『日本議会史録』3

1991年2月

印刷用ページはこちら



金解禁・ロンドン条約・満州事変


表紙

古屋 哲夫

昭和4(1929)年7月2日

浜口内閣成立

同年12月26日

第57回通常議会開会

昭和5(1930)年1月21日

衆議院解散

同年2月20日

第17回衆議院議員総選挙

同年4月23日

第58回特別議会開会(同年5月14日閉会)

同年12月26日

第59回通常議会開会(6年3月28日閉会)

昭和6(1931年)4月14日

第二次若槻内閣成立

同年12月13日

犬養内閣成立

同年12月26日

第60回通常議会開会

昭和7(1932)年1月21日

衆議院解散

同年 2年20日

第18回衆議院議員総選挙

同年 3月20日

第61回臨時議会開会(同年3月25日閉会)

1浜口内閣、金解禁を断行
2第五八回議会とロンドン条約
3第五九回議会の混乱
4満州事変の勃発と議会の追随
坊さんと政党
主要参考文献・史料

3第五九回議会の混乱
(1)ロンドン条約の批准と浜口首相狙撃事件
(2)第五九回議会の召集と首相代理問題
(3)議場の混乱と幣原首相代理の失言
(4)浜口首相出席問題と内閣不信任案
(5)三月事件と満蒙問題
(6)植民地支配をめぐって
(7)婦人・労働・小作関係法案の流産
(8)合理化法案と減税法案の成立


3第五九回議会の混乱



(1)ロンドン条約の批准と浜口首相狙撃事件


 第五八回議会の閉院式が行われた5日後の5月19日、ロンドン会議の全権の一人、財部海軍大臣が東京駅に帰着し、ロンドン条約の批准問題に世の注目が集まることとなった。すでにみたような議会での統帥権論争の展開は、加藤軍令部長を統帥権干犯論による条約反対の方向に突き動かしており、条約批准権を握る枢密院にも、これに呼応する動きがあらわれていた。

 これに対して財部海相以下の海軍省首脳は、まず軍事参議官岡田啓介大将らの支援を得て、6月11日には、加藤軍令部長の辞任を実現し、海軍を条約承認にまとめる第一歩を踏み出していった。その前日には、山梨勝之進海軍次官と未次信正軍令部次長の更迭も行われており、新しい海軍首脳部として、軍令部長には、呉鎮守府司令長官谷ロ尚真大将、同次長には海軍兵学校長永野修身中将、海軍次官には艦政本部長小林躋造中将が任命されている。

 条約承認に最後まで反対したのは、当時の海軍のただ一人の元帥で日露戦争の英雄とされていた東郷平八郎であったが、結局、7月23日の軍事参議官会議では、条約の規定では「兵カノ欠陥ヲ生ズ」るが、「制限外艦艇ノ 充実」「航空兵カノ整備充実」などの対策を実行すれば「国防用兵上支障無キヲ得ル」との奉答文作成に同意した (『太平洋戦争への道』別巻資料編 55〜56頁)。これで条約批准に対する海軍側の障害は除去されたわけであるが、この間、海軍兵力に関する事項の処理にあたっては、「海軍大臣・海軍軍令部長間ニ意見一致シアルモノトス」との覚書が作成されて、 兵力量決定権は政府にあるとする理論は封じ込められてしまい、また政府は海軍補充計画の実行を約東しなければならなくなっていた。

 しかし、ともかくもこの海軍側の態度決定により、舞台は枢密院に移され、7月24日、条約は枢密院に諮詢された。この間、6月17日神戸に上陸、18日東京駅に着いた若槻礼次郎首席全権が、いたるところで「あのような熱狂的歓迎を民衆から受けやうとは、恐らく本人もその間際まで予期しなかった所であらう」(『東京朝日新聞』昭和5年6月19日 社説)と報ぜられるような大歓迎を受けたことは、ロンドン条約への世論の支持を示すものとして政府を力づけたに違いない。

 枢密院側には条約反対の空気が強く、審査委員会は海軍側奉答文や海軍補充計画の提出、加藤前軍令部長の出席などの要求を繰り返して政府と対立したが、政府はそのいずれをも拒否して強硬な態度に終始した。しかも肝心の海軍が条約を承認している以上、枢密院側には、政府攻撃の決め手がなく、結局10月1日の枢密院本会議は条約批准案を可決、翌22日天皇の批准が行われた。そしてこれを機会に、10月3日財部海相は辞任し、後任には軍事参議官安保清種大将が任命された。

 以後11月上旬にかけて、さっそく海軍補充計画の予算化をめぐる交渉が続けられることになるが、とにかく、 さまざまの難関を乗り越えて、ロンドン条約を成立させたことは、国際協調主義の勝利であり、浜口首相の威信を高めたことはいうまでもない。しかし、政界の裏面では、こうした方向を根本的にくつがえそうとする勢力が、 軍部を中心に拡大しつつあった。

 すでに張作霖爆殺事件以後、まず満州を占領しそれをきっかけとして、軍部の主導する政治体制をつくり出そうとする勢力が、陸軍中枢部に横断的に浸透してきていたが、ロンドン条約反対運動は、こうしたいわゆる軍革新派の影響力を陸軍のみでなく海軍をも含めて、より若い青年将校に広め、さらに、右翼や政党の一部とも結合させる役割を果たしていた。ロンドン条約をめぐって、政府・海軍・枢密院の間に緊張が高まっていたこの年の夏には、橋本欣五郎中佐らが、国家改造のためには武力行使をも辞せずとして、クーデターの方向への青年将校の組織化に乗り出している(高橋正衛『昭和の軍閥』参照)。そしてこうした右翼的熱気のなかから、浜口首相狙撃事件がひき起こされることになるのであった。

 11月11日の閣議で、海軍補充計画案、昭和6年度予算概算などを決定した浜口首相は、岡山県下で挙行中の陸軍大演習を陪観のため、14日午前9時東京駅発の特急「つばめ」に乗車すべく、プラットフォームを歩行中、待ちかまえていた愛国社員佐郷屋留雄(23)に狙撃され、下腹部に銃弾を打ち込まれたのであった。浜ロはただちに東大病院に運ばれ、腸の縫合手術を受けた。銃弾は大血管をはずれており経過は良好と発表されたが、 面会禁止の状態が続き、回復の見通しは曖昧であった。

 事件の翌日、11月15日午前の臨時閣議は、とりあえず内閣官制八条の「内閣総理大臣故障アルトキハ他ノ 大臣臨時命ヲ承ケ其ノ事務ヲ代理スヘシ」との規定に基づいて総理大臣臨時代理をおくこととし、閣僚中で宮中席次の高い幣原外相をこれにあてることに決定した。もっとも宮中席次は字垣陸相のほうが上であったが、前述 したように、病気療養中であり、阿部次官を国務大臣に格上げして臨時代理としている最中のできごとであった。

 このときには、幣原の臨時代理は文字どおり臨時のものであり、浜口が議会に出席できない場合には、あらためて協議することとされていた。そして次の第五九回議会は、この浜口首相の議会出席問題をめぐって、大きく混乱することになるのであった。



(2)第五九回議会の召集と首相代理問題

 第五九回議会は通常会として、昭和5年12月24日召集、会期は12月26日から翌6年3月25日まで90日とされたが、後述するような貴族院の紛糾のため、2日間延長され、3月27日に終了した。貴族院議長徳川家達、衆議院議長藤沢幾之輔、同副議長小山松寿はいずれも任期継続中で、この議会にも在任したが、貴族院副議長蜂須賀正韶は会期中の6年1月15日任期(7年)満了となり、翌16日近衛文麿が後任に任命されている。

 ところで、第五九回議会の召集が近づいても、浜口首相の容体は回復せず、議会にも首相代理を立てて臨まねばならないことがあきらかになると、まず与党である民政党内部が紛糾し始めた。当時の民政党には、江木翼鉄相を中心とした勢力と安達謙蔵内相を中心とした勢力とが対峙しており、江木=官僚派、安達=党人派と対比されていた。このうち安達派は、選挙権拡張、社会政策立法などを積極的に推進しており、首相代理問題についても、党員でない幣原外相を立てて議会に臨むことに強く反対していた。

 第二次大戦前は、政党内閣といっても、陸海軍大臣と外務大臣には政党人が就任したことはなかった。この時期、「幣原外交」の名によって、民政党の外交政策を特徴づけていたかにみえた幣原にしても、勅選議員として貴族院に議席を有してはいたが、民政党に入党していたわけではなかった。当時、首相代理問題と関連して、幣原の入党を求める声もあがったが、年末年始の休会明けを目前にした6年1月18日の政府・与党懇談会で、幣原 は「自分は政党に相当の理解を持っているつもり」であるが、にもかかわらず「自分が政党に入党しないのは、国家につくす本分が別にあると思っているからである」(『東京朝日新聞』昭和6年1月19日)と述べて、入党の意思のないことを明らかにしていた。

 したがって安達派が、政党内閣である以上、党内の中心人物を選び総裁代理=首相代理として議会に臨むべきだと主張するのも一理あるところであった。しかしこの安達派の主張は、事実上、浜口の後継総裁を決定することを意味し、それをめぐって党内抗争が激化することは明らかであった。こうした事態を避けるため、若槻礼次郎・山本達雄・仙石貢の三長老は、12月上旬には、この議会にも幣原首相代理で臨む方針を固め、江木鉄相もこの方向に党内をまとめることに努めた。結局安達派もこの流れをくつがえすことはできず、政府・与党は会期中には浜口首相が出席することを前提として、幣原首相代理で議会に臨む方針を決定した。そして野党側も、この点に攻撃の照準を合わせていた。

 議会は12月26日の開院式のあと、勅語奉答文の作成や院内役員の選出(常任委員長は民政党が独占を続ける)を行っただけで休会となったが、1月22日に再開されると、政友会は衆議院本会議の冒頭に、首相代理問題に関する決議案を提出し、施政方針演説に先立ってただちにこの決議案を審議すべしとする議事進行に関する緊急動議をぶつけた。

 決議案は、「臨時事務代理をもって帝国議会に臨むが如きは憲政運用の本義を蔑視するものなり、特にその代理者が党外閣僚たるにおいて然りとなす、政府はすべからく責任内閣の通義に鑑み深甚の考慮を加え、以て政党内閣の規格を整備するところあるべし」(『東京朝日新聞』昭和6年1月23日夕刊)とし、幣原首相代理をもって政党内閣にあるまじきことと非難したものであった。動議の趣旨弁明に立った鳩山一郎(政友会)は「政党ノ総裁ニモアラズ、総理大臣ニモアラザル臨時代理内閣ノ下ニ、議会ノ議事ヲ進行スベカラズト云フコトハ、極メテ明白デアル」と叫んでいる。

 動議は与党の絶対多数により、記名投票で否決され、決議案は本会議に上程されずに終わったが、施政方針演説に続く質問でも政友会は執拗にこの問題を取り上げ、山崎達之輔(政友会)は職権・責任の面での首相と首相代理との関係、牧野良三(政友会)は首相代理と民政党との関係について政府を追及している。

 政府・与党にとっても、この問題は大きな負担であった。幣原は山崎への答弁で、「今日ノ状態ヲ以テ致シマスナラバ、本議会ノ会期中ニ(浜口首相が)登院ノ出来マスコトハ最早疑ヲ容レマセヌ」と述べて、浜口の出席を約束せざるをえなかったし、また牧野が、1月8日付東京朝日社説「政治休業中の現政府」を引用しながら指摘したように、政府の議会対策がきわめて消極的になっていることも明らかであった。



(3)議場の混乱と幣原首相代理の失言

 首相代理問題をめぐる緊急動議という異例の形で始まった衆議院は、翌日になると、今度は懲罰問題で議場の混乱が始まった。まず、田中内閣の蔵相でもあった三土忠造(政友金)が、政府は経済状況について楽観的観測を宣伝して国民を誤らしめ、また巨額の軍縮剰余金が生ずるような「虚偽ノ宣伝」をして国民を欺いたと述べるや、民政党席は「虚偽トハ何ダ」「取消セ」と騒ぎ出し、政友会側もこれに応酬、議場は騒然となった。そして議場の混乱から、政友金の深沢豊太郎・藤井達也が懲罰に付せられるという騒ぎにまで発展している。

 ついで政友金からは、先の総選挙で初当選した元満鉄副総裁松岡洋右が登壇し、「満蒙」は「国民ノ生命線」と叫びながら幣原外交を攻撃したが、これに対して幣原が答弁に立つと、今度は政友側の野次で議場は騒然となり、結局幣原は立往生したままで、議長は散会を宣するありさまとなった。

 こうした状況は、与党の側からいえば、絶対多数を有するにもかかわらず、党内から首相代理を出すこともできず、深刻化する不況への有効な対策も立てられないといういらだちを示しており、これに対して野党側も、政府の弱点をつくことはできても、絶対多数に阻まれて具体的な譲歩を引き出すことはできず、また政府のほうも、 首相代理問題をかかえて消極的になり、なかなか重要法案を提出しないといった、奇妙な停滞に基づくものであった。こうした状況のもとで、今度は2月3日午後の予算総会で、幣原首相代理の失言問題が起こり、議会は再び空転することになるのであった。

 予算委員会での論点のひとつは、ロンドン条約批准の条件とされた海軍補充計画をめぐる問題であり、政友会側では、この点をめぐる政府と軍部の対立を引き出そうとした。まず、1月29日の貴族院本会議において、安保海相は池田長康(男爵・公正会)の質問に対して、「倫敦ノ海軍協約ノ兵力量ヲ以テシテハ、予定ノ作戦計画ヲ遂行スル上ニ、若干ノ兵カノ不足ヲ感ズル」が、この「若干ノ不足ハ之ヲ補フコトガ出来得ル」のであり、このたびの補充計画によって「此条約上ノ不便カラ来タル所ノ影響ヲ緩和イタシマシテ、サウシテ予定ノ作戦計画ヲ遂行スル上ニ支障が無イモノト認メル次第デアリマス」と答弁しているが、翌日の予算委員会で、内田信也(政友会)は、この答弁から、補充計画は兵力の不足を緩和するだけで完全に補うことはできない、との結論を引き出そうとした。

 しかしこの試みが成功しないとみるや、今度は、海軍側の統一意見としての軍事参議官会議の奉答文(85頁参照)を取り上げ、幣原首相代理に対して、海軍補充計画はこの「奉答文ノ趣旨に適フ」かどうかをただした。幣原はここで、奉答文は浜口首相にだけ内覧を許されたものであり、内閣に写しを下付されるとか、海軍大臣から報告されるといった手続がとられていないのであるから、奉答文は軍機に関したものではあっても、国務に関 係したものではないとして、補充計画についての内閣の責任を回避する態度に出たのであった。

 これは、「国防ノ責任ハ飽迄モ政府が負ヒマス」という前議会での浜口首相の態度より著しく後退したものであり、山崎達之輔・奏豊助・島田俊雄らの政友会議員が次々立って、この点に攻撃を集中することになった。たとえば、奏は、軍機に関することも予算を必要とすれば、その実行は内閣の手に移るのであり、軍機も国務に変化するのではないか、と追及したが、幣原は前と同じ答弁を繰り返すだけであった。それは軍機に関する問題は内閣の責任でないとする意識を示すものであり、次の失言の背景をなすものといえる。

 問題が起こった2月3日の予算委員会では、中島知久平(政友会)が先の内田がもちだした「兵カノ不足」の問題をぶりかえし、前議会での“ロンドン条約で国防は安固”とした答弁の責任を問うたのに対して、幣原は次のように答えたのであった。

 

○幣原国務大臣 此前ノ議会ニ、浜口首相モ、私モ、此倫敦条約ヲ以テ日本ノ国防ヲ危クスルモノトハ考ヘナイト云フ意味ハ申シマシタ、現ニ条約ハ御批准ニナッテ居リマス、御批准ニナッテ居ルト云フコトヲ以テ、此倫敦条約ガ国防ヲ危クスルモノデナイト云フコトハ明ラカデアリマス


 この答弁は、国防の責任を「批准」という天皇の行為に押しつけるものとして、野党側はいっせいに反発し、委員会は怒号のうちに散会となった。翌日の委員会も罵声と怒号によって開会することができず、幣原を批判する世論も強まった。政府予党もこの失言を取り消す以外に事態を打開する方法のないことを認めざるをえなかっ た。

 政府は2月7日の閣議で、失言取消しのための案文の起草および折衝の方法を安達・江木両相に一任することを決定した。翌8日、安達は政友会総務望月圭介と会い、幣原の弁明として、問題の発言は「私の真意をつくしたものでなく失当の言葉でありましたから取消します」との文面を提示した。安達は最初「失言」とするつもりであったが、与党内に強い反対があり、「失当なる言葉」と修正したものであった。これに対して政友側は、9日になって犬養総裁が安達内相と会談して前日の安達案を拒否、「中島君に答弁したることは憲政の本義に鑑みこれを失言と認めますから取消します」との代案を示したが、安達はこれでは民政党は納まらないと反発し、結局 「過日中島君の質問に対し答へましたる答弁は失言であります。全部これを取消します」との文面でようやく妥協が成立することとなった。

 予算委員会は10日間を空費して2月12日に再開されたが、この議会の混乱はこの後もまだ尾を引いている。



(4)浜口首相出席問題と内閣不信任案

 ところで政府は、浜口首相が会期中には出席できるとの前提のもとで、首相代理を立てて議会に臨んでいるのであり、したがって、幣原失言問題が片づくと、次は浜口首相がいつ出席できるかが政治問題化してくることは必然であった。とくに浜口の答弁なしに、予算審議を終えることへの不満が、両院を通じて広がっていた。

 昭和6年度予算案が2月17日の衆議院本会議に上程されると、政友会は、浜口首相が出席するまで予算審議を延期するとの決議案を用意し、この決議案を先議すべしとする動議を提出している。この動議は民政党の多数で否決され、予算案も翌日には衆議院を通過したが、政府もこの問題を無視することはできず、2月19日の貴・衆両院の本会議の冒頭で、幣原首相代理より発言を求め、浜口首相は「今後意外ノ変化ノナイ限リハ、3月上旬中ニハ出席イタスコトガ出来ルデアラウト存ジテ居リマス」として、具体的な時期を明示したのであった。

 浜口の病状は政府の楽観的言明に反して回復が遅れていたが、政府はともかくも浜口の出席によりこの議会を 乗り切ろうとした。3月9日幣原首相代理とともに参内した浜口首相は(この日をもって首相代理を解任)、翌10日、この会期ではじめて衆議院本会議に登壇して挨拶し、犬養政友会総裁は慰労の言葉を述べている。しかし浜口は討議に参加したわけではなく、約7分間で退場、翌日の貴族院本会議も5分で退場しており、それだけの登院でもすぐに体調を崩して12日は静養するありさまであり、14日の衆議院本会議で初答弁を行ったが、政府与党はできるだけ浜口の答弁時間を切りつめて議会を切り抜けようとした。しかしこのやり方に強く反発した政友会は、追加予算審議にあたっての浜口の答弁を要求し、浜口も3月17日の衆議院予算委員会で、翌日の本会議で答弁に立つことを約束せざるをえなくなった。

 追加予算案を上程した衆議院本会議は、3月18日午後2時30分開会、まず最初に質問に立った鳩山一郎は、「首相ノ議会二於ケル登院ノ有様」は「肉体的ニ会ク議会否認ノ結果ヲ来シテ居ル」と述べながら、首相代理設置の責任を追及した。これに対して浜口は、「此内閣ハ、私ガ遭難前ニ於キマシテモ、又遭難後ニ於キマシテモ、 又復職後ニ於キマシテモ、同一ノ浜口内閣デアリマス」として、首相代理の政治的行為ならびに答弁については私が責任をもつとつっぱね、ついで大口喜六(政友会)の財政経済についての質問に対して、二度登壇して答えているが、午後5時23分の休憩とともに退席して議場に戻らなかった。

 午後9時34分、藤沢議長が浜口首相欠席のまま開会しようとすると、政友会議員はいっせいに演壇に殺到し、議場混乱のまま結局散会となった。速記録には、〔離席者多ク議場騒然〕、〔発言スル者多ク聴取スル能ハス〕、〔「浜ロヲ出セ」「浜ロヲ出セ」「約束ヲドウシタ」「浜ロヲ出セバ解決スル」ト呼ヒ其他発言スル者多ク議場騒然〕といった状況が記されている。その翌19日、政友会は内閣不信任案を提出するとともに、院外でも倒閣大会を開い気勢をあげた。不信任案は、20日の本会議で否決されたが、倒閣大会については次のように報ぜられており、そこには、民衆の議会への不信感がある程度反映されているとみることができる。

 

 「政友会院外団主催の倒閣大会は、十九日午後二時から芝公園東照宮前広場と政友会本部のニケ所で聞かれたが、芝公園の方は三時十五分終了後議会になだれ込み、防止の警官隊と小競合となり数名の検束者をだし、一隊は増上寺前付近で警戒線を突破、ために警官隊は直に御成門交差点に第二陣を布いたため市電は約二十分停車、又も警官隊と乱闘、ここでも検束者を出したが、うち約一千名は裏道伝ひに政友会本部に押かけ同本部の群衆と合し、本部大会終了と共に場外になだれ、芝公園からの大衆と合流、勢ひを得た群衆は警官隊と衝突、 警官の頭上めがけて小石の雨を降らせ酒の空ビンを投げつけるなど混乱は高調に達した」(『東京朝日新聞』昭和6年3月20日)




(5)三月事件と満蒙問題

 こうした議会の状況については、「第五十九議会の最大の収穫は、あるいは多数党の無力と議会の暴力化による議会政治否認を国民に強く印象づけた事であるかも知れない」(『東京朝日新聞』昭和6年3月26日 社説)とも評されているが、実際にもこのとき、陸軍首脳部のなかには、クーデターヘの陰謀さえ生まれていた。「三月事件」と呼ばれるようになったこの陰謀は、うやむやに処理されたため、現在でもその真相は明らかでないが、右翼の大川周明や、参謀本部第二部長建川美次少将、陸軍省軍務局長小磯国昭少将らが、宇垣一成陸相をかついで軍部政権の実現を企てたものであり、最終段階で宇垣が動かなかったため失敗に終わったものとみられる。

 この事件についてはすでにさまざまに書かれているので、ここではまだあまり知られていない中島信一の供述を引用しておこう。中島は大川周明の秘書で軍部との連絡にあたったものであり、この供述は昭和7年5月、五・ 一五事件に関連した取調べに際してのものである。

 

 「当時第五十九次議会開会中ニテ、此ノ非常時二際シテ代議士連ハ相不変不謹慎極マル泥試合ヲ演出シ到底座視スルニ忍ビナイ有様デ、国民一般ニ議会政治ニ対スル怨嵯非難ノ声高マリ、一方無産党ニ於テ同年二月十八日及二十四日両日ヲ期シテ議会否認ノ「大デモンストレーション」ヲ決行スルト云フ情報アリ、而モ政治家代議士共ハ恬トシテ恥無キ状態ヲ続ケ居ル有様故、之ヲ機会ニ軍部及民間ノ急進的改造派ノ連中ハ、打倒政党政治財閥ヲ叫ンデ蹶起セントスル決意ヲ為シタノデアリマス(中略)
偶々政府委員トシテ議会ニ臨ンデ居夕当時ノ陸軍省軍務局長・陸軍少将小磯国昭、参謀本部第二部長・陸軍少将建川美次等ハ窃ニ議会ノ醜状ヲ目ノ当り見テ、日本改造計画断行ノ時期到レリト為シ其ノ決意ヲ為シタノデアリマス。其時ニ当ッテ偶然ニモ当時ノ陸軍大臣字垣一成大将モ窃ニ日本改造実行ニ乗出サントノ決意ヲ為セルモノノ如ク、其意中ヲ其頃大川周明、小磯少将等ニ洩シタノデ、茲ニ宇垣大将ヲ主盟トシテ民間ノ大川周明ヲ加ヘテ陸軍軍部有志ニ依ル日本改造断行計画が謀議サレルニ至ッタノデアリマス」(「中島信一検事聴取書・第2回」『木内曽益関係文書』所収国会図書館憲政資料室蔵)


 そして2月6日ごろから、建川の部下であった重藤千秋大佐、橋本欣五郎中佐らとの間で実行計画の打合せがなされ始めたという。それはちょうど、幣原失言問題で議会が空転しているさなかのことであった。しかし「3月10日前後ニナッテ字垣陸相ハ動揺シ出シタトイフ情報」がもたらされ、結局クーデターは中止となるのである が、この3月10日は、浜口首相の議会出席の日であり、その前後には浜口の病状との関連で、「政変」がとりざたされ、字垣が後任首相の有力候補にかつがれ始めたことも、彼の「動揺」と関連していたのかもしれない。3 月9日の東京朝日新聞は「今度は(幣原と)同じく党外の字垣陸相が、貴族院を中心として一部の人々によって総裁候補に担かれている。(中略)安達は柄が悪い、宇垣なら元老、宮中重臣にもまづ受けがいい、そこで党内の意向などはどうあらうとも宇垣陸相を押し立てようとする策動が頭をもたげて来た」と報じている。

 なお、偶然の一致ということになるが、クーデターが予定されていたのは、衆議院本会議に内閣不信任案が上程された3月20日であった。

 ところで、クーデターを企てたのは、「満蒙問題の解決」を叫ぶ勢力であったが、この時期には満蒙における日本の権益は種々の困難に直面しており、それを日本の危機と考える危機意識が、彼らをクーデターに駆り立てたのであった。

 その危機は、日本の権益の中核である南満州鉄道(満鉄)の経営悪化に端的にあらわれており、5年末の収益 は半減し、株式配当は1割1分から6分へとかつてない低落ぶりを示していた。それは経済的には世界恐慌の波及と世界的な銀の暴落によるものであり、とくに銀の暴落は、銀建ての中国側鉄道の運賃を金建ての満鉄運賃よりも著しく割安なものにしたのであった。しかし日本側では、そうした問題よりもむしろ、利権回収という民族的な要求を背景にして中国側が満鉄圧迫政策をとっているという点が強調されるようになっていた。そしてそれは、幣原外相のもとでの鉄道交渉の停滞を、「絶対無為傍観主義」「軟弱外交」(1月22、23日の衆議院本会議での松岡洋右の発言)と非難し、そうした幣原外交のあり方が、中国側の排日政策を助長しているという見方につながっていた。

 たしかに張作霖政権末期から満州での中国側の自主的鉄道建設が積極的に進められるようになっていたが、さらに張学良政権になると、そうした方向は強められ、5年4月の東北交通委員会による「東北鉄路路段会議」では、大規模な鉄道建設葫芦島築港とを結びつける遠大な計画が決定されたと伝えられた。そして実際に7月2日には、張学良の出席のもとに築港起工式がはなばなしく開かれている。

 日本側には、そうした中国側の動きに対する危機感が広がっており、たとえば、2月2日の貴族院本会議で川村竹治(勅選・交友倶楽部)は、満鉄の困難は中国側が「満鉄線ヲ包囲シテ、其ノ左右両側ニ並行線ヲ作リ、独り北満ノ貨物ノミナラズ、従未満鉄ガ、南満デ得タ所ノモノサヘモ是ヲ奪ヒツツアル」ためだとし、「南満鉄道並行線並ニ障害線禁止協約ハ一体ドウナッテイルノカ」と追っている。ここで取り上げられた協約とは、日露戦争 直後の「満州に関する日清条約」の付属取極(明治38年こ12月22日調印)のなかで中国側に、満鉄の利益を 保護するため「該鉄道付近ニ是ト並行スル幹線又ハ該鉄道ノ利益ヲ害スベキ枝線ヲ敷設セザルコト」を約束させたものであった。

 幣原はこの質問に対して、満鉄の減収は大豆などの貨物の減少によるものであり、中国側の満鉄包囲政策の結果とみるのは、「事実ニ於テ誤リ」であるとした。そしてさらに、4日の本会議では並行線問題について、満鉄東側の打通線(打虎山―通遼、昭和2年11月開通)、西側の吉海線(吉林―海龍、昭和4年5月開通)がそれにあたるが、これらの鉄道についても、「中国ノ鉄道モ相当ニ利益ヲ受ケ、満鉄ノ利益モ相当ニ保障セラレル所謂共存共栄ノ原則ニ依ッテ何等カノ協定ヲ試ミタイ」と述べている。それは並行線禁止規定そのものの再検討を含んでいるようにみえるが、ついで3月9日の本会議で、赤池濃(勅選・同和会)が中国の利権回収の動きについて質問した際には、より一般的な形で次のように答えている

 

 「日華両国間ニ於ケル密接複雑ナル政治的並ニ経済的関係ヲ構成スル各般ノ分子ノ中ニハ、如何ナルモノガ我ガ国民的生活ニ絶対的ニ必要デアッテ、其必要上変改ヲ許サザル性質ノモノデアルカ、又如何ナルモノガ世界ノ変遷、殊ニ日華両国間ノ新タナル事態ニ適応シテ変改シ得ル性質ノモノデアルカ、調整シ得ラレルモノデアルカ、而シテ之ヲ調整スルニハ如何ナル順序、方法ニ依ルベキカト云フコトニ付キマシテハ、私ハ我ガ国論ハ根本ニ於テ其判断ヲ一ニシテ居ルト考ヘテ居ルノデアリマス、私等ハ此一ニスル国論ノ趨向ニ依ッテ行動イタシタイト考ヘテ居ルノデアリマス」


 この答弁は、現に一致した国論が存在するかのごとく述べているが、幣原の真の意図は、在華権益について何をいかなる順序・方法で変改することが必要なのかを再検討する方向に、国論を導いていきたい、という点にあったと思われる。しかし実際には幣原は、権益再検討についての大胆な提案を打ち出すこともなく、したがって国論形成の糸口をつかむこともできずに、満州事変によって姿を消すことになるのであった。

 この議会のさなか、満州の現地では、石原莞爾関東軍参謀らによって、満蒙占領統治研究会が開かれていた。



(6)植民地支配をめぐって

 満州で「満鉄の危機」が叫ばれていたとき、台湾は「霧社事件」と呼ばれた原住民の暴動で揺れ動いていた。 暴動は台湾中部の霧社地区で、昭和5年10月27日午前3時ごろから、駐在所襲撃の形で始まり、朝までに12か所の駐在所を壊滅させ、さらに霧社警察分室を襲って銃器・弾薬を奪った。続いて連合運動会のためにこの地区の日本人のほとんどが集まっていた霧社公学校を襲い、たちまちのうちに霧社地区を制圧した。襲撃に参加したのは、この地区の高山族(日本側では高砂族と呼んでいた)11社のうち6社(計280戸、1236人)、壮丁3〜400名であり、日本人134名が殺害された。当時霧社在住の日本人は36戸、157名であったが、当日は運動会のため、霧社の日本人は227名に達していたといわれる。

 原住民側は頑強な抵抗を試み、日本側は警察力では鎮圧できずに軍隊を前面に立て、機関銃・山砲から催涙弾・飛行機による爆撃と近代兵器による猛攻撃を加えている。抵抗はこ12月初めまで続いたが、追い詰められた高山族は次々と縊死などの方法で自殺し、抵抗の意思の強固さを示した。この自殺者が多数にのぼったことが、この事件のひとつの特徴であり、2月5日の貴族院本会議で松田源治拓相も「御承知ノ通り蕃人ハ死体ヲ遺棄イタシマセヌカラ、確実ナル数ハ明瞭デハアリマセヌケレドモ、反抗ノ為ニ死シタル者が約100名位デアリマス、ソレカラ縊死其他自殺ヲシタル数が450人位デアリマス」と述べてこのことを認めている。

 この事件については、衆議院本会議では浅原健三(大衆党)・浜田国松(政友会)、貴族院本会議では湯池公平(勅選・研究会)・川村竹治(勅選・交友倶楽部)などが取り上げているが、松田拓相の辞任要求に力点がおかれており、台湾統治の問題点についての論議は不十分なままに終わった。事件の原因としては、この議会でも、学校・駐在所の建改築や、道路・橋・水路など土木事業への狩り出し、その際の虐待・酷使、低賃金のうえにその天引き・横領、日本人警察官と現地女性との関係などの問題があげられているが、襲撃側がほとんど死亡していることもあって、十分に明らかにされたとはいえない。

 松田拓相は、霧社事件の責任については、台湾総督以下が辞任したうえに「私マデ責ヲ引ク所ノ必要ハナイ」(1月26日、衆議院本会議)とつっぱねていたが、朝鮮の問題についてもまた、責任を問われ始めていた。たとえば、昭和6年2月26日の東京朝日新聞は「拓務大臣の責任」と題する社説を掲げたが、その内容は、朝鮮忠清南道の道庁移転費が、ほかならぬ与党の手によって衆議院で削除され、それがまた貴族院で復活される形勢にあるという問題を取り上げたものであった。
写真
 拓務省は朝鮮総督府の要求に基づいて、昭和6年度予算のなかに、忠信南道道庁を公州から大田に移転させる費用35万9000円を計上したが、公州側は移転反対運動を展問し、2月6日の衆議院請願委員会が反対請願を採決したころから問題は次第に重大化し た。そして拓務省予算を審議する衆議院予算委員会第一分科会では、岡本実太郎(民政党)から移転費予算の削除を提案し、そのまま予算総会・衆議院本会議をも通過した。民政党総務会は、3月7日、移転費削除理由を次のように声明している。

 

 「公州は百済以来千四百余年の歴史を有する朝鮮人市街であり、忠信南道の中央に位する中心都市である。これに反して大田は僅に二十余年の新開地にして道の東南隅に偏在し、主として内地人市街である。 しかして今、公州より大田に道庁を移転することは、朝鮮人の利害を顧みず内地人をひ護するとの非難をも免れないのである。かくの如きは、朝鮮の民族心理を剰激し、統治の将来に重大なる禍根をのこす大問題である。これ衆議院がその予算を削除したる最大の理由である」(『東京朝日新聞』昭和6年3月8日)


 貴族院にもこの主張への支持者もおり、また衆議院が削除したものを復活させてまで移転を急ぐ理由はないとして、さらに利害の調整を図ってから再提案すべきだとする意見も出されたが、「朝鮮総督の威信」という観点が強く打ち出されたことが、貴族院での論議の特徴であった。貴族院では、拓務省予算は予算委員会第六分科会にかけられているが、3月9日の同会で川村竹治(前出)は次のように主張している。

 

 「大体論ト致シマシテ植民地ニ於ケル問題ハ余リ中央政府若クハ帝国議会ガ細カナコトニ迄立入ッテ干渉スルト云フコトハ宜シクナイコトデアリマス、……何カ問題が起ルト云フト、総督府ヲ差措イテサウシテ内地ニ運動ヲスル、議会ニ運動ヲスル、政府ニ運動スルト云フコトガアッテハ到底植民地ノ統治ト云フモノ八行ハレルモノデハアリマセヌ、……北限何ヨリモ必要ナコトハ総督ノ威信、総督ノ言明ハ必ズ行ハレルト云フヨウナコトニ中央政府並二議会が仕向ケテ置カヌト云フト、此問題ハ小サイケレドモ、将来植民地統治上ニ於テ非常ナ弊害ヲ胎シテ、タダニ朝鮮統治ノミナラズ他ノ植民地統治ニモ影響ガ少ナクナイコトヲ私ハ確信シテ居リマス」


 つまり、朝鮮総督の威信のためには、すでに総督が決定・言明している道庁移転を実現しなければならないというわけである。そして最大の会派・研究会が移転費「復活」を決議したことで、貴族院の大勢は決し、3月13日の本会議では、復活案が103票の大差で通過した。これに対して、後述するように、減税案をめぐる貴族院の抵抗に直面していた政府・与党側は、両院協議会を開かずに、貴族院の「復活」議決を承認しており、ここでもまた、絶対多数の威力を示すことはできずに終わった。



(7)婦人・労働・小作関係法案の流産


 この議会の最大の特色は、法案の面でいえば、婦人・労働・小作関係で多くの重要法案が政府から提出されたことであり、世論からも大きな期待を寄せられていたが、幣原首相代理のもとでの議会運営に苦しんだ政府側は、重要法案の提出を遅らせ、これらの法案が上程されたのは、いずれも会期後半になってからであった。

 その最初は、2月10日の衆議院本会議に上程された婦人公民権関係法案であったが、今回の政府提出法案は前議会で政友・民政両党の議員提案の形で衆議院を通過した法案(84頁参照)に比べると著しく複雑なものになっていた。すなわち前回の議員提出法案は、現行の公民権の規定から「男子」の文字を削除して「女子」をも同等の扱いとする、したがって府県会議員の選挙・被選挙権をも与えるというものであったが、今回の政府案は、 男女の差を次のような形で残そうとしていた。

 (1)市町村については、25歳以上の女子に公民権を与えると同時に、男子の公民権を25歳以上から20歳以上に拡大した。(2)これまで「市町村公民」に与えられていた府県会議員の選挙・被選挙権を「市町村公民タル男子」に限定し、女子の公民権を府県会まで及ばないこととした。(3)「公民」となった妻が、市町村の名誉職(市町村長・助役・市町村会議員など)に就任するには、夫の同意を必要とすることとした。なお、この改正に対応するものとして、25歳以上の女子の政治結社加入を認める(それまで女子の加入は全面的に禁止されていた)ための治安警察法改正法案も提出されている。

 ところで、衆議院では、野党側からこうした女性差別を撤回させようとする修正案が出されたが否決され、結局政府原案どおりに可決されているが、貴族院では逆に、男女平等に反対する立場から、政府原案も否決されるという事態が起こっている。たとえば3月24日の貴族院本会議で、井田磐楠(男爵・公正会)は、公民権の問題は参政権の問題として批判しなくてはならないとし、「此女子参政権ナルモノハ男女同権説ニ基イタ所ノ、女子ノ特殊性ヲ没却シテ抽象的ナ普遍ナ平等観ノ中ニ女子ヲ没却セシムル所ノ一ツノ思想ノ迷デアル」と断じている。 貴族院では、委員会、本会議を通じて、女子の天職とか家族制度の破壊といった言葉が飛びかい、こうした保守的雰囲気のなかで、法案は62対184の大差で否決されたのであった。治安警察法改正法案も衆議院は通過したものの、貴族院の特別委員会で審議未了に終わっている。

 婦人公民権法案についで、2月14日の衆議院本会議には、小作法案が上程された。小作法制の整備は、小作争議が活発になるとともに問題とされてきたものであり、すでに大正15年10月、内閣に設けられた小作調査会が「小作法制上規定すべき事項に関する要綱」を決定して以来、法案化か進められてきたものであった。

 この法案は、小作権を一般の賃借権以上に保護することによって、農村秩序の安定を図ろうとするものであり、次のような内容を骨子としていた。すなわち、(1)小作契約は登記がなくても第三者に対抗できる、すなわち小作地が売買されても、小作人は新しい土地所有者との間に従前の小作関係を継続できる。(2)小作契約の期間は5年以上とし、期間満了前6か月ないし1年以内に通知しなければ、契約は従前と同一の条件で更新されたものとみなす。(3)地主が小作地を売却しようとする場合には、小作人にまず協議して買取りの機会を与えねばならない。(4)地主は小作人が1年分の小作料を1年以上滞納した場合にはじめて、1か月の催告期間の後に小作契約を解除することができる、一部の滞納では契約を解除して土地を取り上げることはできない。(5)地主が小作契約の更新を拒みまたは解約を中し入れる場合には、小作料の1年分に相当する作離料を小作人に支払わねばならない、というのが法案の主要な内容であった。

 これに対して、無産党議員はこの法案では小作権保護は不十分であるとし、あるいは、小作側の闘争でそれ以上の条件を獲得している場合には、むしろ地主保護の結果となると批判した。しかし政友会議員は逆に、中小地主が苦境にあることを強調し、委員会では、(4)の催告期間を2か月に延長するかわりに、「1年分を1年以上」 という滞納の条件を削除するという地主に有利な修正が行われ、そのまま衆議院を通過している。しかしそれは予定の会期を5日残すだけの3月20日のことであり、貴族院では一回の特別委員会が開かれただけで審議未了に終わっている。

 小作法案の10日後、2月24日の衆議院本会議にはいよいよ注目の労働組合法案が上程された。この法案の場合には、すでに大正15年の第五一回議会、翌昭和2年の第五二回議会に政府案として提出されながら、衆議院の委員会段階で審議未了に終わったという経過があり、その意味では議論は出つくしているといってもよかった。浜口内閣も4年こ12月には、内務省社会局作成の労働組合法案を公表しており(83頁参照)、以後はむしろそれに対する資本家・経営者側の反対運動が注目されるようになっていた。

 まず前回の第五八回議会終了10日後の5年5月22日には、工業倶楽部に東京・横浜・名古屋・大阪各市の実業団体代表が集まって労組法反対運動について協議しているが、6月に入ると、運動は急速に全国的に組織され展開されていった。各地で反対決議・反対意見書の作成が行われ、各地代表の上京・陳情運動も活発になっている。こうした資本家側の猛烈な運動は政府・与党に大きな影響を与え、この議会が開会されるころには、この法案に対する消極的空気が強まっていたとみられる。

 政府は6年2月1日の臨時閣議で、首相代理問題のため提出の遅れている重要法案の処理について討議しているが、そこでも労組法案についてとくに多くの疑義が出され、結局安達・江木両相に修正が一任された。江木翼(勅選・同成会)は政府・与党において安達と並ぶ実力者であるが、労組法と直接の関係のない鉄道大臣であり、彼が修正に加わるということは、閣内においても社会局案への反発が強まっていることを意味した。江木は2月5日、資本家側代表と懇談し社会局案修正の意向を明らかにしている。

 こうした経過をたどって議会に提出された労働組合法案は、次のような特徴をもつものとなっていた。(1)労働組合を「労働条件の維持改善を目的とする労働者団体又は其の連合」とした社会局案に対して、さらにそのうえに「組合員の共済、修養其他共同利益の保護増進」をもともに主たる目的とした団体でなくては労働組合と認めないことにした。(2)新たに、労働組合を「同一若くは類似の職業若くは産業の労働者」の組織する団体、つ まり職業別または産業別の組合に限定する規定を設けた。(3)社会局案から「総会の決議により加入を許されたる者」を組合員とすることができるとの規定を削除し、非労働者の組合加入を排除した。(4)新たに、選挙運動に対する費用の支出、そのための組合員からの金銭の徴収を禁止する規定を設けた。(5)社会局案から、争議行為により「雇傭者に生ぜしめたる損害に付いては労働組合其の役員及組合員は賠償の責に任ぜず」との免責条項を削除した。(6)さらに政府はこれらの修正に、労働争議調停法の改正を組み合わせて、関係地方の産業または公益を害するおそれのある労働争議を、公益事業の場合と同様に規制しようとした。

 この法案が上程された2月24日の衆議院本会議で、田中一民(政友会)はその内容について「第一ニ労働組合ノ本質が極メテ不明瞭ナモノニナッテイル、第二ニハ労働組合ノ生命デアリマス所ノ、団体交渉権ニ付テ何等規定ヲ置カナイ、第三ニハ極度ニ労働組合ノ活動ヲ制限シテ居ル、斯様ニ名前ガアッテ実ノナイモノ」であると批判し、また政友会側は、法文では組合を職業別・産業別のものに限定しながら、附則では現存の組合をこの法律による労働組合とみなすというような、矛盾に満ちた法案は撤回すべきだと主張したが、衆議院は与党の力で原案どおり通過した。しかし、これを受け取った貴族院では、特別委員会は財界出身議員と反政府系議員で過半数を占められており、予想どおり審議未了に終わっている。

 結局注目された婦人・小作・労働関係法案のなかで成立したのは労働者災害扶助法のみであった。労働者の災害扶助については、従来も工場法・鉱業法によって制度化されていたが、この法律は、こうした扶助制度を災害の多い土木・運輸・仲仕などの業務にまで拡大し、業務上の傷病に対して事業主をして扶助させることにしたものであった。



(8)合理化法案と減税法案の成立

 浜口内閣は、期待された社会政策の面では具体的な施策を進めることができなかったが、金本位制を支えるために産業合理化政策を強め、ロンドン軍縮から減税を生み出すという点では、一定の成果をあげていた。

 すでに昭和5年6月2日、合理化政策立案の中心機関として臨時産業合理局(商工省の外局)が商工大臣を長官として設置され、そこでは「企業の統制に関する事項」を調査・立案・統括することが重要な任務とされた。そして合理局はこの議会に向けて、重要輸出品工業組合法の工業組合法への改正、新たな重要産業統制法の制定などを準備したのであった。

 まず大正14年に制定された重要輸出品工業組合法は、当時の輸出品生産の大きな比重を占めていた中小企業の過当競争の排除・統制を目的としたものであり、商工大臣の指定を受けた輸出品の生産者は、工業組合を組織 して共同の事業を行うことができることとしたが、そのなかでとくに重要なのは、組合に「必要ナル取締又ハ事業経営ニ対スル制限」を行う権限を与え、さらに行政官庁が必要と認めたときには、その「取締又ハ制限」を組合員でない同業者にも強制できることとした点であった。それは生産・販売協定といったカルテルを官庁が奨励・支持してゆくことを意味した。そしてこの法律の名称から「重要輸出品」の部分を削除する改正は、輸出品工業のみならず、中小企業一般にこうした統制を及ぼすとともに、組合の事業の拡大をめざすものであった。

 この改正は、要するに、産業合理化政策の中心にカルテル化政策がおかれたことを示すものであり、そのことは重要産業統制法に、より明確にあらわれていた。この法律はカルテル助成の性格をもつものであり、商工大臣が統制委員会の議を経て重要産業と指定した業種においては、同業者間のカルテル協定の届出を義務づけ、さらに必要な場合には、協定に加盟していない業者に対しても、協定の一部または全部に従うよう命令する権限を商工大臣に与えるものであった。これらの法案は政府原案どおり成立したが、以後カルテル協定の数は激増してゆくのであり、その意味では、経済政策のひとつの画期をなすものともいえた。

 しかしこうした合理化政策は、恐慌下での民衆生活の改善に直接役立つものではなく、その面では浜口内閣は最初から、海軍軍縮によって節滅される財源に期待をかけていた。そしてその金額は、6年度から11年度に至 る6年間で5億800万円と計算されたが、すでにみてきたように、ロンドン条約批准の過程で、3億7400万円にのぼる海軍補充計画を承認せざるをえず、結局国民負担の軽減に使用できるものは、1億3400万円にすぎなくなっていた。しかし緊縮財政下では、それでも貴重な財源であり、ともかくもそれで減税を図ることと なった。

 減税法案は、地租・営業収益税・砂糖消費税・織物消費税にわたって、6年度910余万円、平年度2560余万円を軽減するというものであったが、そのなかでとくに問題となったのは地租であった。それまでの地租は、明治15年までに決定された法定地価を対象とするものであり、しかもその修正が明治43年以来20年にわたって行われなかったのであるから、法定地価は実際の売買価格とはかけ離れたものとなり、地租負担は著しく不公平なものになっていた。こうした不公平を是正するために、課税基準を法定地価から賃貸価格に政正することは、民政党がその前身である憲政会の時代から強く主張してきたものであり、すでに第五一回議会で土地賃貸価格調査法を成立させ、昭和2年末までに全国の調査を終えていた。

 したがって地租の場合は、課税基準の変更を中心として、名称も地租条例から地租法に変更するとともに、税率の面でも、これまでの宅地2・5パーセント、田畑4・5パーセント、その他5・5パーセントから、地目にかかわらず一律に3・8パーセントとした点で画期的なものであった。そして従来の地租総額を維持するとすれば、4・5パーセントとなるところを3・8パーセントに引き下げるという形で減税の内容をもたせたのであった。しかしこれでゆくと農地は減税となるが、宅地の場合は税率の面でも、またとくに大都会の場合には、賃貸価格の上昇の面でも二重の増税となるのであり、貴族院の反政府派はこの点をとらえて、政府攻撃の焦点にしようとした。

 衆議院で原案どおり可決された減税関連法案が貴族院本会議に上程されたのは3月4日であったが、長岡隆一郎(勅選・交友倶楽部)、池田長康(男爵・公正会)、三井清一郎(勅選・研究会)、森田福市(多額納税・交友倶楽部)、高橋琢也(勅選・交友倶楽部)、志水小一郎(勅選・研究会)らが連日長広舌をふるい、3月7日に至っようやく委員付託となった。このように第一読会の委員付託までに4日を費やすことは異例のことであり、反 政府派の議事引延ばし戦術の結果であった。3月11日から始まった委員会審議も容易には進まず、会期の切れる25日の夜には政府も2日間の会期延長に踏み切らざるをえなかった。

 このような事態に対して東京朝日新聞は「貴族院が単に一部の地主の利益を擁護するために、衆議院の決議を 無視し、一般国民の利益を覆すこととならばそれは明らかに憲法政治の破壊である」(25日社説)と批判しているが、 こうした批判は貴族院の空気にも影響を与え、結局最大会派の研究会が政府支持にまとまり、ようやく議会最終的の27日になって、政府原案どおり可決された。

 このほか経済に関しては、米穀政策の強化が唱えられ、この議会では、米穀法・米穀需給調節特別会計法の改正案が成立している。これらの改正は、米の輸出入を許可制にするとともに、政府が市場に介入する基準として毎年、最高・最低価格を決定し、市価がその範囲を超えた場合に貯蔵米の売渡しや市場からの買入れを行うこととし、そのための資金として、米穀需給調節特別会計の限度を8000万円増額して3億5000万円とすることなどであった。そしてこの最高・最低価格決定の際、当分の間、「米価指数ノ物価指数ニ対スル割合ノ趨勢ニ依リ算出シタル価格」を基礎とすることとされ、これが「率勢米価」と呼ばれて以後の論議のひとつの焦点となった。

 第五九回議会について東京朝日新聞は、「今度の議会ほど非能率的の議会はなかった」とし、「今議会を通過した法律案総計66件といふも、その大部分は各省がいはば即興的に立案したもの、若しくは事務的の法案であって、一の減税法案を除いては、いはゆる十大政綱は全く実現されなかったといっても過言ではない」と酷評し、さらに、絶対多数の与党を擁してのこの不成績は「与党の無能か、制度の行き詰まりか、今議会の経過を見ては、 議会政治の前途に、考ふべきもの、改むべきもの、はなはだ多いことを感ぜざるを得ない」(3月28日 社説)と付言していた。

4満州事変の勃発と議会の追随