『日中戦争史研究』

1984年12月

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日中戦争にいたる対中国政策の展開とその構造



古屋 哲夫


表紙

はじめに
1盧溝橋事件における「拡大」の構造
2満蒙分離主義の形成過程
3「満蒙治安維持」路線の軍事的展開
4「満州国建国」と対中政策の破綻
むすび




はじめに


 日中関係は何故1937年の段階で全面戦争に転化したのであろうか、もちろんそれは直接には、この年7月に盧溝橋事件が起ったため、ということになるが、しかし事件の発端だけをみれば、そこには全面戦争を引きおこすような重大な要因を見出すことはできない。

 事件は1937年(昭和12)7月7日夜10時40分頃、盧溝橋附近で夜間演習中の一箇中隊の日本軍のなかに、 10数発の小銃弾が打ちこまれたというところから始まる。しかし、ここからすぐに日中両軍が衝突したというわけではない。両軍の戦闘は、翌8日午前5時30分から始まるのであり、それまでのほぼ7時間の間は、午前3時25分頃3発の銃声が聞えたという以外には、現場は平穏であったとみることができる。

 これまで、盧溝橋事件に関しては、この最初の発砲犯人は誰かという点に大きな関心が寄せられ、確実な証拠のないままに、さまざまな推理がくり返されてきているが、しかしその犯人が誰であったとしても、この発砲によって日本側が損害をうけたわけではなく、また日本側も、小銃の発射音、実弾の通過音をきいたというだけで、それ以上の証拠をもっていたわけではないのであるから、今日の常識から云えば、それが戦争にまで発展するような重大事件でなかったことは明らかであった。にも拘らず、そこから全面戦争が起ってくるということは、すでにそこには、それだけの要因が蓄積されていたということにほかならないであろう。

 つまり日中戦争を理解するためには、偶発的とみえる小事件が大事件に拡大されてゆく構造を明らかにすることが必要となるが、その拡大の構造は、それまでの状況への対応方式の蓄積によって規定されている、と考えねばならない。蘆溝橋事件について考えてみても、平穏な現場に真夜中をかけて増援部隊を送り込むというのは、既に蓄積されている対応方式を前提としなければ理解できないのではあるまいか。

 本稿は、日中関係が全面戦争にまで転化してゆく構造が、どのような対中国政策の積み重ねのなかから生み出されてきたのかを明らかにすることを目的としでいるが、そのためにまず、盧溝橋事件が拡大してゆく過程のなかの問題点を掘りおこすことから始めることにしたい。

1盧溝橋事件における「拡大」の構造