『帝国議会誌』第48巻

1979年7月

印刷用ページはこちら



第八八、八九回帝国議会 貴族院・衆議院解説


 

古屋 哲夫

 

第八八回帝国議会 貴族院・衆議院解説
第八九回帝国議会 貴族院・衆議院解説

第八九回帝国議会 貴族院・衆議院解説
アメリカの「初期対日政策」
軍票問題とポツダム勅令
占領政策の出発と東久邇宮内閣の総辞職
幣原内閣の成立と憲法改正問題の登場
政党の復活
第八九回議会の召集
戦争責任問題と衆議院
重要法案の成立と衆議院の解散

第八九回帝国議会 貴族院・衆議院解説



アメリカの「初期対日政策」


 第八八回臨時議会が開かれた1945(昭和20)年9月の初めから、米占領軍は日本各地へと次々と進駐していった。その主力は第八軍と第六軍からなる米陸軍であり、当初、横浜に司令部をおいた第八軍が東日本、京都に司令部をおいた第六軍が西日本の占領を分担した。そして9月8日には、マッカーサー司令部も東京に進駐した。

 

 「帝都に進駐軍を迎へる日は来た。どんよりと曇った八日の朝、秋冷の空気をふるはせて連合軍のトラックが、ジープが、原町田から根岸、府中、調布を経て東京へ東京へと入って来た。午前中には六時半に早くも千四百五十名が代々木練兵場に到着、直ちに幕舎の建設に取りかかったのを始めとして、六百名が米国大使館に入り、九時四十分には百五十名が帝国ホテル、十時には二百名が第一ホテル、三百三十名が月島埋立四号地に到着して警備兵を配置、後続部隊の到着を待っていたが午後も引続いて続々と入京して居る。この歴史的進駐は極めて平穏の裡に行はれ都民も冷静に日常通りの生活を継続している。なお第八軍司令官アイケル・バーガー中将は九時四十分、連合軍総司令官マックアーサー元帥は十一時、それぞれ米国大使館に到着、米国旗を掲揚して簡単な入所式を行った」(朝日、九・九)


 こうしたアメリカ軍の日本本土制圧とともに、占領政策が開始されることとなるのであるが、その基本方針は、アメリカの国務・陸・海軍三省調整委員会で作成され、すでに8月29日、「降伏後ニ於ケル初期対日政策」としてマッカーサーに通達されており、9月6日トルーマン大統領の承認を経て9月22日公表、日本でも9月24日付け新聞に掲載された。この「初期対日政策」は、第一部、究極ノ目的、第二部、連合国ノ権力、第三部、政治、第四部、経済、の四部からなる文書であるが、その特徴は第一に、アメリカ政府が日本占領をアメリカによるアメリカのためのものと性格づけている点にみられた。すなわちここでは日本占領の目的は、(A)日本が再びアメリカの脅威となり又は世界の平和と安全の脅威となることのない様保証すること、(B)国連憲章の理想と原則に示されたアメリカの目的を支持すべき平和的かつ責任ある政府を日本に樹立するにあるとされた。

  また、他の連合国との関係については、日本占領は「連合国ノ為ノ軍事行動タルノ性質」を有するものであり、アメリカ以外の連合国の占領参加は歓迎され、且つ期待されると述べられているが、しかし同時に、それら諸国の占領軍はアメリカの指定する最高司令官の指揮下におかれ、また日本の占領・管理について諸国間に意見の不一致を生じた場合には、アメリカの政策に従うものとするという大きな制約がつけられていた。つまり、アメリカ政府は日本占領を基本的にはアメリカの単独占領にしようと意図していたのであり、この点についての他の連合国の不満を緩和するために、政策決定機関として極東委員会が設立されることになるわけであるが、実際にはその政策決定機能は骨抜きにされており、アメリカを拘束する力を持たなかったことは後述する通りである(「第九〇回帝国議会解説」参照)。

  「初期対日政策」の第二の特徴は、占領政策が日本政府を通じて、「間接統治」の形式によって実施されることを明白にした点であった。すでにポツダム宣言受諾をめぐって、アメリカ政府が「降伏の時より、天皇及日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施の為その必要と認むる措置をとる連合国最高司令官の制限の下に置かるるものとす」と回答したことは、間接統治の原則を示したものでもあったが、「初期対日政策」はこの点を再確認するとともに、さらに具体的に次のように述べている。すなわち、この間接統治の原則は「日本社会の現在の性格並に最小の兵力及資材に依り目的を達成せんとする米国の希望」にもとづくも のであり、従って天皇又は日本政府機関が最高司令官の降伏条項実施のための要求を満足に果たさない場合には、直接統治的行動に出ることもありうる、つまりアメリカは、「現在の日本の統治形式を利用せんとするものにして之を支持せんとするものにあらず」というのであった。

  ここで「日本社会の現在の性格」とは、天皇がなお国民を統合するだけの大きな権威を持ち、その下で日本政府が占領軍の要求を実施する力を持つといった状況を指していることは明らかであり、「間接統治」はこうした状況を前提としているわけであった。従って天皇や日本政府は日本国民を占領政策に協力する方向に導いて、その利用価値を示さねばならないこととなったが、しかしそうしたからといって、それだけで占領軍に支持されるわけではない、というのであった。「初期対日政策」はこの点について、さらに「封建的又は権力主義的傾向を修正せんとする統治形式の変更は、日本政府に依ると日本国民に依るとを問はず許容せられ且支持せらるべし」と述べて、占領軍によって封建的・権力主義的傾向の修正=民主的改革が支持されることを明らかにしたが、その際「かかる変更の実現の為日本国民又は日本政府が其の反対者抑圧の為強力を行使する場合に於ては最高司令官は麾下の部隊の安全並に占領の目的達成を保障するに必要なる限度に於て之に干渉するものとす」として、あたかも暴力革命をも容認する場合があるかの如き一筋をも付記していた。

  そして、このような基本方針を与えられたマッカー サー司令部はまず、東久邇宮内閣に対して占領軍の要求に敏速に対応できる体制をつくることを要求し、同時に、軍国主義勢力の除去ということから、占領政策を実施に移していったのであった。



軍票問題とポツダム勅令

 占領軍と日本政府との間で最初に大きな問題となったのは、米軍が用意した軍票の処理をめぐってであっ た。米軍側が日本での需要調達にあたって軍票の使用を予定し、すでにその一部は給料として兵隊に渡されていることは、8月21日マニラから帰着した河辺虎四郎全権(「第八八回帝国議会解説」参照)によって報告されており、日本側はこれに対して占領軍に日本銀行券を提供して軍票の発行停止を懇請するという態度を とった。米軍による軍票の発行は、日本側の財政・金融をかく乱するばかりでなく、米軍の調達にあたって米軍と日本国民との直接の関係がそこから拡がってくることになり、「間接統治」方式がそれだけ局限されることをも意味していた。従って日本政府は、軍票発行阻止に必死となり、占領軍側も日本政府の言い分を認め、日本での需要を日本政府の供給する通貨によって、原則として日本側連絡機関を通じて充足することとした。日本側では9月6日、大蔵大臣より日本銀行に対し、進駐軍駐屯費の立替払いを指令し、これにも とづき日本銀行は資金担当官・陸軍中佐モーリス・エーデルマン名儀の円資金勘定を設け、9月中に8億円を提供している。

  これによって、占領軍調達の基本方式についての諒解が出来あがったわけであるが、占領軍側はこれだけでは満足せず、すでに兵隊の手に渡っている軍票にも強制通用力を持たせることを要求、9月6日の覚書「法貨に関する件」では、(a)占領軍の発行する『B型円表示補助軍票』は日本における公私一切の円債務の支払のための法貨とし、(b)日本銀行発行の正規の円通貨、ならびに日本政府紙幣および硬貨とすべての場合において等価であり、額面金額で交換されるよう措置することを求め、違反行為に対する罰則一覧表の提出を命令してきた。

  これに対して日本側は、9月8日、「軍票は政府において日本通貨と等価かつ無制限にいつでも金融機関をして引換へに応ぜしめる手はずになっているから、 国民は安心して連合軍将兵などとの間にいさゝかも不便不円滑をも生ぜぬやう、その円満なる流通に関し万全の協力を望んでやまず」(朝日、9・9)との大蔵当局談を発表し、軍票の写真などとともに、新聞に掲載せしめた(軍票は100円、20円、10円、5円、1円 50銭、10銭の7種)。しかし、罰則を含む法令の制定がおくれたため、占領軍は9月11日、軍票を法貨とする措置がさらに遅延する場合には、最高司令官は適当と考える行動をとる、との強硬な覚え書をつきつけ、同時に、あらゆる取引に於てドルをはじめとする外国通貨の授受を禁止することを命じた。この指令に接した大蔵省は、9月16日、その内容を大蔵省声明として発表したが、政府はこの間、占領軍の要求を迅速に法令化するために、緊急勅令の形式で包括的な授権法を制定することとし、18日の閣議で次のような「ポツダム宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件」を決定、翌19日枢密院の審査を経て20日勅令五四二号として公布した。

 

 「政府ハ『ポツダム』宣言ノ受諾ニ伴ヒ連合国最高司令官ノ為ス要求ニ係ル事項ヲ実施スル為、特ニ必  要アル場合ニ於テハ命令ヲ以テ所要ノ定ヲ為シ及必要ナル罰則ヲ設クルコトヲ得」


 ここで「命令」とは、勅令、閣令、省令を指しており、これによって占領軍の要求を実施するためには、議会の審議を経ることなく、罰則をつけた法令を制定できることとなった。この勅令、又はこの勅令によって制定された勅令は、「ポツダム勅令」と呼ばれた。政府は早速この勅令にもとづき、軍票に関する大蔵省令案を作成、GHQの承認を経て、9月24日公布施行したが、その内容は次のようなものであった。

 

 「連合国占領軍ノ発行スル『B』号円表示捕肋通貨ハ法貨トシテ、公私一切ノ取引ニ無制限ニ通用シ、日本銀行券、貨幣、政府ノ発行スル小額紙幣及ビ臨時補助貨幣ト等価トシ、カツ相互ニ交換セラルルモノトス

  前項ノ『B』号円表示補助通貨ノ収受ヲ拒ミタル者ハ三年以下ノ懲役若シクハ禁錮又ハ五千円以下ノ罰金ニ処ス」


  これによって占領軍は軍票発行権を確保したが、前述したような日本側の資金提供により、実際にはこれ以上の軍票の発行は行われずに終わった。この資金は 昭和21年度からは「終戦処理費」として予算化されている。

  占領政策受け入れのため法令面で「ポツダム勅令」が準備されていたとき、行政面でも、従来の方式が再検討されつつあった。終戦直後につくられた当時の機構は、大まかにいうとまず外務省の外局である終戦連絡事務局が窓口となってGHQの指令をうけとり、終戦連絡委員会を経て、最高戦争指導会議を改組した終戦処理会議にもたらされ、処理方針が決定されるという仕組みになっていた。これでは占領軍の要求を迅速に処理することは困難であり、9月初句からその改革が問題になってきた。そして改革の中心は、占領軍の指令の実施については何の権限も与えられていなかった終戦連結事務局を強化するという点におかれ、緒方書記官長らは、同事務局を外務省から離して内閣直属とすることを主張、改革案がこの方向で作成されるとこれに反対して9月17日重光葵外相は辞職し、後任には吉田茂が任命された。

  終戦連絡事務局の改組は10月1日の同局官制公布によって実現された。改正の要点は、(1)従来の勅任の長官を廃して、親任の総裁に格上げし、勅任の次長2名(一名は専任、一名は外務次官の兼任)をおく、(2)四部制の機構を六部制に拡大する、(3)民間人をも任用で きる参与をおく、などであり、外務省の外局という地位はそのままとされたが、大物総裁のもとで、外務省の枠からはみ出した存在となってきたことは確かであった。これまでの長官には外務省調査局長岡崎勝男が任命されていたが、新しい総裁には元正金銀行頭取、前中支那振興株式会社総裁児玉謙次が、専任次長としては元ニューヨーク駐在財務官、前満州中央銀行総裁西山勉が任命された。

  この機構の拡大強化によって終戦連絡事務局が、占領軍との交渉の中心となることになり、終戦処理会議・終戦連絡委員会は自然消滅していった。ともあれ、「ポツダム勅令」の制定と終戦連絡事務局の強化とは、 占領政策うけいれ体制がととのってきたことを示すものであった。



占領政策の出発と東久邇宮内閣の総辞職


 占領政策は、間接統治の方式によって行われることになったが、しかしその前提条件として、占領軍批判を封ずるため、日本国民の言論に対しては占領軍が直接に統制するという体制がつくられた。

  まずGHQは9月10日、報道の取扱いについて、 (1)事実に反しまたは公安を害すべき事項を掲載しないこと、(2)日本の将来に関する論議は差支へないが、世界の平和愛好国の一員として再出発せんとする国家の努力に悪影響あるが如き論議を掲載しないこと、(3)公表せられざる連合国軍隊の動静および連合国に対する虚偽の批判又は破壊的批判乃至流言を掲載しないこと、の3点を指示した。さらに15日には、GHQ検閲主任ドナルド・フーヴァー大佐が、古野伊之肋同盟通信社長ら報道関係者を召集し、占領軍側が日本の新聞やラジオの報道に満足していないとして、次のように警告した。

 

 「マッカーサー元帥は連合国が如何なる点においても日本国連合国を平等であるとは見なさないことを明解に理解するやう希望している。日本は文明諸国家間に位置を占める権利を容認されていない、敗北せる敵である。諸君が国民に提供して来た着色されたニュースの調子は、恰も最高司令官が日本政府と交渉しているやうな印象を与へている。交渉といふものは存在しない。さうして国民が連合国との関係における日本政府の地位について誤った概念を持つことは許さるべきでない。最高司令官は日本政府に対して命令する、しかし交渉するのではない。(略)

  日本国民に対して配布される総てのものは今後一層厳重な検閲を受けるやうになるであらう新聞およびラジオの全面的な検閲が引続いて行はれるであらう。偽のニュースとか人を誤らせる様な報道は今後一切許さない。また連合国に対する破壊的な批評も許されない。日本政府はこの方針を立証するやうな手段を直ちに実行すべきである」(朝日、9・17)


 ついで9月19日「新聞規則」、24日「新聞の政府よりの分離」などの覚え書が出され、日本政府の言論統制を廃止すると同時に、占領軍による言論統制・広汎な検閲が始められたのであった。

  こうした占領軍批判を抑圧する措置をとると同時に、占領政策は、戦争犯罪人の逮捕、軍国主義的・反民主的諸制度の除去という点から展開されたのであった。まずGHQは9月11日、東条英機ら元東条内閣の閣僚などの逮捕命令を発し、戦争犯罪人の追求に着手した。この時、逮捕命令が出されたのは39名、そのう ちにはフィリピン人、ドイツ人各3名などこ1名の外国人が含まれていると報ぜられた(朝日、9・13)。逮捕にあたって東条はピストル自殺を試みて未遂に終わったが、翌12日には杉山元元帥がピストルで自殺、13日には元厚相小泉親彦が軍刀で自刃、14日には元文相橋田邦彦が服毒自殺している。

  東条につづいて、12日元海相嶋田繁太郎が逮捕され、14日には元蔵相賀屋興宣、元法相岩村通世、元農相井野碩哉、元国務相鈴木貞一、元フィリピン大使村田省蔵の5人が第八軍憲兵司令部に出頭(朝日、9・15)、戦犯問題がどこまで発展するかが注目されるようになり、とくに戦争責任の追及が天皇にまで波及するかどうかが問題とされるようになった。9月27日には、天皇はマッカーサー元帥を訪問し、9月29日の紙面には、両者の写真が掲載されている。
  戦犯逮捕はしばらく中断したが、11月19日に荒木貞夫、松岡洋右ら11人、12月2日、平沼騏一郎、広田弘毅、梨本宮守正王ら59人、12月6日、近衛文麿、木戸幸一ら9人が戦犯容疑者に指名され、以後、極東裁判の準備が進められていった。

  戦争責任の追及は、こうした政治家や軍人に対するものだけでなく、抑圧的な制度やその運用者に向けられていった。そしてその第一弾は、10月4日の「政治的市民的宗数的自由ニ対スル制限ノ撤廃」を命じたGHQ覚書であった。この覚書は、(一)思想・宗教・集会及言論の自由(天皇・皇室に関する自由な討議を含む)を制限している法令の廃止(治安維持法・思想犯保護観察法・軍機保護法・宗数団体法など)、(二)これらの法令により拘留・投獄されている者の釈放(10日10日迄に完了せよ)、(三)これらの法令の遂行のために設置された一切の組織・機関の廃止(内務省警保局、特高警察など)、(四)内務大臣、内務省警保局長、警視総監、各道府県警察部長、道府県の特別高等警察課の全員、司法省保護観察審査会並に保護観察所の一切の官吏の罷免と、内務劣・司法省・警察機関への再任用の禁止などの措置をとること、その措置についての詳細な報告書を10月15日までにGHQに提出することを命ずるものであった。

  このうち内務大臣以下の罷免と再就職の禁止は、のちの公職追放政策の先駆ともいうべきものであり、強い衝撃をうけた東久邇宮内閣はこの日のうちに総辞職へと動いた。東久邇宮首相は、この時の心境を次のように記している。

 

 「緒方(書記官長)の話によれば、総司令部は政府に対し、山崎内務大臣をはじめ内務省関係の首脳者、道府県の警察部長、特高関係者全部、合計約四千名の免職、政治および思想全犯人の釈放を要求して来たとのことである。私は緒方と、この際内閣をどうすべきかについて相談した。

  わが内閣は終戦の任務を達し得たから、九月二日、米艦上で降伏文書に調印した時に総辞職すべきであった。内務大臣をはじめ四千名の官吏を免職さすことは、わが国の大事件である。内閣は、これらの多数の官吏を見殺しにすることはできないから、彼らと運命をともにするのがよい。

  マッカーサー元帥は先日私との会見で、大臣をかえる必要はないといったのに、数日後の今日、この指令を出しだのは、元帥がこの内閣を信用しないからであろう。

  私は近く大赦令を行い、共産党員、大逆罪、不敬罪等、天皇の名で重く罰せられた人々を、天皇の名で釈放しようと考えていたが、その手続きがおくれて、いまマッカーサー元帥の名でこれらの人々が釈放されるようになったのは、陛下に対して中訳がない。現在の状況では内閣独自の考えでは何事もすることができない。万事、連合国総司令部の指令にもとづいてしなければならない。敗戦国として止むを得ないこととはいいながら、こんなことでは、今後内閣が続いても何事もなし得ないだろう。今後は英、米をよく知っている人が内閣を組織して、連合国と密接な連絡のもとに政治を行うのが適当であろう。これらの理由で、内閣総辞職するのがよいという結  論に達した」(「一皇族の戦争日記」、242頁)


 10月5日、午後1時15分、首相は参内して天皇に全閣僚の辞表を提出した。



幣原内閣の成立と憲法改正問題の登場

 東久邇宮内閣が総辞職すると、天皇は前例どおり木戸幸一内大臣に後継首相の選定を命じた。木戸は前内閣成立の際と同様、重臣会議を召集することなく、平沼枢密院議長とだけ協議し、「此際、米国側に反感のなき者、戦争責任者たるの疑なき者、外交に通暁せる者との見地より、第一候補幣原男爵、第二候補吉田外相」(「木戸日記」下巻、1240頁)と決定、天皇に奏上するとともに、吉田外相に総司令部の諒解をとることを依頼、吉田は午後7時、木戸に対して「サ参謀長と談話中、マ元帥も其室に来り、共々話たるが、マ司令部としては日本の内政に干渉する意思なし、今聴きたる経歴なれば幣原男は好ましき人物なりと思考すとのこと」(同前)であったと報告した。古田はこのときのことを次のように回想している。

 

 「司令部のサザーランド参謀長の部屋に入って行くと、『何かご用ですか』というので、問わるるままに「実は次の内閣の首班に幣原さんが内定したので、それをいいに来た』と話していると、そこへ元帥が入ってきて、『何を話しているんだ』という。私は『バロン・シデハラのアグレマンを求めに来た』と答えると、元帥は『年はいくつだ』と聞くから、『七十いくつだ』というと、『馬鹿に年寄りだなあ』と  いってから、『英語は話せるのか』と聞くのである。幣原氏は英語の大家を以て自他ともにこれを認めているのに、元帥にしてみると『英語がわかるか』である。『むろん、分る』と答えておいたが、この話を、幣原在世中にご木人の耳に入れて、高い鼻を折ってやろうなどと茶目気で考えていたが、とうとうその機会を得なかった」(「回想十年」第1巻128頁)


 木戸は早速、吉田に対し幣原との内交渉を依頼したが、翌10月6日朝、吉田から幣原は「老齢、内政に興昧なし」との理由から「容易に受諾の模様なし」との報告がもたらされた。そこで木戸は、天皇に対し「右の趣を言上、尚従来大命降下は形式的なるも、今回は御席を賜り聖上御親ら充分御説得被遊様言上」(「木戸幸一日記」下巻、1240〜1頁)している。幣原は正午に参内、「宮内省へ行くと、陛下がお待ちになっておいでになるとのことで、早速拝謁した。陛下は私に、内閣組織の大命をお下しになった。寝耳に水と言おうか、これは全く夢にも予想しなかったことであって、私には御引請け申上げる自信がなかったから御勘弁を願ったが、お話申上げているうちにも、いかにも御心 痛の御様子が拝察された。事ここに至ってはこの上御心配をかけては相済まない。自分で出来ることなら、生命を投げ出してもやらねばならぬと、堅く心に誓うに至った。それで『幣原にはこの大役が勤まるという自信はございませんけれども、全力を尽して御意を奉じましよう』と申し上げて、御前を下がった」(幣原喜重郎「外交五十年」、209頁)。つまりは天皇自身が幣原の説得にあたったのであった。

 組閣は外相官邸を本部とし、書記官長に予定した内務官僚出身の貴族院議員次田大三郎を組閣参謀として進められた。結局、吉田茂外相、下村定陸相、米内光政海相、岩田宙造法相、前田多門文相が留任、衆議院議員から、芦田均を厚相、松村謙三を農相、小笠原三 九郎を商相、田中武雄を運輸相に選任、楢橋渡を法制局長官としたが、いずれも個人としての入閣であり、後述するような当時進行していた政党組織を代表したものではなかった。そのほか、日銀総裁渋沢敬三を大蔵大臣に起用、また無任所国務大臣に法曹界の権威とされた貴族院議員・松本烝治を起用したのは憲法問題に関する論議に備えたものとみられた。なお組閣参謀の次田は国務大臣兼内閣書記官長兼内閣調査局長官に任ぜられている。この組閣について、朝日新聞は「閣僚の顔触れを見渡しても一応そつのない明るい感じはあってもそこから躍動するものは湧いて来ない」(10・9)と評していた。内閣は10月9日の親任式によって成立した。

  幣原首相は親任式後に首相談話を発表し、(1)民主主義政治の確立、(2)食糧問題の解決、(3)復興問題、(4)失業問題、(5)戦災者の救護、在外同胞及軍隊の処理、(6)行政整理、(7)財政及産業政策、(8)教育および思想、などについて語っているが、しかし今や、占領政策が政治の展開を左右する基本的な力となっていることは明 らかであり、幣原首相も内閣発足にあたってまず10月11日、マッカーサー元帥を訪問した。

  この会談においてマッカーサーは、まずポツダム宣言による改革は当然「憲法の自由主義化」を包含することになるだろうとして、憲法改正問題にふれ、ついで出来るだけ速かに達成すべき課題として、(1)選挙権附与による婦人の解放、(2)労働組合の結成奨励、(3)より自由な教育を行うための諸学校の開設、(4)秘密検察及びその濫用に依り国民を不断の恐怖にさらして来たような圧制的諸制度の廃止、(5)独占的産業支配の改善による経済機構の民主主義化、などの五項目を指示した。この内容は、当時「五大改革」の指令と呼ばれたが、これらの改革と憲法改正との関係については、日本側にも異った理解がみられた。幣原首相は当時、民主化政策は現憲法の運用によって改正なしに実現できるとの考えをもっており、五大改革についても、その内容が達成できれば憲法改正の必要はないと主張していた。そして選挙法を改正して早急に総選挙を行い議会の体制を立て直すことを、内閣の当面第一の課題としたのであった。

  これに対して近衛文麿、木戸幸一らは、マッカーサーが憲法改正を要求しており、これに対応する準備が必要だと考えていた。すでに前内閣末期の10月4日、 副総理格の国務大臣であった近衛はマッカーサーを訪問しているが、マッカーサーはこのとき、民主化のためには「憲法の改正」を要するとし「もし公(近衛)がその周囲に自由主義分子を糾合して、憲法改正に関する提案を天下に公表せらるるならば議会もこれに蹤いて来ることと思う」(矢部貞治「近衛文麿」下巻、589頁)と述べたという。近衛はこの言葉を、マッカーサーが近衛に対し、憲法改正を指導するよう激励し委嘱したものと理解した。そこで彼はさらに10月8日、高木八尺博士、松本重治、牛場友彦とともにマッカーサーの政治顧問アチソン大使を訪れ、憲法改正に関する意見を求めたところ、アチソンは12項目に及ぶ改正点を示した。近衛らはこうした動きから、アメリカ側が憲法改正を重要な問題と考えているとみ、アチソンとの会談後、木戸内大臣を訪れ、このまま「荏再時を過す時はマ司令部より改正案を突付けらるゝの虞あり、之は欽定憲法として堪へ難きことなる故、速に善処の要ある旨」(「木戸幸一日記」下巻、1241頁)申 し入れた。そしてこれをうけた木戸は、憲法改正の発議権は天皇にあるとする大日本帝国憲法の原則からいって、この際内大臣府でこの憲法改正問題に対する準備を始めておく必要があり、そのためには近衛を起用 したいと考えるに至った。その翌日、10月9日には前述のように幣原内閣の親任式が行われたが、その間木戸は、幣原に対しこの問題を次のような形で持ち出していた。

 

 「閣僚親任式迄の間に、憲法改正問題につき幣原男と協議す。男は此の問題については極めて消極的にして、運用次第にて目的を達すとの論なり。右については余も亦同論なるも、只米国は其説明にては満足せず……結局、改正を強要せらるべしと述ぶ、男は右に対し武力にて敵する能はず、其の場合、之を記録に留めて屈服するの外なしと論ぜらる。而し之は憲法の欽定なる点より見て由々敷問題となる故、充分更に考慮を希望す。尚、聖上よりる々改正問題につき御下問あり、之については何分憲法実施以来始めての問題にて、内大臣としても只大体の見透にて奉答も致し兼ぬる故、近衛公を中心に調査を進むる考へなる旨を述、右には異存なき旨の返答を得たり」(同前、1241〜2頁)


  この時、幣原がどんな事態を予想して「異存なき旨」を答えたかは明らかでないが、木戸の画策により、幣原がマッカーサーと会談した10月11日には近衛を 内大臣府御用掛に任命する旨発令され、天皇は近衛に対し「ポツダム宣言の受諾に伴ひ、大日本帝国憲法改正の要否、若し要ありとすれば其の範囲如何」について調査すべきことを命じた。しかしこのことが伝えられると、内閣側からは強い反発が生じた。

 

 「11日の閣議の席上、石渡宮内大臣から幣原首相に対し、電話で、近衛公が内大臣府御用掛に任命され、勅命により内大臣府において憲法改正の調査を行なうこととなった旨の連絡があった。閣議ではただちに松本国務大臣が発言して、憲法改正は最も重大な国務であり、当然内閣が責任をもって行なうべきであり、宮中機関たる内大臣府が憲法改正の調査を行なうことは権限外であるから、ただちに抗議をすべきであると強硬に主張した。他の閣僚も同意見であり、幣原首相はこの旨を宮内大臣に伝え、また13日幣原首相および松本国務大臣は近衛公と会見して同様の意見を述べた」(憲法調査会「憲法制定の経過に関する小委員会報告書」、146頁)

 
  これに対して内大臣府側は、この調査は改正草案の起草を企てているわけではなく、天皇に判断の材料を提供しようとするものであり、常時輔弼の一翼だとして調査を進めた。このための御用掛として近衛のほかに、さらに佐々木惣一博士が起用され、大石義雄・磯崎辰五郎両教授が補佐した。

  憲法改正の必要なしとする内閣側も、こうした内大臣府側の動向をみ、またマッカーサー・幣原会談で憲法の自由主義化の必要を示唆されていることもあって、10月13日の閣議では、松本烝治国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会を設置することとなった。この委員会は官制によらず、宮沢俊義・清宮四郎・河村又介らの現役教授と枢密院書記官長石黒武重、法制局長官楢橋渡、同第一部長入江俊郎、同第二部長佐藤義夫らを委員とし、清水澄、美濃部達吉、野村淳治らの長老学者を顧問とするといった顔触れで発足した。

  こうして憲法改正問題への調査は幣原内閣発足と同時に、内大臣府と内閣に分裂した形で、しかも内閣側では極めて消極的な態度で始められたのであった。



政党の復活

 占領政策が民主化の方向を基本とすることが明らかになるにしたがい、政党を復活させて、新たな政治状況をつくり出そうとする動きも活発となってきた。戦時中の院内含派は、もはや全く意味を失い、まず8月15日護国同志会が解散、つづいて9月6日翼壮議員同志会、9月14日大日本政治含も解散して、衆議院は全くの無会派状態となった。そしてこの間真先に新党組織に動き出したのは、かつて大政翼賛会結成に反対して同交会を組織した鳩山一郎一派と、旧無産政党系の代議士たちであった。

  鳩山派では敗戦直後から安藤正純、芦田均らが連絡して勢力の結集をはかっており、既成の議会人に限らず広く門戸を開放して国民政党的色彩を出そうとつとめた。「準備工作には松野鶴平氏を幕僚長格とし、これに安藤正純、芦田均、楢橋渡、河野一郎、北ヤ吉の諸氏が加はっている。参加に決定しているものは吉田外相、十河信二、菊池寛、島中雄作の諸氏等著名の人物も相当多く、また新党は政務調査のための研究機関を充実する意図を有しているので美濃部達吉、佐々木惣一両博士を始め自由主義の法律学者、経済学者がこの研究機関に参加することになっている」(朝日、9・26)とも伝えられた。同派は10月7日には現代議士52名など約200名を集めて結党準面会を開き、11月9日、日比谷公会堂で党名を日本自由党として結党大会を開くまでにこぎつけた。鳩山が総裁となり、幹事長に若手の河野一郎を起用して注目された。

  日本自由党が鳩山を中心とした政党として発足したのに対して、旧無産政党各派の大同団結を特徴として結成されたのが、日本社会党であった。同党の場合には、9月6日衆議院内で河上丈太郎、水谷長三郎ら一二議員が新党結成を打ち合わせたが、かつての対立の再燃を抑えるために、安部磯雄、高野岩三郎、賀川豊彦三長老を表面におし立てるというやり方がとられた。そして三長老連名の招請状により、9月22日蔵前工業会館で各派合同懇談会が開かれ、結党に向っての具体的な準備が進められることになった。10月25日の準備委員会では、当分の間、中央執行委員長をおかず、片山哲書記長を中心とし少数委員による合議制を とることが決定され、11月2日には日比谷公会堂に、来賓・傍聴者を加えると2000名が参集して結成大会が聞かれている。しかしこれで戦前からの対立が解消されたというわけではなく、以後、同党内は事ある毎に紛糾するに至っているが、そうした社会党の状況には、合法化された共産党の左からの抬頭という新しい条件も大きく作用していた。

  前述した10月4日の指令によって日本共産党幹部が釈放されたのは、まさにこうした社会党の組織準備が軌道に乗った時であった。

 

 「これら政治犯の釈放指令に伴い、府中の予防拘禁所に収容中の徳田、志賀、松本一三、黒木重徳氏ら十二名は翌十月五日から外出を許可されたので、早朝から東京都内へ出て連絡に努め夜は拘禁所にかえってねるという生活をつづけ、この間椎野悦郎氏らが拘禁所に来訪して連絡をとり、麹町区富士見町の弁護士栗林敏雄氏が中心となって、その幹旋に努め、同氏宅を連絡場所として全国各地より続々釈放されてくる旧同志の連絡を開始した。……さらに十月六日には岩田英一氏が拘禁所に来訪して、代々木の党本部事務所建物の寄付を申出で、八日には、出獄声明書『人民に訴う』の印刷もでき上り、出獄の準備を完了し、九日朝、最後の獄内細胞会議を拘禁所屋上にひらいて、徳田氏から出獄後の活動について注意を与えた。

 かくて、翌十月十日徳田氏ら十二名は正式に府中予防拘禁所を出獄することとなった。その日午前十時、雨の中を約七百名の出迎えが『歓迎出獄革命戦士』『人民共和政府樹立』『朝鮮独立万歳』などのプラカードや赤旗をふりかざす中で刑務所の門前で徳田、志賀、金天海三氏が天皇制打倒、人民共和政府樹立のため奮闘を誓うと演説を行った。徳田氏らはこの日日比谷公園でひらかれる自由戦士歓迎人民大会に臨む予定のところ、米軍第一騎兵師団で獄中の状況を聴取されたため時間がかかりついに歓迎大会には姿を見せなかった。

  歓迎人民大会は雨のため会場を日比谷公園から田村町の飛行館に変更、午後二時半開催、会衆約一千名でその中半数は朝鮮人であり、『働かせろ、食わせろ、家を与えろ』『民主主義万歳』『生活必要物資は人民管理の下に』などのビラが撤かれる中に、自由法曹団の布施、梨木、栗林各弁護士、中西伊之助、伊藤憲一氏らが天皇制打倒を演説し又同志の思い出を語ったのち、街頭デモに移り、総司令部前で万歳を叫んで解散した」(労働省編「資料労働運動史・昭和20〜21年」、890頁)


  「人民に訴ふ」は「闘争の新しい方針について―新情勢は我々に阿を要求しているか」とともに、10月20日発行の「赤旗」第一号(パンフレット型18頁)に収録されたが、それは次のように書き出されていた。

一、

ファシズム及び軍国主義からの世界解放のための連合国軍隊の日本進駐によって日本に於ける民主々義革命の端緒が開かれたことに対して我々は深甚の感謝の意を表する。

 二、

米英及連合諸国の平和政策に対しては我々は積極的に之を支持する。

 三、

我々の目標は天皇制を打倒して、人民の総意に基く人民共和政府の樹立にある(以下略)


  活動の自由を回復した共産党幹部らは、党組織の急速な整備をはかると共に、人民戦線戦術を採用することとし、志賀義雄・神山茂夫・松本一三の3名は10月19日、20日の両日、社会党準備委員会の水谷長三郎・平野力三・鈴木茂三郎と会談、社会党との提携を 申し入れた。ここで志賀らは、天皇制打倒を人民戦線の中心にすえるよう強く主張したのに対して、社会党側は正式に結党し綱領政策を決定してから改めて協議したいと答えて之を拒否した。当時の社会党は、西尾末広、松岡駒吉らの反共右派が主導権を握っており、共産党と提携する見込みは少なかったが、共産党のいう人民戦線も、こうした右派幹部を攻撃し社会党内に反幹部派をつくってこれと提携しようというのであり、社会党の幹部をますます反共においやるものだったともいえよう。社会党との関係について前述「闘争の新しい方針について」は次のように述べている。

 

 「現在我々の人民戦線の中心題目は『天皇制の打倒、人民共和政府の樹立」でなければならぬ。然るにこの社会党は天皇制の擁護が主題目となっているのだから、これとただちに共同戦線をやる訳には行かない。だが我々はそれかといって彼等に対してただ単 純に排撃するのみで、何等の働きかけをしないといふのでは誤謬である。……それ故に個々の問題、例へば局部的ストライキ、農民闘争、婦人参政権、選挙等に共同戦線を形成し、之を通じて、又は個々の反幹部的分子を獲得することによって、反幹部派、反協調(政府又は資本家との)派を結成し、これと人民戦線を形成すべき方向に導かねばならぬ。そして外部からの大衆的攻撃と結合して、之を実現することができるのである」(「赤旗」第一号)


  社会党との共同戦線は失敗に終わったが、共産党は11月8日、代議員約300名を集めた全国協議会を 開いて大会準備をすすめ、12月1日〜3日にわたる党大会を開催、1926(大正15)年12月4日山形県五色温泉でひそかに聞かれた大会につぐ第四回大会と称した。当時その実勢力はまだ小さかったが、天皇制打倒を叫び、天皇以下の戦犯追放を叫ぶその精力的な活動は、政界に大きな影響を与え、また国民の間に天皇制を論議するきっかけを与えたものであった。

  日本自由党や日本社会党の結成が順調に進み、またその背後で日本共産党も急速に組織を立て直し拡大しているという状況のなかで、一番もたついていたのは、旧大日本政治会の動きであった。この会派は、翼賛選挙後の単一議員組織をめざしてつくられた翼賛政治会をうけつぎ、議員数の8割を占めており、従ってその構成も多様であった。しかし積極的戦争協力の立場にあったこの会派の大多数にとって、分裂してみても発展の可能性はうすく、結局、主流をなす旧民政党系と旧政友会中島派とが唱えた大同団結による新党結成の方向に追ずいしてゆくことになった。しかしこの動きは社会党、自由党よりはるかにおくれ、第一回世話人会が開かれたのは10月20日のことであった。そし て11月初旬の有様は次のように伝えられていた。

 

 「旧日政系の大同合同による新党結成の動きは島田衆議院議長、町田忠治氏ら長老たちの裏面幹旋により活発化し、去る六日新日本建設調査会の世話人と町田、中島系合同派の代表者との間に大同団結に関し完全に意見の一致をみたが、これを契機に合同新党樹立の機運は急速に濃化し、八日、百五十三名の新党結成準備世話人連名で院内外約一千名に対して招請状を発送、十六日午後二時から丸ビル内丸之内会館で結党式を挙行することになった。党名、立党宣言、綱領、政策等は至急準備世話入会において検討を道めるが、党名は『民本党』と内定、また総裁はいま直ぐ置くことなく、当分代行委員制で行く方針である。

 『民本党』は旧日政の大同といふよりも現在のところはむしろ旧政友、民政両党合同の色彩が強く、そのうちでも旧久原系岡田忠彦、津雲国利、依光好秋氏ら十数名、また三浦一雄氏を除く旧翼壮議員系、旧護国同志会系、旧清新クラブ系の大部分はいずれも不参加を予想されているので結局二百三、四十名の勢力となるものとみられるが、現状に於ては日本社会党の十五名、日本自由党の約五十名に比し圧倒的第一党となることは間違ひない」(朝日、11・9、なお文中「新日本建設調査会」は犬養健、野田武夫、中村梅吉ら当選三回以下の若手議員の会)


  党名が「民主」より「民本」に傾くところにこの党の保守性が示されているが、さすがに反対の声も強く、結党直前の11月14日「日本進歩党」と決定した。結党式は11月16日丸の内会館で挙行され、当面総裁をおかず、総務委員に斎藤隆夫ら10名、常議員会長川崎克、幹事長鶴見祐輔らによって運営されることになった。総裁には宇垣一成をかつぐものあり、町田忠治をおすものおりで結着がつかなかったが、これでともかくも旧日政会主流も第八九回議会で政党の看板をかかげて活動できるようになった。

  衆議院には、これで日本進歩党、日本自由党、日本社会党の三党があらわれることになり、進歩党に参加 しなかった旧日政会議員が院内交渉団体・無所属倶楽部を組織してこの議会にのぞんだが議場の外には日本共産党があり、また第八九回議会の解散、戦後初の総選挙に備えて多くの小政党が結成されており、11月16日現在で政党総数は33を数えるにいたったと報ぜられた(朝日、11・17)。



第八九回議会の召集

 第八九回議会は、できるだけ早く総選挙を行い、議 会の戦時色を払拭し、民主化政策に呼応できる新議会 を成立させることを目的として召集された臨時議会で あり、従って選挙法改正案、労働組合法案など当面の 重要法案を成立すれば、解散・総選挙を行うことが予 定されていた議会であった。  召集詔書は一一月一七日公布、一一月二六日に召集 され、会期は当初一一月二七日からこ一月一四日まで 一八日間とされたが、回一月一五日から四日開廷長さ れ、こ一月一八日に衆議院が解散された。  この議会における国務大臣・政府委員、議長・副議 長・全院委員長、常任委員長、議員の会派別所属は次 の通りであった。

国務大臣 内閣総理大臣 幣原 喜重郎
  外務大臣 吉田 茂
  内務大臣 堀切 善次郎
  大蔵大臣 渋沢 敬三
  陸軍大臣 下村  定
  海軍大臣 米内 光政
  司法大臣 岩田 宙造
  文部大臣 前田 多門
  農林大臣 松村 謙三
  商工大臣 小笠原 三九郎
  運輸大臣 田中 武雄
  厚生大臣 芦田 均
  国務大臣 松本 烝治
  国務大臣 小林 一三
     
政府委員(11月24日発令) 内閣副書記官長 三好 重夫 
  法制局長官 楢橋 渡
  法制局次長 入江 俊郎
  情報局総裁 河相 達夫
  情報局次長 赤羽 穣
  逓信院総裁 松前 重義
  逓信院次長 新谷 寅三郎
  戦災復興院次長 松村 光麿
  外務政務次官 犬養 健
  外務参与官 松浦 周太郎
  外務省政務局長 田尻 愛義
  終戦連絡中央事務局総裁 児玉 謙次
  終戦連絡中央事務局次長 西山 勉
  内務政務次官 川崎 末五郎
  内務参与官 中  助松
  内務省地方局長 入江 誠一郎
  内務省警保局長 小泉 悟郎
  大蔵政務次官 由谷 義治
  大蔵参与官 山本 粂吉
  大蔵省主計局長 中村 建城
  大蔵省主税局長 池田 勇人
  大蔵省金融局長 久保 文蔵
  陸軍政務次官 宮崎  一
  陸軍参与官 野口 喜一
  陸軍中将 吉積 正雄
  陸軍主計中将 森田 親三
  海軍政務次官 田中 亮一
  海軍参与官 星野 靖之助
  海軍主計中将 山本 丑之助
  海軍少将 山本 善雄
  司法政務次官 手代木 隆吉
  司法参与官 渡辺  昭
  司法省民事局長 奥野 健一
  司法省刑事局長 佐藤 藤佐
  文部政務次官 三島 通陽
  文部参与官 森田 重次郎
  文部省学校教育局長 田中 耕太郎
  厚生政務次官 矢野 庄太郎
  厚生参与官 田中 和一郎
  厚生省衛生局長 沢  重民
  厚生省社会局長 栗原 美能留
  厚生省勤労局長 佐伯 敏男
  軍事保護院副総裁 数藤 鉄臣
  農林政務次官 紅露  昭
  農林参与官 北条 隻八
  農林省総務局長 楠見 義男
  農林省農政局長 和田 博雄
  食糧管理局長官 並川 義隆
  商工政務次官 木暮 武太夫
  商工参与官 山根 健男
  商工省総務局長 菅波 稲事
  商工省燃料局長 岡松 成太郎
  商工省整理局長 吉田 悌二郎
  運輸政務次官 新井 堯爾
  運輸参与官 白川 久雄
  鉄道監 満尾 君亮
  伊能 繁次郎
  運輸省海運総局長官 福原 敬次
     
政府委員追加(会期中発令) 内務書記官 鈴木 幹雄
  鈴木 俊一
  大蔵省外資局長 野田 卯一
  大蔵省参事官 福田 赳夫
  法制局参事官 佐藤 達夫
  戦災復興院計画局長 大橋 武夫
  戦災復興院業務局長 進藤 武左エ門
  外務省条約局長 杉原 荒太
  外務省管理局長 森重 干夫
  終戦連絡中央事務局部長 井口 貞夫
  内務省国土局長 岩沢 忠恭
  内務省管理局長 大島 弘夫
  神祗院副総裁 飯沼 一省
  第一復員政務次官 宮崎  一
  第一復員次官 原   守
  第一復員参与官 野口 喜一
  第一復員官 吉積 正雄
  額田  坦
  森田 親三
  大山 文雄
  遠藤 武勝
  吉本 重章
  第二復員政務次官 田中 亮一
  第二復員次官 三戸  寿
  第二復員参与官 星野 靖之助
  第二復員官 山本 丑之助
  山本 善雄
  川井  厳
  奥  三二
  由布 喜久雄
  長沢  浩
  吉田 英三
  司法省刑政局長 清原 邦一
  文部省社会教育局長 関口  泰
  文部省教科書局長 有光 次郎
  厚生省労政局長 高橋 康弥
  厚生省保険局長 青柳 一郎
  保護院副総裁 数藤 鉄臣
  医療局長官 熈田 広重
  農林省山林局長 黒河内 透
  農林省水産局長 笹山 茂太郎
  農林省蚕糸局長 山添 利作
  農林省食品局長 柴野 和喜夫
  農林省畜産局長 蓮池 公咲
  農林省開拓局長 西村 彰一
  商工省商務局長 岡村  武
  商工省工務局長 奥田 新三
  商工省繊維局長 松田 太郎
  商工省鉱山局長 北野 重雄
  運輸省企画局長 小野  哲
  鉄道監 岡田 信次
  運輸省海運総局海運局長 有田 喜一
  運輸省港湾局長 後藤 憲一
  情報局情報官 久山 秀雄
  逓信院総務局長 鈴木 恭一
  逓信院郵務局長 小池 行政
  逓信院電務局長 長  得一
  逓信院工務局長 篠原  登
  逓信院貯金保険局長 岡井 弥三郎
  逓信院電波局長 宮本 吉夫
  逓信院電気通信復興局長 林  一郎
  大蔵省国民貯蓄局長 今井 一男
  大蔵省物価局長 工藤 昭四郎
  大蔵省参事官 加藤 八郎
  木内 信胤
  専売局長官 植木 庚子郎
  厚生省健民局長 宮脇 参三
  厚生省臨時防疫局長 勝俣  稔
  司法省調査官 荻野 益三郎
  鉄道監 郷野 基秀
  運輸省航空局長 飯野 毅夫
  専売局部長 長沼 弘毅
  農林書記官 安孫子 藤吉
  文部省科学教育局長 山崎 匡輔
〔貴族院〕    
議長   徳川 圀順(公爵・火曜会)
副議長   酒井 忠正(伯爵・研究会)
     
全院委員長   島津 忠重(公爵・火曜会)
     
常任委員長 資格審査委員長 安保 清種(男爵・公正会)
  予算委員長 八条 隆正(子爵・研究会)
  懲罰委員長 柳原 義光(伯爵・研究会)
  請願委員長 加藤 泰通(子爵・研究会)
  決算委員長 深尾 隆太郎(男爵・公正会)
     
会派別所属議員氏名    
開院式当日各会派所属議員数    
  研究会 163名
  公正会 68名
  火曜会 42名
  無所属倶楽部 33名
  交友倶楽部 26名
  同和会 26名
  同成会 22名
  会派に属さない議員 38名
  418名

 

 なお衆・参両院編「議会制度七十年史・政党会派篇」で、
このとき研究会165名、無所属倶楽部31名としているがの
根拠を確認できなかったので、このままとした。

     
研究会 林 博太郎
  堀田 正恒
  徳川 宗敬
  樺山 愛輔
  副島 道正
  大木 喜福
  渡辺  昭
  黒田  清
  柳原 義光
  柳沢 保承
  山本  清
  二荒 芳徳
  後藤 一蔵
  酒井 忠正
  溝口 直亮
  児玉 秀雄
  橋本 実斐
  久松 定武
  伊東 二郎丸
  入江 為常
  稲垣 長賢
  井上 匡四郎
  今城 定政
  波多野 二郎
  西大路 吉光
  西尾 忠方
  錦小路 頼孝
  北条 隻八
  保科 正昭
  本多 忠晃
  伊集院 兼高
  戸沢 正己
  土岐  章
  富小路 隆直
  大河内 正敏
  大河内 輝耕
  大島 陸太郎
  岡部 長景
  河瀬  真
  加藤 泰通
  谷  儀一
  立花 種忠
  冷泉 為男
  曽我 祐邦
  裏松 友光
  梅園 篤彦
  植村 家治
  野村 益三
  柳沢 光治
  松平 親義
  松平 忠寿
  松平 乗統
  松平 康春
  舟橋 清賢
  米山 国臣
  青木 信光
  綾小路 護
  秋田 重季
  秋月 種英
  秋元 春朝
  安藤 信昭
  阪谷 希一
  実吉 純郎
  清岡 長言
  京極 高修
  京極 高鋭
  北小路 三郎
  由利 正通
  水野 勝邦
  三島 通陽
  宍戸 功男
  仙石 久英
  八条 隆正
  織田 信恒
  高橋 是賢
  高木 正得
  大岡 忠綱
  大久保 教尚
  藤井 兼誼
  斎藤  斉
  稲葉 正凱
  渋沢 敬三
  海渓 通虎
  土屋 伊直
  市来 乙彦
  今井 伍介
  八田 嘉明
  板西 利八郎
  西野  元
  星野 直樹
  長  世吉
  大橋 八郎
  太田 政弘
  小倉 正恒 
  河原田 稼吉
  唐沢 俊樹
  賀屋 興宣
  横山 助成
  田口 弼一
  竹内 可吉
  黒崎 定三
  山川 端夫
  松村 真一郎
  松本  学
  藤原 銀次郎
  藤沼 庄平
  伍堂 卓雄
  寺島  健
  有賀 光豊
  青木 一男
  安宅 弥吉
  木村 尚達
  結城 豊太郎
  湯沢 三千男
  三井 清一郎
  宮田 光雄
  勝田 主計
  白根 竹介
  下村  宏
  平塚 広義
  関屋 貞三郎
  堀切 善次郎
  山岡 万之助
  広瀬 久忠
  村瀬 直養
  鈴木 貞一
  正力 松太郎
  森山 鋭一
  内田 信也
  堀切 善兵衛
  斎藤  樹
  勅子 李  鎔埼
  津島 寿一
  三重 伊藤 伝七
  鹿児島 岩元 達一
  北海道 板谷 宮吉
  新潟 飯塚 知信
  長崎 橋本 辰二郎
  宮城 二瓶 泰次郎
  東京 小野 耕一
  徳島 奥村 嘉蔵
  岐阜 渡辺 甚吉
  鳥取 米原 章三
  島根 田部 長右衛門
  兵庫 滝川 儀作
  松岡 潤吉
  大阪 中山 太一
  石川 中島 徳太郎
  栃木 上野 松次郎
  鹿児島 上野 喜佐衛門
  高知 野村 茂久馬
  滋賀 野田 六左衛門
  北海道 栗林 徳一
  熊本 山隈  康
  奈良 松井 貞太郎
  熊本 古荘 健次郎
  山口 秋田 三一
  千葉 斎藤 万寿雄
  愛媛 佐々木 長治
  青森 佐々木 嘉太郎
  茨城 結城 安次
  千葉 菅沢 重雄
  京都 大橋 理祐
     
公正会 岩村 一木
  岩倉 道倶
  伊藤 一郎
  伊藤 文吉
  井田 磐楠
  稲田 昌植
  井上 清純
  今園 国貞
  伊江 朝助
  飯田 精太郎
  原田 熊雄
  西  酉乙
  坊城 俊賢
  東郷  安
  小畑 大太郎
  大井 成元
  大蔵 公望
  奥田 剛郎
  渡辺 修二
  加藤 成之
  神山 嘉瑞
  高崎 弓彦
  高木 喜寛
  鶴殿 家勝
  中川 良長
  中御門 経民
  村田 保定
  向山  均
  久保田 敬一
  倉富  釣
  山根 健男
  八代 五郎造
  矢吹 省三
  前田  勇
  松岡 均平
  松田 正之
  松平 外与麿
  益田 太郎
  深尾 隆太郎
  近藤 滋弥
  安保 清種
  明石 元長
  浅田 良逸
  北大路 信明
  北島 貴孝
  肝付 兼英
  宮原  旭
  水谷川 忠麿
  三須 精一
  柴山 昌生
  島津 忠彦
  東久世 秀雄
  毛利 元良
  関  義寿
  周布 兼道
  杉渓 由言
  河田  列
  古市 六三
  本多 政樹
  佐竹 義履
  桜井 武雄
  小原 謙太郎
  多久 龍三郎
  白根 松介
  岡 俊二
  斯波 正夫
  大倉 喜七郎
  松村 義一
 
火曜会 岩倉 具栄
  伊藤 博精
  一条 実孝
  二条 弼基
  徳川 家正
  徳川 圀順
  徳川 慶光
  桂  広太郎
  鷹司 信輔
  九条 道秀
  近衛 文麿
  島津 忠承
  島津 忠重
  井上 三郎
  池田 仲博
  池田 宣政
  細川 護立
  東郷  彪
  徳川 頼貞
  大炊御門 経輝
  大隈 信常
  大久保 利謙
  伊達 宗彰
  築波 藤麿
  鍋島 直泰
  中山 輔親
  中御門 経恭
  黒田 長礼
  山内 豊景
  山階 芳麿
  松平 康昌
  前田 利建
  小村 捷治
  小松 輝久
  浅野 長武
  西郷 吉之助
  西郷 従徳
  嵯峨 実勝
  佐竹 義栄
  佐佐木 行忠
  四条 隆徳
  広幡 忠隆
     
無所属倶楽部 大山  柏
  石黒 忠篤
  李家 軫鎬
  太田 耕造
  吉田  茂
  吉野 信次
  田辺 治通
  滝  正雄
  黒田 英雄
  安井 英二
  松本 蒸治
  大野 緑一郎
  東郷 茂徳
  後藤 文夫
  小山 松吉
  鮎川 義介
  広田 弘毅
  千石 興太郎
  遠藤 柳作
  富田 健治
  小林 一三
  阿部 信行
  橋本 清之助
  安藤 紀三郎
  豊田 貞次郎
  大木  操
  松阪 広政
  田中 館愛橘
  長岡 半太郎
  山田 三良
  姉崎 正治
  新潟 長谷川 赳夫
     
交友倶楽部 久我 通顕
  勅男 山本 達雄
  犬塚 勝太郎
  橋本 圭三郎
  岡  喜七郎
  川村 竹治
  長岡 隆一郎
  中村 純九郎
  内田 重成
  古島 一雄
  水野 錬太郎
  埼玉 岩田 三史
  神奈川 磯野 庸幸
  福岡 出光 佐三
  和歌山 吉村 友之進
  宮崎 竹下 豊次
  佐賀 中野 敏雄
  埼玉 永瀬 寅吉
  岡山 山上 岩二
  大分 麻生 益良
  広島 水野 甚次郎
  群馬 渋沢 金蔵
  愛知 下出 民義
  福島 諸橋 久太郎
  京都 奥  主一郎
  香川 合田 健吉
     
同和会 勅男 若槻 礼次郎
  勅男 幣原 喜重郎
  岩田 宙造
  稲畑 勝太郎
  徳富 猪一郎
  小原  直
  田所 美治
  田中 都吉
  中川  望
  村上 恭一
  村田 省蔵
  山田 孝雄
  児玉 謙次
  江口 定条
  出渕 勝次
  有吉 忠一
  沢田 牛麿
  左近司 政三
  佐々木 駒之助
  堀江 季雄
  広島 松本 勝太郎
  大阪 佐々木 八十八
  山県 三浦 新七
  岩手 柴田 兵一郎
     
同成会 入江 貫一
  河井 弥八
  米山 梅吉
  田中 武雄
  次田 大三郎
  丸山 鶴吉
  青木 周三
  下条 康麿
  愛知 磯貝  浩
  福島 大谷 五平
  山梨 河西 豊太郎
  長野 片倉 兼太郎
  福井 熊谷 三太郎
  長野 小坂 順造
  富山 佐藤 助九郎
  岡山 坂野 鉄次郎
  静岡 三橋 四郎次
  秋田 塩田 団一郎
  神奈川 平沼 亮三
  茨城 渡辺 覚造
  沖縄 当間 重民
  東京 岩波 茂雄
     
会派に属さない議員 雍仁 親王
  宜仁 親王
  崇仁 親王
  博 恭 王
  武 彦 王
  恒 憲 王
  邦 寿 王
  朝 融 王
  守 正 王
  鳩 彦 王
  孚 彦 王
  稔 彦 王
  盛 厚 王
  恒 徳 王
  春 仁 王
  徳大寺 実厚
  西園寺 八郎
  毛利 元道
  醍醐 忠重
  華頂 博信
  木戸 幸一
  徳川 義親
  有田 八郎
  古野 伊之助
  前田 多門
  南  次郎
  勅伯 野田 (金+章)憲
  朴忠 重陽
  韓 相 龍
  伊東 致昊
  金田  明
  緑野 竹二郎
  林 献 堂
  許   丙
  緒方 竹虎
  伊藤 述史
  小林 次郎
  大平 駒槌
 

 なお、この議会の会期中に、会派に属さなかった大平駒槌が
同和会に、伊藤博文が無所属倶楽部へ移り、公爵三条実春が
新たに就任(会派に属さず)した。また次の議員が辞職又は死去している。

  12月3日 鈴木 貞一(研究会)辞職
    賀屋 興宣(同)同
    寺島  健(同)同
    村田 省蔵(同和会)同
  12月7日 南  次郎(純無)同
  12月12日   男 井田 磐楠(公正会)同
  12月13日 広田 弘毅(無所属倶楽部)同
    安藤 紀三郎(同)同
    古野 伊之助(純無)同
  12月15日 星野 直樹(研究会)同
    鮎川 義介(無所属倶楽部)同
  12月16日   公 近衛 文麿(火曜会)死去
  12月17日   伯 酒井 忠正(研究会)辞職
  12月18日 後藤 文夫(無所属倶楽部)同
 

 この結果、衆議院解散時(貴族院は停会となる)の会派別
所属議員は次のようになっていた。

  研究会 158名
  公正会 67名
  火曜会 41名
  無所属倶楽部 30名
  交友倶楽部 26名
  同和会 26名
  同成会 22名
  会派に属さない議員 35名
  405名
     
〔衆議院〕 議長 島田 俊雄(島根・進歩党)
  副議長 勝田 永吉(大阪・進歩党)
  全院委員長 信太 儀右衛門(秋田・進歩党)
     
常任委員長 予算委員長 中島 弥団次(東京・進歩党)
  決算委員長 加藤 知正(新潟・無属倶)
  請願委員長 永田 良吉(鹿児島・進歩党)
  懲罰委員長 一松 定吉(大阪・進歩党)
    谷原  公(徳島・進歩党)
  建議委員長 滝沢 七郎(東京・自由党)
     
党派別所属議員氏名    
召集日各党派所属議員数 日本進歩党 273名
  無所属倶楽部 92名
  日本自由党 46名
  日本社会党 15名
  欠員 40名
  466名
 

 なお衆・参両院編「議会制度七十年史・政党会派篇」は、日本進歩党
27名、日本自由党45名、無所属2名としているが、その根拠が明らかで
ないのでこのままとした。

     
日本進歩党 東京 中島 弥団次
  長野 高一
  駒井 重次
  川口  寿
  瀬母木 真六
  渡辺 善十郎
  今牧 嘉雄
  真鍋 儀十
  山田 竹治
  大橋 清太郎
  中村 梅吉
  前田 米蔵
  浜野 清吾
  八並 武治
  坂本 一角
  京都 今尾   登
  中村 三之丞
  川崎 末五郎
  岡田 啓次郎
  村上 国吉
  大阪 一松 定吉
  山本 芳治
  上田 孝吉
  大川 光三
  吉川 吉郎兵衛
  勝田 永吉
  河盛 安之介
  松田 竹千代
  井阪 豊光
  神奈川 田辺 徳五郎
  佐久間 道夫
  小泉 又次郎
  野田 武夫
  安藤   覚
  山口 左右平
  兵庫 中井 一夫
  浜野 徹太郎
  前田 房之助
  白川 久雄
  小林 絹治
  黒田   巌
  清瀬 一郎
  田中 武雄
  原  惣兵衛
  斎藤 隆夫
  長崎 伊吹 元五郎
  馬場 元治
  木下 義介
  中瀬 拙夫
  小浦 総平
  鈴木 重次
  川副   隆
  森    肇
  新潟 吉川 大介
  佐藤 芳男
  小柳 牧衛
  今成 留之助
  増田 義一
  埼玉 松永  東
  宮崎  一
  遠山 暉男
  横川 重次
  坂本 宗太郎
  高橋 守平
  石坂 養平
  新井 堯爾
  出井 兵吉
  五十嵐 吉蔵
  清水 留三郎
  最上 政三
  木暮 武太夫
  千葉 多田 満長
  成島  勇
  篠原 陸朗
  伊藤  清
  今井 健彦
  中村 庸一郎
  小高 長三郎
  茨城 渡辺  建
  小沢  治
  柳川 宗左衛門
  中井川  浩
  福田 重清
  川崎 巳之太郎
  山本 粂吉
  佐藤 洋之助
  小篠 雄二郎
  栃木 高田 耘平
  矢部 藤七
  佐久間  渡
  菅又  薫
  森下 国雄
  松村 光三
  奈良 越智 太兵衛
  北村 又左衛門
  植村 武一
  三重 川崎  克
  九鬼 紋七
  馬岡 次郎
  松田 正一
  浜地 文平
  田村 レイ
  長井  源
  愛知 加藤 鐐五郎
  下出 義雄
  小山 松寿
  林  正男
  中埜 半左衛門
  桶口 善右衛門
  野田 正昇
  富田 愛次郎
  本多 鋼治
  小笠原 三九郎
  大野 一造
  田嶋 栄次郎
  静岡 八木 元八
  山口 忠五郎
  山田 順策
  鈴木 忠吉
  金子 彦太郎
  大村  直
  勝又 春一
  太田 正孝
  森口 淳三
  坂下 仙一郎
  山梨 田辺 七六
  堀内 一雄
  滋賀 堤  康次郎
  広野 規矩太郎
  岐阜 清    寛
  船渡 佐輔
  石樽 敬一
  伊藤 東一郎
  長野 小坂 武雄
  小山 邦太郎
  羽田 武嗣郎
  木下  信
  小平 権一
  宮城 内ヶ崎 作三郎
  守屋 栄夫
  阿子島 俊治
  村松 久義
  小山 倉之助
  福島 内池 久五郎
  小松 茂藤治
  牧原 源一郎
  仲西 三良
  神尾  茂
  植松 練磨
  星   一
  山田 六郎
  岩手 田子 一民
  八角 三郎
  泉  国三郎
  金子 定一
  小野寺 有一
  鶴見 祐輔
  青森 三浦 一雄
  森田 重次郎
  長内 健栄
  山形 高橋 熊次郎
  西方 利馬
  伊藤 五郎
  小林 鉄太郎
  秋田 町田 忠治
  信 太儀右衛門
  中川 重春
  小山田 義孝
  福井 薩摩 雄次
  中西 敏憲
  猪野毛 利栄
  酒井 利雄
  添田 敬一郎
  石川 桜井 兵五郎
  富山 高見 之通
  中川 寛治
  赤間 徳寿
  松村 謙三
  大石 斉治
  鳥取 三好 英之
  豊田  収
  由谷 義治
  島根 田部 朋之
  原  夫次郎
  恒松 於菟二
  島田 俊雄
  岡山 久山 知之
  片山 一男
  逢沢  寛
  犬養  健
  小谷 節夫
  土屋 源市
  広島 奥  久登
  岸田 正記
  田中  貢
  木原 七郎
  土屋  寛
  作田 高太郎
  宮沢  裕
  山口 西川 貞一
  林  佳介
  紀藤 常亮
  安部   寛
  窪井 義道
  伊藤 三樹三
  和歌山 角  猪之助
  小山 谷蔵
  森川 仙太
  徳島 谷原  公
  紅露  昭
  田村 秀吉
  三木 与吉郎
  香川 藤本 捨助
  愛媛 武知 勇紀
  岡本 馬太郎
  米田 吉盛
  村瀬 武男
  野本 吉兵衛
  毛山 森太郎
  高畠 亀太郎
  高知 宇田 耕一
  依光 好秋
  中越 義幸
  小野 義一
  福岡 森部 隆輔
  江口  繁
  松尾 三蔵
  赤松 寅七
  図師 兼弐
  沖   蔵
  山崎 達之輔
  鶴   惣市
  松延 弥三郎
  勝  正憲
  林  信雄
  大分 柏原 幸一
  金光 庸夫
  一宮 房治郎
  綾部 健太郎
  佐賀 池田 秀雄
  愛野 時一郎
  保利  茂
  熊本 荒川 真郷
  大麻 唯男
  石坂  繁
  三善 信房
  伊豆 富人
  宮崎 曽木 重貴
  野村 嘉久馬
  小田 彦太郎
  鹿児島 高城 憲夫
  松方 幸次郎
  南郷 武夫
  小泉 純也
  東郷  実
  寺田 市正
  宗前  清
  永田 良吉
  金井 正夫
  沖縄 漢那 憲和
  仲井間 宗一
  伊礼  肇
  桃原 茂太
  崎山 嗣朝
  北海道 山本 厚三
  松浦 周太郎
  前田 善治
  大島 寅吉
  手代木 隆吉
  南条 徳男
  深沢 吉平
  南雲 正朔
     
無所属倶楽部 東京 福家 俊一
  四王天 延孝
  本領 信治郎
  赤尾  敏
  津雲 国利
  京都 田中 伊三次
  大阪 田中 藤作
  池崎 忠孝
  菅野 和太郎
  山野 平一
  笹川 良一
  大倉 三郎
  兵庫 今井 嘉幸
  金光 邦三
  佐々井 一晃
  木崎 為之
  吉田 賢一
  新潟 長沼 権一
  高岡 大輔
  稲葉 圭亮
  田下 政治
  加藤 知正
  群馬 中島 知九平
  木村 寅太郎
  蝋山 政道
  千葉 川島 正次郎
  吉植 庄亮
  白鳥 敏夫
  茨城 赤木 宗徳
  栃木 船田  中
  森田 正義
  日下田  武
  奈良 江藤 源九郎
  三重 井野 碩哉
  尾崎 行雄
  愛知 安藤 孝三
  鈴木 正吾
  静岡 加藤 弘造
  山梨 高野 孫左衛門
  今井 新造
  滋賀 松原 五百蔵
  岐阜 三田村 武夫
  長野 松本 忠雄
  藤井 伊右衛門
  小山 亮
  吉川 亮夫
  中原 謹司
  吉田  正
  小野 秀一
  青森 竹内 俊吉
  楠美 省吾
  山形 近藤 英太郎
  池田 正之輔
  秋田 二田 是儀
  斎藤 憲三
  石川 村沢 義二郎
  喜多 壮一郎
  青山 憲三
  鳥取 坂口 平兵衛
  岡山 岡田 忠彦
  森谷 新一
  広島 永野  護
  肥田 琢司
  八木 宗十郎
  和歌山 中谷 武平
  徳島 三木 武夫
  香川 松浦 伊平
  愛媛 河上 哲太
  高知 松永 寿雄
  福岡 満井 佐吉
  橋本 欣五郎
  有馬 英治
  大分 大島 高精
  山口 馬城次
  木下 郁
  佐賀 真崎 勝次
  宮崎 斎藤 正身
  三浦 虎雄
  鹿児島 津崎 尚武
  原口 純允
  浜田 尚友
  北海道 安孫子 孝次
  吉田 貞次郎
  真藤 慎太郎
  渡辺 泰邦
  北 勝太郎
  星野 靖之助
  黒沢 酉蔵
  東条 貞
     
日本自由党 東京 牛塚 虎太郎
  原  玉重
  鳩山 一郎
  安藤 正純
  滝沢 七郎
  本多 市郎
  花村 四郎
  田中  源
  京都 田中 和一郎
  池本 甚四郎
  田中  源
  芦田  均
  大阪 紫安 新九郎
  神奈川 中  助松
  野口 喜一
  岡本 伝之助
  河野 一郎
  新潟 北 ヤ吉
  中村 又七郎
  石田 善佐
  愛知 大口 喜六
  滋賀 信正 義雄
  岐阜 安田 桑次
  牧野 良三
  宮城 庄司 一郎
  福島 加藤 宗平
  唐橋 重政
  青森 小笠原 八十美
  山形 木村 武雄
  松岡 俊三
  矢野 庄太郎
  石川 箸本 太吉
  岡山 星島 二郎
  和歌山 松山 常二郎
  山口 喜久一郎
  香川 三木 武吉
  岸井 寿郎
  高知 大石 大
  福岡 楢橋 渡
  佐賀 田中 亮一
  藤生 安太郎
  熊本 松野 鶴平
  中井 亮作
  深水 吉毅
  北海道 坂東 幸太郎
  奥野 小四郎
     
日本社会党 東京 河野 密
  京都 水谷 長三郎
  大阪 田万 清臣
  西尾 末広
  杉本 元治郎
  兵庫 河上 丈太郎
  阪本 勝
  新潟 三宅 正一
  愛知 山崎 常吉
  山梨 平野 力三
  宮城 菊地 養之輔
  秋田 川俣 清音
  香川 前川 正一
  福岡 松本 治一郎
  北海道 正木 清


 なお、この議会の会期中に召集解除で高木義人(宮城)が復職、無所属倶楽部に入ったほか、無所属倶楽部の楠美省吾、別所喜一郎、八木宗十郎、山口馬城次が日本進歩党に、木下郁、渡辺泰邦が日本社会党に、二田是儀が日本自由党に入党、また逆に中村又七郎、大石大が日本自由党を、木下義介が日本進歩党をそれぞれ脱党して無所属倶楽部に入り、坂本宗太郎は日本進歩党から日本自由党に移っている。またこの会期中に議員を辞職した者は、無所属倶楽部の長沼権一、井野碩哉、橋本欣五郎、森田正義、蝋山政道、村沢義二郎、高野孫左衛門、斎藤憲三、森谷新一、近藤英次郎、白鳥敏夫、四王天延孝、池崎忠孝、今井新造、江藤源九郎、藤井伊右衛門、中原謹司の17名と、日本進歩党の恒松於菟二の計18名にのばった。この結果、解散時の所属議員数は、日本進歩党274名(1名増)、 無所属倶楽部72名(20名減)、日本自由党46名(変わらず)、日本社会党17名(2名増)となっていた。



戦争責任問題と衆議院

 
第八九回議会の特徴の一つは、「総懺悔」論が支配的であった終戦直後の前議会にくらべて、戦争責任の追及が議場でも堂々と叫ばれ始めたことであった。そしてこうした戦争責任論議を盛りあげる一つのきっかけとなったのは、前述した近衛を中心とする憲法改正調査に対する批判が、内大臣府への批判から、近衛自身の戦争責任に対する批判へと拡大されてきたことにあった。しかもそれはアメリカの世論から起こってきた点で重要な意味を持っていた。例えば10月26日のニューヨーク・タイムズにおいて、コロンビア大学のペッファー教授は近衛が日本の中国侵略初期の首相であったことを指摘し「近衛公のようなものに日本の新憲法草案起草のおんどをとらせ、そうして日本の将 来の計画を立てさせることは、彼を許すばかりでなく、彼に公的承認を与えることになる。それは奇怪である」と抗議し、また翌々28日には、同紙はさらに社説において近衛批判を展開するにいたった(前掲「憲法制定の経過」、152〜3頁)。そしてこのような自国世論の批判に直面したマッカーサー司令部は、11月1日とくに声明を発し、同司令部は日本の憲法改正における近衛公の役割りを支持するものではないことを強調 し、近衛との関係を否定したのであった(朝日、11 ・3)。

  同時にこの間、こうして近衛批判が拡大するのと並行して、占領軍の戦犯裁判準備や教育改革への具体的要求などを通じて、戦争責任についての幅広い考え方が日本国民の間にも急速に滲透しつつあった。

  例えば10月22日付朝日は、陸軍法務官カーペン ター大佐が戦争犯罪人の裁判について、「皇室の人々といへどもこの裁判から除外されない」、戦争犯罪についての「調査は真珠湾事件当時を遥に溯り支那事変またはパネー号事件当時にまで及ぼう」、戦争犯罪人に該当するものは数千に及ぶが、そのうち「政治犯人、これには戦争を刺戟し之を勃発した内閣閣僚および政府の役人たちが含まれる」などと語ったと報じた。この談話からはアメリカ側が戦争責任を相当に広い範囲にわたって追及してくるであろうことを読みとることができる。そしてこの見方からすれば、近衛が戦争犯罪人に含まれることは明らかであった。同じ朝日は近衛が栄爵拝辞の決意を示したことと関連して、10月 27日の社説で「支那事変への責任、新体制運動への責任、そしてまた大東亜戦争への責任等等どれ一つを とって見ても、若しあの時、近公にして今一段の勇断ありせばの嘆きを懐くもの独り吾人のみに限らないであろう。これに関しては、多くの場合、木侯も責任を持つべきであることは勿論である」と述べて、好意的態度を持しながらも、近衛・木戸の戦争責任が広い範囲に及ぶことを指摘したのであった。

  同じ頃GHQは、10月22日の指令で、教育内容 ・教員・教育機構の批判的検討と改革を要求したが、そのなかで「教師及ビ教育職員ハ可及的速カニ之ヲ調 査シ、一切ノ職業軍人、軍国主義及ビ極端ナル国家主義ノ積極的提唱者、並ニ占領ノ方針ニ積極的ニ敵意ヲ 有スル者ハ退職七シメラルベシ」(「日本管理法令研究」 第一巻四号)と命じているのは、戦争責任の観点から注目すべきことであった。つまりここでは、戦争責任の追及は特定の戦争政策に国民を引き込んだということにとどまらず、一般的に軍国主義や極端な国家主義を国民に吹き込んだ者にまで及ぶのであり、その責任は「追放」という処罰にあたいするものとされたのであった。そしてこのような観点からすれば、あらゆる分野での戦時下の指導者に対する検討が必要となる筈であり、そのときすでに新聞界ではこうした動きが具体的に始まっていた。

  まず朝日新聞の場合には、東京本社編輯局から戦争責任の明確化と社内民主主義体制確立とを要求する声があがり、それはたちまち全社的に拡大されたが、これに対し10月22日、村山社長ら幹部は自発的に辞任して責任をとる旨の態度を明らかにした。ついで翌23日には読売新聞社の全社員大会でも、戦争責任を明らかにするための幹部の総退陣と社内機構の民主化の要求とが決議されている。読売の場合には、正力社長がこれらの要求を全面的に拒否し、逆に運動の指導者の退社を命じたため、組合による業務管理にまで発展する大争議となったが、このことはまた、さきにみた共産党の活動ともあいまって、出発したばかりの労働運動のなかに、経営者の戦争責任追及―経営の民主化要求―労働組合の結成―諸要求貫徹というパターンを生み出すことにもなっていった。

  そして第八九回議会召集の一週間前、11月19日には、東条逮捕以来中断されていた戦犯容疑者の追求が再開され、GHQは、陸軍将官中から荒木貞夫、真崎甚三郎、小磯国昭、南次郎、本庄繁、松井石根の6名、外交官から松岡洋右・白鳥敏夫の2名、右翼陣営から葛生能久・鹿子木員信の2名に、元政友会総裁久原房之助を加えた11名に逮捕命令を発した。戦犯容疑者の範囲が次第に拡大されてきていることは明らかであった。

  こうした社会的・政治的動向を背景としながらも、議会において議員自身の戦争責任が問題とされるようになった直接のきっかけは、前議会直後の9月6日、 蝋山政道、村沢義二郎、高野孫左衛門、森田正義、森谷新一、斎藤憲三の六代議士が戦争中の政治責任を痛感したとして、島田議長にあって議員の辞表を提出したことであった。辞表提出者はさらに池崎忠孝、原惣兵衛、高岡大輔が加わって9人となり、10月初め島田議長は一応これを慰留・却下したが、大半のものは八九回議会にむけて再度辞表を提出した。結局11月26日の召集日に開かれた各派交渉会で、辞表の受理如何は、本会議での無記名投票によるとの方針が決定された。そして社会党・自由党はこうした形ではあれ、政治責任問題が表面化してきた機会に、これを一挙に進歩党追い落としに利用しようという態度に出たのであった。

 

「かくの如く代議士の戦争中の政泊責任問題が表面化するにおよび社会党では今議会において支那事変以来終戦に至るまでの戦時議会の運営指導に任じたもの及び政府並びにこれと表裏一体関係の各種団体の指導的地位にあった議員に対し徹底的にその責任を究明し公民権を停止せしめんとする決議案を提出することになり、各派交渉会に提議、また自由党よりも同様趣旨の意向を表明した」(朝日、11・27)。


  自由・社会両党は、翼賛選挙―翼賛政治会―大日本政治会―日本進歩党という太平洋戦争下での議会勢力の主流に一撃を加えようとする点で一致しており、従ってこれを両党の共同決議案として、開会劈頭に上程しようと画策した。これに対して進歩党は別個の決議案を用意して対抗し、結局、施政方針演説に対する各党代表質問が終わったところで、両決議案を上程することで妥協が成立した。

  こうした経緯もあって、衆議院での代表質問では戦争責任問題が大きくとりあげられた。まず質問第一陣に立った斎藤隆夫(進歩党)は、「支那事変ガナケレバ大東亜戦争ハナイノデアル、ソレ故ニ大東亜戦争ヲ 起シタ所ノ東条大将ニ戦争ノ責任ガアルトスルナラバ、支那事変ヲ起シタ所ノ近衛公爵ニモ亦戦争ノ責任ガナクテハナラヌノデアリマス」と述べ「今日戦争ノ根本責任ヲ負フ者ハ東条大将ト近衛公爵、此ノ二人デアル」(衆議院議事速記録第二号)と断じた。

  これに対して三田村武夫(無所属倶楽部、元東方会)は、重臣の政治責任をとりあげ、「東条大将ヲ総理大臣ニ推薦シタノハ重臣諸公デアル……重臣全部共同責任デアル」とする。そして限られた人脈によって内閣が維持されてきた点をつき「二・二六事件ノ直後、彼ノ広田内閣ヨリ小磯前前内閣マデノ閣僚ヲ拾ッテ見マスト、三度以上大臣ニナッタ者ガ十九入居リマス、二度 大臣ニナッタ者が七人、僅カ二十人カ三十人ノ人ニ依ツテ昭和十一年カラ今日マデ、満八箇年間十代ノ内閣 ヲ壟断シ米タ、称シテ之ヲ政治祖界ト云フ」この「一定ノ『リスト』ヲ以テ其ノ『リスト』ニ依ッテ其ノ範囲内デ、過去八年間最モ重大ナ時ノ日本政治ガ行ハレテ来タ、誰ニ責任ガアルカ、一切重臣ニアル」(同前)としたのであった。そしてまた、米内海相に対しては、あなたはもう二年も前から戦争は長くは続かないと考えていたというのに、なぜもっと早く戦争を止めることが出来なかったのかと追っていた。

  質問2日目の29日には、復員して来たばかりの福家俊一(無所属倶楽部)が立って、「苟クモ此ノ戦争責任者タル者ハ、少クトモ重臣、軍閥、官僚、財閥並ニ政治家等ノ中ニアッテ、是等ノ人々ハ所謂戦争挑発ニー連ノ脈絡アリト思ハレルノデアリマス」「而モ何等反省ノ色モ見セズ、却テ敗戦ノ責任ヲ国民ニ転嫁シ、自ラ承詔必謹ノ袖ニ隠レントスルニ至ツテハ、断ジテ私共復員兵ノー人トシテ許シ難イノデアリマス」(同第三号)と述べたのには、当時、一種独特の迫力が感じられたにちがいない。

  これらの発言に対して自由党・社会党を代表した鳩山一郎、西尾末広の演説は戦争責任問題にふれずに終わっており、鳩山は日本が天皇を中心とした一大家族国家であるとして、これを基礎とする「日本的」民主政治を強調、また食糧問題・失業問題をとりあげた西尾の演説には「西尾君、思想問題ヲヤレ、末梢的ナコ トハ分ツテ居ル」という野次がとぶ有様であった。両党は戦争責任問題は決議案にまかすとの作戦に出たものとみられた。

  12月1日午後の衆議院本会議には、自由・社会両党の「議員ノ戦争責任ニ関スル決議案」と進歩党の「戦争責任ニ関スル決議案」とが上程された。前者は「議員ノ」と銘打ったところに特色があったが、しかしその範囲は東条内閣以後、とくに翼賛選挙の責任に集中された観があった。決議案自体「大東亜戦争開始以来政府ト表裏一体トナリテ戦時議会ノ指導ニ当レル者ハ此ノ際速ニ其ノ責任ヲ痛感シテ自ラ進退ヲ決スヘシ」 と要求しているが、趣旨説明に立った安藤正純(自由党)は「東条政権以来ノ非立憲的暴政ヲ肋長」した責任を論じ、賛成演説に立った水谷長三郎(社会党)は、翼賛選挙の推薦母体となった翼賛政治体制協議会(翼協、「第八〇回議会解説」参照)の構成員であった者と翼賛政治会・大日本政治会の常任総務以上の地位にあった者は、「少クトモ終生公民権ヲ停止シテ、再ビ政治ノ場ニ登場スルコト罷り相成ラヌト、禁止スベシト我々ハ要求スル次第デゴザイマス」(速記録第五号)と、 具体的に戦犯議員の範囲を指摘した。もっとも議員の戦争責任問題はそれだけで片付くものではなく、水谷も「全議員ハソレゾレノ立場ニ於キマシテ程度ノ差コソアレ戦争ニ対シマシテ当然責任ヲ負ハネバナラナイコトハ言フマデモナイ」としたが、しかしそれは全議員の戦争責任が平等だということを意味するのではない、例えば翼協の幹部であった「前田米蔵君ト水谷長三郎トガ同ジ責任ヲ負ハネバナラヌトハ断ジテ吾々ハ言フモノデハナイ」(同前)というのが、この決議案を 基礎づけている論理であった。

  これに対して進歩党の決議案は、「議員の戦争責任」という考え方そのものに反対するものであった。趣旨説明に立った作田高太郎は「戦争責任者ハ各方面ニ於テ頗ル多数ニ上ルノデアリマスルガ、国内的観点ニ立脚致シマスルト、戦争ヲ悪用シテ国家国民ヲ誤リ、又ハ之ニ依ツテ非違不正ヲナシタル者ニ限ルノデアリマス」(同前)とその範囲を限定したのであり、こうなる と、追求されるのは「非違不正」という刑事責任だけとなって、政治責任は免責されてしまうわけであった。結局この戦争責任決議案は予想どおり、自由・社会党案が否決され、進歩党案が可決されたが、この論戦を通 じて戦争責任論の深化がみられなかったのは、進歩党は勿論、自由・社党両党も自党に追及が及ばないよう に戦争責任の枠を限定したからにほかならなかった。しかし占領軍側の戦犯追求はこうした枠をはねとばして迫ってきた。

  衆議院で戦争責任決議案の採決が行われた翌日12月2日には、GHQは元首相広田弘毅、平沼騏一郎を はじめとする59名を戦犯容疑者に指名し、逮捕命令を発した。このなかには、次のような両院議員がふくまれており、議会勢力に強い衝撃を与えるものであった。

貴族院議員、

鮎川義介、安藤紀三郎、青木一男、有馬頼寧、藤原銀次郎、古野伊之肋、後藤文夫、広田弘毅、星野直樹、井田磐楠、菊地武夫、小林躋造、松阪広政、水野錬太郎、岡部長景、太田耕造、下村宏、徳富猪一郎、正力松太郎、計19名

衆議院議員、

中島知久平、太田正孝、池崎忠孝、桜井兵五郎、笹川良一、四王天延孝、計6名


 その他には、畑俊六、梨本宮守正王、豊田副武、西尾寿造、後宮淳、多田駿、佐藤賢了など軍人19名、 郷古潔、池田成彬、津田信吾など財界5名、大川周明、児玉誉士夫ら右翼4名などが主だったところであった。

  さらに12月6日には、近衛文麿、木戸幸一、酒井忠正、大河内正敏、大達茂雄、緒方竹虎、伍堂卓雄、大島浩、須磨弥吉郎に逮捕命令が出されたが、このうち大島、須磨以外は貴族院議員、とくに酒井は副議長であった。この日、戦犯裁判の首席検事ジョセフ・キーナンが来日、翌日にはマニラの軍事法廷で山下奉文大将に死刑が宣告され、16日には収容期限を前にして近衛文麿が服毒自殺し、戦争責任問題は議会の上にもいよいよ重くのしかかってくるのが感ぜられた。

  なおこの間、11月24日をもって内大臣府は廃止され、またこ12月1日から陸軍省・海軍省は第一復員省、第二復員省に改組された。これは軍事機関としての陸・海軍省が廃止されたことを意味し、省員は文官 として両復員省に引きつがれることとなり、大臣は幣原首相が兼任、下村陸相、米内海相は11月30日の答弁を最後として議場から姿を消した。



重要法案の成立と衆議院の解散

 この議会には政府から25件の法律案が提出され、 全件成立しているが、数のうえで多いのは、戦時立法を廃止する法律案であり、これによって国家総動員法 ・戦時緊急措置法、防空法、映画法、石油業法、裁判所構成法戦時特例、戦時民事特別法、戦時刑事特別法などが廃止された。これに対して政府側がとくに力を いれて成立をはかった重要法案は、衆議院議員選挙法改正法案、農地調整法改正法案、労働組合法案の3件であった。

  まず選挙法の改正は、政治の民主化の第一条件と考えられ、幣原内閣はこの新選挙法によってなるべく早く総選挙を実施することを望んでいた。最大の改正の眼目は、選挙権の拡張であり、さきの五大改革指令にもあげられている婦人参政権の実現とともに選挙権・被選挙権の年令要件を引き下げ、男・女を問わず満20才以上のものに選挙権、25才以上の者に被選挙権を与えようとする点であった。これによる有権者総数 は3700万人に達し、前回1942(昭和17)年 の第21回総選挙の際の有権者数1460万人の2・5倍をこえ、参政権の画期的拡張となる筈であった。そして次に選挙によって国民の政治的関心を引き出し吸収するため、選挙運動をできるだけ自由にしようというのが、この改正の第二のねらいであった。

  元来選挙運動への規制が全面的に拡大強化されたのは、25才以上の男子に普通選挙権をみとめた1925(大正14)年改正のいわゆる普通選挙法からであ り、ここではじめて立候補制がとられるとともに、候補者・選挙事務長・運動員・選挙費用・文書・ビラ等に関する規定が設けられ、いわば、選挙運動は定型化されたのであった。つまりこのときから候補者は、選挙事務長をはじめとする規定数以内の運動員をおき、選挙費用を明確にし、文書・ビラ・看板などに関する制限を守らなくては選挙運動ができなくなったと同時に、この枠外の一般国民の自由な選挙運動も原則として禁ぜられたのであった(「第五五回議会衆議院解説」参照)そしてその後は、金のかかる選挙が政治を腐敗させるとの観点から、金のかからない選挙のためとして、選挙運動の規制がますます細かなところまで加重されていったのであった。

  この改正はこうした方向を一挙に逆転させることを めざしているが、とくに、限られた運動員しか選挙運動が出来ないという制度を全廃することに力点をおいていた。この改正案は旧法の第八八条から第九七条に至る10ヵ条を一挙に削除することにしているが、それはいずれも「議員候補者、選挙事務長又ハ選挙委員ニ非ザレバ選挙運動ヲ為スコトヲ得ズ」(第九六条)との原則にかかおる規定であった。

  こうした選挙権拡大・選挙運動の自由化は、民主主義の観点から出されたものであったが、この改正案のもう一つの特色は、当時の社会状況との関連から、大選挙区制限連記制という特殊な制度を打ち出したことであった。一般に大選挙区は少数派の当選を可能にし、死票を減らすが、その代わり小党乱立の傾向をうながすとされる。政府側も大選挙区採用の理由を「議員候補者ノ選択ノ自由ヲ拡大シ、ヨリ広汎ナル基礎ニ立チ マシテ国家的人物乃至ハ所謂新人ノ選出ノ可能性ヲ強メ」とも説明しているが、より直接的な理由は「戦災等ニ因リマシテ人ロノ異動ガ全国的ニ極メテ大規模ニ行ハレマシタ結果、従来ノ選挙区ノ侭デ選挙ヲ執行致シマスコトハ、事実上困難」(堀切内相の説明、速記録第五号)という点にあったと思われる。結局、原則として府県を一選挙区とするが、定員が15名をこえる場合には二選挙区に分割するという形で大選挙区がつくられることになった。そして大選挙区では比例代表制の採用を理想とするが、準備不充分のため、それに代わるものとして制限連記制を採用することとしたというのであった。政府原案では、定員5名まで単記、6〜10名は2名連記、11名以上は3名連記とされた。

  これに対して両院の審議で最も問題となった点は、 選挙運動にどの程度の制限を加えるべきか、定員と連記との関係をどの程度にするのが適正かといった問題であった。これらの点について衆議院では進歩党の修正案が通過したが、貴族院では政府原案に近づけた再修正が行われ、この案が成立している、例えば、衆議院では、定員10名までは2名連記と修正したが、これでは定員の少ない選挙区を多数党が独占するのは明 らかであり、貴族院では、定員3名まで単記、4〜10名まで2名連記に再嫁正している。

  第2の農地調整法改正案は、後に第一次農地改革法 と俗称されるようになるものであり、また松村謙三農相のイニシアティブのもとで作成されたこの法案は、日本側で自発的に立案された唯一の民主化政策と評されるものともなった。松村の意図は、地主・小作制度を解体し自作農中心の農村秩序をつくりあげることにより、食糧の増産と小作農の急進化の防止=農村の政治的安定をはかろうとしたものと考えられるが、こう した新しい政策に農地調整法という古い形式を利用しようとしたのは、少しでも反対の口実を減らそうとしたものであった。農地調整法は38年に成立、「農村ノ経済更生及農村平和ノ保持」を目的としたものであり、地主による小作契約の解約や更新の拒絶を制限して、小作権に若干の保護を与える反面、小作官の権限を強化して小作争議を抑制し、任命制農地委員会を設けて幹旋・調整にあたらせようとしたものであった。松村はこの農地委員会を民主化し強化して、地主の土地の強制買上げを試みようというのであった。

  松村農相は当初、不在地主の所有する全農地及び在村地主の所有する一町五反をこえる農地を買収する案を立てたが、事務当局からその実現性の乏しいことを 力説され、結局、在村地主の保有限度を三町歩とし、11月16日の閣議に農地改革案要綱を提出した。閣議でもこの改革案全体に反対する意見は出なかったものの、地主的立場は強く主張され、地主保有限度をさらに五町歩に引きあげることで22日決定・発表され、23日の新聞に掲載された。この三町歩から五町歩への保有限度の引きあげにより、「強制譲渡の対象となる在村地主の数は、大凡百万戸から十万戸に、小作地 は百三十万町歩から九十万町歩へと激減した」(農地改革記録委以会「農地改革顛末概要」、108頁)のであった。

  農地調整法改正法案はて12月4日衆議院に提出、5日の本会議に上程されたがその要点は次のようなものであった。(1)不在地主の所有する全農地と、在村地主の所有する五町歩をこえる小作地を譲渡させて自作農を創設する。譲渡についての協議が整わない場合には、 農地委員会の裁定をもって協議がととのったものとみなす、(2)小作料の金納化をはかり、現物小作料契約は金納契約に改定させる。(3)地主の小作地返還要求は市町村農地委員会の承認を必要とすることとし、耕作権の保護を強める、(4)市町村農地委員会を任命制から選挙割に改め、地主、自作、小作の各階層から5名づつの委員を選出・構成することとする。

  この法案は、予想されたことながら議会での執拗な抵抗に直面した。衆議院での審議状況は次のように報ぜられている。「農地改革案については各派から質問 が続行されたが、質問に起った人々は原案に賛成なのか反対なのかを明確にしない。政府の英断を多とするとか、農相の努力に敬意を表するとか言っているかと思ふと、すぐその後で所有権の絶対性を強調したり、 地主の迷惑を論じたりする。衣の隙から鎧がちらついているのだ、自由党の紫安氏は、土地の強制譲渡は憲法二七条の違反にあらずやといひ、所有権不可侵の原則を掲げて政府に迫った。これに対してつぎに起った社会党の平野氏は、所有権は義務を伴ふと断じて、その絶対性を否定した。戦争責任追及決議には提携した自由、社会両党の性格が、こんな具体的問題にふれて くると漸次明確になってくる」(朝日、12・7)。議場の状況をみると、反対派も民主化の潮流の下では真向うから否決することはせず、次の労働組合法案とともに審議未了に終わらせる作戦に出るのではないかとみられたが、12月9日にいたりGHQが「農地改革ニ関スル覚書」を発したことによって情勢は一変した。この覚書は「小作人ニ対シ著シク不利ナル条件ノ下ニ於ケル小作制度ノ広汎ナル存在」を、除去すべき「顕著ナル害悪」と断じ、来る1946年3月15日まで に、小作人がその所肖にみあった年賦で農地を購入できるようにする計画、小作人が再び小作人の地位に転落しないよう保護する計画などを含む農地改革案を提出するよう命じたものであった。もはや、この第一次農地改正法案に抵抗することは無意味となり、延長さ れた会期の最終日に成立した。しかも実際の農地改革は、この第一次農地改革法によってではなく、対日理事会の討議などにより、はるかにきびしい内容のものとなった第二次農地改革法によって実施されることになるのであった。

  政府が当初予定された会期の最終日、12月14日に至って会期の4日間延長をはかったのは、農地改革法案とともに労働組合法案を成立させることを目的としたものであった。労働組合法案は前述した五大改革の指令で直接に指示されたものでもあり、また現実に労働組合が激しい勢いで結成されつつあるという情勢からいっても、この議会で成立をはかることが必要な法案であった。すでに10月5日には、戦後最初の全国組合として、全日本海員組合が結成され、10月10日には戦前の労働運動の指導者約100名が集まって総同盟復活の動きが始まっている。そして11月に入ると全国的に広汎な分野で組合結成の気運が高まり、同時にストライキも瀕発し始めていた。

  こうした情勢のなかで、芦田厚相は、10月27日、官庁側10名、学識経験者7名、事業主側6名、労働者側6名、貴・衆両院議員6名計35名よりなる労務法制審議委員会を設置し、これに労働組合法の起草を まかせた。これは戦後最初の実質的委員会であり、労働組合法案を起草したのは同委員会の末弘厳太郎東大教授であった。

  労働組合法案に対しても、両院でさまざまな論議がなされたが、その背後にGHQの承認と支持のあることは誰の眼にも明らかであり、貴・衆両院とも原案通 り可決・成立させた。

  12月18日午後6時、前述した緊急勅令第五四二号「ポツダム宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件」 の事後承諾案が可決されたところで衆議院解散の詔書がもたらされた。この日進歩党は、町田忠治をひき出して紛糾していた総裁問題に決着をつけ、また干石興太郎、徳川義親、黒沢酉蔵、吉植庄亮、船田中らは日本協同党を結成し、戦後初の総選挙をたたかう体制を ととのえた。しかしその翌日、翌年1月22日に総選挙を行うとの閣議決定に対してはGHQからストップ がかけられ、再度の当選を夢みていた議員たちの上に、 公職追放という痛撃が下されることになるのであった。

(古屋哲夫)