『帝国議会誌』第38巻

1978年8月

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第七五回帝国議会 衆議院解説


 

古屋 哲夫

 

政友会、ついに分裂
昭和一四年度物動計画と物価政策
労働者統制の強化と労務動員計画
平沼内閣から阿部内閣へ
貿易省設置問題の紛糾
九・一八価格停止令

小数閣僚制の破綻
第七五回議会の召集
阿部内閣から米内内閣へ
抹殺された斎藤演説
斎藤隆夫除名問題
議案審議の状況



政友会、ついに分裂


 政友会では、1937(昭和12)年2月、鈴木喜三郎総裁が辞意を表明し、鳩山一郎・前田米蔵・中島知久平・島田俊雄の四名が総裁代行委員として党運営にあたって以来、次期総裁の座をめぐって内紛が続いていたが、第七四回議会が終わると遂に党の分裂にまで発展していった。政友会の内紛は、中島知久平派と鳩山一郎派との対立を軸として展開されてきたが、鳩山が田中内閣時代から鈴木総裁時代にかけて党内主流派を形成し、五・一五事件以後も議会主義的立場から、斉藤内閣以後の歴代内閣に是々非々の態度をとろうとしていたのに対して、中島は軍需と共に急発展した中島飛行機会社を背景とした新興勢力であり、自ら国政一新会を組織し、軍部勢力とも提携しながら新党運動にも加わり、政界再編成にあたっての有利な地位を確保しようとしていた。

  従って、日中戦争が全面化し、政治体制の戦時化が叫ばれるとともに、中島派の勢力が増大し、自由主義的とみられるようになった鳩山を排除して、中島を総裁とすることで時流に乗ろうとする圧力が強まってい た。そしてこの間に、二・二六事件に連坐していた久原房之助が無罪となって再登場してきたことで事態はより複雑となっていた。久原は、一国一党論・重臣ブ ロック排撃を唱える、より急進右翼的とみられてきた政治家であった(「第七四回帝国議会衆議院解説」参照)。こうした政友会の内紛は第七四回議会開会により一時休戦となったが、同議会の終盤になると、議会後に予定されている党役員の改選をめぐって早くも再燃してきたのであった。党役員、とくに幹事長の椅子が争奪の対象となったのであるが、代行委員会はこの問題を 解決することができず、39(昭和14)年3月22日の委員会では


一、

四月中に臨時党大会を開き総裁問題を解決すること。

一、

臨時党大会終了まで党役員は留任すること。


という申し合わせがなされた。このことは、日常的な党運営をなし得ないまでに、内紛が激化してきたことを示すものであり、従って党大会を開いてみても総裁問題を解決できるかどうかは疑問であった。3月26日の政友会総務会でも、大会を開いて総裁を決定できるという確信があるのか、大会では投票により総裁を決定せよ、新役員が決められない程なのに、総裁が決められる筈はない、代行委員は辞職せよ、などの論議が出て紛糾し(東朝、3・27)、翌日に予定された議員総会も開けない有様となった。もはやこれまでの代行委員制によっては事態を打開できないことは明らかであった。

  そこで3月28日の代行委員会では、さきの申し合わせを「現代行委員で押切り得る自信がないから更に 総務会の意見を徴したる上、長老会議を開きその意見に基き善処するといふことに意見一致した」(東朝、3・29)。このことは、代行委員会が総裁問題を投げ出して長老(元閣僚の三土忠造・久原房之助・芳沢謙吉及び元衆議院議長の堀切善兵衛・浜田国松)に頼り出したものとみられたし、政友会内の情勢については、

 

 「中島・鳩山両氏は共倒れとなったことと、(総裁決定を)選挙に依らないことと、現在の代行委員制度を存置せしむることは不可であるといふことだけは殆んど確定的と見てよい。而して党内には委員制の持続は最早忍び得ないとの空気は相当濃厚であるから、久原、三土、芳沢氏等の長老中より総裁を推挙せんとする空気の出来てくることは明白であり、就中、政界に残された唯一のダーク・ホースたる久原氏に対する期待は漸次昂まらんとしている」(同前)


とも報ぜられた。

 しかし、こうした見方に反発するように、同じ28日、中島派の宮田光雄・木下成太郎らは59名を集めて有志代議士会を開き、政友会革新同盟を結成、党内での多数を獲得し得るとの確信のもとに、堀切善兵衛を 実行委員長として、「総裁を投票により決定するため、速かに党大会を開くべし」とする署名運動を開始し、長老会議に圧力をかけようとした。当時の代行委員会では、前田は反鳩山で中島と接近し島田は中島総裁の実現に積極的になっていたから、三対一で中島が優位に立っていたが、長老会議では中島派は筆頭総務でもある堀切のみで一対四とその立場は逆転していた。

  3月31日から代行委員と長老側との接触が始めら れたが、4月8日の長老会議では堀切が党大会での総裁公選を主張したのに対して、久原・三土・芳沢・浜田らは「現在の状態が既に代行委員の手では如何ともなし難い状態となっている以上、代行委員の権威は既に全く失はれているのだから、長老に諮問するといふやうな態度をとらず代行委員を辞して代行委員も長老としての立場に還って、隔意なき意見の交換をなすべ きであり現代行委員に対し単なる参考意見を述べるが如きことには応じ難し」(東朝、4・9)との態度を示 した。こうした久原らの動きは、さきの代行委員会の3月22日申し合わせを根拠とし、早急に大会を開いて中島総裁を数で実現しようとする革新同盟の強行策に対して、党内各派が反中島連合を形成しつつあること、そしてそのためには代行委員会を解体しその申し合わせも白紙にかえして、再編された長老会議により主導権を奪回する戦術が立てられたことを示すものであった。従ってここから、総裁問題をめぐる争点は、さきの代行委員会申し合わせによる大会強行か、代行委員総辞職による事態収拾か、といった形に移行していった。

  4月14日の代行委員会では、まず鳩山一郎が「現に党規を紊乱している革新同盟をさえ解消も除名も出来ず、そのために代行委員会の4月中に党大会を開くといふことさへ実行し得ぬ代行委員が存続して見ても問題解決の故障になるだけで少しも益はない」と総辞職を主張したのに対して、島田俊雄は「政友会の紛糾は結局、代行委員会が全員一致制をとっていることにある。事がここ迄来た以上は多数決制をとる以外に打開の方法はない」として中島派の立場を明らかにし前田米蔵もこれに賛成して激論がかわされた(東朝、4・15)。さらに17日の代行委員会では、島田が「党大会の期日を決定し、その上に於て円満解決の方策を講ずれば投票を用いずして総裁は決定し得る」と主張すれば、鳩山が「円満に総裁を決定し得る見通しがつかない以上は、大会の期日を決定することは徒らに党を紛糾に陥れるのみである」と反論(東朝、4・18)、鳩 山・中島を副総裁とするという妥協工作も成功せず、4月20日の代行委員会は決裂状態に陥った。

  この間、4月13日の革新同盟首脳部会議では、「現代行委員を対手にしていたのでは4月中に党大会を開 くことは不可能であることが明白であるから、革新同盟は既定の方針を強行し、同盟総裁に中島氏を推戴し、独自の幹事長、総務を決定し、同盟を拡大強化して政友会を併呑する以外に方法はない……直に革新同盟大会招集の手続をとり同盟総裁を推戴すべし」(東朝、4・14)との強硬論が出されているが、これに対して鳩山派・中立派などの間では代行委員の辞任を求め、それにかえてさきの長老らを総裁銓衡委員とし、事態を打開しようとする動きが活発となっていた。しかし新興勢力である中島派にとって、こうした長老達の動きが不利になることは明らかであり、4月22日にいたって党大会の開催という強行策に踏み切ることになった。

  すなわち、4月22日島田代行委員は堀切筆頭総務に対して、4月30日に党大会を開催する手続をとることを指示し、堀切は翌日緊急総務会を召集(反中島派の一部欠席)するに至った。席上堀切は、党大会開催に関する代行委員の命令を補佐・執行する旨を告げ、 反中島派の反対に対しては、総務会の決議を求めるわけではなく「協力する人の協力を要請するのみである」とつっぱねた。堀切らは党則第三条「総務は総裁を佐け、党務を執行す」との条文は、個々の総務が執行機関であることを認めたものとの解釈を示したが、この解釈は如何にも無理があり、党内はたちまち大混乱に陥っていった。

  しかし反中島派も、すでに党代議士の半数を制する勢力を有する中島派の行動を阻止する有効な方策を見出し得ず、4月28日にいたり、実質的には引退していた病中の鈴木総裁を動かし、これまでの四代行委員を罷免して久原・三土・芳沢の三長老を新たに総裁代行委員に任ずるという措置をとらせた。これによりさ きの3月22日の代行委員会申し合わせ、及びそれにもとづくものとした島田代行委員の指示も無効となる筈であったが、中島派はもはやそうした名目の問題を無視していた。そして4月30日の状況は次のように報ぜられている。

 

「政友会革新同盟は中島総裁推戴のため三十日午後二時から本部で党大会を開くことを公表していたが、二十九日夜来、反って本部は久原、三土、芳沢三代行委員初め、反中島派に占領せられ、しかも右三代行委員は三十日午前五時半本部で代行委員会を開き、政友ビル内の貸事務所は除き、本部に属する会議室(大会の予定会場)、食堂、幹部室、幹事長室、幹事室では三十日中は一切の会合を禁止する旨を申合せ、右の旨を貼出したので、革新同盟は手も足も出ぬ状態となった。


 ここに於て前田、島田、中島3氏は午前10時から鉄相官邸で協議の結果、大会を開いて中島総裁を実現せしむることは不可能であるから、第三者候補として水野錬太郎を推すこととし、中島氏がその指名権をとることに依って、面目を保つ外なしといふことに意見一致し、中島氏は午前10時半松野氏(鶴平、総務)を訪問、同氏の調停に依り久原、芳沢、鳩山氏等の諒解を求めたが、中島氏は体面上『水野氏』 といふ名前を出さず、絶対指名権を一任されたしと主張したので、3氏はこれを一蹴、午後1時物分れとなった。

  而して形勢の逆転を認めざるを得なくなった革新同盟側は松野氏の仲介に依る久原氏との会見に一縷の望みをつないでいたが、之も絶望なりと見越し、遂に同日午後零時30分から政友本部屋根裏の『七和会』事務所に会合し、中島氏を総裁候補に推し、同氏の受諾を得た上、2時から大会を開いて中島総裁を推戴せんとしたが、中島氏は大勢非なりと見てこれに同意せず、ために革新同盟は動揺を来し、中島氏の優柔不断の態度に対し非難の声がやうやく高くなった。ここにおいて島田氏は、未だ今後も妥協の道が全く閉ざされた訳ではないから一応受諾して置かないと味方の陣営は総崩れになる、といって中島氏を説得した結果、中島氏も之に同意し一応受諾を革新同盟に言明することとし、同3時同じく七和会で革新同盟の会合を開き、受諾の旨を述べ直ちに散会した。

  而して革新同盟はこれを以て党大会なりと称し『中島新総裁挨拶』を発表し、同志を以て『更生政友会』 を建設する旨を述ペ1日には朝野名士を東京会館に招待して披露宴を張るといっている。……かくて政友会は鈴木総裁指名に依る三土、久原、芳沢3代行委員を中心とする正統派と『更生政友会総裁』中島氏を首班とする革新同盟とに分れて尚相当の紛糾を続けるものと見られる」(東朝、5・1)。

  中島知久平が最終段階で動揺したとしても、革新同盟の強行策への反発は反中島派の結束をも強めることとなり、政友会は、かつての政友本党の分裂につぐ2度目の大分裂という事態に陥ったのであった。反中島派は政友会正統派と呼ばれた。正統派は当初、「反中島」という当面の敵対関係では共通しているものの、 鳩山派と久原派といった性格を異にする派閥の連合体であり、総裁の選出を避けて代行委員制でゆくものとみられていたが、任期の切れる鈴木総裁の意向もあり、幹部間でも「革新派撃滅のため戦闘態勢第一主義で臨むといふことに意見一致し、右の理由から久原氏を後継総裁に推すといふことに諒解が成立」(東朝、5・13)、5月20日の党大会に於て、久原は正式に鈴木喜三郎をつぐ政友会第八代総裁に就任した。鈴木は五・一五事件直後の1932(昭和7)年5月20日、任期7年で第七代総裁の座についたものであった。

  この分裂にあたって若干の議員は、両派の再統一を 唱え、8月15日には、松村光三・太田正孝・犬養健・武田徳三郎らの提唱により、「政友会総裁単一化」推進のための全国大会が開かれている。この派は、衆議院副議長であった金光庸夫が実力者であったことから、 政友会中立派、統一派、金光派などと呼ばれた。しか しすでに述べたようにこの政友会の分裂自体が政界再編成への対応を軸として展開されたものであり、従って1年後に実現される新体制運動の潮流にどうかかわってゆくかが主要な関心となり、政友会の再統一などといった問題はもはや後景におしやられてしまっているといってもよかった。また、鳩山派に対して「革新派」と自らを位置づけていた中島派も、久原が正統派総裁となるとその「革新」の看板もあいまいとなり、 両派は以後、右翼的革新性を競い合うこととなった。 そしてその過程では、第七五回議会における斉藤隆夫除名問題をめぐり、正統派を構成する派閥間の性格のちがいといった問題も露呈されてくることになるのであった。



昭和一四年度物動計画と物価政策

 政友会が内紛にあけくれていた4月7日、平沼内閣は拓務大臣(八田商相兼任)に前朝鮮軍司令官小磯国昭、 逓信大臣(塩野法相兼任)に内閣書記官長の田辺治通を補充し、政策遂行への意欲を示した。書記官長の後任には、首相秘書官の太田耕造が任命された。

  しかし平沼内閣はこのときすでに、さまざまな困難に直面していた。まず対外政策の面では近衛内閣から防共協定強化問題をひきついでいたが、この協定をドイツの要求するように、英仏などをも対象とする一般的軍事同盟にまで強化するかどうかについて、板垣陸相と有田外相・米内海相との対立がくり返されていた (「第七五回帝国議会貴族院解説」参照)。また内政面では、戦争の長期化とともに顕在化してきた物不足・物価騰貴などの現象に直面しながら、戦争遂行と生産力拡充という2つの課題を同時に達成することが求められていた。

  生産力拡充計画は、すでに1936(昭和11)年 から参謀本部・石原莞爾らの発議により立案が試みられ、蘆溝橋事件直前の37年5月には陸軍省の「重要産業五年計画」という形にまでまとめられていたものであったが、その後の日中戦争の進展のもとで再検討され、ようやくこの39年1月17日、昭和16年を目標とし、「日満支を通ずる総合的計画」として閣議を通過したものであった。従って昭和14年度物動計画には、この生産力拡充計画をもおり込まねばならなかったが、すでに前年の物動計画が、予定した輸入力を確保し得ずに改訂を余儀なくされた(「第七四回帝国議会衆議院解説」参照)ことからも明らかなように、この要請を満足させることは極めて困難な情勢となっていた。

  まず前年の昭和13年物動計画が1〜12月の暦年で作成されたのに対して、この年から会計年度にあわせるため、昭和14年1〜3月の計画が作成され、ついで年度計画の立案に移ったが、作業は難航をきわめた。物動計画とは重要物資についての需給計画であるが、その基礎となるのは原料・機械などがどれ程輸入できるかという輸入力の問題であり、結局輸入力を軍需・輸出産業・一般民需・生産力拡充などに分配することが計画の中心となっていた。最初軍需を1〜3月の物動計画の4倍と仮定して年間需要量を試算してみると、昭和14年度の計画物資の総需要は59億1300万円となり、このためには円ブロック以外の第三国から27億7800万円の輸入が必要とされたが、 輸入力の方は、輸出量や産金額を最大限に見積っても、 輸出18億円に金の現送などを加えて20億2800万円をでず、輸入必要額にくらべて7億5000万円が不足するという結果となった。昭和14年度物動計画の作成はこの点の調整に3月〜5月の2カ月を要している。軍需は最大限に確保する方針がとられ、従って輸入力の不足に対処するためには、まず需要の圧縮が図られねばならないが、その圧力は主として生産確保に要する原材料を除く純民需に加えられた。純民需は前年の配給実績から平均2割8分も削減された。ここではもはや国民の生活水準は最低限度に引き下げることが予定され、計画作成方針にも「国民生活水準の低下を覚悟し官需及民需に付、強度の圧縮を加ふると共に、而も統制の強化に依り物資利用の合理化を図り国民生活最低限度の確保に努むること」(「現代史資料43・国家総動員(一)」、391頁)と述べられていた。このほか「満州支那に対する供給は約53%の削減」(同前)、発足したばかりの生産力拡充計画用資材にも、後年度の予定生産力の縮小をも忍んで、約2割の削減が加えられた。

  こうした需要の圧縮とともに、他方では輸入力の拡大策が摸索されたが、輸出を増やす有効策は見当らず、 金銀現送額を増加させたり、貨物運賃円払いや邦人企業からの無為替輸入などの細かな外貨節約策をつみあげてゆくといったやり方がとられた。そして、輸入力を23億9500万円までふくらませて、ようやく昭和14年度物動計画を成立させたのであった。物動計画は貿易計画・交通電力動員計画と共に、5月26日の閣議に提出、承認されているが、前者は輸入力算出の根拠を次のように示していた。


輸入力計画

1、受入 (1)輸出代金 1.872.816(単位千円)
(2)クレディット額 6.242
(3)金銀現送計画額 325.000
(4)輸入貨物運賃円払等に依る余裕金額 72.000
(5)海外法人企業よりの無為替輸入額 89.435
(6)繰延払等に依る利用額 70.000
(7)特別措置に依る輸入力増強額 250.000
(8)将来のクレディット等に依る輸入力増加見込 77.078
2.762.571
2、払出 (1)貿易外支払超過額 298.922
(2)既輸入分所要資金 68.649
367.571
3、差引輸入力計画額 2.395.000(同前、416頁)


 このように、民需=一般生活物資の生産を極度に制限し軍需と輸出産業に物資を集中するという総動員政策が強行される以上、物価騰貴は必然であった。しかし同時に、物価騰貴を放置するならば、物動計画の遂行そのものが阻害されることになるのも明らかであった。そこで昭和14年度物動計画と並行して、全面的な物価統制政策が立案され始めたのであった。

  これまでの物価政策は、(1)37年8月3日に改正公布された暴利取締令によって買占め・売惜しみを防止する、(2)38年7月9日公布の物品販売価格取締規則により、個々の商品について公定価格を押しつけてゆく、という二本の柱によって運営されていた。つまり、これまでは物価を値上がりした所から個々に叩いてゆくという応急処置的なやり方がとられてきたのであるが、戦時インフレの傾向があらわれてきたこの時期になると、もはやこうした方法では間に合わないことが明らかになっていた。物動計画の作成がすすめられていたさなかの4月28日、中央物価委員会 (会長池田成彬)が決定した「物価統制の大綱」は、こうした事態に即応して、新たな全面的物価政策を確立しようとしたものであった。

  この「大綱」(東朝、4・21)はまず、「戦時経済の運営上特に現下最大の急務は生産力の拡充と物価問題の解決とに在り」とし、「国際物価水準に照応」するような物価基準をつくり安定させることを物価政策の目標とした。そしてこの目標を達成するためには、「価格の公定」と「需要供給の調整」という2つの面からの施策が必要だというのであった。まず公定価格は「軍需資材、輸出資材、生産力拡充資材及び国民生活必需品」、つまりは重要資材の全部にわたって設定しなければならないとされたが、同時にその価格は生産費主義に基づく適正価格でなければならず、そのためには原材料のみでなく生産費を構成する賃金・運賃・利潤・ 家賃地代などをも適正な基準に統制する必要があるとした点が、この「大綱」の特長であった。

  しかし反面、こうした適正な公定価格制がつくられたとしても、「物資需給の現実の跛行状態」を調整しなければ公定価格は維持し得ないと考えられた。そしてその際、軍需に物資を集中する総動員政策のもとでは、民需品の供給を増やすことは不可能であるから、 需要の方を切り下げる方策を提示するほかはなかった。 「大綱」はこの点について、物資の個別的消費規制よ りも「一般購買力の吸収に全力を傾倒すること肝要なり」とし、最大限の貯蓄、増税、給与の抑制などによ り、国民の購買力を物不足に見合うように圧縮することを求めていた。

  もちろん、現実の物価政策はこの「大綱」に沿って展開されたわけではなかった。9月にヨーロッパで第二次大戦の火蓋が切られると、生産費主義による適正価格などをつくるいとまもなく、後述するような価格の現状凍結策がとられたし、生活物資の極度な不足に対しては、切符制による個別的消費規制に頼るほかはなくなっていった。しかしこの「大綱」は、物価問題を契機として、「財政経済の全分野」にわたる統制、 従って国家総動員法の全面的発動が具体的な政策日程に登場してきたことを示している点で、注目に価するものであった。



労働者統制の強化と労務動員計画

 ここで国家総動員法(38・4・1公布、5・5施行) の発動状況をふりかえってみると、最初に発動されたのは、この法律で廃止された軍需工業動員法による工場事業場の管理を引きつぐための第13条と、総動員法運営の諮問機関として国家総動員審議会を発足させるための第50条だけであった。以後の同法の発動は、38年8月10日の第一回総動員審議会開催以来次第に拡大されてくるわけであるが、総動員法の条文に基づく法令は次のような順序で制定されている(日付けは公布の日)。

38・5・4 工場事業場管理令(第13条)・国家総動員審議会官制(第50条)
8・24 学校卒業者使用制限令(第6条)・医療関係者職業能力申告令(第21条)
39・1・7 国民職業能力申告令(第21条)
1・30 船員職業能力申告令(第21条)
2・4 獣医師職業能力申告令(第21条)
3・31 従業者雇入制限令・賃金統制令・工場就業時間制限令(第6条)学校技能者養成令・工場事業場技能者養成令(第22条)
4・1 会社利益配当及資金融通令(第11条)

 以上が国家総動員法施行以後1年間に、同法に基づいて出された法令であるが、これをみると総動員法がこの時期までは主として「人」の動員のために発動されており、「物」や「金」の統制は同法以前に制定されていた臨時資金調整法・輸出入品等臨時措置法(37・9・10公布施行)に基づいて行われていたことがうかがえる。前述した物価問題に関連して論議されるようになった総動員法の全面発動とは、こうした経済統制関係法令をも、総動員法に基づくものに再編強化 してゆくことを意味しており、後述する10月18日公布の価格等統制令以後には、経済統制はそうした新段階に突入してゆくのである。

  ところで、この「人」の動員に関する法令も、特殊の技術者を確保することを目的としたものから、次第に熟練工を中心とした労働者を軍需関連産業に確保し、労務管理を強化することを目的とするものに重点が移行してきていることがわかる。つまり戦争の長期化とともに、労働力とくに熟練労働者の不足が顕在化し、 労働者の奪い合いから賃金の引き上げといった現象まであらわれてきたのであり、そうした現象を規制する法令が必要とされたのであった。例えば最初の学校卒業者使用制限令は、理工系の大学学部・専門学校、工業学校などの新卒者の雇傭を厚生大臣の認可制のもとにおき、軍需関連部門に集中させることをねらったものであったが、従業者雇入制限令になると、技術者や技能を必要とする職種にある労働者の引き抜き防止を主眼とするものとなっていた。即ち、すでに3ヵ月以上これらの職種に従事している者を、他の工場事業場が雇傭するためには、職業紹介所長の認可を必要とすることとして、労働者の移動を制限したのであった。

  同時にまた、この移動制限を効果的にするためには、高賃金による引き抜きを抑え、賃金格差を出来るだけ少なくしなければならないと考えられ、この観点から賃金統制令が制定されたのであった。この法令は、常時50人以上の労働者を雇傭する工場事業場に賃金規則の作成とその地方長官(東京府は警視総監)への届出を義務づけ、厚生大臣又は地方長官に(賃金委員会に諮問のうえ)未経験労働者の初給賃金の決定権を与えた。 これに基づく公定初給賃金は8月にいたり、全国を4地域に分けてその規準が決定されているが、これによる「初給賃金の額は、一般の水準より10〜20%低く」(大原社会問題研究所「太平洋戦争下の労働者状態」、 51頁)、賃金統制令が労働者の移動制限とともに、低賃金水準の固定化をもねらっていることを明らかにした。さきの「物価統制の大綱」には、「賃金対策の眼目は生産費中に含まるる賃金総額の適正なる低下を期するに在り」(東朝、4・21)と述べられていた。

  こうした賃金統制の開始が、労務管理全般への国家権力の介入の一端にほかならないことは、賃金統制令と同時に工場就業時間制限令が出されたことにもあらわれていた。この法令は軍需関連産業における労働時間・休憩時間・休日などの原則を定めたものであったが、ここでは最長労働時間を12時間と規定した点が特徴であった。それは一面では、軍需産業などにあらわれてきた12時間を超える労働時間の延長を禁止するものであったが、他面からみれば、12時間労働時間制を公認したことをも意味していた。

  しかしこうした低賃金・長時間労働の職場に労働者をつなぎとめておくためには、法令や命令のみでは不可能であることも明らかであった。そのために、元来争議防止のための労資協調組織としてつくられてきた産業報国会を、政府が直接に労働者を把握するための労務管理機関として利用することが考えられていった。 産報組織の再編は、4月24日の産業報国連盟理事会における規約改正と、同28日の厚生・内務両次官の地方長官あて通牒によって実現されたが、それはまず、産業報国連盟から産業報国会の中央機関という性格を奪い、各工場事業場の単位産報は地方長官(東京は警視総監)を会長とする道府県産業報国連合会に組織しなおすというものであった。つまり産業報国会の統制は、地方長官―政府により掌握され、産業報国連盟は下部組織を失って、単なる宣伝機関となるわけであった。そして産業報国会は、たんなる争議防止のための協調組織から、国家目的に従属する職域奉公の組織とされ、移動や欠勤の防止、能率増進などがその活動内容として押しつけられてくることになるのであった。

  しかし戦時経済の運営にとって、より根本的な問題は労働者、とくに技能的職種の労働者の不足が顕在化 してきたことであった。学校技能者養成令・工場事業場技能者養成令は、文部大臣・厚生大臣に学校・工場事業場などに対して技能者の養成を命ずる権限を与えたものであったが、これらの法令が公布された時には、すでに技能的職種の経験者を強制的に動員するための「徴用」の制度が立案されつつあった。1月7日公布の国民職業能力申告令はその前提をなすものであり、 16歳より50歳までの一定の職種の経験者、理工系学校の卒業者などに学歴・職歴・技能の程度、家族状況などの申告を義務づけた。そして7月8日になると国民徴用令が公布され、これらの要申告者を厚生大臣―地方長官を経て発せられる徴用令書によって、強制的に動員する制度が開かれたのであった。もはや、「物」 についてのみでなく「人」の動員をも計画化しなければならなくなっていた。

  徴用令公布の直前、7月4日には資金統制計画と同時に、はじめての労務動員計画が閣議で決定されているが、そこでは、労働力の需給関係は、次のように予測されていた(「現代史資料43・国家総動員(1)」、428〜 433頁)。
一般労務者新規需要数(単位千人)

需要増加数
軍需産業 146 15 161
生産力拡充計画産業 137 6 143
前号の付帯産業 152 17 169
輸出及必需品産業 30 65 95
運輸通信業 93 6 99
小計 558 109 667
減耗補充数 154 221 375
合計 712 330 1.042

一般労働者給源別供給目標数(単位千人)
区分
新規小学校卒業者 266 201 467
物動関係離職者 70 31 101
農村以外の未就業者 64 23 87
農村未就業者及農業従事者 191 65 256
労務の節減可能なる業務従事者 82 11 93
女子無業者 50 50
移住朝鮮人 85 85
合計 758 381 1.139


  この合計でみると、供給力が需要を上まわっているようにみえるが、朝鮮からの労働者の調達や農村からの吸収を大幅に見込んでのことであり、一般労働者に ついても労働力の不足が明らかになっていることがわかる。しかし事態は技術者について一層深刻であった。

技術者新規需要数(単位人)

区分 上級技術者 下級技術者
機械科 6.270 15.100 21.370
電気科 3.630 8.570 12.200
応用化学科 1.400 1.910 3.310
採鉱冶金科 2.250 3.230 5.480
其他 3.900 22.520 26.420
合計 17.450 51.330 68.670

技術者新規供給数(単位人)

区分 上級技術者 下級技術者
機械科 1.090 5.430 6.520
電気科 720 2.160 2.880
応用化学科 580 1.200 1.780
採鉱冶金科 260 650 910
其他 1.300 4.880 6.180
合計 3.950 14.320 18.270

 新規供給数とはこの年3月の新規学校卒業者を指しているが、その数は需要をはるかに下まわっており、労務動員計画も不就業技術者の就業斡旋、技術者の融通又は共同利用など、その対策の立案に苦慮していた。



平沼内閣から阿部内閣へ

 平沼内閣は、日中戦争の長期化にともなうこうしたさまざまな経済的困難に苦しめられていたが、しかしこの内閣の致命傷となったのは、対外政策の問題であった。内閣発足以来、ドイツ・イタリアとの間の防共協定強化をめぐる交渉は、平沼内閣の最も大きな課題となっていたが、8月23日にいたりドイツが独ソ不可侵条約を成立させたことは、この内閣の立場を根底からくつがえすものであった。8月28日、「欧州情勢は複雑怪奇」との首相談話を残して平沼内閣は総辞職していった(「第七五回帝国議会貴族院解説」参照)。後継首相には、陸軍の推す阿部信行が任命されたが、天皇はこの内閣に米英との関係の調整をのぞみ、陸軍は総動員体制を強化することを要求していた(同前、参照)。

  阿部内閣は、8月30日次のような顔触れで成立したが、多くのポストを兼任としたのは(外相は専任大臣補充を予定)少数閣庭訓を標榜し、戦時にふさわしい機構改革を実現しようとする姿勢を示したものであった。

総理大臣兼外務大臣 阿部 信行
内務大臣兼厚生大臣 小原  直
大蔵大臣兼企両院総裁 青木 一男
陸軍大臣 畑  俊六
海軍大臣 吉田 善吾
司法大臣 宮城長五郎
文部大臣 河原田稼吉
商工大臣兼農林大臣 伍堂 卓推
逓信大臣兼鉄道大臣 永井柳太郎
拓務大臣  金光 庸夫
内閣書記官長 遠藤 柳作
法制局長官 唐沢 俊樹

 閣僚の銓衡事情は次のように伝えられた。

 

 「組閣の大命を拝した阿部大将は、先づ組閣に着手するに当って幕僚として軍部の推薦する遠藤柳作、時事懇談会で懇意の間柄にあり、小原直氏の推薦した唐沢俊樹両氏を予め書記官長と法制局長官に振当て、この両氏を双翼とし河原田氏推薦の横山助成氏が特に重要な産婆役に加わって組閣に着手した。

  組閣の根本方針としては阿部大将が予て小原直氏等と所見を同じくしていた少数閣僚制を採ることに決し、内務と厚生、農林と商工、逓信と鉄道をそれぞれ兼任とすることを決意した。そこで29日午前阿部大将は組閣本部で遠藤、唐沢両参謀と鼎坐し 閣僚の人選について熟議を凝らした結果、懇意の間柄にある元法相小原直氏を副総理格として、内相兼厚相に迎へまた元内相河原田稼吉氏を文相に据えることに決定し両氏に招きの電話をかけた。(略)

  蔵相は初め津島日銀副総裁、青木企画院総裁が候補に挙げられていたが、津島氏は金融に偏する傾きがあり又複雑な国際情勢に対応する財経政策の根幹として物動計画が最も重視されるこの際、物動の総元締青木氏を蔵相に抜てきし企両院総裁を兼任させることに決定した。
  陸海両相は前例に倣って陸海軍の推薦に待つこととし、海相にはかねて首脳部で内定していた連合艦隊司令長官吉田善吾中将が逸早く決まり……陸相の方は初め磯谷廉介、多田駿両中将に持廻ったがいづれも辞退したので、お鉢は去る五月侍従武官長になった許りの畑俊六大将へと急廻転した。これは部内でも思ひ設けぬ情勢の変化で、今度の陸相銓衡の手際は余り上等とは云ひ難い(―中略―なお、この間の事情については「第七五回帝国議会貴族院解説」参照)。
  法相には林内閣以来二ケ年半在任した塩野法相の顔を立てて其後任の推薦を依頼した結果、塩野氏と同期の名古屋控訴院検事長の宮城長五郎氏が選ばれた。
  農林兼商工の椅子は産業経済を一手に掌握するものであるから政党人を避けて大物主義で人選を道めた結果、阿部大将と同郷関係にありまた河原田文相 と林内閣で同僚であった日商会頭伍堂卓雄氏を推すことに決った。商相片手の農相では農村問題に一寸気の毒な感がある。
  逓信兼鉄道と拓務の椅子は政党に割当てられ、政民一名宛を採る方針に早くから決ったが、人選は最後まで持越され、殊に政友会が二派に分れている現状に鑑み、其一派から閣僚を採る時は他の一派を刺戟し対立関係を激化せしむることを恐れ、又新内閣として政友会は一つになるべきものとの建前を取っているので両派に当り障りがないといふ意味で党籍を離脱している衆議院副議長金光庸夫氏を拓務に迎えることになった。
  次に民政党の方は逓相兼鉄相に白羽の矢を立てられたのはこれも首相と同郷の永井柳太郎氏である。これに対し町田総裁始め民政党本部の意向は永井氏を不適任とし秘に大麻唯男氏を希望し今暁まで組閣本部と民政党本部との間にごたごたがあって最後の幕となった」(東朝、8・30)。


  阿部内閣は、閣僚については少数閣僚制の看板をかかげたが、議会との連絡折衝にあたる政務官(政務次官・参与官)については、従来のやり方をそのまま踏襲していた。最初は「全政務官を留任せしめることに方針を決めていたが、その後政党方面の空気が更迭を希望しているのに鑑み……此際全政務官を更迭することに方針を変更した」(東朝、9・1)。しかし全政務官を 衆議院議員よりとるという近衛内閣以来の方針をうけつぎ、党派別の比率も前内閣そのままに政・民各11 小会派4とすることにした。全政務官を衆議院よりというのは、閣僚中に貴族院議員が増加してきたことと関連しているが、この内閣でも、小原・青木・河原田・伍堂・遠藤の五名が貴族院勅選議員であった。

  政務官の人選は、政友会の分裂のためおくれたが、内閣成立20日後の9月19日にいたって次のように任命された。但し、政友(中)は政友会中島派、政友(久)は政友会久原派を、第一倶は第一議員倶楽部、国盟は国民同盟を示す。

政務次官 参与官

外務

多田 満長

民政

依光 好秋 

政友(久)

内務 加藤 鯛一 民政 福井 甚三 政友(中)
大蔵 清瀬 規矩雄 政友(中) 豊田 豊吉  民政
陸軍 宮沢 胤勇 民政 小山田 義孝  政友(中)
海軍 西岡 竹次郎 政友(久) 真鍋 儀十 民政
司法 森田 福市 政友(久) 真鍋  勝 民政
文部 作田 高太郎 民政 伊豆 冨人  国盟
農林 村上 国吉 民政 小笠原 三九郎 政友(中)
商工 横川 重次 政友(中) 小山 倉之助 民政
逓信 田中 万逸 民政 東条  貞 政友(久)
鉄道 原  惣兵衛 政友(中) 坂東 幸太郎  民政
拓務 津雲 国利 政友(久) 笠井 重治 第一倶
厚生 三浦 虎雄 無所属 永山 忠則  第一倶

  このうち政友会は中島派6名、久原派5名となっているが、両派に政務次官3名、参与官2名づつを割り当て、残る1名は、中立的立場の金光拓相が指名することとした。金光は結局福井甚三を選んだが、「福井氏は現在は革新(中島)派に属して居るが、支部は殆んど全部中立を標榜しているので、政府及び正統(久原)派は福井氏を中立的傾向を多分に有していると見ているわけである」(東朝、9・20)と報ぜられていた。

  阿部内閣は成立直後の9月3日ヨーロッパで勃発した第二次大戦に不介入の方針を声明し、9月13日に は、支那事変処理の完遂、総合経済力の拡充運用、国家総動員体制の整備強化、諸制度の刷新並に運用の改善などの新政綱を発表、さらに9月25日には親米英的と目されていた備海軍大将野村吉三郎を専任外相に起用するなど、施政の体制をととのえた。しかしヨ ーロッパでの戦争勃発による国際物価の騰貴、貿易の不振などは国内物価をも高騰させることとなり、またこの夏の渇水により9月初めから電力の使用制限を実施せざるを得ないなど、内閣成立直後から内外の厳しい条件に直面していた。しかもそのうえ少数閣僚制に見合う機構改革に失敗するなど、早くも内閣の前途は多難なものと予測されるに至っていた。



貿易省設置問題の紛糾

  阿部内閣が機構改革の最初にとりあげたのは、貿易省設置の問題であった。すでに述べたように、物資動員計画にとって輸入力確保が基本的な問題となるに従って、貿易行政の一元化のために新機構を設けることが必要だとする論議が強まっており、平沼内閣時代にも、陸軍の要望をうけて企画院が貿易省新設計画を立案していることが伝えられていた(東朝、7・19、8・4 参照)。しかし平沼内閣時代には閣内の意見が一致するまでにはいたらなかったが、アメリカの日米通商条約破棄通告(7・26)、欧州戦争の勃発(9・3)などの新たな条件が起こってきたことに加えて、貿易省新設の積極論者であった青木企画院総裁が蔵相を兼ね、 伍堂日商会頭が入閣したこともあって、阿部内閣になると、貿易省問題が一挙に表面化してきた。

  さきにふれた9月13日発表の阿部内閣政綱においても「総合経済力の拡充運用」の項で「急迫せる国際情勢の近情に鑑み重要国防資源の自給自足を実現するが為め、生産力拡充計画の実行を促進すると共に、新情勢に応ずる貿易体制を強化整備す」(東朝、9・14 付け夕刊)とうたい、貿易体制の強化を政綱のIつとして打ち出していた。そして、阿部首相も貿易省問題を積極的に推進する姿勢をとり、野村外相が任命された 翌日、9月26日の閣議では、貿易省設置の方針が決定され、29日の閣議には企画院より「貿易省ノ権限二関スル要綱」が提出されるにいたった。このように新外相と事務当局が十分な事務連絡を終わらないうちに、突如としてこの問題が閣議に提起されたことは、外務省側に「企両院を中心とする一部閣僚の陰謀」(外務省編「外務省の百年」下巻、97頁)との感を抱かせたが、ともあれ、企画院の「要綱」は次のような内容のものであった。

一、 貿易大臣ハ左記ノ事項二関スル事務ヲ管理スルモノトスルコト。
(一) 通商貿易(外交事務二属スルモノヲ除ク)
(二) 輸出振興
(三) 繊維工業品、輸出工芸品及重要輸出雑工業品
(四) 関税及噸税
(五) 外国為替
二、 大使館商務参事官等(主トシテ貿易二従事スル領事官等ヲ含ム)ハ之ヲ廃止シ、之ニ代へ商務官(仮称)等貿易省職員ヲ外国二駐在セシメ大使館、公使館又ハ領事館付ヲ命ズルコト(略)。
三、 貿易大臣ハ其ノ主管事務二付朝鮮総督府ノ事務ヲ統理シ台湾総督、樺太庁長官及南洋庁長官ヲ監督スルモノトスルコト。

(同前、99〜100頁)

  つまり、貿易に関する行政事務を内外にわたって一元的に統括するものとして貿易省を設置しようとというわけであり、行政機構としては各省から多くの部局を吸収することが予定されていた。その主なものをあげると、外務省通商局(純外交事務を除く外全部)、大蔵省為替局(全部)、同主税局関税課(全部)、商工省貿易局(全部)、同繊維局(全部)、農林省蚕糸局糸政課(一部)、拓務省朝鮮部(一部)、同柘殖局(一部)などが貿易省に移管統合されることとなっていた。

  この企両院原案が伝えられると、その行政事務の一部をとりあげられることになる各省からいっせいに反対の声があがった。例えば、大蔵省は為替局全部を移管することは、本来不可分であるべき金融政策が国際金融と国内金融によって所管省を異にし、政策が二元化されるとして反対したが、要するに貿易の観点からする一元化が、他の観点からすれば二元化=不統一に陥るということが問題とされたのであった。そしてこうした観点から最も強く企両院案に反対したのは外務省事務当局であった。

  外務省では、阿部内閣によって貿易省問題が表面化する形勢が明らかとなるや、次のような条件でむしろ積極的に同省設置に賛意を表することとした。

 

「(一)、国内の全般的行政機構改革の一部として実施すること、(二)、生産・配給に至るまで国内貿易行政事務を一切管掌する徹底的な機関であること、(三)、海外における施策を二元化するような措置をとらないこと」(同前、95頁)  

 つまり外務省側は、貿易省は輸出入品の生産・配給など国内における統制事務を一元的に掌握する機関たらしむべきであり、対外的な面は外務省に一元化せよとする立場を打ち出したのであった。当時「拓務省駐在員、南洋南米等11ケ所、農林省駐在員、英米2ケ所、商工省関係貿易斡旋所、23ケ所(設置予定地11ケ所)、同共同販売所3ケ所、東京府・愛知県、東京・名古屋・横浜・神戸・京郎等各都市ノ駐在員、60余ヵ所」(同前、96頁)などの各種在外機関が存在しており、これらの統合が必要と考えられたのであるが、 外務省は統制経済時代に入った世界の現勢のもとでは、主要国は強度の貿易管理政策をとっており、これに対処するには外交交渉による以外にないし、また外交特権を有する外交官以外では次第に活動の余地がなくなりつつある、従って在外機関も外務省の下に統合しなければならないと主張したのであった。そして外務省事務当局はこうした見地から「外政一元化」をスローガンとして、企両院に対抗する姿勢を強めた。

  まず、松島鹿夫通商局長を中心に企画院案を検討した結果、次の対案をつくり野村外相及び谷正之次官に提出した。それは2つの点で企画院案を大きく修正するものであった。まず第1には、貿易大臣の権限から 「渉外事項」を除くこととし、その「渉外事項トハ通商交渉ハ勿論、商権ノ保護、企業ノ保護、資源ノ確保等直接又ハ間接二外交二影響ヲ及ボスベキ事項ヲ云フベキモノトス」との説明を加えていた。つまり通商貿易に関する事項のうち、「外交事務二属スルモノ」だけを外務大臣の権限に残そうという企画院案とは逆に、 外交より広い意昧での渉外事項に貿易大臣を立ちいら せないというのであった。第2の修正点は「外国二於テ通商貿易事務二従事スル職員ハ凡テ外務省職員トスルコト、但シ特二外務大臣ト貿易大臣ト協議ノ上決定シタル事項二付テハ貿易大臣ヨリ指揮命令ヲ発シ得ルモノトスルコト」(同前、103頁)というものであり、 これも大使館商務参事官らをも貿易省職員としようという企画院原案を真向うから否定したものであった。 この2つの修正点のうち、第2のものが実現すれば、 当然第1の点も貫徹されることになるのであり、従って新聞などには、商務官の任免権をめぐる争いと報ぜられるようになっていった。野村外相もこの事務当局修正案に賛成して閣議にのぞんだ。

  しかし10月3日午前10時過ぎから開かれた閣議では、この問題を徒らに遷延せしめるときは不測の紛糾に陥る危険があるとみた阿部首相が強い態度を示し、最初に立って「各閣僚諸君も国策の見地に立ってこれが議論を繩めるやう努力されたい」と強く要請、ついで金光拓相・野村外相・青木蔵相・伍堂農商相より問題点が紹介され討議されたが、結局「大局的見地に還って企画院原案に特別の重大修正を加へることなく大綱的には原案通りに廟議決定しようといふに意見一致を見た」(東朝、10・4付け夕刊)。そして「是が非でも今日中に決定したい」という阿部首相の意向によって、閣議は午後も続開され、ついに野村外相の譲歩によって企画院原案と大差ない貿易省設置要綱が決定された。問題の商務官の任免権、勤務地の決定権は、「外務大臣ト協議ノ上」との条件がつけられたものの、結局貿易大臣の権限とされたのであり、これでは外務事務当局側の完敗といってもよかった。

  翌10月4日の朝刊はこの閣議決定とともに、通商局の松島局長、山本・水野両勅任事務官、新納・高岡・井上・伊東・太田の五課長の辞表提出を報じたが、貿易省設置決定の報は外務省を大きくゆるがすこととなった。4日午後3時からは省内の課長・事務官全員(約百数十名)は第二会議室で会合、一方部局長も別室で熟議をかわした結果、野村外相の説明を求めることとなった。午後6時から課長事務官全体会議に出席した外相は、商務官任免権が閣議での最後の論点となったこと、他の閣僚から「貿易省ガ出来テモ出先ノ者ガ貿易事務ヲヤルノニー々外務省ヲ経由シナケレバ仕事ガ出来ナイト云フノデハ貿易省ヲ置イタ価値ガナイ」(「外務省の百年」下巻、110員)との強い意見が出され、 閣議のなかで孤立したことなどを述べ、「自分としては政治的解決をはかり円満なる国策遂行を期したのである」(東朝、10・5)と説明した。

  しかし事務官側はこの説明に満足せず、引き続き開かれた全体会議では外交一元の原則が貫徹できない場合には全員辞表を提出すべきこと、各部局毎に課長1名、事務官1名よりなる幹事会をつくり、今後の運動方針を一任することが決定された。そしてただちに調査部第一課長高瀬真一を幹事長とする幹事会(幹事18名)が発足した。外務省内がこのように硬化したのは、前年の興亜院発足につずいて、再び権限を削減されることへの反感と、その結果軍部の強引な要求が直接に介入し、対外交渉は分裂、混乱せざるを得ないという危機感とが相乗された結果であった。

  翌10月5日、幹事会は辞表の取りまとめにはいるとともに、外相及び首相宛上申書を作成、全体会議の承認を得たうえ、同日夜、代表4名が野村外相と会見 したが、外相は「自分は諸君のやうに貿易省設置要綱 が外交一元化に悪影響を及ぼすものとは考へない、即ち諸君の意見をそのまま承認するまでには到らぬ。しかし諸君の意向は十分聞いた、諸君も吏道にもとらない様に善処されたい。一度決定した事は可及的に忠実 にこれを尊重するやうにして貰ひたい」(東朝、10・6)との態度をとり、会談は不調に終わった。この間、 野村外相は阿部首相らとの間で対策を協議しているが、閣議で決定された貿易省設置要綱は変更しないことを前提とするものであり事務官側を満足させるものではなかった。

  10月8日は日曜日であったが、高瀬幹事長は高等官全員の登庁を求め、午前11時より幹事会を開いて、 閣議決定の形式的変更が不可能な場合には、実質的変更を求めるための具体案を作成することを決め、深夜の全体会議では次のような事務官最終案が全員一致で可決された。

甲、

左記趣旨ノ閣議諒解事項ヲ至急取付ケ内閣ヨリ之ヲ適当ナル方法二依り発表スルコト
『九月二十六日閣議決定ノ貿易省(仮称)設置ニ関スル件及十月三日閣議決定ノ貿易省ノ権限二関スル要綱ハ、外政一元ノ原則二基キ適当ナル考慮ヲ加ヘテ之ヲ具現スルコト』

乙、 左記各項二付キ適当ナル形式二於テ閣議ノ諒解ヲ取付クルコト
(一)

前記要綱中ノ外交事務又ハ純外交事務ノ中二ハ通商交渉ノ外、商権及企業ノ保護、資源ノ確保等外交二影響ヲ及ボスベキ事項ヲ包含スルモノト解釈スルコト

(二)

通商交渉ハ外務大臣ノ権限タルヲ以テ通商交渉ノ内容タル事項ハ外務、貿易両大臣ノ協議事項ト解スベキハ勿論、通商交渉二当リテハ必要二応ジ外務大臣二於テ其ノ内容ヲ適宜調整決定シ得ルコトヲ明確ナラシムルコト

(三)

現下ノ海外事情二鑑ミ当分ノ間貿易省職員ヲ外国二駐在セシムル場合ニハコレヲ外務省職員トシ、外務大臣二於テ之ヲ任免スルコト、前項職員ノ任免及勤務地ノ決定二付テハ内閣、外務省及貿易省職員ヲ以テ構成スル委員会二付議スルコト」

(「外務省の百年」下巻、123頁)

  この案は、まず閣議決定案でも貿易大臣の権限外とされている「外交事務」に事務官側のいう「渉外事務」 をも含ませ、また、通商政策の決定にも外務大臣を関与させることで、対外交渉における外務省側の主導権を確保しようとした。そして問題の商務官などの任免権に関しては、欧州戦争勃発により主要国が戦時体制下に入ったという「現下ノ海外事情」を強調し、こうした事情の続く「当分ノ間」という限定をつけることで、閣議決定を原則と認めながら、戦時下を例外として外務省側の主張を差し込もうとしたものであった。 しかし10日の閣議はこの案をさきの閣議決定に反するとして受けつけず、事務官側はもはや交渉の余地なしとして総辞職決行の方針を固めた。11日夜、高瀬 幹事長のもとに集められていた辞表は一たん各人の手許に返されたうえ、改めて各課長を通じて谷次官に手渡された。局部長以上でも、松島通商局長・河相情報部長が事務官と共に、谷次官も翌12日朝、辞表を提出している。

  政府や野村外相側は、当初二・三〇名の辞職で切り抜けられると考えていたようであるが事務官側の結束は固かった。「連袂総辞職した外務省高等官は百十余名で出張病気欠勤を除いては高等官全員である。即ち外務省内高等官は書記官(課長)30名、事務官56名、電信官9名、翻訳官7名、理事官6名、調査官3名、編輯官2名、臨時勤務16名合計129人で あるが、書記官30名、事務官56名は全部、その 他も二十数名は辞表を提出した」(東朝、10・12)と伝えられた。この全高等官の辞表提出という事態は政府側の予想をこえるものであり、「事務に渋滞を来さない様に相当の期間を置いて逐次地官庁から補充してゆく方針をとる」(東朝、10・11)などという余地はなくなってしまった。

  苦境に立たされた政府側は、芳沢謙吉ら外務省長老に斡旋を依頼すると同時に、12日午後、阿部首相自身が高瀬幹事長ら外務省事務官側の幹事5名と直接会見してその意見を聞くなど収拾工作に奔走し始めた。 そしてこの間閣僚中から譲歩論が有力化してきていた。 12日から13日午前2時にかけて首相は有力閣僚、内閣3長官らと協議をくり返したが、小原内・厚相、永井逓・鉄相が閣議決定の再検討、大乗的修正論を唱えたのに対し、青木蔵相・武部企画院次長らはこれに賛成せず、と伝えられた(東朝、10・13)。

  13日午前、阿部首相は各閣僚に予めさきの閣議決定を変更することがあるかもしれないと諒解を求めたうえで閣議にのぞみ、外務省問題に関する解決を一任されたいと提議し全閣僚の承認を得た。この閣議でも 企画院側から貿易省設置要綱の変更に対する反対が出たが、結局「閣議は去る三日の閣議決定変更を前提として具体案作成につき首相一任に決定して午後一時散会した」(東朝、10・14付け夕刊)。解決方法を一任されたといっても、阿部首相には外務省事務当局の要求をうけいれる以外には解決の方法はなかった。同閣議後、阿部首相は野村外相と協議、外相は早速事務官側に対し、内閣が事務官側最終案を受けいれる旨連絡し、問題は内閣側の全面屈伏で幕となった。午後6時から外相は全高等官を集めて訓示、高瀬幹事長は「一同一刻モ速カニ元ノ状態二復帰致シマスルコトヲ御許シ願度イト存ズル次第デアリマス」と答辞を述べている。阿部内閣はなお、貿易省設置をすすめる建前をとり、準備委員会を発足させたが、もはやどこにも積極的な意欲はなく、米内内閣では立ち消えになってしまった。

  ともあれ、「阿部内閣初の大収穫」(東朝、10・4) と評された貿易省設置問題は、10日後には大黒星と化していた。そしてこの問題で外務省事務当局に全面屈状したことによって「阿部内閣は鼎の軽重を問はれ、政府の政治的圧力は各方面に対し減殺されたと見る外 はない……今回の失敗は拭ふべからざる黒星であり、 猪突猛進自己の力量以上の大仕事をやらうとした小猪が今後刑の道を歩めるかどうか不安なきを得ない」(同、10・14)とみられるに至っていた。



九・一八価格停止令

 阿部内閣は成立当初から、さまざまな経済問題に悩まされていた。内閣成立の翌日、8月31日からは関東10万キロ、関西15万キロの送電制限が実施され、ネオンの消灯が叫ばれたり、使用量超過のため送電を打切られて生産工程の中断を余儀なくされる工場があらわれたりしていた。これは前年末よりの早天による 異常渇水が直接の原因ではあったが、事態を深刻にしたのは、水力発電を補うべき火力発電が石炭不足のため十分に稼動しないという事態によるものであった。 政府は石炭の手配に奔走するとともに、10月19日 には、国家総動員法第8粂を発動して電力調整令を制定公布し、逓信大臣に電力の供給・消費を制限又は禁止する権限を与えた。電力不足は冬の渇水期を迎えていよいよ深刻化し、翌40年2月には早くも電力調整令にもとづく強制的な制限措置がとられるに至るのであるが、電源開発計画もセメントや労働力の不足が隘路となっており、電力問題は、この時期に物不足やそれに対応する筈の配給統制組織の未完成といった問題が顕在化してきたことを象徴するものである。  阿部内閣前後の時期に制定された物資別の統制法規をみると(日付けは公布日)、

39・8・16 石炭販売取締規則
39・9・28 鋳鋼配給統制規則
39・10・19 飼料販売取締規則
39・10・19 綿糸の取引制限に関する件
39・12・18 カーバイド配給統制規則
39・12・19 木炭配給統制規則
39・12・28 肥料消費調整規則
40・1・9 生糸配給統制規則
40・2・5 マッチの製追及配給に関する件

などがあり、これらの物資の不足・価格の騰貴が問題化していたことが知られる。

  こうした物不足―価格騰貴というインフレ状況の出現は、平沼前内閣時代から問題となり、「物価統制の大綱」が決定されたことは前に述べたが、阿部内閣になると欧州戦争の勃発による海外物価値上りや思惑的売買により物価騰貴は更に激化した。蘆溝橋事件直前の37年6月を基準(100)とした東京小売物価指数をみると、38年12月から39年3三月までは124で落着いていたものが、6月には129となり、大戦勃発の9月には136まで上昇している(「朝日経済年史・昭和一五年版」、214頁)。

  阿部内閣は経済政策面では、まずこの物価問題をとりあげたが、もはやさきの「物価統制の大綱」で考えられているような、原価計算をして適正価格を割り出すという手間のかかる方式では間に合わぬということ は明らかであった。そこで9月19日の閣議では、ともかく国家総動員法を発勤し一切の商品についてその前日9月18日現在の価格からの引上げを禁止するという応急措置をとることが決定された。「何分にも欧州動乱は日本の輸出入事情を急変させてしまった。こればかりは誰が的確に予見し得たらう?このためわが物価事情は一変した。……’」の際は一つ一つの価格公定では追付かぬから全面的な価格停止で行かう、しかも一律の頭打ちを食はして置けば『停止は困る』といって各商品は蜂の巣を叩いたやうに不平を訴へるだらう、其処で物価庁や物価委員会を拡大改組して従来の倍増の努力で価格公定にとりかからう、これが今度の停止令の昧噌だった。伍堂島商相は商品価格と一緒に賃金給料の停止も同時断行しなければ一般の企業採算を破るからといって熱心に主張した、同じ筆法で価格停止を一律に且つなるべく合理的ならしめるには運送賃、保険料、賃貸価格、加工賃等も同時に停止しなければという議論が勝って、結局商品価格だけでなく、その価格構成の一切の要素の価格停止が発動されるこ とになった」(東朝、9・20)。

  これらの価格引上げ禁止のための法令は、「9・18 ストップ令」と総称されるが、その内容は、10月18日に公布(20日施行)された次のような法令より成っている。

(一)

価格等統制令。国家総動員法第19条にもとづき、価格、運送賃、保管料、損害保険料、賃貸料、加工賃などは九目一八日の額からの引上げを禁止。ただし他の法令にもとづいて価格が決定される場合はそれによることになっており、後述する米や煙草の値上げが可能になってくる。

(二)

地代家賃統制令。国家総動員法第一九粂にもとづき、原則としては三八年八月四目現在の地代家貸からの引上げを禁止。

(三)

賃金臨時措置令。国家総動員法第六条にもとづ き、九月一八日の基本給、賃金水準の変更を禁止。

(四)

会社職員給与臨時措置令、国家総動員法第一一条にもとづき、九月一八日現在の給料手当の準則 による以外の増給を禁止。

  いずれも40(昭和15年9月19日まで1年間の時限立法であった。つまりとりあえず9月18日現在の物価水準を固定化したうえで、以後の1年問で全般的な公定価格制の実現というわけである。しかも価格等統制令にも賃金臨時措置令にも、業者団体の決めた額を行政官庁・地方長官が認定するという形で価格変更の道を残しており、「政府はこれから手広く価格公定乃至賃金公認に乗出す訳だがとても間に合ひさうもない。だから業者に協定価格や協定賃金を作らせ、政府はこれを公認して列外者アウトサイダーに対しても強制力を持たせて、政府自身の公定に代替させよう とねらっている」(東朝、9・20)とみられた。

  しかしこの価格ストップ令によって物価全体を凍結させるという構想は、阿部内閣自身によっても忠実に守られたわけではなかった。応急措置としてのストップ令のあとに、いわゆる適正価格がどのような形で形成されるかは国民の注目するところであったが、政府により最初にとりあげられたのが白米公定価格を一石あたり38円から43円に改定するという大幅値上げであり(11月6日)、ついで煙草が平均1割4分(銘柄別ではホープの3割6分値上げが最高)値上げされ(11月16日)、さらに絹織物公定価格も引土けられる(11月30日)といった具合であり、阿部内閣自身がストップ令の物価抑制効果を減殺するようなあいつぐ値上げ措置を打ち出したのであった。

  煙草の場合には、第七五回議会にむけて準備されて いた税制改革=大増税に見合う増収をはかったものであったが、米の場合には、朝鮮における大凶作、朝鮮米の中国占領地への輸出の増加などのため、日本内地への移出額が当初の推算より四百万石も減少したことが直の原因となって、年度はじめよりつずいていた米価騰貴を反映させたものであった。すでに8月25日には、最高価格が石当り35円40銭から38円に引上げられていたが、騰勢はそれでも納まらず、結局43円への再引上げが実施されたのであった。この再引上げにあたって、政府は米の強制買入れ制を設けることを決定・公表しているが、このことは、物不足という状況のもとでは、物価統制が物そのものの流通規制・配給統制を基礎としなければ有効となりえないことを示唆しているものであった。

  ともあれ、価格ストップ令につずいて各種の値上げを実施するという阿部内閣の施策に対しては、中央物価委員会からも、政府が低物価政策を放棄したかの如き印象を与え、物価統制の前途に不安動揺をひき起こす拙劣な政策とする批判が出されており、この内閣の評価は物価政策をめぐっても下落していったのであった。



少数閣僚制の破綻

 戦争の長期化による物資の不足が避けられないとす れば、その少ない物資の分配のための配給組織の一元化という問題がおこってくるわけであるが、その一元化に対しては既成の組織からの抵抗があらわれてくることも必至であり、その抵抗を克服できなければ、阿部内閣の掲げる少数閣僚制という建前が無意昧となることも明らかであった。つまり少数閣僚制は、統制組織の一元化・簡素化を基礎にして行政組織の統合を行おうとするものであり、そうした一元化の円滑な進行なしには成立し難いものであった。

  阿部内閣はさきの貿易省新設につずいて、農林・商工両省を統合した産業省、逓信・鉄道両省を再編した交通省の設立などを構想していたとみられるが、貿易省問題の失敗と並行して、他の面でもこの構想は崩壊しつつあった。阿部内閣の組閣当初から、農林関係団体は伍堂卓雄が商相と兼ねて農相に就任することに反対し、専任農相の任命を要求していたが、このことは少数閣僚制の難しさを示すものでもあった。

  農林関係団体のこうした動向は、直接には石油配給の問題に関連していた。石油はすでに38年3月から切符制による消費規制が行われてきたが、民間向け供給量が更に削減されると共に、さらに一元的配給機構に基づく全国的統制が必要とされた。そしてそのため には、中央に石油精製業者、輸入業者を網羅した石油共販会社をつくり、地方には従来の特約店を府県毎に統合した卸売会社をつくるという案が商工省によって立案された。つまり中央の共販会社が強制的に全石油を買い取り、それを軍・民需に区分し、民需については各府県卸売会社が小売業者への供給を独占する、というわけである。このうち中央の共販会社は9月2日に創立総会が開かれて発足したが、そのもとの配給組織については、農・漁村側から、産業組合・漁業組合などを配給組織のなかに位置づけることが強く要求されたのであった。この問題は平沼内閣時代から表面化 していたのであるが、伍堂農商相は9月21日に至り、産業組合および漁業組合系統機関が従来元売会社より 直接購入しまたは特約店より卸売を受けていた部分については、従前通り共販会社または卸売会社からの直接購入を認めるとの方針のもとに、商工当局の作成した石油配給統制要綱の実施を決定した。

  この決定に対して、翌23日から農・漁村関係団体の猛烈な反対運動がまきおこってきた。農・漁村側のいい分は、従来の実績を認めるだけでは不十分であり、 産業組合・漁業組合が必要とする分についてはその中央機関である全購連・全漁連を配給統制機関として認めよというものであった。当時問題の中心は漁業であり、例えば数年前から農林省は年々約三百万円の予算をとって各漁村に貯油タンクの建設を奨励していたが、 実績主義によると新設タンクについては直接購入の道がなくなる、とか、漁群の集来状況によって変動する石油需要に対応するためには、共販系商人対手では円滑を欠く、などといった問題が出されたのであった。 そして同時に、伍堂大臣の裁定は商工偏重であるとして、専任農相設置の要求が同時に高まることとなった。

  これに対して内閣側は、少数閣僚制の建前からいって、今更専任農相を置くことは不可能であるとし、農・漁村関係団体の代表を農林省顧問に任命することで、妥協をはかろうとする態度を示した。しかし農・漁村団体側はこの提案をうけつけず、結局、10月3日に なって農・漁村側の要求を全面的にうけいれることが決定された。翌4日に発表された修正覚書によれば、従来の実績主義に加えて、タンクを利用する重油および産業組合などの共同施設事業用に必要な灯油・軽油の全数量は、全購連・全漁連が中央共販会社より直接配給をうけ、その統制にあたることが認められていた。 この修正に対しては今度は石油業者側から、地方卸売会社の存立の基盤を失わせるものとの反対がおこり、 11月30日に至って全購連・全浪連に対する年間配給量を重油五万キロリットル、灯油及び軽油二万三千キロリットルとする、その給付は宛先において受渡しするなどの再修正が行われてこの問題はようやく解決に至っている。

  しかし、石油配給統制組織について農・漁村側の特例を認めたということは、少数閣僚制の基礎が失われたことを意味し、そうなれば、専任農相を置いて行政の円滑化をはかるという方向に転ずることは必至であった。貿易省問題で、内閣が外務省事務局の要求を受 けいれたことを報じた10月14日付けの東京朝日新聞は、同時に、政府が専任農相設置に決したことを伝えてもいた。「政府としては最初少数閣僚制の建前に拘泥し各方面の要望に応ずるの色が見えなかったが、この兼任制は一面摩擦排除の目的に出たものが事志とちがって却って摩擦激成の結果を招いた以上は、素直 にこの現実を認めてこだはりなく兼任制を解いて専任農相を設置すべきであるといふ方針に決したものである」(東朝、10・14)。

  専任農相には10月16日、帝国農会長で伯爵・貴族院議員(研究会所属)の酒井忠正が任命された。酒井は10月4日、有馬産組中央会々頭・石黒島林中金理事長・千石全購連会長らとともに阿部首相を訪れ専任農相設置の要望を申し入れた一人であり、この人事は、農・漁村方面の政治的発言力の現状と妥協することを意味していた。阿部首相は閣議で、酒井起用の事情を説明するとともに「以上の事情に依り自然少数閣僚制そのものは現存せざるの状を呈するに至った次第である」(東朝、10・17付け夕刊)と述べたと伝えられる。 そして少数閣僚制という建前が崩れてしまった以上、 他の兼任のポストにも専任閣僚を補充して内閣の体制を強化しようという動きがあらわれてくるのは当然で あった。

  11月に入り、第七五回議会の召集が近づいてくる と、閣僚補充問題は政党方面から鉄道大臣と厚生大臣を補充するという方向で具体化していった。阿部首相 は「理想案としては民政から町田総裁、政友正統派から久原総裁の出馬を懇請、所謂大物主義を目標としてこれによって政民両党を打って一丸とする対政府支持を期待しているようである」(東朝、11・18)とみられたが、両総裁の入閣は困難であり、次善の策としては民政では大麻唯男・小山松寿・小泉又次郎、政友正 統派では大口喜六・岡田忠彦・松野鶴平らが有力候補となるとも観測されていた。また閣内では「河原田文相及び遠藤内閣書記官長、唐沢法制局長官等側近者等の意向は、此際政党側の意向尊重を第一とし、人材本位の看板は第二として、対政党関係の連絡疏通に一番の適任者を求むべきである」としているのに対して、「永井逓鉄相、金光拓相、小原内厚相、伍堂商相らは政党側との連絡の必要は勿論重視するが、政党側の党内事情からなされる推薦に追従すべきでなく……広く政党内から人材本位で自主的に銓衡すべきである」(東朝、11・21)との意向をもっているとも報ぜられていた。

  しかしこの間、陸軍側から「今回の閣僚補充の目的につき単なる内閣強化策若くは議会切抜け策の如き意味は第二義とし事変処理の大目的のためには、この際真の政党代表者として政党総裁の入閣を求め以て挙国一致体勢を一段と強化すべきである」(東朝、11・23)との見解が伝えられたことが、閣僚銓衡方針に大 きな影響をあたえることになった。陸軍首脳部がこのような考え方を示したのは、すでに軍の意向を先取りしようとするまでに迎合的になっている政党を動員することで、戦争により圧迫されている国民の日常生活の問題が論議されることをさけようとしたものとみら れる。ともあれ、これによって阿部首相は当初の理想案にかえり、11月22日政党出身の永井・金光両相、 副総理格の小原内厚相と協議した結果、町田民政党総裁の引き出しを重点とすること、政友会については、 久原正統派総裁に出馬を求めることは、革新派との関係を悪化させ、町田引き出しにも影響するとみてとりやめ、広く政友系ということで、34年に政友会を脱党して以来無所属となっている元衆議院議長秋田清の入閣を求めること、という方針を決定した。

  翌11月23日、阿部首相は早速町田総裁を訪問して入閣を求めたが、町田は閣外にあって政党総裁として国民を導くのが私の最大の使命だとしてこれを拒絶、以後内閣側から説得工作がつづけられたが町田はこれをうけつけようとしなかった。失敗をくり返しているこの弱体な内閣と責任を分つことを避けるというのが町田の真意であるともみられた。阿部首相も28日に至って町田入閣をあきらめたが、同時に銓衡方針も入閣に支障の起こらない人物をとって、ともかくも閣僚補充問題にけりをつけるという方向に一転させてしまった。

  11月29日、厚生大臣に秋田清、鉄道大臣に永田秀次郎が任命されたが、町田の代りに起用された永田は貴族院勅選議員(同和会所属)であり、政党との関係強化を目標にした筈の閣僚補充は、結局衆議院無所属議員と貴族院議員を入閣させるという政党と関係のない形で終わったのであった。このことは、少数閣僚制の建前を内容づけることに失敗した阿部内閣が、この建前をとりくずして内閣強化の方向に転進することに も失敗したことを意味した。第七五回議会を迎える阿 部内閣め立場は極めて脆弱なものとなっているといってよかった。



第七五回議会の召集


 第七五回議会は、1939(昭和14)年11月10日公布の召集詔書により、12月23日に召集された通常会であり、会期は11月26日から翌40年3月24日まで90日と予定されていた。まず召集日の12月23日には、副議長の金光庸夫が柘務大臣就任のため閉会中に辞任(8・31)していたため、副議長選挙が行われ、最高得票を得た田子一民(政友会中島派)が任命された(なお、議長は任期継続中)。26日の開院式につづいて、27日全院委員長の選挙、陸海軍将兵への感謝決議などを行い、翌年1月20日まで、年末年始の休会にはいったが、この間後述するように阿部内閣から米内内閣への政変が行われたため、 1月22日の本会議において、新内閣の要請に応じて、1月30日まで休会を延長することが決議されている。また会期は3月24日に至って2日間延長され、26日に終了している。

  この議会における議長・副議長、全院・常任委員長、国務大臣・政府委員、議員の党派別所属は次の通りであった。

議長   小山 松寿(民政・愛知)
副議長   田子 一民(政友中島派・岩手)
     
全院委員長   百瀬  渡(民政・長野)
常任委員長    
  予算委員長 三土 忠造(政友久原派・香川)
  決算委員長 青木 精一(政友中島派・群馬)
  請願委員長 清  寛(民政・岐阜)
  懲罰委員長 松木  弘(政友久原派・新潟)
  (2・5ヨリ) 中井 一夫(政友久原派・兵庫)
  建議委員長 岡本 実太郎(民政・愛知)
  (2・13ヨリ) 斎藤 直橘(民政・福井)
     
国務大臣    
阿部内閣    
  内閣総理大臣 阿部 信行
  外務大臣 野村 吉三郎
  内務大臣 小原  直
  大蔵大臣 青木 一男
  陸軍大臣 畑  俊六
  海軍大臣 吉田 善吾
  司法大臣 宮城 長五郎
  文部大臣 河原田 稼吉
  農林大臣 坂井 忠正
  商工大臣 伍堂 卓雄
  逓信大臣 永井 柳太郎
  鉄道大臣 永田 秀次郎
  拓務大臣 金光 庸夫
  厚生大臣 秋田  清
     
米内内閣    
  内閣総理大臣 米内 光敬
  外務大臣  有田 八郎
  内務大臣 児玉 秀雄
  大蔵大臣 桜内 幸雄
  陸軍大臣 畑  俊六
  海軍大臣 吉田 善吾
  司法大臣 木村 尚達
  文部大臣 松浦 鎮次郎
  農林大臣 島田 俊雄
  商工大臣 藤原 銀次郎
  逓信大臣 勝  正憲
  鉄道大臣 松野 鶴平
  拓務大臣 小磯 国昭
  厚生大臣 吉田  茂
     
政府委員(12・24、阿部内閣発令)    
  内閣書記官長 遠藤 柳作
  法制局長官 唐沢 俊樹
  法制局参事官 樋貝 詮三
  森山 鋭一
  入江 俊郎
  企画院次長 武部 六蔵
  対満事務局事務官 竹内 徳治
  内閣情報部長 横溝 光暉
  興亜院総務長官 柳川 平助
  関東局事務官 沼田 龍太郎
  外務政務次官 多田 満長
  外務参与官 依光 好秋
  外務省東亜局長 堀内 干城
  外務省欧亜局長 西  春彦
  外務省亜米利加局長 吉沢 清次郎
  外務省通商局長 山本 熊一
  外務書記官 石井  康
  内務政務次官 加藤 鯛一
  内務参与官 福井 甚三
  内務省神社局長 中野 与吉郎
  内務省地方局長 狭間  茂
  内務省警保局長 本間  精
  内務省土木局長 山崎  巌
  内務省計画局長 松村 光麿
  内務書記官 灘尾 弘吉
  大蔵政務次官 清瀬 規矩雄
  大蔵参与官 豊田 豊吉
  大蔵省主計局長 谷口 恒二
  大蔵省主税局長 大矢 半次郎
  大蔵省理財局長 相田 岩夫
  大蔵省銀行局長 入間野 武雄
  大蔵省為替局長 中村 孝次郎
  大蔵書記官 永井  
  植木 庚子郎
  預金部資金局長 広瀬 豊作
  専売局長官 荒井 誠一郎
  陸軍政務次官 宮沢 胤勇
  陸軍参与官 小山田 義孝
  陸軍主計中将 石川 半三郎
  陸軍少将 武藤  章
  陸軍主計大佐 森田 親三
  陸軍歩兵大佐 河村 参郎
  海軍政務次官 西岡 竹次郎
  海軍参与官 真鍋 儀十
  海軍主計中将 武井 大助
  海軍少将 阿部 勝雄
  海軍主計大佐 為本 博篤
  海軍大佐 矢野 英雄
  司法政務次官 森田 福市
  司法参与官 真鍋  勝
  司法書記官 石田  寿
  文部政務次官 作田 高太郎
  文部参与官 伊豆 富人
  文部省専門学務局長 関口 鯉吉
  文部省普通学務局長 中野 善敦
  文部省実業学務局長 岩松 五良
  文部省社会教育局長 田中 重之
  文部省図書局長 近藤 寿治
  文部省宗教局長 松尾 長造
  文部書記官 永井  浩
  教学局長官 小林 光政
  農林政務次官 村上 国吉
  農林参与官 小笠原 三九郎
  農林省農務局長 土屋 正三
  農林省山林局長 田中 長茂
  農林省水産局長 粟屋 仙吉
  農林省畜産局長 岸  良一
  農林省蚕糸局長 吉田 清二
  農林省米穀局長 横山 敬教
  農林省経済更生部長 周東 英雄
  農林省臨時農村対策部長 重政 誠之
  農林書記官 岡本 直人
  馬政局長官 村上 富士太郎
  商工政務次官 横川 重次
  商工参与官 小山 倉之助
  商工書記官 山本  茂
  逓信政務次官 田中 万逸
  逓信参与官 東条  貞
  逓信省郵務局長 森島 美之助
  逓信省電務局長 田村 謙治郎
  逓信省管理局長 山田 良秀
  逓信省工務局長 荒川 大太郎
  逓信省管船局長 伊勢谷 次郎
  逓信省経理局長 手島  栄
  貯金局長 萩原 丈夫
  電気庁長官 平井出 貞三
  航空局長官 藤原 保明
  鉄道政務次官 原 惣兵衛
  鉄道参与官 坂東 幸太郎
  鉄道省監督局長 鈴木 清秀
  鉄道省運輸局長 長崎 惣之助
  鉄道省建設局長 堀越 清六
  鉄道省工務局長 阿曽沼 均
  鉄道省経理局長 池井 啓次
  拓務政務次官 津雲 国利
  拓務参与官 笠井 重治
  拓務省管理局長 副島  勝
  拓務省殖産局長 植場 鉄三
  拓務省拓務局長 安井 誠一郎
  拓務書記官 森重 干夫
  朝鮮総督府政務総監 大野 緑一郎
  朝鮮総督府財務局長 水田 直昌
  台湾総督府総務長官 森岡 二朗
  台湾総督府財務局長 中嶋 一郎
  樺太庁長官 棟居 俊一
  南洋庁長官 北島 謙次郎
  厚生政務次官 三浦 虎雄
  厚生参与官 永山 忠則
  厚生省体力局長 佐々木 芳遠
  厚生省衛星局長 林  信夫
  厚生省予防局長 高野 六郎
  厚生省社会局長 新居 善太郎
  厚生省労働局長 藤原 孝夫
  厚生省職業部長 内藤 寛一
  厚生書記官 川村 秀文
  保険院長官 進藤 誠一
  軍事保護院副総裁 児玉 政介
     
政府委員(1・31、米内内閣発令)    
  企画院総裁 竹内 可吉
  内閣書記官長 石渡 荘太郎
  法制局長官 広瀬 久忠
  企画院次長 植村 甲午郎
  関東局司政部長 今吉 敏雄
  外務政務次官 小山 谷蔵
  外務参与官 小高 長三郎
  外務省条約局長 三谷 隆信
  外務省情報部長 須磨 弥吉郎
  外務省調査部長 松宮  順
  内務政務次官 鶴見 祐輔
  内務参与官 青山 憲三
  内務省警保局長 山崎  巌
  内務省土木局長 成田 一郎
  北海道庁長官 戸塚 九一郎
  大蔵政務次官 木村 正義
  大蔵参与官 松田 正一
  大蔵書記官 氏家  武
  前田 克己
  湯地 謹璽郎
  営繕管財局理事 松隈 秀雄
  陸軍政務次官 三好 英之
  陸軍参与官 宮崎  一
  海軍政務次官 松山 常次郎
  海軍参与官 小山 邦太郎
  海軍大佐 千田 金二
  司法政務次官 星島 二郎
  司法参与官 高木 正得
  文部政務次官 舟橋 清賢
  文部参与官 仲井間 宗一
  教学局長官 菊池 豊三郎
  農林政務次官 岡田 喜久治
  農林参与官 松木  弘
  商工政務次官 加藤 鐐五郎
  商工参与官 喜多 壮一郎
  商工省鉱山局長 小金 義照
  商工省鉄鋼局長 塩谷 狩野吉
  商工省化学局長 永田 彦太郎
  商工省機械局長 鈴木 英雄
  商工省繊維局長 辻  謹吾
  商工省監理局長 牧  楢雄
  商工省振興局長 妹川 武人
  商工書記官 椎名 悦三郎
  特許局長官 大貝 晴彦
  燃料局長官 東  栄二
  貿易局長官 小島 新一
  物価局次長 新倉 利広
  逓信政務次官 武知 勇記
  逓信参与官 藤生 安太郎
  電気庁部長 藤井 崇治
  森  秀
  航空局部長 福原 敬次
  桜井 忠武
  鉄道政務次官 宮沢  裕
  鉄道参与官 大島 寅吉
  拓務政務次官 松岡 俊三
  拓務参与官 加藤 成之
  厚生政務次官 一松 定吉
  厚生参与官 飯村 五郎
  保険院総務局長 佐藤  基
  保険院社会保険局長 清水  玄
  保険院簡易保険局長 藤川  靖
  軍事保護院援護局長 数藤 鉄臣
  軍事保護院業務局長 桜井 安右衛門
     
政府委員追加(会期中発令)    
  大蔵書記官 田中  豊
  司法省民事局長 坂野 千里
  内閣恩給局長 平木  弘
  内閣統計局長 川島 孝彦
  内閣東北局長 宇都宮 孝平
 

内閣紀元二千六百年
祝典事務局長

歌田 千勝
  企画院部長 原口 武夫
  沼田 多稼蔵
  阿部 嘉輔
  興亜院部長 鈴木 貞一
  日高 信六郎
  大蔵書記官 山田 義見
  興亜院部長 松村  粛
  専売局長官 花田 政春
  司法省刑事局長 黒川  渉
  内務書記官 三好 重夫
  大蔵書記官 池田 勇人
  秋元 順朝
  農林事務官 石井 英之助
  馬政局次長 石本 寅三
  鉄道省工作局長 徳永 晋作
  鉄道省電気局長 森田 重彦
  教学局部長 安井 章一
  朝鮮総督府鉄道局長 山田 新十郎
  内務書記官 古井 喜実
  貿易局部長 菱沼  勇
  内閣情報部長 熊谷 憲一
  厚生書記官 曽我 梶松
  対満事務局次長 荒川 昌二
  内務書記官 山内 逸造
  燃料局事務官 柳原 博光
  燃料局事務官 酒井 喜四
  厚生書記官 床次 徳二
  農林書記官 梶原 茂嘉
  馬政局事務官 三須 武男
     
党派別所属議員氏名    
召集日各党派所属議員数    
  立憲民政党 174名
  立憲政友会・中島派 98名
  立憲政友会・久原派 70名
  社会大衆党 34名
  時局同志会 32名
  第一議員倶楽部 21名
  立憲政友会・金光派 12名
  無所属 7名
  欠員 18名
  466名
     
立憲民政党    
  東京 原  玉重
  高橋 義次
  中島 弥団次
  駒井 重次
  長野 高一
  頼母木 桂吉
  真鍋 儀十
  山田  清
  中村 梅吉
  八並 武治
  京都 中村 三之丞
  福田 関次郎
  西村 金三郎
  川崎 末五郎
  池本 甚四郎
  津原  武
  村上 国吉
  大阪 一松 定吉
  柴安 新九郎
  内藤 正剛
  中山 福蔵
  本田 弥市郎
  吉川 吉郎兵衛
  勝田 永吉
  田中 万逸
  松田 竹千代
  神奈川 飯田 助夫
  小泉 又次郎
  平川 松太郎
  岡崎 久次郎
  兵庫 野田 文一郎
  浜野 徹太郎
  前田 房之助
  小林 房之助
  田中 武雄
  小畑 虎之助
  斎藤 隆夫
  長崎 則元 卯太郎
  牧山 耕蔵
  川副  隆
  新潟 北  ヤ吉
  松井 郡治
  佐藤 与一
  小柳 牧衛
  今成 留之助
  佐藤 謙之輔
  増田 義一
  埼玉 松永  東
  高橋 守平
  古島 義英
  群馬 清水 留三郎
  最上 政三
  木桧 三四郎
  千葉 多田 満長
  篠原 陸朗
  成島  勇
  宇賀 四郎
  土屋 清三郎
  池田 清秋
  茨城 中崎 俊秀
  豊田 豊吉
  中井川 浩
  山本 粂吉
  栃木 高田 耘平
  岡田 喜久治
  森下 国雄
  木村 浅七
  奈良 松尾 四郎
  八木 逸郎
  三重 松田 正一
  片岡 恒一
  川崎  克
  長井  源
  愛知 塚本  三
  服部 崎市
  服部 英明
  加藤 鯛一
  渡辺 玉三郎
  内藤 守正
  大野 一造
  岡本 実太郎
  静岡 山田 順策
  平野 光雄
  高木 粂太郎
  津倉 亀作
  坂下 仙一郎
  山梨 堀内 良平
  滋賀 堤 康次郎
  青木 亮貫
  岐阜 清  寛
  伊藤 東一郎
  古屋 慶隆
  長野 松本 忠雄
  田中 邦治
  小山 邦太郎
  宮沢 胤勇
  北原 阿智之助
  百瀬  渡
  宮城 内ヶ崎 作三郎
  北村 文衛
  村松 久義
  小山 倉之助
  福島 粟山  博
  釘本 衛雄
  仲西 三良
  林  平馬
  比佐 昌平
  山田 六郎
  岩手 高橋 寿太郎
  鶴見 祐輔
  青森 工藤 鉄男
  森田 重次郎
  菊池 良一
  山形 伊藤 五郎
  清水 徳太郎
  秋田 町田 忠治
  信太 儀右衛門
  中川 重春
  土田 荘助
  福井 添田 敬一郎
  斎藤 直橘
  石川 永井 柳太郎
  桜井 兵五郎
  喜多 壮一郎
  富山 野村 嘉六
  卯尾田 毅太郎
  松村 謙三
  鳥取 三好 栄次郎
  島根 桜内 幸雄
  原 夫次郎
  俵  孫一
  岡山 小川 郷太郎
  広島 吉田 喜三太
  藤田 若水
  木原 七郎
  山道 襄一
  土屋  寛
  作田 高太郎
  山口 福田 悌夫
  和歌山 西田 郁平
  小山 谷蔵
  徳島 田村 秀吉
  真鍋  勝
  香川 矢野 庄太郎
  愛媛 武知 勇記
  松田 喜三郎
  小野 寅吉
  村瀬 武男
  村上 紋四郎
  高知 長野 長広
  福岡 松尾 三蔵
  岡田 竜一
  勝  正憲
  末松 偕一郎
  大分 一宮 房治郎
  長野 綱良
  重松 重治
  佐賀 池田 秀雄
  中野 邦一
  愛野 時一郎
  熊本 大麻 唯男
  宮崎 鈴木 憲太郎
  鹿児島 小泉 純也
  小林 三郎
  沖縄 漢那 憲和
  仲井間 宗一
  北海道 山本 厚三
  沢田 利吉
  坂東 幸太郎
  同  松浦 周太郎
  大島 寅吉
  手代木 隆吉
  深沢 吉平
  南雲 正朔
     
立憲政友会・中島派    
  東京 本田 義成
  牧野 賎男
  前田 米蔵
  大阪 山本 芳治
  上田 孝吉
  曽和 義弐
  井阪 豊光
  神奈川 野方 次郎
  兵庫 小林 絹治
  原  惣兵衛
  山川 頼三郎
  長崎 太田 理一
  森  肇
  新潟 加藤 知正
  埼玉 宮崎  一
  高橋 泰雄
  横川 重次
  石坂 養平
  出井 兵吉
  群馬 中島 知久平
  金沢 正雄
  篠原 義政
  木暮 武太夫
  青木 精一
  千葉 川島 正次郎
  今井 健彦
  吉植 庄亮
  小高 長三郎
  茨城 川崎 巳之太郎
  大内 竹之助
  佐藤 洋之助
  栃木 船田  中
  江原 三郎
  坪山 徳弥
  小平 重吉
  奈良 福井 甚三
  三重 馬岡 次郎
  浜地 文平
  愛知 加藤 鐐五郎
  樋口 善右衛門
  小笠原 三九郎
  静岡 山口 忠五郎
  宮本 雄一郎
  春名 成章
  倉元 要一
  山梨 田辺 七六
  岐阜 匹田 鋭吉
  木村 作次郎
  長野 羽田 武嗣郎
  福島 堀切 善兵衛
  助川 啓四郎
  星  一
  岩手 田子 一民
  八角 三郎
  泉  国三郎
  志賀 和多利
  青森 小笠原 八十美
  工藤 十三雄
  山形 高橋 熊次郎
  西方 利馬
  熊谷 直太
  秋田 小山田 義孝
  福井 池田 七郎兵衛
  石川 青山 憲三
  富山 高見 之通
  土倉 宗明
  鳥取 稲田 直道
  豊田  収
  島根 高橋 円三郎
  島田 俊雄
  沖島 鎌三
  岡山 久山 知之
  広島 岸田 正記
  望月 圭介
  宮沢  裕
  山口 窪井 義道
  徳島 紅露  昭
  愛媛 大本 貞太郎
  河上 哲太
  福岡 簡牛 几夫
  田尻 生五
  石井 徳久次
  山崎 達之輔
  鶴  惣市
  大分 小野  廉
  清瀬 規矩雄
  佐賀 一ノ瀬 俊民
  熊本 木村 正義
  宮崎 陣  軍吉
  鹿児島 井上 知治
  東郷  実
  寺田 市正
  岩元 栄太郎
  永田 良吉
  金井 正夫
  沖縄 崎山 嗣朝
  北海道 田代 正治
  木下 成太郎
     
政友会・久原派 東京 鳩山 一郎
  安藤 正純
  滝沢 七郎
  津雲 国利
  京都 田中  好
  芦田  均
  大阪 板野 友造
  神奈川 小串 清一
  野口 喜一
  河野 一郎
  鈴木 英雄
  兵庫 中井 一夫
  立川  平
  長崎 西岡 竹次郎
  本田 英作
  佐保 畢雄
  新潟 松木  弘
  愛知 大口 喜六
  静岡 深沢 豊太郎
  塩川 正蔵
  滋賀 森  幸太郎
  服部 岩吉
  岐阜 大野 伴睦
  牧野 良三
  長野 丸山 弁三郎
  植原 悦二郎
  宮城 庄司 一郎
  大石 倫治
  福島 中野 寅吉
  岩手 松川 昌蔵
  山形 松岡 俊三
  秋田 中田 儀直
  福井 猪野 毛利栄
  富山 石坂 豊一
  石川 箸本 太吉
  岡山 岡田 忠彦
  玉野 知義
  星島 二郎
  広島 名川 侃市
  肥田 琢司
  森田 福市
  山口 西川 貞一
  西村 茂生
  国光 五郎
  中野 治介
  和歌山 松山 常次郎
  世耕 弘一
  徳島 生田 和平
  香川 宮脇 長吉
  三土 忠造
  松浦 伊平
  愛媛 砂田 重政
  高畠 亀太郎
  高知 浅井 茂猪
  依光 好秋
  林  譲治
  福岡 原口 初太郎
  野田 俊作
  増永 元也
  大分 綾部 健太郎
  佐賀 田中 亮一
  藤生 安太郎
  熊本 松野 鶴平
  三善 信房
  坂田 道男
  小見山 七十五郎
  北海道 松尾 孝之
  東条  貞
     
社会大衆党    
  東京 河野  密
  安部 磯雄
  浅沼 稲次郎
  阿部 茂夫
  麻生  久
  三輪 寿壮
  鈴木 文治
  中村 高一
  京都 水谷 長三郎
  大阪 田万 清臣
  井上 良二
  塚本 重蔵
  西尾 末広
  杉山 元治郎
  神奈川 岡崎  憲
  片山  哲
  兵庫 河上 丈太郎
  永江 一夫
  米窪 満亮
  河合 義一 
  新潟 三宅 正一
  埼玉 松永 義雄
  群馬 須永  好
  静岡 山崎 釼二
  岐阜 加藤 鐐造
  長野 野溝  勝
  宮城 菊地 養之輔
  秋田 川俣 清音
  香川 前川 正一
  高知 佐竹 晴記
  福岡 松本 治一郎
  亀井 貫一郎
  田原 春次
  鹿児島 富吉 栄二
     
時局同志会    
[国民同盟] 兵庫 清瀬 一郎
  新潟 高岡 大輔
  埼玉 野中 徹也
  愛知 鈴木 正吾
  山形 佐藤  啓
  熊本 安達 謙蔵
  石坂  繁
  伊豆 富人
  蔵原 敏捷
  沖縄 伊礼  肇
     
[東方会]    
  愛知 杉浦 武雄
  滋賀 田中 養達
  岐阜 三田村 武夫
  青森 小野 謙一
  鳥取 由谷 義治
  山形 木村 武雄
  山口 青木 作雄
  高知 大石  大
     
[日本革新党]    
  奈良 江藤 源九郎
  福岡 小池 四郎
  北海道 赤松 克麿
     
[無所属]    
  東京 道家 斉一郎
  朴  春琴
  大阪 池崎 忠孝
  兵庫 吉田 賢一
  奈良 北浦 圭太郎
  愛知 椎尾 弁匡
  山梨 今井 新造
  長野 小山  亮
  中原 謹司
  徳島 三木 武夫
  鹿児島 松方 幸次郎
     
第一議員倶楽部    
  東京 田川 大吉郎
  長崎 馬場 元治
  埼玉 坂本 宗太郎
  茨城 内田 信也
  飯村 五郎
  安藤 孝三
  三重 尾崎 行雄
  山梨 平野 力三
  笠井 重治
  長野 田中  耕
  宮城 守屋 栄夫
  福井 熊谷 五右衛門
  石川 長谷 長次
  広島 永山 忠則
  山口 安倍  寛
  香川 藤本 捨助
  宮崎 曽木 重貴
  三浦 虎雄
  鹿児島 津崎 尚武
  北  勝太郎
  沖縄 小田  栄
     
立憲政友会・金光派    
  東京 田中  源
  大阪 南  鼎三
  新潟 武田 徳三郎
  千葉 岩瀬  亮
  栃木 松村 光三
  静岡 太田 正孝
  岡山 行吉 角治
  犬養  健
  小谷 節夫
  大分 金光 庸夫
  北海道 板谷 順助
  村上 元吉
     
無所属    
  東京 加藤 勘十
  茨城 風見  章
  愛知 小山 松寿
  岡山 黒田 寿男
  和歌山 田渕 豊吉
  徳島 秋田  清
  北海道 渡辺 泰邦


 この議会では、斎藤隆夫除名問題をめぐって、多くの党派に勤揺がみられ、斎藤除名に反対して脱党する者などがあらわれた点が特徴であったが、これらの問題については、後述するところを参照して頂きたい。

  なお、この議会の会期中に、頼母木桂吉(民政・東京)、高木粂太郎(民政・静岡)、佐藤与一(民政・潟)が死去、小林三郎(民政・鹿児島)が失格、渡辺健(民政・茨城)、山元亀次郎(第一議員倶楽部・鹿児島)が再選挙により当選している。また副議長に就任した田子 一民は、慣例に従って政友会(中島派)から離党した。



阿部内閣から米内内閣へ


 第七五回議会を迎えて阿部内閣は、政党との関係を 強化するために種々の工作を試みていた。まず12月1日には、陸軍大将荒木貞夫・貴族院議員勝田主計とともに、政友会正統派の総裁久原房之助と民政党の長老小泉又次郎とを内閣参議に任命、同時に阿部首相は五党首との会談を企画した。

  五党首会談は12月4日、町田民政党・久原政友会正統派・中島政友会革新派・安達国民同盟・安部社会大衆党の各党首と、阿部首相・畑陸相・野村外相・青木蔵相らが出席、政府側から汪兆銘政権樹立工作(「第七五回帝国議会貴族院解説」参照)や物動計画について の説明と意見の交換が行われ、さらに今後月二回定期的に会合すると発表された。しかし、第二回党首会談は18日に開かれ、野村外相から国際情勢・対外政策が説明されたが、政党側には熱意なく、「今後は定期的に会合せず問題のある毎に随時政府側から提議して会合することを申合せ、次回は明年一月議会再開前に開催して議会聞会中は一時中止することとなった」(東朝、12・19)。

  こうした内閣側の画策が効果をあらわさなかったのは、政界に阿部内閣を見限ろうとする空気が広まってきたためであった。第二回五党首会談が聞かれた翌々日の12月20日には、結成されたばかりの時局同志会が、「阿部内閣成立してより茲に四筒月、その間の施政を見るに国家未曽有の重大時局に際しその行ふ所時宜に当らず、朝に令し暮に改め信を天下に失す…… 第七十五議会開かれ政論紛糾の様相を呈するに至らんか、事変処理の上に不利の影響を及ぼすことなきを保せず、首相は宜しく深刻なる時代の動向を明察しその進退に関し善処し以て臣節を全うすべし」(東朝、12・21 )との決議を発表、阿部内閣不信任の態度を強く打出すに至っていた。

  時局同志会とは、11月26日衆議院の右翼的小会派である国民同盟・東方会・日本革新党などが連合して結成した院内団体であるが、これらの小会派はすで に前議会末期の3月25日、平沼首相に対し防共協定を発展させて軍事同盟を締結するよう申し入れているが(東朝、3・26)、これは当時陸軍が推進していた政策であり、これらの小会派が陸軍と裏面で連携しながら動いていることを示すものとみられた。従ってまた、時局同志会の内閣不信任表明も、陸軍が阿部内閣を見限ったことを反映するものであり、軍の動向に先乗りしようとする政党勢力内部の大勢にも大きな影響を与えるものとなった。

  時局同志会が先鞭をつけた内閣不信任の動きが急速 に各党派に滲透していったことは、早くも第七五回議 会の開院政当日に明らかとなった。12月26日の午前中に開院式と勅語奉答文作成に関する本会議が終わると、午後には各党派から240余名の代議士が予算委員室に集まって内閣不信任を決議、翌27日午前には代表16名が阿部首相を訪れて決議文を手渡すとともに、「今日の時局は非常に重大であるから議会において内閣不信任を決議するやうなことは国家の大局から考慮してこれを避けたいと思ふ、よって休会中に自発的に阿部内閣は善処されることが国家のため最善の途と考へてこの決議をなすに至ったものである」(束朝、12・28付け夕刊)とその趣旨を述べた。

  なお代表の顔触れは次の通りであった。
〔民政〕小山谷蔵・木桧三四郎・福田関次郎 〔政友革新派〕倉元要一・西方利馬・窪井義道・木村正義・上田孝吉 〔政友正統派〕河野一郎 〔社会大衆党〕三宅正一・浅沼稲次郎・中村高一〔時局同志会〕清瀬一郎・赤松克麿・田中養達・小山亮

  こうした動きについて、政・民両党幹部は積極的な態度は表明せずに黙認し、30日の有志代議士会では、各党派で内閣不信任決議に対する賛否をとりまとめ、確定数が出れば実行委員が五党首に報告することが決定された。そして翌年1月7日に至ると、内閣不信任の決議に276名が署名したとしてその氏名を発表した。党派別にみると(かっこ内は所属議員数)、民政党81名(174名)、政友会革新派79名(98名)、政友会正統派46名(70名)、社会大衆党32名(34名)、時局同志会29名(32名)、第一議員倶楽部6名 (21名)、政友会中立派2名(12名)、無所属1名(7名)となっている。

  これに対して阿部首相は、当初は有志代議士などが さわいでも、党幹部に了解をつければ議会は乗り切れると楽観していたようであるが、不信任運動が拡大するのをみると今度は解散を強行しても事態を打開しようとする強気の態度を示した。しかし解散には陸・海軍大臣ともに反対であり、また1月8日の閣議で汪兆銘政権樹立に関する「日支新関係調整要綱」が決定されたのを機に陸軍側が阿部内閣の退陣を要求する態度を明らかにしてきた。「即ち陸軍としては既に支那に於ける新中央政権樹立問題を中心とする事変処理も8日の臨時閣議に於て一段階を画し、一方現内閣に対する世上の不評は有志代議士会の不信任と並行して愈々強化しつつある事実に鑑み、此際現内閣は速かに善処 し更始一新せる強力なる体制の下に新なる気魄を以て事変処理に臨むことが急務であるとの意見に一致している」(東朝、1・9)とも報ぜられていた。

  内閣の支柱である陸軍から退陣要求をつきつけられては致し方なく、阿部首相も10日には辞職を決意、14日の臨時閣議で閣僚の辞表をとりまとめた。後継首相については、陸軍を中心として枢密院議長近衛文麿の出馬を求める声が高く、銓衡工作の中心となった 湯浅内大臣も、まず近衛と会談しているが、近衛は固辞して受けず、ついで池田成彬・荒木貞夫らが候補にのぼった。しかし湯浅は元海相の米内光政を椎すことを決意しており、岡田啓介・平沼騏一郎・近衛文麿ら首相経験者の意見をきいたうえで、元老西園寺公望に了解を求め、米内を天皇に推挙し、14日夜には米内に組閣の大命が下された。米内は平沼内閣の海相時代には、米英との協調の必要を説いて陸軍の防共協定強化策に反対し、陸軍や右翼から親米英派として攻撃されていたが、天皇はとくに畑陸相を招いて新内閣への協力を確認し、米内の組閣をたすけた。このことは当時の新聞にも「畑陸相は十四日午後七時五十五分宮中よりの御召しにより参内 天皇陛下に拝謁仰付けられ、 後継内閣組織の大命を米内海軍大将に降下あらせられたにつき、陸軍として協力するやう御言葉を賜はり、 陸相は恐懼して聖旨に副ひ奉る旨奉答、同八時二十分退出した」(東朝、1・15)と報ぜられている。

  組閣の大命をうけた米内は直ちに、平沼内閣時代の蔵相石渡荘太郎・厚相広瀬久忠を参謀として組閣に入り、畑陸相・吉田海相の留任、有田外相・小磯拓相という平沼内閣時代の閣僚の復活、検事総長木村尚達の法相任命などをきめ、ついで政党との交渉にはいった。

 

「先づ(一五日)午後二時には町田民政党総裁を招致し、米内大将と二人だけで直々の内談を進める事一時間にして辞去した。席上米内大将からハッキリと『党代表の資格に於て民政党から二名人閣して貰ひたい」と希望し、特に『今回は蔵相は政党から出て頂く事にしたから」と前置して町田総裁の財経手腕を信頼して大蔵大臣としての入閣方を要請したが、町田総裁は即席に入閣を拒絶した。そこで米内大将は『桜内幸雄氏と勝正憲両氏を党代表として希望する、桜内氏は農林には入って貰い度い予定である。  勝氏の椅子は他の振合ひできめ度い』と述べ、町田氏は桜内氏については内諾を与へたが、勝氏については大麻唯男氏を推して両者の意見不一致のまま交渉を残して辞去した。総裁邸に帰った町田氏は考慮の結果組閣本部案の勝氏に同意する事となり、この旨本部に電話で回答した。
  民政党の方が総裁を招き党代表として入閣者を指名交渉したのと同じやうに、政友会の方も革新派は中島総裁を、正統派は久原総裁病気のため代理として岡田幹事長をそれぞれ招致し、革新派の方は内閣参議島田俊雄氏を逓相に、正統派は政変の度に噂に上っていた松野鶴平氏を鉄相に指名して入閣を交渉し、その快諾を得た。
  然るに其後組閣本部では桜内氏に一旦農相を交渉したものの町田総裁が蔵相を固辞したので町田氏の代りに桜内氏を廻す事となり、その代り逓信の島田氏を農相に転ぜしめ逓相に勝氏を据えることになって政党関係は全部完了した」(東朝、1・16)。  

 このように米内内閣が政党から4名を入閣させたこ と(近衛・平沼内閣では2名)、それも人材本位と称して個人に直接交渉するのではなしに、総裁を介して党の代表として入閣せしめたこと、しかも蔵相という重要なポストを与えたことなどは、この内閣の政党重視の姿勢を示すものとして注目された。このほかでは、王子製紙の経営者・藤原銀次郎を商工大臣に起用したのが異色の人事であり、また文部大臣には文部官僚の大御所的存在として枢密院におさまっていた松浦鎮次郎を、厚生大臣には社会局長官・内閣調査局長官などの経歴を持ち、往年の新官僚のリーダーでもあった吉田茂を、内務大臣には拓相・逓相をつとめたこともあり 貴族院の伯爵議員(研究会)である児玉秀雄をあてた。 組閣参謀の石渡は内閣官房長官、広瀬は法制局長官に就任している。その他の主要ポストでは、17日になって物価局次長の竹内可吉が企画院総裁に抜てきされている。

  このような顔触れで1月16日発足した米内内閣は、 一方では「人材内閣」と評されたが、他方では「革新的色彩に乏しい」「現状維持的」とみられており、またこの内閣の「一番に目立つ大きな性格は……陸軍の意思が従来ほど強く響かずに生れた内閣だといふことだ」 (東朝、1・26)という側面も注目された。従って親軍的「革新」を標榜する勢力は初めから野党的態度を示しており、内閣参議のうちでも末次信正海軍大将・ 松井石根陸軍大将・松岡洋右元外相らは留任を拒否して辞任している。また時局同志会は20日、「新内閣の成立を見るに国民の期待に反するものあるを否定し難い。殊に後継内閣首班の奏請に当れる重臣の行動に対し頗る理解に苦しむものがある。……我等は現状維持的勢力を基調として成立せる新内閣の施政に対し確乎たる革新的立場より峻厳なる検討を加へんとするものである」(東朝、1・21)との声明を発表し、この内閣に政務官を送ることをも拒否した。

  米内内閣は政務官については、衆議院より全員をとるという近衛内閣以来、平沼・阿部内閣とうけつがれてきた方針を変更して、貴族院にも若干名を割りあてることとし、1月24日次のように任命している。なお、政友(中)は中島(革新)派、政友(久)は久原(正統)派、第一倶は第一議員倶楽部、貴は貴族院議員を示す。

政務次官 参与官
外務 小山 谷蔵  民政 小高 長三郎 政友(中)
内務 鶴見 祐輔 民政 青山 憲三 政友(中)
大蔵 木村 正義 政友(中) 松田 正一 民政
陸軍 三好 英之 民政 宮崎 一 政友(中)
海軍 松山 常次郎 政友(久) 小山 邦太郎 民政
司法 星島 二郎 政友(久) 高木 正得 貴・研究
文部 舟橋 正賢 貴・研究 仲井間 宗一  民政
農林 岡田 喜久治 民政 松木  弘 政友(久)
商工 加藤 鐐五郎 政友(中) 喜多 壮一郎 民政
逓信 武知 勇記 民政 藤生 安太郎 政友(久)
鉄道 富沢  裕 政友(中) 大島 寅吉 民政
拓務 松岡 俊三 政友(久) 加藤 成之 貴・公正
厚生 一松 定吉 民政 飯村 五郎 第一倶


 結局、民政・政友ともに11名の割り当ては阿部内閣と変らず(政友は中島派6、久原派5)、小会派の分が 貴族院(3名、研究会2・公正会1にまわったことになっている。

  第七五回議会は1月21日に年末年始の休会を終えて再開される筈であったが、米内内閣は成立翌日の1月17日の閣議で、1月30日まで10日間の休会延長を要請することをきめ、議会側もこれをうけいれて休会延期を議決し、議会での論戦は2月1日から開始されることとなった。



抹殺された斎藤演説

 第七五回議会は2月1日、国務大臣の施政方針で実質的審議の幕をあけ、質問第一陣として登壇した小川郷太郎(民政)は、汪兆銘政権支援政策、対米英外交、厖大予算の実行問題、戦時国民生活の確保、経済統制策などにつき政府の所信をただした。翌2日も国務大 臣演説に対する質疑が行われ、東郷実(政友中島派)が外交・経済問題などにつき質問したが、つづいて起っ た斎藤隆夫(民政)が対中国政策をとりあげ、東亜新秩序をうたった近衛声明を批判したことから、衆議院は大混乱におちいることとなった。

  まず斎藤演説を「今次聖戦の大理想を無視した非国民的言論なり」と痛憤した陸軍当局は、本会議閉会後、直ちに斎藤及び民政党に対して取消しを申し入れ、ま た時局同志会・社会大衆党も声明を発して斎藤演説を 非難した。そしてこの形勢におどろいた民政党首脳部 は、斎藤演説の後半部分は党の主張に反するものであるから速記録から削除するのが適当だとの意見をまとめ、これに呼応した同党出身の小山議長は、同夜議長職権をもってこの部分を抹殺するという異例の措置に出たのであった。

  本書所収の速記録第五号に続く削除された斎藤演説は、海軍省資料からの復刻により「現代史資料13・日中戦争(5)」(336〜344頁)に収録されているが、その内容は次のようなものであった。

  まず「私は是より一歩を進めまして少し私の議論を 交へつつ政府の所信を聴いて見たい」と述べた斎藤は、日中戦争における戦争目的の問題をとりあげる。即ち政府は日中戦争をもって「道義的基礎の上に立って国際正義を楯とし、所謂八紘一宇の精神を以て、東洋永遠の平和、延いて世界の平和を確立するが為に戦って居るのである。故に眼前の利益などは少しも顧る所ではない。是が即ち聖戦である、神聖なる所の戦である と云ふ所以である」と考えているようであり、「現に近衛声明の中には確かに此の意味が現はれて居る」、しかしこの高遠なる理想が、国家競争の現実と一致しているかどうかが問題であり、「現実に即せざる国策は真の国策にあらずして一種の空想」にすぎないと断じた。

  そして「先づ第一に東洋永遠の平和、世界永遠の平和、是は望ましきことではありまするが、実際是が実現するものであるか否やと云ふことに付てはお互に考へねばならぬことである」とし、人類の歴史が戦争の歴史であることを強調したのにつづけて次のように演説している。

 

「さうして一たび戦争が起りましたならば、最早問題は正邪曲直の争ひではない、是非善悪の争ひではない、徹頭徹尾力の争ひであります、強弱の争ひである、強者が弱者を征服する、是が戦争である、正義が不正義を膺懲する、是が戦争といふ意味ではない」「国家競争は道理の競争ではない、正邪曲直の競争でもない、徹頭徹尾力の競争である。世にさうでないと言ふ者があるならばそれは偽であります、偽善であります。吾々は偽善を排斥する、飽くまでも偽善を排斥して、以て国家競争の真髄を掴まねばならぬ、国家競争の真髄は何であるか、曰く生存競争である、優勝劣敗である、適者生存である、適者即ち強者の生存であります」。

「此の現実を無視して唯徒に聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、曰く国際正義、曰く道義外交、曰く共存共栄、曰く世界の平和、斯の如き雲を掴むやうな文字を列べ立てて、さうして千載一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤るやうなことがありましたならば、現在の政治家は死しても其の罪を滅ぼすことは出来ない、私は此の考を以て近衛声明を静に検討して居るのであります、即ち之を過去数千年の歴史に照し、又之を国家競争の現実に照して、彼の近衛声明なるものが果して事変を処理するに付て最善を尽したるものであるかないか、振古未曽有の犠牲を払ひだる此の事変を処理するのに適当なるもであるかないか、東亜に於ける日本帝国の大基礎を確立し、日支両国の間の禍根を一掃し以て将来の安全を保持するに付て適当なるものであるかないか、之を疑ふ者は決して私一人ではない、苟くも国家の将来を憂ふる者は必ずや私と感を同じくして居るであらうと思ふ。それ故に近衛声明を以て確乎不動の方針なりと声明し、之を以て事変処理に向はんとする現在の政府は私が以上述べたる論旨に対し、逐一説明を加へて、以て国民の疑惑を一掃する責任があるのであります」。

 斎藤演説中この部分が最も軍部を怒らせたであろうことは、海軍省資料が「斎藤隆夫演説中の難点」として次のように述べていることからもうかがうことができる。

 

一、東洋永遠の平和は空想なりとし民族的理想を否定す。日露戦争宣戦の詔勅、第七十二議会開院式の勅語等に示された「東洋の治安を永遠に維持し」 「東亜の平和を確立せん」等の八紘一宇の大精神を基調とする我民族的理想を否定す。

一、日本の民族的性格を(冒とく)す。白人諸国の行ふ戦争と日本の行ふ戦争とが本質に於て同一なりと断定し我大陸政策の本質を無視し古来よりの我民族的性格及聖戦の意義を(冒とく)す。

一、本事変を侵略戦争と見做す。我建国以来の歴史を単なる暴力発展の歴史なりと誣ひ、且つ八紘一宇の精神を権力的支配の精神となし我皇道政治を覇道政治と解する如き感を与ふ。                
                                                                  (同前、346〜7頁)

 まさに斎藤の意図は、社会進化論的観点をことさらに前面に押し出すことによって、近衛声明、ひいては日本の戦争イデオロギーの偽善性、独善性を暴露することにあったとみることができる。斎藤は次に汪兆銘政権について「一体此の政府はどれだけの力を持って現はれるのであるか」、また「一方に於ては蒋介石討伐、他の一方に於ては新政権の援助、我国は是より此の二つの重荷を担うて進んで行かねばならぬのでありますが、是が我国力と対照して如何なる関係を持って居るものであるか」との疑問を提示し、最後に次のように官僚政治の弊害を指摘して演説を終わったのであった。

 

「歴代の政府は国民に向って頻りに精神運動を始めて居る、精神運動は極めて大切でありまするが、精神運動だけで事変の解決は出来ないのである、况や此の精神運動が国民の間にどれだけ徹底して居るかと云ふことに付ては、此際政府としても考へ直さね ばならぬことがあるのではないか、例えば国民精神総動員なるものがあります、此の国費多端の際に当って、随分巨額の費用を投じて居るのでありまするが、一体是は何を為して居るのであるか私共には分らない、此の大事変を前に控へて居りながら、此の事変の目的は何処にあるかと云ふことすらまだ普く国民の間には徹底して居らないやうである。聞く所に依れば、何時ぞや或る有名な老政治家が演説会場に於て聴衆に向って今度の戦争の目的は分らない、何の為に戦争をして居るのであるか自分には分らない、諸君は分って居るか、分って居るならば聴かして呉れと言うた所が、満場の聴衆一人として答へる者がなかったと云ふのである。此処が即ち政府として最も注意をせなくてはならぬ点である」。

「事変以来我が国民は実に従順であります、言論の圧迫に遇って国民的意思、国民的感情をも披瀝することが出来ない、殊に近年中央地方を通じて、全国に瀰慢して居りまする所の彼の官僚政治の弊害には悲憤の涙を流しながらも、黙々として政府の命令に服従する政府の統制に服従するのは何が為であるか、一つは国を愛する為であります。又一つは政府が適当に事変を解決して呉れるであらう、之を期待して居るが為である。然るに若し一朝此期待が裏切られることがあったならばどうであるか、国民の心理に及ぼす影響は実に容易ならざるものがある、而も此事が国民が選挙し、国民を代表し、国民的勢力を中心として解決せらるるならば尚ほ忍ぶべしと雖も、事実全く反対の場合が起ったとしたならば、国民は実に失望のどん底に蹴落されるのであります。国を率いる所の政治家は茲に目を着けなければならぬ。
  繰返して申しまするが、事変処理は有ゆる政治問題を超越する所の極めて重大なる所の問題であるのであります。内外の政治は悉く事変を中心として動いて居る、現に此の議会に現はれて来まする所の予算でも増税でも、其他有ゆる法律案は何れも直接間 接に事変と関係を持たないものはないでありませう、それ故其の中心でありまする所の支那事変は如何に処理せらるるものであるか、其の処理せらるる内容は如何なるものであるか、是が相当に分らない間は、議会の審議も進めることが出来ない筈なのである、私が政府に向って質問する趣旨は茲にあるのでありますから、総理大臣は唯私の質問に答へるばかりではなく、尚ほ進んで積極的に支那事変処理に関する一切の抱負経綸を披瀝して、此の議会を通じて、全国民の理解を求められることを要求するのである、私の質問は是を以て終りとします」。

  


斎藤隆夫除名問題

 斎藤演説にいきり立った陸軍は、翌日の本会議で畑陸相を立てて反駁するという強硬な態度を示し、これに呼応して院内でも、政友会革新派・時局同志会・社会大衆党などの間からは斎藤を除名すべしとする声が高まってきた。反面こうした情勢に狼狽した民政党幹部は、演説の翌日、2月3日午前中に斎藤を説得して離党の手続をとらせ、本会議では、議員からの発議を またずに小山議長をして斎藤を懲罰委員会にかける旨の宣言をさせることにし、斎藤への攻勢が民政党にまで及ぶことを避けようと画策していた。しかしこれに対しては党内から議長の職権で懲罰にかけるとはあまりにひどいとの反発がおこり、またこの間には、小山議長が独断で斎藤演説の半分を削除したことへの批判や、斎藤演説に対し一回の注意もせずに無事に終わらせたことは、議長として怠慢だどいった声もあがり、2月3日の衆議院は混乱を極めた。この日の模様を新聞は次のように報じている。

 

「二日の本会議における斎藤氏の演説内容はその後半全部を削除されたにも拘らず、事態は三日朝来愈険悪化するに至ったので民政党は斎藤氏を説いて自発的に離党させると共に八方手を尽して局面の円満収拾に奔走したが、大勢は益々急迫して来たので小山議長と打合せの上、議長の権限による懲罰で兎も角も当面を取りつくらふことに決し、この旨議長より各派に諮って一応決定した。然るにその後に至って民政党内部に反対論が起り、かかる処置をとることは斎藤氏に対し余りに無情冷酷であるといふので幹部に迫ってその変更を要求し、その結果議長は一旦決定の上各派交渉会に発表した方針を抛棄する旨、民政、中島派、久原派の三幹事長に通告した。

  而も他方小山議長の速記録削除の処置に対する非難と、速記録を削除しなければならぬやうな不穏当な発言を最後迄注意も禁止もしなかった議長の職務怠慢を追求する声が中島派、社大、時同の各派から一斉に高まり斎藤氏に対する処置と交錯して議長不信任案提出の情勢にまで悪化し、更に懲罰問題についても議長がこれを断念すれば、強硬派の三派は動議によって数で争はうとの気勢を示すに至った。そこで民政党も懲罰動議が出た場合の態度に困惑し再考を重ねた上、議長の処置に委せることに三転、党内を纒めて議長に再交渉した結果議長の職権による懲罰事犯とすることに確定するに至ったものである。

  かくて午後9時4分に及んで定刻に遅るること8時間にして本会議を開会、斎藤氏は遂に懲罰委員に付せられた。小山議長の釈明、米内首相、畑陸相、吉田海相の斎藤氏に対する反駁的所信披瀝を含めてこの舞台表は僅かに7分間、このために費された楽屋裏の駈引と取引とは10数時間に及んだわけ」である(東朝2・4)。  

 結局斎藤は「審査ノ為斎藤君ヲ懲罰委員二付シマス」 (「速記録第六号」参照)との小山議長の発言によって懲罰委員会にかけられることになったが、最初から斎藤除名の雰囲気が支配的であったわけではなかった。まず懲罰委員会は2月10日、小山議長から事情聴取を 行ったが、この段階の情勢は「目下のところ民政党は穏便なる措置によって解決を希望して居り、これに対し強硬に除名論を唱へているのは時局同志会で、その間にあって政友会中島派は比較的強硬論が強く、久原派は大勢穏硬論に傾いて居り、社会大衆党は両論拮抗の形にある」(東朝、2・10)と報ぜられていた。

  これに対して政府側は表面的には立法府内部のこととして不干渉の態度をとっていたが、裏面では斎藤除名を実現するよう圧力をかけていた。とくに陸軍は斎藤演説が放置されたのでは第一線将兵の志気にかかわるし、また折角つくりあげた汪兆銘政権に疑問を出されたままでは海外の反響も思わしくなくなるといきまいていた。そして政府側には斎藤の懲罰が除名までゆかずに議院への出席停止程度にとどまるなら、議会を 停会にしても議員の反省を促す用意がある、という噂も伝えられていた。

  こうしたなかで懲罰委員会は2月24日、斎藤白身を喚問したが、この席での斎藤の釈明は除名論者に痛撃を与えたものとして除名反対派を勇気づけるもので あった。「24日の委員会後における情勢を観るに民政党方面では除名の急先鋒である中島派、時同並に社大の一部の強硬論を真正面から反駁してしかもこれら強硬論に再駁論の余地なからしめたものとなり委員会の空気は俄然斎藤氏に対し同情的となって来たと見ている。従ってこの委員会の空気が反映して民政党内の除名反対論者は大いに活気づき、久原派内の反対論者も同様でこれら民政党並に久原派の除名反対派に至っては、斎藤氏の弁明は除名論に対する徹底的反対論なりとして凱歌を挙げる情景さへ現出するに至った」(東朝、2・29)。しかし除名反対論が活気づくととも に、裏面からの軍の圧力も強まっており、除名論で固まっている時局同志会や親軍的な中島派をのぞく各党派では、斎藤除名の賛否をめぐる対立が激化する形勢となった。そしてさらに、時局同志会や中島派などには、軍の圧力を背景としてこの内紛をあおり立て、既成党派を解体し、親軍的勢力をまとめあげるための機会に利用しようとする意図さえうかがわれ始めた。これに対して斎藤の周辺では斎藤に議員を辞職させるこ とで、問題を解消しようとする説得工作が続けられ、 斎藤も一時は辞意を表明したものの、すぐまた辞意を 撤回し事態は一層紛糾してゆくこととなった。この間の事情は次の如く報ぜられている。

 

「斎藤隆夫氏の懲罰事犯は同氏の自発的議員辞職によって円満解決を見るものと思はれていたところ、(三月)三日夜に至って心境に動揺を来し岡崎久次郎氏(民政)に辞職飜意をもらし四日午前民政党の川崎克氏外十数氏の政友に対し正式に辞職決意を思 止った旨を表明、同日政友に挨拶状を郵送して夕刻突然熱海に赴き民政党側政友との連絡を断つに至って問題は俄然逆転して六日除名処分受けることは確実となった。

  即ち斎藤氏は衆議院各派の大勢が除名論に傾いた情勢と友人の勧告により自発的に辞職を決意し民政党内の友人にその意向を伝へると共に中井懲罰委員長に対しては電話をもって非公式に進退を考慮しているからとて討論採決の延期方を申出た。二日の懲罰委員会としては種々の議論も出たがとも角六日迄採決を延期することを決定、懲罰委員会開会前、即ち五日中には当然斎藤氏の辞職が決定するものと信ぜられていた。然るに斎藤氏は辞職前本会議場において釈明をしたい希望をもち民政党及び久原派は大体これを諒承していたが、中島・時同・第一等はこれに反対したため斎藤氏の期待する釈明が出来るかどうか疑はしくなった。斎藤氏はこの点深く不満とし、釈明も許可されなければ議員辞職の途をとるよりも除名処分を受けるに如かずと決意し、上京せる 選挙区有志とも相談の上辞職を思ひ止まり熱海に逃避、衆議院の裁断を待つの挙に出でた。

  然して斎藤氏今回の飜意離京は中島、時同等除名強硬態度派を刺戟したことは固より民政、久原派内の斎藤氏同情者をも却て硬化せしむるの結果となり各会派共除名論が大勢を占め六日の懲罰委員会及び本会議では多数をもって除名することは必至となった」(東朝、3・5)。


 形勢有利とみた時局同志会、政友会中島派らは3月5日夕刻より久原派・社会大衆党の除名派をも加えて有志代議士会を開き、斎藤除名だけでなく、更に斉藤に代表質問を行わせた民政党の責任を追求する方針を 決めて気勢をあげた。この会合では、この有志の連合をもって聖戦貫徹議員連盟を結成すべしとの提案が行われており、斎藤除名への賛否を軸として新たな政界再編成を推進しようとする気運も生まれた。これに対して除名反対派行激しい抵抗を展開し始め、同時刻に聞かれた民政党代議士会は混乱をつづけており、また翌六日には政友会久原派も大きな動揺をみせることになった。

  まず5日午後6時半から聞かれた民政党代議士会では、経過報告に立った森田重次郎懲罰委員が、除名は重すぎるから出席停止にすべきだとの意見を述べたこ とから議論百出し、二度の休憩をくり返したが、意見の一致はみられず、結局午後11時半になってようや く幹部と懲罰委員ヘ一任の動議を反対少数で可決して散会したが、反対派はなおも採決やり直しを叫んで抵抗する有様であった。翌6日は午後1時から懲罰委員会の開会が予定されたが、午前中の政友会久原派総務会は、斎藤演説の内容は除名に値するものではないとの意見が強く出てまとまらず、つづく常時顧問会でも三土忠造、鳩山一郎らが除名反対を唱えて譲らず、結局夜に入ってようやく総裁一任となり久原総裁は斎藤除名と決定した。またすでに1日の中央執行委員会で 除名の方針を決定していた社会大衆党の場合にも、採決の結果は除名11対反対5であり、除名反対派の存在が明らかになっていた。

  休憩をくり返しながら久原派の態度決定を待っていた懲罰委員会は6日午後8時半より開会して全員一致で斎藤除名を可決、翌7日の本会議では秘密会を開いて除名を決定した。1ヵ月以上にわたってもみつづけた斎藤演説問題はこれでようやくけりがついたわけであるが、この斎藤除名という結末は、議会自らが、議会内においても公認の戦争イデオロギーに疑義をさしはさむような発言を許さないとの原則を承認したことを意味した。そして更に除名決議の翌日には、衆議院が斎藤演説に反対であることを表明するために各派共同の決議案を上程することとなり、9日の本会議では「聖戦貫徹二関スル決議案」が全会一致で可決されるに至っている。そしてその反面では、いまや局面の主導権を握った除名派が除名反対派を追撃するという状況があらわれていた。

  民政党では除名反対派は欠席、その他では岡崎久次郎が除名採決の直前に離党しただけで表立った動きは起こらなかったが政友会久原派では、欠席者は不問としたが反対投票した宮脇長吉・名川侃市・牧野良三・ 芦田均・丸山弁三郎の5名に、また社会大衆党になる と本会議を欠席した片山哲・鈴木文治・西尾木広・水谷長三郎・米窪満亮・富吉栄二・松永義雄・岡崎憲の8名に離党を勧告することとなり、党内は大きく動揺 していった。久原派の場合には、党の大長老である三土忠造・鳩山一郎が除名反対論者であり、従って離党勧告にも反対して分裂の危機に頻したが、結局12日に至り、5名が離党届を提出すると、久原総裁が即座に復党を認めるという弥縫策で対立を糊塗した。しかしこの妥協には今度は除名強硬派が反発、24日には 西岡竹二郎・肥田琢司・本田英作・玉野知義:中野寅吉の5名が久原は彼本来の魂を失って自由主義者に屈伏したとの声明を発して脱党し、自由主義分子を排除 した新党結成を唱えた。結局久原派は大分裂は回避したものの、イデオロギー問題が正面に押し出されてきたこの段階で、実質的に解体したといってもよかった。 また社会大衆党の場合には、片山ら8名が離党勧告を拒否するや、除名という強硬手段をとり(10日)、事態は直ちに分裂に発展した。しかも21日には、党 首の安部磯雄が「現在の社会大余党の状態では到底国民の負託に応へ得ないものがある」の声明を発して離党、松本治一郎もこれに同調するなど分裂は一層拡大していった。

  これに対して、さきの斎藤除名派の有志代議士連合は、3月25日には各派より約百名の代議士を集めて 聖戦貫徹議員同盟の発会式を行っており、斎藤除名を 契機として、政界には既成党派の解体、ファッショ的再編成の潮流がはっきりした形をとって動き出していた。



議案審議の状況

 この議会では、前述したように、斎藤隆夫の政府批判が衆議院をゆるがしたが、斎藤とは反対の立場からの政府攻撃もあらわれていた。2月6日の本会議では、 清瀬一郎(国民同盟・時局同志会)が、浅問丸事件や対米交渉問題(「第七五回帝国議会貴族院解説」参照)をとりあげて政府を批判したが、彼は日本が軍事的に封鎖している揚子江の開放に反対し、揚子江は現状のまま汪兆銘政権に引渡し同政権を承認する国だけに開かるべきだとし、また、中国に関する9カ国条約の破棄を提唱、これに対する政府の答弁を不満として「総テ英吉利、亜米利加ノ家来ニナッテ日本ノ外交ヲシテ居ル」 と毒づいていた。しかし全般的にいえば、対外政策に関する論議は、政府を鞭撻するといった趣旨のものが多く、討論の中心は経済問題に向けられていた。とくに関心を集めたのは、一般には百三億予算と呼ばれ、 一般会計(58億2200余万円)と臨時軍事費(44億6000万円)の合計がはじめて百億円をこえたことで注目された昭和15年度予算案であった。
  この厖大なる予算が、すでに述べたような物不足と物価騰貴という状況のなかで、果たして円滑に運用できるのかという危惧が一般に抱かれていたのであるが、政党側は予算と物資動員計画、生産力拡充計画との関係を論議の中心において予算案を批判しようとした。 しかし政府側は秘密会においても両計画の概要の説明 を出さなかったので、論議の中心は物価政策との関連の方へ移っていった。物価との直接の関連では、この予算案が、9・18価格停止令よりもさらに一年前の、38年7・8月の単価を標準として編成されている点が批判されたが、より一般的にはこの予算の執行によってインフレーションが激化するのではないかという点が問題とされており、予算審議の過程で米内内閣の政策が、阿部内閣の低物価政策を引きつぐと称しながらも、補助金散布による増産政策へと次第に重点を移してゆこうとする傾向をあらわしたことも、こうした論議に拍車をかけるものであった。

  米内内閣は成立早々、前述したように電力飢饉を打開するための石炭確保という課題に直面したわけであるが、当時炭鉱業者からは炭価引上げの要求が強く出されていた。これに対して藤原商相は、物価騰貴を抑えるには物の供給をふやすための増産が必要でありそ のためには生産者の利潤の保証が必要であるとの観点に立ち、消費価格を引上げないために生産者に補助金を支給して増産をはかるとの方針を打出した。2月初めには「石炭の大増産計画・追加予算一億円計上」(東朝、2・2)のニュースが流されたが、こうした補助金政策は増産政策の柱として採用されることとなり、2月2日の閣議では早くもマッチの値上げを防ぐため、2割3分程度の補助金を給付する方針が決定されている。しかしこうした補助金の財源としては公債に頼るほかはなく、それがまたインフレ要因になると論議されたわけである。政府側では、前年度100億であっ た貯蓄目標を120億に引き上げるなどの対策を示したが、結局増産・生産力拡充政策と低物価政策の矛盾という問題を残したまま、予算案は2月22日の衆議院本会議で原案通り可決され貴族院に送られた。

  この予算案は、他の大部分の法律案と同様、阿部前内閣が作成したものをそのままひきついだものであっ たが、3月15日になると米内内閣独自の政策を示す追加予算案が提出された。総額2億1660余万円のこの追加予算の中心は前述の石炭生産への補助金を含む石炭増産対策費6600余万円であり、石炭以外では、マッチ・肥料などに対する補助が含まれていた。この追加予算も3月24日の本会議で無修正で可決されているが、これはあらゆる分野で「増産」の掛け声がかけられるようになる一つの画期を示すものでもあった。

  予算と関連して論議を呼んだのは、国税・地方税を含めてほぼ税制全般にわたり、45件の法律案より成る大税制改革案であった。この改革案は広田内閣時代よりの懸案とされていた租税制度そのものの改革を実現するとともに、財政の膨脹に見合う増税を行い、国民の購買力を吸収してインフレの抑制をはかろうとするねらいをも持つものであり、桜内蔵相は「第一ニ中央地方ヲ通ジテ負担ノ均衡ヲ図ルコト、第二ニ現下緊要ナル経済政策トノ調和ヲ図ルコト、第三ニ収入ノ増加ヲ図ルト共ニ、弾力性アル税制ヲ樹立スルコト、第四ニ税制ノ簡易化ヲ図ルコトノ四ツノ事項」(速記録第9号)が目標と説明していた。またこれによる国税の増収は、昭和15年度約6億400万円、平年度約8億 1400万円、このうち地方団体への分与金を差引いた国庫収入の純増は15年度3億7300万円、平年度5億1000万円と見込まれていた。前議会で成立 した初年度1億8000万円、平年度2億円につづくこの大増税は、国民生活への税の圧力を画期的に強めることを意味した。

  改正の主な点をみると、直接国税では、これまでの所得税を中心として地祖・営業収益税・資本利子税の3種の収益税で補完するという体系をあらためて所得への課税一本とし、収益税は地方の独立財源とすることに改めた。そして所得への課税は、個人に対する所得税と法人に対する法人税とに区分し、さらに所得税は分類所得税と総合所得税の二種類とするという新たな税体系を打出したのであった。

  分類所得税とは所得の種類(不動産所得、配当利子所得、事業所得、勤労所得、山林所得、退職所得の6種に区分)に応じてそれぞれ異った税率、免税点、控除、課税方法により徴収される租税であるが、ここでは比例税率による源泉徴収制度を広汎に採用した点が特徴で あった。中心となる事業所得は税率7・5%、免税点400円、勤労所得は税率6%、免税点600円とさ れたが、これにより所得税納税者は180万人から一挙に380万人に増加するものとみられていた。また総合所得税は、5000円以上の高額所得者を対象とし、5000円をこえる部分の所得に対して10〜65%の累進税率により課税しようとするものであった。 次に法人税は一般法人の所得に18%の税率で課税す るというものであったが、ここではこれまで前年度の所得税を損金に計算していたのをやめる、これまで免税されていた産業組合・商業組合・工業組合などの所得に一般法人税の半額(9%)程度の特別法人税をかけることにした点などが問題とされた。

  このほかでは、相続税が三割の増徴となっているが、間接国税の改正は税率引上げを主たる目的としたものであり、遊興飲食税の五割引上げを筆頭に、酒税・清涼飲料税が三割、砂糖消費税が二割引上げられるほか、 織物消費税・揮発油税・物品税なども増徴の対象とさ れていた。地方税の改正では、地租・家屋税、営業税が地方の独立財源とされたほか、戸数割に代る市町村民税の新設、地方団体の財政状況の不均衡を是正するため、財政需要・課税力などを勘案して配付する地方分与税制度の新設などが主な点であった。

  税制改革案が、こうした広く国民各層の生活に影響をもつものであっただけに、各党派とも修正案を用意し、この議会に提出された法律案のなかでは最も熱心 な検討が加えられた。各党派に共通していたのは、事業所得・勤労所得の基礎控除引上げ、産組などへの特別法人税の課税反対などであったが、民政・政友中島・ 政友久原の三派はこのぽかに資本家例に立って法人税の税引課税の継続をも主張していた。3月13日から 共同修正案作成をめぐる党派間及び政府側との折衝が はじめられ、15日深夜に至ってようやく民政党と政友会両派との妥協が成立し、三派共同修正案が16日の委員会、17日の本会議で可決された。修正案は多岐にわたるものであったが、これによって勤労所得の基礎控除が600円から720円に、事業所得の基礎控除が400円から500円に引き上げられ、また特別法人税の税率の9%から6%への引き下げ、石鹸・ 歯磨・茶への物品税課税削除などが実現し、税収見積りでは初年度6200余万円、平年度6500余万円が削減されることとなった。なお法人税の税引課税は 政府側が強硬に反対したため実現していない。

  このほかの法案のなかでは、半官半民の日本石炭株式会社を設立して、石炭を一手に買取り、価格・配給を一元的に統制しようという石炭配給統制法案の成行きが注目されていた。この構想は元来、中央物価委員会の答申に基づくものであり、同委員会は39年8月30日の総会で石炭対策要綱を決定し、内地における石炭を一手に買上げ、元売りを独占する、中央の半官半民会社及びその下部機構としての地方卸売会社をつ くり、配給の一元的統制と共に、プール平準価格制による価格統制をも実施することを提唱した。しかしこれに対して石炭業界からは、在来の大販売機関である 三井物産・三菱商事などが中央共販に吸収されることに反対し、地方卸売会社については地方業者が永年開拓した商権を奪うものであるとして反対するなど、業界あげての猛反対が起こり、結局、11月に至って政府と業界との間につぎのような妥協案がつくられるという経過を経てきたものであった。

 

「中央共販機構は、           

一、

三井物産はじめ在来の大販売会社はそのまま存続すること。

一、

中央共販会社は生産者から生産費の差違に応じて異なる価格をもって一手買取を行ひプール平準価格制を実施すること。

一、

配給に関しては在来の販売機関を通じてこれを行ひ、中央共販会社は販売先の指図をすること。また地方販売会社設立に関しても、   

一、

地方卸売業者はそのまま存続させること。  

一、

地方共販は総括的仕入をなした上で従来の取扱実績によって卸売業者に配給すること」。  

(「朝日経済年史・昭和15年版」、317頁)

 この案は、中央物価委員会案が業者側によって骨抜きにされたものと評されたが、なお地方業者側は地方共販設立に激しく反対し、商工省は結局この部分を抛棄して法案化をすすめ、3月11日に至って石炭配給統制法案として衆議院に上程したのであった。従ってこの法案によって成立する日本石炭株式会社は配給のための独白の下鄙振構のない、プール平準制による価格決定と配給指示のための機構となる筈であった。しかしなお地方業者間に、従来の取引および金融関係が阻害されることへのおそれが強く存在したことは、この法案の第一読会で、9名という異例に多数の質問者が登壇したことからもうかがうことができる。この法案は、政府側の、全体の配給統制上支障のない限り従来の取引先の変更を要求しないとの言明によって、さ したる混乱もなく可決されたが、このような経緯は、この法案の効果を危ぶませるものであった。

  同様な法案としては日本肥料会社法案もこの議会に提出されたがこちらは多数の中小業者をかかえる石炭業界と異り、これまでのカルテル化を前提とするものであり問題なく成立した。このほか、この議会では、国民体力管理法案、国民優生法案、政府の米買入れの際の価格上の制限を撤廃した米穀応急措置法改正案など、政府提出法案108件が成立、政府提出で未成立に終わった法律案は2件にすぎなかった。しかしすで にみたように国民生活を直接拘束する法令が、国家総動員法による勅令として、議会の審議を経ずに次々と制定されており、それと比較してこの議会の状況をみるとき、議会の権限が実質的に極めて縮小されたものとなっていることが実感されるようになっていた。                    

(古屋 哲夫)