『東方73号』

1987年4月

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書評・兪辛淳著
「満州事変期の中日外交史研究」批評


表紙

古屋 哲夫



そもそも外交とは何か

 
本書の著者は、中国天津市にある南開大学の教授であり、本書は、その著者が日本語で書き下した、本文A5版436頁に及ぶ力作である。

  満州事変に関しては、日本ではすでに多くの書物が刊行されているが、本書のように、満州事変期における両国の外交機関の動向を、これだけ詳細に追求したものは、日本語の書物としては、最初であるように思われる。とくに本書では、日本外務省の動向に主要な関心が向けられており、その点に、著者が本書を、日本の読者に向けて書き下された意図をうかがうことができる。

  本書は、序論から、第1章 万宝山事件と中日交渉、第2章 中村事件に対する日本の二重外交と張学良の対応、第3章 満州事変と幣原外交、第4章 第1次上海事変と日本外務省、第5章満州・上海事変と中国の対応、第6章 「満州国」の樹立と日本外務省、第7章 リットン調査団と日本外務省の対応、第8章リットン調査団と中国の対応、第9章「満州国」の植民地体制と日本外務省、第10章 戦争と「満州国問題」、にいたる10章で構成されているが、このうち9章の前半までが、柳条湖事件直前から塘沽協定にいたる「満州事変期」の分析にあてられており、最後の部分では、その後の「満州国承認問題」の行方や、「満州国問題」ソ連参戦に利用された点などに関する指摘がなされている。

  ところで、著者の、こうした外務省を中心とした研究は、日本人研究者の幣原外交評価に対する批判を出発点としているようにみうけられる。例えば著者は、満州事変初期における幣原の不拡大方針を高く評価する意見に対して、次のように反論する。すなわち、不拡大といっても絶対的なものではなく、この機会に満蒙の懸案を解決しようとする拡大の要素を含んでいるし、また関東軍の行動を対外的に弁明し(126-7頁)関東軍を撤兵させようとする国際連盟と中国の努力を失敗させることによって、「幣原外交は関東軍の軍事占領を外交上保障することに成功した」(142頁)というのである。

  それは幣原外相の側からいえば、彼は直接に軍部を統制する力を持たなかったが故に、何とか軍部をなだめながら国際的な了解をも得ようとした、そしてその結果、侵略の拡大にも追隋したということになる筈である。日本人の研究が、こうした幣原の主観的意図や軍部との関係といった観点から、幣原外交を評価する傾向を持つのに対して、著者は、その結果が中国に対してどのような被害を与えたのか、という観点を重視し、強調しているのである。

  しかも著者の追及は、たんなる「結果責任」の観点にとどまっているのではなく、そうした結果が生ずるそもそもの原因は、幣原外交にも、軍部と共通する「権益拡大」への欲求が存在しているからだ、という点にまでおよんでいるのである。

  例えば著者は、柳条湖事件直前の中村大尉事件において、外務省側が関東軍による武力行使には反対したが、反面では交渉を有利にするために、買収によってでも証人を確保しようと奔走し、「将来ノ保障」を要求する過程で、次第に関東軍の立場に接近してゆくと指摘する。そしてそれは、両者の間に「満蒙における権益の維持・拡大という基本的目的」(107頁)が共有されていたからだというのである。
本書の特色の1つは、「二重性」・「二面性」という用語が多用されている点にみられるが、それは、こうした共通の基本的目的のうえにあらわれてくる相対的な違いを指摘するために用いられている。つまり本書では、さきの軍部と外交との関係だけではなく、国際連盟をめぐる外交の問題にしても、連盟を指導する列強と日本とが、中国における権益の維持・拡大をねらうという共通の立場に立っているために国際連盟やリットン調査団の政策にも、さまざまな二重性・二面性が現われてくる、と捉えられているのである。

  もちろん、このような二重性・二面性は、満州事変が進展してゆく過程で、あるいは弱まり、あるいは消滅してゆくこととなる。つまり、外務省と軍中央部や関東軍との関係にしても、満州事変が、支配的指導者の間の一致なしに引き起こされるという特異な形態で出発したために、当初は相対的対立を含む二重外交現象が現われるが、その相対的対立は、基本的目的の共通性という基盤のうえで、外務省の政策が、不拡大→「平和的」拡大→「軍事的」拡大と変化する形で消滅してゆくというのである。

  そして外相が幣原から芳沢に代った上海事変の段階では、両者は完全な協力関係にはいったとみるのである。「上海事変には二重の要素がある。1は列強の目をそらすために事変を挑発し、日本と列強との矛盾を激化させる。2は『満州国』の円満な樹立のため、上海事変では列強と協調または妥協する。1は軍部がとった政策であり、2は主として外務省がとった政策である。」(177-8頁)つまりここでの関係は、対立から分業に転じているということになろう。

  こうした日本や列強の政策に対して、中国国民政府の側は、その二重性・二面性のなかの有利な側面に期待し、依存するというやり方を基本としていたと著者は分析する。上海事変における抵抗にしても、「交渉のための抵抗であり、日本の侵略を軍事的に撃退するがための抵抗ではなかった」(254頁)というのである。

  ここでは、本書の提示しているすべての問題をとりあげる余裕はないが、以上みてきたような文書の分析は、少なくとも、満州事変期における日本外務省の役割についての再検討を、日本の研究者に迫ってくるものといえよう。

  本書の価値は、こうした問題提起に加えて、日本の外務省記録と国民政府関係資料を駆使した、実証的研究の成果にも求められなくてはならない。とくに国際連盟とリットン調査団をめぐる日中両外交機関の活動については、これまでの水準をこえて、詳細に跡づけられている。そしてそのことを可能にしたのは、最近の中国における資料整理の進展にもよるものであろう。

  本書でも、『顧維鈞回想録』(1)1983年、同(2)85年、「民国档案」1号、2号、85年、といった最新刊の資料が利用されている。

  いずれにせよ、本書が満州事変期の外交史研究の新しい必読文献となるであろうことは疑いない。しかし、若干の難をいえば、本書が、外務省が軍部と並ぶ役割を果したことを強調した結果、外務省が常に重要な役割をにないつづけたという印象を与えることになっている点は問題であろう。

  例えば、1933年熱河作戦を、著者は、「上海事変のように」「国際連盟の最終報告書からその目をそらさせ」(360頁)ようとしたものとみているが、熱河作戦は上海事変とは異質な新たな侵略であり、そこでは軍は、もはや連盟の動向を無視していたのではないだろうか。つまりこの段階の外務省は、中国に対しては活動停止状態に陥り、積極的な役割は何も果していないように思われるのである。

  ともあれ、本書は満州事変期の研究を通じて、そもそも外交とは何かという問題をも、我々につきつけているともいえよう。