『日中戦争史研究』

1984年12月

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日中戦争にいたる対中国政策の展開とその構造



古屋 哲夫


表紙

4「満州国建国」と対中国政策の破綻
1満蒙領有論とその役割
2関東軍の「建国」工作
3熱河作戦と傀儡部隊
4塘沽協定とその実施
5華北分離工作と中国の抵抗


4「満州国建国」と対中国政策の破綻



1 満蒙領有論とその役割


 張作霖爆殺事件は、中国における状況に関して云えば、日本の満蒙支配への抵抗を強め、満蒙を分離・特殊化しようとする政策の実施を困雖にしただけであり、その意味では、この謀略は全くの失敗であった。しかしこの事件は、日本国内の政治状況からみると、一方で田中内閣総辞職の原因を作り幣原外交復活のきっかけとなるものであったが、他方では、それに先行する形で、軍部・右翼の間に満蒙支配に関する危機意識を深め、「満蒙独立」をめざす政治勢力の拡大・結集を促すことにもなっていた。

 まず陸軍内部には、すでに大正末期には、軍革新を唱える第1の集団が、永田鉄山・小畑敏四郎・岡村寧次・東条英機らに板垣征四郎・河本大作らを加えた二葉会の活動を中心として形成されていたが、張作霖爆殺事件は、彼らの活動をより活発化すると共に、より若い世代から第2の集団を生み出すきっかけとなったと思われる。すなわち、1928年11月には鈴木貞一・土橋勇逸・根本博・武藤章らに石原莞爾も加わった研究会(無名会)が発足、翌29年5月には、第1の二葉会と合流しつつ一タ会を形成しているが、この過程で、しばしば「満蒙問題」や爆殺事件が 論じられており、その結果一タ会第1回会合では「満蒙問題の解決に重点をおく」など3項の決議がなされるに至っ ている (98)

 このような動きは、張作霖爆殺を契機として、陸軍中枢部に、指揮命令系統にとらわれない横断的結合が急速に拡大し、それが「満蒙問題の解決」という政治目標をかかげる政治勢力化したことを意味するものであった。のちの満州事変画策の中心人物となる石原莞爾が28年10月10日関東軍参謀に任ぜられるのも、このような動きの一環であったと思われるのである。

  つまり、張学良の易幟が避けられないことが明らかとなった28年秋から翌年春にかけてのほぼ半年の間(田中内閣の末期にあたる)に、「満蒙問題解決」の声は陸軍内部に急速に浸透していったのであるが、この間同時に、右翼勢力もこれに同調して動きつつあった。たとえば、1925年から『月刊日本』の刊行を続け、右翼のなかでも最も安定した形で精神運動をつづけていた大川周明は、年末から29年4月にかけて上海・北京・奉天を訪れ、それを きっかけとして、自らの主宰する行地社の実行団体化をはかり、「満蒙問題」を中心とした全国遊説に積極的にのり出している。この大川の動きは、右翼全体の動向をリードすることになったと思われるが(99)、それはまた軍部の動きとも連動したものであり、爆殺事件の主謀者河本大作が、両者を媒介する地位に立つに至っている(100)ことは、右翼と軍部の関係を象徴しているとも云えよう。

  ともかくも、爆殺事件から田中内閣総辞職までの間に、このような形で態勢をととのえてきた右翼・軍部勢力は、浜口内閣の登場という次の局面では、一方では幣原外交の基礎となる国際協調主義そのものに攻撃を加え、他方では、満蒙における張学良打倒の方策を準備するという2つの方向に動き始めることとなった。まず第1の方向では、この内閣の最重要課題となった海軍軍縮問題に対して、野党にまわった政友会と結んで集中攻撃を加えるという戦略がとられた。そして彼らが政府による軍全部の無視→統帥権干犯という争点を引き出したことは、満蒙問題をめぐって動き出していた軍部・右翼の勢力を、さらに青年将校運動まで含み込む形で、拡大、強化する役割を果し、30年4月のロンドン条約調印から、9月の枢密院での条約批准案審議にかけて、統帥権干犯を叫ぶこれら勢力の反対運動は政局を大きくゆるがすに至った。

  これに対して浜口首相は、元老らの支持を得て条約批准を実現していったが、しかし浜口狙撃という右翼の反撃は、政府・与党に大きな衝撃を与えることとなった。浜口というリーダーを失った民政党では、党内主導権をめぐる派閥争いが激化し、そのあげく、党員でない幣原外相を首相代理に押しあげる過程で、政党内閣としての結束は著しく弱体化していった。そしてこのような形でテロの効果があらわれたことは、実力行使への関心を高めることになり、またそこに弱体化した内閣の内実が露呈されたことは、クーデターヘの志向を生み出してゆくことにもなった。31年春には、幣原首相代理の失言問題による議会の混乱という情況のなかで、陸軍中枢部によって実際にクーデターが計画されることになるのであった。この3月事件と呼ばれたクーデター計画は周知のように未遂に終っているが、このような計画がなされたこと自体クーデターヘの志向を一層拡大することになるのであった。

  このように、軍縮反対によって国際協調主義に打撃を与え、幣原外交を打倒しようとする方向は、右翼テロを媒介としてクーデターの問題にまで発展していったが、それはまた、張学良打倒というもう1つの方向からも、満蒙武力占領という実力行使の問題が提起されてきたこととも関連する問題であった。例えば、3月事件の主謀者の1人であ る建川美次少将は、浜口内閣成立直後の人事異動で、北京公使館付武官から参謀本部第2部長に就任しているが、この建川についてさきの一タ会は「満蒙問題解決のためには、軍の実力をもって張学良軍閥を駆逐しなければならない、外交では解決できないという結論に達し、まず人事配置をこれに適応するよう陸軍省部の要職に移すことに努力するとともに、北京の中国公使館付武官から参謀本部第2部長になった建川美次少将を顧問格に推(101)」すようになっていたという。つまりこうした関係から云えば建川らがクーデターを計画したのは、一タ会などの主張する満蒙での武力行使の機会をつくり出すことを目的としたものとみることができるが、さらに一タ会を通じて関東軍における満蒙領有論に関する情報が伝えられていたことが、このクーデター計画を促した一因であったとも考えられてくる。すなわち 「軍の実力による張学良の駆逐」といっても、それに代るものが、前章でみたような東三者人による東三省政権の建前にもとづくものであったとしたら、その実現のために国内でのクーデターを必要とするという発想は生れてこなかったにちがいない。と同時に、関東軍の満蒙領有計画も、こうした中央の動向に連動することなしには、容易にその発動の機会をつかみ得なかったであろうと思われるのである。

 ところで関東軍において満蒙「領有」という新しい主張を直截に打出したのは、すでに述べた石原莞爾であったが、この領有論の直接的な意味は、もしそれが正当化されるならば、これまでの自治政権論がいずれも、中国人の誰を、どのような手段で傀儡化するか、という問題に終始したのに対して、このような問題をはじめから消去して、占領のための作戦計画と、領有のための統治計画を、関東軍参謀部の業務として作成しうるという点にあった。それは関東軍の活動を日常的に方向づけようとするものでもあり、石原は、そのような形で問題を提起したのであった。

  28年10月関東軍に赴任した石原は翌年の29年春から北満参謀旅行を計画、同年7月初旬、ちょうど東京で浜口内閣が成立した直後に実施に移しているが、この旅行において、彼は彼独自の「戦争史大観」をはじめ「満蒙問題解決案」「関東軍満蒙領有計画」などを次々と提示したのであった。そしてここから明らかにされる石原の構想の最も大きな特徴は、「満蒙問題の解決は日本カ同地方ヲ領有スルコトニヨリ始メテ完全達成セラル」として、「領有」の問題を正面から打出した点にあった。しかもそれは、必要悪といった消極的観点からではなく、「正義」という積極的観点から主張されているのであった。すなわち彼は「満蒙問題ノ積極的解決ハ単ニ日本ノ為メニ必要ナルノミナラス多数支那民衆ノ為メニモ最モ喜フヘキコトナリ、即チ正義ノ為メ日本カ進ンテ断行スヘキモノナリ(102)」と述べて、日本の満蒙領有が「正義」であり、日本のためばかりでなく、中国民衆のためにもなると云うのであった。

 彼はその領有構想の基本を、「軍閥官僚」を「掃蕩」し「日鮮支三民族ノ自由競争ニヨル発達ヲ期ス(103)」という形で述べているが、それは満蒙の居住者として日本人・朝鮮人・中国人を同等の立場に置き、この立場からみれば「満蒙ニ於ケル共通ノ敵ハ軍閥(104)」であるとする発想にもとづくものであった。それはまた、前述した田中外相の「内外人安住の地」を想起させるものであり、この「安住の地」をつくり出すためには「軍閥」を打倒しなければならない、という形で日本の軍事行動を正当化しようというのであった。しかし石原もこの時期にはまだ、どのような機会をとらえて、領有に踏み切るのかという点に関しては、積極的な意見を提起しておらず、303月でも「小策ヲ止メ支那ヲシテ益々増長セシメ自然ニ好機ヲ招来スル如クスルコト(105)」と述べるに止まっている。

 石原がこのような好機を待つという態度から、自ら機会をつくり出してでも、武力行使に踏み切ろうとする考えに変ってゆくのは、1931年に入って、前述のような内地におけるクーデター志向の拡がりに刺戟されてからであるように思われる。例えば、31年1月8日の彼の日記には「午後河本大作来ル、東京ノ事情中々切迫シアルニ驚ク(106)」とあるが、すでに大川一派と深く結んでいた河本が、クーデターヘの動きを伝えたことは確かであろう。その10日後1月17日には「第1回『占領地統治』研究会」を開いており、さらに、1月27日には「花谷少佐来、東京ノ 事情ヲキク、大川一派ト提携固ヨリ可ナルモ尤モ慎重ナル研究ヲ要ス(107)」と記されているし、その翌日には渋川善助の 訪問をうけている。

 つまり、この時期に右翼勢力の関東軍への働きかけが顕著となり、それをきっかけとして、武力発動の時機・方法などの問題をもふくめた満蒙占領統治計画研究会がはじめられたと考えられるのである。研究会1月27日、2月7日、2月14日とつづけられ、3月に入ると、石原と板垣との往復がひんぱんとなり、石原の日記では、3月15日「夜、板垣大佐来リ『満蒙問題解決案』ノ御説明ヲキク」、3月18日「午前、午後、『満蒙問題解決案』ノ討議」、3月19日「軍司令官上京ヲ機トシ『満蒙問題解決実行案』作製」とつづいている(108)

  これらの案がどのようなものであったか明らかでないが、石原文書に残されている「満蒙間題処理案(6年春、関東軍司令部(109))」なる文書によれば、そこで主として検討されているのは、「満蒙問題解決ノ実行」方法であり、「第1、直接法ニ依ル案」「第2、政情ノ変化ヲ利用スル案」「第3、東北四省内部二謀略ヲ行ヒ利用スヘキ機会ヲ作成スル案」などがつくられている。第1案は、具体的要求をかかげて中国側に迫るものであるが「根本的解決ニ出ツルコト能ハサル害アリ」とされ、第2案は「張学良ト蒋介石又ハ第3勢カトノ衝突ノ機会ヲ利用」するもので「方法宜シキヲ得ハ一挙ニ満蒙ヲ保護国トナス程度二達セシメ得ヘキ望ミアリ」とする、また第3案は「未タ進ンテ軍自ラ之ヲ操従スルノ機運に到達セス」としているが、しかし「如何ナル場合二於テモ非常ノ場合二於テハ関東軍独断ヲ以テ学良政府ヲ転覆シテ満蒙占領ヲ企図スルノ覚悟アルヲ要ス」とも述べられている。

 そして石原が、この最後の方法に傾いていったことは、31年5月の「満蒙問題私見(110)において、満蒙問題の解決が「正義」であれば「其ノ動機ハ問フ所ニアラズ」とし「国家ノ状況ニシテ望ミ難キ場合ニモ、若シ軍部ニシテ団結シ戦争計画ノ大綱ヲ樹テ得ルニ於テハ謀略ニヨリ機会ヲ作製シ軍部主動トナリ国家ヲ強引スルコト必スシモ困難ニアラス、若シ又好機来ルニ於テハ関東軍ノ主動的行動二依リ回天ノ偉業ヲナシ得ル望絶無ト称シ難シ」と記していることからもうかがうことができる。

 さらにまた、この「関東軍独断ヲ以テ」「関東軍ノ主動的行動二依リ」満蒙問題解決に踏み出そうとする構想は、 「国内ノ改造ヲ先トスルヨリモ満蒙問題ノ解決ヲ先トスルヲ有利トス」との判断と結びついたものでもあった。つまり石原は「国内改造」は、長期の政治的経済的混乱を招くおそれがあり、「我国情ハ寧ロ速カ二国家ヲ駆リテ対外発展ニ突進セシメ途中状況ニヨリ国内ノ改造ヲ断行スルヲ適当トス」とみていたのであり、この場合「国家ヲ駆リテ対外発展ヲ突進セシメル」主役として、関東軍を予定していたことであろう。

  しかし、関東軍の独断といっても、それによって軍中央が動かなければ、関東軍の単なる暴走に終り、情勢を主導することになりえないことは明らかであろう。従って31年5月の段階で、石原がこのような「私見」を書いたということは、その前月の31年4月に策定された参謀本部の「情勢判断」(111)」を前提とするものであったと考えられるのである。この「情勢判断」そのものは現存していないが、他の資料への引用などにより、その内容は満蒙問題解決のために、第1段階=張学良政権に代る親日政権の樹立、第2段階=満蒙独立国家の建設、第3段階=満蒙の占領・領土化という3つの方策を設定したものと推測されている。ここで「段階」とは、第1段階から第3段階に移行するというようなものではなく(若しそうだとすれば、自らつくり出した親日政権や独立国家を更に否定しなくてはならない)、日本の支配の程度を示すものであり、情勢によって3つの案のいずれかを選択すべきものとされていたと考えられる。いずれにせよ、この「情勢判断」は、参謀本部のなかに、石原構想に同調する動きが拡がってきたことを示すものであった。石原はおそらくこの段階で、関東軍の独走を軍中央部が支援するであろうことを確信するに至ったのではなかったであろうか。

 もっとも陸軍中央部では、31年6月に建川を委員長とする五課長会議を発足させ、同委員会は、来る1年間は準備期間として関東軍に「隠忍自重」を求むる方針を決定している(112)ように、当面は石原らを抑えようとする態度に出ていた。しかし関東軍側は、満鉄並行線を更に拡大した中国側の満鉄包囲線計画の進行、世界恐慌の波及による満鉄の経営悪化などによる満蒙への関心の高まりの上に、万宝山事件、中村大尉事件などが大々的に報道されると、これを好機として、9月18日、自らの手による満鉄線爆破を中国側の仕業と称して、たちまちのうちに奉天をはじめ、直接の関連のない営口・鳳凰城・長春・安東などを占領したのでった。この作戦の中心は、奉天の早期占領にあり、そのためには、(さんずい+兆)南、索倫などという遠方での中村大尉事件を口実にすることは困錐であり、奉天附近での新たな謀略が必要であったと思われる。臼井勝美氏によれば「板垣、石原らの当初の計画は、多数の日本人を雇って張学良軍の服装をさせ、日本総領事館や駐屯軍などを襲撃させ、それによって軍事出動の口実を得ようとしたと伝えられるが、9月28日に予定されたこの策謀が洩れ、急遽繰り上げて決行することになったため、きわめて小人数で実行しうる満鉄線路の爆破に変更された(113)」という。

 いずれにせよ、このような謀略による軍事侵略の強行は、「正義」のためには手段を問わないとする石原の満蒙領有論なしには実現しえなかったであろう。また石原が確信したであろうように、軍中央は関東軍の独走を追認していった。しかし同時に軍中央は、さきの情勢判断にいう第3段階の実現は依然として困難とみて、関東軍を第2段階の方向に引き戻してしまうのである。結局のところ石原の満蒙領有論は、謀略により柳条湖事件を引きおこすという役割を負わされただけで、後景にしりぞけられてしまうことになるのであった。



2 関東軍の「建国」工作

 柳条湖での鉄道爆破事件を口実とする軍事行動が、基本的に―軍中央部の何人かが察知していたとしても―関東軍の独断で行われた以上、以後の政策について、現場と中央とで異なる方向が志向されたことは当然の成り行きであり、それがどのような形で統一されるかが、以後の対中国政策のあり方を決定することになる筈であった。

 まず、陸軍中央部は、奉天占領などの関東軍の行動をすぐさま全面的に支持する姿勢を示したが、それは、この出兵体制を維持し、中国側から何らかの権益や譲歩を引き出すための圧力として利用しようとする意図にもとづくものであった。つまりこの最初の時点において、関東軍側が「占領」の拡大を企てていたのに対して、陸車中央部は「交渉」における優越した地位の獲得に関心を向けていたということができる。すなわち、事件の翌日9月19日午前中、 参謀次長(二宮治重)、陸軍次官(杉山元)、教育総監部本部長(荒木貞夫)が会合し、「之ヲ以テ満蒙問題ノ解決ノ動機 トナス」との方針を決定しているが、その「解決」とは「条約上二於ケル既得権益ノ完全ナル確保二存シ、全満州ノ 軍事占領二及フモノニアラス」という内容であり (114)、同じ「解決」でも石原の場合とは雲泥の差のあるものであった。

 従ってそれにもとづいて、翌20日午前10時よりの陸軍三官衙首脳部会議で承認された「満州二於ケル時局善後策(115)にしても、「軍ノ態勢ヲ旧状二復帰セシムルハ絶対的不可能」とし、関東軍の出兵体制を維持したままで、これを中国に対する要求貫徹に利用するという点を焦点とするものであり、この点は陸相が其職を賭しても貫徹し、それにより内閣が倒れてもやむを得ないとするものであった。すなわち具体的には、この機会に「満蒙二関スル諸懸案ト一併ニ中村大尉事件及今次ノ鉄道線路爆破事件ノ解決ヲ迫ルコトトシ」、この交渉が進捗しない場合には「我軍隊ハ更ニ必要ト認ムル自由行動二移ルモノトス」というのであり、ここでの陸軍中央部の関心は、交渉のやり方や要求の内容に向けられていたと云えよう。しかしこの時すでに現地では、「交渉」などを問題とすることなく一気に「政権」 問題が論議の中心に据えられていたのであった。

 すなわち事件の翌日9月19日には、奉天出張中の参謀本部建川第1部長と関東軍の板垣・石原参謀らとの間で、早くも満蒙政権問題をめぐる激論が交されており、石原の満蒙領有論に反対する建川は、翌20日には、旧清朝の宣統帝を盟主とする新政権論を関東軍司令官に進言すると共に、参謀総長にもこの意見を打電した(116)。そして関東軍側も建川の意見を容れて、9月22日には、「我国ノ支持ヲ受ケ東北四省及蒙古ヲ領域トセル宣統帝ヲ頭首トスル支那政権ヲ樹立シ在満蒙各民族ノ楽土タラシム」との目標を示すとともに、煕洽・張海鵬・張景恵ら5名を当面の地方鎮守使に起用するという「満蒙問題解決案」を作成し、大臣・総長宛に打電している。そしてこの日早くも関東軍は、天津の支那駐屯軍に宣統帝の保護を依頼すると同時に、手分けをして、前述の煕洽ら地方鎮守使に予定した人物との接触を開始している。

 こうした動きは、石原の領有論からみれば、独立政権論への転向と云えるが、関東軍も事態が平静にもどった後では、中央からの許可なしに軍事行動を拡大することは困難になっているのであり、領有論をふりかざしてみても孤立するだけであったであろう。従って、この段階で可能なのは、裏面での傀儡化工作のみであり、また陸軍中央部が「交渉」問題のレベルで動いているという状況に対しては、早急に地方政権や独立運動などを既成事実化して、「政権」問題のレベルをつくり出すことが必要とされたのであった。そして関東軍は、こうした方向にそって、すばやく独立政権論に転向したと考えられるのである。

 しかも、この9月22日に中国の要請によって国際連盟理事会が開かれると、政府は満鉄附属地内への早期撤兵を求めるようになり、軍部中でも南次郎陸軍大臣・金谷範三参謀総長らは政府に同調しはじめていた。すなわち、前述の次長・次官らが作成した、出兵体制を維持したままで交渉を行うとの方針に対して、陸相らは、国際的批判を緩和するために、条件つき撤兵を認めようとする態度を示し、23日夜、説得のため官邸を訪れた次長・次官・軍務局長に対しても、「全兵力ヲ附属地内二入レ軍ノ任意自由ナル配置ヲトリ以テ満蒙問題ノ根本解決ヲ計ル素地トナスヘク、右問題解決上支障ナキ些細ノ問題ハ之ヲ政府側ノ主張二譲ル処アルモ可ナリトノ意ヲ固執セリ(117)」という。つまり中央の政府・軍部間では、「交渉→撤兵」か「撤兵→交渉」か、という、いわば交渉のあり方をめぐる争点が形成されつつあり、問題はその範囲に局限されようとしていたのであった。

 そして、また9月26日の閣議において「総理ハ満州新政権樹立二関シテハ一切関与スヘカラサル旨表明セリ、陸相之ヲ総長二伝ヘタルヲ以テ、総長ハ各部長ヲ集メ此種運動ニハ一切関与スヘカラサル旨注意スル所アリ」(118)といった形で中央の主導権確立が企てられ始めてもいた。ついで9月30日の連盟理事会では、日本軍は自国民の安全と財産の保障が確保されるとともに鉄道附属地に撤兵するとの決議が、日本政府も加わった満場一致で成立している、そ して中央では、交渉相手をめぐる論議が活溌となり、「外部省ハ其ノ相手ヲ南京政府トナスノ意嚮ヲ有シ」「参謀本部ハ交渉ノ相手ヲ南京政府トスルハ不可ニシテ満蒙二樹立セラルヘキ新政権ヲ之カ交渉ノ相手トナスコトヲ方針」とするといった有様であった。しかし満蒙新政権といってもまだそれが果して成立するかどうかもわからない段階であり、実際には参謀本部第一部でも「当部関係課長ノ多クハ先ヅ張学良」と交渉すべしとの意見であったが、関東軍と連絡のある「第一部長建川少将(31・8・第二部長より転任)ハ絶対反対ヲ表明シアリ」という状況であったという(119)

 こうした中央の状況に対して、現地の関東軍は、9月28日に吉林の煕治、ハルビンの張景恵に張学良からの独立を宣告させて、既成事実の創出を急ぐと共に、10月2日には、さきの9月22日案が「支那政権」(「宣統帝ヲ頭首トスル支那政権」)とした目標を一歩進めて「独立国」とし、「各種独立運動ハ極力之ヲ促進」すること、「既得権擁護」というこれまでの標語を「新満蒙ノ建設」に改めることなどの新方針を決定した。それは「独立国」問題を提起することで、南京政府に満蒙新政権を認めさせようとする発想をも含めて、中国との交渉の基礎を破壊し、交渉を成り立たせなくしようとするものであった。従って関東軍側でも「政府カ我方針ヲ入レサル如キ場合二於テハ在満軍人有志ハ一時日本ノ国籍ヲ離脱シテ目的達成ニ突進スルコトヲ要ス」といった覚悟が必要と感じられていた(120)

 いわゆる十月事件と呼ばれたクーデターの陰謀は、こうした関東軍の覚悟に呼応するものであったと思われるが(121)、 中央部にも関東軍に同調しようとする動きは急速に広まっていたと思われる。例えば9月30日に参謀本部内で作成された「満州事変解決二関スル方針(122)」をみると、独立「政権」論に立つものではあるが、満蒙を「支那本部ヨリ政治的二分離」することを目的とし「張学良南京政府又ハ現在ノ儘ノ広東政府トノ間二交渉二入ルコトハ厳二之ヲ避クルヲ要ス」として、全面的な交渉拒否の立場を打ち出している点が注目される。そしてその結果「支那本部諸政権トノ間二相当長期二亘ル紛争継続ヲ予期セザルヘカラス」とし、交渉によらずに「満蒙二生スル新事態ヲ黙認又ハ是認セシメ」ようとしているのは、以後の対中国政策のあり方を予感しているとも云えよう。

 ともかくも、関東軍の側から云えば、中央における「交渉」論を挫折させることが先決となるわけであり、10月8日張学良政権の移転先である錦州の爆撃を強行したのは、参謀本部の課長たちの中にさえみられる張学良との交渉論に一撃を加え、張学良政権を敵とする既成事実をつくり出そうとするものであった。確かに錦州爆撃が政府に与えた衝撃は大きく、軍中央部もこれを抑ええなかったという事態に直面した幣原は、逆に「交渉」の方を既成事実化する ことで、関東軍に対抗しようとする方策に出たと思われるのである。

 幣原外相は10月13日に再開された連盟理事会に対して、鉄道問題など5項目の問題についての日中間の協定の成立を撤兵の条件とする新しい提案を行ったが、それは出来るだけ早く国民政府との交渉に着手したいとの考え方を示すものであったであろう。そして国内的に云えば、この段階では、それが幣原の立場を守る最低線にほかならなかっ た。しかし国際的にみれば、出兵したままでの交渉の要求が、武力により協定を押しつけようとするものとみられるのは必然であり、10月23日の理事会には反対に、次の理事会予定日である11月16日までに日本軍の満鉄附属地内への撤退を求める決議案が提出され、全会一致の原則のため日本の反対で否決されたとは云え、13対1で日本以外の賛成を獲得するに至っていた。幣原外交の立場はここで実質的に崩壊したといってよかった。そして関東軍はこの機会に更に前進を企てていた。

 その翌日、10月24日には関東軍は「満蒙問題解決の根本方策(123)」を定め、「東北四省並内蒙古を領域とする新満蒙国家」の「建設」のために、当面は「拙速を旨として」東三省(熱河省はあとまわし)の「聯省統合を行ひ」「我要求条件を容認する新国家の樹立を宣言せしむ」という具体的手順までも打出してきたのであった。すでに11月21日には「満州建国第一次の具体的策案」として「満蒙共和国統治大綱案(124)」が準備されていた。ここで「拙速」とは、幣原のもくろむ交渉の既成事実化への対抗を意味することは云うまでもないが、同時に新国家建設のための、関東軍の新たな武力行使の構想を合むものであった。

 さきの「根本方策」は、「新国家建設運動は表面飽迄支那人の手に依り行ふも内面的には今一層強力なる支持を与へ之を促進し、特に速に黒竜江省政権の刷新、錦州政府の掃蕩、学良勢力の覆滅を期す」と述べているが、「特に速に」以下の3つの目標が「表面飽迄支那人の手に依り行ふ」などというやり方で処理できるものでないことは、関東軍も充分に承知しているところであった。従ってこの時点ですでに、(1)「黒竜江省政権の刷新」に関しては、嫩江鉄橋修理を口実にして軍を北進させ、チチハルを攻略する、(2)「錦州政府の掃蕩」、(3)「学良勢力の覆滅」(この時期は河北省は張学良の勢力下にあった)については、華北で中国人を買収して反張学良暴動を起させると同時に、これを呼応する形で関東軍が錦州を攻略する、という具体策が立てられていたとみられる。後者の平津(北平・天津)方面での工作には土肥原大佐があたることとされ、彼は「謀略費として相当の金額を携行(125))して、10月27日天津に向け出発している。

 ともあれ、これらの方策が実行されたならば、関東軍はこれまで以上に、附属地から更に遠く出撃することになるわけであり、事態は「拡大」の新たな段階に引き込まれることになる筈であった。従って政府も軍中央部も、一応は11月16日に再開を予定されている連盟理事会を顧慮して関東軍を抑え込もうとしたが、結局は、嫩江鉄橋修理のための出兵(11月4日−6日)、ついでチチハル占領(11月19日)をも認めざるをえなくなっていった。華北でも11月8日日本側の操縦する暴動がおこされ(第一次天津事件)、土肥原らはそれに乗じて溥儀を天津から満州に連れ出すことに成功している。そして11月26日には再度の暴動が企てられたが(第二次天津事件)、関東軍が錦州攻略に利用できるほどの緊迫した情勢をつくり出すほどの力はなく、このときは錦州攻撃は実現せずに終った。しかし北方でのチチハル占領の認可は、南方での錦州攻略の実施に連動してくる筈であった。

 チチハル占領につづく12月11日の若槻内閣の総辞職、幣原外相の退陣は、関東軍の主導する「満州国建国」政策が、ついに日本の対中国政策の中枢を占拠したことを意味するものであった。翌々13日成立した犬養内閣は17日の閣議で錦州攻撃を承認、内地部隊の増派を得た関東軍は12月24日に作戦を開始し、翌32年1月3日には錦州を占領している。そしてこの錦州作戦と並行して、陸軍中央部の人事異動が実施されていた。内閣交代にとも なって陸軍大臣が南次郎から荒木貞夫に代ったのにつづいて、12月23日には参謀総長が金谷範三から閑院宮載仁親王に、翌年1月9日、参謀次長が二宮治重から真崎甚三郎に、さらに2月29日陸軍次官が杉山元から小磯国昭へという大異動であったが、これはまさに「満州国建国」工作の全面的承認への陸軍中央部の転換を意味するものであった。

 荒木新陸相は、錦州占領直後に打合せのため関東軍参謀板垣征四郎大佐の上京を求めたが、1月8日には関東軍に対する勅語が発せられ、そこで「或ハ嫩江、斉々哈爾地方ニ、或ハ遼西、錦州地方ニ」と情勢を転換させた作戦を具体的に指示して、天皇の名で関東軍の軍事行動を賞揚したことは、政府・軍部をふくめた新たな中央部が、「満州国建国」の国策化に転じたことを端的に示すものと云えた。そしてそれは、板垣の上京をむかえて陸海外三省間でつくられた「支那問題処理要綱(126)」に明らかであった。この「要綱」は「満蒙」と「支那本部」に対する方針を区別し、まず前者については「満蒙は之を差当り支那本部政権より分離独立せる一政権、統治支配地域とし逐次一国家たるの形体を具有する如く誘導す」と規定して、これまでの関東軍の方針を追認すると同時に、後者に関しては「支那本部政権……をして満蒙に対する一切の主張を自然に断念せしむる如く仕向くるを以て主旨とす」との方針を、はじめて政府レベルで確認したものであった。

 この「一切の主張を自然に断念せしむる」とは、一方では満蒙問題に関する中国側との「交渉」を否定するものであることは勿論であるが、他方では日本の対中国政策を、(1)中国側に奪回をあきらめさせるまでに満蒙支配を強化し、(2)「支那本部政権」の対日反抗力を解体してゆくという2つの方向に局限することを意味するものであった。そしてこのような「自然に断念せしむる」政策の採用は、当然中国との外交ルートを休眠状態におくことを意味したが、しかし他方では中国に対する全面進攻をも否定するものであり、従って軍中央部の発言権を直接に増大させることを意味するものではなかった。この政策によって重視されるのは「満州国」の育成=満蒙支配の強化=直接的な敵対勢力の除去といった問題であり、従ってこの政策は、こうした問題にかかわっている関東軍をはじめとする現地軍の政治的地位の強化をもたらすものであった。

 ともかくも、ここで「満州国建国」を国策化することに成功した関東軍は、以後「拙速」をもって「建国」を急ぎ、32年3月1日には張景恵らに「満州国建国」を宣言させた。そして半年後の9月15日日本政府は正式に「満州国」を承認したが、それは「満州国」の支配権を握ることで強化された関東軍の地位を承認することでもあった。第一次大戦後の満蒙治安維持政策とともに政治化の道をたどってきた関東軍は、今や「満州国」という拠点をつくり出すことによって、全中国政策に規定的な力を及ぼし得る地位に立ったのであった。



3 熱河作戦と傀儡部隊


 「満州国建国」は、たんに東北地方を中国から切り離したというだけのことではなかった。「満州国」は今度は、中国に対する攻撃の拠点とされるのであり、その意味では、日本の侵略は新たな段階にはいったと云ってもよかった。そしてそれは、侵略の実際の形態という面から云うと、東三省分離を実現した現地軍主導型の侵略が、現地軍の主導性を強めながら、華北分離・内蒙分離へと拡大されてゆく点を特徴とするものであった。従って、この段階の問題を把握するためには、この主導性の内容を検討することからはじめねばなるまい。ここで現地軍という用語を使ったのは、侵略の拡大に従って、関東軍から天津の支那駐屯軍、さらに各地に増設されてくる特務機関もふくめて、現地における車部相互のいわば横断的な連結・結合関係が形成・強化されてくる点を強調するためであるが、しかしそれは、関東軍の行動の波及を基本とするものであり、やはり関東軍の問題の解明から出発することが必要であろう。

 そこで、柳条湖事件以来の関東軍の中央に対する主導性の根拠を探るために、その行動を図式化してみると、まず軍事面では、局地的軍事行動を中央の諒解・承認をとりつけながら積み重ねてゆく、という方式が基本となっていることがわかる。勿論すべてについて事前に諒解・承認を得ているわけではないが、その代表的な例である柳条湖事件にしても、前述したように、翌日には中央の実質的承認をとりつけているのである。また軍事行動の規模にしても、基本的には(さまざまな形で増援問題が提起されたにしても)、関東軍の戦力の範囲内で企画されたものであった。つまり純軍事的にみれば、関東軍の行動は、大枠では中央の統制下にあったとみることができる。従って、「関東軍の主導性」は、その軍事行動そのものによってではなく、むしろその政治行動の部分から生み出されてきたとみなくてはならなくなる。

 ところでこの時期から軍人達は好んで「謀略」という言葉を使うようになるが、この「謀略」こそ、関東軍の政治行動の基本であり、関東軍によるその成功が、この言葉を広く流通させることになったと考えることができる。いまここで「謀略」の一般論に及ぶことは避けるが、この時期の関東軍の場合には、自らは背後にかくれて、中国人(あるいは中国人にみせかけた日本人)に一定の行動を起させ、それを利用して、次に関東軍自身が行動を起す、というのが「謀略」の基本的パターンであった。この関東軍に利用された人々を「傀儡」と呼ぶことにすると、その役割は大体2つに大別することができる。すなわち関東軍にとって第一には、軍の出動の口実をつくるために、治安かく乱的な事件をひき起す者が、第二には、日本軍の実質的支配をおおうために、表面上の支配者の役割を演ずる者が必要であった。すなわち関東軍側は、第一の傀儡に事件の責任を押しつけ、第二の傀儡については、彼等の自発的行動であることを強調することによって、自らの責任を問われない形で、その効果だけを獲得するというわけであった。そして軍中央部の側は、こうした傀儡たちの行動を阻止あるいは統制しえないままに、関東軍の局地的軍事行動を個々に認可してゆくことになり、それによって全体としての関東軍の政治的意図に追随してゆくことになるのであった。も ちろんそこには、謀略であることを知りながら、これを支持する勢力が中央部でも強い影響力をふるっているという条件があるわけであるが、ともかくも関東軍の主導性とは基本的にはこのような図式によって実現されてきたのであった。従って「満州国建国」の過程は、関東軍に即して云えば、局地的軍事行動と政治的謀略=傀儡化工作の組合せであったと云うことができる。そして今や「満州国」の指導者・後見人としての地位を得た関東軍は、「満州国」の防衛、発展を理由としながら、軍事行動と政治的謀略とを新たな形で組合せ始めるとともに、現地軍相互の連動関係を拡大することになるのであった。

 ところで、1932年の関東軍は、「満州国建国」工作を推進とすると同時に、北満をはじめとする抗日勢力の討伐に主力をそそぎ、当初から予定しながら、「拙速を旨として」積み残しとした熱河省の「満州国」への取り込みについては、表立った積極的な動きを示していない。それは軍事的余力がないという条件とともに、「熱河省は政治的解決に依り自ら求めて合流し来る如く先づ湯玉麟(熱河省主席)を支待す(127)」との方針にみられるように、政治的謀略による服属に期待がかけられていたことを示すものであった。しかも、すでに述べたように、熱河省の問題は最初から華北における張学良勢力の打倒と結びつけて考えられており、熱河における謀略と華北における謀略とは連動する関係にあったとみられる。

 このうちまずさまざまな動きのみられたのは華北であった。そこでは、前述した天津事件以来、関東軍のほか天津特務機関・支那駐屯軍などの裏面からの傀儡化工作が交錯して続けられていたとみられ、反張学良勢力への働きかけは山東にまで及ぶものであった。例えば片倉衷の『満州事変機密政略日誌』12月20日の項に「韓復は一般の形勢を観望し近く蹶起するものの如く石友三亦野心満々たり(128)」と述べられているのは、こうした山東での反張勢力への期待を示すものであった。このうち韓は元来馮玉祥のもとの軍長であったが、1929年馮が反蒋介石の軍を起した際に蒋支持にまわり、その後、山東省主席の地位についている。また石も韓とともに馮玉祥から離れ、一時反蒋挙兵を企てて失敗、韓のもとに身を寄せる有様となっていたものであった。そして、32年3月、天津の桑島総領事は彼らの動きを次のように伝えていた。

 

 石友三ノ野望未タ失セス、劉景堂及馬峰(山東土匪軍頭目)ノ部隊並二旧来ノ部下ヲ合セ約一万五千ノ実カヲ以テ反張学良軍事行動ヲ再起スヘク劃策シ、韓復ニ縋リ頻リニ其援助ヲ求メタル処、韓ハ武器弾薬ノ補給ハ承諾シ居ルモ軍費ノ支給二付難色アリシカ、最近二至り商議纏リ軍費(一箇月三十万元ノ見当)ヲ韓、石両人二於テ夫々半額ヲ負担スルコトニ内定シタル由ニテ、石ハ只管京津地方二於テ策動中ノ李際春一派ノ発動ヲ待テ行動ヲ開始セント焦リ居レリ(129)


 この情報の内容がどの程度確かであるか明らかにしえないが、ここに出てくる人物がいずれも日本の傀儡化工作の対象である点が興味深い。まず劉景堂は劉桂堂の誤りであるが、この人物については、済南の領事館警察の報告書(130)をみると、「山東著名ノ土匪劉桂堂等ノ部隊ハ、(32年)1月中旬正規軍二改編セラレ山東警備軍トシテ魯北二駐屯スルニ至レルガ、匪賊的行動止マ」ず「6月初旬同部隊ハ山東西南北ノ各地二割拠シ人質ノ拉致、掠奪ヲ檀ニスルニ至リ」、結局9月には韓復軍に討伐され、山東より放逐されるに至ったという。つまり、さきの桑島報告は、正規軍 にくり入れられた劉桂堂部隊に、失意の小軍閥石友三が手をのばしたことを示すものと思われるが、その半年後に匪賊として山東を追われた劉が、翌年には、後述するように関東軍の熱河作戦に組み込まれた傀儡部隊の隊長として登場してくるのであり、彼等の背後にはこの段階から日本側の工作が存在していたとみなくてはならない。

  次に桑島報告の末尾に出てくる李際春であるが、彼はすでに31年11月の天津事件で傀儡として活動しており、彼を利用した土肥原の動きは、次のように伝えられていた。

 

 彼(土肥原)ハ来津先ツ安福派ト連絡ヲ試ミタルカ之二応スルモノナキ為、結局当地二保安隊ト連絡アル張壁及無頼漢及青幇等ト関係深キ李際春並二于学忠部下ノ間二信頼アル馬廷福等ヲ説服シ夫々保安隊ノ買収便衣隊ノ組織及学忠部隊ノ抱込ミニ当ラシメ五万元ノ運動費ヲ給シ又駐屯軍ノ二、三名ヲ動カシ関東軍ヨリ輸送ヲ受ケタル兵器ヲ窃二李二補給セシメ且一切ノ暴動計画二参加セシメタルコト歴然タル確証アリ(131)


 この李際春は、32年春になってもまだ北平・天津方面で暗躍しており、石友三はそれに期待しながら、劉桂堂と連絡し韓復の援助を求めていたというわけである。しかし32年段階の熱河・華北における政治的謀略が何等の成果をあげることができなかったことは、湯玉麟や韓復の省主席クラスは動かず、また劉桂堂や李際春は次にみるよ うに関東軍の支配下に移動させてしまったことからも明らかであろう。日本側も劉や李は、日本軍の直接的軍事的支援なしには、何事もなしえないとみてとっていたにちがいない。

 1933年に入ると、関東軍はさきの平和的に湯玉麟を「満州国」に合流させようとする方針をあきらめ、武力に よって熱河省を平定し、長城をもって「満州国」の南部国境とする作戦を実施することとした。2月17日に発令さ れた作戦命令によれば、(1)第六師団を主力とし、熱何省東境・内蒙古方面に向う作戦、(2)第八師団を主力とし熱河省南境から河北省方面に向う作戦とが指示されているが、同時に発せられた軍隊区分(132)をみると、第六師団の指導する区処部隊に「満州国軍隊」があり、その一部として「護国遊撃軍、長、劉桂堂」が加えられている。また第八師団の区処部隊には「救国遊撃隊、長、丁強」とあるが、この丁強は、ほかならぬ李際春の別名であった(133)。このように、熱河作戦の最初から傀儡部隊を用意したことの意図を直接に示す資料は今のところ見当らないが、その後の経過からみれば、熱河省の外側にこれら傀儡部隊の支配地域をつくり出すことをねらったもの、と考えられるのである。そして、 劉桂堂部隊が「満州国軍隊」とされ、李際春部隊の募兵が錦州方面で行われているように(134)、これらの傀儡部隊の出現は「満州国」を拠点とする新しい謀略ということができる。

 33年2月下旬から開始された熱河作戦は、ほぼ1か月で熱河省及び長城の主要関門を占領、4月には中国側の反撃を理由として長城線をこえて関内に入ったが、この時は軍中央部からの抑制により4月19日一たん長城線に引あげている。しかし5月に入ると、関東軍は再び中国側が攻勢に転じたとし、5月8日「坐シテ支那軍ノ挑戦ヲ甘受スル能ハス」「飽クマテ其挑戦的意志ヲ挫折セシムルニ決セル(135)」旨の声明を発して関内への侵入を開始、戦闘は5月31日の塘沽での停戦協定調印までつづくことになる。

 この間、劉桂堂部隊は熱河省西方の多倫に進出したが、しかし、相対峙していた崔興武軍が李守信にひきいられて帰順してくると、関東軍は次第に劉桂堂よりも李守信に重きをおくようになり、劉は再び華北方面に離脱、多倫地区は察東特別区(察はチャハル省)として李守信軍の支配下におかれている。ここでは劉が李に入れかえられているが、いずれにせよ傀儡軍の支配地域をつくろうとする志向は、河北方面に於ても同様であった。この方面でも丁強=李際春軍は日本軍に従って4月初めに関内に進出しているが、この傀儡部隊を長城以南で利用する計画であったことは、すでに本格的関内侵攻が行われる以前に、外務省側でも察知しており、4月20日内田外相は「此項極秘」としながらも駐英・米大使にあてて「(さんずい+欒)河以東ノ地区ノ治安維持ハ結局丁強及寝返リ支那軍等二於テ之二当ルコトナルベキ見込ナリ(136)」との情報を送っていた。

 こうした動向に呼応して、さきの石友三も4月22日済南から天津に向ったが(137)、そこに済南駐在武官中野英光中佐も同行していることは、日本側も石による傀儡部隊拡大を望んでいたことを示すものと思われる。5月4日には天津の桑島総領事は「確実ナル情報二依レハ山東者方面二於ケル石友三ノ部下約一千ハ(さんずい+欒)東二入リ丁強軍ト行動ヲ共ニ スル為、目下山東ヨリ船ニテ秦皇島二向ヒツツアリ(136)」と報じている。

 こうした傀儡部隊の編成と利用は、熱河作戦の新しい性格を示すものと云えるが、しかし日本軍の政治的謀略がこうした形だけに単純化されたことを意味するものではなかった。華北ではこれとは別に、天津特務機関がクーデターを計画しており、関東軍も、4月26日には、「平津地方二蒋介石政権ノ延長二非ル別個ノ政権樹立セラレ、満州国二対スル直接間接ノ策動特二熱河省境二対スル軍事行動ヲ停止スルコトハ関東軍ノ最モ希望スル所ニシテ之カ為段祺瑞ヲ押スモ閻錫山ヲ引出スモ敢テ不可ナシト考フ」と中央に打電(139)してこれを支持していた。それに対して中央も5月6日には参謀次長名で現地に対し「北支方面応急処理方策(140)」を送り、「関東軍ノ武力ニ依ル強圧ノ継続ヲ基調トシ、且之二策応スル北支施策トニ依リ現北支軍憲ノ実質的屈伏若ハ其分解ヲ招来シ、満支国境附近支那軍ヲ撤退セシメ該方面ノ安静ヲ確立ス」べしとの方針を指示していた。

 これらのことは、熱河作戦の進展とともに、出先から中央に向って、先述したような現地軍の主導性のもとに、華北を蒋介石政権から切り離した別個の政権のもとに置こうとする分離主義の志向が拡大していったことを示すものであった。そして華北での謀略は次のような形で伝えられていた。すなわち桑島天津総領事の報告(141)によれば、天津特務機関の大迫通貞中佐は呉佩孚・張作相に働きかけ、「張二依リ旧東北軍ノ残部ヲ操縦シ、呉ニ依リ于学忠ノ軍ヲ動カ シ両者合シテ約十五万ノ兵力ヲ以テ河北ニ独立政権ヲ樹立セシメントノ計画ヲ樹テ」5月9日には北平で呉佩孚と会見して「差当リノ運動費トシテ五万元ヲ交付シ、張作相立ツニ於テハ呉モ直二右運動二加ハル諒解ヲモ取付ケ」ており、また「板垣(征四郎)一派ハ当地(天津)ニ於テ百万元提供等ノ条件ヲ以テ極力張ノ奮起ヲ説得」しているというのである。そしてその目標は、「北平天津其他河北重要都市二治安維持会ヲ設立シ、其ノ首脳二呉佩孚ヲ推戴シ、南京政府二対シ抗日戦ノ停止及中央軍ノ南方引揚ヲ要求シ抗日雑軍等二対シテハ長城ヨリ一定ノ距離二後退ヲ強要シ、斯クシテ日本軍ト事実上ノ停戦ヲ実現シ、一方南京側ハ其ノ体面上斯ル行為ヲ承認スル筈ナキヲ以テ其ノ場合之ト絶縁シ独立政権ヲ樹立シ満州国ト提携セントスル」ところにあるというのであった。

 ここに述べられている日本側の意図は、要するに反蒋介石派に属する大物政治家を引き出して華北に親日政権をつ くり、「中央軍ノ南方引揚」などを要求して国民政府の勢力を排除し、「満州国」と提携させようとするものであり、前述したような「満蒙に対する一切の主張を自然に断念」せしむるという対中国政策の一形態ということも出来る。 また、この時期にはまだ表面化していなかったが、徳王を対象とする関東軍の内蒙古工作も、同一の発想によるものと云えよう。

 しかし結局のところ、日本軍が傀儡化しえたのは、「山東著名ノ土匪劉桂堂」や「無頼漢及青幇等ト関係深キ李際春」といった人物のみであり、自ら独自の政治力を持つような人物を動かすことは出来なかった。天津特務機関のクーデター計画も何の成果も生み出しはしなかった。しかし日本側はこの点を深く反省しようとはせず、むしろ、熱河作戦とともに生じた華北親日政権の構想は、そのまま停戦協定のなかにまで持ち込まれることになるのであった。

 熱河から関内に入った関東軍も、北平・天津まで占領する準備はなく、従って政治的謀略の失敗が明らかになるとともに、何らかの形での収拾が必要となってきた。そしてこの時、中国側にも妥協的な働きが表面化し、事態は停戦に向って動き始めた。すなわち国民政府は、5月3日の中央政治会議で、華北における日本との折衝の窓口として、親日派とみられた黄郛を委員長とする行政院駐平(北平)政務整理委員会を設置することを決め、以後黄郛は日本側との接触を試みつつ、停戦の可能性を探り始めることになった。そしてこの間、関東軍側には、失敗したクーデター謀略方式にかえて、この黄郛を長とする政務整理委員会を親日政権に変えてゆく可能性に期待をかけようとする動きさえあらわれていた。例えば停戦直前の5月28日、関東軍参謀長は天津特務機関にあてて、「此際北洋軍権者ヲ 中心タラシメントスル従来ノ企図ヲ速二一蹴シ、黄郛ヲ説得シ同人ヲ中心トスル親日満政権ノ速ナル樹立ヲ策」すべきだとの意見(142)を送っていた。

 停戦協定は、33年5月31日、塘沽で関東軍代表、参謀副長岡村寧次少将と、国民政府軍事委員会北平分会代表、総参謀熊斌中将との間に調印された。関東軍がこの協定の調印当事者となったことは、この段階での関東軍の対中国政策に対する主導性を示すとともに、熱河作戦においてあらわれた政治的意図が、この協定の実施過程にもち込まれてくることを意味するものでもあった。



4 塘沽協定とその実施

 塘沽協定は、単なる停戦協定ではなかった。たしかにこの協定によって、日本の軍事行動には一応の区切りがつけられたが、それは事態が平静に帰したことを意味するものではなかった。協定調印の前々日、33年5月29日、関東軍参謀長は、陸軍中央部にあてて「関東軍ノ余威尚冷メサル時期二於テ、機ヲ失セス今回ノ停戦協定二引続キ第二次協定ヲ行フヲ要ス」として、「北支政権」(政務整理委員会を指す)による一切の排日行為の禁止や「満州国ト北支 トノ合法的交通及交易」の開始などを要求すべきだとの意見(143)を送っているが、それは「停戦」のなかに、「満州国」の存在を実質的に承認し、それに反対する動きを解体するという要求をふくませようとするものであった。つまり関東軍側は中国側軍事当局との間の停戦協定だけでなく、それにつづく政務整理委員会との第二の政治協定をも予定していたわけであるが、しかし、実際には最初の停戦協定からすでに、そのような政治的要求をふくむものとされたのであった。つまり塘沽協定は、軍事行動を停止する代りに、新たな要求をつきつけるものであり、しかもその実施が、現地軍の手に握られている点を最大の特徴とするものであった。

 まず塘沽協定は、長城線南側に停戦ライン(地図参照)を設け、この2つの線で囲まれた部分を停戦区域(「戦区」と通称)とし、日中両軍はそこから撤退するという点を中心とするものであったが、しかしそれは、日中両軍の対等の立場での停戦と非武装地帯の設定を意味するものではなかった。
協定の内容を具体的にみてゆくと、まず第一項は、中国軍の戦区からの撤退を規定したものであるが、同時にその末尾には「又一切ノ挑戦攪乱行為ヲ行フコトナシ(144)」という漠とした規定が附されており、以後関東軍側は、この規定は華北における反日、抗日運動をすべて禁止するものだと主張するようになるのであった。

 協定第二項は、中国側の第一項実行を確認するため に、日本軍が「飛行機及其他ノ方法」によって「視察」することを認めたものであったが、日本側は前項の拡大解釈に対応させて、この条項を「華北自由飛行」の根拠として利用したのであった。第三項は、日本軍が戦区から撤退することを規定したものであるが、 第一項を中国側が遵守したことを確認することを条件としており、しかも「自主的ニ概ネ長城ノ線ニ帰還ス」と規定して、日本軍の撤退を中国側が強制しえないようにし、そのうえ戦区内駐屯の余地を残したものであった。第四項は、この両軍の撤退が予定されている戦区内の「治安維持ハ中国側警察機関」がこれに任ずることを規定したものであったが、ここには、この警察機関として「日本軍ノ感情ヲ刺戟スルカ如キ武力団体ヲ用フル事ナシ」という、あまり例をみない条件がつけられており、それは具体的には、さきの傀儡部隊に戦区を支配させる根拠をつくり出そうとするものであった。そしてさきの「挑戦攪乱行為」の禁止や、この戦区「治安維持」などの問題は、以後の中国側行政の問題であり、従って関東軍側は、塘沽協定実施のための交渉という形で、政務整理委貝会を交渉の当事者に引き出してくるのであった。

 まず最初に開かれたのは、停戦協定調印約1か月後の7月3日から5日にわたる大連会議であり、ここには政務委員会と関東軍の代表のほかに、前述の李際春が出席していた。そしてこの会議では次のような取り決めがなされている。

 

一、

李際春軍中優良ナル四千人ヲ選択シテ、保安警察隊二改編シ残余(六千人ヲ限度トス)ハ武装ヲ解除ノ上裁撤ス、

 

二、

改編保安警察隊ハ河北省政府二隷属シ、其ノ総隊長ハ李際春ニ於テ推薦シタルモノヲ任用ス(145)


 それはまさに、日本の傀儡部隊を戦区警察隊として、中国側の費用で再編させるという露骨な措置であり、戦区を傀儡部隊の拠点にすることをめざすものであった。そして同じことは、内蒙古・多倫方面でも試みられており、関東軍はこの方面の問題を交渉の爼上にのせることを拒否しつつ、実質的な戦区化を企てていた。この大連会議につづいて、33年11月に塘沽協定善後処理のための北平会議が開かれることは後述するが、その準備の過程で多倫地区についての次のような方針が決定されていることは興味深い。

 すなわち、北平会議において、中国側が察東問題=李守信軍の多倫地区占領を問題とする場合には、「目下察哈爾地方ハ極メテ平穏二維持セラレアルヲ以テ、北支政権ハ暫ク現状ヲ黙認シ専ラ河北省戦区内ノ整頓ニ努カスルヲ可トスル旨」「申渡」スが、なお中国側がこれに満足しない場合には「一、停戦協定線ノ延長以北ノ察哈爾省ニハ正規軍隊ノ進入ヲ許サズ、二、北支政権右ノ地帯二対シ何等カ企図ヲ有スル場合ニハ李守信ト協議セラレ度シ」と「言明」するとの方針(146)が定められていたのであった。実際の会議ではこの「言明」は為されなかったが、中国側が提出した「察東地区及多倫ノ接収ヲ完全ナラシムル為」「同地方ノ抗命部隊及土匪ヲ自由二討伐処置」したいとの希望事項に対しては、関東軍側は「停戦協定ノ根本二抵触スル」として拒否しており(147)、このことはこの地方をも停戦協定による戦区と同様に位置づけることを意味していた。
 関東軍側が意図した停戦協定の善後処理とは、こうした停戦ラインとその延長によって傀儡勢力の支配地域をつくり出すと同時に、こうした体制を前提として「満州国」と中国側政務整理委員会との関係をつくりあげ、「満州国」承認のいとぐちにしようとするものであった。この交渉については、関東軍の方針に陸軍省・外務省も原則的な同意を与えているが、「交渉ノ主眼ハ実質的ニ満州国ト北支那間ノ通商、交通、通信等ヲ回復シ、為シ得レハ之ニ関連スル諸問題ヲ解決スルニアリ」とされ、また交渉にあたっては「支那側ヲシテ実質的ニ満州国ノ存立ノ事実ヲ認容セシムル如ク指導(148)」しようと企図するものであった。

 11月7日から9日にわたる北平会議は、関東軍参謀副長岡村寧次少将と政務整理委員会委員長黄郛との間で進められたが、まず日本側から提出された議案は、中国側を「北支政権」と名づけたうえで、長城線を国境として「満州国」側にとり込むとともに、長城南側に「満州国」諸機関を設置し、「北支政権」と「満州国」との間における通商貿易・交通・通信・航空連絡等の設定を要求するものであった。これに対して黄郛は、政務委員会の南京政府への帰属を強調して「北支政権」の表現に反対し、また「満州国」の文字を強く拒否したが、関東軍側は結局、前者を「華北当局」、後者を「関東軍ノ指定スル必要ナル機関(又ハ委員)」と修正しただけで、内容的には、殆んどそのまま中国側を押し切ってしまった。そしてこの申合せの線にそって、以後現地事務当局レベルの協定という形で「満州国」と中国との間の連絡がはかられるのであり、34年6月1日より無電協定、同年7月1日より通車協定、35年1月10日より通郵協定が実施されていった。

 それは現地レベルでの実質的な「満州国」承認を意味するものであったが、同時にまた国民政府の日本に対する妥協的態度を示すものでもあった。当時の国民政府は汪兆銘を行政院長とする、いわゆる蒋汪合作政権であり、黄郛の対日交渉を支えたのは、汪の支持であったとみられるが、このような汪=黄体制による対日妥協政策の採用は、日本側に、黄郛の政務整理委員会による華北の「親日地帯」化を国民政府に容認させるという形での、中国の対日政策の 「実質的転向」が可能であるかの如き幻想を生み出し、軍中央部にまで拡大することになるのであった。例えば33年9月から10月にかけての五相会議用につくられたとみられる陸軍の「帝国国策(149)」中の「対支策」の部分には、「対日政策の実質的転向を助長強化し」「広く親日地帯を設定せしむることを以て対支政策の基調たらしむ」「支那の分立的傾向に即応し親日分子の養成及之が組織化を促進する」などの字句を見出すことができるのであり、それはまた云 いかえれば、関東軍が熱河作戦・塘沽協定で推進してきた分離主義(華北・内蒙)の志向が、軍中央部に浸透してきた ことを意味するものでもあった。そしてこうした方向への第一歩として、現地軍部が期待したのは、黄郛が対日妥協 を促進し日本の要求を満しうるような充分な権限をもつようになることであった。

 例えば、通車・通郵に関する日本側の強硬な要求に困惑した黄郛は、34年2月頃には蒋・汪らとの打合せのため 一たん南下する意向を示したが、このとき菱刈関東軍司令官は北平駐在武官に対して、黄郛「南下ノ際、北支政権ノ 権限拡大強化及国民党部ヲ北支ヨリ駆逐スルコトニ付蒋介石ヨリ充分ノ保障ヲ取付クル様激励」せよと指示した。こ れに対して北平駐在武官の側でも、柴山兼四郎中佐が参謀本部に意見書を送り、黄郛が蒋介石に対して「河北政権ノ 根本的改組ヲ提案」する決意をしているとの希望的観測を行っているが、同時に「帝国ハ此際今暫ク彼等(黄郛)ニ藉スニ時日ヲ以テシ、此ノ間直接彼等ヲ指導シ其ノ決意ヲ益々強固ナラシメ之カ実現ヲ促進セシムルト共ニ、一面南京政府ヲシテ右提案ヲ容レ彼等ノ抱懐スル積極的政策ヲ断行セシムル如ク指導スルヲ要ス(150)」として黄郛と同時に南京政府を「指導」する観点を提起しているのは、この時期の軍部の姿勢を示すものとして興味深い。

 しかし黄郛はこうした日本の期待に応えようとはせず、また日本の「指導」をうけいれようともしなかった。34年4月9日から13日にかけて南昌で蒋介石、汪兆銘と協議して「満州国」不承認の範囲内で問題を処理する方針を 固めた黄郛は、関東軍側との交渉は殷同にまかせ、南京にとどまって、通車案の中央政治会議通過をはかっているが、この間、有吉公使の政務整理委員会改組説に関する質問に対しては「之ヲ一笑二附シ、組織変更や権限ノ拡張等計画 シタル事無ク(事実黄ハ此種計画有ルヤ否ヤ知ラサル様見受ケラレタリ)、権限問題等二付今回何等ノ打合モ為ササリシ(151)」と答えており、関東軍側が期待した国民政府から自立する傾向など全くあらわれてこなかった。しかもその後、 政務整理委員会との交渉も次第に困難の度を増していった。  

 まず通車問題は、「満州国」鉄路総局と中国の北寧鉄路局が半額ずつ出資して設立する第三機関、東方旅行社が運営にあたるという形で妥協が成立し、前述のように34年7月1日より直通列車の運転(山海関で乗員交替)が開始された。しかし次にとりあげられた通郵問題では、関東軍側が第三機関案を拒否して、双方郵政機関の間で行うことを 主張したため最初から紛糾し、また「切手面ノ国名標記」なども大きな難関となることとなった。交渉は9月28日から北平で聞かれたが、中国側からは、上海郵政総局の高宗武が主席委員となっており、南京の意向は通車の場合よりも強く交渉に反映されたとみられる。結局10月26日にいたり関東軍側は最終案として「満州国ナル文字ヲ表示セザル新切手二依り実施」する案を提示したが、

 

 右最終案二対シ黄郛、殷同、李択一等北支政権派ハ大体同意ヲ表シタルモ、主席委員高宗武ハ飽ク迄中間機構ノ設置ヲ主張シテ譲ラズ、改メテ中央ノ訓令ヲ仰ギタルモノノ如シ。一方南京方面ニテハ反汪策動二関聯シテ通郵反対ノ空気熾烈トナリ、11月14日ノ中政会議二於テハ支那側ノ提案サヘモ之ヲ否定セントスルノ形勢アリ、為二一時其成行憂慮サレタルガ、適々蒋介石ノ北平入リニヨリ、黄、蒋直接談合スルトコロアリ、次テ蒋介石、汪精衛等ノ中央二於ケル斡旋二依り交通部長朱家(馬+華)等ノ態度漸次緩和サレタリ(152)


 といった状況であったという。通郵問題も結局、11月24日中国側が譲歩して関東軍案を基本的に承認し、35 年1月10日から実施されたが、この間における交渉の難航は、現地軍部に黄郛=政務委員会の親日政権化という構想 をあきらめさせると同時に、南京政府を敵とする意識を急速に高めることとなったと思われる。  

 通郵問題が難航していた34年11月中旬、中国各地に駐在する陸軍武官の秘密の会合が、11月12日青島、16日上海で聞かれていた (153)。これらの会合の詳細な内容は不明であるが、上海武官会議では「国民政府ヲ打倒シ親日区域ヲ拡大スルノ国策ヲ遂行スルコト」を申合せ、関係方面に通電したとも伝えられている(154)。ここでの「打倒」とは国民政府を敵とし、その弱体化をめざす政治的謀略を実施することを想定したものであったであろう。この申合せがど のように中央に伝えられ反響を及ぼしたかは明らかでないが、翌月12月7日に陸海外三省の関係課長会議で決定さ れた「対支政策に関する件(155)」のなかの、次のような部分は、上海武官会議の延長上にあるものと考えることができる。  

 すなわち、ここでは「対南京政権方策」と「対北支政権方策」とが区別されているが、まず前者では「国民政府の指導原理は帝国の対支政策と根本に於て相容れざるものあるを以て、南京政権に対する方策の基調は同政権の存亡は同政権に於て日支関係の打開に誠意を示すか否かに懸ると云ふが如き境地に窮極に於て同政権を追込むことに存す る」として、国民政府敵視政策を明確にする。そしてそのための方策としては、次の華北政策にみられるような、親日地帯の南京政権からの切り離しが考えられているのであった。すなわち、

 

 差当り北支地方に於ては南京政権の政令が北支に付ては同地方の現実の事態に応じて去勢せらるる情勢を次第に濃厚ならしむべきことを目標とし、……我方権益の維持伸長に努むると共に、尠とも党部の活動を事実上封ぜしめ、且北支政権下の官職等をして我政策遂行に便なる人物に置き替へしむる様仕向け、北支地方の官民が同地方に於ては排日は行はぬものなりとの先入的の観念を持つに至る様の空気を醸成


 しなければならぬ、というのであった。つまり「北皮政権」という機構を維持しながら、その幹部を日本にとって好都合な人物におきかえ、国民党機関など中央からの統制ルートを排除して「南京政権の政令」が「去勢」されるごと き情勢をつくり出そうというのがこの政策の核となるものであった。そしてここで「人物」の「置き替へ」に言及しているのは、日本側がすでに黄郛を見限っていることを物語るものであった。その1月後の35年1月4日から5日にかけて、今度は大連で再び陸軍武官会議が聞かれているが、その中心的な議題は、黄郛に期待をかけ得なくなった段階で、次にどのような乎を打つかという問題であったと思われるのである。  

 大連武官会議については、「関東軍説明事項 (156)」という文書が残されているが、その内容はこの会議の方向を示すも のとみることができよう。まず封中国政策については、昭和8年10月策定の「封支情勢判断」(おそらく前述の「帝国国策」と同時に作成されたものであろう)と昭和9年11月の上海武官会議の「対支施策案」の主旨を尊重すると述べら れているが、「南京政権ノ政令が去勢セラルル情勢」をつくり出すことを目標としていることからみても、さきの三省課長会議決定を基礎としたものとみてもよいであろう。そしてそのための具体的方策として「之ガ為、我正当ナル権利ノ主張即チ凡有未解決問題、不法行為等二対スル要求、若クハ追及ハ飽ク迄執擁二之ヲ反覆シ現北皮政権ノ倒壊 ヲ招来スルモ意トセス」と述べられており、それは、関東軍が「現北皮政権」=黄郛の政務整理委員会打倒の方針を 打出したことを意味するものであった。  

 しかしこの会議の直後、1月中旬には黄郛の方も、「日本側ノ高圧的態度二依り次カラ次ヘト際限無ク種々ノ要求ヲ 持チ掛ケラレ中央二対シ自分等ノ立場ヲ困難ナラシムルカ如キ状態」には堪えられないとし(157)、辞意を抱いて南下し再 び帰任せず、駐平政務整理委員会は実質的に崩壊してしまっていた。そして3月30日関東軍はさらに「対支政策(158)」を決定し、「停戦協定及附属取扱事項等ニヨリ我己得権ヲ公正二主張シ以テ北支那政権ヲ絶対服従二導ク」と述べて いるが、それは黄郛の政務整理委員会に代えて、「絶対服従」の「北支那政権」をつくり出すということにほかなら なかったであろう。そしてそのための中心的な手段は「一切ノ挑戦撹乱行為」を塘沽協定違反として追求することで あった。

  しかしこのとき中国側では、関東軍とは逆に、政務整理委員会の如き特殊な機構を解消し、対日交渉を中央の手に回収することによって、塘沽協定の実施という形で進められてくる「なしくずし的侵略」を押しとどめようとしはじ めていた。つまり、塘沽協定とその実施過程のなかから、日本側の云う「北支政権」の存立そのものが、日中間の次の段階の争点に押しあげられてくるのであった。



5 華北分離工作と中国の抵抗

 1934年から5年にかけて、日本の現地軍部のなかに、国民政府敵視・華北分離の方向が強まりつつあるとき、国民政府の側には、日本政府との交渉によって、これに対抗しようとする動きがあらわれてきた。例えば汪兆銘は、34年4月18日有吉公使と会談し、「広田外相ノ国際和平工作二対シテハ自分モ大二敬服シ居リ、就テハ此機会二何トカ両国関係ノ改善促進ノ途ヲ講ジタキ希望アリ」と述べて、両国関係を律する原則を設けてはどうかと申し入れ ているが(159)、それは直接にはその原則により、華北や内蒙古での現地軍部の行動に歯止めをかけることをねらったものとみることができる。以後中国側からは、こうした交渉の乎がかりを求める動きがつづけられているが、35年に入ると、1月29日、30日には、蒋介石が自ら公使館付武官鈴木美通中将、ついで有吉明公使と会談するという積極的な動きを示して注目を集めた。そしてさらに2月下旬には、蒋・汪らの意をうけて帰任の途次来日した国際司法裁判所判事汪寵恵が岡田首相をはじめ軍部有力者とも会談しているが、2月26日離日に際しては広田外相を訪れ、 (一)日中関係の平和的処理、(ニ)両国の対等関係の確立、不平等条約の撤廃、(三)中国は排日を取締り、日本は中国の地方政権を支持しないこと、などを申入れている(160)。  

  これは、のちの中国側三原則の先ぷれをなものであったが、中国側のこのような動きは、33年10月以来の第五次掃共戦の勝利により(共産軍は34年7月からの長征を余儀なくされる)、政治的立揚を強化した国民政府が、次の課題 として華北での日本の侵略を押しとどめる方策を模索しはじめたものとみることができる。これらの動きを広田外相がどのように捉えたかは明らかでないが、華北の事態を国民政府に認めさせる交渉が必要な時期に来ていることも考慮されていた筈であり、広田外相もとりあえず、さきの王寵恵との会談で提案されていた公使館の大使館への昇格を 実現(35年5月17日実施)して、中国側に期待を持たせる方策をとったのであった。  

  しかしすでに、国民政府敵視の立場を明らかにしていた現地軍部は、このような国民政府を強めるような措置には強い反発を示した。5月20日には関東軍が、反満抗日活動を行った孫永勤軍の討伐を理由として長城線をこえて戦区に入ったが、これを口火として、現地軍は前述した上海武官会議等で定式化されていたと思われる新たな侵略を開始したのであった。まず5月25日支那駐屯軍は、すでに5月2・3日に起っていた親日派新聞社長らの暗殺事件をとりあげ、それが「蒋介石系統ノ策動」によることが明らかになったとして、国民党機関などの撤退を要求する方針をきめ(161)、6月10日には、河北省からの国民党機関・中央直系軍及び排日的とみた旧東北系の于芋忠の第51軍の撤退、河北者政府の保定移転などを実行させた(日本では支那駐屯軍司令官梅津美治郎の名をとって梅津・何応欽協定と呼ばれているが、両者が文書に調印したというものではなく、日本側の要求を中国側が自主的な形で実行したものであった)。

  これは支那駐屯軍のはじめての政治的行動であったが、関東軍に加えて支那駐屯軍も動き出したことは、両軍の連携により華北における現地軍部の圧力を倍加することを意味した。そしてこのときも、関東軍はすぐさまこれに呼応 し、特務機閣員の監禁という小事件をとらえて、6月27日にはチャハル省への停戦ラインの延長と宋哲元車の撤退を約束させている(土肥原・泰徳純協定)。しかもそのうえ両軍の連携により、さきに中央軍などを追い出した平津地方に、この宋哲元軍を引き入れ、新たな傀儡とすることを策しているのである。  

  それはすでにみてきたような、国民政府の勢力を排除・去勢して、「絶対服従ノ北支那政権」をつくろうとする現地軍部の要求を、端的に実行に移したものと云えるが、中国の主権を侵害し、実質的には、国民政府に宣戦を布告するに等しいものであった。当然に中国の世論は激昂し、中国共産党の「八・一」抗日救国宣言、学生を中心とした 「十二・九」運動などを媒介としながら、以後急速に抗日統一戦線の気運が高まってゆくこととなった。しかし国民政府はまだ、日本政府との間により妥協的な道を見出そうとする動きをつづけていた。梅津・何応飲協定一週間後の6月17日、有吉大使を訪れた国民政府外交部次長唐有壬は、今回の如き事件の再発を防止するため「此ノ際両国ノ 間二提携二必要ナル協調ノ輪廓ト内容トヲ具体的二決定シ置キタキ意嚮(162)」を伝えているが、8月28日国民政府が駐平政務整理委員会を正式に廃止し、宋哲元を平津衛戌司令に任命したことは、日本現地車との対決を避けながら、日本政府との交渉に期待をかけようとする姿勢を示すものであった。そして9月7日には、一時帰国していた蒋作賓大使が帰任して広田外相を訪れ、中国側が日中親善の基本前提と考える条件として、(一)日中両国は相互に相手国の完全なる独立を尊重すること、(ニ)両国は真正の友誼を維持すること、(三)両国は両国間の一切の事件及問題をすべて平和的外交手段で解決すること、という三原則(163)を示した。(一)は不平等な関係の一掃、(ニ)は相手国に対する統一の破壊、治安の撹乱や誹膀など一切の非友誼的行為の排除、(三)は軍部の介入や軍事的手段による圧迫の停止などを要求するものであり、この三原則が実行に移されれば、塘沽協定も梅津・何応欽、土肥原・泰徳純両協定も、たちどころに廃止されねばならなくなることは明らかであった。  

  しかしこのときすでに日本側では、陸海外三省間で、華北での現地軍の動きをふくみ込む形での新しい対中国政策を作成する作業が進行しているところであった。すなわち7月2日の外務省東亜局試案の作成から始っていたこの三省間の協議は、10月4日には日本側三原則の形でまとめあげられ(164)、10月7日広田外相から蒋大使に提示されて、広田三原則と呼ばれるようになるものであった。それは中国に対し(一)日排日言動の徹底的取締、欧米依存政策からの脱却と対日親善政策の採用、(ニ)「満州国」の事実上の承認と接「満」地域での経済的文化的融通提携、(三)赤化勢力の脅威を 排除するための外蒙接壌方面での協力を要求するものであり、現地軍部の行動はすべて、この原則のなかに吸収され、 正当化される筈であった。そして広田外相が蒋大使に対し、この日本側三原則についての話合いが成立してはじめて、中国側三原則を討議することができるようになると主張したのに対して、蒋大使は、日本側が中国側三原則を完全に 実行することの方が前提だと反論しているが、しかしこのときすでに、陸軍側はこの三原則をもこえて、「北支五省自治」というより大規模な構想を打出していたのであった。

  三原則についての三省間協議が進められているさなかの8月6日、陸軍省は陸軍次官名で「対北支那政策」を現地 に指示しているが(165)、それはまず三原則の(ニ)の「接満地域」を河北省、(三)の外蒙接壌方面を察哈爾(チャハル)省とし、前者は停戦協定及今次河北事件申合せ(梅津・何応欽協定)の精神により親日満地帯化し、後者に於ては、赤化の脅威 に共同して当るため日「満」両国の合作を行うものとした。そしてさらにこの河北・チャハル両者(冀察と略称される。 冀=河北省)に外接する「山東・山西・緩遠ノ各地方政権ヲシテ、一層積極的ニ帝国トノ実質的親善関係ヲ増進セシム」との拡大された目標を提示した点がこの方針の特徴と云えた。しかも、この日本との親善関係は南京の国民政府からの分離と表裏するものと捉えられており、次のような方向が指示されていた。

 

 北支五省二対スル叙上趣旨ノ進展二伴ヒ彼等政権ヲシテ対日満関係二於テ同一歩調ヲ取ラシムルト共ニ、対南京政権ノ関係二於テモ努メテ共同ノ歩調ヲ採ラシメ、相互ノ結合ヲ図り叙上ノ趣旨二反スル南京政権ノ政令ニヨリテ左右セラレス自治的色彩濃厚ナル親日満地帯タラシムルコトヲ期ス、


  そして、8月1日付の陸軍定期異動で支那駐屯軍司令官に任命された多田駿少将は、9月24日、天津でこの新方針を初めて公表したが、その内容は、日本軍の華北政策は「(一)北支より反満抗日分子の徹底的一掃、(ニ)北支経済圏の独立(北支民衆の救済は北支財政を南京政府の隷属下より分離せしめる外はない)、(三)北支五省の軍事的協力による赤化防止の三点にして、これらのためには北支政治機構の改正確立を必要とするが、さしづめ北支五省連合自治体結成への指導を要する(166)」とするものであり、「北支五省」自治を「共同防共」の観点から主張したのはさきの陸軍次官通達にもみられないものであった。  

  多田は宋哲元を軸として商震(河北省)、閻錫山(山西省)、韓復渠(山東省)らの主席クラスを説得あるいは強要することによって北支五省連合自治体の結成が可能であるかの如く考えていたが、事態はそうした安易なやり方では進展せず、10月中旬以後は関東軍から派遣された奉天特務機関長土肥原賢ニ少将が、この華北分離工作の中心となるに至ったとみられる。そして河北省では、日本軍を背景として国民政府反対を唱える農民自治運動などが企てられているが、こうした状況のなかで、11月1日には親日派の中心人物汪兆銘が狙撃されて重症を負い、さらに11月4日、 国民政府がイギリスの援助とリイス・ロスの指導のもとに幣制改革を断行したことは、日本の華北分離工作への反撃とうけとられ、現地軍側に工作実現を焦慮させることとなり、日中関係は極めて緊迫したものとなるに至った。すな わちこの幣制改革は、11月4日以後、中央・中国・交通三銀行の銀行券をもって法定通貨とし、従来の銀本位制を 改めて、ポンドにリンクさせようとするものであるが、これが成功すれば中国経済の統一性は強まり、多田声明の言う「北支経済圏の独立」など画餅に帰することは明らかであった。  

  これに対して、軍部の側は一気に華北分離工作を実現することでこれに対抗しようとし、また、幣制改革によって軍閥としての自立性の基盤を失う筈の華北実力者たちには、南京政府から離脱して立上る条件があるというのが、軍部の読みであった。参謀本部は、「従来うん醸せられ来りし北支の独立機運は、今次の幣制改革を契機として急速に激成せられたるの感あり、今我方にして依然儼乎たる態度を堅持し飽く迄南京側の実力干与を排撃するの決意を示さんか北支の独立期して待つべく」と述べている(167)。そして現地の特務機関が「自治宣言」を出させるべく奔走しているの と対応して、中央では外交ルートを通じて蒋介石に対し「1、南京政府ハ速二北支政権ノ自治ヲ承認スルヲ必要トスルコト、2、北支紛糾の場合、中央軍ニシテ武力行使ヲ企図シ、山東及河北二兵カヲ進入セシムルコトハ帝国政府トシテ断ジテ黙過シ得サルコト」との勧告及警告を発するとの方針がとられ(168)。蘆溝橋事件において日本側が過敏とも云える反応を示した「中央軍北上」は、すでにこのときに、このような形で問題となっていたのであった。  

  これに対し、11月20日有吉大使と会見した蒋介石は「支那トシテハ国家ノ完全ナル主権二反シ行政ノ統一ニ支障ヲ来ス如キ自治制度ハ到底許容スルヲ得ス」との原則的立場を強調するとともに、「北支ノ当局者及各団体等ヨリノ連日ノ報告二依レハ一人トシテ自治又ハ独立ヲ希望スルモノナク決シテ心配スルカ如キ事態ニアラストシテ至極自信アルカ如キロ吻ヲ示シ」たというし、また同席した外交部長張群は「有体二云ヘハ日本カ土肥原少将ヲ召還シ多田司令官ノ済南行キヲ阻止セラルレハ立所に自治運動ハ焙ムヘシ」と述べ(169)、華北自治の動きは日本が起したものである ことを端的に指摘していた。そしてこのように内情を見すかされた自治運動が成功する可能性はなかった。  

  情勢の行詰りに焦った土肥原らは、11月24日、通州において殷汝耕に戦区(周辺三県を合む)の自治を宜言させ、翌25日冀東防共自治委員会を成立させたが、結局は中国側の反対運動を強めたのみであり、12月9日には、 「一二・九」運動として記憶されるような学生の大請願運動が行われ、抗日統一戦線形成への一つの雨期をつくり出 していた。しかし国民政府はまだ日本との正面からの対決を避け、12月18日、宋哲元を委員長とする冀察政務委員会を成立させ、事態の妥協的収拾をはかった。この委員会はさきの駐平政務整理委員会にくらべ、「内政外交の各面において中央政府の製肘は強くなった(170)」とみられている。そしてこの間、中国幣制改革は順調に進行しつつあ。た。  

  35年11、12月の事態は、明らかに日本の対中国政策の行詰りを示していたが、しかし日本側では全く政策再検討の動きは起らなかった。例えば、36年1月13日、陸軍省が支那駐屯軍に与えた指示「北支処理要綱(171)」は、徒らに地域の拡大に焦ることなく自治は「冀察二省及平津二市」からその他の三省へ及ぼす、翼東政府(35年12月25日委員会を政府と改称)は冀察の自治が満足すべき状態になれば「速に之に合流せしむる」など、「北支五省自治」の手順を示したものであり、これまでの華北分離政策を基本的に再確認したものにほかならなかった。また1月8日の外務省の「対支方針協議(172)」の結論は、広田三原則の承認を国民政府に要求する交渉を行う、とするものであったが、その際「三原則承認ノ代償トシテ日本側ヨリ軍部ノ活動抑制ノ言質ヲ得ントスル」ような中国側の策謀に引き 込まれ「北支ニ於ケル我方ノ行動ヲ束縛セラルルコトナキ様留意スル」ことを強調するものであった。この交渉は、 二・二六事件による日本側の政治的混乱のため開かれずに終ったが、たとえ開こうとしても、「北支ノ問題ハ支那ノ 内政問題ナルヲ以テ支那自ラ解決スヘシ」としてつっぱねようという方針では、交渉にならなかったにちがいない。 しかもこの間、冀東政府は2月から、正規の関税の4分の1程度の査験料を徴収することで密輸を公認する措置(冀東特殊貿易と称した)をとり、関税をはじめ中国経済に深刻な打撃を与えた。そしてそれは、6月1日の各界救国連合会の成立に象徴されるように、抗日救国の叫びを中国全土に一挙に拡大する役割りを果したものでもあった。もはや国民政府を華北から遠ざけようとする政策は成り立ち獄くなっていた。  

  こうした情勢のもとで、日本の政策にも変化があらわれていた。二・二六事件後、広田外相は首相の地位にのぼっ たが、この広田内閣のもとで、軍部の主導により国策の全面的再検討が行われ、対中国政策の面でも8月11日「対支実行策」及「第二次北支処理要綱」が決定された。それはこれまでの政策が、例えば「第一次北支処理要綱」が 「北支処理は支那駐屯軍司令官の任ずる所にして直接冀察冀東両当局を対象として実施するを本則とし、且飽く迄内 面指導を主旨とす(173)」と述べているように、傀儡化政策によって現地レベルで国民政府の勢力を排除することに力点を おいていたのに対して、「南京政権の面子をも考慮し同政権をして其の授権の形式下に実際上北支聯省分治を示認せ しむること得策なりとす(174)」(「対支実行策」)として、ともかくも南京の国民政府との交渉を政策の中心におきかえよう とするものであった。

  こうした政策転換について、陸軍省軍務局の影佐中佐は、すでに4月の段階で「対蘇軍備ノ充実ハ昭和16年ヲ以テ完成スル予定ナリ、依テ外交上ノ準備工作モ右6年間ニ完了スルヲ要ス、然ルニ冀察ノ状況ヲ以テシテハ、右期間内二北支五省ノ自治ヲ完成シ北支ヲシテ対蘇開戦ノ際、帝国ノ為安心シ得ル背後地タラシムルコトハ殆ント不可能ナ リ(蓋シ宋哲元ヲ担キ出シタルコトカ根本的誤謬ナルコトヲ自認ス)、依テ自分ハ昔二還リ(中国)中央ト今一度話合ノ上、何応欽ヲ北上セシメ北支ノ収拾ヲナサシムルヨリ外ナシト考フ」と述べている(175)。つまりそれは一方では、 「対支実行策」にも「速に対蘇態勢を有利ならしめんとする考慮」によると述べられているように、石原莞爾が参謀本部作戦課を拠点として推進してきた対ソ戦準備の構想が、国策のレベルまで上昇してきたことを示すと同時に、華北政策の行詰り状態の認識が生れてきたことをも意味するものであった。

  しかし、柳条湖事件以来はじめて打出された中国中央政府との交渉の方針も、(一)防共軍事協定の締結、(二)日支軍事同盟の締結、(三)日支懸案の解決促進、(四)日支経済提携の促進などの項目を並べ立てているが(「対支実行策」)、これまでの華北政策の修正としては、すでに中国側の対抗措置の強化によって急落していた「冀東特殊貿易の廃止」をかかげるにすぎず、全休としては、従来の政策をそのまま「防共」のイデオロギーで包み込むことによって正当化し、中国側の協力を引き出そうとする点を特徴とするものであった。そしてこの交渉方針は、排日テロ事件をきっかけとし て9月から始められた川越(茂駐華大使)・張群(外交部長)会談に持ち出されたのであった。しかしこの会談で注目さ れたのはむしろ中国側の態度であった。

  すなわち、9月23日の第三回会議で、張群は中国側の希望として「(一)塘沽協定及上海停戦協定の取消、(ニ)冀東政府の解消、(三)北支自由飛行の停止、(四)密輸停止及支那側取締りの自由回復、(五)察東及緩遠北部に於ける偽軍の解散(176)」の五項目を提出したが、それは中国側がさきの三原則のような抽象的要求から、主権・行政権を回復するための具体的な要求に踏み込んできたことを示すものであった。そしてそれは「共同防共」の枠でつつみ込みながら「北支聯省分治ヲ承認」(「対支実行策」)させようとする日本側の要求とまさに正反対であり、会談は形式的には12月3日まで続いているが、実質的にはここで決裂したと言ってもよかった。中国側が最後まで固執したのは、五項日中の(ニ)及び(五)にあたる「冀東政府ノ解消及緩東偽軍ノ解散」の二要求(177)であったが、この緩東偽軍(徳王を擁立しさきの李守信軍を再編した内蒙古軍)が11月緩遠省侵攻作戦を開始(潰滅的打撃をうけて敗退)したことにより会談は打切られ、以後日中間の交渉は再開されないままに、盧溝橋事件を迎えることになるのであった。

  そしてこの間、37年2月の中国国民党三中全会は、西安事件を国共合作の方向で収拾することを実質的に決定したが、ここで決定された対外方針は「冀重・察北の匪偽をしてその倚頼する所を喪はしめ、我華北行政及び主権の障害を除去(178)」するとの目標を示し、川越・張群会談での中国側の態度の継承を明らかにしていた。こうした中国側の動きに対して日本側では、さきの石原構想にもとづく参謀本部からの華北分離政策への批判が強まり、37年4月16日に陸・海・外・蔵四相聞で決定された新しい「対支実行策」及び「北支指導方策」では、「北支の分治を図り若く は支那の内政を紊す虞あるが如き政治工作は之を行はず」との方針が打出されていた。しかし華北をして「実質的に防共親日満地帯たらしめ」という目的は掲げられつづけているのであり(179)、この目的のために、華北分治・分離工作と異なる如何なる方策がありうるのかについては、何等具体的な指摘を見出すことはできなかった。具体的なものとしてはただ「冀東地区に於ける特殊貿易並に北支自由飛行の問題に関しては速に之が解決を計るものとす(180)」との対策方針を見出すのみであるが、もはや中国側の反撃の意欲は、その程度のことで満足しえない程に高まっていたとみるべ きであろう。

むすび