『日中戦争史研究』

1984年12月

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日中戦争にいたる対中国政策の展開とその構造



古屋 哲夫



表紙

1盧溝橋事件における「拡大」の構造
1現地部隊長の行動基準−「拡大」の第一段階
2定式化された現地交渉−「拡大」の第二段階
3現地解決による中国中央の排除−「拡大」の第三段階


1蘆溝構事件における「拡大」の構造



1 現地部隊長の行動基準−「拡大」の第一段階

 蘆溝橋事件が拡大する最初の分岐点は、演習中に発砲されたという一箇中隊(清水節郎中隊長)が次にどう行動するか、という問題にあったように思われる。例えば、発砲による損害がなく(当初行方不明かと思われた兵一名は間もなく 帰隊し、斥候訓練中に方角を誤ったものと判明している)、中隊が安全であることが確認されたならば、深夜の現場附近に待機することなく、原駐地(豊台)に引きあげてしまうことも可能であった筈である。事件に関する責任の所在や真相の調査などについては、夜があけてから、渉外機関を通じて行えばよいことではないか。清水中隊長もこのとき、対応策の1つとして「兵全員の集合が終ったら、情況に拘泥することなく直ちに部下を率いて豊台に帰る(1」ことも考えたという。もしこのことが実行されていたとしたら、この事件が戦争に発展することはありえなかったであろう。 従って、このときの中隊長の選択を拘束していたものを明らかにすることが、事件拡大の謎を解く最初のかぎとなるわけである。

  情水中隊長はこのとき、「シナ軍に乗ずる隙を与えず、かつ上司の決心処置を容易にする」ことを行動の基本方針としたが、その具体化にあたっては次のような問題に迷ったという。「すなわち上司の決心処置を容易ならしめるためには、シナ軍発砲の証拠を得、少なくともシナ軍との触接を緊密にすることが望ましく、また上司の指示あるまで事件を拡大せぬことも大切である。これがため俘虜を捕えあるいは斥候を巡遣してシナ軍の動静を捜索するなどの積極行動は、まずくすれば過早に戦闘を惹起し、不測の損害を招き、あるいはシナ軍の術中に陥りかえって上司の意図 に反する結果となるおそれが多分にある (2」などと考えたというのである。

  ここで清水中隊長は、(1)上司の決心処置を容易ならしめる、(2)岡事件を勝手に拡大してはならない、という二つの判断の基準を持っていたことになるが、(2)は(1)のための行為の行き過ぎから起ることをおそれているのであるから、結局同中隊長の選択を拘束していたのは(1)の規準にほかならなかった。ではその「上司の決心処置を容易ならしめる」 とは何を意味するのかといえば、そのためのものとしてあげられている「シナ軍発砲の証拠を得」るなどの行動は、 いずれも中国側との交渉にあたって必要なものであり、従って、それらは、以後の軍上層部による中国軍との交渉を 有利にするような条件をつくり出すということにほかならないであろう。そして清水中隊長は、ともかくも発砲の可能性のある中国軍と接触を保つ(=逃がさない)ために、中隊を現場に集結、待機させることになるのであった。

  いいかえれぱ、このことは、この種の事件は外交機関などに頼ることなく、現地軍自身がその軍事力を背景としながら、当面している中国軍との間で解決するものだ、というイメージが中隊長レベルにまで滲透していたことを示すものと云えよう。それは当時「現地解決」と呼ばれていた方式であったが、しかし「現地」といっても、中隊などが交渉解決の主体となるのではなく、問題を解決するのは上司であり、最終的には「軍」であるとするところから、勝手に拡大してはならないという第二の規準が生ずるのであった。従って清水中隊長は一定の方式による現地解決を念頭におきながら、そのために何をなすべきかを考えたということになるのであるが、その点では上司の方も同様であ った。

  当時清水中隊長が属していたのは、日本側の正式呼称で云えば、支那駐屯軍(ほぼ三十六年前の1901年9月7日調印の義和団事件最終議定書を駐屯の根拠とする軍隊)歩兵第一聯隊第三大隊(一木清直大隊長)であったが、事件の報告を 受けた牟田口廉也聯隊長は一木大隊長に対し「現地に急行し戦闘準備を整へたる後、盧溝橋城内に在る営長を呼出し交渉(3)」すべしと命じた。それは戦闘体制をとった軍事力を背景とすることで、以後の交渉を有利にしようという意図を示すものであり、一木大隊長もこの役割は十分に心得ていた。

  深夜の道を現場に進出した一木大隊主力は、8日午前2時すぎ、待機していた清水中隊を吸収、3時過ぎにはさらに盧溝橋城に近い一文宇山に進出しているが、この頃には中国側との交渉は北平(南京を首都とした国民政府は北京を北平と改称)特務機関が中心となって始められており、一木大隊はこの交渉に圧力をかけるための軍事力という役割を 担うことになった。

  そこでまず一木大隊長は、午前3時25分頃、中国軍方向から三発の銃声が聞こえたのをきっかけに、これをもって中国側の抵抗を示すものと判断し、牟田口聯隊長に電話で、盧溝橋誠に一撃を加えねば以後の交渉は進捗しないのではないかとの意見を具申、午前4時20分、牟田ロもこれを認めて攻撃を許可したという。しかし、一木はさらにその直後、中国側第29軍顧問桜井徳太郎少佐と会い、中国軍上層部は中国軍の駐屯は蘆溝橋城内のみであり、城外には配兵していないと主張しているとの情報を得たのであり、彼が早期攻撃を決意したのはこの時であった。 すなわち、事件当初より、日本軍への発砲は、城外の永定河堤防上の中国兵からなされたものと考えられていたが、 一木は、この中国兵が城内に引込められてしまうと「事件の証拠がことごとく湮滅されてしまう」(4)のではないか、そのような事態を避けるためには「一刻も速やかに攻撃を開始」する以外にないと考えたのであった。そこには「発砲の証拠を得」たいというさきの清水中隊長と同様の発想があるわけであるが、ここではついに、戦闘を交えることによ って中国兵の存在を証明するという乱暴な方法がとられることとなるのであった。こうして一木大隊は戦闘陣形をとって前進を開始、午前5時30分、これに対する中国軍の発砲から、両軍の戦闘に発展し、同大隊は東岸堤防の中国軍を追って永定河中洲から西岸にまで進出していった。

  これがこの事件における日中両軍の最初の衝突であるが、最初の発砲から事件がここまで拡大してしまったのは、 結局のところ日本車が軍事力を行使してでも中国側に責任を認めさせようとしたためであり、この過程は「現地解決のための拡大段階」ということができる。しかし、この拡大の第一段階では、日本軍を行動にかり立てている「現地解決主義」は、まだ背後の規制力として作用しているだけであるが、次の段階でそれが表面に現れてくると、事態は一層の拡大を余儀なくされてくるのであった。



2 定式化された現地交渉−「拡大」の第二段階

 現地での特務機関が中心となった停戦交渉は、日中両軍を永定河の東岸と西岸に分離するという日本側の提案で始まっているが、それは8日朝の戦闘で西岸に進出したばかりの一木大隊を引きあげる代りに、これまでずっと盧溝橋城に駐屯していた中国軍を西岸に追いはらうことを意味した。中国側はこの提案に強い抵抗を示したが、日本側では、 まず「中国軍の撤退」をもち出すのが、すでに交渉の定型となっており、これが実現されなくては、軍内部のおさま りがつかないと考えられるようになっていたのであった。そしてこの定型化の程度は、東京の政府や軍中央部の動向のなかに一層明瞭に読みとることができた。

  この事件に対して、東京ではまず参謀本部が8日夕刻「事件ノ拡大ヲ防止スル為二兎二進ンテ兵カヲ行使スルコトヲ避クヘシ (5)」と指示したが、ついで翌9日午前11時からの首・陸・海・外相による四相会議において「不拡大方針を堅持する」という基本的態度と共に、「帝国政府の解決方針は、中国軍の撤退、責任者の処罰、中国側の謝罪と今後の保障である(6)」との申合せがなされている。そしてここで、現場の状況がよくわからないうちから「撤兵、処罰、 謝罪、保障」という四項目が持出されているのは、現地解決はこのような形でなさるべきものとする先入見が、政府にも軍部にも共通していることを示すものであった。そしてこの四項目による現地解決が、すなわち日本側の云う不拡大方針そのものなのであった。しかしそれは、事件の現場のみでなく、それを合むより広範囲な中国軍に対し、新たな規制を加えることを意味しており、いわぱ「現場」から「現地」へと問題を拡大したうえでの解決をめざすものであったということになる。

  現地における撤兵問題を軸とした停戦交渉もこうした型にそって進められたのであるが、さきの四項目のなかに、処罰・謝罪の項目がみられるように、この方式は事件を頭から中国側の責任として処理しようとするものであり、交渉の難航は必然であった。しかし事件発生から4日後の7月11日午後8時になって、次のような現地停戦協定が調印された。

  一、 第二十九軍代表八日本軍二対シ遺憾ノ意ヲ表シ且責任者ヲ処分シテ将来責任ヲ以テ再ヒ斯ノ如キ事件ノ惹起ヲ防止スルコトヲ声明ス
  ニ、 中国軍ハ豊台駐屯日本軍ト接近シ過キ事件ヲ惹起シ易キヲ以テ蘆流橋城廓及竜王廟二軍ヲ駐メス保安隊ヲ以テ其治安ヲ維持ス
  三、  本件ハ所謂藍衣社共産党其他抗日系各種団体ノ指導二胚胎スルコト多キニ鑑ミ将来之カ対策ヲナシ且取締ヲ撤底ス(7)


  この停戦協定調印は一般に不拡大方針の実現と評されているが、それは現地解決=不拡大という当時の日本側の理解をそのままうけいれたにすぎないものであり、この協定の内容をみれば、問題は、盧溝橋附近の一局面から第29軍全体に、更にまた抗日運動取締りという政治問題にまで拡大されていることは明らかであろう。従ってこのよう な性質をもつ停戦協定の調印は決して事件の拡大をおしとどめるものではなかった。まず第一に、協定の細目の決定とその実施の過程は、事件を拡大する可能性をふくむものであった。例えば協定第一項についてみても、その実施のためには、誰が遺憾の意を表し、責任者として誰を処分し、再発防止のためにどのような措置をとるのかといった問題を解決しなければならず、その点から事件が更に拡大することは十分ありうることであった。そして後述するよう に、実際にも日本側は、この点で過大な要求をつきつけることによって、戦争への突破口をつくり出してゆくこととなっている。従ってもし、この協定によって事件が解決されたとしても、それはこの過程で事件が拡大された分だけ日本の侵略が進行し、中国側が後退を余儀なくされたことを意味していることは明らかであり、それ故、現地停戦協定の調印と実施とは、盧溝橋事件拡大の第二段階と捉えられなくてはならないであろう。  



3 現地解決による中国中央の排除−「拡大」の第三段階

 しかし、現地停戦協定のより根本的な問題は、中国中央政府との関係という点にみられた。日本側のいう現地解決 とは別の角度から云えば、現地の第29軍との間の協定に中国中央政府が干渉しないように要求するものであり、 従って「現地解決=不拡大」とは、中国中央が介入すれば事件は拡大する、より正確に云えば、事件を拡大させるということにほかならなかった。それ故、日本政府も軍部も、さらにはジャーナリズムも事件当初より中国中央の動向には極めて敏感であった。

  現地停戦協定がまとまりかけていた7月11日の東京朝日新聞朝刊は、10日発のニュースを

 

中央四箇師、全飛行隊に

 

蒋介石、進撃令を下す

 

前線早くも激戦展開


という六段抜きの大見出しで報じた。この「激戦」とは、内容を読むと、蘆溝橋附近の局部的小衝突であることがわかるが、この見出しの組み方は、北上・進撃してきた中国中央軍がすでに前線での激戦に参加しているかの如き印象を与え、危機感をあおるものとみるほかはない。そしてこの記事の中心は、陸軍から提供された次のようなニュースであった。

 

〔10日午後11時陸軍省に左の公電到達〕 蒋介石は四箇師を石家荘附近に北上するやう命令を発し、同時に仝飛行隊に対し出動命令を下したものゝ如し。


  このニュースは、日本の軍中央部や政府にも重大な関心をもって受けとられた。10日夜の杉山陸相からの申出によ って開かれた翌11日の臨時閣議では、内地師団の華北派兵を準備することと同時に、派兵に関する政府声明が決定された。そして同日夕刻発表されたこの声明は、中国側は「頻二第一線ノ兵カヲ増加シ更二西苑ノ部隊ヲ南進セシメ、 中央軍二出動ヲ命スル等武力的準備ヲ進ムルト共二平和的交渉二応スルノ誠意ナク……今次事件ハ全ク支那側ノ計画的武力抗日ナルコト最早疑ノ余地ナシ」とし、「仍テ政府ハ本日ノ閣議二於テ重大決意ヲ為シ、北支出兵二関シ政府 トシテ執ルヘキ所要ノ措置ヲナス事二決セリ(8)」と述べている。この声明の要点が、中国側の中央軍出動命令に対抗して、内地師団の出動を準備するという点にあることは明らかであるが、では何故、中国中央軍の出動がそれ程重大な のかという点になると、この声明だけでは明らかとはならない。そこでさきの7月11日付東朝紙面から、別の記事をひろってみよう。

 

〔天津十日発同盟〕 蒋介石氏が中央軍に河南省境出動命令を発出したことは梅津・何応欽協定を蹂躙するものに外ならず、且第29軍に対する断乎交戦せよとの激励電の如き南京政府の態度はロに不拡大を唱へその誠意皆無なるを証明するものとして我軍当局はいたく憤慨して居る。

 

〔天津特電十日発〕 南京政府は盧溝橋事件に対し表面不拡大方針を希望しつゝ、実際は29軍と日本とを一戦させ冀察政権を潰滅せしむると共にこの機会に中央軍を一気に冀察地区に入れようとして居ることが漸次明白となって来た。(以下略)


  これらの記事が述べているのは、華北からはすでに、梅津・何応欽協定によって、中国中央=南京政府の直系の勢力はしめ出されており、また華北には現に南京政府から独立性をもった冀祭政権とその軍事力としての第29軍が 存在しているのに対して、南京政府は、蘆溝橋事件の機会を利用して再び華北での勢力を回復しようとしている、という角度からの観測であると云えよう。ここに云う冀察政権とは正式には冀察政務委員会と呼ばれ、馮玉祥系軍閥の第二十九軍長宋哲元がその委員長の地位にあるという形で両者は結びついていたが、日本側はこの宋哲元を交渉相手として蘆溝橋事件の現地解決をはかろうとしていたのであった。しかしその際日本側が中国中央軍の出動を南京政府の宋哲元への圧力とみ、それに対して過敏とも思える反応を示したということは、日本側のいう現地解決が、たんに現地責任者としての宋哲元を交渉相手とするということに止まるものではなく、中国中央からの統制を排除して宋哲元の独立性を強め、一層深く宋哲元を日本に従属させようとする意図をもつものだったことを物語るものであった。

  つまり、盧溝橋事件に対する日本の対応を検討してみると、まず第一には、当時の日本の対中国政策のなかでは、すでに現地解決主義が基本的な政策として定型化されていたということ、第二には、その現地解決とは、中国中央から「現地」を切り離して、そこに日本の支配力を浸透させてゆこうとする目的をもつものであったことが明らかとなってくるのである。いいかえれば、ここでの現地解決とは、「現地」の中央からの分離を前提とする侵略の一形式にほかならなかったのであり、従って、日本が定型化するまでこの形式を利用したとすれば、中国側には、これに対する抵抗が蓄積されてくるのは当然であった。すでにこの抵抗の蓄積は、抗日統一戦線、第二次国共合作を生み出すような力を持ち始めていた。日本の政府や陸軍中央部が、事件4日後に早くも内地師団の動員・華北派兵の事態を想定したことは、分離主義的支配政策自体の危機を敏感に感じとったからにほかならないであろう。従って現地停戦協定と派兵声明とを対比させ、現地=不拡大、中央=拡大と捉えることは、中国中央との問題を欠落させ、事件拡大の構造を見失わせることになるように思われてならない。

  たしかに現地停戦協定の調印される2時間ばかり前に、華北派兵の政府声明が発表されたことは、現地交渉の当事者にとって、協定の実施を阻害するものと感じられたことであろう。当時の北平駐在武官今井武夫は、次のように回想している。

 

丁度現地で、日華双方が局地解決に努力中の、極めて微妙な時機だっただけに、この廟議決定はわれわれ現地の日本軍代表の行動を困難にすると共に、他方中国側にも連鎖反応を惹起して態度を硬化させ、両方面に破局的な影唇を及ぼしたことも争えない。(9)


  しかし、これに対して政府・軍中央部は、中国中央を威圧することなしには、現地解決も実現しえないとの認識に立っていたと考えられるのであり、この立場から云えば、派兵声明は現地解決=不拡大と矛盾するものではなく、それを促進するものにほかならなかった。そして、停戦協定の実施細目をめぐる交渉の難航は、この認識をうらづけるものとして捉えられ、中国中央への一撃論に発展していった。つまり、現地解決=不拡大主義そのものが、中国中央との関係を通じて、事件拡大の第三段階を生み出してゆくことになるのであった。

  7月17日朝、陸軍中央部は停戦協定の実施細目として、(1)宋哲元の正式陳謝、(2)馮治安(第三十七師長)の罷免、(3)盧溝橋北方・北平西方の八宝山附近からの中国軍の撤退、(4)7月11日の協定への宋哲元の調印、という4項目を 要求し、この要求がいれられなければ、現地交渉を打切り「第二十九軍ヲ膺懲ス」との方針を決定した(10)。それは「中国側の謝罪すべき当事者や、その方式を指定せず、又責任者の処罰も特定の人を指名せず、宋哲元の裁量にまかせる(11)」という現地交渉担当者の考え方にくらべると、明らかに過大な要求であり、宋哲元に対し、蒋介石から離れて明確な屈伏の姿勢を示すか否かを迫ろうとするものにほかならなかった。従ってこの方針は同時に、「南京政府二対シ中央軍ヲ旧態二復シ対日挑戦的行動ヲ中止シ且現地ノ解決ヲ妨害セザルヘキコトヲ要求(12)」することを予定しており、むしろこの点に力点をおくものであったとみるべきであろう。そしてこれに対して南京政府は、日本側の要求を真向から拒否したのであった。

  すなわち、7月17日夜、日高代理大使が現地協定の実行を阻害しないよう、中央軍の北上を速かに停止して欲しいと申入れたのに対して、19日午後、国民政府外交部は「中国側ノ軍事行動八日本軍ノ平津一帯増兵二対スル当然ノ自衛的準備二過キス」と反論すると共に、日本政府に対して「一、期日ヲ定メ同時二軍事行動ヲ停止シ武装部隊ヲ撤回スルコト、二、今回ノ事件二対シテハ誠意ヲ以テ外交手段二依リテ協議スルコト」という2項目の要求を述に申入れてきた。それは日本側の云う現地解決主義を原理的に否定し、正規の外交機関による対等の交渉を要求するものであり、現地協定については「尚地方的性質ヲ有スル故ヲ以テ地方的ニ之カ解決ヲ図ラントスルモ如何ナル現地協定モ中央政府ノ承認ヲ得ル事ヲ要ス」という点を強調していた。こうした中国側の立場は、すでに7月17日の蒋介石の演説で一層明確に述べられており、日本の新聞にも次のように報ぜられていた。

  すなわち蒋はこの演説で「(一)中国の国家主権を侵すが如き解決策は絶対にこれを拒否す、(二)冀察政権は南京政府は設置せるもので、これが不法なる改廃に応ぜず、(三)中央の任命による冀察の人事異動は外部の圧迫により行はるべきものにあらず、(四)二九軍の原駐地に制限を加へることを許さず、以上の4点は日支衝突を避け東亜の平和を維持する最少限度の要求である」と述べ、「中国は平和を求むるも、やむを得ざれば戦ひを辞せず(14)」と叫んだという。

  こうした中国中央の動向に対して、日本の外務省は7月20日、「事態悪化ノ原因ハ南京政府カ現地協定ヲ阻害スル一面続々中央軍ヲ北上セシメタル事実二在リ、此際南京政府二於テ飜然反省スルニ非サレ八時局ノ収拾全ク望ナキニ至ラン(15)」との声明を発して、交渉を打切ってしまったが、このことは、現地解決主義自体が争点化したこと、それによって蘆溝橋事件は、拡大の第三段階へと突入していったことを意味するものであった。支那駐屯軍は、現地協定実施をめぐる期限付要求をつきつけ、期限切れの7月28日、第二十九軍への総攻撃を開始、さらに内地より増派を得た日本軍は、その背後にある中国中央軍に一撃を加えるべく戦線を拡大してゆくことになるのであった。

  結局のところ盧溝橋事件が戦争に発展するのは、現地解決方式の維持か否定かをめぐる対立を直接のきっかけとするものであり、日本側が、中国側の態度を既得権の否定と受けとったことは、さきの外務省声明が「冀察政務委員会ハ他ノ地方二見サル特殊大規模ノ政治形態ニシテ、従来幾多ノ重要ナル地方的交渉ヲ行ヒ来リ、南京政府ハ敢テ之ニ容喙セサリシニ、今日卒然トシテ冀察政権ト我方トノ話合二付其容認ヲ主張スルカ如キハ、即チ新ニ事ヲ構ヘテ故意ニ事件ノ円満解決ヲ阻害セントスルモノト云フノ外ナシ」と述べていることからも明らかであろう。云いかえれば、 ここでの戦争は、従来行われてきた「幾多ノ重要ナル地方的交渉」を既得権として、更に蓄積してゆこうとする日本側と、この既得権自体を否認しようとする中国側との対立から生れたものということになる。

  従って、日中戦争の性格を論ずるためにはまずこの「地方的交渉」=現地解決方式がどのようにして形成され、日本がそれによって何を得ていたのか、という問題を明らかにすることから始めねばならないであろう。

2満蒙分離主義の形成過程