『日中戦争史研究』

1984年12月

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日中戦争にいたる対中国政策の展開とその構造



古屋 哲夫


表紙

む す び


 盧溝橋事件における日本政府の対応は、前年秋の川越・張群会談以後の対中国政策再検討の経験を消去して、前々35年11・12月の土肥原が華北で暗躍していた段階に逆戻りしたようなものであった。すなわち、日本側では、 盧溝橋事件の処理は支那駐屯軍と冀察政務委員会又は第29軍にまかせるよう、国民政府中央に圧力をかけるのが政府の役割と考えられているのであるが、中国側は35年からは、そうしたやり方に反対し、中央政府相互の間で問題を処理することを主張してきたのであった。そして日本政府もまた、中国側のそのような動きに対応し、政府自らが乗り出すことが必要であるとして、川越・張群会談を実現した筈であった。またそれが成果をあげえずに終ったのちも、その方向をひきついで、華北分離工作を否定する「対交実行策」の改正にまでこぎつけたのであった。しかしこうした対中国政策の流れは、盧溝橋事件においては全く見出すことができない。

  と言ってももちろんそれは、中国側の要求が理解されていなかったということではない。日本政府が動きはじめるのは、盧溝橋事件の約一か月後、日本軍の華北攻撃が一段落した8月初旬からであるが、陸・海・外三省間の協議にもとづき、8月8日、川越大使に指示された「停戦交渉ノ内容 (181)」は次のようなものであった。

    (1)、大体河北省内永定河及白河右岸二近接セル諸都市以東及以北地区竝二察北六県ヲ非武装地帯トシ、右地帯成立ノ上ハ、塘沽停戦協定等ハ之ヲ解消スルコト
    (2)、冀察(場合二依リテハ冀東モ)ヲ解消シ南京政府二於テ右地域内ノ行政ヲ直接行フコトニ同意スルコト之二関連シ北支二於ケル経済合作ノ趣旨ヲ協定スルコト


  (1)は非武装地帯の設定を停戦の条件にするという、塘沽協定と同様の発想にもとづくものであり、その行政をどうするのかが問題となるわけであるが、(2)はその代償として川越・張群会談における中国側の主張を大筋でとり込れよ うとしている点で注目に価するものであった。さらにこの停戦案は、それにつづく国交調整交渉を予定しており、同時に「日支国交全般的調整案要綱」が送付されているが、そこでも、「日支間防共協定」を締結する代りに「冀東・冀察ヲ解消セシムル外、日本ハ内蒙及緩遠ニ干渉セサルコト」を認める、という方針が示されているのであった。若 しこのような形での国交調整を見通しながら、政府あるいは軍中央部が、最初から現地軍部にまかせることなく直接 に、盧溝橋事件の処理に乗り出していたとしたら事態はもっと違った展開を示すことになったと考えられるが、しか しこの停戦構想は実現の手がかりもつかめぬうちに、戦火の上海への拡大によって消滅してしまっており、おそらく戦火が拡大しなくてもその実現は困難であったことであろう。

  この平和工作は一般に船津工作と呼ばれているように、長年中国各地での領事の経験を持つ在華紡績業連合会理事長船津辰一郎を起用している点を特色とするものであるが、この船津の起用は、軍部とくに現地軍の妨害をくぐり抜けることを主たる目的とするものとみられた。船津の役割は極秘のうちに中国側有力者と接触し、中国側から停戦を発議させる、というものであり、この点の成否が、この工作のかぎとなるものであった。このことは言いかえれば、政府が現地軍部の行動を正面からは抑制しえないと考えていることを示すものにほかならなかった。そして、結局のところ、現地軍の主導性と、それを支持する軍中央部の勢力とが、戦争をとめどもなく拡大していくことになるのであった。

  こうした盧溝橋事件後の事態は、川越・張群会談以後の政府レベルでの対中国政策の修正は、現地軍部のあり方を変える力とはなりえず、現地レベルでは、蒋介石を敵とみ、国民政府の勢力を排除、去勢して「絶対服従ノ北支那政権」をつくり出そう政策が、そのままの形で存在しつづけていたことを物語るものであった。そしてそれはさらに、全面戦争の方向をも規定していった。船津工作にみられた政策修正の試みが、現実には何の影響も残さずに消えうせていったのち、37年12月にはドイツの仲介によるトラウトマン和平工作が試みられているが、ここではもはや、船津工作が存在したことの痕跡さえも見出すことは困難であった。すなわち、12月21日の閣議で決定され、ドイツ大使に内示された講和条件(182)は次のようなものであり、それはまさに華北分離工作の延長上にあるものであった。

    一、 支那ハ満州国ヲ正式承認スルコト
    二、 支那ハ排日及反満政策ヲ放棄スルコト
    三、 北支及内蒙ニ非武装地帯ヲ設定スルコト
    四、 北支ハ支那主権ノ下ニ於テ日満支三国ノ共存共栄ヲ実現スルニ適当ナル機構ヲ設定、之ニ広汎ナル権限ヲ賦与シ特ニ日満経済合作ノ実ヲ挙クルコト
    五、 内蒙古ニハ防共自治政府ヲ設立スルコト、其ノ国際的地位ハ現在ノ外蒙二同 シ
    六、 支那ハ防共政策ヲ確立シ日満両国ノ同政策遂行ニ協カスルコト  
    七、 中支占拠地域ニ非武装地帯ヲ設定シ、又大上海市区域ニ就テハ日支協カシテ之カ治安ノ維持及経済発展二当ルコト
    八、 日満支三国ハ資源ノ開発、関税、交易、航空、通信等ニ関シ所要ノ協定ヲ締結スルコト
    九、 支那ハ帝国ニ対シ所要ノ賠償ヲナスコト


  このうち、三・四はこれまでみてきたように、塘沽協定以来の現地軍部の基本目標であり、そのうえに戦争の拡大に伴う諸要求をつみあげてゆくというのが、この要求の骨組みをなしていると言えよう。そして中国側から色よい反応が得られないとみるや、近衛内閣は38三八年1月16日、「爾後国民政府ヲ対手トセス」との政府声明を発し、その翌々日には「対手トセス」とは「否認ヨリモ強イ」意味であり、「否認スルト共二之ヲ抹殺セントスルノテアル(183)」との補足的声明をも発表しているが、この意味での「蒋介石対手トセス」の精神は、まさに華北の現地軍部のなかで広 められ、強められて来たものであった。  

  そしてこのような形で全面戦争が泥沼化し、行き詰ってくると、今度は、「東亜新秩序建設」なる新たなイデオロ ギーが担ぎ出されるのであるが、それは、華北分離工作の行き詰りを、「防共」イデオロギーを押出すことで包み込んでゆこうとしたかつてのやり方の再編とも言いうるであろう。

  結局のところ「満蒙治安維持政策」以来、現地軍のなかに蓄積されてきた対中国政策の諸結果は、解休・解毒されることなく成長をつづけ、ついに戦争政策の骨格そのものを形成するまでに肥大化していったのであった。