帝国議会の一院として、公選議員で組織される衆議院が設けられたのは、国民の意思をある程度まで政治に反映させ、国民の参政権要求を満足させることを目的としたものであった。しかし反面、国民の参政権が全面的には認められず、それに重大な制限が加えられていたことは、帝国議会の他の一院として、一般国民と無関係な貴族院が設置されたことによっても明らかであった。議会制度の範囲で言えば、参政権制限の主要な方法は、貴族院の強化と選挙権についての制限を 設けることであった。このうち、貴族院の問題については、すでに巻頭の解説で述べたので、ここでは選挙制度の問題に触れておくことにしたい。
最初の選挙権
国民の参政権を制限する基本的方法の一つは、選挙権を与える死闘を国民の一部分に限定することであった。そのためには、財産・居住・年令・性別など種々の側面からの制限が考えられたが、そのなかでもとくに重視されたのは、財産の問題であった。当時の支配層のなかには、生活が安定しない下層民は、容易に煽動され、過激な方向に走りやすいとする考え方が一般的であり、従って政治を安定させるためには、選挙権を生活の安定した上層の国民に限定しなければならないとされた。そしてその際、土地こそが「恒産」であり、土地所有こそが生活安定の基礎として考えられていたのであった。政治参加をこうした恒産を有する上層階級のみに限るための方法として編み出されたのが、 選挙権を一定額以上の国税納税者(とくに地租を納める土地所有者=地主)、に限る選挙制度であった。
明治22(1889)年に制定された最初の衆議院議員選挙法では、この制限は応接印税(地租と所得脱)15円以上と規定されたが、直接国税のなかでも地租が中心に考えられていたことは、地租の場合には選挙人名簿作成前1年間の納付で足りたのに対して、所得税は最低3年間の継続した納付が必要とされたことにもあらわれている。それは年々変動する所得の場合には、3年以上継続していなければ、恒産とみなすことが出来ないとの考え方を示すものであった。また、「満一年以上其ノ府県内ニ於テ本籍ヲ定メ住居シ仍引続キ住居スル」ことが選挙権の要件とされたが、ここでたんに居住のみでなく本籍を有することを要求しているのも、土地所有=恒産主義のあらわれと言える。
性別・年令については「日本臣民ノ男子ニシテ年令満二五歳以上ノ者」というのが選挙権の要件とされた。このうちまず選挙権が男子のみに限定されたのは、女子の政治活動を許さないという一般的な治安対策に対応するものであった。例えば明治23年第一回総選挙の直後に制定された集会及政社法では女子は未成年と同等の扱いであり、政治結社に加入することはもちろん、政治集会に出席することさえも禁止されていた。 この規定は、同法をひきついで明治33年に制定された治安警察法にも生かされており、大正11年の改正によって、政治集会への出席は認められたものの、政治結社への加入禁止は第二次大戦の敗戦後まで改められなかった。このことはもちろん家父長制的な家族制度とも関連しており、納税要件も実質的には選挙権を 納税者としての戸主に限定する効果をもつものであった。従って普通選挙が実現される段階になると一部では選示権を「戸主」や「世帯主」に限定せよとの主張が唱えられ、のちに昭和16年には、結局実現されなかったものの一度は戸主選挙権案が閣議決定をみたこともあった。
次に年令が成年とされる20歳よりも高く定められたのは、選挙には高度の判断力が必要とされるとの考え方によるものであった。のちに政党側から、中学校程度以上の学校卒業者には、納税要件なしに選挙権を与えようとする選拳法改正案が提案されたりするのも、こうした考え方をうけついだものであった。
こうした形で選挙権の要件を定めたことは、特定の階層にある者だけに選挙権を与えることを目的としたものであったが、その反面では、特定の地位にある者を選挙から除外する制度もつくられていた。即ち、現役軍人と華族の当主には選挙権・被選挙権を与えないというのがそれである。現役軍人については、政治結社への加入も禁じられており、政治活動を認めまいとする方針の現れであった。また華族については、専ら衆議院と対抗関係にある貴族院の基礎とし、衆議院と関係させないことをめざしたものと言うことができる。
選挙権の拡張
直接国税15円以上という選挙権の納税要件は、選挙法の草案段階では、10円とすることが考えられていたことからみてもご著しく高いものであり、第一回総選挙の有権者はわずか45万人にすぎなかった。また年令制限を25歳以上とすることについても確たる根拠があるとは考えられなかった。従って第一議会において早速、直接国税5円以上を納付する、満20歳以上の男子に選挙権を与えるとする改正案が議員立法として提案されたように、以後の選挙権拡張の動きは納税要件と年令とをめぐって展開されることになったが、年令の引下げは結局第二次大戦後まで実現せず、納税要件の引下げ・撤廃が実現しただけであった。
初期議会における政党側の選挙権拡張要求は、第一議会の議員立法案にみられるように、納悦要件を15円以上から5円以上に、年令を25歳から20歳に引下げることをねらったものであった。この内容による選挙法改正案は、第八議会ではじめて衆議院を通過したが、貴族院で否決されてしまい、選挙権拡張にとって、貴族院が大きな障害となることが明らかとなってきた。しかしその後の経済発展と共に政党の態度が妥協的になってくると、こうした要求は政府にとって必ずしも受けいれがたいものではなくなってきたばかりでなく、政府の側も、これまでの農村中心的な議会の構成を改めて、商工業者の勢力をより強く議会に反映させようとする消極的姿勢を示すようになった。その結果、第一二議会で、はじめて政府側から選拳法改正案が提出され、第一四議会で成立して、最初の選挙権拡張が実現することになるのであった。
政府原案は、年令制限はそのままとしたが、納税要件を大幅に引下げ、地租5円以上、地租以外の直接国税3円以上又は地租と通じて直接国税5円以上を納付する者に改めようというものであった。それはこれまでの政党側の要求をそのままとりいれたばかりでなく、 商工業者の選挙権をそれ以上に優遇しようとするものであった。即ちこれまで地方税であった営業税を国税とすることにより、所得税のみであった地租以外の直接国税を所得税と営業税の2種類にふやした上に、その納税要件を地租以下の3円にまで引下げようというのであり、商工業者優遇の意図は明らかであった。この点について政府委員は、選挙権の要件としての納税額は、資産をみるための標準であり、資産の比較としては、地租を5円以上、その他の直接国税を3円以上とするのが適当である、また資産というのは固定財産のみでなく、信用・労力などを含めた広い意味であるとの説明を行っており、政府側の資産についての見方が、農本的なものから資本主義的な方向に転換していることを示していた。
この政府案に対して衆議院が、地租以外の直接国税をも地租と同額の5円以上に引上げるという修正を行っているのは、当時の議会の地主的性格を物語るものであった。しかしともかくも、15円以上という納税要件を一挙に3分の1の5円以上に減額するという改正案が衆議院を通過したのであったが、貴族院では激しい抵抗にあい、結局10円以上という形に増額修正されてしまった。この貴族院の修正に衆議院が同意した 結果、明治33年3月に公布された改正選挙法では、「満一年以上地租一〇円以上又ハ満二年以上地租以外ノ直接国脱一〇円以上若ハ地租ト其ノ他ノ直接国税トヲ通シテ一○円以上ヲ納メ」ることが、選挙権の要件とされることになった。
地租以外の直接国税の限度額を地租以下に引下げようという政府の意図は実現しなかったが、3年以上とされた納付年限が2年に短縮されたのは、居住要件において「本籍」が削除され、たんに「満一年以上其ノ 選挙区内ニ住所ヲ有」する者と改められたことと共に、地主中心主義の後退を示すものと言うことができよう。 なおこの改正法では、選挙権・被選挙権を認めない者の範囲に新たに「官立公立私立学校ノ学生・生徒」を 加えていた。ともあれこの改正によって、有権者は45万名から98万名へと倍増することとなった。
明治33年の改正以後、選挙権拡張の動きは、さきの改正の際に実現しなかっ た納税要件引下げの要求(5円以上への減額、或いはこれに、中学校以上の卒業者に選挙権を与える条項を加える)に加えて、納税要件を撤廃する普通選挙の要求が新たに登場してきた点に特徴があった。普選運動は社会主義運動を背景として、明治30年頃から組織的な形をとり始めており、明治35年の第一六議会には、中村 弥六・河野広中・降旗元太郎・花井卓蔵の4名を提案者とする最初の普選法案が衆議院に提出されるに至っている。しかし選挙権拡張に対する衆議院の動向は必ずしも一定したものではなく、「5円以上」案が否決されるかと思えば、明治44年の第二七議会では、はじめて普選法案が衆議院を通過するという事態もあらわれた。しかしこのことは貴族院をいたく驚かせ、貴族院では穂積八束博士の有名な「抑々此案が今日衆議院ノ門ヲ潜ッテ這入ッテ来タノハ如何ニモ残念デゴザイマス、故二之ヲ否決スルト同時ニ、払ノ考ヘデハ今日ノミナラズ将来に於キマシテモ、此普通選挙ノ案ハ此貴族院ノ門ニ入ルベカラズト言フ札ヲ一ッ掛ケテ置イテ、サウシテ之ヲ全会一致ヲ以テ否決シテ置キタイト思ヒマス」という演説の後、全会一致で否決されてしまった。そして大逆事件によって社会主義がタブー視されると共に、普選運動もまた後退を余儀なくされたことは、次表の如く明治44年以降大正9年に至るまで、普選法案の提案がとだえていることからもうかがうことができる。
普選法案提出一覧表(選挙権要件) 『議会制度七十年史』資料編 |
議会 |
年次 |
納税要件 |
年令 |
提出者 |
経過 |
第16回 |
明35 |
廃止 |
満20歳以上 |
中村弥六君 外3名 |
衆否決 |
第18回 |
明36 |
〃 |
〃 |
板倉中君 外5名 |
衆未了 |
第24回 |
明41 |
〃 |
満25歳以上 |
松本君平君 外2名 |
衆否決 |
第25回 |
明42 |
〃 |
〃 |
日向輝武君 外4名 |
衆未了 |
第26回 |
明43 |
〃 |
〃 |
〃 外13名 |
衆否決 |
第27回 |
明44 |
〃 |
〃 |
〃 外21名 |
衆可決
貴否決 |
第42回 |
大9 |
〃(但し、独立生計を要件) |
〃 |
武富時敏君 外6名 |
衆未了 |
〃 |
〃 |
廃止 |
満20歳以上 |
古島一雄君 外4名 |
撤回 |
〃 |
〃 |
〃 |
満25歳以上 |
坂本金弥君 |
〃 |
第43回 |
〃 |
〃(但し、独立生計を要件) |
〃 |
武富時敏君 外7名 |
衆否決 |
〃 |
〃 |
廃止 |
満20歳以上 |
植原悦二郎君 外2名 |
〃 |
第44回 |
大10 |
〃 |
〃 |
関直彦君 外3名 |
〃 |
〃 |
〃 |
〃(但し、独立生計を要件) |
満25歳以上 |
箕浦勝人君 外3名 |
衆否決 |
第45回 |
大11 |
廃止 |
〃 |
安達謙蔵君 外10名 |
〃 |
第46回 |
12 |
〃 |
〃 |
〃 外11名 |
〃 |
第49回 |
大13 |
〃 |
〃 |
西岡竹次郎君 外1名 |
衆未了 |
第50回 |
大14 |
〃 |
〃 |
政府 |
衆可決
貴可決 |
しかし第一次大戦後になると、普選運動は、明治後期のような知識人の運動という性格を脱して大衆的な盛り上がりを示すようになった。米騒動の翌年、大正8年からは、労働組合が運動の主軸をなすという展開がみられるようになってくる。こうした事態に直面した 原内閣は、納税額によって有権者の資格を制限するというこれまでの原則を守りながら、納税要件を10円以上から3円以上へ大幅に引下げるという改正を行って世論にもある程度の満足を与えようとした。野党の憲政会・国民党もまだ党としては普選の要求にまとまっておらず、他の要件では異るものの、納税額については2円以上を主張する点では共通していた。
原内閣提出の選拳法改正案は、二、三の細かな修正をうけただけで成立し、大正8年5月に公布されたが、それによれば、選挙権の要件は次のように改められた。 まず納税要件については「満一年以上直接印税三円以上ヲ納ムル者」とし、限度額を引下げると共に、地租 とその他の直接国税との区別を撤廃した。次に居住要件については満1年以上を満6筒月以上に短縮した。この結果、有権者は307万人に達した。
男子普通選挙の実現
原内閣の改正選挙法案が成立した次の議会、第四二議会は、はじめて、大政党である憲政会・国民党が普選支持に踏み切り、普選法案を提出した点で一つの画期をなすものであった。もっとも国民党が納税要件を撤廃すると共に、年令制服も選挙権・被選挙権共に満20歳以上とするところまで踏み切ったのに対して、憲政会側は、納税要件撤廃の代わりに「独立の生計を営む者」との新たな制限を加えることを主張し、年令も 選挙権・被選挙権共に25歳以上としていた。しかし原首相は普選を時期尚早とすると共に、民衆に強要さ れて政治組織を変更することは国家の基礎を危くするものだと考えており、憲政会の普選案が上程されると、解散という強硬手段をもってこれに対決した。そしてこの総選挙において与党政友会が圧倒的勝利を得、絶対多数を獲得したことは、普選運動を一時沈静させるという結果をもたらした。
しかしその後、労働運動・農民運動のなかに革命的傾向が強まるに従って、民衆に選挙権を与え、その不満を選挙によって吸収することが、革命化を予防する安全弁となるとする考え方が広まっていった。大正12年、関東大震災直後に成立した山本権兵衛内閣は、短命に終わったため実現しなかったとは言え普選への積極的態度を示しており、支配層の普選観の変化をあらわしていた。ついで翌年清浦特権内閣打倒の護憲三派運動がおこるや、普選の実現は三派政策協定の第一に掲げられる項目となっていた。政友会もすでに普選の方向に踏み切っていた。
普選法案は衆議院議員選挙法改正案として、加藤護憲三派内閣の手により、大正14年2月の第五〇議会に提出された。内閣側は、選挙権についての納税要件を撤廃すると共に、これまで選挙から除外されていた 華族の戸主や学生・生徒にも選挙権を与えようとした。 しかし選挙法は憲法付属の法令として、枢密院の審議を経ることが要求されており、この枢密院の密議によって、華族の戸主の選挙権を認めない、「貧困ノ為ニ公私ノ救恤ヲ受クル者」には選挙権を与えないなどの修正が行われ、この修正を加えたものが政府原案として議会に提出されたのであった。これらの点は議会でも大きな問題点として討議され、とくに華族の戸主の選挙権は衆議院で復活したが、貴族院はこれを再修正して、結局選挙権は認められないままに終わった。
大正14年5月に公布された改正法では、選挙権は華族の戸主及び現役軍人以外の25歳以上の男子に与えられることになったが、反面、「貧困ニ囚り生活ノ為公私ノ救助ヲ受ケ又ハ扶助ヲ受クル者」「一定ノ住居ヲ有セザル者」は選挙権の範囲から除かれた。またこれまで選挙権の要件とされた居住期間は、選挙権そのものではなく、その行使のための要件、具体的には選挙人名簿に登録されるための条件に改められた。この改正により、有権者総数は1241万人、総人口の約20%に増大した。第五五議会の前、昭和3年2月の第一六回総選挙が、改正法によって実施された最初の普選であった。
男子普選法成立後の選挙権拡張の目標は、当然年令制限の引下げ、及び女子の選挙権の実現におかれることになり、議員立法としてそれらの点を内容とする改正案も提出されたが(この五五議会では鈴木文治から提出されている)、殆んど問題とされることなく葬られてしまった。以後第二次大戦後まで、選挙権拡張は全く進展することなく終わっている。なお、第二次大戦前には、もう一度、昭和9年に大きな選挙法改正が行われているが、これは選挙連動に関する規制の強化を目的とするものであった。
被選挙権
明治22年制定の最初の選挙法は、被選挙権についても直接国税15円以上という選挙権の場合と同じ納税要件と、満30歳以上の男子という選挙権の場合よりも高い年令制限を加えていた。しかし反面、選挙権の場合と異って、居住に関する要件は最初から設けられていなかった。つまり本籍や住所に関係なく、どこの選挙区からでも当選できるという仕組みであった。 従って同一人が複数の選挙区で当選するという事態も想定されたのであり、選拳法には、「一人ニシテ数選挙区ノ当選ヲ承諾スルコトヲ得ス」といった規定が設けられていた。
ところでこのような被選挙権に居住に関する制限をつけず、全国から適当な人物を選ばせようとする考え方は、高い納税要件をつけて被選挙人を特定の階層に限ろうとするやり方とは矛盾するものであった。また政治体制の安定という観点から言っても、選挙権に納税要件をつければ充分であり、重複して被選挙権を同じ要件で規制することは、かえって政治体制の支待基盤をせばめることにもなりかねなかった。明治33年の最初の選挙法改正で、早くも被選挙権についての納税要件が削除されたのは、このような理由によるものであったであろう。以後、被選挙権には一般的には、満30歳以上の男子という制限があるだけとなった。普選を実現した大正14年の改正にあたって加藤内閣は被選挙権年令を25歳に引下げようとしたが、枢密院の反対で実現せず、結局第二次大戦後まで改められなかった。
被選挙権についてのより大きな問題は、むしろ特定の身分や組織に属するものを選挙運動から遮断する、あるいは特定の地位にある者が衆議院議員に就くことを禁止するといった点にかかわる問題であった。選挙権との関係で言えば、現役軍人・華族の戸主、大正14年改正までの学生・生徒などのように、選挙権を与えられていない者には被選挙権も認めないというのが選挙法の原則であったが、初期の選挙法は、特定の者に選挙権だけ与えて被選挙権を与えないという特殊な規定を設けていた。それは兼職禁止の問題に関係する官吏とそれ以外の特殊な地位にある民間人の場合とに分けられるが、まず民間人の場合には次のような地位にある人々の被選挙権が奪われていた。
(1) |
明治22年法 (a)神官及諸宗ノ僧侶又ハ教師 |
(2) |
明治33年改正法 (a)神官・神職・僧侶其ノ他諸宗教師、(b)小学校教員、(c)政府ノ請負ヲ為ス者又ハ主トシテ政府ノ請負ヲ為ス法人ノ役員 |
(3) |
大正8年改正法 (a)同前、(b)同前、(c)政府ニ対シ請負ヲ為ス者及其ノ支配人又ハ主トシテ同一ノ行為ヲ為ス法人ノ無限責任社員・役員及支配人 |
このうち(a)、(b)については、これらの人々の組織や権威が選挙運動に利用されることを防ぐというのが表向きの立法の趣旨であったが、多くの組織のなかから特に宗教と義務教育の担当者が選ばれているのは、天皇制イデオロギーの保持と密接な関係にあるこれらの分野に政党の勢力が伸びることを出来るだけ避けよう とする点に真のねらいがあったと考えられる。大正14年の選挙法改正では、これらの人々の被選挙権だけを奪うのは不当であるとして、(a)、(b)の規定を削除している。(c)は、政府と密接な関係にある業者が、その関係を不当に利用することを防止しようとするものであった。この規定もまた大正14年に削除されたが、その際若槻内相は「会計法規等ノ完備セル今日ニ於テ、斯ノ如キ危険ハ大ニ減少セリト信ジテ居リマス」とその理由を述べていた。
次に官吏の場合であるが、官吏の被選挙権の制限は初期の選挙法では、衆議院議員との兼職禁止と表裏の関係として規定されていた。すなわち、大正14年の改正が行われるまでは、選挙法においては、「其ノ職務ニ妨ナキ限リ」という条件の下で、官吏と衆議院議員との兼職を原則的に承認し、そのうえで特殊な地位にある官吏の被選挙権を奪うという規定の仕方がなされていた。そして、(a)選挙事務を扱う地方官吏、(b)宮内・司法・会計検査・収税・警察の分野で指定された地位にある官吏が、この被選挙権のない特殊な官吏とされていた。
まず、(a)に関しては、明治22年法は、府県及び郡の官吏はその管轄区域内において、また「選挙ノ管理ニ関係スル市町村ノ官吏」はその選挙区においては「被選人」となることができないと規定した。これによれば、府県及び郡の官吏だけが特別に厳しい制約の下におかれたわけであるが、明治33年の改正によって、この特殊な制約は除かれ、「選挙事務ニ関係アル官吏・吏員」及びその地位をやめてから3箇月を経過しない者は、その関係区域内においては被選挙権をもたない、という一般的な形に改められた。
次に(b)としては、明治22年法は「宮内官・裁判官・会計検査官・収税官・警察官」を指定していたが、同33年の改正では、裁判官が「判事・検事」と改められたうえ、新たに「行政裁判所長官・行政裁判所評定官」が加えられた。そしてこれ以外の官吏は議員との兼職が認められるというわけであった。このように被選挙権と兼職禁止とが表裏の関係として規定されたのは、立候補制度がなく本人の意思と無関係に当選することがあり得たからであった。
大正14年の改正は、(a)については、退職後三箇月は被選挙権を認めないとの規定を削除しただけであったが、(b)については、これまでの規定の仕方を逆転させ、また立候補制を採用したことと関連して被選挙権と兼職禁止とを分離させるなどの大改正を加えた。すなわち、まずとくに指定する官吏以外の一般官吏は議員との兼職を禁じられた。そして兼職が認められるのは、一、国務大臣、二、内閣書記官長、三、法制局長官、四、各省政務次官、五、各省参与官、六、内閣総理大臣秘書官、七、各省秘書官の七種の官吏に限られることになった。この改正は、規定の仕方から言えば、根本的な変更であるが、しかしこれまでも、選拳法の上で兼職が認められていても、官吏制度の側から規制されて特殊な官吏しか議員と兼職することは出来なかったのであり、実際には現実の事態を大幅に変更するものではなかった。また立候補制採用に伴って、被選挙権がないということは、立候補できないことを意味することになり、この種の官吏としては、これまでの規定に朝鮮総督府・台湾総督府・関東庁・南洋庁の判事(又は法院判官)・検事(又は法院検察官)・陸海軍法務官が加えられた。
なおこのほかに貴族院議員・道府県会議員は衆議院議員を兼職することが禁じられていた。
選挙運動の規制と立候補制
このように、男子普選を実現して選挙権を拡大した大正14年の改正は、被選挙権の面でもさまざまな制約をとりのぞいたのであるが、しかし反面、有権者の激増に対応する選挙運動の規制という新たな観点からの規定が設けられ、そこから被選挙権に関する新しい形の制約が生み出されることになった。
それまでの選挙法では、取締りの対象は主として選挙及び選挙運動に対する妨害行為に向けられており、 選挙運動で禁止されていたのは、広い意味での買収だけであった。すなわち、大正8年改正法に至るまで、選挙運動で処罰の対象となるのは、投票を得るため、或は候補者を辞退させるために、金銭・物品・手形な どの供与、饗応接待、投票の際の交通費・休泊料の支給を行い、あるいは約束すること、用水・小作・債権・ 寄付その他の利益関係を利用することなどであった。 従ってこれらの行為さえ行わなければ、誰がどのような方法で選挙運動をしてもよかった。戸別訪問はもちろん運動の有力な方法となっていた。
これに対して、大正14年法は、はじめて選挙運動を一つの型にはめようとする選挙運動規制を登場させた点で画期的であった。同法は、候補者・運動員・選挙費用等に関する詳細な規定を設けた最初の選挙法であり、現在の選挙法の原型となるものであった。
規制の方法の第一としては、いわゆる泡沫候補の輩出を防ぐことを目的として、立候補の届出制と供託金制度とを設けたことであった。すなわちこの制度によって議員候補者又は他人を候拙者として推薦しようとする者は、2000円(現余又は国債証書)を供託して、選挙告示から投票7日前までに選挙長に届出なくてはならないことになった。選挙長とは選挙区ごとの事務責任者で、知事又は郡長・市長などが任命されることになっていた。この立候補制によって、候補者は届出を行った者だけに限定され、従ってそれ以外の者への投票は無効票に数えられることになり、また候補者の得票がその選挙区の有効投票数を議員定数で割った数の10分の1に達しないときには、供託金は国庫に没収されることになった。
第二の規制は、選挙運動員を限定することであり、このためにまず、運動員は選挙事務長・選挙委員・選挙事務員という形に画一化された。そして選挙事務長 責任を集中することによって、選挙運動を規制しようというのであった。すなわち、選挙事務所の開設、 選挙委員・選挙事務員の選任、選挙運動費の支出は、選挙事務長以外の者には行えないことにしたのであり、従って候補者は選挙事務長をきめなくては(候補者白身がなってもよい)、一切の選挙運動を始めることができないという仕組みがつくられたのであった。選挙委員と選挙事務員のちがいは、前者はいわば候補者の分身として旅費・宿泊費等の実費しか受取ることができないのに対して、後者は雇われた労働者であり、実費の他に「報酬」を得ることができた。
こうした形で運動員を画一的な形式にはめこんだ上で、その数を候補者一人につき、事務長一人・委員及び事務員50人以内、選挙事務所7筒所以内に制限し、選挙運動の出来る者を原則として候補者白身とこの三種の運動員に限定したのであった。社動員以外の者の行える選挙運動(第三者運動と通称された)は、演説と推薦状の発送に限られてしまった。そしてこれらの運動員の選任及び異動は警察に届出ねばならず、従って運動員以外の者が演説・推薦状以外の方法(例えばビラをまく)で運動した場合には選挙違反として検挙されることとなった。
第三には運動方法の規制であるが、この内容は運動をできるだけ、不特定多数の大衆に村する言論・文書戦に限ろうとする点にあった。「戸別訪問ヲ為スコトヲ得ス」「連続シテ個々ノ選挙人ニ村シ面接シ、又ハ電話ニ依り選挙運動ヲ為スコトヲ得ス」といった新しい規定は、こうした規制の方向を示すものであった。しかし、と言って文書の類が自由に出せるというわけでもなく、これにも内務省令によって次のような細かな制限が加えられていた。
|
引札・張札(ビラ・ポスター)の類、色は二色以下、三尺一寸×二尺一寸以内 |
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立札・看板の類、候拙者一人に付一〇〇箇以内、色は黒白、九尺×二尺以内 |
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飛行機によるビラまきは禁止 |
第四の規制は、選挙費用に関する制限を設けたことであった。具体的には、その選挙区の有権者総数を議員定数で割った数に40銭を乗じて得た金額を、その候補者の選挙費用の最高額とし、選挙費用がそれを超過した場合には、当選を無効にするという強い措置がとられることになった。そのため選挙事務長には、承諾簿・評価簿・支出簿といった帳簿をととのえ、投票日以後14日以内に選挙費用の清算書を警察を経て地方長官に提出することが義務づけられた。
こうした選挙費用の制限は、選挙を金のかからぬものにしたいという考え方を基礎にするものであるが、その考え方からは、選挙を公営にすることが最も望ましいという主張が生まれてくるのは必然であった。大正14年の改正においても、費用の制限の代わりに、公営部分をつくり出そうとする方向が示されていた。このときに実現したのは、選挙運動のための無料郵便物を認める、公共設備を提供するという二つの措置であった。前者は、候補者は選挙人一人に付き一通に限って、十匁迄の無封書状か私製葉書を無料で送ることができるというものであり、後者は演説会場などとして、道府県・市町村、市町村組合・町村組合、商業会議所・ 農会が管理する公会堂・議事堂その他の施設の使用を 許可するというものであった。
これ以後の選挙法論議は、選挙公営の拡大を中心として行われるようになり、昭和9年の改正では、新たに選挙公報の発行が加えられたが、同時に選挙事務所 や運動員の数が削減されるなど、選挙運動に対して更に厳しく制限されるに至っていることに注意しなくてはならないであろう。すなわち、選挙公言論は選挙運動の自由を否定する方向に発展していったということができる。
選挙区制と投票方法
日本における衆議院議員の選挙制度は、まず小選挙区・単記記名投票で出発し、投票方法については最初の改正で単記無記名投票に改められ、以後、第二次大戦後にはじめて連記制があらわれるまで、一貫してこの方法がとられてきたが、選挙区制については、大正 14年の改正までは、改正ごとにちがった選挙区制がとられていた。
しかしその後は、昭和21年の総選挙が大選挙区制で行われた以外は、すべて中選挙区制によっており、この制度が定着したということができる。
法律 |
選挙区数 |
選挙区制 |
投票方法 |
議員定数 |
備考 |
明治22年法 |
257 |
小選挙区制
原則1区1人(例外1区2人) |
単記・記名
(1区2人−完全連記) |
300人 |
人口約12万人程度につき1人の割合で選挙区を定める。 |
明治33年法 |
97 |
大選挙区制
原則1府県1選挙区(1人〜13人)
(例外市及び島は独立区) |
単記・無記名 |
369人 |
人口約13万人程度につき1人の割合で議員定数を定める人口3万人以上の市部は独立の選挙区とする。 |
大正8年法 |
374 |
小選挙区制
原則1区1人(例外1区2人又は3人) |
単記・無記名 |
464人 |
郡部と市部とに分け一般に人口約13万人程度につき1人の割合で選挙区を定め人口3万人以上の市部は独立の選挙区とする。
|
大正14年法 |
122 |
中選挙区制
1区3人〜5人 |
単記・無記名 |
466人 |
人口約13万人程度につき1人8郡部、市部を通じて)の割合で選挙区を定める。 |
ところでこのいずれの選挙区制の場合にも、選挙区の区割りが、人口を基準として行われていたことに注目しておかなくてはならない。最初の選挙法の場合には、人口12万人について議員1人の割合を目安として区割りが行われたが(実際には議員1人に付き、平均13万1274人となった)、この結果、各選挙区における有権者の数は極めて不均等なものとなった。すなわち、人口に対する有権者の割合は、平均1・14%であったが、府県別にみると最高が滋賀県の2・32%、最低が東京府の0・37%と開いている。2%台は滋賀県のみであり、ついで1%台が26府県、他は1%を割っていた。
この時は小選挙区制がとられ、1人区214、2人区43、計257の選挙区がつくられたが、選挙区の有権者数の最高は2人区では滋賀3区の5682名、であり、ついで5000名台が佐賀1区・埼玉4区、4000名台が岡山1区・山形3区・奈良2区・埼玉3区とつづいている。また1人区の最高は三重2区の4500名、ついで4000名台が滋賀2区・福島5区、3000名台が福岡2区・滋賀4区など8選挙区に及んでいる。これに対して選挙人数が最も少ないのは島根6区の51名であり、鹿児島7区の52名、長崎6区の55名がほぼ並んでいる。ついで100名台は岩手2区・長崎5区・京都1区・東京9区、200名台は東京1・2・5・7・8区、京都2区・大阪3区となっていた。すなわち一方で人口を基礎とした区割りを行い、他方で選挙権に納税要件をつけたことは、こうした選挙区にむける有権者数の極端な差を生み出す結果をまねいたわけである。
この有権者数ではなく、人口をもって区割りの基礎とする大原則は、その後も一貫して維待されていたが、ただ明治33年の選挙法改正で人口3万以上の市を独立選挙区とするという例外措置がとられ、大正14年までこの制度がつづいている。これはすでに「選挙権の拡張」の項で述べたような、都市の商工業者の優遇措置として、地租以外の直接国税の納税要件を地租以下に引下げることとあわせて提案されたものであり、納税要件引下げは実現しなかったが、市を独立選挙区とする点には両院の同意が得られたのであった。この改正では大選挙区制がとられたのに40をこえる1人区がみられるのは、佐渡・対島・隠岐などが独立区とされたほかに、この例外措置によって多くの市が独立の1人区となったからであった。しかし大正14年の改正で納税要件が撤廃されたことによりこうした例外措置の必要はなくなり、この制度は廃止された。
なお、地方制度の整備がおくれた北海道・沖縄県は明治22年法では区割りからはずされ、33年法ではじめて区割りが行われたが、実際に選挙が行われたのは、北海道の札幌・函館・小樽地区が明治35年の第七回総選挙、北海道のその他の地区が明治37年の第九回総選挙、沖縄が明治45年の第一一回総選挙からであった。
投票方法についてはすでに触れたように、明治22年の選挙法だけが、いろいろな意味で特殊であった。 前表では単記・記名と分類してかいたが、2人区では2名の候補者を連記することに定められていたのであり、厳密に言えば、議員定数だけ候補者名を記入させる制度であったというべきであろう。また記名についても、投票用紙にたんに選挙人の氏名を書かせるだけでなく、住所をも記載させたうえ、捺印までさせるという念のいったものであった。この方法は明治33年の改正で廃案され、1人1票、被選人の氏名以外のことを記載してはならないという単記・無記名制度が確立されることになったが、ただし被選人の官位・職業・身分・住所又は敬称の類を書いても無効にならないという例外が認められており、単記・無記名制はこの例外を含んだままの形で、第二次大戦後まで維持されていた。
なお、大正14年の改正で、点字による投票が認められたことは画期的な事柄であり、また不在者投票の制度が設けられたのも、この改正によってであった。
選挙と当選者
選挙には議員全部について行われる総選挙、特定選挙区で当選資格のある候補者が得られないとか、当選が無効とされる、或は当選者が辞退・死亡するといっ た場合に行われる、いわば総選挙の部分的なやり直しとも言える再選挙、欠員舗充のための補欠選挙という三極類があった。総選挙は任期満了か、衆議院解散の場合に行われるが、次表にみられるように、任期満了まで解散が行われないことは極めて稀であった。なお、衆議院議員の任期は4年であるが、議会開会中に任期が終わった場合には、その議会が閉会となるまでは在職するものと規定されていた。
総選挙回次 |
議員定数 |
選挙権ニ必要ナル納税額 |
選挙有権者総数 |
選挙区制 |
選挙執行年月日 |
任期満了後
又ハ解散後 |
第1回 |
300人 |
直接国税15円 |
450,852 |
小 |
明治23・7・1 |
|
第2回 |
〃 |
〃 |
434,594 |
〃 |
25・2・15 |
解散後 |
第3回 |
〃 |
〃 |
440,113 |
〃 |
27・3・1 |
解散後 |
第4回 |
〃 |
〃 |
459,383 |
〃 |
27・9・1 |
解散後 |
第5回 |
〃 |
〃 |
453,637 |
〃 |
31・3・15 |
解散後 |
第6回 |
〃 |
〃 |
502,292 |
〃 |
31・8・10 |
解散後 |
第7回 |
367 |
直接国税10円 |
982,868 |
大 |
35・8・10 |
任期満了後 |
第8回 |
〃 |
〃 |
985,322 |
〃 |
36・3・1 |
解散後 |
第9回 |
379 |
〃 |
762,445 |
〃 |
37・3・1 |
解散後 |
第10回 |
〃 |
〃 |
1,597,594 |
〃 |
41・5・15 |
任期満了後 |
第11回 |
381 |
〃 |
1,506,143 |
〃 |
45・5・15 |
任期満了後 |
第12回 |
〃 |
〃 |
1,576,201 |
〃 |
大正4・3・25 |
解散後 |
第13回 |
〃 |
〃 |
1,496,994 |
〃 |
6・4・20 |
解散後 |
第14回 |
464 |
直接国税3円 |
3,087,090 |
小 |
9・5・10 |
解散後 |
第15回 |
〃 |
〃 |
3,343,675 |
〃 |
13・5・10 |
解散後 |
第16回 |
466 |
ナシ |
12,538,196 |
中 |
昭和3・2・20 |
解散後 |
再選挙の問題は、繰上げ当選の制度とかかわってお り、この制度がとられる場合には、再選挙は当選資格のある者がいない場合などに限られてくる。大体小選挙区制の場合には次点者の繰上げ補充制をとらず、当選者が得られないとか失格した場合にはすぐに再選挙を行うという仕組みになっていた(内務大臣が知事に通知してから20日以内)。このやり方は、定員の不足をその都度選挙でおぎなってゆくという原則を貫くものであり、従って補欠選挙も欠員が生じるごとに実施することとされていた(明治22年法・大正8年法)。これに対して大選挙区制では、できるだけ再選挙をさけ総選挙後の一定期間は選挙が無効となるなどやむをえない場合以外には次点者以下の繰上げ補充で間に合わせ、その期間がすぎてから始めて補欠選挙を行うという仕組みがとられていた。すなわち大選区制をとった明治33年法では、@当選証書(後述)を付与する前に当選者が当選を辞退するか死亡すたとき、A当選者が選挙違反や被選挙権を持たないことが判明するなどの事情により失格したとき、B総選挙後1年以内に欠員が生じたときなどには、再選挙や補欠選挙を行わず、次点者以下の当選資格のある者を得票順に繰上げ当選させてゆくことを原則にしていた。もちろん当選資格のある者がいなくてこの原則が適用できない場合には、1年以内でも再選挙や補欠選挙が行われた。
ここで当選資格の有無とは、一定数以上の得票を獲得しているかどうかということであった。つまり、その選挙区の有権者総数を議員定数で割った数の5分の1以上を得票していなければ、たとえ最高点であっても当選できないという仕組みがつくられていた。この当選の条件となる最低得票数が法定得票数と呼ばれた。この制度は明治33年の改正ではじめて採用されたものであるが、棄権者をも計算の基礎にふくめるのは不合理だとされ、大正14年改正では、法定得票数の計算方法が、その選挙区の有効投票総数を議員定数で割った数の4分の1と改められた。この改定の背景には、普選実施による有権者の激増という事態があり、それに伴って棄権率が高まることが憂慮されたという事情も存在していた。
結局、投票から当選者の確定までには次のような過程が必要とされた。まず開票の結果法定得票数以上の得票をえた候補者のうちから当選者が決定されるのであるが、ここで同一票数を得た者のどちらかを当選者としなければならない時には、年令の高い者を当選者とする、年令も同じ時には抽せんによって決めるという方法がとられることになっていた。こうして当選者が決まると、選挙長は本人に当選を告知する。当選者はこの告知をうけてから20日以内に当選承諾の届出をしなければ当選を辞退したものとみなされた。そしてこの当選承諾の届出がなされると、直ちに地方長官から当選証書が付与されるのであり、これで当選者が確定することになるのであった。
はじめて中選挙区制を採用した大正14年の改正法は、繰上げ当選制をとっている点では、明治33年の大選挙区制の下でのやり方をうけついでいたが、その適用を原則として当選承諾届出期間に限定した点に特色があった。つまりこの期間、すなわち当選の告知から20日間に限り当選の辞退・死亡・失格などによって当選者が失われた場合には、次点以下の当選資格者を繰上げ当選させるというわけである。この例外は、さきに触れたような年令・抽せんなどで落選した同点得票者がある場合であり、この同点者には当選承諾届出期間後でも繰上げ当選できる特権が与えられた。もちろん当選資格のある者がいない場合にはただちに再選挙が行われる。
また大正14年改正法は、補欠選挙についても新しい制度を生み出した点で注目されるものであった。つまり補欠選挙をできるだけ制限しようという点では明治33年法をうけつぐものであったが、総選挙後1年間は繰上げ当選をみとめるというやり方をやめて、端的に1選挙区で欠員が2名に達するまでは、補欠選挙を行わないとした点が特色であった。そしてここでつくられた再選挙・補欠選挙制度の骨格は、第二次大戦後の公職選拳法にまでうけつがれていった。
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