『帝国議会誌』第12巻

1976年6月

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第六二回帝国議会 貴族院・衆議院解説


 

古屋 哲夫

 

第六二回帝国議会 貴族院解説
第六二回帝国議会 衆議院解説

第六二回帝国議会 衆議院解説
五・一五事件前後の政友会
斉藤内閣の成立
無産陣営におけるファッショ化と分裂
第六二回議会の召集
衆議院の状況
農村救済問題

第六二回帝国議会 衆議院解説



五・一五事件前後の政友会


  第61回議会が終了すると、犬養内閣はすぐさま次の臨時議会の準備にとりかかった。前議会に提出した昭和7年度追加予算案には、4、5月分の満州事変費 しか計上しておらず、従って、本格的な今年度実行予算を編成して5月に再び臨時議会を開くというのが内閣側の既定の方針であり、第62回議会は5月23日に召集されることになった。与党の政友会では、この臨時議会で何か積極的な事業を予算化し、総選挙のスローガンとした「産業五ケ年計画」を肉付けして人気を煽りたいという要求が強かったが、高橋蔵相は財政難を強調して、与党の予算要求を容易にみとめようとしなかった。恐慌による歳入減と満州事変による支出の増大により、昭和7年度予算は赤字公債を発行しな くては成り立たなくなっていた。蔵相としては不況打開の方策として、通貨増発を容易にする発券制度の改正と、預余部資金などで地方銀行の不動産貸し出しを 肩代りし固定化している資金を流動化することを考えていた。前者は正貨準備以外に公債など確実な証券を 保証としてみとめられていた保証準備発行の限度を、これまでの1億2000万円から一挙に10億円に拡張しようというものであり、後者は2億円程度の資金を勧銀などを通じて地方銀行に流そうというものであった。  

  政府では最初、臨時議会に提出する案件として追加予算案と兌換銀行券発行条例改正案を中心と考え、会期を2週間と決定したのであったが、5月になって議会召集が追ってくると、次々に新しい案件が登場してきた。大蔵省関係ではさらに、ブロック経済化の世界的傾向に対抗するための関税引き上げや為替管理などが立案され、また鉄道省からは地方鉄道買収案が、人気とり政策として登場してきた。経営不振の地方鉄道を買収してやるというやり方は、政友会の伝統的な勢力拡張策であり、田中内閣時代の第56回議会でも大問題となったいわくつきのものであったが、床次鉄相は高橋蔵相をくどいて、3000万円で地方8鉄道を買収するという案を臨時議会に提出しようとした。も しこの案が出れば、衆議院は絶対多数で押し切れるとしても、貴族院で大問題となるのは必至であり、会期延長はまぬがれないともみられるようになった。政友 会は絶対多数に膨脹した反面、党内がばらばらとなり、犬養内閣内部では中心的統制力が弱まってくるといっ た様相がみえ始めていた。そしてそこに、5・15事件の一撃が加えられることになるのであった(5・15事件については、「第六二回帝国議会貴族院解説」参照)。

  この事件で犬養総裁を暗殺された政友会にとっては、この衝撃から立ち直るためには、出来るだけ速かに後継総裁を決定し結束を固めることが必要であった。当時の政友会では、鈴木喜三郎の勢力が圧倒的に強く、鈴木は事件直後から公然と総裁就任の姿勢を示した。 これに対して久原派・床次派・旧政友系などの間では、元の総裁である蔵相高橋是清を暫定総裁にすえるという構想を立てたが、この重大な時期に暫定総裁などは無意昧だとする反対も強く、高橋自身もこの話に乗ろうとはしなかった。そこで床次竹二郎が次の候補に考えられたが、鈴木派から総裁公選論が唱えられるという状況のもとでは床次の勝つ可能性はなく、床次白身 も「党内和平」のため鈴木を推せんするとの意志を明らかにした。17日の政友会議員総会では鈴木推挙が満場一致で決議され、20日の臨時大会で正式決定されることとなった。  

  このように政友会総裁が比較的スムースに決まったのは、鈴本派の党内での力が圧倒的に強かったことにもよるが、またこの際絶対多数の結束を固めておれば、次期政権が政友会に来るであろうとの思惑も働いていた。首相候補者選定の実権を持つ西園寺は、かつての 原敬首相暗殺の際以来テロによる政権の移動に反対する態度を示し、また平沼騏一郎などファッショ的傾向の人物を好んでおらず、一般にも鈴木が次の首相に推されるだろうという観測が強かった。鈴木もまた、政友会を中心とした強力内閣という構想を打ち出し、閣僚候補者とみられる人々と会談するなど積極的な姿勢を示した。鈴木にとっての最大の難関は、軍部内に政党内閣否認の空気が強まっていることであり、彼の言う「強力内閣」とは、軍部の推薦する人物を入閣させ、政友会と軍部との妥協をはかるという内容のものであり、民政党との連立内閣には強く反対していた。

  5月18日鈴木が荒木陸相と会談すると、東京朝日 は「内閣組織の大命 鈴木総裁に降らん軍部との諒解成る」(5・19)と報じたが、この見方は甚だ甘か った。軍部とくに陸軍のなかには、鈴木・政友会内閣を容認する雰囲気はなく、この形勢をみた重臣・宮廷 グループの間では、非政党内閣論が大勢を占めつつあった。例えば、近衛文麿(貴族院副議長)・木戸幸一(内大臣秘書官長)、原田熊雄(西園寺秘書)などの若手グ ループは、昭和6年春以来、政友会の親軍派森恪を通 じて軍部との接触をはじめていたが、この年4月に入ると政局の不安を感じ、政変の場合を想定して話し合っているが、そこに出ているのは、平沼騏一郎・斉藤 実(海軍の長老)など非政党人の名前であった。そし て4月3日の3人の会合では、平沼よりも斉藤による挙国一致内閣がよいと結論している(「木戸幸一日記」 上、153頁)。そして木戸は事件翌日の5月16日午前には早くも牧野伸顕内大臣に対し、「一、此際議会 に基礎を有する政党の奮起を促し、之を基礎とする挙国一致内閣の成立を策すること、一、内閣の首班には斉藤子爵の如き立場の公平なる人格者を選ぶこと」(同前164〜5頁)などの収拾策を進言した。彼はこの時の考え方を次のように記している。「此際政党も軍部も共に相協力して当たるは最も当然とすべきも、軍部の政党否認は感情的に迄進展せること故、両者の提携 は困難なりと思はる。しからば此の際暫く両者を引き退かしめ、爰に第3者たる公平なる有力者を出馬せしめ、此事態を預りて前後処置に任せしむるも亦一策に して、之が最も実行的なりと思考す。……右の第3者 は斉藤子を措いて他に無之ものと思ふ」(同前168頁)。  

  こうした情勢のなかで、19日夕刻に静岡県興津の別邸から上京した元老西園寺は、翌日から重臣だちと個別に会談をはじめたが、軍部方面からの策動や、重臣たちの超党派内閣組織の進言が伝えられ、鈴木内閣の可能性は日に日にうすらいでいった。そしてこれに対しては政友会からは軍部の政治関与排撃の叫び声があげられるに至った。鈴木の総裁就任を正式に決定した5月20日の臨時大会では、山口義一幹事長が立って「我等はかくの如きファッショ的行動に対しては敢然として戦ひ、たとひ如何なる危険にさらされるとも、軍部一部のために今やじゆうりんせられんとしている 憲政の危機を救ふために戦わねばならぬ」と演説し、満場の喚声とあらしの如き拍手に迎えられたという(東朝、5・21付夕刊)。そしてこの熱気は、さらに翌日有志代議士会を閲いて、(一)軍部の政治関与排撃、(二)憲政擁護の2点を決議しようという動きにまで高まった。 しかしこの熱気は幹部の抑圧にあうとたちまちのうちに消滅してしまった。政友会幹部のなかでも、平沼内閣運動に加担している森恪などは、たとえ超党派的人物が首相になった場合でも我党は敢然これを支持すべ きであると強く主張したし、情勢が不利に展開するのをみた鈴木総裁もこれまでの連立絶対反対論をすて、 挙国一致内閣でもやむをえないと態度をかえた。有志 代議士会は鈴木の説得で中止され、憲政擁護の叫び声はたった1日盛り上がっただけに終わった。最早この時期には憲政擁護運動を展開する条件は失われていた。 過去2回(大正元〜2、大正13)の護憲運動をみても、 たんに政党内閣制だけを要求したわけではなく、そこ には2個師団増設反対、普通選挙実現といった政策的基軸が存在していたのに対して、この時には軍部に対抗して政党勢力が結集しうるような具体的基軸は何も形成されていなかったといってよい。政党勢力が全面後退を余儀なくされるのは必然であった。



斉藤内閣の成立

 6月22日午後1時半、元老西園寺公望は参内して、斉藤実を次期首相として天皇に推挙し、組閣の命令はただちに斉藤に下された。西園寺とすれば、一時中間的な人物を首相に立てて軍部の熱のさめるのを待とうと考えており、斉藤も政党を無視する考えは全くなかった。斉藤は早速翌23日、鈴木政友・若槻民政両総裁を訪れて協力を要請する。政友会では斉藤内閣に協力するにしても入閣には反対する意見もあったが、結局閣外に踏みとどまって政党否認の風潮に対決するだけの勇気はなかった。しかも閣内協力の態度がきまる と今度は早速猟官的態度に出、内相の椅子を要求したが、もはや絶対多数の威力はなく、斉藤に軽く一蹴されてしまっている。

  斉藤はまず政友会員というよりも、財界・政界にわたって信望の厚い第一人者として高橋是清の留任を求め、ついで政友会から三土忠造・鳩山一郎を、民政党から山本達雄と永井柳太郎を入閣させることとした。 さらに貴族院から政友系として南弘、民政系として後藤文夫、財界人として中島久万吉を入れ、また司法大臣には公正な人物とされた検事総長小山松吉をあてた。 外相には軍部ともよい満鉄総裁内田康哉をあてるため当面は斉藤首相が兼任することになった。残るは軍部大臣だけであるが、海軍は東郷元帥の推薦する岡田啓介にすんなり決まったが、陸軍は事情が複雑であった。 荒木陸相は、5・15事件に陸軍からも士官候補生が参加した責任をとって辞職し後任に朝鮮軍司令官林銑十郎をすえる考えもあったようであるが、陸軍部内では青年将校をもふくめて荒木への期待が大きく、荒木も結局留任することにした。この荒木留任には、第62回議会でも貴族院から批判の声があがったが、このときの荒木の声望には敵しえなかった(「第六二回帝国議会貴族院解説」参照)。こうした経過をたどって5月26日午後、閣僚の親任式が行われ、清浦内閣以来の非政党内閣として斉藤内閣が成立したが、これによって 党利党略的行動が影をひそめたわけではなく、内閣成立直後には早速政務官をめぐる猟官争いがおこってき た。  

  政務官とは各省政務次官と参与官とを指し、議会と各省との関係を円滑にするために設けられたものであるが、実際には内閣の支持勢力を固めるために貴・衆両院議員に配分され、政変に際しては常に猟官運動の対象とされてきたポストであった。従ってこの制度は「如何にひいき眼にみてもその与へし利益よりは害悪の方が遥かに多くはなかったか。省内の事務に無用の口だしを試むる位はまだしも罪が軽いとして、ともすると政務官なる官職が行政官庁内へ党利党略を注入する導水管の役目を勤める今の弊害は、何としても耐えることができない」(東朝、5・26社説)という様な批判もあらわれていた。このため斉藤内閣の初閣議では政務官を各省に1人、と半減させる案も出されたが、 結局現行通りと決まるとたちまちポストの争奪がはじまった。そして今回は政友会が内務政務次官の獲得に固執したために紛糾し、第62回議会開院式の行われ た6月1日になってようやく発令される有様となった。 さきにものべたように、政友会は組閣にあたっても内 相の地位を要求したが得られず、せめて政務次官は確保したいというわけであったが、民政党の山本内相はこれを強く拒否し、結局ここでも政友会の言い分は通らなかった。この紛糾を通じて政友会の態度が強く批判されたことはもちろんであるが、同時に、寄合世帯 としての斉藤内閣の欠陥が早くも暴露されたとも言える。政務官の顔ぶれは次のように決まったが、「政務次官の中では内務の斉藤隆夫、大蔵の堀切善兵衛、文部の東郷実、司法の八並武治の4氏位が当を得た人選 という程度で、他の次官参与官に至ってはいずれも党略と情実から一歩も出ておらぬ」(束朝、6・1)などと評されていた。

省名 政務次官氏名(会・党派名) 参与官氏名(会・党派名)
外務 滝  正雄(政友) 沢本 与一(民政)
内務 斉藤 隆夫(民政) 勝田 永吉(民政)
大蔵 堀切 善兵衛(政友) 上塚  司(政友)
陸軍 土岐  章(研究) 石井 三郎(政友)
海軍 堀田 正恒(研究) 川島 正次郎(政友)
文部 東郷  実(政友) 石坂 豊一(政友)
司法 八並 武治(民政) 岩本 武助(政友)
農林 有馬 頼寧(研究) 松村 謙三(民政)
商工 岩切 重雄(民政) 松村 光三(政友)
逓信 志賀 和多利(政友) 立花 種忠(研究)
鉄道 名川 侃市(政友) 松谷 順助(政友)
拓務 堤 康次郎(民政) 木村 小左衛門(民政)




無産陣営におけるファッショ化と分裂

 5・15事件がおこった時には、無産政党の側も軍部への迎合→ファッショ化という潮流によって激しくゆり動かされ、ちょうど分裂と再編の過程が進行している最中であった。当時の無産政党は系譜的に言えば右派の社会民衆党と、中間派と左派の合体した全国労農大衆党の2党であったが、この両党ともに、満州事変勃発以後、党内に国家社会主義への転向派が台頭しており、その対立がこの時期に来て分裂にまで発展するという状態であった。すでに1月には、下中弥三郎を中心とした日本国民社会党準備会が組織されていたが、同会は結党をのばして、これら両党内の転向派の動きを見守っており、国家社会主義をかかげる新政党が、無産運動からの転向派によって結成されるのは時間の問題とみられていた。そしてこの国家社会主義運動の眼として注目されていたのは、社会民衆党書記長・赤松克麿の動向であった。

  赤松は1月の同党第6回全国大会に、国家の本質は「純正なる統制機能を有する権力機構」であり、その「統制機能の民衆化」を期さなければならないとする新運動方針を提起し、社会民主主義を守ろうとする側と激しい論戦を行っていた。そこには国家社会主義の言葉はみられなかったが、新方針の内容は明らかにそうした方向を志向したものであり、同党の基本的立場を示すものとされてきた三反綱領(反共・反資本主義・ 反ファッショ)とは異質な発想にもとづくものであった。 この大会は、分裂を避けようとする幹部たちの調停によって、この新運動方針と、片山哲提出の三反綱領により既成無産団体に合同を呼びかける「戦線統一ノ件」 とを共に可決することで切り抜けられたが、対立は深 まるばかりであった。

  第61回議会が閉会して間もない4月7、8日の中央執行委員会で、両派はついに戦線統一の具体的方法を争うという形で正面から衝突した。すなわち片山が全国労農大衆党に対し三反綱領にもとづく合同を提議することを主張したのに対して、赤松はさきの新運動方針の精神にもとづき即時解党して新政党樹立に邁進すべきだとする案を提出した。両者間の調整がつかず、結局採決にもち込まれたが、ここでは12票対11票 (棄権1票)で赤松が勝利した。しかし4月15日の中央委員会では形勢は逆転、52票対61票で敗北した赤松派は直ちに退場すると共に同党を脱党、国家社会主義新党準備会を結成した。赤松が下中らの国民社会党準備会に合流しなかったのは、すでに連絡をもっていた全国労農大衆党の転向派とを合して、国家主義運動の主導権を握ろうとしていたためとみられた。

  労農大衆党で赤松に呼応したのは中央執行委員今村等らの一派であった。今村ら5名は3月11日、「国民の凡ゆる階層の反資本主義勢力を結集し主体勢力を 完成するところの実践的戦略こそ当面の重要問題である」との意見書を党本部に提出したが、それは軍部のファッショ的動向をも反資本主義勢力と評価しようとするものであることは明らかであった。これに対して党本部側はともかくもファッショ打倒の立場を守ろう とし、今村らは結局5月7日脱党して、赤松一派の新党準備会に合流した。これによって無産政党のなかの国家社会主義派が出揃ったことになったが、2つの準備会がつくられたことにみられるように、最初から勢力争いが表面化し、両者の統一は容易ではなかった。 両派の調停工作は、赤松と同時に社民党を脱党した島中雄三を中心にして進められ、5月19日には両派による総合準備委員会を開催するまでにこぎつけた。この委員会では両派が合同して5月29日に結党大会を 行い、党名を「国民日本党」とするところまで話が進んだ。

  しかし両派の主導権争いは、結党大会当日、会場の芝・協調会館に代議員が参集しているにも拘らず、なお役員の配分をめぐって続けられており、結局赤松派の横暴を憤激した下中派はついに自派代議員をひきいて退場し、どたん場で両派は分裂してしまった。会場に残った赤松派は赤松を党務長とする日本国家社会党を、退場派は下中弥三郎を中央委員長、佐々井一晃を 書記長とする新日本国民同盟を結成、ファッショ的時流に乗った国家社会主義運動も最初から分裂した出発となった。

  これに対して彼等が分裂していったあとの社民・労大両党の間では急速に合同の交渉が進展していった。赤松派の脱党した翌日、社民党から早速合同の提議が行われると、労大党も同月26日これを受諾、5月28日から合同協議会が開催されているが、この合同が実現し、社会大衆党が結成されるのは、第62回議会閉会後の7月24日のことであった。これによってはじめて単一の無産政党が成立したことになるが、それはむしろ無産政党運動の縮小・後退の結果であったと言える。

  なお、全国労農大衆党の所属代議士・松谷与二郎は、形式的には同党にとどまっていたが、前年11月、満州事変支持の態度を明らかにして以来党の集会等にも出席せずに国家社会主義運動を準備しており、実質的には脱党状態であった。しかし社会大衆党結成後に至るとようやく態度を明らかにし、8月1日脱党を声明、 9月12日には国家統制経済の確立、国家主義労農組合の創立などの主張をかかげて、新日本建設同盟を結成している。



第六二回議会の召集

 第62回議会は、5・15事件にも拘らず予定通り5月23日に召集されたが、ちょうど斉藤内閣の組閣中であり、6月1日になってようやく開院式が行われた。会期14日間で6月14日に閉会している。この議会の正・副議長、全院・常任委員長、政府側委員、議員の党派別所属は次の通りであった。

議 長   秋田  清(政友・徳島)
副議長   植原 悦二郎(政友・長野)
     
全院委員長   竹内 友治郎(政友・山梨)
     
常任委員長 予算委員長 大口 喜六(政友・愛知)
  決算委員長 樋口 典常(政友・福岡)
  請願委員長 胎中 楠右衛門(政友・福岡)
  懲罰委員長 板野 友造(政友・大阪(
     
国務大臣 内閣総理大臣 斎藤  実
  外務大臣(兼任) 斎藤  実
  内務大臣 山本 達雄
  大蔵大臣 高橋 是清
  陸軍大臣 荒木 貞夫
  海軍大臣 岡田 啓介
  司法大臣 小山 松吉
  文部大臣 鳩山 一郎
  農林大臣 後藤 文夫
  商工大臣 中島 久万吉
  逓信大臣 南  弘
  鉄道大臣 三土 忠造
  拓務大臣 永井 柳太郎
     
政府委員(6・1発令) 内閣書記官長 柴田 善三郎
  法制局長官 堀切 善次郎
  法制局参事官 黒崎 定三
  金森 徳次郎
  外務政務次官 滝  正雄
  外務参与官 沢本 与一
  外務省亜細亜局長 谷  正之
  外務省欧米局長 松島  肇
  外務省通商局長 武富 敏彦
  外務省条約局長 松田 道一
  外務書記官 松宮  順
  内務政務次官 齊藤 隆夫
  内務参与官 勝田 永吉
  内務省地方局長 安井 英二
  内務省警保局長 松本  学
  内務省土木局長 湯沢 三千男
  内務書記官 武部 六蔵
  社会局長官 丹羽 七郎
  大蔵政務次官 堀切 善兵衛
  大蔵参与官 上塚  司
  大蔵省主計局長 藤井 真信
  大蔵省主税局長 中島 鉄平
  大蔵省理財局長 冨田勇太郎
  大蔵省銀行局長 大久保 偵次
  大蔵書記官 川越 丈雄
  関原 忠三
  陸軍政務次官 土岐  章
  陸軍参与官 石井 三郎
  陸軍主計監 小野寺 長治郎
  陸軍少将 山岡 重厚
  陸軍二等主計正 栗橋 保正
  海軍政務次官 堀田 正恒
  海軍参与官 川島 正次郎
  海軍主計中将 加藤 亮一
  海軍少将 寺島  健
  海軍主計大佐 荒木 雅彦
  司法政務次官 八並 武治
  司法参与官 岩本 武助
  司法省民事局長 長島  毅
  司法書記官 黒川  渉
  文部政務次官 東郷  実
  文部参与官 石坂 豊一
  文部省学生部長 伊東 延吉
  文部書記官 河原 春作
  農林政務次官 有馬 頼寧
  農林参与官 松村 謙三
  農林省農務局長 小平 権一
  農林省山林局長 長瀬 貞一
  農林省水産局長 戸田 保忠
  農林省畜産局長 村上 龍太郎
  農林省蚕糸局長 入江  魁
  農林書記官 田淵 敬治
  商工政務次官 岩切 重雄
  商工参与官 松村 光三
  商工省工務局長 竹内 可吉
  商工省鉱山局長 福田 庸雄
  商工省貿易局長 寺尾  進
  商工書記官 北村 保太郎
  製鉄所長官 中井 励作
  逓信政務次官 志賀 和多利
  逓信参与官 立花 種忠
  逓信省経理局長 富安 謙次
  鉄道政務次官 名川 侃市
  鉄道参与官 板谷 順助
  鉄道省監督局長 喜安 健次郎
  鉄道省経理局長 工藤 義男
  拓務政務次官 堤 康次郎
  拓務参与官 木村 小左衛門
  拓務書記官 杉田 芳郎
  朝鮮総督府政務総監 今井田 清徳
  朝鮮総督府財務局長 林  繁蔵 
  台湾総督府総務長官 平塚 広義
  台湾総督府財務局長 岡田  信
  関東庁財務部長 西山 左内
  樺太庁長官 岸本 正雄
  南洋庁長官 松田 正之
     
政府委員追加(会期中発令) 文部省普通学務局長 武部 欽一
  北海道庁長官 佐上 信一
  内閣恩給局長 樋貝 詮三
  大蔵書記官 賀屋 興宣
  営繕管財局理事 太田 嘉太郎
  拓務省管理局長 生駒 高常
  拓務省殖産局長 北島 謙次郎
  拓務省拓務局長 郡山  智
  農林書記官 井野 碩哉
  大蔵書記官 青木 一男
     
党派別所属議員氏名    
     
召集日各党派所属議員数 立憲政友会 301名
  立憲民政党 144名
  第一控室 18名
  無所属 1名
  欠員 2名
  466名
     
立憲政友会(303名) 東京 立川 太郎
  本田 義成
  犬養  健
  鳩山 一郎
  安藤 正純
  伊藤 仁太郎
  磯辺  尚
  国枝 拾次郎
  中野 勇治郎
  三上 英雄
  牧野 賎男
  前田 米蔵
  中島 守利
  津雲 国利
  坂本 一角
  京都 鈴木 吉之助
  鷲野 米太郎
  中野 種一郎
  磯辺 清吉
  長田 桃蔵
  芦田  均
  水島 彦一郎
  大阪 板野 友造
  山本 芳治
  沼田 嘉一郎
  上田 孝吉
  青田 勝晴
  森田 政義
  喜多 孝治
  岩崎 幸治郎
  山口 義一
  井阪 豊光
  神奈川 野方 次郎
  川口 義久
  鈴木 喜三郎
  胎中 楠右衛門
  鈴木 英雄
  河野 一郎
  兵庫 砂田 重政
  中井 一夫
  蔭山 貞吉
  立川  平
  小林 絹治
  多木 久米次郎
  青木 雷三郎
  原 惣兵衛
  土井 権大
  若宮 貞夫
  畑 七右衛門
  長崎 西岡 竹次郎
  向井 倭雄
  志波 安一郎
  森  肇
  佐保 畢雄
  新潟 山本 悌二郎
  田辺 熊一
  松木  弘
  渡辺 幸太郎
  出塚 助衛
  加藤 知正
  高橋 金治郎
  山田 又司
  鈴木 義隆
  武田 徳三郎
  埼玉 秦  豊助
  高橋 泰雄
  宮崎  一
  横川 重次
  長島 隆二
  一瀬 一二
  出井 兵吉
  門田 新松
  群馬 中島 知久平
  青木 精一
  増田 金作
  畑  桃作
  木暮 武太夫
  篠原 義政
  千葉 鈴木  隆
  本多 貞次郎
  川島 正次郎
  鳩山 秀夫
  今井 健彦
  竹沢 太一
  小高 長三郎
  岩瀬  亮
  茨城 内田 信也
  宮古 啓三郎
  葉梨 新五郎
  石井 三郎
  山崎  猛
  飯村 五郎
  堀江 正三郎
  佐藤 洋之助
  栃木 船田  中
  森  恪
  坪山 徳弥
  松村 光三
  岡本 一已
  上野 基三
  奈良 江藤 源九郎
  岩本 武助
  福井 甚三
  三重 加藤 久米四郎
  伊坂 秀五郎
  堀川 美哉
  浜田 国松
  後藤  脩
  愛知 加藤 鐐五郎
  田中 善立
  瀬川 嘉助
  丹下 茂十郎
  山田 佐一
  滝  正雄
  田中 貞二
  小笠原 三九郎
  小林  リ
  大口 喜六
  近藤 寿市郎
  静岡 山口 忠五郎
  宮本 雄一郎
  深沢 豊太郎
  仁田 大八郎
  春名 成章
  勝又 春一
  太田 正孝
  倉元 要一
  山梨 田辺 七六
  川手 甫雄
  大崎 清作
  竹内 友治郎
  滋賀 清水 銀蔵
  服部 岩吉
  仙波 久良
  岐阜 匹田 鋭吉
  大野 伴睦
  佐竹 直太郎
  楠  基道
  牧野 良三
  平井 信四郎
  長野 山本 慎平
  山本 荘一郎
  小川 平吉
  平野 桑四郎
  有馬 浅雄
  高橋  保
  植原 悦二郎
  宮城 守屋 栄夫
  宮沢 清作
  菅原  伝
  佐々木 家寿治
  星  廉平
  大石 倫治
  福島 堀切 善兵衛
  菅野 善右衛門
  八田 宗吉
  小島 智善
  助川 啓四郎
  佐藤 庄太郎
  鈴木 辰三郎
  岩手 田子 一民
  八角 三郎
  熊谷  巌
  志賀 和多利
  小野寺  章
  広瀬 為久
  青森 藤井 達也
  梅村  大
  工藤 十三雄
  兼田 秀雄
  山形 西方 利馬
  高橋 熊次郎
  戸田 虎雄
  熊谷 直太
  松岡 俊三
  秋田 杉本 国太郎
  鈴木 安孝
  片野 重脩
  小山田 義孝
  福井 熊谷 五右衛門
  山本 条太郎
  猪野毛 利栄
  石川 中橋 徳五郎
  箸本 太吉
  青山 憲三
  益谷 秀次
  富山 石坂 豊一
  高見 之通
  島田 七郎右衛門
  土倉 宗明
  鳥取 豊田  収
  矢野 晋也
  島根 島田 俊雄
  沖島 鎌三
  岡山 岡田 忠彦
  横山 泰造
  難波 清人
  大山 斐瑳麿
  久山 知之
  小谷 節夫
  星島 二郎
  白神 邦二
  広島 岸田 正記
  名川 侃市
  渡辺  伍
  望月 圭介
  宮沢  裕
  米田 規矩馬
  森田 福市
  山口 久原 房之助
  保良 浅之助
  庄  晋太郎
  松岡 洋右
  窪井 義道
  西村 茂生
  児玉 右二
  和歌山 木本 主一郎
  玉置 吉之丞
  松山 常次郎
  世耕 弘一
  三尾 邦三
  徳島 紅露  昭
  生田 和平
  秋田  清
  伊藤 皆次郎
  香川 宮脇 長吉
  上原 平太郎
  山下 谷次
  三土 忠造
  愛媛 大本 貞太郎
  須之内 品吉
  森 昇三郎
  河上 哲太
  白城 定一
  清家 吉次郎
  山村 豊次郎
  高知 田村  実
  中谷  貞頼
  林  譲治
  依光 好秋
  福岡 原口 初太郎
  宮川 一貫
  吉田 鞆明
  実岡 半之助
  田尻 生五
  野田 俊作
  貝谷 真孜
  山崎 達之輔
  高倉  寛
  樋口 典常
  内野 辰次郎
  大分 金光 庸夫
  野依 秀市
  塩月  学
  綾部 健太郎
  清瀬 規矩雄
  佐賀 田中 亮一
  石川 又八
  藤生 安太郎
  田口 文次
  熊本 木村 正義
  松野 鶴平
  村田 虎之助
  上塚  司
  三善 信房
  中野 猛雄
  宮崎 佐藤 重遠
  平島 敏夫
  渡辺 与七
  田尻 藤四郎
  水久保 甚作
  鹿児島 原  耕
  床次 竹二郎
  蔵園 三四郎
  井上 知治
  中村 嘉寿
  東郷  実
  崎山 武夫
  天辰 正守
  寺田 市正
  金井 正夫
  津崎 尚武
  永田 良吉
  沖縄 金城 紀光
  花城 永渡
  崎山 嗣朝
  竹下 文隆
  北海道 寿原 英太郎
  丸山 浪弥
  岡田 伊太郎
  東  武
  林 路一
  田中 喜代松
  佐々木 平次郎
  林 儀作
  板谷 順助
  松実 喜代太
  松尾 孝之
  三井 徳宝
  尾崎 天風
  木下 成太郎
     
立憲民政党(144名) 東京 高橋 義次
  三木 武吉
  大神田 軍治
  駒井 重次
  中島 弥団次
  頼母木 桂吉
  柳田 宗一郎
  鈴木 富士弥
  高木 正年
  斯波 貞吉
  中村 継男
  佐藤  正
  八並 武治
  京都 中村 三之丞
  川橋 豊治郎
  田中 祐四郎
  大阪 一松 定吉
  枡谷 寅吉
  竹田 儀一
  内藤 正剛
  広瀬 徳蔵
  中山 福蔵
  本田 弥市郎
  吉川 吉郎兵衛
  勝田 永吉
  松田 竹千代
  神奈川 戸井 嘉作
  三宅  磐
  小泉 又次郎
  岩切 重雄
  平川 松太郎
  兵庫 野田 文一郎
  浜野 徹太郎
  中 亥歳男
  前田 房之助
  原 淳一郎
  田中 武雄
  斎藤 隆夫
  長崎 中村 不二男
  中川 観秀
  牧山 耕蔵
  中田 正輔
  新潟 山田 助作
  佐藤 与一
  原 吉郎
  増田 義一
  埼玉 松永  東
  高橋 守平
  野中 徹也
  群馬 飯塚 春太郎
  清水 留三郎
  木桧 三四郎
  千葉 多田 満長
  鵜沢 宇八
  土屋 清三郎
  茨城 豊田 豊吉
  中井川 浩
  栃木 高田 耘平
  岡田 喜久治
  栗原 彦三郎
  奈良 八木 逸郎
  松尾 四郎
  三重 川崎 克
  松田 正一
  池田 敬八
  愛知 小山 松寿
  横山 一格
  西脇 晋
  加藤 鯛一
  武富  済
  静岡 海野 数馬
  平野 光雄
  岸  衛
  永田 善三郎
  井上 剛一
  山梨 福田 虎亀
  滋賀 堤 康次郎
  青木 亮貫
  岐阜 清  寛
  古屋 慶隆
  長野 小坂 順造
  松本 忠雄
  小山 邦太郎
  鷲沢 与四二
  戸田 由美
  百瀬  渡
  宮城 内ヶ崎 作三郎
  村松 久義
  福島 林 平馬
  鈴木 虎彦
  比佐 昌平
  岩手 高橋 寿太郎
  青森 工藤 鉄男
  菊地 良一
  山形 佐藤  啓
  佐藤 理吉
  清水 徳太郎
  秋田 田中 隆三
  町田 忠治
  猪股 謙二郎
  福井 斎藤 直橘
  添田 敬一郎
  石川 永井 柳太郎
  桜井 兵五郎
  富山 野村 嘉六
  松村 謙三
  鳥取 山枡 儀重
  島根 桜内 幸雄
  木村 小左衛門
  原 夫次郎
  俵 孫一
  岡山 小川 郷太郎
  広島 荒川 五郎
  藤田 若水
  山道 襄一
  田中 貢
  作田 高太郎
  横山 金太郎
  山口 藤井 啓一
  沢本 与一
  和歌山 小山 谷蔵
  徳島 谷原  公
  真鍋  勝
  香川 戸沢 民十郎
  矢野 庄太郎
  愛媛 武知 勇記
  村上 紋四郎
  高知 川淵 洽馬
  福岡 田島 勝太郎 
  高野 喜六
  勝 正憲
  大分 松田 源治
  重松 重治
  佐賀 池田 秀雄
  森  峰一
  熊本 大麻 唯男
  伊豆 富人
  深水  清  
  沖縄 伊札  肇
  北海道 山本 厚三
  坂東 幸太郎
  大島 寅吉
  手代木 隆吉
  小池 仁郎
     
第一控室    
     
     〔社会民衆党〕 東京 安部 磯雄
  福岡 亀井 貫一郎
  小池 四郎
     〔全国労農大衆党〕 東京 松谷 与二郎
  大阪 杉山 元治郎
     〔革新党〕 兵庫 清瀬 一郎
  新潟 大竹 貫一
     〔無所属〕 東京 朴  春琴
  京都 福田 関次郎
  茨城 風見  章
  三重 尾崎 行雄
  愛知 鈴木 正吾
  福島 中野 寅吉
  鳥取 由谷 義治
  高知 富田 幸次郎
  福岡 中野 正剛
  熊本 安達 謙蔵
  北海道 山本 市英
  岐阜 後藤 亮一

なお、この議会の会期中、志波安一郎(政友・長崎) が死去したので、政友会300名、欠員3名となった。




衆議院の状況


 この議会では、政友・民政両党ともに斉藤内閣に閣僚を送り、準与党的立場に立っていたため、後述する農村救済問題以外には全く波らんなく終わった。政府から提出された主要な案件は、昭和7年度追加予算案・歳入補填のための公債発行法案・兌換銀行券条例改正 法案・関税定率法改正法案・資本逃避防止法案など、前内閣以来、高橋蔵相によって準備されていたものであった。その他のものとしては、ちょうど議会開会頃から問題化した滞貨生糸の処理をめぐり、後藤農相の下で作成された糸価安定融資担保生糸買収法案・糸価 安定融資損失善後法案が急きょ上程されたが、いずれも問題なく可決成立している。この議会で審議未了に終わった政府提出法律案は、21件中わずか2件にす ぎなかった。

  また、5・15事件の直後の議会であり、斉藤内閣の組閣過程で政友会から憲政擁護の叫びがあがったこ ともあって、軍部の政治関与、荒木陸相留任などの問題に対する追及も注目されたが、わずかに予算総会で宮脇長吉(政友・香川)らが触れただけで、迫力ある議論は全くみられなかった。

  政党の側ではむしろ、政党政治否認の風潮に反撃するよりも、自粛自省の態度を示してこの嵐を避けようとする姿勢の方が強かった。6月4日の議会散会後に、秋田議長の呼びかけに応じて、議会振粛委員会の第1回会合が開かれたのは、このような姿勢を端的に示すものであった。同委員会には政友会=山口義一・久原房之助・浜田国松・森恪・島田俊雄、民政党=小泉又次郎・頼母木桂吉・松田源治・山道襄一・小山松寿、第一控室=清瀬一郎らの幹部クラスが集まっているが、 第1回会合で植原副議長が、(一)議会会期の延長、(二)政 治教育の普及、(三)選拳法の改正の3項目を提案していることからもうかがえるように、問題は大きく言えば、(一)議会制度及び運営方法の改善、(二)選挙制度の改革と いう2つの方向で考えられていたということができる。 この委員会は問題の多い第2の問題(選挙法の改正)を 分離し、第1の問題について討議を重ね、この議会終了後の7月15日には「議会振粛要綱」をまとめている。しかしこの時期には、選挙法をめぐる論議も活発になっており、以前から主張されていた選挙公営論に加えて、比例代表制の採用という論点がクローズ・アップされてきたのが大きな特色であった。

  すでに第61回議会直後に、犬養首相は比例代表制を中心とした選挙法改正案を、年末召集の通常議会に提出したいとの意向を明らかにし、これをきっかけと して、政・民両党や内務省事務局でも、比例代表制論議が盛んになった。犬養は5月8日政友会関東大会で総裁として演説、この問題については、選挙法「改正の要旨は選挙費を減少せしむる事、各階級各種類の代表者を選出せしむる事、死票あらしめざる事の目的を以て比例代表制を設定したいのである」(東朝、5・9) と述べている。しかしこの主張に対しては「元末大政党の勢力を弱めて小党並立の勢を作るに役立つ比例選挙を、大政党から進んで提唱せんとするに至ったのも、純真な動機から主義に共鳴するといふよりは、寧ろ不評判の極にある現在の議会政治に兎に角転換を試みて人気の一新を計らんとする機略にある。……比例代表制採用理由の重点を選挙費用軽減に置いて居る犬養首相等の論調からして、副作用と主作用とを混同する浅薄さを認めざるを得ない」(東朝、4・27社説)といった批判があり、内務省側も必ずしも乗気ではなかった。鈴木内相は5月12日犬養首相と選挙法問題について意見を交換したが、その際内相は比例代表制の採否は軽々に論断すべきではないとし、首相の言動があたかも政府が比例代表制採用を決定しているかの如き印象をあたえるとして注意をうながしている。

  たしかに選挙費用軽減という観点から言えば、比例代表制よりも選挙公営の方が直接的であり、選挙公営をめざす動きも一段と活発となってきた。例えば内務省では地方局が比例代表制を研究しているのに対して、警保局では、「選挙は総てこれを公営とし国が文書による運動をも代行し、個人の選挙運動は絶対にこれを 禁止すること」という選挙公営案を立案していると報ぜられている(東朝、4・26)。この議会でも清瀬一郎(革新党・兵庫)が提出した選挙法改正案は公営の実現を中心とするものであり、市町村の設営する演説会及び履歴・意見の掲示・無料郵便物の発送だけに選挙運動を限定しようとするものであった(速記録第5号参照)。結局、政府はこの議会において、法制審議会に選挙法改正を諮問し、その答申をまって、改正案を 議会に提出する方針を明らかにした。浜口内閣期に問題となっていた選挙権拡張(「第五九回帝国議会衆議院解説」参照)についても、清瀬案には選挙権年令の25歳から20歳への引き下げが含まれ、また安部磯雄(社民党・東京)からは、婦人参政権の実現をめざす改正案が提出されているが、しかしすでに選挙法論議の焦点は比例代表制か選挙公営かに移っており、選挙権拡張問題は次第にかえりみられなくなっていった(清瀬・安部案とも審議未了に終わる)。

  選挙法論議のこうした傾向は、対外政策面で軍部に追随しながら、なんとか政党の地位を立て直そうという動きをあらわすものであったが、この軍部への追随への側面はこの議会で満州国即時承認要求の決議案を成立させることになった。議会開会中の6月9日には本庄関東軍司令官が7日付けで陸軍首脳部に対し、即時承認を要請する長文の電報を打電したことが伝えられ(東朝、6・9)、また11日に上京した内田康哉満鉄総裁は翌日斉藤首相と会談して満州国を1日も早く承認する必要があるとの意見を具申した。そしてこう した動きに呼応した政・民両党は、共同して会期最終日の6月14日に「政府ハ速カニ満州国ヲ承認ス可シ」 とする決議案を上程し、この決議案は満場一致で可決 されている。そしてそれは政党勢力のなかから、軍部への抵抗の姿勢が消滅しつつあることを示したものでもあった。



農村救済問題


 この議会のもう1つの大きな特色は、農村恐慌が深刻となるなかで、農村救済請願運動の波が議会に押し寄せ、議会内部の雰囲気にも大きな影響を及ぼしたことであった。同時にまたこの運動が5・15事件とも思想的につながる長野朗らの農本主義者によって起こされたことも、注目すべき現象と言えた。長野は大川周明の主宰する行地社の主要メンバーの1人であり、最初の全国的右翼政党・日本国民党の結成(昭4・11)にも中央委員として参加しているが、同時に権藤成卿に私淑する農本主義者でもあった。彼は昭和7年4月には、政治的には「社稷体統公同自治」、経済的には「共存互済」のスローガンをかかげる自治農民協会の組織を提唱したが、同時に和合恒男(日本農民協会)、稲村隆一(全農新潟県連)らと共に、第62回議会に向け、(一)農家負債3ケ年据置、(二)肥料資金反当1円補助、(三)満蒙移住費5000万円補助の3項目を請願する「三ケ条請願期成同盟会」を組織していた。

  この運動による請願書は議会開会と同時に続々と議会事務局に持ち込まれ、たちまちマスコミの注目する ところとなった。東京朝日は6月3日付け紙面に「惨苦から救へと 農民血涙の叫び 3万余名議会へ請順」と四股抜き見出しで報じた。この運動の成功は当時50億円も累積されているといわれた農家負債の問題をつき、端的に農村モラトリアムを主張したことによっていた。請願運動参加者は「帝国農会の農村救済などはお茶にごしで、貧農は一文の利益だってないのだ、低利資金の融通などで利益するのは地主と銀行だけで小作人には露ほどのおこぼれだってない」(東朝、6・ 5)と語っている。そしてこの運動が大きな反響を呼ぶと、各種の農村団体も一せいに議会に向けて動き出してきた。そしてこうした運動の高まりは、各党派を も大きくゆさぶることとなった。

  6月7日の農村出身有志代議士会は、各派から70余名が出席して、3年間モラトリアム実施を決議しているが、地主の利益を害するモラトリアム論が、大政党で支配的となることはあり得なかった。といって事態を放置することはできないとする雰囲気は強く、政府 に早急に対策を立てさせて速かに臨時議会を開くという意見は政・民両党からおこってきた。しかし、とくに農村を主要な地盤とする政友会では、この際何か思い切った案を出して人気の回復をばかりたいとする気分が強く、6日の臨時幹部会では、モラトリアム・米専売制・平価切り下げ・肥料の国営などが論議されたが、次第に平価切り下げ案に傾き、7日には山崎達之輔・大口喜六・島田俊雄・森恪・東武・浜田国松・久原房之助・山口義一の八幹部による小委員会が作られた。そしてこの小委員会では平価切り下げ、それも半分とか3分の1とか言うのではなしに、思い切って5分の1に切り下げることを農村救済政策の基礎にすべきだとする議論が支配した。それは理論的根拠や現実的効果を問題にしたものではなく、農民たちに、農産物価格が5倍にばねあがり、従って負債が実質的に5分の1に切り下げられるかの如き幻想を与えることを ねらったものであった。小委員会はこの平価切り下げを柱とする農村救済決議案を提出することを翌八日夜の幹部会に提議した。幹部会ではさすがに5分の1切 り下げには異論が出たが、その部分を除いた次のよう な決議案の提出が承認されたという。当時の農村対策に関する論議が列挙されている形になっているのも興味深いので全文引用しておきたい。

「現下の疲弊せる農村の不況を打開し経済界の安定を図るの根本対策は貨幣制度の改正(平価切り下げ)を断行するにあることを明らかにし、更にこれを加ふるに

一、

農村負債整理組合を創設し、その事業を助成する

二、

年利3分以下の資金1億円を融通し、高利借換へ並びに長期年賦貸付けをなすこと

三、

農地金庫制度を創設し大規模の自作農創設維持をなすこと

四、

農家の負担軽減を行ふこと

五、

米専売又は米価制度の根本的改正等その統制を行ふこと

六、

国有開墾その他地方開発事業を促進すること

七、

肥料国営又は管理を断行すること

八、

蚕糸業統制を行ふこと

九、

飢餓に瀕せる窮民に対し政府在庫米の配与を行ふこと

の諸対策の急行を必要と認む

 よって政府はこれらの諸政策実現のため2ケ月以内に臨時議会を召集すべし」(東朝、6・9)この貨幣制度の改正=平価切り下げという主張は、貨幣理論の無知としてマスコミからも批判されたが、政府部内では同じ政友会出身の高橋蔵相・三土鉄相から強硬な反対意見が出された。9日夜の政友会幹部会 に出席した三土は、「金輸出禁止の現状において平価切り下げを行ふが如きは全くの暴論である。たとひ平価の切り下げを行ったとしても高物価対策の実現は期し難い。寧ろこの変態的な平価切り下げによって経済界の動揺を引き起こすのみである。従って本決議案中の貨幣制度の改正を削除せざる限り木決議案には反対である」と述べている(東朝、6・10)。同幹部会では2時間半にわたる激論がたたかわされたが、結局鈴木総裁一任ということになった。政友会側とすれば、派手な人気とり政策を打ち出したいどころであったが、といって斉藤内閣とこの問題で正面から対決する積りもなかった。問題の処理を任された鈴木は、斉藤首相と会談したものの政府側の態度は変らず、10日鳩山文相を通じて、(一)平価切り下げには絶対反対、従って「貨幣制度の改正」を削除して「通貨融通の円満を計る」という程度とする、(二)臨時議会召集を「ニケ月以 内」から「なるべく速かに」と改める、という政府側の意向が伝えられると、ついにこれを全面的にうけいれてしまった。

  結局、決議案は「政府ハ現内閣成立ノ使命ニ鑑ミ時局匡救ニ適切ナル経済施設ト人心安定ノ対策ヲ遂行スル為、成ルヘク速カニ更メテ臨時議会ヲ開キ通貨流通ノ円満、農村其ノ他ノ負債整理、公共事業ノ徹底的実施、農産物其ノ他重要産業統制等ニ関シ必要ナル各般 ノ法律案及ビ予算案等ヲ提出スヘシ」との文言となり、 6月13日の本会議に提出されて満場一致で可決された。平価5分の1切り下げなどと騒ぎ立てたかと思うと、政府の意向を丸のみにして妥協するという政友会の態度は、またまた非難の対象となったが、しかし衆議院の決議によって臨時議会が開かれるというのは、 はじめての出来事であった。そして8月下旬にはこの年3度目の臨時議会として、第63回議会が開かれるに至った。

(古屋哲夫)