『日中戦争史研究』

1984年12月

印刷用ページはこちら




日中戦争にいたる対中国政策の展開とその構造



古屋 哲夫

表紙

2 満蒙分離主義の形成過程
1現地解決と分離主義
2「特殊利益」論の登場とその具体化
3親日銀育成政策と張作貨軍閥の形成
4「特殊利益」から「治安維持」ヘ


2満蒙分離主義の形成過程



1  現地解決と分離主義

 盧溝橋事件にみられた現地解決とは、結局のところ「分離主義」を実現するための一つの方式であったということにもなろうか。すなわちそれは、特定地域の問題を中国全体から切り離して、特殊の仕方で処理するという「分離処理方式」にほかならないのであり、そのためには、中国側にそれに対応する、中央政府から一定の自立性を持った地方政権が存在することを前提とするものであった。従って、現地解決方式とは、そのために必要な地方政権をつくり出し、その政権との交渉で問題を解決することによって、その地方の中国中央からの分離性と日本への従属性とそ同時に強めてゆくこと、そうした性格をもった「解決」をはかる、ということにほかならなかった。そこでは現地解決が実現される度毎に、日本の権益も拡大される筈であり、従ってその内実は、漸進的・なしくずし的侵略方式というべきものであった。しかし、そのことは同時に、それがなしくずし的であるだけ、日本側の戦争意識を希薄にさせ、 逆に戦争の拡大を阻止することを困難にするものでもあった。

  蘆溝橋事件から全面戦争への拡大は、前節でみたように、このような「分厚主義」にもとづく「現地解決」を華北に適用し、軍事力により強要しようとした結果であったが、しかし日本側当局者の主観から云うと、最強硬のいわゆる「拡大派」でも、現地解決のための軍事的一撃を主張しているにとどまり、最初から全面戦争を企てたわけではなかったということになる。戦争が華北から上海に拡大した37年8月15日の日本政府の声明はこの戦争の宣戦布告にあたるものと云えるが、この声明をみても軍事行動の日的については「帝国トシテハ最早隠忍其ノ限度二達シ、支那軍ノ暴戻ヲ膺懲シ以テ南京政府ノ反省ヲ促ス為今ヤ断乎タル措置ヲトルノ已ムナキニ至レリ」「帝国ノ庶幾スル所ハ日支ノ提携二在リ。之カ為支那二於ケル排外抗日運動ヲ根絶シ今次事変ノ如キ不祥事発生ノ原因ヲ芟除スルト共ニ日満支三国間ノ融和提携ノ実ヲ拳ケントスルノ外他意ナシ (16)」と述べられているだけであった。

  この声明が強調しようとしているのは、日本側が別に新しい要求を持ち出したわけではないのに武力行使を余儀な くされたのは、専ら中国側の「暴戻」に責任があるということであろう。つまり、すでに蘆溝橋事件でみたように、日本側の指導者の意識から云うと日本側はそれ以前と同じやり方をしているのに、中国側の抵抗が増大するのはけしからぬという捉え方が特徴的なのであるが、それはこの時期の日本の対中国政策が、現地軍部が主導する現地解決の 積み重ねとなっていることと関連していると考えられる。つまり、個々に解決された事件はもはや再検討を許さない既得権として蓄積され、次にはそれを前提とした要求が出されてくるのであるが、こうした現地解決の原型は満州事変そのものであり、またそこからつくり出された「満州国」という既得権が、以後の現地解決の前提条件となっているわけであった。蘆溝橋などという地点において、支那駐屯軍が現地解決を試みるなどという事態は、関東軍による満蒙分離の強行という既成事実なしには、ありえなかったことであろう。

  しかしその関東軍にしても、決して独力で満蒙分離主義を生み出し、実行したと考えることはできない。満蒙分離 の考え方は、元来は中央レベルの対中国政策のなかで生み出されたものであり、その対中国政策全休のなかでの位置づけが次第に押しあげられるに従って、その担い手としての関東軍への期待が高まり、支持勢力が拡大されたのであった。こうした支持勢力の拡大なしには、満州事変はありえなかった筈であり、従って関東軍の問題は、満蒙分離主義が強まってくる過程と結びつけて捉えなくてはなるまい。また満州事変以後の現地解決方式にしても、中国からさ まざまな権益を切り離してくる分離主義を内容としているのである。

  こうしてみると、日本側指導者が主観的には予期に反して、十分な見通しを持つことなしに対中国全面戦争に踏み込んでいった過程は、現地解決方式とその内容をなす分離主義という観点から解き明かすことが必要だと考えられるのである。いいかえれば、日中戦争を理解するためには、対中国政策のなかで、分離主義がどのように形成され、そこから如何にして現地解決方式が生み出され、さらに全面戦争を引きおこすまでに肥大化していったかを明らかにしなければならないのであり、そのためにはまず、満州事変以前にまでさかのぼって、分離主義の成立・展開の基本的問題を検討してみなくてはならないであろう。



2 「特殊利益」論の登場とその具体化

 ところでこのような分離主義の出発点は、いうまでもなく、中国の特定の地方を日本と「特殊」な関係におこうという要求にあるわけであり、それは満州事変前後には「満蒙特殊地位=特殊権益論」として右翼・軍部から声高く主張されたものであった。しかし、そうした発想は、すでに日本が南満州での権益を獲得した日露戦争直後から、対中国政策構想の重要な部分をなすに至っていた。すなわち、1908年(明治41)9月25日の閣議で決定された対外政策は、「帝国ノ列国ニ対スル態度」「対外経営」「条約改正」の各項よりなる日露戦後最初の包括的なものであったが、そのなかで中国(当時はまだ清国)に対しては「帝国ハ列国ニ共通ナル事項ニ関シテハ列国ト共同シテ同一ノ歩調ヲ取リ……且満州ニ於ケル我特種ノ地位ニ関シテハ漸次列国ヲシテ之ヲ承認セシムルノ手段ヲ取ルヘシ(17)」と述べ、早くも満州における「特種ノ地位」を要求しはじめているのである。

  この「特種ノ地位」の内容については何も説明がないが、「対外経営」中の「移民」の項をみると、日露戦争の結果日本が「亜細亜大隆ニ所領ヲ有スル大陸国」となり、露清両大国に隣接するにいたったことを強調したうえで、 「帝国ハ此両大国ニ対抗スル為成ルヘク我民族ヲ東亜方面二集中シ其勢カヲ確立維持スルヲ以テ確定不動ノ方針トナササルヘカラス (18)」と述べられているのであり、「特種ノ地位」が「地域的支配」の要求と連動していることをうかがうことができる。この「移民集中論」は、現実には満州事変以後にならなければ実現しえなかったが、しかし「地域的支配」という発想そのものはすでに前年7月30日、第一回日露協約を成立させるという現実の成果を基礎としたものであった。この協約の眼目は附属の秘密協定において、満州を横断して南北に分つ「分界線」を設定し、日本はその南、ロシ7はその北から分界線をこえて、鉄道・電信の権利を獲得するための活動をしないことを約束した点にあり、満州を日露間で地域的に分割することを意図したものであった。そしてその意図は3年後の1910年(明治 43)7月4日調印の第二回協約では一層明確にされ、さきの「鉄道・電信」の分界線は、「特殊利益」の分界線と規定しなおされたのであった。

  ここでも「特殊利益」とは何かについては何も説明されていないが、両国はその分界内において、特殊利益を「擁護防衛スルニ必要ナルー切ノ措置ヲ自由ニ執ルノ権利ヲ相互ニ承認」シ、また相手方の地域において、何等の「政治 上ノ活動」をもなさず、相手方の「特殊利益ヲ害スヘキ性質ノ何等ノ特権又ハ許与」をも求めないという協約の文言からみれば、それぞれの地域での自国あるいは自国民の排他的・独占的活動を確保すること自体が、「特殊利益」と考えられていたとみることができる。そしてさらにこの第二回協約では、「各自ノ特殊利益ニ関係アルー切ノ事項」、 特殊利益の擁護防衛のための共同行動・相互援助などについての協議の規定も設けられており、その効果について日本側は、「満州ニ於ケル帝国ノ地位ハ之ニ依りタダニ強固ヲ加フルノミナラス、一方満州問題ニ関スル列国ノ連合ヲ不可能ナラシメ、他方列国ヲシテ漸次我特殊ノ地位ヲ承認セシムルノ目的ヲ達スルヲ得ヘク、清国モ亦此新事実ニ依リ、満州ノ事態カ勢ノ自然ニ出ツルモノナルヲ自覚スルニ至ルヘク、我既定ノ方針ヲ遂行スル上ニ於テ非常ニ良好ナル結果ヲ生スヘシ(19)」と期待したのであった。

  こうした「特殊」の「地位・利益」への要求は、鉄道・鉱山といったような個々の損益では満足せず、一定の「地域」そのものを「特殊」なものとして中国のなかから区別しようとするものであり、対中国政策における分離主義形成の最初の契機をなすものであった。そしてこの「地域」は、辛亥革命直後の1912年7月8日に調印された第三回日露協約により、秘密協定が改訂され、特殊利益分界線が延長されたことによって、内蒙古にまで拡大されるに至った。日本側当局者の主観から云えば、このときから、満州問題は満蒙問題に発展したということになろう。

  しかし、この段階ではまだ特殊利益の主張は、日露両国間の結び付きを強め、両国の在満権益を中国の民族主義と列強との競争から防衛するという消極的役割りを果したとはいえ、実際の満蒙地域の特殊化という観点からみれば、 現実的な成果を収めえたわけではなかった。例えばロシアとの間に内蒙古分割を協定してみても、それは実際に主権を持つ中国に対して効力を持つものではなかった。中国との関係は、「特殊化」などという問題よりもはるか手前でとどまっており、日露戦争で獲得した権益の永続化の問題にてこずっているという有様であった、即ち、日露戦争で獲得した権益は、ロシアの契約期限をそのまま引きついでおり、最も短い遼東半島租借権(原条約期限25年)の場合には、1923年(大正12)には満期となる筈であった。従って日本側では、これらの権益の期限延長を中国に対する最も緊要な要求と考えていた。しかし日露戦争による日本の権益獲得に最初から強く抵抗していた中国側に対 して、日本側は、戦争中何の権限もなしに敷設した軽便軍用鉄道・安泰線(安東―奉天)の改築・恒久化(満鉄の一部 とする)を要求・強行したように、ロシアが所有していなかった権益まで中国に押しつけたのであり、従って日露戦後の日中関係は極めて紛糾したものにならざるを得なかった。

  前述した1908年決定の対外政策においても、「清国ノ帝国ニ対スル反感」を考えると、在満権益の期限延長を実現することは容易ではないと考えられており、そのための方策についても、「帝国ハ今後清国ニ対シ、努メテ其感情ヲ融和シ、彼ヲシテ成ルヘク我ニ信頼セシムルノ方針ヲ取リ……、成クヘク同国官民ノ悪感ヲ挑発スルカ如キ措置ヲ避ケ、専ラ名ヲ去り実ヲ取ルノ方法ニ依ル」ことが必要であると抽象的に述べるにとどまり、何らの具体策をも指示することができなかった。そのほぼ3年後、辛亥革命勃発直後の1911年(明治44)10月24日に閣議決定さ れた対中国政策に於てもなお「満州問題ノ根本的解決ハ一我ニ最モ有利ナル時期ノ到来ヲ待ツコトトシ、今後特ニカヲ支那本部ニ扶植スルニ努メ(20)」と述べられており、それは、日本側からは、在満権益期限延長の問題を持ち出すきっかけさえつかめない状況がつづいていることを物語るものであった。

  つまり、この間の対中国政策は、一方ではロシアとの間で「満蒙の特殊化」をめざす協定を成立させながら、他方の中国との間では、具体的権益の期限延長の要求さえ切り出せないというアンバランスな形を余儀なくされていたわけであり、従って、ロシアと合意した「特殊利益」の構想を、中国に対して具体化することが、日本の支配層にとっ て対中国政策の基本的課題とされたのであった。そして第一次大戦の勃発は、そのための好機として利用されることとなった。周知のように、日本は日英同盟を口実にしてこの戦争に参戦し、ドイツの権益のある山東半島を占領したが、それは中国との交渉の切り札をつくり出すためであったとさえ云える。1914年(大正3)11月10日、日本軍が青島を完全占領すると、翌日の臨時閣議で早くも大隈内閣は、のちに二十一か条要求と呼ばれるようになった対華交渉案を決定したのであった。

  五号二十一か条からなるこの要求は、遼東半島租借権、南満州鉄道・安泰線経営権期限の九十九か年延長を最低限要求とし、その上に種々の要求をつみ重ね、さらに山東・福建・漢治萍など、いわゆる中国本部での権益拡大をも要求するものであり、当時の日本の対中国要求を最大限に展開したものであった。しかしその中心が、「満蒙特殊利益」 の具体化の間題におかれていたことは明らかであり、その点からみると二十一か条要求の特長は次のように要約する ことができる。

  まず第一の特長は、要求の満州から満蒙(「南満州及東部内蒙古」)への地域的拡大であるが、それがさきにみた日露協約での分界線の延長を中国側に認めさせようとするものであることは繰返すまでもあるまい。次に第二の特長は、この拡大された地域において日本人の商工業・農業の経営、土地所有、居住・往来の自由など広汎な権益を要求している点であろう。それは鉄道・鉱山などのような権益のみでなく、その地域における土地所有に執着し、中国人と同等な活動の自他を要求する点に力点をおくものであり、まさに、日露協約における「特殊利益」の具休化とみることができる。さらに第三の特長としては、こうした「特殊利益」を保証するために、中国政府内部に日本の影響力を与えるためのルートをつくり出そうとしている点をあげなくてはなるまい。

  まず要求の第二号第六条には「支那国政府ハ南満州及東部内蒙古ニ於ケル政治・財政・軍事ニ関シ顧問教官ヲ要スル場合ニハ先ツ日本国ニ協議スヘキコト(21)」とあるが、ここでは、この満蒙地方当局に対する要求よりも、中国中央政府に対してはるかに大きな要求がなされており、それは、この時点ではまだ、満蒙に自立性の強い地方政権は存在しておらず、従って日本側にも満蒙地方政権育成といった発想は生まれていなかったことを示すものであった。この中国の政府あるいは行政に対する要求は、悪名高い第五号要求の主要な内容をなす次のようなものであった。

  (一)、 中央政府ニ政治財政及軍事顧問トシテ有カナル日本人ヲ傭聘セシムルコト
  (二)、 支那内地ニ存在スル日本ノ病院、寺院及学校ニ対シテハ其土地所有権ヲ認ムルコト
  (三)、 従来日支間ニ警察事故ノ発生ヲ見ルコト多ク不快ナル論争ヲ醸シタルコトモ尠カラサルニ付、此際必要ノ地方ニ於ケル支那警察官庁に多数ノ日本人ヲ傭聘セシメ以テー面支那警察ノ刷新確立ヲ図ルニ資スルコト
  (四)、 日本ヨリー定ノ数量(例ヘハ支那政府所要兵器ノ半数)以上ノ兵器ノ供給ヲ仰キ、又ハ支那ニ日支合弁ノ兵器廠ヲ設立シ日本ヨリ技師材料ノ供給ヲ仰クコト(22)


  このうち(一)が中国中央政府への影響の確保をめざすものであることは云うまでもないが、そのなかでとくに(四)の武器輸出による軍事的従属化の線が大きくクローズ・アップされていることは、のちの張作霖への武器援助や参戦軍の編成とも関連して注目される。また(二)・(三)は、日本人の土地所有権への要求とその拡大が、警察行政への介入の要求を強めるという関係を示唆するものでもあった。すなわち「特殊利益」が「土地所有」を基底として具体化されるに従って、「警察行政」から「治安維持」へという方向に要求が拡大されてくるのであり、やがて「治安維持」は「特殊利益」の基礎的要求として位置づけられることになるのであった。

  つまり、二十一か条要求は、日露協約において漠然とした形で提示された「特殊利益」を(A)「土地所有」と「治安維持」という方向に具体化するとともに、(B)その対象を「満蒙」に拡大し、(C)その保障のために中国政府を親日化従属化させる、という形で、対中国政策の新たな定式をつくり出したのであった。といっても、結局二十一か条要求のうち第五号の放棄を余儀なくされたように、この定式も、すぐさまそのままで実現したのではなかった。

  二十一か条問題の結末をこの定式との関連でみてみると、(A)では、土地所有権と居住営業の自由の要求は、土地所有相を30年を期限とする借地権=商租権にかえ、しかも南満州に限って認めさせえたにすぎず、治安維持=警察行政への介入の要求は何ら実現されなかったし、(B)では、中国側は東部内蒙古に関する要求を何の根拠もないものとして強く拒否し、結局中国人との合弁による農業及付属工業の経営を承認しただけに止まっている。そして、第五号要求を放棄したうえで、これらの譲歩を行ってもまだ、最後通牒をつきつけねばならなかったことは、(C)の中国政府の親日化の問題では、日本側が何の成果をもあげ得なかったことを物語るものであった。

  要するに、二十一か条問題では、在満権益の期限延長という最低限要求は実現しえたが、「特殊利益」諭の立場からの「満蒙特殊化」の要求は、極めて不十分にしか達せられなかったということになろう。しかし一度このような形で、日本の最大限要求が定式化されたということ、とくに中国政府親日化の要求が提示されたことは、対中国政策を 大きく転換させてゆく画期をつくり出すこととなった。すなわち、日本側では、二十一か条交渉において、日本の要求に強く抵抗した袁世凱政権への不満が高まったが、さらに同政権が関係条約調印(1915年5月25日)の一か月後、6月22日に「懲弁国賊条例(23)」を制定して、特殊利益具体化の手がかりとなりうる商租権の実施を抑圧したことは、特殊利益実現のためには親日政権の育成が必要であるとの観点を強めることになったと考えられるのである。 二十一か条要求がつくり出した定式は、「特殊利益」論のうえに、親日派育成という観点を重ね合わせることによって、対中国政策を新たな方向に動かしてゆくことになるのであった。



3 親日銀育成政策と張作貨軍閥の形成

 第一次大戦中の日本の対中国政策は、二十一か条問題から、袁世凱政権打倒の策動を媒介として、親日派育成の方向に転じた。すなわち二十一か条問題以後の大隈内閣は、中国の第一次大戦への参戦、帝制の実現など、袁世凱政権を強めるような政策にはすべて反対してきたが、ついに1916年(大正5)3月7日の閣議で袁世凱打倒の方針を 打出すに至った。この方針(24)はまず、日本が「優越ナル勢カヲ支那ニ確立」するためには、袁世凱が権力の座にあることが「障碍」であり、「何人力袁氏ニ代ハルトモ之ヲ袁氏ニ比スルトキハ帝国ニ取リテ遥カニ有利ナルコト疑ヲ容レサル所ナリ」と断じた。しかし、内政干渉の批難を還けるためには「支那自身ヲシテ其ノ情勢ヲ作成セシムルヲ得策」とするとし、具体的には「適当ナル機会ヲ俟テ南軍ヲ交戦団体ト承認スルコト」、「袁氏排斥ヲ目的トスル支那人ノ活動ニ同情ヲ寄セ」る日本人「民間有志者」の活動を「黙認」することなどを指示した。

  このうち「南軍」とは袁の帝制計画に反対して独立・挙兵したいわゆる「第三革命」勢力を指すが、これを交戦団体として承認することは、中国の分裂を積極的に促進することを意味するものであった。すなわち、この袁打倒政策 は、中国の政治勢力を裏面から操作し、中国を分裂させることによって、親日派勢力をつくり出そうとするものであり、こうした分裂化政策の登場は「満蒙特殊化」の要求と結びついて、分離主義路線形式への決定的転機となるものであった。そしてその点では、承認が具体化しなかった「南軍」問題よりも、現地の日本軍や官憲の保護をうけた 「民間有志者」の活動の方が問題であった。それはむしろ、民間有志者を表面に立てた軍部などの政治的陰謀というべきものであり、この点について臼井勝美氏は次のように指摘しておられる。

 

日本は以後、三月七日決定の線にそって満州および山東の日本勢力圏内において、浪人たちや無頼中国人を使って騒擾を発生させ、不法と無秩序の状態をつくりあげ、袁政府が統治能力のない例証としようとしたのであった。満州では参謀本部の関与のもとに土井大佐(天津守備隊付)を中心に、予備将校、浪人が結集し千五百人の中国人馬賊を集めて勤皇軍とし、騒擾を起さんとした。また田中参謀次長は張作霖をして反袁独立宣言を発せさせようとし、兵器・弾薬及び資金の供給に尽力する旨通告するよう、関東都督府の西川参謀長に訓示した(25)


  このような策動は、袁世凱が6月6日急死したことによって打切られたが、しかしそれは以後の対中国政策のなかに、つねに「謀略」への傾斜をもち込むことになり、またそれと表裏する形で、張作霖との関係を生み出し、強化してゆく出発点をつくり出した点で重要であった。このときまだ張作霖は数年前に奉天に進出してきたばかりであったが、その後の彼は日本の袁打倒政策以後の対中国政策の展開と結びつくことによって、満州の支配者にのしあがると同時に、中央の政治情勢に影響力を持ちうる存在に急成長してゆくことになるのであった。

  張作霖の奉天進出は辛亥革命を機とするものであり、当時の東三省都督趙爾巽は革命勃発に際して治安維持のため兆南駐屯の巡防隊統領であった張に奉天移駐を命じたという。そして「張作霖は命に応じ遼西緑林時代より死生を倶にせる部下を中心に編制統率せる所の巡防隊の精鋭3500名を引率し省城に移駐した。そして奉天中路及び前路巡防統領として保安会軍政副部長を兼ねた(26)」。この軍隊は中華民国成立後1912年9月第二十七師に改編され、張は同師長に任命されているが、しかし奉天省では同時に馮徳麟を師長とする第二十八師も編成されており、まだ張は馮と対抗―競合する存在にすぎなかった。以後の張はその勢力拡大に腐心するのであり、当初は日本に顔を向けるより も袁世凱の歓心を得ることにつとめ、二十一か条問題にあたっては「日支交渉は毫も譲歩すべからず、交渉若し破裂せば願くば企図を率いて決戦し日本兵を駆逐せん、然らずんば一死以て国に殉ぜん(27)」との強硬論を袁世凱に宛てて電申したという。

  この張作霖が袁世凱に離反し始めるのは、日本の袁打倒方針が明確となり、袁の帝制計画の失敗が明らかになる過程においてであった。張は袁が半天将軍(14年、都督を将軍とする)として送り込んでいた側近の一人、段之貴排斥を画策し、16年4月、段が逃げるようにして北京に去ると、張はその後任の座を得たのであり、袁の死の翌月、16年7月、将軍督軍に、巡按使が省長に改称されると、張もまた奉天督軍兼省長となり、満州政界の中心に登揚してきたのであった。しかし、といってもまだ、張の力は中央政府と対抗できるほどのものではなく、日本の対中国政策もすぐさま張に依拠して満蒙を支配するといった方向に向ったわけではなかった。

  袁世凱歿後の日本の政策は、寺内内閣による援段政策(=国務総理となった段祺瑞を援助)として特徴づけられることになるのであるが、それは、諸列強が大戦の長期化で疲弊し、アメリカも参戦にふみ切るという状況のもとで、中国を援助しうるのは大戦景気で資金的余裕を得た日本のみであるという条件を最大限に利用しようとする発想にもとづ くものであった。すなわち、西原借款とよばれるようになる大規模な援助を段祺瑞政権に与え、段政権を強化し、中国を第一次大戦に参戦させ、シベリア出兵にまきこむことによって、中国に対する影響力と利権とを拡大しようというのが、援段政策のねらいであったと云えよう。

  しかしこの日本の援段政策は、元来薄弱な段祺瑞政権の基盤をむしろ弱める結果となり、それを支えるためにようやく強力になってきた張作霖の軍事力を更に強化しなければならなくなるのであった。すなわち二十一か条要求、山東半島における日本軍政の継続という事態は、日本の侵略への強い警戒心を中国側に侵透させることとなっており、 そうした状況のもとで提起された「日本の援助=中国の参戦」という政策に強い反対がおこるのは必然であった。段祺瑞内閣の継続期間が、1916年4月21日−17年5月23日、17年7月14日−同11月19日、18 年3月23日−同10月10日という具合に断続状態を余儀なくされているのは、参戦問題を軸にして混沌とした対立を深めている中国の政治状況を反映するものにほかならなかった。

 そして段の失脚→復活が繰り返される毎に、段を支える督軍達の勢力、そのなかでも特に張作霖の勢力が飛躍的に強化されてゆくのであった。

  まず最初の段の失脚は、段内閣の対独断交措置(17年3月14日)をめぐる対立の結果、黎元洪大総統が段を罷免したことによるものであり、これに対して張は長文の電報をもって黎大総統に段の復任を追っているが、ならずとみるや5月30日には、他の督軍たちと連合しつつ、奉天省の中央政府からの独立を宜言するにいたった。この前後には独立宣言が、安徴・山東・福建・浙江・河南・山西・直隷・陝西・黒竜江の各省で督軍や省長から発せられている (28)。 ここで窮地に立った黎大総統は、長江巡閲使兼安徴督軍の張勲を招いて収拾にあたらせようとし、兵をひきいて上京 した張勲による復辟劇が演じられるのであるが、これに対して段祺瑞は日本からの資金援助を得て(29)、張勲討伐の兵を挙げ、張作霖らの督軍もこれに呼応してたちまちのうちに北京を回復、7月14日には段が国務総理に復帰したのであった。そしてその直後の7月20日、寺内内閣は正式に援段政策を決定、日本の支援を背景とした段内閣は8月14日、対独宣戦を強行していったのである。

  しかしこの段祺瑞政権による参戦の強行は、中国の政治的分裂を一層深めることとなった。すなわち、参戦反対の国会議員らは南下して8月27日広東で非常国会を開き、9月10日には中華民国軍政府を発足させているのであり、 以後、南北対立の時代が北伐の完成までつづくことになるのであるが、同時にまたこの南北の分裂は、対南方策をめぐる北京政府内部の対立をも激化させることになった。対南方武力討伐を主張する段は、平和的妥協策をとろうとする馮国璋大総統と対立して11月19日辞職を余儀なくされ、段の第二次内閣は、参戦を強行しただけで、わずか4か月で終ったのであった。しかし翌18年3月にはふたたび段の国務総理の復活の局面があらわれるのであり、そこでは張作霖が前回の局面とくらべて圧倒的に有力な軍事力をもって登場してくるのであった。

  すでに、第一次段内閣の末期、17年5月に張は、奉天後路巡防隊を第二十九師に改編することを北京政府に認めさせていたが、さらに第二十八師長馮徳麟が復辟に加担して捕えられると、第二十八師も彼の掌握するところとなり、 第二次段内閣の時期には彼のもとにある兵力は、従来からの第二十七師に第二十八師・第二十九師を加えたものに増大していたことになる。このような軍拡は、段祺瑞側近の策士、徐樹錚の画策により17年12月4日・18年1月5日の2回にわたり天津で聞かれた督軍会議において、張の地位を高からしめたと思われるが、さらに張は、18年 2月、日本から輸出された武器を横奪することで一層の軍拡を企てることになるのであった。

  中国への武器供与については、第二次段内閣末期に日中間の実質的合意が成立、17年12月泰平組合が日本側当事者となって、歩兵銃4万挺、実弾8百万発を引渡すことが契約されたが、張はこれをねらったのであった。横奪の状況を臼井氏は次の如く叙述されている。

 

泰平組合との契約による兵器は翌一九一八年二月初旬、続々と河北省秦皇島に運ばれ陸揚げされたが、かかる大量の兵器が対立中のいずれの派の手中に入るかは影響力の大きい問題である。馮大総統はこの兵器で新軍団を組織し、直接の支配下に置く計画であった。しかし、奉天督軍の張作霖が突如兵を泰皇島に派遣し、北京政府派遣員の制止を無視して、揚陸軍需品を二月二四日二回の特別列車で奉天に運搬した。これは反馮国璋大総統の線で段祺瑞、張作霖の間に黙契があったとみられた(30)


  その「黙契」について、関東都督府参謀長から参謀次長にあてた2月19日附電報は、次のように観測している。

 

今回武器ヲ奉天ニ受領スルコトトナリシ原因ハ段祺瑞ノ秘密命令ニ依レルモノニシテ、段ハ他日徐世昌ヲ太総統ニ推戴スル場合、万一備フル警備トシテ六個旅団編成ノ計画ヲ有シ、而カモ其軍隊ハ東三省ニ於テ募集スルヲ便利トナシ段ヨリ其内意ヲ含メテ張作霖ニ武器ヲ受領セシメタルモノニシテ襄ニ徐樹鈴ヨリ何時来奉スヘキヤノ電報ヲ発セシハ全ク之等打合セノ為ナリシナラント観測セラル(31)


  張は、この方針にもとづき、横奪武器を基礎としてただちに新軍の増募に着手、「先づ最初六個混成旅を編成し、後更に一個混成旅を増編した」。かくて奉天軍は「従来の第二十七、第二十八、第二十九の三師其他を合するも猶ほ倍額以上に増加にした(32)」という。この過程に日本側がどの程度関与しているか明らかでないが、少なくともこの軍拡に、 現地日本軍が暗黙の了解を与えていたことは確かであろう。

  この間張は、兵器横奪の翌月である18年3月には、奉天軍を続々と南下させて馮大総統を咸嚇し、南征断行・段内閣復活を要求、この圧力によって段は三たび総理の座に復したのであった。そしてこのことは、張作霖が、北京政府と対抗し、中央の政治状況に影響を与えうる存在に成長してきたことを物語っていた。この段の第三次内閣に対して、日本の援助が集中され、西原借款の大半もこの時期に調印されることになるのであるが、こうした過程は、援段政策が張作霖を支柱とし、軍事的に強化することを必要としたこと、いいかえれば、援段政策の直接の結果として張作霖軍閥が生み出されたことを意味した。この過程で中国の南北分裂が固定化したことは前に指摘した通りであるが、 張作霖はまたこの面からみると、南方派武力制圧を主張する最強硬派として自らを特微づけることによって、中央政界にのり出しているのであり、従って段祺瑞援助=張作霖強化という政策は、南方派攻撃の黒幕としての日本の位置をより鮮明に浮び上らせるものであった。

  しかしこのときの日本の政策は、北方派による南方派の武力制圧という形での中国統一に期待をかけていたわけではなかった。「非立憲」と評された寺内内閣でさえも、「南方派ノ唱道スル民権自由ノ思想ハ世界ノ大勢ニ伴ヒ今ヤ漸ク支那ノ人心ニ浸潤スルニ至り仮令北洋派ノ実カヲ以テ一時之ヲ挫折スルコトヲ得ヘシトスルモ、根帯ヨリ之ヲ剿絶スルハ到底行ハルヘカラサルモノト認メ(33)」ているのであり、実際にも第三次段内閣の南方派に対する武力攻撃はたちまちのうちに停滞し、18年10月10日徐世昌の大総統就任と同時に段は国務総理を辞任、北京政府も対南方和平の方向に動かざるをえなかった。段はなお参戦督弁なる地位を保持しており、日本からのいわゆる参戦借款によって、シベリア出兵に呼応する参戦軍三個師を編成する仕事を握ってはいたが、もはや政治情勢をリードする力を失っている ことは明らかであった。

  しかしともかくも、第一次大戦が終ったとき、日本は段祺瑞・張作霖という親日派勢力をつくりあげていたのであり、従ってこの親日派勢力との関係と、中国問題への発言力を回復してくる列強との関係をどう調整するのかという 問題に直面せざるをえなかった。もしここで、これまでの親日派育成策を、「内政干渉」として否定することができたとしたら、日中戦争への流れは断ち切られることになったかもしれない。



4 「特殊利益」から「治安維持」ヘ

 第一次大戦の終結(1918年11月11日休戦条約調印)は、日本の対中国政策に大きな転換を迫るものであった。 ロシア革命によって日露協約を失った日本に対して、18年7月10日アメリカ政府は対華新四国借款団の組織を提議してきた。つまり日本は、対中国政策においてロシアというパートナーを失ったうえに、アメリカという強力な競争者に直面しなければならなくなった。しかもそのうえ、中国自体には、民族自決の世界的風潮を背景として、いわゆる二十一か条条約の取消など、日本からの利権回収を主眼とする民族主義運動がまき起こっており、対中国政策の転換の必要は誰の眼にも明らかであった。

  寺内内閣をついだ原内閣は、まず成立(18年9月29日)一か月後の10月29日「現下ノ支那南北ノ争乱ヲ助長スルノ用ニ供セラルルカ如キ借款及資金ノ交付」は「原則トシテハー切之ヲ差控へ(34)」る旨の閣議決定を行い、また12月の在華英米公使からの申入れをうけて、翌19年2月には、中国に対する武器輸出を停止した。つまり原内閣はまず援助政策の柱であった資金と武器の供給を停止することから、対中国政策の転換を試みたのであった。そしてこの間、18年12月2日には、日英米仏伊5か国による中国南北両政府に対する和平統一の勧告が出され、19年 2月20日には上海で、南北和平会議が開会されるにいたっている。同時にまた原内閣は、アメリカの提唱する新対華借款団の結成にも参加してゆくことになるのであった。それは、列国と協調し南北統一を促進することで対中国政策の立て直しをはかろうとするものと云えた。

  しかし、これまで援段政策によって南北対立を深めてきた日本の立場は、極めて困難なものとなっていた。たとえばこのとき南北和平統一の前提として中国内部から提起されていたのは、大戦中の日本の侵略を除去し、分裂の促進要因となっている日本の影響力をとり除くという問題であった。南北和平会議では参戦借款の停止、参戦軍の解消、日中共同防敵軍事協定の公表などが要求され、またパリ講和会議の中国代表はいわゆる二十一か条条約の取消、山東権益のドイツからの直接回収などを叫び、この要求が認められないことが明らかになると、五・四運動の嵐が中国全土をゆるがすに至った。

  しかし問題がいわゆる二十一か条条約そのものの否定にまで及ぶことは容易ならざる事態であった。すでに述べたように、日本側からみれば、調印された条約は、二十一か条要求とくらべて、第五号要求の撤回などはるかに譲歩さ れており、また関東州租借権・満鉄経営権の延長など最小限度の要求をも含むものであって原内閣もこれを取消すこ とはできなかった。従って二十一か条条約そのものの取消しを求める勢力との妥協の余地はないわけであり、原内閣も具体的にはまず、これらの反日的勢力の活動を抑え、日本の既得損益を容認するであろう勢力を支援することから、対中国政策転換の方向を探りはじめることになるのであった。

  1919年9月9日の閣議で、原内閣は徐世昌を大総統とする北方政権の要請に応じて、財政援助を与える方針を決定するが、そこにはこうした対中国政策転換の方向を読みとることができる。すなわちこの方針で興味深いのは、日本側がこの援助によって期待しているのが権益の拡大ではなく、社会的混乱の防止だという点であろう。すでに6月18日には小幡公使は、北方政権が軍隊に給与の払えなくなる状態が近づいているとし、「過日来ノ学生運動ノ風潮モ尚未ダ全ク終熄セズ、何時其余焔ノ再燃スルヲ保シ難ク、剰へ過激派思想ノ宣伝動モスレバ其間ニ乗ジテ台頭セントスルヤノ風潮伝播セラレ人心危惧ノ念ニ侵サレツツ有ル此際、万一軍隊ニ対スル給与意ノ如ク成ラサルニ於テハ、サラデダ二危険性ニ富メル軍隊ノ動揺ハ何時如何ニ爆発スルヤモ計り但ク……一朝斯ノ如キ事態ニ立至レバ……単ニ軍隊ノミノ動揺、騒擾ニ止マラス更ニ大ナル禍乱ヲ惹起スルナキヲ保シ限キモノ有リ(35)」と報じているが、こうした「全国無政府ノ状態ニ陥ルカ如キコト」を避け「支那現下ノ政局ヲシテ此上不安定ヲ如ヘシメサル様」にすることが、この借款供与の目的とされたのであった。この閣議案では徐総統が親日派であることも理由の一つにはあげられているが、具体的にみると、徐は「悪事ヲ行ヒ又八日本ヲ排斥セントスルカ如キ人物ニ非」ずとか、その統率の下にある内閣も「決シテ排日ノ傾向アルニ非ズ唯無カノ結果トシテ時トシテ排日運動ヲ看過スルノ已ムヲ得サルカ如キ場合アルノ(36)」と述べられている程度であり、親日というよりも排日でないことが強調されている点が注目される。

  このような徐世昌援助方針の特徴は、大衆的民族主義運動の高揚によって、中国では、日本の既得権益を容認すること(=排日でないこと)自体が「親日」であるような状況が生まれていることを意味するものであった。云いかえれば、このような状況のもとでは、大衆運動は常に反日的性格を含むことが予想されるのであり、従って大衆運動の抑圧としての「治安維持」の問題が、対中国政策の基底的な対象とされるに至るのであった。

  しかし第一次大戦の終結によって、列国が中国問題に復帰し、日本も積極的に国際協調を唱えることによって「孤立」を避けざるを得なくなっているという条件のもとでは、「治安維持」といっても、全中国的な問題は「国際協調」のレベルでの問題となるわけであり、従って、対中国政策の基底的な部分で生み出された「治安維持」への関心は、 次第に特定の地域へと集中し、これまでの「特殊利益」に代る地位に入り込んでくることになるのであった。すなわち、さきの徐世昌への財政援助の問題は、国際協調の立場を強調すれば、国際借款団の活動を先決とすべきものとなり、日本の活動も結局のところ、国際借款団とその関係諸国の活動を促すという方向に流されてゆくこととなり、それに代って、満蒙問題が新たな形で登場してくることとなった。

  まず徐世昌の財政危機が問題となっていた19年7月、満州では、前年9月東三省巡閲使の名目を得た張作霖が吉林督軍孟恩遠の追い出しを策し、これに反撥する孟側との間に武力衝突の危機が高まっていた。この事件は結局、孟側の妥協で戦闘に至らずに解決されたが、この間7月18日、内田外相は武力抗争を未然に防止するため、北京政府と張・孟の三者に次のような申入れを行うことを指示している。

 

帝国政府ハ此際張孟ノ争ニ容喙シ又ハ共ノ曲直ノ何レニ在リヤヲ問ハントスルモノニ非ス、唯其ノ支那中央政府タルト将タ張孟ノ何レタルトヲ問ハス、苟モ満州ノ治安ニ動揺ヲ来シ延テ日本ノ同地方ニ有スル重要ノ利害ニ影響ヲ及ホスカ如キ画策行動ヲ敢テスルニ於テハ、之ニ由リテ生スル重大ノ責任ヲ負荷スルノ覚悟アルヲ要スルコトヲ予メ支那当局ニ於テ十分了解セラレムコトヲ切望スルモノナリ(37)


  この申入れは、さきの徐世昌援助の発想につながるとは云え、はるかに直接的かつ強硬なものであり、中国に要求する「重大ノ責任」の内容に何を盛り込むかによっては、さらに如何様にも強硬化しうる形式であった。つまり、徐世昌援助の場合には、徐政権をたすけることで、間接に「治安維持」の効果を得ようとしたのに対して、ここでは直接に「治安ニ動揺ヲ来」すような行動をとらないようにという「要求」をつきつけているのであり、このように「治安維持」を直接に中国側に「要求」するというのは、対中国政策における新しい方式であった。そしてここに、のちの田中外交に特徴的にあらわれてくるような、満蒙治安維持政策の出発点をみることができるのである。

  すなわち、この場合、「治安維持」のための行動を中国中央政府に要求するということであったならば、当時の状況のもとでは、日本単独ではなしえなかったにちがいない。いいかえれば、それが可能であったのは、満蒙に限定された問題であったからであり、そこに張作霖軍閥が中央からの独立性をもった支配を展開していたからにほかならなかった。いわば原内閣は、寺内内閣の援段政策を否定することによって対中国政策の転換をはかったわけであるが、 しかし満蒙に関しては、その援段政策が生み出した張作霖軍閥の存在を利用することによって、日本独自の政策をつ くり出す手がかりをつかんだということができる。そしてこの方向は、朝鮮独立運動やロシア過激派の弾圧という別 の観点からする「満蒙治安」への関心の高まりによって、より明確な満蒙治安維持政策に押しあげられてゆくこととなった。

  周知のように、1919年3月の三・一運動にみられる朝鮮独立運動の高揚は、日本の朝鮮支配をゆるがせ、その収拾は原内閣の重要な課題となったが、運動が朝鮮内部にとどまらず満州、とくに古林省東部の間島地方に拡がり、その形態も武装闘争にまで発展するようになると、満蒙の治安は、直接に朝鮮統治に連動する問題として捉えられる ようになった。そのうえさらに、シベリアからのアメリカ軍の単独撤兵、チェコ軍の輸送完了によって、日本もシベ リア撤兵を余儀なくされるような事態が予想されるようになると、満蒙治安のイメージにはロシア過激派の活動が重ね合わされることとなった。

  20年3月2日、原内閣はチェコ軍引揚げ後も、「東支鉄道沿線及浦潮地方ノ沿海州」には駐兵をつづける方針を決定、同月31日には、「極東西比利亜ノ……我ガ接壌地方ノ政情安定シテ鮮満地方ニ対スル危険除去セラレ」るまでは撤兵しない旨の政府声明(38)を発表しているが、さらに10月になると、馬賊による琿春領事館襲撃事件を契機として、朝鮮独立運動の根絶を目的とした間島出兵を実施するに至っている(39)。すなわちここでは、「治安維持」の問題が早くも「軍事力の行使」という形で展開されているのであり、張作霖の存在もそうした観点から改めて位置づけられることになるのであった。たとえば20年10月7日、内田外相は赤塚奉天総領事に対して、張作霖に申入れるべき事項を 指示したが、そのなかには、次のような一項がみられた。

 

帝国政府ハ此際更ニ間島方面ニ於ケル不逞鮮人ノ根本的剿滅ニ付……断然日支両国ノ兵力ヲ以テスル共同討伐ヲ誠実ニ実行セラレムコトヲ切ニ希望ス。若シ右共同討伐ニ付同意セラレザルニ於テハ不得止帝国政府ハ自国ノ安全ヲ防護シ接境地帯ヨリスル脅威ヲ根絶スル為メ単独ニ之ヲ実行セザルヲ得ザルニ至ルベシ(40)


  この申入れは、まず張作霖に日本に協力する積極的軍事行動を要求し、それが実現されなければ、日本自身の軍事力を行使する、というわけであり、「治安維持」要求が発展する方向を定式化したものとして重要であった。またここでの「治安」とは、「日本にとっての治安」にほかならず、それに張作霖を協力させることは、張をいよいよ強く中央から引き離すことを意味するのであり、従ってこの申入れは、「満蒙分離」を内包するものとも云えた。

  ところでこうした満蒙問題における「治安維持」の強調は、新四国借款団組織の過程にみられる「特殊利益論」の後退とも照応するものであった。アメリカの提唱する新借款団とは、日英米仏四か国の有する対華借款上の優越権および選択権、ならびに将来における対華借款の全部を共同事業とするもの、いいかえればまだ完成していないものも含めて将来のすべての中国に対する借款を独占することを意図したものであった。日本側は、この共同事業に参加することによって、中国本部あるいは中央政府に関する借款への発言権を得ることは有利と考えたが、同時に、満蒙に関しては日本の特殊利益を認めさせようとした。原内閣は19年8月14日の閣議で、新借款団の組織が「南満州及東部内蒙古ニ於ケル日本ノ特殊権利及利益ニ何等不利ノ影響ヲ及(41)」ぼすものでないという確認を求めるとの方針を決定した。いわゆる「概括的満蒙除外主義」である。

  この新借款団の原則そのものを否定するような要求が英米側の強い反発を呼びおこしたのは当然であり、日本側もこの「概括主義」の主張はとり下げざるを得なかった。そして満鉄とその関連事業や特定の鉄道予定線などの事業を個別に列挙して、借款団の活動範囲外と認めさせるという「列挙主義」に転じ、ようやく借款団成立にこぎつけたのであった。この「概括主義」から「列挙主義」への転換は、いいかえれば、「特殊利益」の主張を放棄することを意味したが、しかし原首相が「此借款問題は随分長月日を費したるも我に於ては満蒙は我勢力範囲なりと漠然主張し居たるに過ぎざりしものが、今回の借款団解決にて具体的に列国の承認を得たる事にて将来の為め我利益多しと思ふ(42)」 と述べているように、当時はこの「特殊権益論」の放棄がさしてマイナスと意識されなかったことは注目すべきであろう。それは一面から云えば、二十一か条要求にみられたような、「特殊権益論」を商租権といった実体的な権利に具体化することが、極めて困難になってきたことと対応するものであったが、同時に他面から云えば、実体的な権利 が獲得できないようた状況のもとでは、「特殊権益」は、「治安維持」という具体的な要求で十分代位しうると考えら れたことを意味しているのではないであろうか。

  ともあれ、第一次大戦後の状況のもとで、特殊利益論は対中国政策の表面から姿を消し、満蒙という限定された地域に対する「治安維持」要求という形に変形していったとみることができるわけであるが、それはまさに、張作霖軍閥の存在を媒介として、満蒙を「日本のための治安」を維持すべき地域として特殊化しようとする「満蒙分離主義」 にほかならなかったと考えられるのである。

3「満蒙治安維持」路線の軍事的展開