躍することは最高の栄誉を与えられたことに対する当然の義務であるとする考え方にもとづ いていた。
議員歳費は議院法によって、貴・衆両院共通に規定され、次の如く改正されている。
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議 長 |
副議長 |
議 員 |
明23制定時 |
4,000円 |
2,000円 |
800円 |
明32改正 |
5,000円 |
3,000円 |
2,000円 |
大9 改正 |
7,500円 |
4,500円 |
3,000円 |
議院法制定当時、議長にくらべて著しく低くおさえられていた一般議員の歳費を是正することが第1回改正の主眼であり、第2回改正は第一次大戦後の物価騰貴に対応して、各歳費共その5割を増加したものである。
なお、明治32年の改正では、それまで歳費は辞退することができないとしていた規定を改めて、辞退を 認めることとした。また、明治39年の国有鉄道法制定後は各議員に国鉄の無賃乗車券が支給されるようになったが、何等法的根拠がなかったため、大正14年の改正で、各議員の議長・副議長・議員は「無賃ニテ国有鉄道ニ乗車スルコトヲ得」が加えられている。
3貴族院の組織へ
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