『エリア教科事典』1日本歴史

1975年10月

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戦争と破局




古屋 哲夫

 

1ゆれ動く日本
2満州事変と国際連盟脱退
3中国との全面戦争
4第2次世界大戦の開始と日本
5太平洋戦争

2満州事変と国際連盟脱退
3月事件と10月事件
満州事変
5.15事件
国際連盟の脱退
非常時の掛け声
2.26事件


2満州事変と国際連盟脱退


 
 国内では恐慌、とくに農村恐慌が深刻となり、中国では民族主義の風潮が高まってくると、軍部のなかには危機の意識が広がっていった。そして関東軍の参謀たちは、日本の行き詰まりの打開をめざして、満州事変を起こした。それは以後の戦争の時代への決定的な曲り角となるものであった。



3月事件と10月事件

 浜口内閣の時期には、軍部や右翼のなかに政治のあり方への不満が高まり、過激な手段によってでも現状を打破しなければならないとする動きが強まっていた。とくに陸軍の中堅将校にこのような動きが広まった。

 彼らは、満蒙(満州と蒙古)の資源を確保しなければ日本の発展はありえないと考えていたが、恐慌による日本経済への打撃が強まるにつれて、満蒙確保のために早く有効な手を打たねばならないと、あせりはじめるようになった。彼らはまた、幣原外交の「国際協調」は米英への屈従にほかならないと批判した。とくに、浜口内閣がロンドン軍縮条約を実現させたことは、米英との協調のために、日本の発展に必要な軍事力をも犠牲にするものであり、軍縮がさらに陸軍にまでおよぶのを、防がなければならないとしたのであった。

 彼らは、政党や財閥さらにはそれらと結びついている元老・重臣は国家の将来を思わず、民衆の苦難をかえりみずに、私利私欲を追い求めていると主張した。一方ではつぎつぎと汚職事件が暴露され、他方で民衆の生活難が深刻化したことは、彼らの主張に絶好の論拠をあたえた。彼らはまず政党政治を打倒し、さらに、きたるべき総力戦にたえうるように、国家を改造すべきだと、さけびはじめていた。

 すでに1927(昭和2)年ごろから、現状打破を求める佐官級の中堅将校のグループが形成されており、さらにロンドン条約問題が紛糾していた1930(昭和5)年9には、慰官級の青年将校をもふくめた桜会が結成された。桜会は、国家改造のためには武力によるクーデターをも辞さないとの態度を打ち出していたが、これらのいわゆる革新派将校たちは、軍中枢部にも大きな影響力をもつようになっており、翌1931年には実際にクーデター計画が立てられるようになった。

 まず1月ごろから、クーデターによって陸相宇垣一成を首相とする宇垣内閣をつくる計画が進められた。この計画は実行に移されなかったが、参謀次長・陸軍次官・軍務局長らも、いちじは計画を支持していたようである。この事件は、3月に決行が予定されていたため、「3月事件」とよばれている。

 3月事件に次いで、9月に満州事変が起こると、10月にはこれに呼応するためのクーデターが、桜会の中心人物橋本欣五郎中佐らによって計画された(10月事件)、この計画も軍首脳部におさえられて未発に終わったが、青年将校が兵を率いて出勤し、首相以下を暗殺することが想定されており、2.26事件の原型となるものであった。これらの事件は、軍部がファッショ的な方向で動いていることを示していた。以後、現状打破をさけぶ青年将校の勢力は増大し、軍首脳部は、総力戦のための「国防国家」建設を唱えて、国政全般に干渉するようになった。



満州事変

 国内で3月事件が隠密のうちに処理されていたころ、満州では関東軍参謀石原完爾・板垣征四郎らによって、満州占領計画が進められていた。彼らは陰謀によってでも軍事行動のきっかけをつくり、満州を日本の支配下おこうとしていた。

 1931(昭和6)年9月18日夜、奉天(今の藩陽)郊外の柳条湖で満鉄線が爆破され、これを中国軍のしわざと称した関東軍は、ただちに奇襲攻撃に移り、たちまち南満州の主要都市を占領してしまった。この「柳条湖事件」は、関東軍参謀らが軍司令官や参謀長らには相談せずに、独断で実行に移した陰謀であった。出先機関からこの事件は日本側のしわざらしいとの報告を受けた幣原外相は、軍部の独走をおさえようとし、閣議はいちおう、不拡大方針を決めた。しかし、政府や政党も軍部と真剣に対決しようしなかったばかりではなく、政党のなかには軍部と手をにぎっていこうとする勢力が、急速に強まっていった。

 最初から、南満州だけでなく、ソビエトが鉄道の権益をもつ北満州までふくめて、日本の領土にしようとしていた石原らの参謀は、いろいろの口実で占領地域を拡大し、1932(昭和7)年2月にはハルビンを占領して、ほぼ満州全域を制圧してしまった。そして同時に、満州を中国から切りはなすため、日本の自由になる国家の建設が進められていた。

 関東軍側ははじめ満州を日本の領土にしてしまう計画であったが、陸軍中央部はこのあまりにも露骨なやり方に反対し、関東軍部も、ともかくも中国人を表面に立てて新政権をつくる方針に切りかえた。関東軍は占領地の拡大とともに、その地方の有力者につぎつぎと地方政府や自治委員会をつくさせていき、天津から脱出させた清朝最後の皇帝であった溥儀をその上にのせて執政年、1932(昭和7)年3月1日に満州国を発足させた。

 満州国は2年後の1934(昭和9)年3月に帝政をしき、溥儀が執政から皇帝に即位したが、この国を承認したのは、ドイツ・イタリアなどファシズム陣営の国だけであった。



5.15事件

 柳条湖事件の3日後の1931(昭和6)年9月21日、イギリスが金本位制を離脱したことは、満州事変と重なって二重の衝撃を日本にもたらした。金の流出はいちだんと急激となり、恐慌が世界的に波及しながら深刻となっているなかで日本も金本位制を維持することは困難にとなった。

 11月になると野党の政友会は、金輸出を再禁止すべきだとの方針を打ち出した。政府や与党の民政党も深刻な問題に直面して動揺しはじめた。安達謙蔵内相らは、このさい政友会と手をにぎり、軍部とも連携した挙国一致内閣をつくろうという「協力内閣運動」を始めた。この運動は協調外交、軍備縮小・緊縮財政、金解禁という、これまでの政策の基本線を放棄することを意味していたため、井上蔵相、幣原外相らは強く反対し、閣内の対立が激化した。若槻礼次郎内閣は、けっきょく12月に総辞職し、政友会総裁犬養毅が後継内閣を組織した。

 犬養内閣は、老練な財政家として定評のあった高橋是清を蔵相に、また、当時陸軍革新派の期待を一身に集めていた荒木貞夫を陸相とし、民政党の政策を一変して、急転する情勢を乗り切ろうとした。高橋蔵相は就任するとただちに、金輸出再禁止を断行した。翌1932(昭和7)年2月、総選挙で「不景気克服」をスローガンとした与党政友会が圧勝し、絶対多数を獲得する。

 犬養内閣は、順調にすべりだしたかにみえた。しかし、この選挙戦の最中の2月9日、前蔵相井上準之助が演説会場で暗殺され、つづいて3月5日、三井財閥を代表する三井合名理事長団琢磨が暗殺され(血盟団事件)、テロの脅威が広がりつつあった。

 井上・団を暗殺したのは、井上日召を中心とした血盟団のメンバーであった。井上は茨城県の護国堂を根拠として、農民青年や学生・海軍青年将校に強い精神的感化をあたえ、国家改造を唱える右翼・青年将校の一翼をになっていた。彼らは10月事件に参加した陸軍の青年将校たちが、荒木陸相に期待して次の行動をさしひかえたのを不満とし、独自の行動に立ち上がったのであった。そして血盟団が検挙されたのに続いて、第2弾として5.15事件が決行されるのであり、2つの事件は一連のものであった。

 1932(昭和7)年5月15日、三上卓中尉らの海軍青年将校を中心とし、陸軍士官候補生や、橘孝三郎の率いる農民決死隊が参加した暗殺・破壊計画が実行に移された。襲撃は首相官邸をはじめ内大臣官邸・政友会本部・警視庁・日本銀行・三菱銀行や数か所の変電所に対して行われたが、犬養首相が暗殺されたほかは、いずれも軽い被害にとどまった。

 しかし、犬養首相が暗殺された衝撃は大きく、護憲三派内閣以来続いた政党内閣時代はここで終止符を打った。元老西園寺公望は、まず海軍の長老齋藤実を、つづいて同じ海軍の穏健派岡田啓介を首相の座につけて、できるだけ国際協調路線を守ろうとしたが、けっきょくは、軍部に引きずられていった。



国際連盟の脱退

 軍部が満州国の建設を急いだのは、国際連盟が介入する前に確固とした事実をつくってしまおうとしたためであった。すでに、関東軍が行動を開始した3日後の1931年9月21日には、中国側は事件を国際連盟にうったえたが、連盟は日本に対して強硬な態度をとることができず、けっきょく12月10日になって日本の提案に従って現地調査団の派遣を決議した。そこで軍部は、一方で満州国の建国工作を急ぐとともに、他方では、上海で新たな事件を起こして、列強の目を満州からそらそうとする陰謀をも実行に移した。

 1932(昭和7)年1月18日、上海で日本人托鉢僧の一行が襲撃され、殺傷されるという事件が起こった。この事件は日本側がしくんだものであり、犯人は日本の軍人に買収された中国人無頼漢であったが、日本側は海軍陸戦隊を上陸させて中国側と対立し、28日ついに戦闘が開始された(上海事変)。

 しかし、中国人の抵抗は日本側の予想をこえた激しさであり、2度にわたって大規模な陸軍部隊を増派しなければならなかった。しかも他方では、上海で激戦が展開されていた1932年2月には、国際連盟が日本の行為を調査するために派遣したリットン調査団が東京に到着しており、日本側も早く上海事変を収拾することが必要となった。日本軍は、国際連盟総会が開かれた3月3日に戦闘中止を声明し、5月5日に停戦協定に調印して撤退したが、すでに前に述べたように、3月1日には満州国建国宣言が発表されていた。

 リットン調査団は、中国の排日運動を批判し、満州における日本の権益を擁護しようとしたが、さすがに満州国を認めるわけにはいかなかった。10月2日に発表された同調査団の報告書は、満州国に反対し、形式的には満州を中国の構成部分と認めながらも、実質的には東三省(黒龍江・吉林・遼寧の3省)に自治的政府をつくって、国際管理のもとにおき、中国中央政府から切りはなすことを提案していた。それは、統一を求める中国民衆の期待に反するものであったが、日本はすでにこの案とさえ妥協しようとはしなかった。

 リットン報告書の発表される半月前、日本政府は日満議定書に調印して満州国を承認した。さらに満州国に東三省ばかりでなく、熱河省をも加える計画であった関東軍は、翌1933(昭和8)年1月、熱河進攻作戦を開始した(同年5月31日の塘沽協定で停戦)。もはや国際連盟との妥協の余地はまったくなくなっていた。同年2月24日の国際連盟総会で、リットン報告書の採択と満州国不承認をもりこんだ決議案が可決されると、日本代表松岡洋右は退場し、ついで3月27日日本政府は正式に連盟脱退を通告して、国際的に孤立しながら中国民衆との対決の道を歩んだ。



非常時の掛け声

 国際連盟の脱退の翌1934(昭和9)年には、日本はさらにワシントン軍縮条約からも離脱し、米英との対立をいっそう深めていった。国内では「非常時」ということばがはんらんするようになり、戦争体制のなかに国民をかりたてようとすつ動きは、いっそう強まった。

 1934(昭和9)年10月、陸軍省は「本義と其強化の提唱」と題するパンフレットを出して、物質的、精神的な力を国防のために集中することが必要であり、そのためには「国家を無視する国際主義・個人主義・自由主義思想」を排除しなければならないと述べた。すでにその前年には、日本共産党幹部の佐野学・鍋山貞親が獄中から天皇制を肯定する「転向声明」を発表して以来、党員はぞくぞくと転向し、共産主義運動は組織的にはもちろん、思想的にも壊滅状態におちいっていた。したがって、次の攻撃の目標は、個人主義・自由主義的な思想に広げられていった。

 「転向声明」が出された1933年には、京都帝国大学の滝川幸辰教授の刑法学説が不穏当だとして、著書を発禁にされ、ついで教授の職を追われるという事件が起こり(滝川事件)。さらに1935(昭和10)年になると美濃部達吉の「天皇機関説」(大正デモクラシー、デモクラシー思想と社会運動の天皇機関説参照)が国体観念に反するという攻撃が激化した。貴族院の右翼議員を先頭にし、在郷軍人会をバックにしたこの運動は、政党をもまきこんで大きな政治問題となった。けっきょく岡田内閣も2度にわたって「国体明徴」に関する声明を出し、天皇機関説を否定する場合を明らかにしなければならなかった。もはや思想・言論の自由はまったく失われていった。



2.26事件

 5.15事件によって政党内閣が姿を消してからは、政治に対する軍部、とくに陸軍の影響力は急速に強まっていった。しかし同時に、陸軍内部では派閥抗争がしだいにはげしくなった。派閥の一方は「統制派」とよばれ、軍内部の組織的統一を強めながら、権力機構の実験をにぎっていこうとする意図をもち、陸軍省・参謀本部の大勢をしめていた。これに対して「皇道派」とよばれた他の一派は、天皇中心の精神主義を強調し、政党や重臣などの既成勢力に一撃を加えねばならないと主張し、急進的な青年将校たちをおもなにない手としていた。そして、統制派は皇道派を弾圧して軍の統一を強めようとし、皇道派は統制派を軍閥とよんで打倒の対象に加えた。

 1935(昭和10)年8月12日、皇道派の相沢三郎中佐が、白昼、軍務局長室で統制派の中心人物永田鉄山少将を斬殺したことは、両派の対立が深刻となったことを告げるものであり、翌年の2.26事件もこの派閥抗争の激化を一つの契機として起こったものであった。

 1936(昭和11)年2月26日未明、国家革新を唱える青年将校たちは、約1400人の兵を率いて重臣たちの襲撃に決起した。岡田啓介首相はあやうく難をまぬがれたものの、内大臣斎藤実、教育総監渡辺錠太郎、大蔵大臣高橋是清が殺害され、侍従長鈴木貫太郎が重傷を負わされた。反乱を指導した青年将校たちは、天皇をとりまく重臣たちを殺害し、真崎甚三郎らの皇道派をおし立てて、国家革新を実現しようというのであった。

 この陸軍始まって以来の大反乱に直面した陸軍首脳部の動揺ははげしかったが、天皇は反乱軍のすみやかな鎮圧を命じ、重機関銃を配置して中央官庁街を占拠した反乱軍も、29日には抵抗することなく投降した。青年将校の大部分は法廷闘争に期待をかけたが、軍首脳部はこの機会に彼らの勢力を一掃しようとし、緊急勅令によって一審制、弁護人なし、非公開という思想的影響をあたえてはいたが、反乱の計画、実行には加わっていなかった民間人の北一輝や西田税もふくまれていた。

 事件後、軍首脳部は大人事異動を断行して都内を粛正したが、政界に対しても自由主義的傾向に対する粛正を強く要求し、事件直後の広田弘毅内閣の組閣にあたっては、自由主義的政治家の入閣に反対するなど、はげしい干渉を加えた。そして、この内閣の下で、軍部大臣現役武官制が復活され、軍備拡張を中心とする「国策」がつくられる。もはや内閣の存続は、軍部の意向に左右されるようになっていた。(古屋哲夫)

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