『歴史公論』4巻8号

1978年8月

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戦争政策の拡大と矛盾


表紙

古屋 哲夫

1 日中戦争構想の破たん
2 戦争構想の転回過程
3 緒戦だけの戦争構想



1 日中戦争構想の破たん

 1941年8月、軍部が対米英戦争の方向に急速に傾斜してゆくなかで、近衛文麿首相は、行詰り打開の最後の試みとして、ルーズベルト大統領にたいし直接会談を提議するメッセージを発した。野村吉三郎駐米大使は8月28日、同メッセージをルーズベルトに手渡すとともに、「大統領ハ『メッセーヂ』ヲ読ミ非常ニ立派ナルモノナリト大ニ賞賛シ……先ツ満足ノ模様ニ見エタリ」(同日付外相宛電報、外務省『日米交渉資料』213頁)と報じた。このとき、一瞬、日米交渉が妥結するかもしれないという想いと、その妥結が日中戦争の「成果」を崩壊させるかもしれないという危惧とが、軍部のなかからも生まれた。参謀本部第20(戦争指導)班の「機密戦争日誌」8月29日の条には、つぎのように記されている。

 

(駐)米武官より、米大統領宛て近衛総理返電を、米大統領機嫌にて受理せりとの電あり。「ハワイ」における両巨頭の会談ついに実現するや。実現すればおそらく決裂はなかるべく、一時の妥協調整による交渉成立すべし、はたして然らばついに対米屈服の第一歩なり、帝国国策の全面的後退をたどるべし。さればとて戦争を欲せず、百年戦争は避けたし。ここにおいて帝国が力ほどもなき大東亜建設に乗り出せるが、そもそもの誤りならずや。支那事変発足が不可なりしならずや。(「大本営機密戦争日誌」『歴史と人物』昭和46年9月号)


  つまり、「支那事変」→「東亜新秩序」→「大東亜共栄圏」という戦争政策の展開が、アメリカによって後退させられねばならないとしたら、そもそも「支那事変」をおこしたことが誤りだったということになりはしないか、というのである。そしてそこから、「支那事変」以来の「成果」を確保するためには、確たる勝算のない対米戦争をも辞さない、という主戦論が生まれる。それは開戦過程を主導した軍部、とくに陸軍主流派の意識にほかならなかった。しかし、西に向かって中国大陸に攻めこんだはずの戦争政策が、なぜ、反転して太平洋の彼岸のアメリカとの戦争にいきつくのであろうか。太平洋戦争への道をあきらかにするためには、まず、日中戦争における戦争政策の性格をみることからはじめねばなるまい。
 いったい、「支那事変」とよばれた対中国戦争を強行した日本側は、具体的にはなにを目的としていたのであろうか。蘆溝橋事件から華北総攻撃に転じたさいの政府声明は「支那軍ノ暴戻ヲ膺懲シ以テ南京政府ノ反省ヲ促ス為」とのべているが、その直接のねらいが、35年以来の華北分離工作の貫徹におかれていたことは、37年12月21日の閣議で決定(さらに38・1・11の御前会議で決定)されたつぎのような講和条件からもうかがうことができる。

日支媾和条件細目

 

1.

支那ハ満州国ヲ正式承認スルコト

 

2.

支那ハ排日及反満政策ヲ放棄スルコト

 

3.

北支及内蒙ニ非武装地帯ヲ設定スルコト

 

4.

北支は支那主権ノ下ニ於テ、日満支三国ノ共存共栄ヲ実現スルニ適当ナル機構ヲ設定、之ニ広汎ナル権限ヲ賦与シ特ニ日満支経済合作ノ実ヲ挙クルコト

 

5.

内蒙古ニハ防共自治政府ヲ設立スルコト、其ノ国際的地位ハ現在ノ外蒙ニ同シ

 

6.

支那ハ防共政策ヲ確立シ日満両国ノ同政策遂行ニ協力スルコト

 

7.

中支占拠地域ニ非武装地帯ヲ設定シ、又大上海市区域ニ就テハ日支協力シテ之カ治安ノ維持及経済発展ニ当ルコト(以下略)(外務省『日本外交年表竝主要文書』下、380頁)


  このうち7は、上海・杭州・南京の占領にともなう新たな要求であったが、1〜6は蘆溝橋事件にいたる35〜37年の間の対中国政策の主要な目標にほかならなかった。とくに、4、5の華北および内蒙古を国民政府から切り離し(名目的主権は認めるとしても)、実質的に日本の支配下におくことは、華北分離工作以来のねらいであった。そして38年1月16日の「爾後国民政府ヲ対手トセス、帝国と真ニ提携スルニ足ル新興支那政権ノ成立発展ヲ期待」するという、いわゆる近衛声明は、華北分離の発想に立脚し、この講和条件4、5の想定した親日地方政権が順調に発展し、国民政府はこれを妨害しえないまでに無力化するといった事態を想定していたものであった。武漢作戦後の38年11月においてもなお、陸軍中央部は「事変解決当面ノ目標ハ少クモ日満北支ヲ一環トスル国防圏ノ自主的確立ヲ以テ主眼」とすると規定していた(「13年秋季以降戦争指導方針」防衛庁戦史室『大本営陸軍部(1)』572頁)。

  このように、蘆溝橋事件以後の対中国戦争政策が華北分離工作の延長上に構想されていたということは、この戦争をできるだけ短期の限定戦争にしておきたいという戦争指導者たちの意図を物語るものであった。しかしこのことは、彼らがこの限定に満足していたということではなく、みずからの軍事力の弱さを感じていたということを意味していた彼らがおそれたのが、中国ではなくソ連であった。「満州事変」以後のソ連極東軍備のめざましい増強により、もし中国との戦争に全力を投入している間に、ソ連との戦争が並発したならば、日本は敗北すると考えられた。すでに蘆溝橋事件前年の36年には「今や昭和8年度(対ソ)作戦計画以来堅持してきた方式の攻勢作戦も、成功の望みが薄くなり、他方、一旦防勢に立てば、全正面たちまち崩壊することは火をみるよりも明らかになった。かくて昭和12年度の作戦計画にあたっては、もはや確信ある計画はたてなくなった。」(同前、410頁)

  つまり、いわゆる「支那事変」における戦争構想の限定は、ソ連の軍事力の側面からの圧力によってよぎなくされたものであったが、そのことは、当面の「事変」を、このような圧力を排除し、より満足しうる成果をあげうる次の大戦争の、前段階に位置づけようとする構想を生み出すことになった。そして、ナチス・ドイツの勃興は第二次大戦の遠からざることを感じさせるものがあった。はやくも38年1月30日、参謀本部作戦課は、つぎのような「昭和13年以降ノ為ノ戦争指導計画大綱案」を策定している。

 

今次支那事変ヲ転機トシテ発展スヘキ帝国四囲ノ新情勢ニ処スル帝国ノ国防方策ハ、東亜長期ニ亘ル戦争ニ対シ計画的ニ準備シ且之ヲ自主的ニ指導シ以テ我国是ニ基ク東亜経綸ヲ遂行スルニ在リ
之カ為先ツ当面ノ対支持久戦を指導シツツ速カニ昭和軍制ノ建設及国家総力ノ増強整頓ヲ強行シテ対「ソ」支ニ国戦争準備ヲ完成ス、此ノ間「ソ」邦ノ動向ニ対処シツツ政戦両略ノ運用ニ依リ速ニ対支戦争ヲ終結ニ導ク
本計画ノ期間ハ昭和十三年ヨリ同十六年二亘ル概ネ四年間ト予定ス、爾後近キ将来二予想スヘキ国際情勢ノ一大転機二備フル為ノ戦争準備ハ右ニ引続キ之カ完成ヲ期ス(同前、五三二頁)


  この戦争計画は、ドイツの軍拡の速度からみて、第二次大戦の勃発を1942年ごろと想定し(たとえば40年4月1日の中島鉄蔵参謀次長の講演参照、同前583頁)、それまでにできるだけはやく「支那事変」 を打切り、ソ連・中国との二正面作戦を遂行できるだけの軍備をつくりあげようとするものであった。しかしこの計画は「支那事変早期」打切りという大前提から崩壊していった。

  端的にいえば、それは短期限定戦争構想がソ連の軍事カヘの顧慮からのみ発想され、当の相手である蒋介石政権の抵抗を限定するためのきめ手を、なんら持たない、ということに起因していた。参謀本部は当初、華北においては「保定、独流鎮ノ線以北」(ついで「石家庄、徳州ヲ連ヌル線以北」)、華中においては「蘇州、嘉興ヲ連ヌル線以東」などと作戦区域を限定しながら、「敵ノ戦争意志ヲ挫折セシメ戦局終結ノ動機ヲ獲得スル目的ヲ以テ速二中部河北省(あるいは〈上海附近〉)ノ敵ヲ撃滅スヘシ」などと命じたが(『現代史資料(9)・日中戦争(二)』参照)、しかしこの二つのことがらは矛盾するといってもよかった。すなわち、参謀本部は限定された作戦区域において国民政府軍主力と決戦、これに痛撃を加えたならば、敵の戦争意志を挫折せしめることができると考えたが、特定地域での主力決戦を中国側に強要する方策を持ちあおせていたわけではなかった。

  したがって敵の主力が健在であるかぎり、主力決戦を求めて作戦区域を拡大するほかはなく、そのためにはより大きな兵力を投入しなければならなかった。38年5月徐州作戦、同9〜10月武漢作戦とあいついで大作戦が実施されたが、しかしこの作戦でも敵主力の包囲せん滅という目的ははたされなかったばかりでな く、日本の軍事力もここで限界に達するというありさ まであった。38年末の時点で「陸軍は内地に近衛師団を有するのみで、支那に二四コ師団、満鮮に九コ師団を配置し、全く攻勢続行の弾撥力を失っていた。」 (『大本営陸軍部(1)』575頁)。しかも中国軍が、大きな戦力を温存していることは、39年末から40年初頭にかけて、大規模な冬季攻勢をかけてきたことからも実証された。

  もはや、軍事力によって中国側の「戦争意志ヲ挫折セシメ」る可能性はなくなっていた。したがってまた、親日傀儡政権の発展と国民政府の無力化という 「対手ニセズ」声明の想定が、幻想にすぎなかったこともあきらかとなった。この状況においてなお、次期大戦争への準備のために「事変早期解決」に固執するとすれば、中国全体の秩序について、蒋介石政権とのあいだに妥協をはかるほかはなかった。

  38年11月3日の日本政府声明、同12月22日の近衛談話によってうち出された「東亜新秩序」のスローガソは、こうした方向転換を物語るものであった。しかし同じ次期戦争準備の観点からいって、日満華北を一体とする国防圈の確立=華北植民地化の要求は譲れないものと考えられており、さきの講和条件はそのまま東亜新秩序の中核に移されることになった。 要求の内容を変えることなく、戦争目的だけを「暴支贋懲」から「東亜新秩序」へと拡大するこのやりかたが、侵略性の拡大とうけとられることは必死であった。もはや日本側の構想のもとで、日中両国間だけで「事変」を「解決」する道はまったく閉ざされたといってよかった。そしてこの行詰りに直面した日本の戦争指導者たちは、より広い国際関係、より大きな戦争のな かに「支那事変」をとりこむことによって、状況打開の道をみいだそうとする方向に走りだすのであった。



2 戦争構想の転回過程

 中国を正面からの武力攻勢によって屈服させえないことがあきらかになるにしたがって、日本の軍部のあいだには、中国を国際的に孤立させることによって、 その戦意を喪失させようとする考えかたが生まれた。 とくに東亜新秩序建設が新たな戦争目的として掲げられてからは、蒋介石政権を支援する国ぐにを、新秩序の妨害者として打倒するか、あるいは新秩序の同調者に転向させようとする志向が、対外政策の中心にすえられるようになっていった。つまり、中国との戦争の行詰りに直面した日本の戦争政策は、援蒋勢力との対決という方向に動きはじめたのであった。そして最初 に問題となったのは、最大の在華権益を有するイギリスにたいする態度であり、それはヨーロッパにおける独英の対立とも連動していた。

  すでに日本とドイツとは、コミンテルンから名指しで攻撃されるという共通の立場を媒介として、36年1月、ソ連を対象とする防共協定を締結していたが、38年になると、ドイツは同協定を英仏などをもその対象に含めうる一般的な軍事同盟に強化しようとする動きをしめしはじめた。当時「防共協定強化問題」 とよばれたこの問題の処理は、平沼内閣(39・1〜8)の最大の政治課題となったものであったが、この問題をめぐる論議から、援蒋勢力排撃論は大きく台頭 してくることになった。ドイツの提案を積極的に支持したのは陸軍であり、その立場を板垣征四郎陸相は、39年5月7日の五相会議においてつぎのようにのべている。

 

目下日本の最も重要なる国策は支那事変の処理にあり、而して協定を結ぶのは事変の遂行に利する為に外ならず、即ち目下蒋を援けて居るもの「ソ」連と英なり、本協定を結ぶことにより彼等を欧州に於て牽制せんが為なり(『現代史資料(10)、日中戦争(3)』271頁)


  この構想は、新たにイギリスを打倒の対象に加える という方向をしめしており、対ソ一撃をねらってきた従来の戦争政策を大きく変更することを意味した。外務・海軍当局はこれに強く反対したが、それは英ソを 対象とした新たな戦争政策の樹立が、きわめて困難であるというみとおしにもとづくものであった。

  まず、このイギリスとの対決政策は、とうぜんアメ リカとの対立に発展すると予想しなければならなかった。さきの東亜新秩序声明にたいしては、米英ともに批判的態度をとったが、とくにアメリカはイギリスよ りも強硬に、日本が中国においてなにが新秩序であるかの条件を決定しようとすることに反対し、以後急速に対日態度を硬化させていた。さらに39年7月には日米通商条約の破棄を通告、日本にたいして経済封鎖を加えうる体側をととのえるにいたっている。そして日本にとってもっともおそるべき事態は、この経済封鎖によって、戦争継続能力そのものが崩壊することで あった。

  さきにみた日満華北一体の国防圏がかりに順調に発展したとしても、それは完全に自給的なものではなく、石油・ゴム・錫ニッケルなどの重要物資は、米英の勢力圏から獲得しなければたらなかった。したがって、「ソ支二国戦争準備」の構想は米英との経済関係の継続を前提していたといえる。

  このような難問がある以上、防共協定強化問題にたいする対応が紛糾するのは必然であったが、この問題自体はドイツが39九年8月23日、独ソ不可侵条約を締結したことによっていちおう終止符が打たれた。しかし反共の友邦と考えられてきたドイツが、当のソ連と手を握ったこと、さらに9月1日ポーラソド侵攻 によって第二次大戦をひきおこしたことは、日本の戦争指導者に大きな衝撃を与え、その戦争政策をさらに転換させる契機をなすものとなった。

  予想よりもはるかに早い大戦勃発にたいしてなんの準備もしていなかった日本としては、当面中立を堅持 して戦争がアジアに波及するのを防止するとともに、汪兆銘工作、桐工作(重慶政府との直接交渉をねらう)などによって、「支那事変」早期解決にあせりはじめた。しかし同時に、欧州戦争という条件に対応する新たな政策方向も生みだされつつあった。

  まず第一には、対独戦争によって拘束されている英仏はアジアでは積極的行動をとりえないと想定し、英仏をしてその植民地を通ずる援蒋行為をやめさせ、さらには東亜所秩序に同調させようとする志向であり、それは欧州戦争を契機として、さきの援蒋勢力との対決の方向がようやく現実の政策レベルに登場してきたことを意味していた。39年11月の南寧作戦はこうした方向の第一歩であった。

  第二の問題は、東亜新狭序に反対して通商条約を失効させたアメリカにどう対応するか、であった。太平洋の彼岸のアメリカにたいしては、新秩序に同調させ るなどといった手だてはなく、したがって通商条約を 復活させることも望みうすであった。とすれば、アメ リカにかわる軍需物資補給源を求めて、日米関係を凍結させておくことが有利だとする判断が生ずることになった。そこで目をつけられたのは、欧州戦争にまきこまれるにちがいないオランダの植民地蘭印(インドネシア)であった。蘭印の物資を安定的に確保できれば、さきの「日満華」に加えて自給的な戦争体制をつくることができるというわけである。そしてこの二つ の方向は結びあって「南進」という政策イメージを構成してゆくことになった。

  39年12月28日、陸・海・外三相間で決定さ れた「対外施策方針要綱」は、こうした新たな志向をつぎのようなかたちであきらかにしている点で、注目すべきものであった。

 

欧州戦争ニ対シテハ……差当り不介入ノ方針ニ則リ帝国ノ中立的立場ヲ最モ有効に活用シ、国際情勢ヲ利導シテ支那事変処理ノ促進ニ資スルト共ニ、南方ヲ含ム東亜新秩序ノ建設ニ対シ有利ノ形成ヲ醸成スル如ク施策スルモノトス(『日本外交年表並主要文書』421頁)


  この「要綱」は「主要列国二対スル施策方針」の項に、仏印(フラソス領インドシナ)、蘭印、泰(タイ)などにたいする施策を独立項目としてとりあげた点で、従来のこの種の方針書にみられない特徴をもつものであったが、さらにこれらの「南方」諸地域を「東亜新秩序」のなかに含めようとした点で重要な意味を持つものであった。それはつぎの段階であらわとなる世界再分割=大東亜共栄圈の構想への、第一歩をしるしたものということができる。そしてこのような「南進」志向を世界再分割構想に飛躍させるきっかけとなったのは、ヨーロッパにおけるドイツの電撃的勝利にほかならなかった。

  宣戦布告以来、双方とも積極的な攻勢にでることなく、奇妙な平穏状態がつづいていたヨーロッパの情勢も、40年5月10日、ドイツの西部戦線での大攻勢により、いっきょに急転してゆくことになった。ベルギー、オランダを席巻したドイツ軍は、同月末には30余万のイギリス軍をダソケルクから追いおとし、6月14日にはパリを占領、フラソスを降伏させた。そしてつぎには、ドイツの英本土上陸作戦によって、大英帝国が崩壊するのではないかという想いが、日本の戦争指導者たちをもゆさぶっていった。

  日本政府はこのような情勢を背景として、まず、フラソス、ついでイギリスにたいし、仏印、ビルマを通ずる援蒋ルートの閉鎖を要求、仏印当局には本国降伏直後の6月20日、イギリスには7月12日、この要求を受諾させたが(ただしイギリスは3ヵ月間)、この間、軍部のだかには、急速に「対南方武力行使」の声が高まりつつあった。そして援蒋国家群排撃、南方資源獲得の要求は、ドイツの勝利を媒介として、つぎの新たな戦争構想へと急転してゆくのであった。

  40年7月3日、大本営陸軍部は「世界情勢ノ推移 二伴フ時局処理要綱案」を決定し、翌日海軍側に提示したが、その骨子は、独伊との結束を強化するととも に、ソ連との国交を調整し、これを背景として「対英戦争」をふくむ対案武力行使にふみきるというものであった。すなわちまず仏印にたいしては軍隊の通過、補給、航空基地の使用などを、蘭印にたいしては重要資源の安定的供給を要求し、その貫徹のための武力行使を想定する。また、イギリスにたいしては好機をとらえ、「此際極力英国ノミニ之ヲ制限シ香港及英領馬来半島ヲ攻略スル」。そして、アメリカにたいしては「我ヨリ求メテ摩擦ヲ多カラシムルハ之ヲ避クルモ、帝国ノ必要トスル施策遂行二伴フ自然的悪化ハ敢テ之ヲ辞セサルモノトス」(『大本営陸軍部(2)』50頁)という のであった。

  この南方武力行使構想のかなめをなしているのは、アメリカをきりはなして、イギリスだけをたたけるような機会、たとえば、ドイツの英本土上陸により、アメリカは対英援助に全力を投入し、太平洋方面にはまったく行動しえないといった状況が出現することを想定している点であった。米英は不可分とみていた海軍側も、もし万一そのような局面が生じたならば、武力行使にふみきってもよいとして、この構想に賛成した。この構想が描いた終極の図は、ドイツ・イタリアがヨーロッパ・アフリカを支配し、日本はイソド以東のアジアを支配する、そして両者の中間に位置するソ 連とはペルシャ湾方面への進出を認めて提携するという、アメリカを除外した世界再分割の構図にほかならなかった。

  こうした新たな戦争構想を用意した陸軍は、その実現のために米内内閣を倒し、新体制運動にのりだしたばかりの近衛文暦をふたたび首相の座におしあげてい った(40・7・22、第二次近衛内閣成立)。7月26日、内閣成立直後の閣議で決定された「基本国策要綱」は、「世界ハ今ヤ歴史的一大転機二際会シ、数個ノ国家群ノ生成発展ヲ基調トスル新ナル政治経済文化ノ創成ヲ見ソトシ、皇国亦有史以来ノ大試練二直面ス」とのべて、日本の国策を世界再分割の一環に位置づけようとする態度を公式にあきらかにした。日本の目標は、東亜新秩序から「大」東亜新秩序へと拡大され、さらに松岡外相によって大東亜共栄圈建設といいなおされていった。翌27日の大本営政府連絡会議では、陸海軍閥で調整された「世界情勢ノ推移二伴フ時局処理要綱」が承認される。松岡外相は40年9月、日独伊三国同盟を、翌41年4月、日ソ中立条約を成立させていった。

  日本の戦争政策は、膠着した日中戦争をかかえたまま、欧州戦争の状況、援蒋国家排撃論などを媒介として、かつての対ソ戦争構想から、対英戦争の方向へと急転回をなしおえたかにみえた。しかし、この対英戦争構想は、その前提となるはずのアメリカ封じこめのための有効な手段をもたないという、致命的欠陥を内包するものであった。



3 緒戦だけの戦争構想

 1940年9月、日独伊三国同盟の締結とほとんど同時に、日本軍は北部仏印進駐を強行した。この軍事行動は日本の中国以外への侵略拡大の第一歩として米英からはげしい反発をうけたが、しかし、さきの「時局処理要綱」の見地からみれば、それはまだ対中国作戦のための措置であり、南方武力行使の第一歩といえるものではなかった。したがって軍部、とくにマレー半島侵攻をねらう陸軍は、北部仏印進駐につづいて、南部仏印および泰に南方作戦のための軍事基地の設定を要求するようになっていった。

  そして同年11月、泰・仏印間に国境紛争がおこる と、陸軍はこの調停を代償として両者に日本の軍事的要求を、武力を行使してでも認めさせることを主張 し、41年1月30日の大本営政府連絡会議では「仏印、泰二対シ軍事、政治、経済二亘り緊密不離ノ結合ヲ設定」(『杉山メモ』上、167頁)するという方針が決定された。しかしこの過程において、外相・海相らは武力行使など米英を刺激する方法をとることを避けようとし、けっきょく、3月になって紛争調停には成功したものの、その代償としては、日本にたいし直接間接に対抗するような性質をもつ政治・経済・軍事上の協定を、第三国と締結しないという約束をとりつけたにとどまっていた。
南方作戦のための軍事基地設定という陸軍の要求が、こうしたかたちで無視されたことは、陸軍の対英戦争構想を軸とした「時局処理要綱」が、はやくも現実に合わないものと考えられるようになってきたことを意味していた。そしてそこでのもっとも大きな問題は、「要綱」では無視されているアメリカの圧力が、現実には日々増大してきているということであった。いいかえれば、アメリカの干渉をうけずに対英戦争をおこなう機会などありえないということであり、そう した非現実的な前提に立つ「要綱」は、政策の指針たりえないというわけであった。

  アメリカはまず、北部仏印進駐と三国同盟成立の事実を確認すると、対抗措置として、9月25日には、蒋介石にたいする2500万ドルの借款供与を、 翌26日には、鉄鋼と屑鉄の全面禁輸を発表した。 これはアメリカが口先だけでなく、実効ある手段によって日本の侵略拡大に対処しはじめたことを示していた。当時の技術では製鉄のために多量の屑鉄を必要と しており、屑鉄禁輸は、日本の鉄鋼生産に大きな影響を与えるものであった。イギリスもこうしたアメリカの強硬態度にはげまされて、日本側のビルマルート閉鎖廷長の要求を拒否しその再開にふみきった。そしてこうした事態は、アメリカが最終的には石油の輸出を全面的に禁止するであろうことを予想させた。

  もちろんこうした経済封鎖自体は「時局処理要綱」も想定していたことであろう。40年9月から開始された小林一三商工大臣を特使とする対蘭印交渉では、日本側は石油を中心として、ゴム・錫・ボーキサイト・ニッケルなど大量供給を要求していた。「小林特使の要求した石油量は、毎年300万トソを5年間継続するところまで上った(ジャバ、スマトラ、ボルネオの総原油生産高の約40パーセント)。これは過去に蘭印が日本に輸出した数量の約五倍であった。これは通常日本に供給される総石油量の約5分の3に当り、たとえアメリカからの輸出が停止されても、日本が戦争するには十分な量であった。」(田村幸策『太平洋戦争外交史』283頁)

  これにたいして米英は、直接表立ってこの交渉に関与しようとはしなかったが、実際の交渉にあたる石油会社(スタンダード、ダッチ・シェル)にたいし、通常の商業取引以上の石油、とくに航空用ガソリンを日本に販売しないよう求めるなど、裏面から圧力をかけていたし、蘭印政庁も、蘭印を大東亜新秩序に含めようとする日本の政策に反対し、日本に優先的な特権を与えるような協定を結ぶことを拒否しつづけた。日本側は、40年11月、小林にかえて元外相芳沢謙吉を 送ったが、満足な結果をうることなく、41年6月には交渉を打ち切らねばならなかった。

  しかもこの間、米、英、蘭印、中国などのあいだに具体的な軍事協力の動きがはじまっていた。アメリカ は太平洋艦隊を増強、ハワイに集結させて日本の動きを牽制する体制をとり、41年1月から3月にかけては、ワシントンで米英軍事幕僚会談が開かれる。この間アメリカは蘭印に軍事飛行教官を派遣、イギリスは中国と軍事協定を締結、さらに41年4月21日か ら26日にかけては、シンガポールで米英蘭の現地軍幕僚会談が聞かれている。これらの動きのなかでは、当面対独戦争に主力を注ぎ、アジアでは戦略的防御の体制をとることが確認されているが、しかしもはや、日本がこれらのうちの一国だけに限定して、戦争をおこなうという条件はなくなっていた。しかも、日本が期待したドイツ軍の英本土上陸作戦は実現されず、英仏海峡の制海・制空権の確保を困難とみたヒトラーは、40年12月には、極秘のうちに対ソ作戦準備への転換を命じていた。

  こうした情勢のなかで、日本においても、海軍側は陸軍の米英可分論を批判し、米英不可分、つまり南方作戦は必然的に対米戦争に発展するという見解を強く打ちだしていた。40年11月の図上演習ののち、山本五十六連合艦隊司令長官は「蘭印作戦二着手スレバ早期対米開戦必至」(『大本営陸軍部(2)』142頁)とのべている。「世界情勢ノ推移二伴フ時局処理要綱」は、それに同意したはずの指導者たちのあいだでも、はやくも数カ 月にして死文化していた。大東亜共栄圈建設に固執するとすれば、つぎの戦争構想はアメリカを主敵とする対米英戦争として組み直さねばならなくなった。しか し、蘭印からの資源獲得交渉が進展しないという状況のもとで、対米英戦争を構想することはきわめて困難であった。陸軍においても、41年3月、陸軍省戦備課の「物的国力判断」は、「帝国の物的国力は対米英長期戦の遂行に対して不安あるを免かれない」、したがって「帝国はすみやかに対蘭印交渉を促進して、東亜自給圈の確立に邁進するとともに、無益の英米刺激を避け、最後まで米英ブロックの資源により国力を培養しつつ、あらゆる事態に即応し得る準備を整えることが肝要である」(同前、216〜7頁)、つまり当面、対米英戦構想は成り立たないとするものにほかならなかった。

  対米戦争を避けようとする意図は、日本の戦争指導者のあいだに充満していった。41年4月に締結された日ソ中立条約も、松岡外相の主観からいえば、日独伊ソの協力関係を示すことで、アメリカに参戦をあきらめさせようとするものであったし、同じころはじめられた日米交渉も、「支那事変」をアメリカとの諒解のもとで終結させることによって、対米戦争を回避することをねらったものであった。しかし前者は、41 年6月の独ソ開戦によってその基礎を失ったし、後者は東亜新秩序を否定し、日本軍の中国からの全面撤兵を主張するアメリカにたいして、軍部は中国への長期駐留に固執する、というかたちで破綻していった。そして、この間、海軍側からこれまでとは異なった対米戦争論が提起されていた。
 41年3月には、陸海軍の戦争指導関係主任者の接衝がおこなわれたが、そこで海軍側は、「時局処理要綱」にみられた好機便乗の武力行使を全面的に否定 し、南方への武力行使はアメリカの全面禁輸など、対日圧迫が激化したばあいにかぎるという見解を示した。海軍としては、石油の欠乏による戦争能力の喪失をおそれていた。

  以後の戦争構想は、この海軍側の、重要資源を確保するための戦争という発想を軸とするものに転換されていった。独ソ開戦の直前、6月6日、大本営陸海軍部の正式決定となった「対南方施策要綱」は、まずその目的を「帝国ノ自存自衛ノ為速カニ綜合国防カヲ拡充スルニ在リ」と規定し、そのために、仏印・泰とのあいだに、軍事・政治・経済にわたる密接不離の結合関係、蘭印とのあいだに緊密なる経済関係を確立することを求めていたが、その実現方法は、外交的施策によるを本則とするとして、「時局処理要綱」の武力行使構想を否定した点を特徴としていた。そして武力行使は、「(1)英米蘭等ノ対日禁輸ニヨリ帝国ノ自存ヲ脅威セラレタル場合、(2)米国力単独若クハ英蘭支等ト協同シ帝国二対スル包囲態勢ヲ逐次加重シ帝国国防上忍 ヒ得サルニ至リタル場合」(同前、219頁)などに限定した。

  しかしこの方針もまた、モの直後の独ソ戦争の勃発 によってたちまち動揺させられていった。一方では、ドイツの電撃的勝利が再現されるなら、そのわけまえにあずかろうとする対ソ戦論が台頭し、他方では、戦争能力確保のための早期南方進出がとなえられた。そして7月2日の御前会議では、関特演として実施された「対ソ戦準備」と、南部仏印進駐として実現される南方進出とを並記した「情勢ノ推移二伴フ帝国国策要綱」が決定される。そしてそこには南方進出のためには「対米英戦ヲ辞セス」と記されていた。それはさきの「対南方施策要綱」の限定をくつがえして、みずからを武力行使の局面においこむことを意味していた。

  7月28日、南部仏印進駐が実施されると、アメ リカは石油の対日全面禁輸をもってこれを迎えた。これにより当面の対ソ戦論は後景にしりぞき、対米戦問題が前面に押し出されることとなった。

  軍部は、米英側の戦備がととのわないうちに、できるだけ早期の開戦を主張するようになった。海軍はいまなら石油の貯蔵量からみて二年間は戦争がやれる。 しかしこのまま推移したら戦力を失い、アメリカに屈伏しなければならなくなると主張した。ではそのあとはどうなるのか。軍部側も、アメリカを屈伏させる手段のないことを認めながら、緒戦の勝利によって、重要資源を確保するならば、不敗の態勢をきずくことができる。そうした長期不敗態勢を確立することによっ て、世界情勢の推移のなかから戦争終結の手がかりをつかむことができるのだと主張した。世界情勢の推移 とは、ドイツの勝利ということにほかならなかったであろう。

  41年12月8日、日本はこうして終末のみとおせない戦争へと突入していった。しかしその同じ日、ドイツ軍はモスクワ攻略に失敗して退却を開始していたのである。
(ふるや・てつお=京都大学助教授)