『資料日本現代史』4

1981年1月

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選挙法問題とファッショ化過程


表紙

古屋 哲夫


普選実施後の選挙法論議

1925年普選法における選挙運動規制の登場
選挙権拡張論の後退
選挙公営論と比例代表制
選挙法問題のファッショ的展開



普選実施後の選挙法論議


 1925年(大正14)に日本で最初の普通選挙法が制定され(正確に言えば衆議院議員選挙法の改正)、それによるはじめての総選挙が1928年(昭3)に行なわれたことは、現在では高校教科書にも記述されるようになっている。しかし、それ以後、本巻で扱われている1942年のいわゆる翼賛選挙に至るまで、たえず選挙法改正が問題とされてきたことは、少し詳しい通史をみても、あまり書かれてはいない。

  もっとも「たえず」というのは厳密に言えばオーバーかもしれないが、最初の普選を実施した田中内閣をついだ浜口内閣が、はやくも1930年に選挙革正審議会を作って以来、法制審議会の部会、選挙制度審議会、議会制度審議会の部会などさまざまな名称をとりながらも、選挙制度を論議する審議機関の存在しない年はないといってもよいほどの有様なのである。しかもこの間に実現した実質的な選挙法改正は、34年の一度だけであった。

  では、こうした延々とした選挙法改正論議の継続は、一体何を意味したのであろうか。結論を先に言ってしまえば、それはファッショ化の進行にともなって、選挙法論議の焦点が次々と移動していったということであるが、さらにいいかえてみると日本のファシズムの体制化にあたっては、独自な国民組織の方法を編み出すことができず、たえず従来から存在する「制度」(この場合は「選挙」)を修正し利用しようとしていたことに起因していたといえよう。しかしその具体的様相に入る前に、まず、前提としての普選法の性格にふれておかねばならまい。



1925年普選法における選挙運動規制の登場

 25年普選法の基本的性格が選挙権の拡大という点にみられることは、ここではもうくり返すまでもあるまい。有権者数は1919年(大8)改正の選挙法(納税資格直接国税3円以上)の場合の307万人から、1241万人へといっきょに4倍に拡大した。これは確かに国民の政治的権利の大きな発展といえた。しかしこのとき同時に、有権者激増への対応という観点から、選挙運動の規制という新たな問題が登場してきたことは忘れられている場合が多い。もちろんそれ以前の場合にも、選挙運動に対する規制は行なわれていたが、その対象は広い意味での「買収」(金銭・物品の供与だけでなく、用水・小作・債権・寄附その他の利益関係の利用をふくむ)だけであったといってよい。したがってこれらの行為さえ行なわなければ、誰がどのような方法で選挙運動をしてもよかった。戸別訪問はもちろん運動の有力な方法であった。

  これに対して、25年普選法は、戸別訪問の禁止などによって運動方法をせばめたばかりでなく、候補者、運動員、選挙費用などに関する詳細な規定を設けて、はじめて選挙運動を一つの型にはめようとする新しい規制方法を打出した点で画期的であった。この点でまさに今日の選挙法制の出発点をなすものであったといえる。たとえば、今日では「選挙」といえば、すぐ「立候補」という言葉が連想されるようになっているが、この投票を立候補者に限定するという制度が立てられたのは、この25年普選法によってであり、それまでは被選挙資格を有する者なら、全国の誰に投票しても有効とする制度であった。したがって1人の政治家が複数の選挙区で当選することもありえたのであり、選挙法には当選人は「一人ニシテ数選挙区ノ当選 ヲ承諾スルコトヲ得ス」という規定が設けられていた。

  25年普選法によって新設された選挙運動規制は要約すれば次のようなものであった。

 

(1)

届出による立候補制、

 

(2)

選挙運動員を選挙事務長、選挙委員、選挙事務員の三種としてその数を限定、

 

(3)

前項の運動員以外のものの選挙運動(第3者運動)を演説と推薦状の発送に限定、

 

(4)

戸別訪問、連続した有権者個人との面接・電話などを禁止して、運動方法を不特定多数の大衆に対する言論・文書戦に限定したうえで、ビラ、ポスター、立看板などを規制、

 

(5)

選挙費用の最高限度を法定(その選挙区の有権者総数を議員定数で割った数に40銭を乗じた金額)


  ところで、のちの選挙法論議との関連で言えば、25年普選法は、右のような選挙運動規制と同時に、それを補うために、選挙運動に対する公的援助を制度化した点も重視しておかなくてはならない。この時にはまだ、選挙運動のため限られた数の無料郵便物をみとめる、公共施設を提供するという二つの措置にすぎなかったが、こうした措置は「選挙公営」と呼ばれ、選挙に関する新しい制度として注目されたのであった。

  要するに、25年普選法は、(1)選挙権の拡大、(2)選挙運動の規制、(3)部分的選挙公営の実現という三つの側面をもっていたのであり、以後の論議はそのいずれかの側面を発展させようとするかによって、その性格を異にすることとなるのであった。



選挙権拡張論の後退

 1930(昭5)1月、浜口内閣が、第2回普選の実施を前にして、選挙革正審議会を設置(実質的発足は総選挙後の4月)したのは、直接には選挙干渉や買収による選挙の腐敗や、選挙資金の膨張に対する汚職事件の頻発などに向けられた世論の強い批判をきっかけとするものであった。しかし内閣の態度及び審議会における討議が決して受身のものでなかったことは、審議会答申にもとづいて内閣が作成した選挙法改正案が、有権者の年齢を25歳から20歳に引き下げるという選挙権拡張を中心としたものであったことからも明らかであった。

  この案は、31年2月枢密院審査(選挙法は重要法案として枢密院の審査が必要とされた)の段階で強い反対がおこり、議会に提案されることなく廃案となったが、それは浜口首相狙撃事件(30・11)の衝撃と動揺によって、政府側に枢密院の反対を押し切るだけの力がなくなっていたことが大きな原因とされた。浜口狙撃事件は、ロンドン海軍軍縮条約をめぐる右翼からの攻撃の一環であり、以後こうした右からの圧力によって、権利拡張の主張は押し流されてゆくことになった。

  満州事変以後には、選挙権拡張は選挙法問題の主たる議題とはなりえなくなった。そしてそれに代わって登場したのが、選挙公営と比例代表制をめぐる問題であった。この問題はすでに選挙革正審議会でも論じられていたが、5・15事件を機として成立した斉藤内閣の時代となると、選挙法論議の中心議題に押し上げられていったのである。



選挙公営論と比例代表制

 5・15事件後の情勢の右傾化とともに、声高く唱えられるようになったのは、選挙公営論であった。選挙公営は前述したように、すでに25年普選法に選挙運動への公的補助のかたちで登場していたのであるが、この公営部分を拡大することが選挙の公平を保ち腐敗を防ぐことになるとする議論が次第に広い支持者を得るようになったのであった。そしてこの議論は公営部分を拡大しただけ、私的な選挙運動をせばめてゆき、結局私的運動を禁止することを公営の理想的状態と考えるという方向に発展していったのであった。

  斉藤内閣での法制審議会発足にあたって、すでに内務省警保局は個人の選挙運動を禁止する案を用意していると伝えられたが(東京朝日、32・7 ・3)、さらに32年9月28日の同審議会主査委員会では、「1、公営の主体―自治体がその主体となるか、国が主体となるか 1、公営の費用―候補者から徴収するか、全然負担させぬか」(同前、9・29)などの問題が論ぜられたといわれる。

  こうした選挙公営論のあり方は、結局のところ選挙の過程から政党の組織運動を排除しようとする方向を指し示すことになり、当然政党の側からは強い反発が生じた。この主査委員会でも当時内務政務次官の地位にあった斉藤隆夫が「選挙運動は議員候補者の権利」であり、したがって候補者 自身が行なうべきであって、国の官吏や自治体に委すべきでないと強く反論したと報ぜられた(同前)。

  そしてこの公営反対論の立場から積極的に主張されたのが比例代表制の採用であった。比例代表制そのものは技術的に言えば、選挙公営と両立しうるものであるが、その主張の精神から言えば、選挙運動や政党活動の自由を確保しながら、選挙費用の節減や選挙の公平を確保しようとするものであり、選挙公営論に対抗するものであった。この代表的論客も斉藤隆夫であった。

  しかし比例代表制が政党の地位を強めるとの反対も強く、斉藤らの活動で34年1月、選挙公営の強化とともにはじめて政府の選挙法改正案に比例代表制(選挙区ごとの候補者連合を基礎とする)を盛り込むことに成功したが、しかし結局再び枢密院に阻止されて日の目をみることなく終わって しまった。

  そして実際に成立した39年改正選挙法では、新たに選挙公報の発行、演説会場の設営などの面で公営部分が拡大された代わりに、選挙運動を 行なえる者が候補者のほかは選挙事務長、選挙委員に限定され(選挙事務員は運動を行なえない労務者とされた)、その数も50名から20名に削減されるなど、運動規制は広い範囲で強められ、罰則も強化されたのであった。



選挙法問題のファッショ的展開


 1935年入ると選挙をめぐる問題の様相は、まさに一変したといってもよかった。天皇機関説攻撃の国体明徴運動が吹き荒れているさなかの5月8日、岡田内閣は選挙粛正委員会令を公布し、秋の地方選挙を当面の目標として選挙粛正運動にのり出してきたが、このことは、これまでと異質の問題を選挙の過程にもち込むことを意味した。

  運動は知事を会長とし各界の地方名望家30名で組織される道府県選挙粛正委員会と、一応政府とは独立につくられた選挙粛正中央連盟とがタイアップして指導することとされ、「選挙報国」のスローガンのもとに、市町村段階からさらには部落段階にまで降りて粛正懇談会を開くことを目標とするものであった。粛正運動は選挙告示までで終わることとされたように、直接に選挙結果を左右することを目的としたものではなく、選挙を機会として、一時的にではあれ国民を組織し動員して同じ方向を向かせようとした点に、つまりは官僚主導の組織運動たる点をその特色とするものであった。そしてまた、成立間もない中央連盟が「全国の神官を総動員して部落における神社中心の粛正運動を依頼する」(東京朝日、35・6・23)という方針を立てていることからみられるように、それは明らかに国体明徴運動と相通ずるものであった。

  こうしてつくり出された政治的雰囲気のうえに、さらに2・26事件が起こり、軍部の政治的支配力が一層強まるとともに、改めて選挙法問題をこれまでと全く異なった観点からとりあげようとする動きもあらわれてきた。たとえば、36年10月28日の東京朝日は「制限選挙論の擡頭」と題する社説をかかげ、平生文相の「知識本位の一種の制限選挙論」や軍部の「家長若くは世帯主本位の選挙権制限説」が伝えられていることに注目している。

  この段階ではまだこうした主張は、具体的に論ぜられるまでになってはいないが、そこにはファッショ的なかたちでの国民再組織にあたって、何か独自の組織原理を持ちたいという欲求をみることができる。そしてそれが、選挙を利用する組織運動と結びつくことができたならば、日本ファシズムと選挙法の問題はもう一つ新しい展開を示したことであろう。

  しかし実際には、以後戦時下の選挙法改正は実現せず、選挙粛正運動に政府支持の目標を与えて選挙過程に割り込ませたような翼賛選挙運動が実現しただけに終わった。そこにはおそらく、制限選挙論の画く組織構想と、人間を物とみる総動員の論理との、こえがたい溝が存在していたように思われるのである。