『帝国議会誌』第1巻

1975年6月

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第五五回帝国議会 貴族院・衆議院解説


 

古屋 哲夫

 

第五五回帝国議会 貴族院解説
第五五回帝国議会 衆議院解説


第五五回帝国議会 貴族院解説

1帝国議会の権限と構成
2帝国議会の運営
3貴族院の組織
4貴族院の会派
5第五五議会

4貴族院の会派
会派の性格
各派交渉会
初期の会派
研究会の勢力伸張
政友会の貴族院工作


大正期の会派
貴族院内閣の出現
貴族院改革後の会派の状況
昭和倶楽部の結成と研究会の動揺


4貴族院の会派



会派の性格


  「憲法義解」は「政党の偏張を制」することを貴族院切主要な役割の1つにあげていたが、実際の貴族院においても、政党活動を排除することが暗黙の丁解になっていた。即ち貴族院では政党のように、特定の政策綱領を掲げて議員を統制しその実現をはかるというような団体活動をなすべきでなく、議員は個々の議案を自主的に公平な立場から審査しなくてはならない、というのがその基礎になっている考え方であった。

  もちろん、貴族院においても、多数決による議事運営がなされる以上、そこに複数の議員集団が生まれてくるのは必然であった。しかしそれはあくまでも院内活動の便宜のためのものと考えられ、政党と区別する意味で「会派」と呼ばれた。従って貴族院の会派は政党と異なって、政策についての意見の異同によってで はなく、議員の種別を軸に形成された点にその最大の特徴があった。大正期に入ると、政党、たとえば政友会への親和感が会派結成の契機となる場合がみられるようになるが、この場合でも勅選か有爵かといった種 別による結びつきが前提となっていた。議会開設の初期には、議員数の最も多かった子爵及び勅選が、会派形成の中心となり、のちには次第に数の増加した男爵議員が新しい会脈をつくる担い手となるようになった。 また多額納税議員の会脈が存在した時期もあった。ただし、皇族議員は会脈には加わらなかった。

  このように会脈は政策集団ではなかったが、会派を 基礎とする議事運営の方式が固まるにつれて、特定の議案についての会脈としての態度を公式に決定し、それによって所属議員の行動を統制する場合が多くなっていった。会派の中で最も早く決議拘束主義を明示していたのは研究会であり、同会規則は「本会ノ決議ハ会員総テ之ニ従フモノトス」と規定していたが、この拘束主義は貴族院にふさわしくないと非毀されるようになり、その拘束力も昭和期に入ると著しく弱まっている。もちろん各会派とも会派内部で議案について論議を行なっているが、その結論で所属議員を拘束しないという建前をとっていた会派も多かった。

  会派形成の経過をみても、研究会、懇談会、茶話会、 木曜会、土曜会などの名称が示すように、議案や議事をめぐる定期的な研究・懇談会として発足しており、全体として会派としての活動が組織だってくるのは、日清戦争以後のことであったとみられる。しかし懇談会的な性格はその後も一貫しており、内部組織が最も整備されていた研究会にしても、常務委員が置かれていただけで、政党総裁にあたるような会長の存在はみられなかった。



各派交渉会

 こうした懇談会的なものにしろ、ともかく会派が成立してくると、それを基盤にして議事運営を円滑にするための交渉が行なわれるようになり、そのことがまた会派の組織化を促進することになった。会派間の交渉は最初は表面にあらわれない内交渉の形で行なわれていたが、次第に各派の代表者が一堂に会した交渉会が表立って開かれるようになり、さらに制度化されるようになった。各派の代表者が集まった交渉会が最初に開かれだのは、明治31年の第13議会においてであり、ついで増税案の扱いをめぐって伊藤内閣と貴族院が衝突した第15議会では、議長が各派交渉会を召集し、妥協案を協議するなどのことがあり、このころから各派交渉会は実質的に制度化されたとみることができる。常任委員・特別委員の人選、発言順序などこの交渉会できめられるようになった。

  このようにして、貴族院の運営が会派を通じて行なわれるようになると、院内で活動するためには、会派に所属することが必要になってくる。各派交渉会が聞かれた第13議会では、それまで160名以上(議員 の約半数)を数えた会派に属さない議員が一気に80名台まで半減している。しかし前述のように一般に貴族院の会派は政策集団としての性格が稀薄であったから、この間には各派交渉会に参加することだけを目的 とした、「無所属議員団」という会派さえ生まれた。つまり、貴族院の会派は、各派交渉会の活動が制度化するに従って、院内交渉団体としての性格を強めていったといえる。

  ところでこのように各派交渉会が、議事運営を方向づける力をもつようになると、大会派が自らの力を維持・拡大するために、小会派を交渉会から閉め出すという事態がおこってきた。最初は各派の交渉にあたっての交渉団体の資格といったものは考えられていなか ったが、明治44年の第28議会以降は、25名以上の所属議員を持たなければ各派交渉会に参加できないこととされた。この制限を設けることに積極的に動いたのは研究会であったが、その意図は、同会より脱会 した伯爵・子爵議員18名が結成した辛亥倶楽部を交渉会から排除しようとするところにあったと言われている。しかしこうした制限ができたといっても、各会派がすぐにその所属議員数を公表したわけではなく、 正式に議員数・議員名が発表されるようになるのは、大正9年の第43議会以後のことであった。各派交渉会が確立すると、常任委員・特別委員も、交渉団に所属議員数に按分比例して配分されるようになり、交渉同体の資格をもつ会派に属さなくては、委員会における審議に参加することは困難となった。



初期の会派


  議会開設後最も早く成立したのは、子爵議員が中心となった「研究会」、谷干城・曽我祐準らが勅選・多額納税議員を集めた「懇談会」、近衛篤麿・二条基弘の両公爵を 中心に有爵議員全般に勢力をもった「三躍会」などであり、いずれも明治23―4年に結成されている。つ いで明治25年には山県有朋系の勅選議員が主導する 「茶話会」が生まれているが、明治期を通じて貴族院には政党反対の雰囲気が横溢しており、それをリード していたのが官僚出身の勅選議員であった。例えば、明治31年に憲政党を基盤とした大隈内閣が成立すると、政党内閣反対を旗印として、「無所属団」と称する勅選議員団が組織されたし、また翌々33年伊藤博文が政友会を結成して貴族院議員にも入会を勧誘するや、研究会はとくに「本会員にして従来政党に入り、若くは貴族院議員をもって組織せられたる他会派の会員を兼ねるものなかりしは、本会創立以来自ら不文の成約となれり。故に将来において、此の習倶に従ひ本会の団結をして、純一ならしめんことを期す」との申し合わせを行ない、反政党の立場を明らかにしていた。のちに原内間時代には、政友会と結んで有爵議員団の全盛時代を築きあげた研究会も、まだこの時期には清浦奎吾らの官僚出身勅選議員に指導されていた。もちろん、個々の議員が政党に参加することは自由であり、また政党員を勅選議員とすることを妨げる規定があるわけでもなかったから、貴族院の政党化も不可能ではなかったが、そうした傾向が顕著になるのは、大正明 にはいってからのことであった。

  このように初期の貴族院では、反政党的気運と勅選議員の活動とが目立っていたが、必ずしも政府支持一色というわけでもなかった。目清戦争前後の状況で言えば、清浦奎吾と平田東助にリードされた「研究会」と「茶話会」が政府支持の方向に動いており、他方、近衛篤麿・谷干城のひきいる「三曜会」・「懇談会」などが国家主義的な立場からの批判的勢力となっていた。



研究会の勢力伸張


  こうした状況が変わってくるのは、藩閥勢力との妥協によって力を仲ばしてきた政党が、貴族院内に同調的な勢力をつくり出そうとして、有爵議員団に積極的に働きかけるようになった結果であった。例えば明治31年に、研究会を説した男爵互選議員に勅選議員が加わって木曜会が組織されたが、この会派には政友会的な色彩が強くなり、政党勢力が――と言っても藩閥の巨頭伊藤博文を総裁に戴いた結果であったが――貴族院に滲透し始めたことを示していた。しかしこうした政党の貴族院工作がとくに有爵議員団に向けられるようになったのは、研究会が有爵議員の組織としての性格を強めながらその勢力を拡大し、貴族院最強の会派に成長したことと関係していた。結成当時(明治24年、第2議会)約40名(正確には確認しがたい)であった研究会は、第3回互選後の明治37年、第21議会では79名とその勢力を倍増させるに至っている。  

  研究会の勢力伸張の秘密は、有権者組織を確立して、定員一杯の連記制という特異な互選制度を最大限に活用した点にあった。明治25年に有爵者と貴族院議員との社交団体として尚友会が設立されたが、この団体は研究会のための有識者組織・選挙母体にほかならなかった。その設立の動機から言っても、同年の子爵議員3名の補欠選挙にあたって独自の候補を立て、三曜会・ 懇談会の共同候補と争うことをめざしたものであり、 設立早々の尚友会はこの選挙に勝利して発展の基礎を固めた。ところで定員数だけの候補者名を連記する選挙制度によれば、投票の過半数を確保することができ る有権者組織はその会員に対する統制力が強ければ、定員の全部を獲得できる筈であった。勿論、政党とちがって元来ゆるい組織であった貴族院の会派や選挙母体にあっては、完全な統制を実現することは困難であったが、尚友会がそうした定員全部を独占できる有権者組織になることをめざしたことは言うまでもない。  

  その際、旧幕時代の中小大名を中心とする伯爵・子爵はまとまりがよく、新たに爵位をさずけられたいわゆる新華族を中心とする男爵は、男爵ということでのまとまりが悪いという事情かおり、尚友会はこの伯爵・子爵の組織化を主眼としたものであった。当初から伯爵議員をおさえていた尚友会は、有爵議員中最も定員の多い子爵議員を独占し、これを研究会に送りこむことを活動の主眼としていた。そして第2回(明30) 選挙では45名、第3回選挙(明37)では61名の子爵議員を獲得している(いずれも定員70)。明治37年末の研究会の構成をみると、侯1、伯10、子61、男3、勅4、計79名であった。そして明治39年に清浦奎吾が枢蜜顧問官に転出して以後は、研究会は名実共に最有力の有爵議員団となった。



政友会の貴族院工作

 ところで、明治34年の第15議会で政友会を基礎とする伊藤内閲の増税案に激しい攻撃を加えて以来、 貴族院の会派は政府からの自立性を強め、従って歴代の内聞、とくに政党が主導権を握る内閲にとっては、貴族院の有力会派に了解をつけることが必要となった。 目露戦争後の西園寺内閣以後、こうした政党の貴族院工作が活発になり、とくに原敬は、貴族院にも政友会の勢力を伸ばし両院を縦断する勢力を築くことを企てた。この両院縦断政策の最初のあらわれは、明治41年3月の西園寺内聞の改造に際して、研究会の堀田正養子爵、木曜会の千家尊福男爵が逓相・法相として入閣したことであった。 

  もちろんこれまでも貴族院議員から大臣となる例はあったが、いずれも藩閥関係など貴族院議員の資格以外の関係による入閣であり、貴族院の会派の領袖であるが故の入閣はこの時が最初であった。しかし元来政友公的色彩の強かった木曜会の場合はともかく、政党と関係を侍たないことを申し合わせてきた研究会の場合には、堀田入閣への反感も強く、また反面、政党への接近を望む動きや幹部専制への不満もあらわれ、研究会は大きく動揺した。明治41年12月にはまず研究会の伯爵議員が脱会して扶桑会を結成、また選挙母体として伯爵同志会を設立する。さらに42年2月には、尚友公に対抗する子爵の選挙母体として談話会が結成されている。この談話会の中心人物秋元興朝子爵(すでに明治30年に尚友会を脱会している)は、原敬と連絡 しながらこの結成を進めており、談話会結成は原敬の貴族院工作のあらわれともみられた。しかしこのような既成会派の外側に新たな会派をつくろうとする試みが、連記剖のもとでは容易に実現し難いことは、談話会が以後の補欠選挙及び明治44年の第4回選挙で尚友分に全敗し、翌45年に解散してしまったことにも あらわれていた。また伯爵議員団は、扶桑会→辛亥倶楽部→甲寅倶楽部と組織をかえたが、すでに述べたように、各派交渉会からしめ出され、大正8年に至って研究会に復帰している。原敬はまた、政友会員を勅選議員にすることにつとめ、大正元年には政友系勅選議員を中心にした交友倶楽部が結成されているが、この方法によって貴族院の形勢を変えることは困難であり、 むしろ党内長老に貴族院における地位を与えて党内統制力を確保する方策としての意味の方が大きかったと思われる。



大正期の会派

 ところで原敬が研究会にねらいをつけたのは、研究会が大会派に成長しつつあったということのほかに、藩閥につながる官僚政治家の多い勅選議員団よりも、独白のまとまりを侍つ有爵議員団を相手とする方が勢力を伸ばしやすいと判断したことによるものであろう。 明治末期の会派の状況を大まかにみると、一方に研究会、他方には茶話会・無所属団と、懇談会・三曜会の両系統が明治34年に合同してできた土曜会とが対峙 していた。茶話会・無所属団・土曜会は勅選・男爵・多額納税議員などの連合体であり、これをリードしていたのは官僚出身の勅選議員であった。数的にもこの方が研究会より優勢であったとみられている。そしてこの対峙は力関係を変化させながらも大正期にもちこされた。なお、木曜会は大正2年に解散して研究会・で土曜会などに分散している。

  原敬の貴族院工作による動揺をのり切った研究会は、その後も勅選・多額納税議員を加えて成長し、大正3年の第32議会では前述の伯爵議員の脱会にもかかわらず゛105名と、100名をこえる大会派となり、伯爵議員の復帰した大正8年第42議会では142名の議員を擁するに至っている。一方、茶話会・無所属団・土曜会側では大正8年に至って男爵議員が独白の公派、公正会を結成し、男爵議員を失った土曜会・無所属団とは合同して同成会を結成している。公正会は初めての男爵議員を中心にした集まりであり、選挙母体として協同会をもち、子爵団における研究会=尚友会のあり方を追うものであった。しかしこの茶話会・公正会・同成会はいずれも内幸町の幸倶楽部に事務所をもち「幸三派」と呼ばれたように、歩調を合わせて研究会に対抗することも多かった。  

  さらにこうした研究会と幸三派の対峙は、研究会が 原内閣の与党化すると共に、幸三派が野党、憲政会に近づくというように、「貴族院の政党化」と呼ばれるような結果をもたらすことにもなった。さきの明治末期の貴族院工作以来、原敬は研究会にねらいをつけつづ けており、首相の座につくと、伯爵団の復帰をあっせ んし、研究会の与党化に成功しており、原内閣は交友倶楽部と合わせて、貴族院でも絶対多数の支持を得ることになった。しかし研究会内部にもこの与党化への強い不満もあり、中橋文相弾劾問題をめぐって勅選議員ら10名が脱会し、大正10年12月、新「無所属団」を結成するなどの動きもあらわれていた。この無所属団は幸三派と共に反政友の行動をとったので、両者を合わせて「幸無四派」と呼ばれることもあった。 またその反面公正会の反幹部派が分裂して研究会の支援のもとに親和会をつくり、結局研究会と合同すると いう一幕も起こっている。なお47−50議会は研究会の最盛期であり、以後もこの議員数を回復することはできなかった。  

  会派の所属議員が公表されるようになった第43議会から、第54議会までの各会派の議員数は表の通りである。

右会派
下議会
研究会 公正会 茶話会 交友倶楽部 同成会 無所属 親和会 派に属さ
ない者
43(大9)
143 65 48 44 30   67 397
44(大9―10) 145 65 44 43 29   66 392
45(大10―11) 139 63 43 41 27 25 55 393
46(大11―12) 140 43 42 49 25 26 25 54 404
47(大12) 170 42 39 47 23 26   47 394
48(大13―13) 168 42 38 47 23 26   47 391
49(大13) 174 43 36 47 24 23   51 398
50(大13―14) 171 41 34 46 24 24   50 390
51(大14―15) 153 67 27 40 28 27   61 403
52(昭元―2) 154 67 28 42 30 26   58 405
53(昭2) 154 68 27 42 31 26   58 406
54(昭2―3) 146 66 25 40 30 25   66 398
第50議会閉会後、同議会で成立した改正貴族院令による選挙が行なわれている。
研究会の急減はこの改正令による有爵互選議員の定数減を反映している。
各議会開院式当日の議員数。




貴族院内閣の出現

 このように、内閣の存続のために貴族院の有力会派との提携が行なわれ、会派と政党との接触が深まる一方、党籍をもつ貴族院議員が増えてくるようになると、これまでとは逆に、貴族院の会派を基礎として、衆議院の党派の了解を求めるという組閣の方式があらわれるに至った。原敬内閣をついだ高橋是清内閣が内紛によって倒れると、元老は海軍大将加藤友三郎を後継首相に推した。加藤は最初、政友会からも入閣を求めたが単独内閣を準備していた政友会はこの交渉に応ぜず、結局加藤内閣は貴族院の研究会と交友倶楽部を基礎と した次のような顔振れで成立した。

  総理 加藤 友三郎
  大蔵 市来 乙彦(勅選・研究会) 
  農商 荒井 賢太郎(勅選・研究会)
  逓信 前田 利定(子爵・研究会)
  鉄道 大木 遠吉(伯爵・研究会)
  司法 岡野 敬次郎(勅選・交友倶楽部)
  文部 鎌田 栄吉(勅選・交友倶楽部)
  内務 水野 錬太郎(勅選・交友倶楽部)


  閣僚以外でも、国勢院総裁に研究会の伯爵小笠原長幹が任命されている。つまりこの内閣は、政友会と関係の深い研究会・交友倶楽部を基礎とすることによって、間接的に政友会の支持を得ようとしたものと言えた。

  大正12年8月に加藤首相が死去すると、海軍大将山本権兵衛を首相とする内閣が組織されたが、この内閣でも貴族院の勢力は大きかった。即ち一方で衆議院革新倶楽部の大養毅を逓信大臣にすえる反面、貴族院官僚派のリーダー、茶話会の勅選議員田健治郎・後藤 新平を農商務大臣・内務大臣の地位につけ、また交友倶楽部の岡野敬次郎・山之内一次(共に勅選)に文部大臣・鉄道大臣の椅子を与えていた。

  山本内閣が成立後わずか3箇月余で虎ノ門事件のため総辞職すると、ついで大正13年1月、枢密院議長清浦奎吾が後継内閣を組織した。清浦は大正3年、第1次山本権兵衛内閣総辞職のあとでも組閣の勅命をうけたことがあり、貴族院中心内閣をつくろうとして成功せず、組閣を辞退したという経歴の持主であった。またすでに触れたように彼自身明治後期(明治24−39)の研究会幹部であり、以後も研究会との関係は深く、今回の組閣にあたっても、青木信光・水野直両子爵ら開会幹部を組閣参謀としていた。そして政友会との交渉が不調に終わってからは、閣僚の選考は研究会幹部に一任された形となった。その結果できあがっ た清浦内閣が純貴族院内閣、特権内閣と評されたことは、次の閣僚名簿によって理解することができる。

  総理 清浦 奎吾(枢密院・元研究会)
  外務 松井 慶四郎(総辞職直後、勅選議員となる)
  司法 鈴木 喜三郎(勅選・会派に属していないが、総辞職直後研究会に入る)
  大蔵 勝田 主計(勅選・研究会)
  内務 水野 錬太郎(勅選・交友倶楽部)
  農相 前田 利定(子爵・研究会)
  鉄道 小松 謙次郎(勅選・研究会)
  逓信 藤村 義朗(男爵・公正会)
  文部 江木 千之(勅選・茶話会)
  陸軍 宇垣 一成
  海軍 村上 啓一


 このうち、清浦首相・鈴木法相を準研究会とみれば、研究会系閣僚は5名に達するのであり、明らかに研究会中心の内閣であったが、同時にこれまで研究会と対抗的であった公正会・茶話会にも閣僚をわりあてている点が注目される。この内閣に対して、憲政会・政友会・革新倶楽部の護憲運動が展開され、清浦内閣は6箇月でなすところなく退陣、代わって加藤高明を首班とする護憲三派内閣によって貴族院改革が行なわれたことはすでに述べた通りである。



貴族院改革後の会派の状況

 貴族院改革が微温的なものに終わったことからもうかがえるように、加藤高明内閣も貴族院と正面から対決しようとしたわけではなかった。貴族院令改正はたえず研究会と内交渉を行ないながら道められたし、大正14年8月政友会との対立によっていったん総辞職、憲政会単独で第2次加藤内閣が組織された際には、政務官の椅子が研究会に与えられている。政務官とはその前年の大正13年に、事務と政務との混同を防ぎ、各省と議会の連絡を密にするために設けられた政務次官と参与官(いずれも各省に1名)の総称であるが、この時には研究会から陸車政務次官・子爵水野直、海車政務次官・子爵井上匡四郎、陸軍参与官・伯爵溝口直亮、海軍参与官・子爵伊東二郎丸、公正会から外務政務次官・男爵伊吹省三らが任命されている。

  しかし原内閣以来、政友会と関係が深いとみられていた研究会の幹部が、反対党である憲政会内閣の政務官に就任したことは政界をおどろかせ、その無節操ぶ りが批判されたが、研究会内部にも強い不満かおり、貴族院改革の世論が高まるなかで、幹部の統制力も急 速に弱まりつつあった。

  貴族院改革が微温的に終おったとは言え、清浦内閣が護憲三派運動に敗れ、政党内閣時代が姑まったことは、貴族院の会派にも大きな影響を及ばした。まず、貴族院改革論は現実には研究会幹部を横暴とする反研究会的な気運と共に高まったのであり、改革への着手 は研究会の地位を低下させることになった。肯族院令改正による有爵互選議員1割削減は研究会にとって痛手であり、改正令による大正14年選挙後には、同会は多額納税議員の獲得に力をいれるようになっている。また研究会への批判は、幹部の横暴を可能にした決議拘束主義への批判となり、1人1党主義の主張を急速に拡大する結果となった。それは勿論貴族院のあり方についての意見を基礎とする主張ではあったが、そう した主張が拡まる背景には、政党勢力の滲透によって、幹部の統制が困難になるという事情が存在していた。 護憲運動以後、貴族院議員の党員、準党員化が顕著に進行していたが、このため政策集団でない貴族院の会派は、その内部に対立する双方の政党員をかかえこむ結果となり、この政党間の対立が会派の運営方式をめぐる対立を一層激化させる要因となった。こうした事情は、大正15年に表面化した男爵団、公正会の内紛にもうかがうことが出来る。この内紛は決議拘束王義廃止を唱える反幹部派の幹部排撃運動をめぐって展開されたが、そこには幹部の政友会化への反感が抗争を激化させる大きな要因になっていた。



昭和倶楽部の結成と研究会の動揺

  ところで、この公正会の内紛のあげく、反幹部派が同年末、無所属団の侯爵議員と提携して一人一党主義 にもとづく新団体の組織を正式に各公派に提議したことは、決議拘束主義撤廃の気運を盛りあげる結果を生んだ。この提議をうけた各会派では、公証そのものの解体には反対が強かったが、研究会を除く公正会・同成会・茶話会・交友倶楽部・無所属団の5派は一人一党主義をうけいれ、昭和2年10月14日にいたり、昭和倶楽部を結成した。これは交渉団体ではなく、相互の親睦と政務共同調査を目的としたが、会則に「本倶楽部員の政見は拘束せず」とうたった点に特色があ った。同倶楽部は翌年早々から、閣僚を招いて政策についての意見をただすなどの活動をはじめている。

  こうした動きは、残された研究会をも大きく動揺させることとなった。同会幹部のなかにも決議拘束主義を唱える者が現われ、現状維特派との対立が激化した。昭和倶楽部結成の翌11月17日に行なわれた同会常務委員の改選では、保守派の後退、革新派の進出がみられ、一人一党主義が面会にも滲透しつつあることを 示していた。またこの改選直前の12日には近衛文麿ら6名の公・侯爵が研究会を脱会、改選直後からは会内革新派は茶話会なる独自の会合を特ちはじめ、研究会内部は混乱しつつあった。新常務委員会は決議拘束主義撤廃には踏み切らなかったが、幹部の個人的取引の結果を会員に押しつけることが起こらないように、総会中心に会を運営する方針を示していた。  

  こうした貴族院各公派の動向は、貴族院の政党化が進行すれば、これまでの会派のあり方では対応できなくなることを示していた。第55議会開会直前の朝日新聞(昭3・3・12)は、貴族院議員の政党化か大正14年選挙以後急速に進行したとして、党籍を有する 議員数は、政友公=勅選11名、多額19名、計30名、民政党=勅選17名、多額24名、計41名、このほか「準党員乃至党員以上の働きをなす者」を加えれば両党あわせて90名に達し、皇族を除く議員総数381名のなかで一大勢力を形成していると述べてい た。政党に関係の深い議員としては、政友会では総裁田中義一(勅選・大正15・一任命)、岡崎邦輔(勅選・ 昭3・四任命)、民政党系では、幣原喜重郎・仙石貢・川崎卓吉(いずれも勅選・大正15・一任命)などが大正14年選挙以後に任命されている。また民政党の前身である憲政令の総裁加藤高明(大正4・8任命)、若槻礼次郎(明治44・八任命)、政友会前総裁高橋是清(明治38・一任命)などもいずれも貴族院の勅選議員であった。ただし、高橋は憲政擁護運動の先頭に立ったため、大正13年3月24目、貴族院議員を辞任して同年5月の総選挙に立候補、岩手県第1区より当選している。なお、憲法第36条により同一人が同時に両院議員を兼ねることは禁じられていた。

5第五五議会