『日本議会史録』2

1991年2月

印刷用ページはこちら



護憲運動とシーメンス事件


表紙

古屋 哲夫

1明治最後の帝国議会
2護憲運動と大正政変
3山本内閣とシーメンス事件

3山本内閣とシーメンス事件
(1)山本内閣の成立
(2)第三〇回議会の再開と陸海軍大臣現役制問題
(3)所得税減税と行政整理
(4)第三一議会の召集と諸党派
(5)営業税減税と廃税運動
(6)シーメンス事件起こる
(7)予算案不成立と山本内閣の総辞職
辛亥革命と武器輸出
主要参考文献・史料

明治44(1911)年

8月30日

第二次西園寺内閣成立

 

12月27日

第二八回通常議会開会(45年3月26日閉会)

明治45(1912)年

5月15日

第一一回衆議院総選挙(任期満了による)

大正元年

8月23日

第ニ九回臨時議会開会(同年8月26日閉会)

 

12月21日

第三次桂内閣成立

 

12月27日

第三〇回通常議会開会(2年3月27日閉会)

大正2(1913)年

2月20日

第一次山本内閣成立

 

12月26日

第三一回通常議会開会(3年3月26日閉会)



(1)山本内閣の成立

 桂内開が総辞職すると、その日のうちに、桂と西園寺をも含めた元老会議が聞かれた。桂は西園寺に後任を引き受けることを求めたが、先の不信任案撤回に関する勅語に応えられなかった責任を感じていた西園寺はこれを 断り、代わりに山本権兵衛を推薦した。元老たちもこれを了承し、大正2年2月12日山本に組閣の大命が下さ れているが、憲政擁護運動のスローガンのひとつ「閥族打破」の観点からいうと、薩摩出身で海軍の実力者である山本も、打破すべき閥族の一人となるわけであった。そこで山本にとっては、政友会の支持を得られるかどうかが、組閣実現の鍵となった。

 山本は当初、閣僚2名を割り当てて政友会の協力を得ようとしたが、原敬らの要求で3名とすることに同意した。しかし政友会内部では、この際国民党との連携を保ちながら一挙に政党内閣を実現すべきだという意気込みが強く、「或者は山本を不可とし、或者は山本の外閣員は悉く政友会員を以て組織すべしと云ひ、或者は山本をして政友会に入会せしめよと云ひ、種々の注文際限なし」(前掲『原敬日記』第三巻 290頁)という有様となった。

 これに対して原敬、松田正久らの幹部は、現役軍人の山本を政友会に入れることはできないし、といって山本内閣を不成立に終わらせれば、官僚内閣に逆戻りすることは必至であるとして党内を説得、結局2月17日の政友会議員総会は、「1、山本伯に我党の主義綱領を以て施政の方針と為すことの宣明を求る事、2、内閣員には首相及陸海軍の三大臣を除くの外全員政党員より推薦する事、3、国民党との提携を持続する事」(前掲小林『立憲政友会史』第三巻 674頁)との3条件で原、松田に交渉を一任することを決議した。交渉の結果、国民党は山本内閣を支持せず「厳正中立」の態度を示し、山本は第2項の政党外閣僚に外務大臣を加えることで同意した。なおここでの「政党員」については、これまで政党に所属していなくても、閣僚になる際に入党すればよいとの了解が成立していた。政友会もこの条件で、山本内閣を支持することとなり、内閣は2月20日に成立した。

 政党外の閣僚は、山本首相のほか、斎藤海相、木越陸相は留任、外相には山本と同じ薩摩出身の牧野伸顕が起用され、政友会からは、原内相、松田法相、元田肇逓相兼拓殖局総裁の三名が任命された。その他の高橋是清蔵相、山本達雄農商相、奥田義人文相の三名は入閣に先立って、政友会に加入している。

 山本内閣が成立すると、尾崎行雄ら24名はこれを「閥族との握手」と非難する声明書を発表して、2月23日政友会を脱党して、政友倶楽部を組織したし、同じ日、国民党は「閥族に與みし」た政友会との提携を断つとの報告書を各地支部あてに発送している。新内閣の成立により、第三〇回議会は2月27日に再開されたが、政友会は政友倶楽部の分裂により188名に減少し、過半数を割る(3名不足)こととなった。なお、桂の組織した新政党は、中央倶楽部の全員と国民党の約半数を中心として所属代議士93名を数えていたが、まだ結党式を 経ていなかったので、この議会では「無所属団」として行動している。その名称を「立憲同志会」とすることは、すでに2月7日には発表されていたが、他方で議会開会直前の12月23日、旧又新会議員が中心になって院内団体として「同志会」が組織されており、新聞ではこれと区別して、「新党」・「新政党」などと呼称していた。しかし同志会側も名称の混交を避けるため、予算案が衆議院を通過した翌日の3月16日、「亦楽会」と改称している。



(2)第三〇回議会の再開と陸海軍大臣現役制問題

 再開初日、大正2年2月27日午前の貴族院本会議では山本首相が、午後の衆議院本会議では山本首相と高橋蔵相か簡単な演説を行っているが、その内容は、新たな予算を編成する余裕がないため、いったん撤回した桂内閣の予算をそのまま再提出したこと、行財政・税制の整理を急務と考えていることなどを強調したものであった。 これに対してまず、国民党の犬養毅が立って、西園寺内閣倒壊の原因となった二箇師団増設問題は、今年度予算には出されていないが、国防全休からみて不必要と認めたのか、あるいは財政が許したらまた出すつもりか、また政友会の桂内閣への質問書でも取り上げている陸海軍大臣の現役武官制は、憲政運用にとって妨害となるものではないか、とただした。これに対して山本首相は、慎重に検討したいので、書面で質問してほしいと述べているが、このときすでに、政友倶楽部林毅陸の名で次のような「内閣ノ政綱ニ関スル質問主意書」が提出されていた。

 

一、

政党内閣ハ憲政ノ運用上必要ナリト信ス、之ニ関スル現内閣ノ所見如何

 

二、

現行官制ニ拠レハ陸海軍大臣ハ現役大中将二限レリ、現内閣ハ之ヲ以テ憲政ノ運用ニ支障ナキモノト認ムル乎

 

三、

現行文官任用令ハ憲政ノ運用上速ニ之ヲ改正シ人材登用ノ門ヲ開クノ必要アリト信ス、之ニ関スル現内閣ノ所見如何、又現内閣ニ於テ之ヲ改正スルノ意アリトセハ其ノ範囲如何

 

四、

陸軍ニ箇師団増設問題ハ西園寺内閣転覆ノ動機トナリタルモノナリ、現内閣ハ此ノ増設ヲ実行スルノ意ナリヤ如何

 

五、

現内閣ハ減税ノ意味ニ於ケル税制整理案ヲ本議会ニ提出シ大正二年度ヨリ之ヲ実行セムトスルヤ如何、若之ヲ実行スルトセハ其見積金如何


 林は3月8日の本会議で趣旨弁明に立ったが、これに対して山本首相は、この回答について3日間の猶予を求めた。それは陸海軍大臣の任用資格の改定について、斎藤海軍大臣が同意したのに、まだ木越陸軍大臣の同意が得られていなかったためであるが、山本首相はすでに、一両日中に陸相を同意させるめどをつけていたものと思われる。この問題については、原、松田両相も3月6日首相に対して「陸海軍大臣を現役に限るの規定を改むる事は国内の与論を緩和する要件にして、又政友会の立場に於ても必要なり」(前掲『原敬日記』第三巻 297頁)と申し入れていたが、 首相は10日の閣議前に両相に対し、「陸軍は参謀総長、教育総監等に相談する必要ありと云ふ事なりしも夫れは跡廻しとなす事に協議し、木越遂に大局上已を得ずとて承諾せり」(前掲『原敬日記』第三巻 298頁)として、ともかくも陸相の同意を取りつけたことを告げている。

 翌11日の衆議院本会議で山本首相は先に保留した答弁を行い、陸海軍大臣現役制は「憲政ノ運用上支障ナキヲ保シ難イ」として「相当ノ改正」を施すことを約束したが、その内容は、憲政擁護運動のなかで論議されていたような、文官の陸海軍大臣を認めるところまではゆかず、任用資格を現役大中将から、予備役・後備役の大中将に拡大するということにとどめるものであった。しかしそれでも陸軍部内の抵抗は強く、この議会後の4月22日、「跡廻し」にされていた陸相と参謀総長との協議が行われたが、そこでは参謀総長は、「不同意なれども之を決行せられて可ならん」と述べて席を立ったという(前掲『原敬日記』第三巻 307頁)。

 当時の新聞には、「真に陸海軍に於ける藩閥臭味を一掃し、而して其内部に於ける多年の情弊を痛断せんが為めには、現行制度とは全然反対に、軍人は一切陸海軍大臣たるを得ず、と規定する位の大奮発を必要とするやも知れず」(『東京朝日新聞』大正2年5月26日社説)という意見さえみられたが、陸軍側は予後備役の軍人は政党に加入することができる(現役軍人の政治結社加入は治安警察法で禁止)という点に強く反発していた。しかしこの改正を推進した山本首相 も、「先年此規定を設くるに際し現役者を採用することは必要なれども必ずしも之を規定し置くの必要なしと主張」(前掲『原敬日記』第三巻 297頁)したと述べており、海軍側でも実際に予後備役の大臣が考えられていたかどうかは疑問である。

 この任用資格の拡大は、6月13日の陸海軍省官制改正(勅令)で実現したが、以後も実際には、予後備役の陸海軍大臣は出現しなかった。しかしともかくもその可能性を生み出したことは、憲政擁護運動の成果であり、また議会の権限外である官制の改正を、議会の圧力で実現したことは、議会の地位の向上を意味するものでもあった。この過程で陸軍部内で孤立した木越陸相は、病気を理由として辞職し、6月24日後任に土佐出身の楠瀬幸彦中将が任命されたが、これは「全く山本首相の単独推薦に基き山県元帥其他に向ひ何等の相談をなさゞりしものなれば……非長閥軍人は孰れも山本首相の英断を嘆賞すると同時に昨年まで横暴を極めたる長閥の沈淪に対し快哉を叫びつゝあり」(『東京朝日新聞』大正2年6月25日)と報じられていた。

 陸海軍大臣の任用資格と並んで、護憲運動が取り上げていたのは、先の「質問主意書」第三項の文官任用令改正の要求であったが、これに対しても山本首相は改正の必要ありと答弁し、議会後に一定の成果をあげている。 これは、第二次山県内閣が政党側の猟官を阻止するため、資格にかかわらない特別任用を、勅任官では内閣書記官長、奏任官では秘書官だけに限定して以来の問題であったが、山本首相は審議にあたる枢密院の抵抗に対して強い態度で臨み、特別任用の範囲を、各省次官(陸海軍を除く)・法制局長官・警視総監・貴衆両院書記官長・内務省警保局長・各省勅任参事官に拡大することに成功、関係勅令は8.月1日に公布されている。



(3)所得税減税と行政整理

 林の質問のその他の項目に対する山本首相の答弁をみると、第1項については「重キヲ政党ニ置キ、国民ノ世論ヲ尊重」することは「憲政運用上最モ必要」なこととしたが、政党内閣に関しては「内閣ノ組織ハ一ニ大権ノ 発動ニ依ル」と述べるにとどまっており、また第4項の二箇師団増設問題は「財政其他四囲ノ事情」によると答えているが、この議会には関係予算も提出されず、論議は発展しなかった。この議会で具体的に問題となったのは、第五項の減税とその財源をつくるための行政整理に関してであった。この点について山本首相は、所得税法改正案はすでに提出しており、さらに営業税法改正案もこの会期中に提出するとし、その減税額は約1000万 円と答えているが、そのために行政整理が必要なことは、この時期には共通の認識となっていた。

 これまでの経緯をみても、西園寺内閣はその末期には、陸軍省を除いても3700万円の整理計画を実現すると称したし、桂首相は施政方針演説で、5、6000万円の節約を目的とすると述べていた。とすれば、西園寺内閣と同じ政友会を与党とし桂内閣の予算案をそのまま引き継いだ山本内閣は、どの程度の整理・節約を実現するのかが問われることになるのは必然であった。しかし内閣側は、この議会では全額を明示することはできない とする態度を貫き、これを不満とする野党側からは、国民党の一般会計7300万円削減をはじめとする大幅修正案や、同志会(亦楽会)の予算返上動議などが出されたが、与党の政友会は、これらを否決して、予算案を原案どおり可決している。ただし政友会が過半数を割っていたため、予算委員会では1票差、衆議院本会議では5票差というきわどい状況となり、買収の噂もとびかっていた。予算案の衆議院通過を報じた大正2年3月16日の東京朝日新聞は、「議員の変節」と題する社説を掲げている。

 予算案と平行して、所得税と営業税の改正法案が審議されているが、このうち所得税は第二八回議会でも問題となっていたように、日露戦争の際の非常特別税法で増税されたままになっている唯一の税であり、したがって、その改正案と同時に非常特別税廃止法案も提案されていた。また営業税は明治43年第二六回議会で一度改正さ れ、約200万円の減税が実現していたが、より多くの減税を望む声は強く、さらにはこれを悪税として撤廃を 要求する運動も起こっていた。この議会では、所得税法改正案は、衆議院の委員会段階で減税額を565万円から760万円に修正可決され、そのまま貴族院をも通過成立しているが、営業税法改正案は衆議院は通過したものの、すでに会期終了(3月26日)の前日となっており、貴族院では審議未了に終わっている。

 前述のように山本内閣はこの議会では行政整理の目標額を明示しなかったが、それはこの内閣が整理に不熟心なことを示しているわけではなかった。むしろ議会後には、歴代内閣の実績をはるかに超える規模の整理を実現することになるのであるが、この議会でも、裁判所構成法改正など関連五法案として、その一端が示されていた。 そのおもな内容は、区裁判所で扱う事件の範囲を拡張すると同時に、合併より128か所の区裁判所を廃止する、 合議裁判所の構成を、大審院7人・控訴院5人・地方裁判所3人から、大審院5人・控訴院3人・地方裁判所3 人に減員する、判事にはその意に反して転所を令ずることができないとした従来の規定は、司法行政上不便であるとし、控訴院または大審院の総会の決議によって転所を命ずることができることに改める、などとしたものであった。そしてそこには、これによって生ずる判事・検事の剰員232人に休職を命ずることができるとする法案も合まれていた。これらの法案は、いずれも原案どおり成立している。

 ところで裁判所の構成については法律で規定され、その改正には議会の審議が必要とされたが、その他の行政各部の改廃は、いわゆる天皇の大権事項として勅令で決定され、議会の審議権の外におかれていた。したがって第三〇回議会が終了すると、山本内閣は早速、裁判所関係以外の行政整理に着手し、とくに5月14日から21日にかけては、18日の日曜日を除いて連日、このための閣議が開かれ、集中的な審議が行われている。その過程では、内閣・外務・司法は一局、その他の各省は二局を削減するという案も出されていた。6月13日に発表された結果をみると、そこまではいかなかったものの、官制・定員・俸給などに関する勅令の改廃166件、定員削減は高等官818人・判任官4482人・合計5300人に及び、年額3406万円を節減するという大きな成果を実現している(『東京朝日新聞』大正2年6月14日による)。そして7月1日には、そのうえに事業の繰延などを加えた実行予算を 発表しており、山本内閣はともかくも、行政整理という最初の課題は達成したのであった。



(4)第三一回議会の召集と諸党派

 第三〇回議会の終了後には、外交面でいくつかの問題が起こってきた。まず太正2年5月には、アメリカ・カ リフォルニア州議会で、日本側の抗議にもかかわらず、「帰化権を有せざる外国人」という形で実質的に日本人の土地所有を禁止する法案が成立したし、また、8月から9月にかけては、中国のいわゆる第二革命に関連して、漢口、えん(亠+兌)州、南京などで日本人が殺されたり、日本の軍人が追捕・監禁されたりする事件が相ついでいる。これらの問題は世論を強く剌激したが、とくに中国での事件に問しては、9月5日に対支政策が軟弱だとして外務省政務局長阿部守太郎が右翼青年に襲撃されたり(翌日死亡)、翌々7日には対支問題国民大会が開かれ、群衆が外務省に押し掛けるなど、激しい動きがあらわれており、第三一回議会でも、質問第一陣に立った大石正巳が対支対米問題についての外交当局の責任を追及している(大正3年1月21日、衆議院本会議)。しかしいずれの党派も、こうした問題で政府と対決しようとしてはおらず、議会での大きな問題とはなりえなかった。

 第三一回議会が召集されたのは、12月24日(26日に開院式)であったが、このころには、前年に大問題となった二箇師団増設が大正3年度予算に計上されないことは明らかとなっており、したがってこの議会では、減税問題が焦点になるものと思われていた。所得税減税を実現した前議会で、衆議院を通過した(貴族院で審議未了)営業税法改正案が再提案されることは既定の事実とみられたが、そのうえさらに、行政整理でつくり出し た財源によってより大規模の減税を実現することができるか、懸案となっている海軍拡張費をどの程度まで認めるのか、といった点がこの議会の争点となることは必至であった。しかし与党の政友会が過半数を回復していたため、議会の混乱は予想されてはいなかった。

 政友会では、西園寺総裁が先の桂内閣不信任案撤回に開する勅語に応えられなかったことから、引きこもって総裁辞任の態度をとり続けており、伏見宮内大臣府出仕から「先般の御沙汰は西園寺個人に対して御沙汰ありたることにて其事行はれずとて違勅など云ふべきものに非らざる御趣旨なり」との説明を得た原敬が、ひとまず復党して「違勅ならざる事を表明し」、「然る後に誰かに総裁を譲る様にありたし」と説得したが、西園寺は応じようとはしなかった(10月24、5日、前掲『原敬日記』第三巻 352〜353頁)。このころには、原と並ぶ政友会の実力者・松田法相も病床にあり(11月11日、奥田文相が法相を臨時兼任)、結局この議会では、原が政友会の最高指導者となっている。原は前議会以後、積極的に脱党議員の復党などの多数派工作を展開し、12名の復党者のほか無所属からの入党者をも得て、第三一回議会召集時には所属議員205名に達した。また文官任用令の改正からこの議会までに、鉄道院総就床次竹二郎、内務次官水野錬太郎、農商務次官橋本圭三郎、逓信次官犬塚勝太郎、司法次官小山温、内務省警保局長岡喜七郎、逓信大臣秘書官秋元春朝らが入党している(前掲『立憲政友会史』第三巻 771〜772頁)。

 なお、松田法相の病状はその後悪化し、会期中の3月4日死去、6日には奥田文相が専任法相に、後任文相に衆議院議長大岡育造が任命された。衆議院議長には7日の選挙により長谷場純孝が就任したが、長谷場も1週間後の3月15日に死去し、後任には17日の選挙に基づき奥繁三郎が任命されている。

 野党側では、立憲同志会が組織者の桂太郎の死去(10月10日)などで混乱していたが、ようやく議会召集の前日、12月23日になって正式に結党式を行い、加藤高明を総理、大浦兼武、大石正巳、河野広中の3名を総務委員とし、所属議員93名でこの議会に臨んだ。同志会に議員の半数を奪われた国民党は、所属議員40名 となっていたが、同志会と同じ野党という微妙な立場に立つこととなった。また政友会からの脱党者が組織した 政友倶楽部は、復覚者が相ついで交渉団体の資格を失うこととなったため、12月19日に亦楽会と合同し、かりに両者の頭文字をとって亦政会としたが、召集日夜の懇親会で正式の名称を「中正会」と決定し、この議会では、37名の議員を擁して国民党と連携しながら活動している。



(5)営業税減税と廃税運動

 国民党と中正会との連携は、この時期になっても、院外運動のための組織として、護憲運動以来の「憲政擁護会」を維持している点が特徴であった。憲政擁護会は山本内閣成立後の大正2年3月8日、あらためて犬養・尾崎を中心に再組織し(『東京朝日新聞』大正2年3月12日)、前回議会終了後は地方遊説を行ってきたが、12月に入ると第三一回議会に向けて動き始め、12月26日の総会では、悪税廃止を中心にして減税運動に着手することが決定された。当時、会員は代議士78名、実業家・新聞記者ら70余名、合計150余名と報ぜられている(『東京朝日新聞』大正2年12月16日)。す でに12月5日には、全国織物業者組合の実行委員が織物消費税全廃を訴えて各所に陳情するといった動きもみられているが、3年1月5日の憲政擁護会総会が、「営業税・織物消費税・通行税の全廃を期す」(『東京朝日新聞』大正3年1月7日)と決議して運動に乗り出したことは、廃税運動を盛り上げる画期となるものであった(なお廃税運動については、江口圭一『都市小ブルジョア運動史の研究』第二章参照)。

 憲政擁護会は、1月14日に悪税廃止有志大会(精養軒)、25日に廃税第一回大演説会(明治座)、27日に廃税第二回大演説会(本郷座)を聞催しているが、この間、1月10日に東京で営業税全廃同盟会が結成されたのをはじめ、各地にさまざまな組織が生まれ、運動は全国的に拡大していった。こうした動きに押されて、商業会議所連合会も、1月31日には営業税全廃を決議するに至っている。

 廃税要求の中心は、営業税に向けられたが、それはそもそもこの税金が、銀行業・製造業・運送業から物品販売業・請負業・席貸業・料理店業などに至る広範な営業を対象としたうえで、収益に対してではなく、資本金額・ 売上金額・建物賃貸価格・従業員数などの外形的基準によって課税しようとする点に問題があった。つまり収益がなくても課税される点で従来から「悪税」とされてきたものであり、したがって、行政整理によって財源に余裕ができたとみられたこの時点で、いっきに廃税要求が吹き上げてきたのであった。

 1月21日年末年始の休会が開けると、野党側は早速、各種の廃税減税法案を提出、24日の衆議院本会議には、国民党から関直彦の名で提出された営業税法・通行税法・塩専売法・織物消費税法・石油消費税法各廃止法案、地租条例改正(減税)法案、同志会から武富時敏の名で提出された営業税法・通行税法各廃止法案などがいっせいに上程された。そしてさらに続いて中正会の尾崎行雄、花井卓蔵、田川大吉郎から営業税廃止法案、早速整爾からは通行税廃止法案が提出されている。これに対して2月5日の衆議院本会議に上程された政府提出の営業税法改正案は、前議会の衆議院で修正議決されたものと同一の内容(468万円減税)であり、野党側の各種廃税法案と同じ委員会で一括審議されることとなった。そしてこの間、後述するように、シーメンス事件(海軍汚職問題)をめぐる政府追及が展開されたことは、院外運動の反政府機運を強め、廃税運動の熱度を高めることにもなった。

 2月1日、尾崎行雄、関直彦らは京都・大阪で悪税廃止大演説会を問催しているが、演説の題目としては、廃税問題とともに海軍問題が大きく取り上げられるようになっており、翌2日の憲政擁護会臨時総会では、「長閥打破と同一の精神に拠り薩閥の根絶を期し海軍を廓清するを以て方今の急務なりと認む」と決議(『東京朝日新聞』大正3年2月3日)、以後、同会の活動は海軍問題を中心とする方向に転じているが、その活動は、実業家の運動を拡大する役割をも果たしていたと思われる。同じ2日には、大阪で商業会議所および各種実業組合の主催した廃税演説金が聞かれているが、「当日の弁士は何れも当市土着の商人にて、多くは初舞台のこととて甚だ不馴れなりしも、未だ曽て演説会などを開きたることなき当地の商人が、重税の負担に堪へず遂に起つて公開演説会を開きたるは、確かに大阪商人の一大進歩と謂はざる可らず」と報じられている(『東京朝日新聞』大正3年2月3日)。同様な集会は全国各地に広がっていっ た。2月6日野党側がシーメンス事件追及の全国有志大会を聞いて気勢をあげると、9日には実業家の廃税大会か開かれ、10日に内閣弾劾決議案が上程されると、数万の民衆は議会を包囲し、その余波は12日の予算案上程まで続いているが、同じ12日には、全国商工業者連合大会が開かれ、「営業税全廃に反対したる代議士に対し、将来衆議院議員及其他凡ての公職に選挙せざるは勿論、併せて一切の交誼を絶つ」(『東京朝日新聞』大正3年2月13日)との決議を採択している。

 こうした情勢のなかで、与党の政友会は、税制問題を海軍問題から切り離して早期に解決する方針をとり、減税額増額について政府の了解を取りつけ、2月14日午後の委員会(野党側の営業税・通行税各3件と塩専売・織物消費税・石油消費税各1件、計9件の廃止法案および政府提出の営業税法改正案を一括審議)では、2時間ばかりの間に、質問終結の動議を成立させたうえで政友会の修正案を提出し、いっきに採決にもち込んだ。この間、政友会事務員の院内通行証・委員会出人証を着用した暴漢が委員会室に侵入し、同志会の加賀卯之吉議員を 殴打・負傷させるという事件が起こっているが、午後3時すぎには、廃税案9件を否決、政府の営業税法改正案の滅税額を814万円に増額する修正案を可決して、委員会は終結した。

 ついで政友会は、野党との話合いかつかないままに午後5時35分、本会議開会を強行、野党側は先の暴漢事件をとらえて院内秩序回復まで3日間の休会を求める動議などを出して抵抗したが、午後8時すぎには日程を変更して「営業税法廃止法案外9件」の委員長報告にこぎつけた。そしてさらに、夜中ので12時が近づいてくると、 12時がすぎても本件を議了するまで議事を延長するという緊急動議を提出して一挙に決着を図ろうとした。こ れに対しては、花井卓蔵から延長はその日のうちだけで、日付を越えることはできないとの疑義が出され、大岡議長は採決に入ろうとしたが、殺到した野党議員によって投票箱が踏み破られるという事態となった。結局議長も諦めて、同志会の綾部惣兵衛を懲罰委員に付す旨宣言しただけで午後11時48分に散会している。

 原敬はこの日の日記に「本日市中は案外に静穏なり」(前掲『原敬日記』第三巻 391頁)と記しているが、翌15日は日曜日で議会は休会であり、院外運動は鎮静化するとみたのであろう、「我党員は落付き払って一両日議事を継続するも妨げなき態度を以て反対党の為すがままに放任すべき事」(前掲『原敬日記』第三巻 392頁)と指示している。その結果、16日の本会議では、営業税法について夜の8時すぎまで審議して政友会の修正案を可決、17日の本会議で通行税以下の廃止法案を否決し、続いて他の委員会で扱われていた国民党提出の地租条例改正案を上程、これも政大会の修正(減税幅を縮める)どおりに可決している。

 貴族院では、これらの法案はほぼ衆議院の議決どおりに可決されているが、この段階では、貴族院の関心はシーメンス事件の追及と絡めた予算案の扱いに集中されていた。



(6)シーメンス事件起こる

 この議会がシーメンス事件によって揺さぶられ、山本内閣は総辞職し、議会は停会のまま会期を終わるなどというような異常な事態が起こることは、まったく事前には予想もできないことであった。事件の発端は、シーメ ンス・シュッケルト電機会社の東京支社員カール・リヒテルが機密書類を盗み出して、会社を恐喝しようとしたことから始まる。リヒテルは恐喝が成功しないとみると、書類を写真複写したうえでロイター通信社のプーレーに売りつけて帰国したが、結局逮捕されベルリンの法廷で有罪の判決を受けた。そしてこの裁判の過程で、機密 書類がシーメンス社から日本海軍軍人に対する「コミッション」の供与を示すものであり、そこには海軍機関少将藤井光五郎の名前もあると報ぜられた。

 議会ではまず、大正3年1月23日の衆議院予算委員会で、同志会の島田三郎が時事新報の記事によってこの問題を取り上げて質問したが、これに対して斎藤海相は、2か月ばかり前にシーメンス社東京支社の支配人ヘルマンが来訪し、日本海軍の将官名なども記載されている契約関係の秘密書類が盗まれ、それを手に入れたある通信員から、金を出さなければ公表すると脅されていると申し入れてきたが、海軍には「曲事」はないから、どんな秘密か知らないがそれが新聞に出ても「一向差支ナイ」と突っぱねた、と答弁 している。それはリヒテルから書類を買ったプーレーがシーメンス社から25万円を脅しとろうとした事件を指すものであったが、以後のリヒテルに対するドイツの裁判についての報道は、「検事は初め被告に対し懲役8年を求刑せるも、裁判長はシーメンス商会の商売振りが全く実直とは称し難く、ある点まで被告の犯罪を誘致せりとの理由にて2年に滅刑せ り」(『東京朝日新聞』大正3年1月27日)と報ぜられており、それはドイツの裁判所が、シーメンス社の贈賄を認定したものと考えられた。また海軍内部からも、海軍にはもと大きな疑惑があるとの声も上がった。

 予算委員会では島田が繰り返しこの問題を取り上げただけでなく、加藤政之助、守屋此助なども質問に立っているが、さらに、1月29日の衆議院本会議では、この問題について政府の報告を求める緊急動議(花井卓哉提出)が採択され、斎藤海相の報告に対して、林毅陸、蔵原惟郭、菊池武徳、島田三郎、高木益太郎、尾崎行雄らが質問に立っている。海軍に対する疑惑は、物品購入に際して「コミッション」などの商習慣を利用して、担当の軍人が収賄しているのではないか、という点に向けられたものであったが、もしそうした事実があるとすれば、シーメンス社の電気・通信関係の機器・施設納入の場合よりも、はるかに高価な軍艦建造をめぐってより大規模な収賄が行われているのではないかと考えられた。議会での論議もこのような方向に向けられ、海軍省も査問委員会を設けて(1月29日)取調べを始めざるをえなくなった。

 こうした事件の発展に対して、憲政擁護会が2月2日の総会で、活動の中心を営業税廃止から海軍問題追及= 薩閥打破に移すことを決議したことはすでに述べたが、以後はこの方向で世論の動員が図られることになった。 2月4日には、同志会・国民党・中正会・対支同志会の連合演説会が有楽座で開かれ、翌5日には築地精養軒の憲政擁護大会に1万人の民衆が押し寄せている。またこの日の東京朝日新聞は、前年8月にイギリス・ヴィッカ ース社で竣工した巡洋戦艦「金剛」について、同型で重砲などでより以上の装備をもつイギリスの軍艦が1000万円から高くても1200万円を超えることはないのに、金剛は1500万円で「3割ないし5割」も割高にっているという「某海軍武官」の談話を掲載して、疑惑の拡大を示唆した。続いて野党側は、6日、9日と両国国技館に万余の民衆を集めて大演説会を開き、10日には午前10時半から日比谷公園で国民大会を開催するとともに、午後の衆議院本会議に内閣弾劾決議案を上程するという作戦に出た。

 決議案は、「帝国海軍ヲシテ国民疑惑ノ府タラシメ、帝国ノ威信ヲ中外ニ失墜シタルハ其ノ責政府ニ在リ、政府ハ宜ク自ラ処決スヘシ」というものであり、野党から犬養毅、島田三郎、花井卓蔵らが立って政府を追及したが、これに対して政友会の鵜沢総明、奥繁三郎、松田原治らが、事件の真相が明らかにならないうちに弾劾案を出すのは早計ではないかと反論し、結局、164対205の41票差で否決された。しかしこの間、国民大会を終えた民衆は、続々と議会周辺につめかけて議会を包囲し、政府は軍隊の出勤を求めるという緊迫した事態となった。この日の状況を原内相は、「3時議事終了したるに議院の門外の群衆3万余にて頗る不穏に付、出兵の要求を衛戌総督になしたるに5時に至るも兵隊来らず、遂に余安楽(警視総監)に命じて(警官隊により)正門より右折するの道路を開かせ、我党議員を退出せしめ、余等閣員も退散したり」(前掲『原敬日記』第三巻 389頁)と記している。つまり、軍隊がなかなか出動しなかったため、警官隊に群衆を排除させたというわけであったが、弾圧の主役となった警官隊は強硬な態度を示し、夕刻6時すぎ、政友会系の中央新聞社が襲撃されそうになると、抜剣して群衆に切り込み、負傷者を出したと報じられた。

 さらに12日に予算案が衆議院本会議に上程されると、再び群衆は議会に押し掛けたが、夜半すぎには警察はいっせい検挙の方針に転じ、検挙者は435名にのぼったという(『東京朝日新聞』大正3年2月14日)。翌々14日には営業税廃止法案などが上程されたことは前述したが、この日の警官隊はさらに積極的に行動し、「警官議院を包囲す、正に是れ政府の示威運動」(『東京朝日新聞』大正3年2月15日)と皮肉られた。その後、新聞記者が負傷するなどの事件もあり、河野広中(同志会)らが、警察の責任者として原内務大臣の「引責処決」を求める決議案を提出、26日の本会議に上程されたが、152対203で否決されている。

 民衆の動きはこうした警察力によって押さえ込まれてしまったが、シーメンス事件のほうはますます拡大していった。2月16日の貴族院本会議で斎藤海相は、査問委員会がまず沢崎寛猛海軍大佐を、ついで藤井光五郎海軍機関少将を軍法会議に付したこと、また奥田法相は、前述のプーレーを贓物故買および恐喝、ヘルマンとシー メンス社の海軍省担当者吉田収吉を贈賄の容疑で予審にかけていることを明らかにした。さらに18日には、呉鎮守府司令長官で艦政本部長の経歴をもつ松本和海軍中将の官邸に対する家宅捜査が行われ、松本は議会後の3月30日に収監されるに至っている。これらの海軍軍人のうち、沢崎は無線電信所設置にあたってのシーメンス社からの収賄、藤井・松本は「金剛」建造をめぐるヴィッカース社からの収賄で5月には軍法会議で有罪の判決を受けることになるわけであり、事件は予想どおりに拡大していったということができる。



(7)予算案不成立と山本内閣の総辞職

 大正3年度予算案の特徴は、ひとつはすでに述べたように、大規模な行政整理を基礎として減税を実施するという点にあったが、もうひとつは、数年来の懸案であった海軍拡張費が、6か年継続・1億5400万円いう形で含まれている点であり、この点がシーメンス事件との関連で問題化したのであった。与党の政友会でも、政府批判の世論が高揚するなかで、海軍予算をそのまま認めることはできないという空気が強まってきた。そこで政友会から政府との交渉を一任された原内相は、海軍側の譲歩を求め、斎藤海相も5年度に着工する予定の戦艦1隻分3000万円を後回しにすることを了承した。そして予算委員会では、5年に着工するものにいまから協賛を与える必要はない、という理由をつけて3000万円削減の修正案を可決した。

 予算案が上程された3年2月12日の衆議院本会議では、同志会が海軍拡張費全額の削除を主張したのに対して、国民営は前年度予算でその一部600万円を可決している分・8400万円は認めて、新規計画7000万円だけを削除するという修正案を提出したが、政友会の多数によって委員会修正どおりに可決された。しかし貴族院では、シーメンス事件の拡大による政府への反感に加えて、海軍拡張よりも陸軍拡張のほうが急務とみる陸 軍支持派・山県系官僚が大きな勢力を有しており、政府は困難な立場に立たされることになった。もちろん、衆議院においても、陸軍が西園寺内閣を倒してまで強行しようとした二箇師団増設問題が予算案に計上されていないのは、かつての増設を焦眉の急とした認識を改めたものか、といった質問が出されている(たとえば、1月23日、尾崎行雄ら提出の「陸軍大臣ノ責任ニ関スル質問主意書」)。しかし貴族院では、より積極的に師団増設を要求する発言が続いた点が特徴であった。

 衆議院から予算案が送付された2月14日の貴族院本会議では、まず江木千之が「万一事アッタトキニ満州方面ノ手近ニ二万三万乃至四五万ノ兵ガナクテハ、到底武装的ノ平和ヲ維持スルコトハ出来ナイ」と陸軍当局以上の軍拡論を展開、ついで16日には西村亮吉が日露戦争後の軍拡は海軍に重くなっていると指摘しながら、「大正二年度ノ予算ヲ見マスルト、師団ノ増設ハ提出ニナッテ居リマセヌ、海軍ノ拡張費ハ要求ニナッテ居リマスル、 総理大臣ハ国防上海軍ヲ拡張セバ師団ノ増設ハ必要デナイト云フ御見込デアリマセウカ」と迫り、また村田保は、二箇師団増設が今日どうしても「ナクテハナラヌモノ」であるのに、「総理大臣ハ之ヲバ刎ネラレテ、ソレヲ容レラレヌト云フノハ、恐ラクハ身が海軍大将デアルカラシテ、陸軍ト云フコトハ丸デ目ニ置イテ居ラレヌノヂャナイカト思フ」と首相を非難し、「斯ノ如キ偏頗ナル案ニハ我々ハ協賛ヲ与ヘルコトハ出来ヌ」と断じている。これ に呼応して、田健治郎らがシーメンス事件への追及を展開し、反政府的空気の拡大に努めた。

 田は貴族院の山県系の拠点・幸倶楽部の幹部であり、各派の間に奔走しているが、その結果、3月初めには次 のような予算査定案がまとめられている(『東京朝日新聞』大正3年3月5日による)。

 

大正三年度予算に計上せる海軍補充費中七千万円を削除す、即ち衆議院案に対し更に四千万円を滅ずる事下の理由

 

一、

当局の国防計画は海軍に重くして陸軍を軽んず、是れ国防上の一大欠陥なり

 

一、

海軍収賄問題は官紀の紊乱を表明するものにして、貴族院はその廓清を促さざるべからず」


 この7000万円削減案は「内閣不信任の意味たるや最早争ふ可らざるなり」(『東京朝日新聞』大正3年3月9日 社説)とみられたにもかかわらず3月9日の予算委員会は48対7、13日の本会議も240対44という圧倒的多数で可決された。これにより、予算案は再び衆議院に回付されたが、衆議院は貴族院の修正に同意せず、問題は両院協議会にもち込まれることとなった。

 この両院協議会で妥協が成立することはきわめて望み薄であり、したがって、政友会が貴族院案を丸呑みにすれば予算は成立し、内閣は継続するが、しかし衆議院の議決に固執すれば予算は不成立となり、内閣は総辞職するという事態が予想された。貴族院で予算案修正案が可決された13日の夕刻、原敬以下の政友会幹部はこうした情勢への対応策を協議しているが、問題は貴族院案を丸呑みにして内閣を維持した場合の後の見通しであった。つまり、せっかく維持した内閣が、海軍収賄事件の結果などでたちまちにして倒れるようなことにでもなれば、政友会としては何の得るところもない、と考えられた。そしてこの日の協議は、「結局山本(首相)が他日余(原)に内閣を譲るの意思在らば国家の為めに貴族院案を丸呑して予算を政立せしむべきも、否らざるに於ては政行に任すの外なしと云ふに決せり」(前掲『原敬日記』第三巻 401頁)という。

 原は以前より一度内閣をしりぞいて、党の仕事に専念したいとの希望をもっており、翌日山本首相と会談した際にも、政友会が貴族院案を丸呑みにして内閣を維持すれば、自分はこの妥協の責任者として攻撃の矢面に立つことになるとし、その場合には床次鉄道院総裁を後任として内閣を去り、政友会の結束を図って内閣を助ける、という構想を示した。しかし山本首相は、原に去られては内閣は存立しえないとして賛成せず、原はすでにこの時点で、「山本は其在職中余の在職と政友会の助力とを利用するの考に過ぎざるものの如く、一切将来の方針に談及せず、故に余は心中には両院協議会にて幸に成案を得て予算政立せば格別、否らざれば予算は不成立に終らしめ而して内閣総辞職をなすの外なしと思考せり」(前掲『原敬日記』第三巻 401頁)と記しており、山本内閣を維持する熱意を失っていることは明らかであった。

 両院協議会は、両院からそれぞれの議決案を支持する議員10名ずつにより3月19日午後2時より開会、 衆議院側より、陸海軍の不均衡とか海軍収賄事件などの責任は予算とは分けて論議すべきではないか、といった意見が出されたが、貴族院側の態度は変わらず、3名ずつの小委員会で折衝を重ねることとなった。小委員会については議事録が残されていないが、翌日の東京朝日新聞によれば、衆議院側は貴族院側に対して海軍費削減の理由から「政府不信任の意義を取り除かんことを求め、右の理由にして取り除かるゝ以上貴族院削減に同意すベき意向を表した」が、逆に貴族院側は、「此際内閣にして総辞職をだに言明すれば衆議院提言に賛成すべき意向を示し」協議は纏まらなかったという。結局両院の妥協は成立せず、大正3年度予算案は不成立に終わった。

 山本首相はなお、内閣存続の可能性を求めていたが、原を動かすことができず、3月23日議会に3日間の停会を命ずる詔書を下し、翌日内閣は総辞職した。議会は25日停会のまま会期を終わるという異例の事態となっ たが、閉院式は翌日、慣行どおりに行われている。この5か月後には、日本も第一次世界大戦に参戦し、政治の雰囲気もまた、一変することになるのであった。


辛亥革命と武器輸出

 明治45年1月31日、第二八回議会の衆議院予算委員会第四分科会(陸海軍省関係)で、石橋為之助(無所属)は「陸軍ノ方デ近頃此夜ニナリマスト、大阪ノ砲兵工廠カラ船ニ何力積ンデ出マスガ、ソレハ噂ニ聞ケバ古銃砲弾薬ノ類デアルト云フヤウナ説ガアル、或ハ是が支那ノ方へ行クカノ如ク言フテ居リマス」と述べて、武器払下げの金額について質問した。さらに小川平岩(政友会)も関連質問に立っているが、石本陸相から「300万円バカリ」との答弁を得ただけで追及をやめ、この議会ではこれ以上問題が拡大されることはなかった。しか しこの質問は、中国に対する武器輸出が、この時期から本格化してゆくという事態を、わずかながらも反映したものであった。

 まず、革命脈の蜂起に直面した清朝政府は、日本からの武器購入を企てたが、これに対して内田外相は、明治44年10月16日、清朝側が日本商人から武器の供給を受けられるよう助力するという方針を伊集院公使に伝えている。日本側の窓口としては、すでに明治41年に、陸軍払下げ武器の対外輸出を目的とした泰平組合が、大倉組、三井物産、高田商会によって結成されており、10月23日には、同組合と清国陸軍部との間に、小銃弾1500万発(76万3200円)以下、各種砲弾、機関銃など合計273万2640円の武器売渡契約が成立している(外務省編『日本外交文書別冊・清国事変(辛亥革命)』 138〜140頁)。石本陸相の「300万円バカリ」との答弁はこの金額を頭においたものであろう。

 このことは、日本政府が清朝支持の立場に立ったことを意味しているが、しかしそれは革命派と全面的に対決 しようとするような強いものではなかった。政府にも軍部にも中国情勢はどう変化するかわからないとの見方が強く、したがって革命派にも武器売渡しなどで好意を示し、連絡を保っておこうとする動きもあらわれていた。たとえば内相の原敬は、政府が表立って革命脈に武器を 渡すわけにはゆかないが、日本商社が私的な形で行うことは、革命派の「悪感を避くるの好方便」と考え、警視総監に対し、武器輸出を「黙認許可せよと内命」(『原敬日記』明治44年10月21日 第三巻 177頁)するに至っているし、また内田外相自身も、有吉明上海総領事の問合せに対して、革命派への武器輸出を「黙認シ置カレ差支ナシ」との訓令を送っている(前掲『日本外交文書別冊』170頁)。この結果、明治44年12月か 翌年2月にかけて、上海・広東などの領事たちからは、日本の船が武器を積んで到着している有様について次々と外務省に報告が寄せられている。

 こうした清朝・革令両派への武器輸出は、以後の日本の対中国政策のなかに、武器の供給によって政治的支配を拡大しようという欲求を植えつけることになったと思われる。3年後の大正4年1月に中国につきつけた「二一個条要求」のなかには、実現しなかったとはいえ、「日本ヨリ一定ノ数量(例へハ支那政府所要兵器ノ半数)以上ノ兵器ノ供給ヲ仰キ又ハ支那ニ日支合弁ノ兵器廠ヲ設立シ日本ヨリ技師材料ノ供給ヲ仰クコト」という1項が加えられていた。




主要参考文献・史料

山本四郎著『大正政変の基礎的研究』昭和45年 御茶の水書房
山本四郎著『山本内閣の基礎的研究』昭和57年 京都女子大学
坂野潤治著『大正政変』昭和57年 ミネルヴァ書房
小林雄吾著『立憲政友会史』第三巻 大正15年 立憲政友会史出版局
雨宮昭一 「第一次憲政擁護運動」我妻栄他編『日本政治 裁判史録 大正』所収 昭和44年 第一法規出版
大島太郎シーメンス・ヴヰッカース事件」同前所収
原奎一郎編『原敬日記』第三巻 昭和56年 福村出版
田健治郎伝記編纂全編『田健治郎情』昭和7年 同編纂会
山本海軍大将伝記編纂会編『伯爵山本権兵衛伝』巻下 昭和13年 同編纂会
鷲尾義直著『犬養木堂伝』中巻 昭和14年 木堂先生伝記編纂会
若槻礼次郎著『古風庵回顧録』昭和25年 昭和52年 増補版 読売新聞社
尾崎行雄著『器堂回顧録』下巻 昭和27年 雄鶏社
山本達雄先生伝記編纂全編『山本達雄』昭和26年 同編纂会