『文明開化の光と影』

1990年9月

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「文明開化」と廃藩置県


表紙

古屋 哲夫



 「文明開化」は元来は、明治初年に、欧米の生活文化を積極的に受け入れた有様を呼ぶ言葉として流行したものであった。それは主として、当時最大の外国人居留地をもつ横浜や、新しく首都となった東京などの都会の産物であり、牛鍋やガス灯はその代表であった。そしてそこから、洋服・洋食・洋館など「洋」の字のつくさまざまなものが生まれ、便利な実用性や合理性をもつものは、庶民の間にも受け入れられていった。思想的な深さよりも、実用性や合理性を尊重したところに「文明開化」の一つの特徴があったともいえる。

  これらの現象はいわば風俗としての「文明開化」とでもいうべきものであるが、しかしそうした風潮が広がることができたのは、その背後で、政府が欧米を模範とする新しい政策を進めていたからであった。従って、「文明開化」は、それらの政策やそれによって出来上がった制度や事業も含めて考えてみなくてはならない。新しい学校制度を造り出した教育政策や、欧米の機械や技術を移植しようとした殖産興業政策は、政策としての「文明開化」の骨組みを成すものであり、そこでもまた実用性や合理性が強調されていた。

  しかし、政策としての「文明開化」は、単に欧米文化の移植その事だけを目的としたのではなかった。むしろその根本の目的は、国家を富強ならしめることであり、「文明開化」はその手段・道具に他ならなかった。従って旧い幕藩体制的秩序を打破し新しい制度を植え付けようとする場合には、欧米文化の優秀性が正面からおしだされてくるのに対して、その制度が安定してくるに従って、国家主義の側面が強化されてくるのであった。いいかえれば、政策としての「文明開化」とは、新しい秩序の形成を目指していたということになろう。

  そしてこの秩序形成という面からいえば、「文明開化」の基礎は、なによりもまず廃藩置県に求めねばならなかった。廃藩置県は具体的には、旧藩主に華族の地位を保証する代わりに東京在住を命じ、その後に、政府が任命権を持つ県知事・参事を送り込むというところから始まる。そして知事らには人事を掌握して「旧慣」にとらわれない県政の実現を求めていた。

  それは廃藩置県が、「文明開化」の政策を実現できるような体制を造りだそうとするものだったことを示している。そしてそれにつづく県の統合は、そのための条件を整備することを目指していた。明治4年(1871)7月の廃藩置県時には3府302県にも及んだ小藩は、11月には一挙に3府72県に統合される。そのなかの最少県は佐渡の相川県13万石であり、大多数の県は20万石台14県、30万石台16県、40万石台20県(計50県)のなかに含まれていた。この統合の目的の1つは、県に新政策実施のための財政力を与えることであったが、同時にそれは、新しい国民を造り出す基礎となるものであった。

  幕藩体制はごく簡単にいえば、士農工商の身分組織と年貢を確保するための「村」の機構とを固定化し、そのことによって体制全体の安定を図るという仕組みになっていた。そしてこの安定の中で、領主の所領は、ばらばらな村の集合でもかまわなくなり、所領の分散と零細領主の存在が可能になるのであった。廃藩置県時には現在の福井県下に本拠を置く県は、7県にのぼっていた。それが11月には、福井県(54万石)・敦賀県(23万石)になるのであるが、そうした統合は、旧い村の枠組みを取り払い、社会的移動や職業の自由を認めながら、江戸時代の庶民たちに「文明開化」を受け入れて行く国民となることを求めるものでもあった。

  廃藩置県は、いわば「文明開化」の拠点としての県を造り出そうとしていた。しかし、「文明開化」が思想的に深められ、そこから自由民権思想が生まれてくると、秩序や国民の内容や性格が問われるようになり、「文明開化」のスローガンは光を失って行くことになるのであった。