『帝国議会誌』第22巻

1977年4月

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第六七回帝国議会 衆議院解説


 

古屋 哲夫

 

秋田議長の辞任と政友会脱党
国策審議機関設置問題
第六七回議会の召集
議長・委員長選挙をめぐって
広田外交と軍部

爆弾動議の後始末
地方財政調整交付金問題
五〇万元事件、その他
国体明徴決議案
重要法案の成否



秋田議長の辞任と政友会脱党

 第66回臨時議会で、政友会主流派幹部が突如として、1億8000万円の追加予算を要求する爆弾動議を提出しながら、あいまいな形で政府と妥協したことは、つづく第67回議会にさまざまな影響を及ぼすことになった。

  まず爆弾動議をめぐる主流派幹部の独走は、政友会内部の派閥抗争を一挙に激化させることになったが、第66回議会が閉会した3日後の34(昭和9)年12月12日には、秋田清衆議院議長が議長を辞任すると同時に政友会をも脱党、政界に大きな衝撃を与えた。 秋田は「今後一身を自由の境地に置き……政治関係における過去一切を清算してこれから出直したい」(東朝 12・13付夕刊)との声明を発表したが、「秋田君脱党の真意は政友会の大動揺、新党樹立、政党分野の変質の先物買ひをした」(東朝、12・13)ものとみられた。秋田白身も前議会末期の12月3日原田熊雄に対して、すでに次のように語っていたと言われる。

 

「今日の政友会は、まるで久原が事実上の総裁で、鈴木は名誉総裁のやうなものだ、鈴木といふ人は、甚だ済まん話であるが、まづ低能児と見ていい。久原には川村とか宮田とか木下とか芳沢といふやうな連中が附いて、事々に前田等の穏健派を圧迫してかかって、いはゆる往年の鳩山のやうな状態になっている。……で、今日のやうな既成政党のていたらくでは、国の政治は到底救はれないと思ふ。自分は、真に国家のために何等の私心のない新たな政党を組織して、国民の付託に添ひたいと思ふ。謂はば中正派といふやうなものを作りたい。恐らく少くとも三四十人は出朱ると思ふ。或は五六十人出米るかぢしらん。一方前田の力によって、高橋、床次を中心とする政友会内の所謂反久原、反鈴木の連中が集まって、150人は優に取れると思ふ。なお民政党でも、富田一派以外のほとんど全部は来ると思ふから、この3つの団体が一緒になれば、優に反政府党を凌駕する」(「西園寺公と政局」第4巻、135〜6頁)


 原田はまた「松岡洋右あたりからしきりに電信が来て、秋田の蹶起を促している。……秋田は軍部との関係では、荒木を目がけているやうだ」(同前、136頁)とも述べているが、秋田の意図は、親軍的な新政党を 樹立するとともに、政友会の分裂を促して、政界再編成の気運を高めようとする点にあったとみられる。当時の政友会では、鈴木総裁派と久原派とが握手して主流派を形成し、これと旧政友系と呼ばれた勢力が対抗 していたが、秋田の脱党は、爆弾動議以来、主流派への不満を強めていた旧政友系の動きに強い刺激を与えるものであった。   
  「岡崎(邦輔)、望月(圭介)、山本(条太郎)、三土(忠造)、前田(米蔵)等諸氏の旧政友系は、従前から鈴木総裁に対しては勿論いい感情をもっていなかったが、床次氏除名以来、意中の後継総裁の目標を失ったので、総裁不信任を強調すれば旧政友系のもっとも好まざる久原氏の野望を実現せんとする恐れなしとせずと見て、党の円満第一主義から鈴木総裁に対しても不即不離の自重的態度を執っていたが、爆弾動議問題の起るに及んで、鈴木総裁のやり方を放任して置けば政権が政友会に来ないといふ問題のみでなく、全く公党の威信を失って政友会は自滅の外なしとみて、従来の自重的態度を一擲し党の建直しのため積極的に乗り出さざるを得ずとなす意向が濃厚に動いていたから、今回の秋田氏の行動はこの党内革新運動に拍車を加へ、旧政友系の活動を活溌ならしむるに至るだらうといふ点で注目さるべきものとされている」(東朝、12・13) こうした旧政友系の動きを背景として、岡田内閣に入閣して政友会から除名された床次らによる新党樹立運動の噂も流れ始めた。とくに内田信也鉄相は高橋是清をかついで、政友会の半分をとり、民政党・国民同盟の一部をも加えた大政党をつくろうと画策し始めたとも伝えられた。もちろんこうした動きは、次の総選挙をどう戦うかという思惑と結びついたものであり、 この時点ではなお、高橋は今更新党の総裁になる気はなく、床次も慎重にかまえていたので、新党運動は表 面化しなかったものの、いざ解散、という事態にでもなれば、政友会が分裂する可能性は大きいとみられていた。



国策審議機関設置問題

  こうした政友会の弱体化は、政府側に国策審議会構想を具体化させる条件にもなっていた。この問題は、組閣過程で政友会の支持をえられず、挙国一致の形を ととのえることに失敗した岡田内閣の補強策として考えられたものであったが(「第六六回帝国議会衆議院解説」参照)、閣内ではその具体化について2つの意見が あらわれていた。すなわち当初から審議会設置を提唱 した床次逓相・町田商相らの政党出身閣僚は、対政党工作をも加味し、政財界の大物を集めた大がかりな審議会を考えていたのに対して、後藤内相らの官僚系閣僚は、実務的な調査能力を持つブレーン・トラスト的なものにすべきだと主張した。しかし両者の間で妥協がはかられ、国策審議会が対政党工作のものでないことを明確にし、調査機関を審議会の下におくという点で意見の一致をみた。

  そこで、床次・町田・後藤三相は、10月26日の定例閣議散会後、岡田首相と会談、正式に国策審議機関を設置するよう進言した。岡田もこれをうけて、吉 田内閣書記官長に原案の作成方を命じ、問題は具体的に進展することになった。当時三相間で諒解された組織案は「審議会を諮問機関とし、挙国一致の建前により各方面の大人物を網羅して権威あるものとし、その下にエキスパートを集めて調査機関を設け政策み立案に当らしめんとするもの」(東朝、10・27)と報ぜ られていた。はじめ政府側には、第65回臨時議会に審議機関新設のための追加予算を提出して、早急にその実現をはかろうとする意向もみられたようであるが、予算編成が難航したため(「第六六回帝国議会衆議院解説」参照)、結局問題は第67回議会にもちこされることになった。

  第67回議会召集も目前に迫った12月21日、床次・町田両相は、この問題が進展し始めてから入閣(11・27)した高橋蔵相と会談し、これまでの経緯を 説明して賛成を求め、審議機関設立の促進をはかった。その結果、12月24日の閣議において、岡田首相から、 国策樹立のための審議会及び調査機関の設立が正式に提義され、次のような方針が決定された。

 

「一、追加予算を今議会に提出し、議会後に委員の任命を行ふ

一、これが実現に関連する政治情勢については特に考慮すべきであるが、あへて政治的工作を行はず、 追加予算に対して如何なる党派もこれに反対し得ざるが如き構成のものとすること

一、審議会は政治的意義を有するものではなく、国策の樹立遂行を目標とし、恒久性のある施設とす ること

一、審議題目は国策万般に亙り、特に国防、外交に関しても、今日国策を論ずるに外交国防を離れてこれを議する事を得ない。よって統帥権に関係せざ る範囲において国防問題に触れること、即ち国内経済産業政策と関連する意味において国防事項をも議する事とし、外交については主として経済外交を研究すること」(東朝、12・25)


 ついで12月27日の閣議に組織案大綱が提出されたが、それによれば、国策密議機関は、内閣総理大臣を会長とする「内閣審議会」(委員15名以内、国務大臣は委員とならず出席して意見を述べることとする)と、 内閣総理大臣に直属する「内閣調査局」(長官・参事官・ 専門委員・調査員等をおく)によって構成されることになっていた。審議会は諮問機関であり、調査局は審議会に関する庶務、審議会に提出すべき資料議案等の整理を行うものとされていたが、たんにそれだけにとどまらず、一般重要政策に関する調査、特に内閣総理大臣より命ぜられたる重要政策の審査といった内閣審議会から独立した権限を与えられている点が注目された。つまり内閣調査局は、審議会の事務局としての機能と、独立の調査機構としての性格とを有するわけであった。

  政府はこの議会末期の3月6日の閣議で、内閣審議会及び調査局組織要綱を正式決定し、初年度33万円の追加予算を計上することとしたが、それをうけて東京朝日が「調査局中心の審議会を」(35・3・8)と題する社説を掲げたのは、世論もまた審議会よりも調査局に注目していることを示すものと言えた。この社説はまず「審議会は……調査局と引離してはただ一場の座談会以外に何等の実効を期待し得ない」とし、委員には「精々調査局の審議を邪魔しない人、更にでき る事なら調査局審議の結果を実現させるのに重味を加ふる人」を望むと述べて、「内閣審議会の事実上の中心が調査局にあらねばならぬ」と主張した。そして、調査局が「官僚の出張所となる事」をいましめ「官民の境域を撤し真にあらゆる方面から英材を物色して所謂ブレイン・トラストを作」ることを求めると同時に、それが「政治ファッショ化への拍車」となる恐れのあることをも指摘していた。

  しかし、調査局をともなった大規模な国策審議機関の設立は、政党側の強い反発を引き起こすことは必然であった。例えば清水銀蔵(政友、滋賀)は、3月22日の予算委員会に於て、「政治万般ノ事、一切ノ事ハ、内閣ノ責任ト議員ノ権能ニ依ツテ解決スル」というのが立憲政治の原則であり、内閣審議会・内閣調査局は この原則に反するのではないかと迫った。そして「此数年来日本ノ政治ノ実権ハ政治以外ノモノ、議会以外ノモノニ移ツテ居ルト云フコトガ、現在ノ時弊ノ憂フベキ根本デハナイカト私ハ思フ、此場合二於テ議院ノ権能、内閣ノ職責ニ疑義ヲ挟ムヤウナ、衆智ヲ集メタ 一ツノ調査機関ヲ置キ、即チ政治ノ実体ヲ他ノ機関ニ求メルト云フガ如キ、斯様ナ機関ヲ置カレルコトハ、 此憲法政治ヲ護ル所以ニ非ズシテ、憲法政治ニ対スル疑義ニ拍車ヲ掛ケル問題デハナイカト私ハ憂ヘテ居ルノデアリマス」(「第六七回帝国議会衆議院予算委員会議録第24回、33頁」)と論じていた。しかしこの観点から言えば、審議会より調査局の方がより危険なものと感ぜられるのは当然であり、翌23日の予算委員会では、木村正義(政友、熊本)が「内閣審議会ノ真ノ目的ヲ達成スル為ニハ調査局ハ私共ハ内閣審議会ニ附属セシムベキモノデアラウト思フ。……内閣調査局ノ官制ト云フモノハ、内閣審議会ガ出来タ後ニ、内閣審議会ニ御掛ケニナッテ、内閣調査局ヲ御設ケニナル必要ガアリハシナイカ」(同前、第25回、30頁)と述べ て調査局を審議会に従属させることを要求していた。

  しかし野党・政友会も、この問題で政府と対決する までの意図はなく、2月13日の予算委員会で、政友会主流派幹部である島田俊雄が、地方財政調整交付金問題は内閣審議会にかけて早急に結論を得たいとの岡田首相の答弁に対し、それまでの“つなぎ”はどうするのかと質問したことは、政友会が審議機関の設置そのものには反対しないことを間接に示したものとうけとられた。そして結局、「一、内閣審議会並ニ内閣調査局ノ組織及其ノ実施ニ付テハ官僚政治ノ弊竇ニ陥ラサルコトヲ要ス、一、内閣調査局ノ組織ハ内閣審議会ニ付議シテ之ヲ定ムヘシ」との附帯決議をつけただけで関係追加予算を可決したのであった。

  ところで、審議会設立が確実とみられるようになると、政府側は、重要問題をこの審議会にかけることを 約して、議会での論戦を避けようとする態度を露骨に示すようになり、「今議会休会明け以来の実状を見るに岡田首相始め各閣僚は、貴衆両院において、議員から重要政策実施に関する質問に逢ふやその重要事項に関してはいずれも近く設置さるべき内閣審議会において調査研究の上決すべき旨を答弁し内閣審議会を以てその場遁れの避難所としている観」があり、すでに審議会付託を約した事項は十指にのぼると報ぜられていた(東朝、2・23付夕刊)。また一方、政友会側では、審議会設立を認めても、それに参加するかどうかが問題となっていた。すでに早く8月段階において鈴木総裁は不参加の意思を明示していたが、党内はその線で統一されてはおらず、3月24日の総務会でも意見は対立し、久原・山本(条太郎)、東・安藤・若宮の5名の小委員会に鈴木総裁と協議して態度を決定することが一任された。翌25日、小委員は砂田予算委員長を交えて鈴木総裁と会談、久原・東・安藤・若宮が委員を出すことに反対したのに対して、山本・砂田は、委員を送って審議会をリードすべきだと主張した。結局 鈴木の意向をもいれて、「一、内閣審議会並に調査局の予算は承認すること、一、将来政府から政友会に委員の交渉があってもこれには絶対応ぜざること」(東朝、 3・26付夕刊)との方針が決定されたが、しかしこれで問題が片づいたわけではなく、この議会終了後、実際の委員選任をめぐって政友会はゆれ動くことになるのであった。



第六七回議会の召集

 第67回議会は、34(昭和9)年11月12日公布の召集詔書により、会期90日間(34・12・26〜35・3・25)の通常議会として、12月24日に 召集された。この議会の召集前に前述したように秋田議長が辞任(12・13辞職勅許)していたため、24日にまず議長選挙が行われ、政友会の浜田国松が当選 した。26日の開院式につづいて27日に全院・常任委員長の選挙を行い、28日から1月20日まで24日間は、年末年始のため休会している。

  この議会における正・副議長、全院・常任委員長、 国務大臣、政府委員、議員の党派別所属は次の通りであった。

議長   浜田 国松(政友・三重)
副議長   上原 悦二郎(政友・長野)
     
全院委員長   飯塚 春太郎(民政・群馬)
     
常任委員長 予算委員長 砂田 重政(政友・兵庫)
  決算委員長 村上 紋四郎(民政・愛媛)
  請願委員長 山本 慎平(政友・長野)
  懲罰委員長 牧野 賤男(政友・東京)
  建議委員長 田中 祐四郎(民政・京都)
     
国務大臣 内閣総理大臣 岡田 啓介
  外務大臣 広田 弘毅
  内務大臣 後藤 文夫
  大蔵大臣 高橋 是清
    (11・26任命)
  陸軍大臣 林 銑十郎
  海軍大臣 大角 岑生
  司法大臣 小原  直
  文部大臣 松田 源治
  農林大臣 山崎 達之輔
  商工大臣 町田 忠治
  逓信大臣 床次 竹二郎
  鉄道大臣 内田 信也
  拓務大臣 児玉 英雄
     
政府委員(12・25発令) 内閣書記長官 吉田  茂
  法制局長官 金森 徳次郎
  法制局参事官 樋貝 詮三
  森山 鋭一
  外務政務次官 井阪 豊光
  外務参与官 松本 忠雄
  外務書記官 岡本 季正
  内務政務次官 大森 佳一
  内務参与官 橋本 実斐
  内務書記官 山崎  巌
  大蔵政務次官 矢吹 省三
  大蔵参与官 豊田  収
  大蔵省主計局長 賀屋 興宣
  大蔵省主税局長 石渡 荘太郎
  大蔵省理財局長 青木 一男
  大蔵省外国為替管理部長 和田 正彦
  大蔵書記官 入間野 武雄
  広瀬 豊作
  山田 龍雄
  預金部長 荒井 誠一郎
  専売局長官 中島 鉄平
  陸軍政務次官 土岐  章
  陸軍参与官 石井 三郎
  陸軍主計総監 平手 勘次郎
  陸軍少将 永田 鉄山
  陸軍一等主計正 大城戸 仁輔
  海軍政務次官 堀田 正恒
  海軍参与官 窪井 義道
  海軍主計中将 村上 春一
  海軍中将 吉田 善吾
  海軍主計大佐 石黒 利吉
  司法政務次官 原 夫次郎
  司法参与官 舟橋 清賢
  司法書記官 黒川 渉
  文部政務次官 添田 敬一郎
  文部参与官 山枡 儀重
  文部省普通学務局長 下村 寿一
  文部書記官 山川  健
  農林政務次官 守屋 栄夫
  農林参与官 森  肇
  農林書記官 田渕 敬治
  商工政務次官 勝  正憲
  商工参与官 高橋 守平
  商工書記官 東  栄二
  逓信政務次官 青木 精一
  逓信参与官 平野 光雄
  逓信省経理局長 富安 謙次
  鉄道政務次官 樋口 典常
  鉄道参与官 兼田 秀雄
  鉄道省監督局長 前田  穣
  鉄道省運輸局長 新井 堯爾
  鉄道省建設局長 河原 直文
  鉄道省工務局長 平井 喜久松
  鉄道省経理局長 工藤 義男
  拓務政務次官 桜井 兵五郎
  拓務参与官 佐藤  正
  拓務省管理局長 生駒 高常
  拓務省殖産局長 北島 謙次郎
  拓務省拓務局長 高山 三平
  拓務書記官 小河 正儀
  朝鮮総督府政務総監 今井田 清徳
  朝鮮総督府財務局長 林  繁蔵
  台湾総督府総務長官 平塚 広義
  台湾総督府財務局長 岡田  信
  樺太庁長官 今村 武志
  南洋庁長官 林  寿夫
     
政府委員追加(会期中発令) 対満事務局次長 川越 丈雄
  大蔵省銀行局長 荒井 誠一郎
  預金部長 金子 隆三
  司法省民事局長 大森 洪太
  司法省刑事局長 木村 尚達
  司法省行刑局長 岩松 玄十
  内務省神社局長 館  哲二
  内務省地方局長 岡田 周造
  内務省警保局長 唐沢 俊樹
  内務省土木局長 広瀬 久忠
  内務省衛生局長 岡田 文秀
  社会局長官 赤木 朝治
  北海道庁長官 佐上 信一
  商工省商務局長 村瀬 直養
  商工省工務局長 竹内 可吉
  商工省鉱山局長 小島 新一
  商工省貿易局長 寺尾  進
  保険事務官 石井 銀弥
  臨時産業合理局事務官 藤田 国之助
  逓信省郵務局長 久埜  茂
  逓信省電務局長 進藤 誠一
  逓信省工務局長 梶井  剛
  逓信省電気局長 清水 順治
  逓信省管船局長 浅野 平二
  逓信省航空局長 片岡 直道
  預金局長 猪熊 貞治
  簡易保険局長 平井 宣英
  農林省農務局長 小浜 八弥
  農林省山林局長 村上 龍太郎
  農林省水産局長 戸田 保忠
  農林省畜産局長 高橋 武美
  農林省蚕糸局長 井野 碩也
  農林省米穀局長 荷見  安
  農林省経済更生部長 小平 権一
  文部省専門学務局長 赤間 信義
  文部省実業学務局長 菊池 豊三郎
  文部省社会教育局長 河原 春作
  文部省思想局長 伊東 延吉
  文部省図書局長 芝田 徹心
  文部省宗教局長 菊沢 季麿
  外務省通商局長 来栖 三郎
  外務省文化事業部長 岡田 兼一
  関東局事務官 小宮 陽
  営繕管財局理事 関原 忠三
  拓務省管理局長 萩原 彦三
  内務書記官 坂  千秋
  外務省欧亜局長 東郷 茂徳
  社会局書記官 北岡 寿逸
  大蔵書記官 谷口 恒二
  商工書記官 岸  信介
  新倉 利広
  内務事務官 相川 勝六
  陸軍省法務局長 大山 文雄
  大蔵書記官 松隈 秀雄
     
党派別所属議員氏名    
     
 召集日各党派所属議員数 立憲政友会 263名
  立憲民政党 118名
  国民同盟 31名
  第一控室 25名
  無所属 2名
  欠員 27名
  466名
     
立憲政友会 東京 立川 太郎
  本田 義成
  犬養  健
  鳩山 一郎
  安藤 正純
  伊藤 仁太郎
  磯辺  尚
  国枝 捨次郎
  三上 英雄
  牧野 賎男
  前田 米蔵
  津雲 国利
  坂本 一角
  京都 鈴木 吉之助
  鷲野 米太郎
  中野 種一郎
  磯辺 清吉
  長田 桃蔵
  芦田  均
  水島 彦一郎
  大阪 板野 友造
  山本 芳治
  沼田 嘉一郎
  上田 孝吉
  青田 勝晴
  森田 正義
  岩崎 幸治郎
  山口 義一
  神奈川 野方 次郎
  川口 義久
  鈴木 喜三郎
  胎中 楠右衛門
  鈴木 英雄
  河野 一郎
  兵庫 砂田 重政
  中井 一夫
  蔭山 貞吉
  立川  平
  小林 絹治
  多木 久米次郎
  青木 雷三郎
  原 惣兵衛
  若宮 貞夫
  畑 七右衛門
  長崎 西岡 竹次郎
  向井 倭雄
  佐保 畢雄
  新潟 山本 悌二郎
  田辺 熊一
  松木  弘
  渡辺 幸太郎
  出塚 助衛
  加藤 知正
  高橋 金治郎
  山田 又司
  鈴木 義隆
  武田 徳三郎
  埼玉 高橋 泰雄
  宮崎  一
  横川 重次
  長島 隆二
  一瀬 一二
  出井 兵吉
  門田 新松
  群馬 中島 知久平
  増田 金作
  畑  桃作
  木暮 武太夫
  篠原 義政
  千葉 本多 貞次郎
  川島 正次郎
  鳩山 秀夫
  今井 健彦
  竹沢 太一
  小高 長三郎
  岩瀬 亮
  茨城 宮古 啓三郎
  葉梨 新五郎
  山崎  猛
  佐藤 洋之助
  栃木 船田  中
  坪山 徳弥
  松村 光三
  上野 基三
  奈良 岩本 武助
  福井 甚三
  三重 加藤 久米四郎
  伊坂 秀五郎
  堀川 美哉
  浜田 国松
  後藤  脩
  愛知 加藤 鐐五郎
  田中 善立
  瀬川 嘉助
  丹下 茂十郎
  山田 佐一
  田中 貞二
  小笠原 三九郎
  小林  リ
  大口 喜六
  近藤 寿市郎
  静岡 山口 忠五郎
  宮本 雄一郎
  深沢 豊太郎
  仁田 大八郎
  勝又 春一
  太田 正孝
  倉元 要一
  山梨 田辺 七六
  川手 甫雄
  大崎 清作
  竹内 友治郎
  滋賀 清水 銀蔵
  服部 岩吉
  仙波 久良
  岐阜 匹田 鋭吉
  大野 伴睦
  佐竹 直太郎
  楠  基道
  牧野 良三
  平井 信四郎
  長野 山本 慎平
  山本 荘一郎
  小川 平吉
  有馬 浅雄
  高橋  保
  植原 悦二郎
  宮城 宮沢 清作
  菅原  伝
  佐々木 家寿治
  星  廉平
  大石 倫治
  福島 堀切 善兵衛
  菅野 善右衛門
  八田 宗吉
  小島 智善
  助川 啓四郎
  中野 寅吉
  佐藤 庄太郎
  鈴木 辰三郎
  岩手 田子 一民
  八角 三郎
  志賀 和多利
  小野寺  章
  広瀬 為久
  青森 梅村  大
  工藤 十三雄
  山形 西方 利馬
  高橋 熊次郎
  戸田 虎雄
  熊谷 直太
  松岡 俊三
  秋田 杉本 国太郎
  鈴木 安孝
  小山田 義孝
  福井 熊谷 五右衛門
  山本 条太郎
  猪野毛 利栄
  石川 箸本 太吉
  青山 憲三
  益谷 秀次
  富山 石坂 豊一
  高見 之通
  島田 七郎右衛門
  土倉 宗明
  鳥取 矢野 晋也
  島根 島田 俊雄
  沖島 鎌三
  岡山 岡田 忠彦
  横山 泰造
  難波 清人
  大山 斐瑳麿
  久山 知之
  小谷 節夫
  星島 二郎
  則井 万寿雄
  広島 岸田 正記
  名川 侃市
  渡辺  伍
  望月 圭介
  宮沢  裕
  米田 規矩馬
  森田 福市
  山口 久原 房之助
  保良 浅之助
  庄  晋太郎
  西村 茂生
  児玉 右二
  和歌山 木本 主一郎
  玉置 吉之丞
  松山 常次郎
  世耕 弘一
  三尾 邦三
  徳島 紅露  昭
  生田 和平
  伊藤 皆次郎
  香川 宮脇 長吉
  上原 平太郎
  山下 谷次
  三土 忠造
  愛媛 大本 貞太郎
  須之内 品吉
  森 昇三郎
  河上 哲太
  白城 定一
  山村 豊次郎
  高知 田村  実
  中谷 貞頼
  林  譲治
  依光 好秋
  福岡 原口 初太郎
  宮川 一貫
  吉田 鞆明
  実岡 半之助
  田尻 生五
  野田 俊作
  貝谷 真孜
  高倉 寛
  林田  操
  大分 金光 庸夫
  綾部 健太郎
  清瀬 規矩雄
  佐賀 田中 亮一
  石川 又八
  藤生 安太郎
  田口 文次
  熊本 木村 正義
  松野 鶴平
  村田 虎之助
  上塚  司
  三善 信房
  中野 猛雄
  宮崎 平島 敏夫
  渡辺 与七
  田尻 藤四郎
  水久保 甚作
  鹿児島 蔵園 三四郎
  井上 知治
  中村 嘉寿
  東郷  実
  天辰 正守
  寺田 市正
  金井 正夫
  永田 良吉
  沖縄 金城 紀光
  花城 永渡
  崎山 嗣朝
  竹下 文隆
  北海道 寿原 英太郎
  丸山 浪弥
  岡田 伊太郎
  東  武
  林  路一
  田中 喜代松
  佐々木 平次郎
  林  儀一
  板谷 順助
  松実 喜代太
  山本 市英
  松尾 孝之
  三井 徳宝
  尾崎 天風
  木下 成太郎
     
立憲民政党 東京 高橋 義次
  大神田 軍治
  駒井 重次
  中島 弥団次
  頼母木 桂吉
  真鍋 儀十
  鈴木 富士弥
  高木 正年
  斯波 貞吉
  佐藤  正
  八並 武治
  京都 中村 三之丞
  川橋 豊次郎
  福田 関次郎
  田中 祐四郎
  大阪 一松 定吉
  枡谷 寅吉
  竹田 儀一
  内藤 正剛
  中山 福蔵
  本田 弥市郎
  吉川 吉郎兵衛
  勝田 永吉
  松田 竹千代
  神奈川 戸井 嘉作
  三宅  磐
  小泉 又次郎
  岩切 重雄
  平川 松太郎
  兵庫 浜野 徹太郎
  中 亥歳男
  前田 房之助
  原 淳一郎
  田中 武雄
  斉藤 隆夫
  長崎 中村 不二男
  牧山 耕蔵
  新潟 山田 助作
  佐藤 与一
  原  吉郎
  増田 義一
  埼玉 松永  東
  高橋 守平
  群馬 飯塚 春太郎
  清水 留三郎
  木桧 三四郎
  千葉 多田 満長
  鵜沢 宇八
  土屋 清三郎
  茨城 豊田 豊吉
  中井川 浩
  栃木 高田 耘平
  岡田 喜久治
  奈良 八木 逸郎
  松尾 四郎
  三重 川崎  克
  松田 正一
  池田 敬八
  愛知 小山 松寿
  武富  済
  静岡 海野 数馬
  平野 光雄
  永田 善三郎
  滋賀 堤 康次郎
  青木 亮貫
  岐阜 清  寛
  後藤 亮一
  長野 松本 忠雄
  小山 邦太郎
  百瀬  渡
  宮城 内ヶ崎 作三郎
  村松 久義
  福島 林  平馬
  比佐 昌平
  青森 工藤 鉄男
  山形 清水 徳太郎
  秋田 町田 忠治
  猪股 謙二郎
  福井 斉藤 直橘
  添田 敬一郎
  石川 永井 柳太郎
  桜井 兵五郎
  富山 野村 嘉六
  松村 謙三
  鳥取 山枡 儀重
  島根 桜内 幸雄
  木村 小左衛門
  原 夫次郎
  俵  孫一
  岡山 小川 郷太郎
  西村 丹治郎
  広島 荒川 五郎
  藤田 若水
  田中  貢
  作田 高太郎
  横山 金太郎
  山口 藤井 啓一
  沢本 与一
  徳島 谷原  公
  真鍋  勝
  香川 戸沢 民十郎
  矢野 庄太郎
  愛媛 武知 勇記
  村上 紋四郎
  高知 富田 幸次郎
  川渕 洽馬
  福岡 田島 勝太郎
  高野 喜六
  勝  正憲
  末松 偕一郎
  大分 松田 源治
  重松 重治
  佐賀 池田 秀雄
  熊本 大麻 唯男
  北海道 山本 厚三
  板東 幸太郎
  大島 寅吉
  手代木 隆吉
     
国民同盟 東京 中村 継男
  兵庫 野田 文一郎
  清瀬 一郎
  長崎 中川 観秀
  中田 正輔
  新潟 大竹 貫一
  埼玉 野中 徹也
  茨城 風見  章
  栃木 栗原 彦三郎
  愛知 加藤 鯛一
  鈴木 正吾
  静岡 岸  衛
  井上 剛一
  山梨 福田 虎亀
  岐阜 古屋 慶隆
  長野 鷲沢 与四二
  戸田 由美
  岩手 高橋 寿太郎
  青森 菊池 良一
  山形 佐藤  啓
  佐藤 理吉
  鳥取 由谷 義治
  広島 山道 襄一
  和歌山 小山 谷蔵
  福岡 中野 正剛
  佐賀 森  峰一
  熊本 安達 謙蔵
  伊豆 富人
  深水  清
  沖縄 伊礼  肇
  北海道 小池 仁郎
     
第一控室    
〔社会大衆党〕 東京 安部 磯雄
  大阪 杉山 元治郎
  福岡 亀井 貫一郎
  小池 四郎
〔無所属〕 東京 朴  春琴
  松谷 与二郎
  大阪 井阪 豊光
  長崎 森   肇
  群馬 青木 精一
  茨城 内田 信也
  石井 三郎
  飯村 五郎
  栃木 岡本 一已
  奈良 江藤 源九郎
  三重 尾崎 行雄
  愛知 滝  正雄
  静岡 春名 成章
  宮城 守屋 栄夫
  青森 兼田 秀雄
  鳥取 豊田  収
  山口 窪井 義道
  福岡 山崎 達之輔
  樋口 典常
  大分 塩月  学
  鹿児島 床次 竹二郎
     
無所属 徳島 秋田  清
  鹿児島 津崎 尚武


  なお、この議会の会期中に、高木正年(民政、東京)、 沢本与一(民政、山口)、林儀作(政友、北海道)、小野寺章(政友、岩手)の4議員が死去、胎中楠右衛門(政友、神奈川)は議員を辞職した。また3月8日の山口県第2区補欠選挙では、小河虎彦(民政)、国光五郎(政 友)か当選している。党派別所属では、小池仁郎が国民同盟を脱して民政党に入り、第1控室所属の22議員は、秋田清・津崎尚武及び政友会を脱した長島隆二らとともに、新たな院内交渉団体「無所属室」を組織した。なおこれに加わらなかった社会大衆党の安部磯雄・亀井貫一郎・杉山元治郎の3議員は、院内では無所属としてあつかわれた。従って、会期終了日の党派別所属議員数は、政友会260名、民政党118名、 国民同盟30名、無所属室25名、無所属3名、欠員30名、計466名となっている。



議長・委員長選挙をめぐって

 この議会での一つの興味は、政友・民政両党の関係がどう展開するのかという点に向けられていた。前議会までは、具体的な成果はみられなかったものの、両党はともかく交渉委員を出して、政民連携の姿勢を保ってきた(「第六六回帝国議会衆議院解説」参照)。しかし前議会未期に政友会が爆弾動議を提出して以来、両党の関係は悪化し、この議会が召集されるまで連携委員の会合は一回も開かれないという有様になっていた。 そこでまず、前議会で政友会が常任委員長の独占をやめ、全院・決算・建議の3委員長のポストを民政党にゆずるといった関係がどうなるかが注目された。

  政友会はまず、議長などの選挙について民政党の意向を打診することとし、召集日前日の12月23日、若宮幹事長から民政党大麻幹事長に対して、議長選挙にあたって政友会に合流してもらいたい、ただし3名連記だから第2・第3の候補者は民政党に譲ってもよいし、常任委員長などのポストも前議会通りに配分してもよい、と申し入れた。しかし民政党側はこの申し入れをあっさり拒絶し、独自の候補を立てて政友会と争う方針を決めた。議長選挙は過半数の得票をえた3名のなかから天皇が1名を任命するという建前(実際には最高得票者を任命)になっていたので、両党とも3名の候補者を立てて選挙に臨んだ。もちろん結果が政友会の勝利に終わるのは、はじめから明らかであり、民政党が独白候補を立てたことは、対政友会関係の悪化を示すものにほかならなかった。  

  ところで、政友会が単独で過半数を制している以上、選挙結果に影響力を持ち得ない筈の国民同盟でも、この議長選挙をめぐって紛糾していた。同党内部に民政党復帰を望む一派とこれに反対する一派との対立があることは、すでに前議会以前から明らかになっていたが、この時点での党内の有様は次のように報じられていた。  

 

「国民間盟は二四日午前十時院内に代議士会を開き、野田院内総務から議長選挙問題に関し政・民・第一控室からそれぞれ交渉のあったテン末を報告して協議に入ったが、由谷義治氏は、独白の立場において議長候補者を確立したし、と提議したのに対し、中村 継男氏は、将来の政治的立場を考慮して民政党候補者に賛成したい、と発表した。

   この時風見氏から、政治的立場を考慮して民政党候補者に賛成するとは何事だ、小なりと雖も国民同盟は衆議院に一党を擁しているのだ、その精神だけは発揮すべきではないか、と頑強な反対説を出した。この時野田総務は、院内総務会では民政党候補者に賛成することに決定したのだから賛成されたい、と提議したので代議士会はますます紛糾し、清瀬一郎氏は、民政党の富田氏は政友会の浜田氏より適任者と思ふから民政党に合流することとしては如何と発議し、採決の結果、漸く民政党に合流することになったが、風見・鷲沢・由谷の諸氏は席を蹴って退場した」(東朝、12・25付夕刊)


  議長選挙は予想通り、第1回の投票で浜田が過半数を獲得したが、票数は次の通りであった。

 

浜田 国松(政友)
宮古 啓三郎(政友)
岡田 伊太郎(政友)
富田 幸次郎(民政)
増田 義一(民政)
斯波 貞吉(民政)   

240票
186票
184票
148票  
140票  
138票

  
  こうした状況をみた東京朝日は、12月25目「議長選挙と政民提携」と題する社説をかかげ、「元来政民提携は……議会政治振興の雰囲気作成以外においては、全く有害無益なる計画なのである」「故に吾人は議長選挙における政民対峙が今や完全に政民連繋の内容を破壊し去り、単に儀礼的形骸を残存するのみとなれることを、当然にして且つ妥当なる結果なりとせざるを得ないのである」と論じ、政党が不明朗な連携工作をやめて、「国策的提案と政治道徳的信念とによって相競ふ」という本来のあり方にたち帰ることを求めていた。  

  しかし、政民両党とも、自ら積極的にこれまでの政民連携に終止符を打とうとはせず、両党内に対立感情が高まっていたとはいえ、政友会・久原房之助、民政党・富田幸次郎らの連携論者の奔走により、結局政友会は前議会同様、民政党に3委員長のポストを譲ることとなった。といっても、具体的な動きとしては、山口県第2区の補欠選挙において、両党から1名ずつの候補者を立てるという選挙協定を成立させただけであ り、この議会の閉会前日、3月24日の両党連携委員(政友=山本条太郎・久原房之助・島田俊雄、民政=富田幸次郎・頼母木桂吉・桜内幸雄)の会合も雑談程度に終わったようであった。

  政民両党の問には、内閣審議会に対する態度のちがいという問題もあり、ここで形だけは残したものの、政民連携運動の発展する可能性はますます稀薄なものになっていたといえる。



広田外交と軍部

  この議会は、35(昭和10)年1月22日の施政方針演説から実質的審議に入ったが、首・外・蔵3省の演説のなかでは、「不脅威・不侵略の原則」を唱えた広田外相のもの最も好評であり、「外相の演説は協調外交から日支親善に論及して東亜の平和を力説し、挙国一致による難局打開の必要を強調するあたり堂々たるもの」(東朝、1・23付夕刊)と評された。

  広田はこの議会召集後に、ワシントン海軍軍縮条約の廃棄をアメリカに通告して(12月29日)対外強硬論を満足させると同時に、議会演説の前日1月21日の深夜に及ぶ交渉では、ソ連との間に北満鉄道買収協定を実質的に成立させていた(これらの問題については「第六七回帝国議会貴族院解説」参照)、そして次の課題は日中関係の改善であり、そのことがこの年に予定されている海軍軍縮会議を有利に導く条件にもなる というのが広田の考えであったと思われる。外相演説が不脅威不侵略の原則を強調するものとなることを報 じた新聞記事は、その背景を次のように報じていた。  

 

「広田外相が右原則を強調せんとする所以のものは、英米側において海軍問題における日本の対英米海軍均等の主張をなす理由を邪推し、日本が東亜において全く自由手段をとらんとする魂胆ありとする向きもあり、旁々日本が東亜において聊かも侵略的意図な きことを宣明せんとする趣旨によるものである。外相は単に議会において不脅威不侵略の原則確立の要を強調するのみならず、実際問題としても若し支那側において応諾するにおいては、日支直接交渉において不脅威不侵略の原則を実現すべき日支両国間における単独的政治協定を締結する用意をも進めつつある実情にある。……しかも外相が右の如き積極的熱意のもとに対支政策の建直しを決意した理由は、ロンドン海軍予備交渉を通じ英米殊に米国の態度は、対支問題に関し日本と意見の一致を見ざる限り、単に海軍問題の専門的技術的見地のみによっては到底新海軍協定の成立を困難視する関係にあったことを痛感したによるものと信ぜられる」(東朝、1・19)


 広田は早速帰国中の須磨南京総領事を帰任させ、須磨は1月21・22日にわたって、汪兆銘外交部長と会談、広田の意図を伝えた。また同時に中国側からも、こうした広田外交の重点が日中関係改善に移される気配に呼応して、対日接近の動きが具体化してきた。蒋介石は、1月29日には日本公使館付武官・鈴木美通中将と、翌30日には有吉明公使と会談しているが、これはいずれも蒋の中し入れによるものであり、満州事変後、蒋の発意によって行われた初めての会談という点で注目された。

  蒋介石はまた2月2日に中央通信社を通じて、「支那の過去における反日感情と日本の対支優越態度とは共に之を是正すれば、隣邦親睦の途を追むることが出来る。我が同胞も正々堂々の態度を以て理智と道義に従ひ、一時の衝動と反日行動を押へ信義を示したならば、日本と雖も又必ず信義を以て相応じて来ると信ずる者である」(東朝、2・3付夕刊)と国民に訴えていた。ついで同月下旬の中央政治公議では、排日行為取締り案が可決され、中国側の対日態度の緩和が強く感じられるようになった。さらにこの間、2月19日には、国際司法裁判所判事・王寵恵が帰任の途次来日して外相らと会談、親善の雰囲気を盛り上げようとした。 これに対して広田外相も、2月21日の臨時利得税委員会で「私一身としては蒋介石氏の心事や態度にみぢんも疑惑を持った事はない」と述べ、また3月1日の決算委員会では中国との関係が「絶対に好転しつつあることは疑の余地がない」、「支那がその非を十分覚り飜然と考を変へ日支親善に好転して来たことは誠に天佑である」などと述べていた。

  しかし広田は「日支親善」のムードを広めはしたが、両国の関係を改善するための具体的な措置をとったわけではなかった。外相演説に於ても中国関係については、(1)日本政府は中国における共産党の活動に引続き関心を有し、又一部の地方で排日の風潮が沈静してい ないのを遺憾とする、(2)日本政府は東亜諸国との和親を重要視し、東亜の安定力たる地位に鑑み、これが実現に一層努力する、(3)中国国民が次第に日本の真意を諒解する傾向にあることが認められ、日本側はこの傾向の促進を期すると共に、中国側の一層の協力を望ん でいる、という3点を指摘したにとどまっていた。それは言いかえれば、中国が反共体制を明確にし、排日をやめ、東亜の安定力としての日本の指導に服することが両国親善の条件だとするものにほかならず、この限りでは軍部の意向とも矛盾するものではなかった。 しかしさきに引いた東京朝日の記事に言うような、不脅威・不侵略の政治協定などという積極的方策に出るならば、軍部と正面から衝突することは必然であった。

  すでに前議会が爆弾動議をめぐって紛糾していたさ なかの34(昭和9)年12月7日には、陸・海・外三省の関係課長の間で「対支政策に関する件」と題する文書が作成されており、それは次のような方針を決定してものであった。まず同文書は「我対支政策は(イ)支那をして帝国を中心とする日満支3国の提携共助に依り東亜に於ける平和を確保せんとする帝国の方針に追随せしむると共に(ロ)支那に対する我商権の伸張を期するを以て根本義とす」と規定すると共に、一般方策 として「支那側が日支関係の打開に付現実に誠意を示すに於ては、我方亦好意を以て之を迎ふべきも、我が方より道んで和親を求めず、且支那側に於て我方の権益を侵害する場合には我方独自の立場に基き必要の措置を執るべしとの厳粛公正なる態度を以て臨むこと」 (「現代史資料8・日中戦争1」、22頁)が必要だと述べている。

  つまりここに述べられている基本方針は、日本側から積極的に和親を求めることなく、中国が追随してくるよう圧力を加えてゆく、というものであり、またその背後には、国民政府との親善を外交の軸とするかに聞こえる広田の議会答弁とは異質な認識と方策が示されているのであった。まず、「対南京政権方策」としては「国民政府の指導原理は帝国の対支政策と根本に於て相容れざるもの」であり、従って同政権の存亡が「日支関係の打開に誠意を示すか否かに懸ると云ふが 如き境地」に追い込まねばならないとした。そしてさ らに、これとは別に「対北支政権方策」を立て、

 

「我方としては北支地方に対し南京政権の政令の及ばざるが如き情勢とならんことを希望するも此の際急速に右の如き情勢を招来することは我方に於て巨大なる実力を川ふるの決意なき限り困難となるに付、差当り北支地方に於ては南京政権の政令が北支に付ては同地方の現実の事態に応じて去勢せらるる情勢を次第に濃厚ならしむべきことを目標として……懸案の解決及我方権益の維持伸張に努むると共に尠くとも党部(国民党)の活動を事実上封ぜしめ且北支政権下の官職等をして我政策遂行に便なる入物に置き替えしむる様仕向け……」(同前、23頁)

と述べている。つまりここに示されているのは、南京政権を圧迫しながら、華北を切り離して日本の支配下におこうとする政策にほかならない。この文書は恐らく陸軍側の原案にもとづいたものと考えられるが、ともかく国民政府(南京政権)との親善は、こうした政策方向の転換なしには不可能であることを示すものであった。しかも陸軍内部では関東軍が、広田外相が中国との親善を唱え出すより早く、こうした方向に動き始めていた。

  議会休会中の1月4日、大連では新任の板垣征四郎関東軍参謀副長を中心とし、天津・北平・上海等の駐在武官等をも加えた関東軍幕僚会議が聞かれた。この会議の内容を直接に示す資料はないが、新聞はこの会議の目的を、「最近蒋介石政権の対日態度は何等誠意 の認むべきものなく、排日侮満の底意を包蔵して改めず、……蒋介石政権の分派たる北支政権も又内面はこれと一体となって我が互譲的態度を裏切ること再三ならず」といった観点から「対支政策の再吟味」をなすことにある、と報じている(東朝、1・5付夕刊)。それは中国に親日的傾向が強まっているとの広田外相の演説とは全く認識を異にするものであり、さきの「対支政策に関する件」が示している華北侵略の方向をおしすすめようとするものといえた。この議会終了直後、3月30日の日付けで書かれた「関東軍対支政策」は次のように記されていた。

「(一)、

支那中央政府ノ親日的施策ニ付テハ依然静観主義ヲ執り殊更ニ我ヨリ之ヲ促進スルガ如キ態度ヲ執ラズ、又一切ノ援助ヲ行ハズ、支那ガ真ニ覚醒セルモノナリヤ排日ノ禁止ガ幾何程度ニ具現シツツアリヤ等ヲ監視スルヲ要ス

(二)、

北支ニ対シテハ実質的経済力ノ進出ニ依リ日満 ト不可分ノ関係ヲ逐次増強スルニ努ム、之ガ為メ左ノ如ク施策スルヲ要ス
1、停戦協定及附属取極事項等ニヨリ我已得権ヲ公正ニ王張シ以テ北支那政権ヲ絶対服従ニ導ク
2、将来民衆ヲ対象トシテ経済的関係ヲ密接不可分ナラシムル為メ、綿鉄鉱等ニ対シ産業ノ開発及ビ取引ヲ急速ニ促進ス」(秦郁彦著「日中戦争史」、327頁)


 この議会中にみられた日中親善のムードを現実化するためには、こうした軍部の要求を転換させることが必要であったが、広田外相にはそのような努力はみられなかった。そしてやがては、広田による対華三原則の提唱と、軍部による華北分離工作とが重層してあらわれるという事態に至るのであった。



爆弾動議の後始末

 この議会の最大の焦点は、前議会で政友会から出された、いわゆる爆弾動議をどう始末するかという問題であった。爆弾動議とは、「災害対策、匡救事業善後策及ビ地方自治体窮乏打開ノ為メ」1億8000万円の予算を追加計上せよというものであり、政府はこの要求を認めなかったものの、「政府は議会の要求をも考慮して、必要な施設を行う」という政友会側の解釈を黙認した形となっていた(「第六六回帝国議会衆議院解説」参照)。そこでこの議会では、政府がたとえ少額でも追加予算を出さなければ、政友会と正面衝突を来すだろうとみられたのであった。しかし政府内部にも、政友会との妥協のためといった不純な動機で金を出すべきではない、政友会が無理をいうなら解散しろという意見と、できるだけ政友会との衝突を避けたいという意見とがあり、また政友会側にしても不信任案を出 してまで政府と対決するまでの動きはなく、政府が5、6000万円出せば妥協する、もっと少額でも追加予算を出せばよい、追加予算を出さなくても臨時議会の召集を約束すればよい、といったさまざまな意見が牽制しあっていた。つまり政府・政友会ともにその態度があいまいであり、従って「今議会は近来稀なる複雑微妙なる議会となることは必定」(東朝、1・7付夕刊) とみられたのであった。

  岡田首相が恒例となっていた議会休会明け前の各党首訪問をやめて、三党首と一堂に会して会談しようとしたのも、こうしたあいまいな雰囲気を挙国一致を建前にして、なんとか政府と妥協する方向に引きずろうとじたものであった。岡田首相は1月15日の閣議で諒解をとりつけ、17日に三党首会談を行おうとしたが、鈴木政友会総裁は党の会議があることを理由に出席を断り、結局この日は町田民政党総務会長、安達国民同盟総裁との会談を行ったにとどまった。しかし政友会内部からはこの総裁の態度に批判が起こり、19日に改めて鈴木を加えた三党首と岡田首相(政府側から高橋蔵相・床次逓相が加わる)との会談が行われることになった。

  鈴木は最初「政府対政友会の関係が頗る微妙に動いている時首相の招請に応じ懇談を重ねることは政友会の戦意なきを思はしめ、如何にも妥協気分であることを示す懸念があり、また会合の席上政府に言質をとられるようなことがあってはならぬとの用意に出たものと解されるが、党内には鈴木総裁の拒否回答に不満の意を表すものがあり、総務会に於てもかくの如きことに執着するは児戯に類するものとして反対の意見があったから日を改めて招請に応ずることになった」(東朝、1・18)とみられた。会談そのものは岡田首相が政党への敬意を示して、挙国一致的な支援を懇請したほかは、雑談に終始したようであるが、ともかく鈴木総裁が参加したことは、政友会の大勢が妥協を望んでいることを示すものとして注目された。

  なお三党首会談の行われた翌日には、民政党大会が開かれ、総務会長の町田忠治が正式に総裁に就任した。 町田は若槻総裁の辞任以来後継総裁の座につくことを求められながら、その器にあらずとして就任を断りつづけ、民政党は町田を会長とする総務会の合議制で運営されてきたのであったが、解散もありうるかもしれないというこの議会に臨むにあたって党幹部は一層強く町田を説得、町田も遂にその懇請をうけいれたのであった。「町田が総裁受諾やむを得ずと決意するに至ったのは、もし同氏が飽くまで就任を拒否する時はひいて党内に紛糾を来す恐れがあり、かつ町田氏を総裁に推している幹部が全く苦境に陥るのでこの点を十分考慮したがためである」(東朝、1・17)とみられた。 ともあれ、商工大臣の地位にある町田が、そのまま総裁となったことで、民政党は一層与党色を強くするだ ろうと予測された。

  さて1月22日、休会明け議会劈頭の施政方針演説につづいて質問に立った政友会の島田俊雄は、前議会での爆弾動議を読みあげながら、いまだこの動議に関連した予算が提出されていないのはどうしたことかとただし、後始末問題の口火を切った。これに対して岡田首相は、今後の事態によって必要な場合には適当な処置をとる、という前議会の答弁をくり返すにとどまった。しかし政友側はただちに政府を追及しようとはせず、25日から始まった予算委員会でも、間接的にこの問題に触れるにとどめて、政府の出方を待つという戦術に出た。そしてこの間に種々の裏面工作が行われることになった。まず政府側は次の様に報じられた。

 

「即ち爆弾動議問題に対しては、山崎農相は出来得る限り政友会と妥協の方針をとり、山本条太郎、前田米蔵氏等をはじめ旧政友系との間に相当の裏面的政治工作を進めつつあり、児玉拓相も島田俊雄氏との問に往復を重ねて今期議会を無解散に終らしむべく妥協工作を練っているが、これに対しては高橋蔵相、町田商相等の長老閣僚の間に反対論があり、高橋・町田両相が政府・政友の政治的妥協のために追加予算を計上することは面白くない(として)……追加予算には反対的立場を取っていることは問題を更に複雑化している、一方後藤内相は事務的見地から追加予算の提出を希望し、出来得るなら何がしかの追加予算によって一挙両得の結果を得んとして25日の衆議院散会後院内大臣室において後藤、山崎、内田三相の間に意見交換を行ったが、政友会の出様もいまだ判然とせざる今日その結論には到達しなかったやうである」(東朝、1・26)


 これに対して政友会では、政府がある程度の追加予算を出せば、政府と妥協して解散を避けようという自重論が、政友系閣僚と連絡を持つ旧政友系や床次派ばかりでなく、国政一新会と称するグループをつくっていた中島知久平・島田俊雄や松野鶴平らの総裁派の一部にまで広がり、また倒閣をねらう久原派も解散を避けようとする点ではこれらの自重派と共通するとみられた。従って解散も辞せずとする強硬論は、鳩山一郎・ 安藤正純・山口義一らの少数勢力にすぎなくなってい た。そして2月2日の予算委員会で、島田俊雄がいよいよ爆弾動議問題の本筋に触れた発言を行ったのも、 政府との妥協を促進しようという自重派の意向を代表 したものであった。島田はこの日、議事進行の形で発言を求め、前議会での爆弾動議に対して、政府が実情に即し真に必要な施設は之を考慮すると答弁してからすでに2カ月近くを経過する、従って「実情」も大体明らかになっていることと思われるが、その実情を考慮した結果、政府は如何なる措置をとるのか、追加予算を提出するかしないのか、するとすればいかなる程度のものとなるのか、この点が明らかになることが本予算審議の上からも必要になっている、として政府が適当の機会に明確な意思表示を行うことを求めたのであった。そしてそれは政府がある程度の追加予算を提出するにちがいないとの思惑の上に立ったものでもあった。更に2月4日には、旧政友系の長老岡崎邦輔が突如、高橋蔵相を私邸に訪れて懇談し、更にその足で 山本条太郎・鈴木総裁を訪問してこうした線での妥協 の成立を促進しようとしていた。

  しかし政府部内では、追加予算と引きかえに政友会の政府全面支持をとりつけるべきだとする意見が出される反面、問題の鍵を握るとみられた高橋蔵相の態度が予想外に強硬であった。蔵相の意見は「必要による追加予算の提出は当然のことであっても、政党の強要によって予算を提出することは、事務当局の意見の如く政府の予算提出権を自ら抛楽し議会の協特権の拡張を計る結果となるから、この際考慮すべきものは予備金の増額である」(東朝、2・5)というにあった。予備金は会計法によって第1予備金と第2予備金とに分けられており、第1予備金とは予算に計上された費目の支出に不足を来した際、それを補うためのものであり、第2予備金とは、予算外に生じたる必要な費用の支出にあてるためのものとされていた。蔵相は現在800万円の第2予備金に、災害対策及び農村対策費予備金といった費目を設けて追加計上することも違法ではないと主張した。結局政府部内で出された意見は、(1)予算不足の場合の臨時議会召集の公約、(2)事務的見地よりする内務・農林両省所管の追加予算の提出、(3) 第2予備金の拡張の三案、又はこれらを組み合わす案であった。

  2月5日の閣議は、妥協具体案の作成を岡田首相・高橋蔵相・町田商相・床次逓相の4長老開府に一任することを決めたが、閣内の意見が一致していたわけではなかった。2月8目午前、いずれも政友会出身の内田鉄相・山崎農相が相ついで首相を訪問したが、内田が妥協案は政治的色彩を排して最少限度にすべきだと強硬論を主張したのに対して、山崎は政府は相当額の追加予算を出して政友会との全面和平をはかるべきだと進言する有様であった。また同じ頃旧政友系の山本条太郎は高橋蔵相を訪問、「この際政友会の要求を出来るだけ認めて例の爆弾動議の解決をはかることが政局を安定せしむる所以である旨を力説し、衆議院各派共通の要求たる地方財政調整交付金を動議問題解決案の中に取入れることが問題落着の最上の方法ではないか」(東朝、2・9付夕刊)という新しい提案をも行ったが、高橋は受けつけようとしなかった。町田商相は4相会議に2000万円以下の第2予備金の増額を提議すると伝えられ、政府は高橋・町田の対政友弛硬路線に傾いていった。

  2月8日夕刻からの4相会議は、第2予備金を1500万円拡張する妥協案を決定、ひきつづき聞かれた閣議に提案された。これに対し、山崎農相・児玉拓相らが相当額の追加予算提出による政友会との関係改善を唱えたが、もはや閣僚間でも孤立し、閣議は4相案をそのまま承認して終わった。そして翌9日午後の予算委員会で岡田首相は、すでに提出されている予算案以外に、「真ニ実情ニ即シテ必要ナル施設ヲ行フノ要ヲ認メマシタ場合、コレニ応ズルタメニハ第2予備金ノ支出ニ依ルヲ適当ナリト考フルモノデアリマス。右ニ対スル用意ノ為、本会期中ニ於テ更ニI1500万円程度ノ予備金追加要求ヲ提出致ス見込デアリマス」(「第六七回帝国議会衆議院予算委員会議録」第13回、3頁) と言明した。  

  それは、政友会・旧政友系=山崎農相・児玉拓相らの妥協工作をしりぞけたばかりでなく、現に1億8000万円の支出が必要であるという爆弾動議の主張を根本的に否定し、現在は審議中の昭和10年度予算で十分であるが、将来必要が起こった場合の用意として予備金を1500万円増額しておくというわけであった。政友会内部がこの言明をめぐって紛糾したのは当然であった。翌9日の政友会総務会では、安藤正純・東武らの強硬派が、政府の態度には何等誠意の認むべきものがないとして、予算返上論を主張、総務会は12に至るまで紛糾をつづけた。 この間、11日には妥協派議員70名が時局同志会を結成、「一、昭和十年度予算案はこれを承認すべきものと認む、一、今期議会における重要問題はすべて代議士会の議を経てこれを実行すべし」との「申し合わせ」を採択し、強硬派総務を牽制しようとすれば、 強硬派も同じ日、63名を集めて「現内閣は信任する能はず」と決議するといった有様であった(東朝、2・12)。一方、政友会の状況は次のように報じられてい た。   

 

「党の空気は自重論に充満しており、この大勢を強硬論が打破することは不可能であらう。それといふのも今度の問題に関しては強硬派の陣営が余りにも寡勢無力に過ぎているからである。即ちこれまでの党内抗争においては大体行動を共にしていた総裁系が今度の問題については内輪割れして松野、中島、島田の諸君は旧政友系と共に自重的態度を持し、硬論を維持しているのは鳩山君を中心とする所謂爆弾組のみである。本部総務会が臨時議会の行懸りに余儀なくされて表面上は硬論の味方になっているが、その真意の程はわからない、又政民連携問題以来鈴木総裁と握手した筈の久原君も爆弾動議問題に関しては鳩山君等と必ずしも意見を同じくしない。久原系は……綱紀問題等については政府に肉薄し、あはよくば倒閣にまで進まんとの魂胆を持っているようだが、動議の後始末を理由として本予算を潰すことには極力反対している」(同前)


 こうした状況の下で紛糾をつづけた政友会総務会は、12日に至って予算案に対する態度の決定を総裁に一任することを決めたが、鈴木総裁ももはや独自の指導力を欠き、今一応政府の態度を正したうえで予算案を承認するという党内の大勢を反映した裁定を下すほかはなかった。13日の予算委員会は政友会島田俊雄の質問のあと、予算案を可決、爆弾動議問題は政友会の完全な敗北に終わったのであった。



地方財政調整交付金問題

  爆弾動議問題で敗れた政友会は、次は地方財政への交付金問題で政府に迫ると予想された。当時、農村不況・凶作・災害などによる地方財政の危機が深まっており、すでに第65回議会にも、政友・民政・国民同盟がそれぞれ地方財政に交付金を与える法案を提出、委員会でそれらを一本化した法案が満場一致で衆議院を通過していた(貴族院で審議未了)。ついで同議会後、34(昭和9)年10月12日の国民同盟全体会議では、地方振興公債を発行して特別会計(3年間)を設け、その資金を調達するという案を決定していたし、また査定段階で削られたとはいえ、内務省も昭和10年度予算の概算要求では、地方財政調整交付金5700万円を計上していた。また前議会の爆弾動議でも地方自治体の窮乏打開を追加予算要求の一つの理由にかかげており、この議会でも当然とりあげられる問題であった。  

  この議会で地方財政交付金問題に活動の力点を置いたのは国民同盟であった。爆弾動議の後始末をめぐって、政府・政友会の腹のさぐり合いがつづいていた2月1日、国民同盟の安達総裁は、鈴木・町田、政・民両党総裁を個別に訪問し、地方振興資金交付法案・商工中央金庫法案の2件を提示して、両党との共同提案とすることに賛成を求めた。そして安達は翌日、岡田首相をも訪れてこの案を説明している。  

  両案のうち前者は、窮乏している地方自治体に対して、3年間にわたり、毎年一般交付金7000万円、耕作地地租付加税補充交付金3800万円、義務教育費補充交付金8000万円、計1億8800万円、3年間総計5億6400万円を交付しようというものであった。また後者は、資本金5000万円、全額政府出資の商工中央金庫を設立し、資本金の10倍に当たる商工債券発行によって資金を調達して、中小商工業 者に貸付けるという点を骨子としていた。安達としてはこれによって、行詰り状態にある政府・政友会の関係に一石を投じ、親民政党派と反政府派とが対立する 党内をも巧みにリードすることをねらったものとみられた。 安達の提案に対して民政党は、すでに独自の案を用意していることを理由として拒絶したが、政友会は、一般交付金に関する部分を分けて独立の法案とするならば賛成すると回答し、2月7日から政友・国同両党は交渉委員を出して、共同提案を準備することとなった。政友会側からみれば、爆弾動議が第2予備金の拡張で片づけられたあとでは、この法案が爆弾動議の趣旨を引きついでいるということになるわけであった。 共同提案の内容は、2月27日の両党交渉委員会で次のように決定された。

「一、

法案の名称は臨時地方財政補整金法案とする

一、

本案は当分の中地方財政のため支出する

一、

金額は六〇〇〇万円(最終的には「五七〇〇万円ヲ下ラザル額」とされた)とし、府県に十分の三、市町村に十分の七の割合で資力と課税能力を標準として配分する(略)

一、

本法案は昭和一〇年四月一目から実施する」(東朝、2・28)


 これに対して政府側は、交付金制度は近く設置される内閣審議会に付議して検討する、としてこの法案に反対する態度を明らかにしていたし、高橋蔵相は、農村更生の根本は島村自体の自覚にまたねばならず、徒らに交付金をやるといったやり方では駄目だ、と語っていた。3月1日、安達は高橋を訪れて説得にあたったが、この態度を変えさせることは出来なかった。  

  政府が反対ということになれば、この法案が衆議院を通過しても、貴族院で握り潰されることが眼にみえていたが、それにも拘らず、国民同盟の提案を拒絶した与党の民政党までが、独自に「地方財政調整法案」を提出したことは、交付金制度への要望が相当広範な世論になっていることを示していた。政・国共同案と民政案とを較べてみると、政・国案が法案名も「臨時」 とし、「当分の間」と暫定的性格を持たせたのに対して、民政案は恒久的性格のものとする代わりに、昭和10年度から実施するとした政・国案に反対して、施行の期日は改めて勅令をもって定めることとした点に根本的な違いがみられた。つまり、政・国案が翌年度からの実施を政府に強要することによって、爆弾動議に代わる効果をねらっていたのに対して、民政案は実施の時期を政府にまかせる点で与党としての立場を明らかにしたものであり、いわば、恒久的交付金制度の確立を求める建議案的な性格のものとなったといえよ う。3月14日の本会議は、民政案を否決、政・国案を可決して貴族院に送ったが、予想された通り審議未了におわった。  

  しかしこの頃になると、政友会には、こうした政策 論議よりも、天皇機関説排撃によって政府に痛手を負わせようとする動きが強まっていた。



五〇万元事件、その他

  この議会で直接の政策論以外の観点からとりあげられた問題としては、まず質問戦第2日目の1月23日、 政友会の山口義一が暴露した50万元事件があった。これは1928(昭和3)年て12月、床次逓相(当時、民政党を脱して新党倶楽部を組織、「第五六回帝国議会衆議院解説」参照)が中国各地を視察した際、張学良より50万元を受取り、日本の満蒙権益の抛棄に努力することを約束した、というものであった。山口が根拠としたのは、昨年(昭和9)8月に、皇国青年将校有志の名で配布されたパンフレットであり、このパンフレ ットについて山口は、印刷配布したのは野島という曹長であるが、憲兵隊で野島は「上ハ将官カラ佐官・尉官ニ至リマスルマデノ十数名ノ将校ガ之ニ関係ガアル」 ということを自白している。つまり現役軍人が関与している責任あるものであると主張した(速記録、第4号 参照)。なるほど山口の言う所によれば、このパンフレットは、満州事変で日本が奉天を占領し張学良邸を捜索した際、前奉天総領事赤塚正助及び前政友会代議士鶴岡和文連名の50万元の領収書(昭和4年8月12日付)が出てきたという奉天特務機関からの電報(陸軍次官宛)を基礎としたものであった。そしてこの金が床次に渡ったというのが山口の言い分であった。

  これに対して床次は、自分は全く関知しないと全面的に否定し、「唯人カラ人、噂ヲ聞イテ斯ウダトカ、アアダラウトカデハ、御互ニ此議場デ論議スルニハ少シ早過ギルヤウニ思フ」(同前)と揶揄する余裕さえみせた。

  山口がこの問題をとりあげたのは「安藤正純、岡田忠彦、若宮幹事長等主流幹部の合議とその背後に隠然たる存在を持っている鳩山一郎君の激励によったことは勿論で、更に久原君一派と密接な連絡をつけた上のこと」であり、「遮ニ無ニ政府と一戦を交へて」「対内的には名実共に主流幹部の地位を確保し対外的には純然たる野党の地位」(東朝、1・28)に政友会を導こうとする思惑によるものだとみられた。しかし政友会側にはそこまで攻めあげるだけの材料はなかった。2月4目の予算委員会では、小林リ(政友)が、野島予備特務曹長の出版法違反事件検事聴取書をとりだしてきたが、結局その出所が軍部であろうとする点が問題となっただけに終わったし、また3月5日の本会議で質問した津雲国利(政友)は、さらに3月22日の予算委員会では、鶴岡が床次邸に金を持参したとする女中及び運転手の談話を発表したが、これものちに原田高一なるもののデッチ上げであることが明らかになる(東朝、5・9参照)という有様であった。

  この間、議会で間題がとりあげられると同時に、赤塚・鶴岡両名とも姿をくらませていたが、2月10日まず赤塚が朝日の記者につかまった。彼は奉天総領事時代には張作霖とは相当深く交際したとし、問題の点 については次のように述べたといわれる。「鶴岡君が満州から帰って来て、大豆の会社を起すことになり話 は大分道んでいるが、あなたが学良に話してくれねば金が出ないのだ、と懇々と頼まれた」。そこで奉天まで出かけて張学良と話をつけ、「鶴岡君には話はまと まったから、その金は事業が都合よく行ったら返還するやうによくいって置き、わしは自分の著名を書いた受領証を置いて大連に行ってしまったから、その後で鶴岡君等が金を受取って受領書を学良に渡したやうに聞いている」(東朝、2・11)。  

  ついで鶴岡和文も2月20日、記者団の前に姿をあらわし、張学良から確かに50万元借りたが、それは自分一人で使い果たしたとする声明文を発表した。また床次との関係については、民政党から新党倶楽部にかけて行動を共にしたが、床次が政友会に復帰するについて意見が合わずに袖を分かった、学良から金を借りたのはそれよりあと、昭和4年8月のことであると語っている(東朝、2・21)。種々の疑惑に満ちた事件ではあるが、この議会後、9月8日には床次が死去 し、以後表立って追求するものもなく、真相はこれ以上には明らかにならなかった。 

  山口らがきめ手となる材料なしに、この問題をとりあげたのは、彼が床次の全面否定に対して再び登壇し、「アナタガソレ程立派ナコトヲ言フナラバ、陸軍大臣ニ対シテ此印刷物ヲ出シタノハ誰ダ、将校ノ名前ヲ言ヘト言ツテアナタガ取消ヲ要求シナケレバナラヌ。……此陸軍省ノ役人ニ対シテ取消ヲ要求スルカ、名誉毀損デ訴ヘルカ、サウデナケレバアナタハ自分カラ処決ヲスルカ、二ツニ一ツノ明瞭ナ答弁ヲ此際要求致シマス」(速記録、第4号)と迫っているところからみて、 あるいはまた、津雲が「陸軍トシテハ黒白ヲ明ニシテ、部内ハ固ヨリ一般国民ニ報告スルノ義務ガアル」(速記録、第22号)と叫んでいるところからみても、あわよくば陸軍を床次攻撃にまき込もうと意図したもので あったとみられる。陸軍当局もこれには乗らず、結局この攻撃は空振りに終わったわけであるが、軍の勢力に追随しながらこれを利用しようとする傾向が、議会内部にも次第に拡大していたことは明らかであった。  

  もちろん、軍部に批判的な意見もまだ強く残ってはいた。例えば斉藤隆夫(民政)は1月24日の本会議で、現在の世界的な不安は、(一)国民生活に対する脅威、 (二)国民の自由に対する脅威、(三)戦争に対する脅威という3つの悪勢力によって脅威され圧迫されていることが原因であるとして、政府の考えを問うたが、そのなかで陸軍パンフレットを批判し、「機械的ノ、形式的ノ、人工的ノ挙国一致ヲ殊更製造スルノ必要ハナイ」 「国防ガ先ニ立ツテ外交ガ其後ロニ追随スルガ如キコ トアリ、剰へ是ガ囚トナツテ国際間ニ誤解ヲ招キ、此東亜ノ空ニ苟且ニテ妖雲ノ閃キヲ見ルガ如キコトガアリマシタナラバ、是ハ実ニ国家ノ一大事デアリマス」 (速記録、第5号)と述べて軍部の反省をうながした。 また「社会不安ニ関スル質問」を提出した安藤正純 (政友)は、その趣旨弁明(3月5日の本会議)のなかで、右翼勢力の言論機関攻撃・政治家への圧迫の背後には、軍部のブラック・リストがあるのではないか、国民のなかにファッショ思想に付和雷同せんとするも のがあるのは、軍部の一角にそれに類似した思想の持主が居り、ファッショの本尊であるとみられているからではないか、など軍部の問題をより具体的に指摘した(速記録、第22号参照)。しかしこうした論点は発展させられることなく、議会全体としては逆の方向に動いていることは、次の天皇機関説排撃=国体明徴問題で明らかとなっていった。



国体明徴決議案

  天皇機関説排撃の口火を切ったのは、2月18日の貴族院本会議での菊池武夫の演説であったが、それが大きく問題化してくるのは、2月25日、攻撃の対象となった美濃部達吉が勅選議員として貴族院本会議の演壇に立って反論を加えてからであった(天皇機関説の性格については「第六七回帝国議会貴族院解説」参照)。

  衆議院において最初にこの問題をとりあげたのは、代表的な右翼議員である江藤源九郎(第1控室)であった。彼は2月27日の予算委員会において、美濃部の「逐条憲法精義」を引用しながら、美濃部の国体観念、とくに国務に関する詔勅を批判・論議するのは国民の自由であるとする主張をどうみるか、美濃部の著書に対し行政上の処分をなす考えはないか、などとただした。これに対して岡田首相は貴族院におけると同様、美濃部の用語は穏当ではないが、国体観念は誤りないと考える、詔勅の批評は慎みたいと述べ、後部内相は、著書の行政処分は考えていないと答えたが、江藤はこれに満足せず、翌28日、「逐条憲法精義」「憲法撮要」の2著を不敬にあたるものとして、東京地方裁判所に告発した。

  またこの日の夜、江藤は貴族院の菊池武夫・井田磐楠・井上清純らと共に両院議員有志懇談会を主催し、天皇機関説排撃のために、超党派的に戦線を拡大し、院の内外で活動することを申し合わせた。この会合には、貴族院から宮田光雄・山岡万之助(以上、研究会)、 衆議院から山本悌二郎・東武・木下成太郎・竹内友治郎・宮沢裕・田中善立・深沢豊太郎(以上、政友会)、大竹貫一(国民同盟)、塩月学(第1控室)らが参加したという(東朝、3・1)。そして衆議院全体を機関説排撃の方向に動かすうえで大きな力となったのは、政友会でも実力者の1人である山本悌二郎が、この問題に熱を入れ始めたことであった。

  山本は3月5日には自ら発起人となって政友会有志議員の会合を催したが、この会合に鈴木総裁・久原房之助をはじめとして60余名の議員が出席したことは、政友会主流が機関説問題をとらえて政府を攻撃するという方向に動き始めたことを示すものであった。政友会は、治安維持法改正委員会で機関説問題を追及するとともに、本会議では山本を立てて質問を行うことに した。

  3月12日の本会議において、山本はまず、天皇と国家とが不可分の一体となっているところに我が国体の精華があるとし、天皇と国家とを別々のものとして対立的に捉えようとする機関説は国体に反すると断じた。そして機関説は国家を会社とし、天皇を社長とみるような学説だと非難し、この学説に対してどのような排置をとるかとただした。これに対して岡田首相以下答弁に立った諸大臣はいずれも機関説に反対であることを表明したが、それに対する措置を明確にしなかったため、政友会の機関説排撃派は、党内で180名の賛成署名を集めたうえ、3月19日総務会に対し、天皇機関説に断乎たる措置を要求する決議案を提出することを求めた。これをうけて政友会総務会は、この決議を超党派的問題とすることとし、案文を起草して民政・国民同盟両党に交渉、民政党には政友案への合流を渋る空気が強かったが、結局、各派の賛成演説をやめるということで妥協した。

  決議案は3派合同の「国体ニ関スル決議」(速記録、第30号)として、3月23日の本会議に上程され、満場一致で可決された。趣旨弁明に立った鈴木政友会総裁の演説は「意外に精彩を欠いた観があった」(東朝、2・24)というが、この決議が衆議院もまた右翼勢力に追随したことを示すものであることは明らかであった。この議会を回顧した東京朝日は苦々しげに次のように書いていた。

 

「本(機関説)問題でもっとも醜態を極めたのは政民両党である。政友会は山本悌二郎君その他有志の結束に火がついて幹部もズルズルベッタリに引きづられてしまひ、とうとう明白なる機関説排撃決議案が出来上ってしまった。民政党が政友会の誘ひに乗ってとうとう思はぬ合乗りとなり、これは決して機関説排撃ではない、国体の本義を明徴にする抽象的の決議案だと手前勝手な理窟をつけ、衆議院を通してしまった。思へば今期議会の重要諸法案に現はれた議員の言論といひ機関説問題といひ、今議会が院内の意思に反して乃至は意思以上に院外の力に引きずり廻された特徴を発見出来るのである」(東朝、3・29)




重要法案の成否

 この議会には、「院外の力によって左右され、その意思によって踊らされたという新しい特徴」(同前)がみられると評されたが、それは、機関説問題にみら れた右翼の圧力と、農村関連法案にみられた業界の圧力とを重視した評価であった。この議会に政府から提案された法律案の中心をなしたのは、米・繭・肥料など農村に関連したものであり、いずれも統制の強化を目的とする点で共通した性格を持つものであった。

  まず米穀関係では、米穀自治管理法案・米穀統制法改正案・籾共同貯蔵法案の3案が提出されたが、そのうち最も問題となったのは米穀自治管理法案であった。 この法案は、豊作時の過剰米を統制するために、内地のみでなく朝鮮・台湾までふくめた一貫した体制をつくることをめざしたものであり、市町村(朝鮮・台湾も これに準じた地域)の単位で米穀統制組合をつくらせて、豊作で米価の下落した時には米を貯蔵させ米価が一定以上に騰貴した場合に売らせるという様に、統制組合による過剰米の管理体制をつくろうとするものであった。それは同時に政府買い上げの場合の国庫負担の軽減をもねらっていた。

  この法案は、生産統制を伴わない流通規制だけで米の過剰を解決しうるのか、統制組合に対してどの程度の助成を行うのか、その結果、国庫負担はどれ程軽減されるのか、といった観点からも論議されたが、もっとも大きな問題は、「米穀ヲ取扱フ販売組合(当時の法制では産業組合の一種)ノ存スル市町村ニ於テハ勅令ノ 定ムル所ニ依り米穀統制組合ノ事業ハ行政官庁ノ許可ヲ受ケ米穀版売組合ニ於テ之ヲ行フコトヲ得」(第28条)と規定した点であった。つまり政府は市町村に販売組合がある場合、販売組合がなくても農会がある場合には、これらに統制組合の機能を代行させることとしており、「内地で統制組合に代行すべき既設の販売組合は約8000、農会による代行は約1000、独立の統制組合をいくら新設するかは調査未詳だがその数は極く僅かの予定である」(東朝、2・22)と報 じられていた。そしてこのやり方は、農村経済更生運動の1つの柱として育成された産業組合を更に一層強化する反面、既存の米穀商の活動を圧迫することにな ると感じられたのであった。

  産業組合の側では、この法案を歓迎し、より一層販売統制における産業組合中心主義の徹底を要求したのに対して、米穀商の側はこの法案に絶対反対の態度を固め、すでに1月20日には全国米穀商組合連合会を 開き、反対運動の方策を協議した。そして2月26日にこの法案が上程され委員会に付託された時には、反対運動は諸政党のなかに滲透していた。そして「二七日から開かれる委員会委員の構成は政友会は農村関係委員の方が優勢だが、民政党は都市側委員の方が圧倒的で、国民同盟も都市議員を加へて審議に当たろうとしているので、委員会では都市米穀商の主張が相当活発に闘はさるべく、都市側委員と農村側委員は横断的に利害対立したまま委員会の席上で両者の主張を明らかにするため、各々異った目標の下に政府に相当つら くぶつかるもの」(東朝、2・27)と見られた。

  委員会は予想通り紛糾し、政・民両党間の共同修正案が成立したのは会期切れも迫った3月23日夜であり、午後8時から委員会、翌日午前中に本会議を開いて、可決するというあわただしさであった。修正点は販売組合による統制組合の代行を「特別ノ事情アルトキ」に限定するなど、「要するに産業組合の進出を極力押へることを主眼とし、その他の枝葉末節の辞句の修正は全く米穀商の意を迎へんがため木に竹をついだぎこちないものになっている」(東朝、3・23)と評された。なお同じ委員会にかけられていた米穀統制法改正案(米の政府への売渡し申し込みが一時に殺到するのを防ぐため最低価格に金利及び保管料を加算する、災害等の場合の政府所有米の道府県への売渡しを認めるなど)、籾共同貯蔵助成法案(産業組合・農会等が出廻り数量の調節・備荒貯蓄の目的で扨を貯蔵した場合には、金利・保 管料に相当する政府所有米を交付して助成する)も同時に可決され、米穀自治管理法案とともに貴族院に送付された。しかし会期はあますところ1日しかなく、もみにもんだこの法案も結局審議未了に終わってしまった。

  繭取引についての統制法案の場合には、米穀自治管理法案におけるよりも、一層事態は紛糾した。というのは、最初政府案に賛成していた筈の業界のなかから、突如として強力な反対論がわき起こってきたからであった。すでに第65回議会において、議員提案による繭処理法案、政府提出の輸出生糸販売統制法案を修正した輸出生糸取引法案が衆議院を通過しており、この時点で繭・生糸取引の統制については基本的な合意が出来あがっているようにみえた。そのうえ政府は、業者の連合体である日本中央蚕糸会の答中にもとづいて、前議会の衆議院通過案を緩和したのであり、従って、その通過を楽観していたようであった。

  繭・生糸取引の統制は、不況の深化とともに要請されるようになった問題であり、まず、短時日に処理しなければならない生繭形態での取引で養蚕者が買いたたかれることを防ぐために、乾繭取引を原則とするよう規制する。次に統制組合によって輸出面を規制する、という両面からの対策によって、養蚕・製糸業を安定させようという考え方に立っていた。

  このうちで今議会に提案されたのは、前者に関する法案であり、2月28日の本会議には産繭処理統制法案・蚕糸業組合法改正案・蚕糸業改正案の3件が上程された。その内容は乾繭取引を原則とすること(ただ し、さきの繭処理法案が「繭ハ乾繭ニ非サレハ売買スルコトヲ得ス」と規定したのとはちがって、行政官庁の許可を 条件として、生繭による特約取引をも認めた)、繭の品位検定を道府県に行わせて公正を期すること、蚕糸業組合を強化すると共に、蚕糸共同施設組合の制度を新設すること、などであった。ところで政府が別に準備していた輸出生糸販売統制法案については、生糸問屋などの強い反対があって提案がおくれていたが、この産繭処理統制法案等は業界の支持があるものとみられていた。

  ところが中央蚕糸会が1月の総会で産繭処理統制法案支持の決議を行った直後の2月6日、突如として関西系製糸資本の肝煎りで産繭処理統制並に輸出生糸販売統制絶対反対を叫ぶ「全国製糸業者大会」なるものが東京・赤坂で開催されるに至り、さらに法案上程後の3月3日に聞かれた全国製糸連合会評議員会でもさ きの政府案容認がくつがえされて、政府案全面反対の決議が行われたのであった。そしてこの豹変は「一部大製糸資本の策動と、後門の狼たる輸出生糸販売統制法案(未提出)を阻止せんがため、先づ前門の虎を射止めんとする生糸輸出資本のだくらみ」(東朝、3・9)によるものとみられた。そして彼等の運動は急速に政党にも滲透していった。   

 

「産繭処理法案の審議を付託された27名の委員顔振れを見ると、政友会側では、前述の全国製糸業者大会にも出席して猛烈なる反対演説をやってのけ旗幟を鮮明にした大口氏を委員長に、某紡績との繋がりを噂される某々両氏を始め選挙地盤関係から繭糸業と因縁深い福島・茨城・千葉・愛知選出の4氏あたりをズラリと並べ、而もこの外国民同盟からは某紡績系たる某氏、民政党からはこれまた繭糸業関係の某々氏など明かに同法案にとって旗色の悪い連中だ、全国養蚕連合会を始め、組合製糸連合会、蚕種連合会、農会、産業組合中央会など農業関係団体が愕然色を失ったのも無理からぬ話である」(東朝、3・12)


 こうした状況に対しては、第65回議会で可決された繭処理法案の「提案者並に賛成者の中には、今回の特別委員会に名を列する者多数あるに拘らず、これらの人々が俄然その態度を一変して、却って今回の産繭処理統制法案の議会通過を阻止せんとしていることは、いかなる理由に因るものであるか諒解に苦しむと共に、その無責任と背徳にも驚かざるを得ない」(東朝、3・ 13社説「議会不信の一例」)との批判があびせられたが、委員たちの態度を変えさせることは出来ず、この3法案は結局委員会を通過することなく、審議未了・ 廃案におい込まれたのであった。

  同様の事態は、肥料業統制法案についてもみられた。 この法案は、肥料業の設立・譲渡・合併・解散などを 許可制にし、強制カルテルを結成させて、政府の監督下で生産数量の割当て、価格の決定などを行わせることを規定し、企業保護と批判されたものでもあったが、  「同法案に対しては肥料業者間に猛烈なる反対あり、又同法案は結局消費者たる農民にも利益をもたらさないといふ論もあり、肝腎の当局にも通過に対する熱意がないので審議未了になることは明かである」(東朝、 3・18)とみられていたが、結局、町田・山崎両相の出席がないとの理由で3月24日、委員会は審議を打切ってしまった。

  このほか、鉄ノ輸入税ニ関スル法律案も衆議院の委員会段階で未了となっており、政府側の用意した産業関係法案は全滅に近い有様であり、この議会は岡田内閣の弱体ぶりを一層強く印象づける結果に終わった。

  この議会で成立した法案は、軍需工業など好況産業に特別税をかける臨時利得税法案が両院協議会の未、かろうじて成立した以外では、倉庫業者の取締り・監督を規定した倉庫業法案、衆議院議員選拳法の改正に伴って選挙関係規定の手直しを行った府県制・市制・ 町村制改正案などが主なものであった。また治安維持法改正案は第65回議会での議会の意向をいれて條正し、さらに右翼取締りをねらいとする不法団紡等処罰ニ関スル法律案をも加えて提案されたが、これもまた衆議院の委員会をも通過せず審議未了に終わった。そのほか衆議院の総意ともいうべき、常置委員会新設を中心とした議院法改正案が、三たび衆議院を通過したが、貴族院の反対は変わらず、日の目をみることができなかった。               

(古屋哲夫)