昭和5年2月の第一七回総選挙での、民政党の当選者数は273名とされており(たとえば、衆議員参議院事務局編『議会制度七十年史』帝国議会編下巻280頁)、この章でも、その数字によっておいたが、厳密にいうと、少し問題がある。
というのは、総選挙後の第五八回議会の召集日には民政党議員数は171名に2名減少しているのであり、そのうちの1名は、選挙直後の2月26日に福島二区から当選した鈴木万次郎が死去したためとわかるが、もう1人が問題なのである。名簿をつき合わせてみると、それが岐阜二区から新しく当選した後藤亮一であり、召集日には無所属に登録されていることはわかるのであるが、なぜ民政党から無所属に転じたのかということになると、当時の新聞などをみてもなかなかその事情がつかめなかった。
ところが、第五八回議会の速記録をみると、後藤亮一 は5月8日の衆議院本会議で、治安警療法改正案の提案者として、提案理由の説明を行っているのである。この改正は、「僧侶其ノ他諸宗教師」の政治結社加入権を認めさせるためのものであり、後藤は、大正14年の選挙法改正(男子普通選挙)で僧侶にも被選挙権が与えられたのに、治安警察法ではいぜんとして政治結社への加入を 禁止されているのは矛盾であると論じている。
これで、後藤が僧侶であったことがわかるのであるが、同法のより広範な改正案を提起していた政友会の安藤正純(東京)は続いて発言して、先の当選者数の問題について次のように解説している。
すなわち、先の総選挙後、民政党は当選議員数を273名と発表したが、衆議院側では272名と1名少なく 発表している。これは民政党が自ら公認した後藤君を数に加えているのに対して、衆議院側は、後藤君が僧籍にあって政党に加入できないから、彼を除いたのであり、現行法では衆議院側の発表のほうが適法である。したがって、安達内務大臣が民政党の領袖として、後藤君を公認候補として立候補させたことは、内務大臣自ら、治安警宗法を破ったということになる。それゆえ、こうした不都合な事態が起こらないように、治安警察法を改正しなければならないというのであった。
後藤は、次の第五九回議会でも、昭和6年2月12日の衆議院本会議で、同様な提案を繰り返しているが、結局治安警察法の改正は、第二次大戦後まで実現できずに終わっている。
なお、問題の治安警察法五条一項は、「左ニ掲クル者ハ政事上ノ結社ニ加入スルコトヲ得ス」として
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一、 |
現役及召集中ノ予備後備ノ陸海軍軍人 |
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二、 |
警察官 |
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三、 |
神官神職僧侶其ノ他諸宗教師 |
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四、 |
官立公立私立学校ノ教員学生生徒 |
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五、 |
女子 |
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六、 |
未成年者 |
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七、 |
公権剥奪及停止中ノ者 |
という七項目にわたる条件を規定していた。
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