『新修 大津市史』5 近代

1982年7月

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第1章 近代大津の出発

「歩兵第九連隊」




 

古屋哲夫

大阪鎮台大津営所
西南戦争

大阪鎮台大津営所
大阪鎮台の発足
徴兵令の実施
大津兵営の建築


大阪鎮台大津営所



大阪鎮台の発足

  明治4年(1871)の廃藩置県は、新しい中央集権国家をつくり出すことをめざした画期的な施策であったが、そのためには、「藩」の機構を廃止するだけではなく、「藩」を支えている古い軍事力を解体して新しい統一的な軍隊をつくり出していくことが必要であった。明治新政府は、戊辰戦争の勝利によって軍事的に優越した立場を確保することに成功したが、その内実は、討幕派諸藩の軍事力に依拠したものにすぎなかった。

  廃藩置県以前の新政府は、大まかにいえば、旧幕府領および佐幕派藩領を府県として直轄地に再編したが、討幕派およびそれに同調した諸藩に対しては、間接的な支配力しか及ぼしえない状況にあった。

  このような状況に対して、新政府は軍事面からはまず、(1)府県での兵員取り立てを禁止し、(2)有力藩兵を首都警備などに動員して申央からの指令権を強化し、(3)藩軍事力を中央からの規準によって画一化するという3つの方策を打ち出した。そのうち(1)は明治2年4月8日、太政官布告の形式で出されており、『滋賀県庁所蔵文書』のなかにも保存されている。その内容は、府県での兵員の新規取り立てを禁止するとともに、すでに取り立てられている兵員数を調査して、軍務官に報告するよう命じているものである。ただ、これに対して当時の大津県がどのような報告をしたかは、残念なから記録されていない。

  次に(2)については、明治3年2月20日兵部省から各藩に対して、常備兵の編成を、60名で1小隊、2小隊で1中隊、5中隊(10小隊)で1大隊とすること、石高1万石につき1小隊の割合とすることを命じているか、さらに、士族・卒族(元足軽・同心などの下級武士)以外から新たに兵員を取り立てることを禁止している点が注目される。この法令は諸県に対しても兵隊編成の規準として民部省より通達されているが(『滋賀県庁所蔵文書』では2月19日付)、同時に、先の兵員新規取り立て禁止のことをくり返し付言するとともに、すでに取り立てている兵員が減少することは「勝手」であると述べており、(1)・(3)の法令は旧来のやり方での軍事力の再生産をおさえようとする意図をももつものであったといえよう。これに従って、彦根藩では「砲隊一座銃隊八小隊ヲ編成シ、本藩常備兵」としたとされているが『府県資料彦根県史』、大津県での状況は明らかではない。

  こうして、旧来の軍事力の発展を抑制するとともに、(2)の問題として、薩長土(薩摩・長州・土佐の3藩)などの中枢となる軍事力を、自分の側にとり込むことによって、新政府は廃藩置県を強行しうる軍事的条件をつくり出したのであった。維新以来首都警備の主力はこれら有力藩から徴集した軍事力であり、それが薩長土三藩御親兵としてより強力に再編され、廃藩置県の断行を支えたのであった。

  この間新政府は、このような措置と並行して明治3年11月13日、徴兵規則を府藩県に布達し、「士族卒庶人」にかかわらず、20歳から30歳の強健な者を、1万石につき5人の割合で兵卒として差し出すことを命じ、新しい軍事力の編成に着手したが、結局期限を延期して実現に至らないままで終わっている。したがって、廃藩置県とともにとられた軍事的な措置は、すでに画一化が進んでいた藩や県の常備兵を、藩や県から引き離して、鎮台という新たな制度にとり込んでいくことであった。

  すでに廃藩置県より3ヵ月前の明治4年4月23日、太政官は追々全国に鎮台をおいて兵務を総括する方針を示すとともに、東山道鎮台(本営石巻、分営福島・盛岡)、西海道鎮台(本営小倉、分営博多・日田)の設置を布告した。このうち東山道鎮台開設のための実際的な措置はとられていないが、西海道鎮台については、翌4月24日、熊本・佐賀両藩に対して1大隊ずつの差し出しが命じられており、軍事制度再編の第一歩が踏み出されたのであった。

  鎮台制度の全国的拡大については、明治4年7月廃藩置県と同時に出された兵部省職員令に、東京・大阪・小倉・石巻・北海道の五管鎮台の構想が示されている。しかし実際には北海道は後回しにされ、明治4年8月20日には、東京・大阪・鎮西(当分本営は熊本)・東北(当分本営は仙台)の4鎮台の設置が布告された。そして各藩常備兵は、この鎮台に吸収されるもの以外は、原則として解体されていくこととなった。

  このときの大阪鎮台の組織をみると、本営の大阪が常備歩兵5大隊、第1分営小浜が常備歩兵1大隊、第2分営高松が常備歩兵1大隊とされており、北陸から四国までをその管轄下におくものであった。そして大津をふくむ近江の国は、小浜分営の管轄(その他若狭・越前・加賀・能登・丹後・但馬・因幡・伯耆)とされた。しかし、この小浜の第1分営は明治4年12月火災により焼失したため、同地駐屯の第18大隊は彦根城内に移転することとなった。

  ところで、この四鎮台制は、廃藩置県にともなう暫定的なものであり、明治6年からの徴兵令実施に際しては、同年1月9日の布告によっ て名古屋・広島に鎮台を新設し六鎮台制に拡張された。大阪鎮台は第4軍管とされ、その管轄のうち、北陸を名古屋に、四国・中国を広島に移管し、大阪・大津・姫路 (兵庫県姫路市)に営所をおくことになった。そして配備の兵力もこれまでの大隊単位から連隊(3大隊)単位と なり、各営所に1連隊、6鎮台14営所とされたから、総兵力は歩兵14個連隊を基幹とすることになった。同時に第一軍管(東京鎮台)より配備の連隊に番号が付され、第四軍管は大阪が第8連隊、大津が第9連隊、姫路が第10連隊と定められた(表8参照)。また第9連隊は大津の本営のほかに、津(三重県津市)と敦賀(福 井県敦賀市)に分営を置くことが予定され、その管轄は当時でいえば滋賀・敦賀(現福井県)・三重・度会(現三重県)の4県にまたがるものとなっている。隣接の京都府は第8連隊の管轄下におかれた。

表8 六管鎮台表

 

鎮 台

営 所

管轄府県




東 京

歩兵第一連隊
東 京

東京、神奈川、埼玉、入間(埼玉)、
足柄(神奈川、静岡)、静岡、山梨

歩兵第二連隊
佐 倉

印旛(千葉)、木更津(千葉)、
新治(千葉、茨城)、茨城、宇都宮(栃木)

歩兵第三連隊
新 潟

新潟、柏崎(新潟)、群馬、
栃木、長野、相川(新潟)




仙台城

歩兵第四連隊
仙 台

宮城、磐前(宮城、福島)、
福島、水沢(岩手)、若松(福島)

歩兵第五連隊
青 森

青森、岩手、秋田、酒田(山形)、
山形、置賜(山形)




名古屋城

歩兵第六連隊
名古屋

岐阜、額田(愛知)、浜松(静岡)、
筑摩(長野、岐阜)、愛知

歩兵第七連隊
金 沢

石川、新川(石川)、足羽(福井)




大阪城

歩兵第八連隊
大 阪

大阪、兵庫、堺(大阪)、和歌山、
奈良、京都

歩兵第九連隊
大 津

滋賀、敦賀(福井)、三重、度会(三重)

歩兵第十連隊
姫 路

飾磨(兵庫)、豊岡(京都、兵庫)、
鳥取、北条(岡山)、岡山




広島城

歩兵第十一連隊
広 島

広島、小田(岡山、広島)、島根、
浜田(島根)、山口

歩兵第十二連隊
丸 亀

香川、名束(徳島、兵庫)、高知、
神山(愛媛)、石鉄(愛媛)




熊本城

歩兵第十三連隊
熊 本

白川(熊本)、八代(熊本)、鹿児島、
都城(宮崎)、美々津(宮崎)、大分

歩兵第十四連隊
小 倉

小倉(福岡)、福岡、三潴(福岡、佐賀)、
佐賀、長崎

(注) 1.( )内は現在の県名。2.『法令全書』による。


  といっても、これらのことはこの段階では「六管鎮台表」に記された予定にすぎず『法令全書』、大津の第9連隊にしてもこれから兵営をつくり練兵場の建設を始めるというものであり、また兵力にしても徴兵実施3年後にようやく連隊規模に達するという目標にほかならなかった。彦根の第18大隊はその後もしばらく駐屯 し、明治6年5月になって伏見に移転している。なお、同大隊のその後に関しては『明治軍事史』に「旧第一八大隊及び旧第8大隊の壮兵」と明治7年時の徴兵者で第3連隊を編成したという記事がみられる。



徴兵令の実施

 ところで、すでに幕末には、武士の個人的武技に頼る封建軍隊が時代遅れとなっていることは幕府側にも討幕雄藩側にも明らかになっており、明治新政府も、身分にとらわれずに強健な若者を集め、集団的に訓練するという新しい建軍方式をとろうとしていたことは、前にふれた明治3年(1870)11月の徴兵規則からもうかがうことができる。しかしその実現のためには、藩権力を解体して、人民を直接に把握しなければならなかった。廃藩置県後の明治政府は、まず人民把握の基礎としての戸籍制度の完成につとめ、続いて徴兵制度の実施に踏み切ったのであった。

  明治5年11月28日、全国徴兵の詔勅が発せられ、翌6年1月9日(明治6年から太陰暦が太陽暦に改められたため、明治5年12月3日が明治6年1月1日となった)、先の六管鎮台制が布告されると、その翌日の1月10日にいよいよ徴兵令が発せられた。その内容は、全国の17歳から40歳までの男子をことごとく国民軍として兵籍にのせ、そのなかから20歳の時点で身体検査を行ない強健な者を常備軍3年、第1後備軍2年、第2後備軍2年の兵役に服させるというものであった。しかしこの画一的兵役の原則とともに、きわめて広い範囲の免役制度を同居させているのが、この最初の徴兵令の大きな特色であった。

  すなわちここで常備兵役を免除されたのは、「官省府県ニ奉職」の官吏、軍学校・官立学校の学生などのほかに、「一家ノ主人タル者、嗣子並ビニ承祖ノ孫、独子独孫、父兄二代ワリ家ヲ治ムル者」などに及んでおり、「家」制度の確立・維持を兵員の確保より優先させようとするものであった。また、代人料270円を納めれば、常備・後備兵役ともに免除されるという特殊な制度もつくられていた。

  次に徴兵手続きの実際をみると、まず戸長が徴兵適齢者を調査すると同時に、それらの者から免役条項該当者を区分し、その報告に基づいて府県で徴兵連名簿と免役連名簿を作成する。そのうえで、2月15日から徴兵使(陸軍中佐または少佐)が府県を巡回して、知事・県令と協議して徴兵署・検査場を開設し、戸長は適齢者を引率して検査をうけさせる。そして検査合格者が徴兵予定人員より多い場合には抽せんを行なって徴兵者を決定し、4月20日から5月1日までの間に入営させるというものであった。また当初の計画では、1年間の徴兵人員1万480名、3年間で3万1440名の常備軍をつくるというものであり、そのうち第四軍管大阪鎮台は、歩兵3連隊・砲兵2大隊・工兵2二小隊・輜重兵(兵糧・武具などの運搬を担当)1小隊・海岸砲兵2隊、定員6700名。したがって1年の徴員2230余名の予定であった『太政類典』第二編第二一七巻。

  しかし徴兵令が公布されたといっても、早速明治6年から全国一斉に徴兵が実施されたわけではなく、こ の年は東京鎮台のみで、翌明治7年に名古屋・大阪鎮台といったように漸進的な実施方式がとられたのであった。その間、鎮台兵の補充には志願兵の募集の方式が行なわれており、以後西南戦争が終わるまでは、徴兵と志願兵募集とが並行して行なわれた過渡的な時期であったということができる。滋賀県の場合をみても、東京鎮台管下の徴兵手続きが始められた明治6年2月22日には、大阪鎮台兵補欠のため入隊希望者を募るようにとの指令が、県庁から犬上郡第1〜10区・滋賀郡第2区・甲賀郡第4区・高島郡第11区に達せられている。募集対象は20歳から30歳までの身体強壮で「自家ノ産業二於テ故障ナキ者」とされた『府県資料滋賀県史』40。このような志願兵は、旧藩時代からの士族兵と合わせて「壮兵」と呼ばれたが、最初の徴兵が実施された直後の明治7年6月23日には、早くもそれを補充する壮兵募集が、年齢を21歳から35歳に広げて、滋賀県下でも行なわれている。また、その2カ月後の8月25日には、東京鎮台の工兵のための壮兵募集も行なわれた。

 滋賀県下の最初の徴兵は大津に徴兵署、彦根・八幡に検査場を開設して明治7年3月に身体検査、4月に抽せんが行なわれているが、何名が検査をうけ、何名が合格し、何名が入営したのか、ということになるとはっきりしない。明治8年3月25日、県参事龍手田安定より太政大臣三条実美宛に提出された「明治七年政表」には常備兵567人(士族23人、農480人、商18人、エ17人、雑業18人、僧11人)、徴兵代人料上納人員7人(農3人、商4人)という数字が示されている『滋賀県庁所蔵文書』。ところが『府県史料滋賀県史』40では明治7年兵員として、壮兵131人、徴兵311人(歩兵289人、砲兵22人)と記録している。また、『太政類典』にある明治6年3月作成の「六管鎮台徴集兵旅費概計表」では滋賀県302人と予定されており、『府県史料』の数字に近い。おそらく「政表」の数字は、たんに徴兵のみでなく壮兵をも合んだものだったのではあるまいか。さいわい『府県史料』には以後の数字も示されているので、一括して表示してみよう。なお「壮兵」について記されているのは明治7年のみであるので省略した(表9参照)。

表9 滋賀県の徴兵人員

明治

歩兵

砲兵

工兵

輜重兵

その他

合計

7年
8年
9年
10年
11年
12年
13年
14年
15年

289
72
156
206
136
413
154
168
161

22
13
13
21
13
50
14
9
13

-
4
6
11
5
22
7
6
-7

-
-
1
2
1
4
1
2
2

-
-
-
-
-
-
168
60
86

311
89
176
240
155
489
344
245
269

(注) 1.『府県史料滋賀県史』による。
2.「その他」は新設された輜重輸卒。


  ところでこの表9にみられるように徴兵数は年ごとに大きく変動し、安定した兵員数を確保しがたい状態が続いているが、このことは免役条項を利用した徴兵忌避の傾向か広く存在したことと関連していた。たとえば明治10年2月1日、太政官は陸軍省からの奏議に基づき、府県に対し徴兵忌避の防止をはかるよう指示しているが、そのなかでは種々の忌避行為をあげて「是レガタメ遂ニ定員ノ不足ヲ生ズルニ至リ不都合少ナカラズ」と述べて徴兵制度の運営が困難になっていることを認めねばならなくなっていた『太政類典』第2編第218巻。

 第四軍管では、この傾向がとくにいちじるしく、徴兵人員の減少と免役人員の増加とは表10のように記録されている。免役理由のうち、最も多いのは「嗣子並ビニ承祖ノ孫」であり、「戸主」がこれに次いだ。第四軍管明治10年の場合をみると、前者が3万1320人、後者で1万9775人、これだけで5万1095人となり、免役者総数5万3595人の95パーセントを越えている。そしてこのことは、養子縁組・分家・絶家相続などの方法によって、戸主や嗣子の地位を得ることが、徴兵逃れの有力な手段とされていたことを物語っている。  

表10 第4軍管徴兵簿・免役簿人員
年次 徴兵簿人員 免役簿人員

明治7年
8年
9年
10年
11年

10,715人
6,999 
6,826 
6,061 
2,656 

45,348人
50,672 
49,911 
53,595 
64,977 

(注) 『太政類典』 第3編第49巻より。

 
  滋賀県の場合にも、最初の徴兵実施が近づくにつれて、これらを理由とする免役願出が続出しており、県庁も陸軍省に伺いを立てたうえで明治7年2月14日、「自今年齢相当召集相成ルベキ者、養子縁組・絶家相続・分家等ノ儀ハ一切相成ラザル義ト相心得ベク候事」として、改めてこれらの願出をしりぞける旨の布告を出さねばならないありさまであった。以後、徴兵令改正のたびごとに免役条項がせばめられていったが、 明治22年の改正で「家」に関する免役制度が全廃されるまで、「家」制度を利用する徴兵逃れは大きな社会的問題となっているのであり、『滋賀県庁所蔵文書』にも、免役条項の適用をめぐる疑義や、それに対する中央からの指令が数多く残されている。



大津兵営の建築

 ところで大津に歩兵第9連隊を駐屯させることを正式に決定したのは、前述した明治6年(1873)1月9日の「六管鎮台表」であるが、大津に軍事的拠点を置こうという構想は、すでに維新直後からあらわれていた。すなわち、慶応4年(1868)4月11日には軍防局より園城寺(園城寺町)に対し、御親兵屯所造営のため同寺地所1万坪を借り上げる意向か示され、寺側は同月17日に請書を提出している。そしてその3日後の4月20日には、早くも新政府の軍事指導者である四条隆謌と大村益次郎が10名ばかりの随行者を率いて園城寺を実地見分し、所要の地所に杭を打たせている『滋賀県庁所蔵文書』。

  しかしこのときは、兵営造築は実現せず、この土地は民部省の管轄に移された。実際には大津県が管理していたが、このような経緯は、将来の軍隊駐屯地として大津が早くから注目されていたことを物語るものであろう。 「六管鎮台表」公布後、明治6年4月になると、軍当局 は改めて大津での兵営建築のための具体的な動きを再開。 同年5月付の『琵琶湖新聞』第9号にも、「滋賀郡園城寺元境内ニ於テ歩兵営築造ノ儀、陸軍省第四局仮出張所ヨリ当県ヘ沙汰アリシ由」と報じられている。しかしこのとき陸軍側は先の1万坪に加えて、さらに2万坪余を必要とするとした。結局9月20日になり、古陵の申し伝えのある亀丘(現弘文天皇陵)周辺2500坪を除いた2万9300坪を陸軍省に引き渡すよう太政官から滋賀県に対し指示されている。そしてこの亀丘も陵墓の証拠は見当たらないとして、教部省も軍用地とすることに同意、12月23日には陸軍省への追加引き渡しが認められた『太政類典』第2編第213巻。これによって軍用地は3万1800坪となった。

 また土地と同時に、立木も引き渡されており、明治6年10月7日付で、滋賀県より陸軍省第四局大津経営部宛に提出された「引渡目録」によれば地坪2万9300坪、木数804本とあり、その内訳は松81本、杉209本、檜387本、雑木127本となっている『滋賀県庁所蔵文書』。

 兵営の建設はこの地方での最初の徴兵(明治7年)には間に合わなかったが、翌明治8年には完成、第9連隊は3月8日ここに移転してきた。この間明治7年8月15日には、別所村を中心に2万3504坪を練兵場とすることが決定されているが、以後も大津営所は次々と拡張されていった。明治9年6月9日には、「別所村官山ノ内五別所」において1095坪を弾薬庫と道路用地とすること、同年11月6日には大津町北側官山と真直谷・弥勒谷民有地合計1万1100坪を射撃場用地とすることなどが決定されている『太政類典』第2編第213巻。

  ところで、六管鎮台制による大隊から連隊への編成替えは、東京鎮台から順次行なわれており、東京鎮台では明治7年2月、名古屋鎮台では3月、大阪鎮台では5月に連隊が編成されている。 いずれも壮兵と徴兵との混合であり、第9連隊を みると、旧第5大隊と新徴兵によりとりあえず2大隊で発足している。旧第5大隊は鳥取・豊岡(現兵庫県)・北条(現鳥取県)・足羽(現福井県)・石川の5県の壮兵であり、大阪備前邸に駐屯していたが、これを第1大隊とし、新徴兵を第2大隊とする形で歩兵第9連隊が成立したのであった。初代連隊長竹下弥三郎陸軍中佐。明治7年12月18日、大阪鎮台の他の連隊(第8・第10連隊)とともに軍旗が授与され、授与式における連隊旗手は陸軍少尉古川治義と記録されている『明治軍事史』。以後、第9連隊では毎年12月18日に軍旗祭が開かれているが、その際には市民参加で種々の催しがなされた。たとえば時代は下がるが、明治26年の12月18日には「中隊ヨリ種々ノ作リ物ヲ致セリ。又、練兵場ニハ競争馬アリ。凡馬数五拾頭計リ。 又、北隅ニハ花火ヲ打チ掲ゲラレタリ。凡昼夜三拾発程」といったありさまで、この他滋賀県商業学校では 「風線(船)」が掲げられたり、兵営内では兵隊が役者になって芝居をしたり、また病院内では仕舞・狂言かあるなど、にぎやかな一日であったようだ『松本てる子家文書』。  

  こうした鎮台の内実をなす連隊の編成と、予定された駐屯地への定着は、廃藩置県に対応する軍事制度の成立を意味するものであったが、大津の歴史にとっても、第9連隊の駐屯は一つの画期をなすものとなったといえよう。

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