(1)浜□内閣の成立
田中内閣が総辞職したときには、だれもが次の首相には、野党第一党の民主党総裁浜口雄幸が推薦されるものと考えていた。たとえば、昭和4年6月30日の東京朝日新聞は、「あすの閣議を最後に、二日辞表を捧呈」として、田中内閣総辞職の動きを報じたが、次期首相については、「民政慎重に組閣準備、浜口総裁党人本位に則って、予備的選考を進む」などと、浜口にしぼった報道をしていた。そして、それ以外の内閣のための運動は影響力を もたなくなったとみて、そうした状況を「憲政の常道漸く碓立す」(7月2日社説)と評していた。
元老西園寺公望公爵は、世論の期待に応えて、天皇に浜口を推薦、7月2日午後1時に参内して天皇から組閣を命ぜられた浜口は、午後9時には閣僚の親任式にこぎつけるという手際のよさを示した。
この内閣を議会との関係でみると、陸軍大臣宇垣一成・海軍大臣財部彪の両名以外の大臣はいずれも議席を有しており、その内訳は貴族院4名、衆議院7名となっている。貴族院議員は、外務幣原喜重郎(勅選・同和会)、大蔵井上準之助(勅選・無会派)、司法渡辺千冬(子爵・研究会)、鉄道江木翼(勅選・同成会)の各大臣であり、 このうち、民政党員は江木のみであったが、組閣後、井上も入党している。衆議院議員は、総理浜口雄幸、内務安達謙蔵、文部小橋一太、農林町田忠治、商工俵孫一、逓信小泉又次郎、拓務松田源治の各大臣で、いずれも民政党員であったが、小橋、松田はかつては政友会に属しており、分裂した政友本堂を経て、民政党の結成に参加したものである。また、内閣書記官長鈴木富士弥は衆議院議員、法制局長官川崎卓吉は貴族院議員(勅選・同和会)であった。
(2)緊縮財政のための実行予算
浜口内閣は、当時一般に、「財政経済の立直しと、金解禁の決行を最大の使命として生れた」(昭和4年7月31日『東京朝日新聞』社説)内閣として迎えられた。「金解禁」とは、第一次大戦中の大正6(1917)年9月以来の金の輸出禁止を解除するということであり、国際的に金本位制に復帰することを意味していた。そして前年の6月、フランスが金本位制に復帰すると、主要資本主義国のなかでとり残されたのは日本だけという形になり、このままでは、日本経済の発展はありえない、という意識が広まっていたのであった。
しかし「金解禁」のためには、消費を切りつめて輸入を減らし、商品の国際価格を引き下げて輸出を拡大しなければならないと考えられた。浜口内閣は、そうした準備の第一歩として、成立直後の7月5日の閣議でさっそく、すでに前議会で成立している昭和4年度予算をできるだけ大幅に節約した「実行予算」を作成するという方針を立てた。そして同月末には、17億7000万円の一般会計予算のうちから、約9000万円を節約して16億8000万円とし、特別会計でも、約5700万円を節約する案を決定した。
これに対して、野党の政友会は、こうしたやり方は、議会の予算審議権を侵害するものだとして臨時議会の開会を要求し、9月11日、内閣が実行予算の説明会を開くと、夕方から深夜にかけて、9時間半にもわたってくいさがっている。しかし内閣側は、議会が決定した予算の範囲内で節約を行うことは政府の自由であるとし、また、実行予算の編成は、憲法によって「臨時緊急ノ必要アル場合」(四三条)と規定されている臨時議会召集の条 件にあてはまらないとつっぱねていた。
(3)金解禁に踏み切る
このほかにも、内閣はさまざまの形で、緊縮政策を画策・立案している。まず文部省は「教化総動員」なる運動を企画した。それは8月26、7日に、同省が各府県の社会教育主事を召集して指示した「実施案」によれば、「一、国体観念を明徴にし国民精神を作興すること、二、経済生活の改善を図り国力を培養すること」、いいかえれば、日常生活における天皇崇拝・祖先崇拝の強化を、消費生活の簡素化や国産品の愛用につなげてゆこうとするものであった。また、井上蔵相は10月15日の閣議に、年俸回1200円以上の高等官と月給100円以上の判任官の俸給の一割前後(俸給の額により累進的に減額率を高くする)を減額するという「官吏減俸案」を提出した。それは緊縮政策による税収の落込みを少しでもカバーしようとするものであった。しかし、この案には、日ごろから行政官に比べて俸給が低いとの不満をもつ司法官(検事・判事)が反対に立ち上がり、また、党の長老山本達雄(貴族院議員・勅選・交友倶楽部)や仙石貢(満鉄副総裁)の勧告もあって、1週間後の10月22 日の閣議であっさり撤回された。また、教化総動員運動も、責任者の小橋文相が私鉄疑獄事件との関連を追及さ れて、11月29日辞任(後任は同じ政友本堂系の秋田県選出衆議院議員田中隆三)したこともあり、盛上がりにかけるものとなった。
こうした失敗もあったが、内閣は、11月9日の臨時閣議で、前年度から1億6000万円以上も減額した16億800万円の昭和5年度予算案を決定するなど、緊縮政策の浸透を図った。その結果、為替相場は、浜口内閣成立直前、6月30日の100円=43ドル4分の3から、11月18日には48ドル8分の5に改善され、 両国貨幣の法定金含有量の比率=法定平価49ドル8分の7に近づいた。また、貿易でも輸出の増進により、前々年の1億8000万円の入超、前年の2億2000万円の入超に比べると、この年の入超は11月中旬で7000万円にとどまっていた。このような状況は、金解禁を可能にするものとみられたが、そのうえに、万一の場合の準備として、米英で1億円のクレジット契約が成立すると、11月21日、来年(昭和5年)1月11日より金解禁を行う旨を告示した。これで日本は12年4か月ぶりに、金本位制に復帰することとなった。このときす でに10月24日のニューヨーク株式市場の大暴落が始まっていたが、それが世界大恐慌になることはだれも予測していなかった。
(4)第五七回議会、冒頭に解散
金解禁が実施されたのは、第五七回議会が年末年始の休会中のことであった。このころの通常議会は、12月26日に開会されるのが慣例となっており、この議会もこ12月23日の召集日に、議長選挙を行って、26日の開院式を迎え、翌27日に全院委員長・常任委員の選挙を行っただけで、翌年1月20日まで休会とするという慣例化された日程を消化していた。なお、議長・副議長は一度任命されれば議員の任期中在任することになっていたのに、この議会で選挙が行われたのは、在任中の議長川原茂輔(政友会)が5月19日に病死したためであった。選挙の結果、堀切善兵衛(政友会)が任命されたが、休会明けにすぐに衆議院が解散されたため、議長として活躍したのは実質的には1月21日の1日だけであり、しかもそのいちばん重要な仕事は解散の詔書を読み上げたことであった。第五七回議会の解散は、与党が少数であったため、早くから予想されたところであった。 前議会の閉会時には、政友会222名、民政党172名であったが、浜口内閣成立直後の7月5日、民政党から離脱していた床次竺二郎一派の新党倶楽部と政友会の合同が実現し、この議会の召集日には、政友会は239名 と絶対多数(定員466名)に達していた。しかし政友会の党内の統一は強固ではなく、田中内閣時代の不人気を挽回するために、田中総裁の引退を求める声もあがっていたが、その矢先、9月29日田中自身が狭心症で急死してしまった。そこで政友会では、かつて革新倶楽部を率い、憲政擁護・軍備縮小などを唱えて戦った犬養毅を総裁にかついで、党のイメージの転換を図ろうとしていた。
このような政友会の動向に対して浜口内閣は、休会明けの議会での施政方針演説ののち、最初の質問に首相が答えたところで衆議院を解散するという筋書を立てていた。そして筋書のとおりに、1月21日の衆議院で、大養総裁の質問に浜口首相の答弁が終わったところで、解散詔書が伝達された。ついで政府は、少数党を基礎にしては、政策の遂行を期しがたく、総選挙により国民の信任を問うのは当然の処置だとの声明を発表している。
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