岩波講座日本歴史20(第2次)近代7

1976年7月

印刷用ページはこちら



日 本 フ ァ シ ズ ム 論


 

古屋 哲夫


はじめに

1 ファシズム把握の歴史的枠組み
2 日本ファシズムの胎動
3 日本ファシズムの形成過程
4 日本ファシズムの政治構造
注釈



1 ファシズム把握の歴史的枠組み



 ファシズムは、大まかに言えば、第一次大戦後の資本主義社会の動揺、ベルサイユ体制と呼ばれた資本主義国家間の国際的関係、ロシア革命につづくコミンテルン型世界革命運動の展開という三つの歴史的条件を前提として形成されてきたものであった。したがってファシズムが、これらの先行する歴史的条件との関連で捉えられなければならないことは言うまでもないが、その際に特徴的なことは、これらの諸条件に対する「攻撃」としてファシズムが登場してくるという点にあり、ここにファシズム形成の基本的契機を見出すことができる。

 ファシズムはまず第一に、ベルサイユ体制―極東で言えばそれを補完するワシントン体制―に対する攻撃であった。イタリアにおいてもドイツにおいても、ベルサイユ講和に対する抗議や不満が、ファシズム形成の基盤となったことは、あらためて繰返すまでもないことであろうし、日本においてもまた、米英本位の平和を白人帝国主義の支配と捉えなおしながら、ベルサイユ=ワシントン体制への反感や憎悪を引出し動員することが、ファッショ化過程の基底をなしていた。さらにまた各国のファシズムは、ベルサイユ体制の柱である国際連盟からの離脱という形で、連動しながら成長するのであった。逆に言えばファシズムはベルサイユ体制なしには生れえなかったとも言える。

 同様の国際的契機は、ファシズムの革命運動に対する関係においてもみられた。ファシズムは多くの論者によって、反革命あるいは予防反革命などと評されているが、ファシズムの反革命性とは革命一般への敵対ではなく、コミンテルンという単一の指導部によって指導される世界革命運動への敵対を軸として形成されていることに注目しておかなくてはならない。たしかに各国共産党を支部として世界革命を展望しようというコミンテルンの出現は、世界史の上に全く新しい局面をつくり出したものであった。コミンテルンは各国の既存の革命運動を求心的に統合すると同時に、その世界革命戦略に見合う形で各国の革命党の組織化を積極的に指導しようとしていた。そしてそのことによって、各国の革命運動を一国内の自生的な運動の場合には予想できない程のスピードで発展させるという場合が起りえた反面、自国の外に最高指導部をもつという組織のあり方が、それぞれの国の支配層にその実勢力以上に自国の革命運動をおそれさせ、憎悪させることになり、またナショナルな形で存在した大衆感覚からの反発をひきおこすことにもなるのであった。

 ファシズムはこうしたコミンテルン的インターナショナリズムの対極をなすものとして自らを形成する。すなわち、抽象的理論としての共産主義ではなく、具体的存在としてのソ連=コミンテルンを主要な敵とすることによって、ファシズムは国家・民族あるいは人種を至上とするイデオロギーをうち出し、それによって大衆を煽動しながら登場してくるのであった。そこでは共産主義者は外国(ソ連)の手先と表象されることになる。そして、ファシズムを特徴づける反ソ・反コミンテルン的国家・民族主義の強烈さは、自国の支配層のみならず、資本主義国家全般の支配層からファシズムに対する融和的態度を引出すことを可能にするものであった。同時にまたコミンテルンに対する敵対という共通項は、権力を握ったファシズムの国際的結合を実現する契機ともなり、あるいは日本の場合のように、中国の民族運動をコミンテルンの影響下にあるものとして攻撃するといった事態もおこりえたのであった。

 しかしこうした反ベルサイユ体制・反コミンテルン的態度ということだけならば、資本主義諸国の保守的支配層のなかに広汎に存在していたものであり、ベルサイユ体制とコミンテルンへの攻撃がファシズムの基底をなしていたにしても、ファシズムはたんにこの点だけで捉えうるものではなかった。ファシズムを単なる保守反動から区別する決定的要因は、ファシズムと大衆との関係に求められなければならないであろう。そしてそれはそれぞれの国家あるいは社会の動揺・混乱の程度と深くかかわる問題でもあった。

 ここで国家・社会の動揺・混乱とは、革命運動ないし階級的大衆運動、あるいは経済的破綻によって、既成の秩序・制度が混乱し、在来の支配勢力が有効な対応能力を失い、したがってそこから大衆の支配・制度への不信感が広まっているといった状態を指している。ファシズムはこうした状態のもとで、大衆の不信感を煽り、動員し、無能な支配勢力に代って混乱を回復し大衆を救済することのできる「力」の持主として自らを顕示しつつ登場することになる。そしてファシズム運動が「力」の讃美へと大衆を誘導しつつ、大衆を「直接に」組織化してゆくにしたがって、情勢を打開する見通しを立てえなくなっていた支配勢力は、むしろこうしたファシズムの「力」に追随することによって、ファッショ体制のなかで自らの利益を維持しようとする方向に転じてゆくのであった。

 もちろんこのファッショ化の過程を進展させるためには、実際に大衆の前で「力」の行使に成功することが必要であった。そしてどの方向に「力」を行使するかは、それぞれの社会における動揺の性質および大衆の政治への不信感のあり方と相関的であり、この点の相異から各国のファシズムの性格のちがいが結果されてくるのであった。たとえば既存の支配機構が階級闘争の激化を防ぎ得なくなったイタリアの場合には、労働運動の暴力的粉砕からローマ進軍へという形でファシスト政党の力が誇示される。これに対して、植民地支配を維持しえない(「満蒙の危機」)無能な政府、恐慌に対して有効な対策を立て得ない腐敗した政党・財閥という形で大衆の不満が蓄積されていた日本の場合には、「満州事変」という武力行使と血盟団事件、五・一五事件といったテロとによって、ファシズムヘの道が開かれたのであった。したがってこのファッショ化過程のちがいは、ファシスト政党の有無という形に言いかえることもできる。

 すなわち、既成の権力機構が階級闘争の激化に有効に対処しえなくなったという場合には、ファシストの暴力が大衆運動を統制する事実上の権力になるわけであり、そこから中央権力の奪取をめざすファシスト政党が生れてくることは必然であった。そしてそこでは、先行する共産党あるいは社会主義政党と、それに対抗しておこってきたファシスト政党とが大衆を奪い合うことになるのであり、「ファシズムはマルクス主義と『革命』を競合したと見ることができる(1)」 という局面さえあらわれてくるのであった。したがってドイツやイタリアの場合には、ファシズムの形成過程は、こうしたファシスト政党の成立とそれが権力を奪取してゆく過程としてみることができる。

 これに対して日本の場合が著しく異っているのは、日本の権力機構は大衆運動・革命運動を抑圧する力を失わず、ファシストの手をかりるまでもなく、そうした運動を鎮圧し、あるいは体制内在化する力を維持しつづけたという条件のちがいによるものであった。共産党は特高警察により壊滅させられたし、その他の大衆運動も、警察機構を無力化させ、あるいは従属化させるまでの力は持ちえなかった。つまり大衆運動のレベルにおいて、ファシストの暴力が必要とされなかったが故に、ファシスト政党は情勢を左右する力のない、極めて小規模なものとしてしか成立しえないままに終ったのであった。

 したがってファシズムをファシスト政党という指標をもってはかるとすれば、日本ではファシズムは勝利しなかったと言うほかはない。しかしファシズムを他の独裁形態から区別する決定的な特徴は、大衆を日常生活のレベルで画一的に組織し、一切の抵抗を根源から封殺し、権力の意のままに国民を動員してゆくという点にみるほかはない。議会主義の否定もこのことから必然的に結果されるのであり、この画一的組織化の問題を除いてしまえば、ファシズムと反動とを区別することは出来なくなる。また資本主義との関係から言っても、ファシズムが「革命」を唱えた場合でも、そこでは資本主義的生産様式の変革が原理的に提起されているのではない。ファシズムにおける変革とは、常に国民の統制と動員のための組織化として捉えられているのであり、反資本主義的スローガンも、ブルジョアジーをこの全体的組織化路線に追随させればこと足りたのであった。言いかえれば、ファシズムにとっては、階級闘争の根絶と生産力の拡大・集中(とくに軍需への)という二つの課題を、いかにして同時に達成するのかが問題であった。つまり、ファシズム形成期にあらわれる反資本主義的スローガンは、大衆の不満を階級闘争否定の方向に組織することを目的とするものであり、したがってファシズムが権力を掌握する次の段階では、資本家をもふくめて、階級闘争を再発させない体制をつくりあげることが、「反資本主義」の内容となるわけであった。階級闘争の否定は、いうまでもなく資本主義経営にとっての利益であり、そこにファシストとブルジョアジーとの妥協の条件をみることができる。ファシズムを他の独裁形態から区別するものは、こうした全体的組織化そのものであり、その過程がファシスト政党によって担われるかどうかではない、といわねばならない。

 大衆的ファシスト政党は成立しなかったとはいえ、日本においてもファシズムに向う組織化の起点はやはりコミンテルンへの対抗であった。つまり、天皇制というきわめてイデオロギー性の強い支配体制が形成されていた日本の場合には、コミンテルン=共産主義運動の出現は、大衆運動のレベルで影響力をあらわす以前に、すでにイデオロギーのレベルにおいて強烈な衝撃をもって受けとられたのであった。そしてそこからただちに、共産主義の温床とみられる思想や生活態度そのものの攻撃へと民衆意識を動員してゆこうとする対応が生れてくることになった。それは共産主義運動の実勢力から言えば過敏とも言える反応であるが、そこには当時の日本における天皇制イデオロギーが共同体的意識の広汎な残存と結びついているという条件がはたらいていた。つまり元来外からの刺激に敏感な性質をもつ共同体的意識は、外からの思想的侵略=思想的外患(2)としての共産主義を粉砕するためにただちに動員することが可能であったとも言える。しかしこの動員は共同体的なものの強化により、共産主義の温床そのものを除去しようという方向を志向することになるのであり、したがって共同体的なものの対極にあると考えられた都市文化・自由主義・個人主義などが共産主義の温床として早くから攻撃の対象とされるのであった。そしてそれがファッショ的組織化の一つの基盤をなすものであることは言うまでもないであろう。

 しかしこれだけのことではまだ保守反動の段階にとどまるのであり、ファシズムに至るには、この反共意識が既成の体制への不信を媒介にして国家の強化を要求するという方向に動員されることが必要であった。そして日本の場合には、「アジアの盟主」論による対外的使命感の形成と、蓄積された内外からの抑圧感の爆発とがこの過程を生み出す軸となったということができる。

 すなわち、国際的にはワシントン体制が、海軍軍縮の比率にあらわされるような米英の優位を維持し、同時に中国の排日運動の高揚を結果するような、日本に対する抑圧の体制として捉えられ、国内的には、戦後恐慌以来の慢性的不況から一度も回復することなしに世界大恐慌のなかにおち込んでゆく過程で、既成の政治指導者への不信感が蓄積されてくるのは必然であった。そしてこうした抑圧感や不信感が国際協調主義や議会主義によっては解消されずに、内外の行詰りを一挙に解決するような強力な体制を期待する方向に吸収され、ファシズムを生み出してゆくことになるのであった。それはイデオロギーの側面で言えば、共同体的意識を軸とする反共的組織化と、アジアの盟主論による侵略の正当化とが、天皇制を価値づける形で結合してゆく過程でもあり、政治的に言えば、軍部・官僚・政党それぞれのなかからあらわれた対外強硬派が、民間右翼を媒介としながら結合し、軍事侵略を実現してゆく過程でもあった。そして陸軍部内の強硬分子による「満州」侵略の開始は、こうしたさまざまな動きを反議会主義的方向に誘導し、ファッショ化過程を引出し、軍部をファッショ化の主導的地位に位置づけたのであった。

 しかしそれは軍部が、各分野から登場してきたファッショ的勢力を一つの統一ある勢力にまとめあげたと言うことではなかった。そこからは、軍部の意向を無視しては何一つ実現されないにもかかわらず、軍部の側では主体的な戦争構想さえ生み出すことができないという奇妙な事態があらわれたのであった。そしてこうした事態のもとでは、国民の組織化を強化し総力戦の要請に応ずることによって、軍部に対する発言力を強化しうるかの如き幻想が生れる。しかし結局のところ、国民に対しては、生活様式から意識形態までをも規制し、意のままに動員するというファッショ的独裁形態がつくり出されたにも拘らず、それはついに、統一的政治指導を生み出しえないままに崩壊することになるのであった。以下こうした日本ファシズムの鞁行性とでも言うべき現象に焦点を合せながら、紙幅の許される範囲において、日本ファシズムの形成過程を明らかにしていきたい。

「2 日本ファシズムの胎動」へ