『日本史研究』252号 

1983年8月

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栄沢幸二著『日本のファシズム』


 

古屋 哲夫



 本書は、日本ファシズムの問題を、思想の面に限定し、内田良平・大川周明という二人の人物に代表させるという形で検討しようとしたものである。

  ところで、現在のファシズム研究の状況をどうみるかについては、種々の見方がありうるであろうが、私は、これまでのファシズム論の枠組みの脆弱さが色々な面で明らかになり、従って、その枠組み自体を問い直そうとする気運が、広く研究者の間に広がっている点に特徴があると考えている。つまり現在、ファシズムの問題を論ずるとすれば、いかなる側面から論ずるにせよ、“ファシズムを捉えるためにはどのような枠組みが必要なのか”という問題を避けて通ることはできないような状況になっていると思うのである。

  本書の場合にも、著者は『日本のファシズム』を何故、内田と大川で代表させることができるのか、という点については何も説明していないが、しかし、それが一定のファシズム観による選択であることは明らかであろう。私の関心からすれば、まず、この点についての著者の意見をきくことから始めねばならない。

  本書は、1ファシズムの流れ、2日本ファシズムの源流−内田良平、3急進ファシスト大川周明、4道義国家観、5改造論、6対外政策、7むすび、という構成をとっている。つまり2で内田良平、3〜6で大川周明を扱い、その前後に、ファシズム概観とむすびをつけるという形になっているが、著者はまずこの最初の部分で「さしあたりここでは、ファシズムを、第一次世界大戦後の資本主義の全般的危機の段階において、社会主義運動や民族解放闘争・デモクラシー運動などに対抗してあらわれた反革命運動とみなすことにしたい」(21頁)と述べている。そしてこの「対抗してあらわれた反革命運動」というファシズム規定から、ファシズム思想を「対抗イデオロギー」として特徴づけようとする。とくに著者は日本の場合には、ファシズム思想が「大正デモクラシーにたいする対抗イデオロギー」(6頁)として出発した点を強調される。

  これが著者のファシズム思想に対する第一の定義であるが、次にこのファシズム思想における「対抗」の立脚点をナショナリズムとみ、「ファシズムはナショナリズムの一形態」(7頁)「ファシズム=超国家主義=ウルトラ・ナショナリズム」(205頁)という第二の定義を引き出してくる。さらにナショナリズムについては、「ナショナリズムとは、一言でいえば、民族の統一・独立・発展を企図するイデオロギーならびに運動を意味し、その本質は民族ないし民族国家のエゴイズムにある」(7頁)とされ、また「ウルトラ・ナショナリズムの特質」は「民族国家のエゴイズムの、無制限・野放図な発現」(104頁)にあるともいわれる。そして日本ファシズムは、ナショナリズムという点で、明治以来の伝統的国家主義との連続性をもっていることも強調される。

  つまり著者は、日本のファシズム思想の成立過程を、明治以来のナショナリズムが対抗性・反革命性をもつことによってウルトラ化してゆく、という図式で捉えているようである。そして明治以来のナショナリズムが、対抗性・反革命性を契機としてファシズムに転ずるという問題を内田良平によって、そのナショナリズムのウルトラ性を大川によって代表させようというのが本書の意図であるように思われる。

  しかしこうした形でファシズム思想がとらえきれるかという点になると、著者自身も何かもの足りないと感じられているようである。というのは、「擬似革命」という言葉が、形容詞的に使われているからであり、そうした形でナショナリズム=ファシズム論を補う必要を感じられていたと思われるからである。2、3の例をあげてみると「従来の対外膨張をめざす国家主義運動を、擬似革命的なファシズム運動に高める」(27頁)、「かれら(急進ファッショ)の運動は、ドイツやイタリアのそれのように擬似革命的な大衆運動にまで発展することはなかった」(34頁)、「現状否定の擬似革命的な改造論」(75頁)、「クーデターによる国家改造という擬似革命の論理」(163頁)などといった具合である。つまりファシズムの運動や思想をその他のものから区別する指標として擬似革命性をとりあげることが必要と考えられているようではあるが、しかしその具体的内容は何も説明されていないのであり、従って思想のファシズム性検出のために利用されているともいえない。しかも擬似革命ということは、ナショナリズムという捉え方の枠のなかには入らない問題であるし、反革命ということとも異なった問題であろう。この点が明らかにされていないため、著者のファシズム観は著るしくあいまいになっているといわざるを得ない。

  同様な問題はファシズム「思想」とファシズム「体制」の関係をどう捉えるかという点にもみられる。著者は「日本のファシズム体制は、この大政翼賛会の成立によって一応完成したとされている」(37頁)と通説に依拠した書き方をされているが、若しこの説を支持されるのならば、この完成したファシズム体制と、著者のいうファシズム思想との関連が示されねばならないのではないか。「大政翼賛会の成立」とは国民組織の問題であり、「民族国家のエゴイズム」としてのナショナリズムといった枠組ではとらえられないように思われるのである。

  そこで、以下主としてファシズム論の枠組みという観点から本書を検討していくことにしたい。

  ところで本書の大きな特色の一つは内田良平をファシズム思想史のなかで大きく取り上げたことであろう。これまで内田は、ファシズム以前の旧右翼の代表とみられてきたのであるが、しかし彼が、1931年、満州事変前夜に結成され、42年東条政権のもとで解党するまで右翼政党のうちで最も長い生命を保ち、ファシズム化の過程のなかで活躍してきた大日本生産党の初代総裁に就任していることをみれば、内田が日本ファシズムと深い関係を持つことも否定しえないであろう。著者はこの二つの側面を合せ捉えることで内田を「日本ファシズムの源流」と位置づけようとする。

  それは明らかに田中惣五郎の最初の北一輝論である『日本ファシズムの源流』を意識したものであり、北を「源流」とする田中以来の根強い意見への批判をこめたものでもあったのであろう。著者は北は日本のファシストのなかで「特異な存在」(164、211頁)だったことを強調し、北をもって日本ファシズムの出発点を代表させることに疑問を呈し、代りに内田良平を源流の地位に押し出すのである。

  北の問題はあとでふれることにするが、ここで著者は、内田が明治以来の国家主義を持ちつづけながら、同時に「大正デモクラットを主要な敵」(63頁)として国内改造を唱えることによって、ファシストに転化していったという点を強調されているようであり、次のように記述している。「第一次大戦後、昭和のファシズム期にかけての内田良平は、従来の日本帝国主義のアジア侵略の先兵として、その精力を注ぐだけでは、対外膨張の目的を達成できない、対外問題を解決するためには国内改造が不可欠だという、急進ファシストの共通の認識でもあった見解に到達し、現状否定の擬似革命的な改造論を提唱するようになったのである」(75頁)。つまり、著者は対外侵略の欲求と国内改造の要求とが結びついた点に、ファシズム思想の成立をみようとするのであり、内田の場合には、その両者を媒介しているのは大正デモクラシーへの対抗だというのである。それは久野収の「国内改革を対外国策にむすびつける本格的超国家主義の主張」(『現代日本の思想』123頁)という指摘を基本的なところでうけつぐものといえよう。

  しかし本書でも述べられているように「改造論」は、第一次大戦後の流行思想であり、著者もそれを@社会主義者の改造論、A大正デモクラットの改造論、Bファシストの改造論に3分類されているのであるが(141頁)、このファシストの改造論の特徴は、前述のような「擬似革命」性や、「反民主主義、反社会主義、反平和主義、反米英協調主義、反政党政治のスローガン」(72頁)といったものでしか説明されていない。著者が内田の思想について具体的に述べているのは、国体論、改造論の二つの問題についてであるが、それは国体論を基礎にした改造論という形で、内田のファッショ性を示そうという意図によるものであろう。しかし内田における「忠孝の親子主義」についての説明に続いて、次のような問題を出されてくると、思想のファッショ性をどう認定するのかという点は、いよいよ混とんとしてくるように思われるのである。

  「内田の忠孝の観念は、ファシズム期における国民教化の正統イデオロギーとして文部省から出版された『国体の本義』の説くそれとは、性格を異にする一面をもっていた。なぜなら後者は天皇にただひたすら随順奉仕するという意味の忠をつくすことが、孝だという忠孝一本の論理をもっぱら強調していたのにたいして、内田は忠を君・臣の両者が果たすべき総務的なものだと主張していたからである」(66頁)。とすれば、文部省『国体の本義』のファッショ性と、内田の国体論のファッショ性とはどんな関係になるのであろうか。

  また内田の改造論については、『対外国是樹立の急務』によって説明されているところが多いが、この著書名は、黒竜倶楽部編『国士内田良平伝』初秋の「内田良平主要論文並に著作年表」に見当たらない。しかし類似のものとしては「対外国是国策樹立の必要と皇道による世界統一の私見」があり、あるいはこれと同内容のものなのではあるまいか、若しそうだとすれば、このパンフレットは、『大日本生産党十年史』によれば、1933年9月に内田が執筆し党員に配布した「国是及国策私案」をもとにし、さらに翌34年8月21日、「約40頁の小冊子」として発行したものということになる。何故こんなことに固執するかといえば、このことが内田の改造論が、大正デモクラシーへの対抗なのか、満州事変後、とくに国際聯盟脱退後への状況の対応なのか、という問題にかかわってくると考えるからである。つまり、内田の改造論がもし後者だとすると、内田は大正デモクラシーへの対抗からは直接には改造論を生み出さなかったということになり、内田を日本ファシズムの源流とする著者の想定は崩れてしまいそうに思われるのである。

  なるほど内田は、加藤高明内閣が陸軍軍縮と普通選挙を実現したことをもって「国難来る」と叫んだことにみられるように、典型的な大正デモクラシーへの反対者だということができる。しかし彼がこのとき書いたパンフレット『国難来』(大正14年8月1日、黒竜会本部発行)にしても、欧化主義に反対し、国民の精神的解体の危機を訴えるという一般論に力点があり、具体的問題としては「家族制度は国民共存の大本」とする立場から、個人本位の普通選挙制に反対して、家族主義にもとずく家長選挙制を対置しているのみである。つまりそこから国家改造といった問題が発想されたとは考えられないのである。

  同じことは、大川周明についてもいえる。著者は大川の改造論を1932年の『経済改革大綱』で代表させているが、そのことは、満州事変以前には大川も、具体的な改造プランを提示してはいなかったことを意味しているにちがいない。大川の主宰した行地社の機関紙「月刊日本」をみても、実践的な目標が掲示されるようになるのは、1929年に入ってからであり、以前には、精神論・道徳論・文明論などを中心とするものであった。

  では大川の思想は、どのような点でファシズムと認定されるのであろうか。内田についてはこの問題について前述したような形で答えている著者も、大川についてのこの問いはまったく予想もしていなかったようにみえる。著者は、大川について1919年「本格的なファッショ団体ともいうべき猶存社を結成」(85頁)し、1924年には「行地社を創立、翌年4月には機関誌『月刊日本』を創刊(昭和7年4月終刊)して、急進ファシズム運動を展開した」(89頁)という書き方をしているが、そこでは大川がファシストであり、猶存社や行地社がファッショ団体であることは自明の前提とされているように思われるのである。そしてその前提の上に立って、大川の道義国家観・改造論・対外政策論などが述べられているといわざるをえない。しかしそのなかに、「大川周明は少なくとも大正期にかんする限り、共産主義を主要な敵とみなし、これにたいする対抗イデオロギーとして、その理論を構成したわけではないことをあらためて強調」(190頁)しなければならない、というような問題があるとすれば、大川におけるファシズムの成立という問題もあらためて問われなければならなかったのではなかろうか。そしてそれは、大川の思想は、日本のファシズムの思想をどの程度、代表しているのか、という問題につらなっているように思われるのである。

  ところで、これまで指摘してきたような問題はいずれも、つきつめてみると、ファシズム思想を、ファッショ化過程という「状況」から切り離して、ファシズムに近いと思われる「人物」の思想から明らかにしようとする本書の方法にかかわっているように思われてくる。つまり、ヒトラーやムッソリーニのような、その国のファシズムを一人で代表できる人物を欠いている日本の場合には、ファシズム思想は、なによりもまず、「ファッショ化過程を推進した思想」として捉えることが必要であり、人物や思想を状況から切り離すと、そのファッショ性を認定することができなくなってしまうように思われるのである。

  いいかえれば、日本のファシズムは、さまざまな政治的・社会的・文化的な力の合成・集積の結果として生み出されてきたものであり、ファシズムの形成・発展のそれぞれの段階に応じて、さらにはまた、思想・制度・組織などのそれぞれの側面に応じて、その推進力はさまざまに異ったものと考えねばならないということである。従って、人物や思想におけるファッショ性の評価は、それらが、ファッショ化過程のどの段階で、どの側面において、どれほどの力を発揮したのか、という形でなされねばならないのではあるまいか。

  例えば、さきの北一輝の問題についていえば、北の思想が、完成期の日本ファシズムの思想からみて特異のものであったことは、著者の指摘される通りであり、従って実際にも二・二六事件以後には、彼の思想を抹殺することが、その後のファシズム思想の一つの条件となっていたといってもよいであろう。しかし日本ファシズムの形成期にあっては、彼の「日本改造法案」がのちのファシズムに向う一の起点をつくりだしたことも確かである。もっとも、この場合にも、北だけが起点であったというわけではない。北の影響力は、国際的在り方まで含めた既存体制への攻撃の仕方を、衝撃的な形で提示した点にあるのであり、のちのファシズム体制の柱となる国体イデオロギーをつくりだすという点では、大川の方がはるかに大きな役割りを果したとみるべきであろう。従って大川は、完成期のファシズムのなかでもなお大きな地位を保ち得たのであるが、しかしそこでの問題は、理論的にみて大川の方が北よりファッショ的であったかどうか、という点にあるのではなく、内田良平らを中心とする右翼勢力が、北よりも大川の国体論に共鳴する方向により大きく動いていたという点に求められねばならないであろう。

  また、こうしたファッショ化過程との関連という観点からみれば、本書が重視している「改造論」の問題についても、ちがった側面が見えてくるように思われる。本書で説明されている内田や大川の改造論が、いずれも満州事変後のものと考えられることはすでに述べたが、彼らのものばかりでなく、ファッショ化につながってくる右翼団体の改造案のほとんどすべてが(北一輝を例外として)、満州事変後につくられたことは、『現代史資料D国家主義運動(2)』に集められた資料からも推測することができる。このことは、ファッショ化過程が一定の進展をみせた段階になってはじめて、改造案作りが一種の流行を示したということ、逆にいえば国家改造の具体論は、一定の段階に至るまでは、日本のファッショ化にとってさしたる推進力となりえなかったということをしめしているのではないか。そしてそれは、日本の場合には、改造の具体化・組織化の側面では、彼ら右翼勢力は有効な働きをなし得ず、官僚勢力に主導権を握られていたということであり、より一般的な形でいえば、国体イデオロギーによる自主性の解体過程と、総動員を目指す組織化とが、別々の勢力によって担われていたということでもあろう。改造論の性格も、結局はこうした日本のファッショ化過程の特殊なあり方との関連ではじめて、明らかにされてくることのように思えるのである。

  このようにみてくると、ファシズム論の枠組みとしては、著者が強調している対抗イデオロギーやウルトラ・ナショナリズムなどの問題よりも、著者が展開しないままに放置している擬似革命性とか、国民組織などの問題の方が重要だと考えざるを得なくなってくる。最も擬似革命という規定はその内容があいまいであり、従ってそのままで有効であるとは思えないが、それがいわんとしている既成秩序への攻撃性の問題は、ファシズム論にとって重要であろう。

  結局のところ、ファシズムとは、支配の特殊なあり方という観点を軸としなければ捉えられないのではなかろうか。本書のようにウルトラ・ナショナリズムと規定してみても、そのウルトラ化がどんな形でどんな程度まで進んだときファシズムになるのかという具体的な指標は、ナショナリズムの側からはつくりえないように思われるのである。いいかえれば、ファシズムの問題は、既存体制への攻撃を、個人の自主性を解体させるところまで徹底させようとする(従って、個人主義が悪の根源とされる)破壊的側面と、そこから出てくる抵抗力を失った国民を画一的に組織し動員しようとする側面とから成るファッショ化過程を中心に据えなければ、捉ええないと私は考えている。

  本書で多用されている「上からのファシズム」「下からのファシズム」「急進ファシズム」などの用語にしても、ファッショ化過程のそれぞれの段階や側面における役割の問題に還元し、再検討することが必要な時期が来ているのではあるまいか。