『エリア教科事典』1日本歴史

1975年10月

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戦争と破局

古屋 哲夫


 

1ゆれ動く日本
2満州事変と国際連盟脱退
3中国との全面戦争
4第2次世界大戦の開始と日本
5太平洋戦争

1ゆれ動く日本
金融恐慌
北伐の進展と山東出兵
張作霖爆殺事件
最初の普選と共産党弾圧
統帥権干犯問題
金解禁と世界恐慌の波及


1ゆれ動く日本



 昭和初年の日本は、関東大震災でいっそう深まった慢性的不況と、中国で新たな進展を示しはじめた国民革命の進行、という二つの問題に直面し、将来の発展の道を求めてゆれ動いていた。



金融恐慌

 年号が大正から昭和にかわったのは、若槻内閣が震災手形処理の問題に取り組んでいるときであった。すでに政友会は革新倶楽部と合同し、長州(山口県)出身で陸軍の長老、田中義一を総裁にむかえて護憲三派内閣から離脱しており、内閣のほうも加藤高明の死去(1926年1月)により、憲政会総裁となった若槻礼次郎が首相の座をひきついでいた。

 この時期には、関東大震災の復興は進んでいたが、経済不況が、戦後恐慌のうえに震災の打撃が加わったために、はっきり慢性化しており、それをどう打開するかが、大きな問題となっていた。第一次世界大戦中に停止されたままになっている、金本位制を復活して、世界経済との正常な結合を回復しなければならないという、金解禁論も強まっていた。しかしその前提としても、未解決になっている震災手形の問題を、かたづけねばならなかった。

 若槻内閣は、震災手形を一度整理して、回収不能で日本銀行の損失が確定したぶんは政府が補償し、その他のぶんについては手形総額と同類の公債を発行して銀行に融資し、10年以内に清算させるという法案を議会に提出した。しかし、この審議の過程で蔵相が、休業寸前の具体的な銀行名をあげたこともあって、1927(昭和2)年3月には、取付けさわぎが起こり、さらに4月には、台湾銀行の破たんから、大規模な金融恐慌に発展していった。

 震災手形問題がこのようにこじれたのは、大戦中の無謀な事業拡張のため、戦後恐慌で破たんしかかっていた企業の手形まで震災手形という名目で、救済されていたからであった。台湾銀行破たんの原因は、鈴木商店に対する3億円にのぼる不良貸付にあったが、鈴木商店は対戦中に投機的な経営で急膨張した代表的企業であり、その手形を震災手形として危機をまぬがれていたのであった。

 若槻内閣は緊急勅令によって台湾銀行の救済を行おうとしたが、4月17日枢密院はこの勅令案を否決し内閣は総辞職に追いこまれた。翌18日台湾銀行が休業にはいると、全国の銀行は、預金引出しが殺到する取付けにみまわれ、破たんする銀行があいついだ。4月20日、成立した田中義一政友会内閣(蔵相は高橋是清)はさっそく21間の「支払猶予令」を出し、日銀に非常貸出しを行わせたうえで、臨時議会を召集し、台湾銀行救済法を法律の形で成立させて、金融恐慌をしずめた。

 金融恐慌は、中小銀行の経営を困難にし、恐慌後には、政府の指導もあって、銀行合同は急速に進められた。この過程で、財閥系5大銀行の優位が確立されていった。



北伐の進展と山東出兵

 枢密院が、台湾銀行救済の緊急勅令案を否決したことには、幣原外交への不満がふくまれていた。勅令案審議にあたり、枢密院の実力者伊東巳代治は、幣原外相の対中国政策にも非難を加えていた。中国では、国民党の軍閥打倒をめざした北伐が、展開されているさなかであった。

 中国国民党は1924年(大正13)年に、共産党との合作(共産党員は国民党に加盟して二重の党籍をもった)を成立させて以来、ソ連の援助をも受けて党の軍事体制の整備に努め、1926年7月、根拠地の広東から北伐の軍をおこすと、たちまち年内に長江(揚子江)以南の要地を制圧した。そして震災手形法案の審議されていた1927年3月には、上海・南京を占領したが、そのさい南京では、北伐軍が外人居留地に乱入するという事件が起こっていた。

 このときはイギリスがもっとも強硬な態度をとり、列国に共同出兵を求めたが、幣原外相は内戦に介入してみても効果はないとしてイギリスをおさえる側にまわっていた。幣原は、国民党内の反共派蒋介石に期待をかけており、蒋介石は4月12日に反共クーデターで政権を奪取し、国共合作を崩壊させている。

 ところが、その直後に成立した田中義一内閣は翌5月に北伐軍が徐州にはいるとさっそく居留民保護の名目で山東半島に兵を送った。首相みずから外相を兼ね、軍部との接触の深い森恪を外務政務次官にすえたこの内閣が、積極的干渉政策をとってくることは、はやくも内外に明らかになった。

 このときは反共クーデターのあと始末のため北伐が中止されたので、日本軍も8月には撤兵したが、翌1928年4月北伐が再開されると、日本軍はふたたび出兵した。そして、済南で北伐軍と小ぜりあいが起こると、翌5月にはさらに増兵して済南に総攻撃を加えるに至った。この事件に憤激した中国民衆は、はげしい排日運動を展開し、蒋介石も強硬な態度で日本側に抗議し、徴兵交渉は難航した。しかもこの間、11月にはアメリカ、12月にはイギリスが、関税自主権を認めて南京の国民政府を正式に承認しており、1929(昭和4)年5月、日本軍が徴兵したときには、日本は列強から孤立し、中国民衆からは最大の敵とみられるようになっていた。



張作霖爆殺事件

 山東出兵は、居留民保護という表向きの目的だけではなく、北伐に圧力をかけて、国民革命が満州(中国東北部)に波及するのを阻止しようとするものでもあった。田中内閣は第1次山東出兵中の1927年6月から7月にかけて、外務・陸海軍の幹部や出先機関の代表者を集め、対中国政策を検討する東方会議を開いたが、そこでは、満州は日本が重大な利害関係を有する特殊地域だから、この地域の治安を維持するのは日本の責務である。また満州の有力者のなかで、日本の特殊な地位を尊重し、政情安定に努めるものがあれば、日本政府は適宜これを支持していく、といった決定がなされている。それは、いわば満州に中国の主権がおよぶのをさまたげて、日本につごうのよい人物に支配させよう、ということにほかならなかった。

 このようなつごうのよい人物として、日本は第一次世界大戦後から張作霖を支援してきた。張作霖の側からいえば、満州にも急速にも中国ナショナリズムの勢いが浸透してきているという状況のなかでは、みずからの勢力を維持するためには、独自の経済開発を行って実力を養い、中国の中央集権に参画することが必要であった。しかし、この政策は南満州鉄道株式会社(満鉄)を中心にしながら独占的な勢力を広げようとする日本側、とくに関東軍や満鉄などの現地の勢力と、衝突することになるのは必然であった。現地での紛争は年々増大していった。満州の日本人のあいだには、張作霖を排除してもっとつごうのよい人物を支持すべきだとの意見が、しだいに強まっていった。

 田中内閣が成立したとき、張作霖は何度かの失敗ののち中央進出を果たし、北伐軍に対抗する軍閥連合軍の総帥として、北京に大元師府を開いていた。三井物産出身の山本条太郎を満鉄総裁にして張と交渉させ、満州での利権の拡大を約束させた田中首相は、一方で満州の治安維持のため適当な処置をとると声明して、国民革命をおどすとともに、他方では張作霖に満州に帰ることを強要した。田中はまだ張を満州支配に利用することを考えていたが、関東軍参謀河本大作らは、1928(昭和3)年6月4日、しぶしぶひきあげてきた張作霖を、鉄道に爆弾をしかけて爆殺してしまった。しかし、河本の陰謀も、満州での日本の地位をいっそう困難にしただけだった。張作霖の息子張学良は、その半年後の12月には国民党の青天白日旗をかかげて、国民政府の一員となることを明らかにした。

 みずからの構想をこわされてしまった田中は、犯人を軍法会議にかけるという強い態度を示し、天皇にもその旨上奏していたが、陸軍は真相を隠す方針をとり、河本を退役にするという行政処分だけですましてしまった。天皇から違約をとがめられた田中首相は、1929(昭和4)年7月、内閣を投げ出した。



最初の普選と共産党弾圧

 1928(昭和3)年2月、田中内閣のもとで普通選挙法による最初の総選挙が行われた。この選挙で注目されたのは、はじめて登場した無産政党が、どの程度の伸びを示すかということであった。

 普選法案が成立した1925(大正14)年には、議会主義を否定するサンジカリズム(労働組合による直接行動主義)の勢力はまったくおとろえており、労働者・農民団体はこれを契機に無産政党を結成し、普選の実施に備えようとする方向に動きはじめた。最初は単一の無産政党をつくることが目標とされたが、けっきょく、それまでの運動のなかで蓄積されていた対立を克服できず、1926(大正15)年には、左派=労働農民等、中間派=日本労農党、右派=社会民衆党という3つの無産政党が分立して、登場することになった。これらの無産政党は、最初の普選で88人の候補者を立てたが、8人を当選させたにとどまった。

 しかし、この選挙戦のなかで、共産党が姿を現したことは官憲をおどとかせた。当時労働農民党は非合法下の日本共産党の強い影響下にあり、共産党は労働農民党から11人を立候補させた。そして演説会場には日本共産党の署名入りのビラがまかれるようになった。この公然たる共産党の活動に対して、治安当局は総選挙の翌月の3月15日に一斉検挙に乗り出し、1道3府27県で千数百人を逮捕した(3.15事件)のにつづいて、田中内閣は6月29日緊急勅令によって、治安維持法の改正を強行した。

 この改正は、共産党に対する弾圧を強化するため、これまで私有財産制の否認と同列おかれていた「国体の変革」に対する罪を分離し、最高刑を死刑にまで引き上げたものであった。それと同時に、これまで主要府県にだけおかれていた思想犯取締りのための特別高等警察(特高)を、設置して弾圧体制を強化した。ついで、翌1929(昭和4)年4月16日には、再度の大検挙が行われたため、共産党指導部は壊滅し、以後の再建活動もさしたる活動をなしえないうちに、つぶされていくようになった。



統帥権干犯問題

 田中内閣のあとをうけて、民政党総裁浜口雄幸が組閣したが、この内閣はふたたび幣原喜重郎を外相にすえて、外交を国際協調の路線にひきもどそうとした。そしてその当面の課題は、ロンドン海軍軍縮会議を成功させることにあった。

 ロンドン会議は、ワシントン会議が主力艦の制限だけに終わったあとをうけて、補助艦艇の制限を実現しようとするものであった。日本からは若槻礼次郎元首相・財部彪海相・松平恒雄駐英大使が全権として出席し、会議は1930(昭和5)年1月21日に開会された。日本側の関心は、米英に対する比率の問題に集中していた。海軍は主力艦の対米6割にも不満であり、今度はどうしても補助艦艇対米7割、潜水艦7万8000t保有を認めさせなければならないと主張した。会議は難航したが、3月になって、日本の大型巡洋艦は対米6割とするが、補助艦艇全体としては対米6.97割を認める、潜水艦は日米対等の5万2000tに制限するという妥協案ができあがった。

 海軍、とくに軍令部はこの案にも強く反対したが、これを最終案とみた浜口内閣は条約調印にふみきった(1930年4月22日調印)。しかし野党の政友会は、この調印は「統帥権干犯」だとする攻撃を始め、軍部や条約の審査にあたる枢密院と手をにぎって内閣をたおそうとする策動を始めていた。

 「統帥権」というのは、軍隊の行動を指揮命令する権限であり、天皇大権の一つとされ、参謀総長・軍令部長の補佐によって政府や議会と無関係に、運用できるたてまえになっていた。このたてまえが「統帥権の独立」とよばれている。条約調印を「統帥権干犯」というのは、兵力量は統帥つまり用兵の立場から決定されねばならない、ということであった。

 しかし他方、財政や行政と関係する軍の編成や常備の兵・武器の数の決定は、内閣の仕事であるというのが、従来からの憲法解釈であり、緊縮財政のもとですでに金解禁(後述)にふみきっている浜口内閣は、どうしてもこの立場をゆずるわけにはいかなかった。浜口内閣は、強い態度でロンドン条約の批准を成功させたが、この間、軍部や右翼の反撃も強まっており、浜口首相も1930年11月右翼青年にそ撃され、1931年、死去するに至った。



金解禁と世界恐慌の波及

 浜口内閣が内閣の命運をかけて取り組んだもう一つの課題は、金解禁の断行であった。金解禁とは、金と紙幣の交換や、金の輸出を自由にすることであり、国際収支を金で決済して円の国際的な信用を高め、海外市場への発展を図ろうとする政策であった。

 金融恐慌の混乱から立ち直ってきた財界からは、まず銀行家たちが金解禁を主張し、解禁論は田中内閣末期には、一般企業家をもふくんだ財界全般の世論となっていた。銀行は不況のなかで、だぶついた資金の活用を望んでおり、一般企業家は、はげしく変動する為替相場に企業活動をさまたげられ、多少の犠牲をはらっても、為替相場の安定を求める気分になっていた。

 浜口内閣は、国民に節約や国際品愛用をうったえるとともに、緊縮政策によって財政をひきしめ、1930(昭和5)年1月から金解禁を断行していった。それと並行して、6月には商工省に臨時産業合理局を設け、産業合理化によって国際競争力を強化する政策を進めた。産業合理化は、個別企業では老朽設備の切りすてや労働強化を中心として、また産業全体としてはカルテル(企業連合)活動の強化を軸として進められた。カルテルは政府に支持されながら、あらゆる分野で組織されつつあり、それは不況の打撃をより強く一般民衆にしわよせしていく結果となった。

 金解禁によって、一時不景気が深まることは、あらかじめ予想をこえて激化していった。すでに前年の1929(昭和4)年10月、ニューヨーク株式市場の大暴落をきっかけとして世界大恐慌が始まっており、金解禁は、いわばこの恐慌のあらしに向けて窓をあけたようなものであった。世界恐慌の影響は、1931年後半には、きわめて深刻な状態になった。一般卸売物価は1926年の6割に、農産物は4割をわる暴落ぶりであった。金解禁政策は明らかに破たんしつつあったが、この大恐慌の下で、軍部・右翼勢力が台頭してくるのであった。(古屋哲夫)

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