『日本議会史録』3

1991年2月

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「翼賛体制と対米英開戦」<第76〜80回帝国議会>


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古屋哲夫

1新体制と第二次近衛内閣の成立
2第七六議会と翼賛会論争
3対米英戦争への道
4緒戦の勝利と翼賛選挙


2第七六議会と翼賛会論争
(1)無党状況と翼賛会議会局

(2)経済新体制問題と内閣改造
(3)第七六回議会の開幕―衆議院、一般質問をとりやめる―
(4)翼賛会違憲論と改組問題
(5)選挙法改正問題と議員任期の延長
(6)国家総動員法・治安維法の改正と各種営団法などの制定


2第七六議会と翼賛会論争



(1)無党状況と翼賛会議会局


 新党運動が国民組織の確立を目標とする新体制運動となり、その中核体として「高度の政治性」を期待された大政翼賛会が結局政治結社ではないとされたにもかかわらず、すべての政党が解党して翼賛会の成立を迎えるというのは、一見奇妙なできごとであった。最後まで残っていたのは、翼賛会を同志的結合たらしめようとしていた橋本欣五郎・中野正剛に率いられていた右翼小政党大日本青年党と東方会であったが、前者は10月20日、 後者は10月22日臨時大会を開いて、政治結社の解散、思想文化団体への改組を決定し、橋本・中野は大政翼会に常任総務として参加していった。これで政党はまったく存在しないこととなり、両院議員たちは、翼賛会の四局の一である議会局に吸収することが予定された。

  しかし解党して新体制運動に呼応したはずの衆議院でも、旧社会大衆党の片山哲らの一派、旧政友会久原派の鳩山一郎らの一派など25名の議員は議会局に参加しなかった。また貴族院の場合には、院内会派は政党ではないとしてそのまま存続されており、翼賛会の動向を冷静に見守ろうとする空気が強く、貴族院を代表して翼賛会の幹部となったのは、大久保立議員(子爵・研究会)が常任総務に、黒田長和議員(男爵・公正会)が総務に就任しただけであった。しかし貴族院側も翼賛会を無視することはできず、結局各派交渉会がリードする形で、 議会局に参加することとなったが、第76回議会開会後になっても、皇族、公侯爵などのうちほとんど議員としての活動をしていない者のほかに、さらに60余名の積極的不参加議員があり、議会局参加者数は総員412名中313名にとどまっていた(『朝日新聞』昭和16年1月16日、20日)。

  この結果、議会局は、貴族院関係が第一・第二・第三の三部、衆議院関係が庶務・審査・議事・臨時選挙制度調査の四部、計七部からなる翼賛会中最大の組織となった。さらにそのうえ、「翼賛会が今後政府の諸施策に内面参加する上に政策部の役割は非常に重要性を持つ」(『朝日新聞』昭和15年10月20日夕刊)として、企画局政策部を局に昇格させようとする動きが起こり、11月4日には、内政部・財政部・東亜部・経済政策部の四部からなる政策局が発足しているが、ここでも局長に太田正孝(旧政友会金光派・財政部長兼任)、東亜部長亀井貫一郎(旧社会大衆党)、内政部長船田中(旧政友会中島派)らの衆議院議員が起用された(経済政策部だけは、経済学者の本位田祥男を部長事務取扱いに据えた)。



(2)経済新体制問題と内閣改造


  大政翼賛会は、新たな「政治力」をつくり出すという点では成功したとはいいがたいが、国民生活のあらゆる場に「新体制」なるスローガンをもち込み、国民を地域でも職場でも、ピラミッド型の組織のなかに閉じ込めようとする動きを一般化した点では画期的役割を果たした。 まず9月11日には、安井内務大臣より地方長官に対し、新体制の末端機構として、町内会・部落会・隣保班(隣組)を整備し、常会を中心としてその活動を強化拡充するよう訓令が発せられた。そして従来こうした地域の組織化を進めてきた国民精神総動員運動は、大政翼賛運動に吸収されることとなり、10月23日国民精神総動員本部は解散式を挙行、その事業と資産を大政翼賛会に引き継ぐこととなった。町内会以下の地域組織は、配給制度の末端を担うことも予定されており、要するに翼賛運動は、こうした組織化を推進することによって国民 生活を統制するとともに、これらの組織を翼賛会地方支部のなかに統合することをめざすものであった。

  また地域の組織化に対する職域の組織化としては、大日本産業報国会の結成準備がほぼ並行して進められていた。産業報国運動もすでに昭和13年7月の産報連盟創立以来組織的に進められてきたものであり、労働組合を 駆逐し、「労資一体、職分奉公」をスローガンとする職場組織としての産業報国会(社長が会長)によって、労働者を統制することを主眼とするものでり、その全国的ピラミッド型組織として翼賛会成立の翌月、15年11月22日には、大日本産業報国会の創立総会が開催されている。

  しかしこの時点での新体制運動の特徴は、こうした国民の地域的・職域的組織化から、さらに進んで、企業経営の内部にまで踏み込んで組織化の問題を提起した点にみられた。それは当時、「経済新体制」と呼ばれた問題であり、物資需給関係の逼迫、物価の上昇、労働力の不足などの経済的困難を克服するために、「新体制」が提唱さ れたこの機会に、新しい統制方法を碓立しようという動きが、企画院を中心としてあらわれてきたのであった。

  企画院は9月28日に「経済新体制確立要綱」を作成しているが(中村隆英・原朗「経済新体制」日本政治学会編『「近衛新体制」の研究』所収)、その眼目は、国民経済を国家目的に従って綜合計画的に運営するためには、「私益ノ追求ヲ排除シ」「企業ヲ資本ノ支配ヨリ離脱セシメ」「企業ニ於ケル経営ノ優位ヲ確保シ企業経営ノ公共性ヲ確保シ経営担当者ニ公的性格ヲ賦与」しなければならないという点におかれていた。それは資本と経営を分離し、経営者が「資本ニ拘束セラルゝコトナク」国家の要請する生産増強にその創意と能力を発揮できるようにしようというわけであり、政府はこの経営者を掌握することによって、企業を意のままに動かせるようになるはずであった。さらにそのうえ、これらの企業を統制するために、業種別あるいは物資別に、指導者に統率される経済団体を組織し、政府はこれらの団体を指揮監督して、経済政策の実施についての命令を発するといった方法で経済を運営することが構想されていたのであった。

  しかしこのような企画院の経済新体制構想に対しては、財界は強く反発し、閣内でも小林商相、村田逓相、小川鉄相、金光厚相らがこれに呼応し、経済閣僚懇談会で企画院原案の修正が図られることになった。懇談会は1月12日から6回にわたって開かれ、こ12月1日には小林商相が中心となり財界の主張を大幅に取り入れた修正案が作成された。しかしこの案に対しては、軍部大臣などから、あまりに微温的にすぎるとの此判が出された結果、再度の手直しが加えられ、12月7日になってようやく閣議決定にもち込まれるという有様であった。

 決定された「経済新体制確立要綱」(『現代史資料43 国家総動員1』169〜171頁)では、「資本と経営の分離」という企画院の構想が排 除され、「経営担当者」やその「公共的性格」といった表現が姿を消した。代わって「資本、経営、労務の有機的 一体たる企業」というとらえ方が示され、「企業担当者の創意と責任とにおいて自主的経営に任ぜしめ」ることが強調されるに至っている。それは当時においても「資本の企業に対する支配力を維持せんとする勢力は、企画院原案に明記された資本と経営の分離を殆ど跡方もなくもぎ取ってしまった」(『朝日新聞』昭和15年12月9日「経済新体制の歴史的様相」中)と評されていた。

  ところで、このような経済新体制をめぐる論議のなかで、いわゆる「観念右翼」と呼ばれた勢力からは、企画院の構想は「赤」=左翼思想に基づくものだとの批判が叫ばれ始め、それが大政翼賛今にも向けられるようになった。翼賛会幹部の間には、こうした批判を打破して当初の新体制構想の実現を図るべきだとする意向も強かったが、近衛首相は、そうした批判に妥協して、内閣と翼賛会の関係を弱める方向に動き出した。「経済新体制確立要綱」が閣議決定される前日の12月6日には、かつて国本社を主宰し観念右翼の巨頭と目される元首相平沼騏一郎が新たな勅令による無任所大臣(本章末のかこみ「無任所大臣の変遷」の項参照)に任ぜられているが、それはこのような近衛の姿勢を示すものであった。

  さらに第七六回議会の召集を3日後に控えたこ12月21日、閣内での新体制運動推進者とみられた安井内相と風見法相が更迭され、無任所大臣として入閣した平沼を内相専任に、また、皇道派の一員である興亜院総務長官・陸軍中将柳川平助が法相に任命されるという内閣改造が実行されたが、それは翼賛会批判が議会でも大きく取り上げられることを予期したものであったに違いない。この内閣改造は「一面からみれば近衛陣営の後退であり、その反面においては、近衛―平沼枢軸の一段の強化となるものである」(『朝日新聞』昭和15年12月22日夕刊)と評されていた。



(3)第七六回議会の開幕―衆議院、一般質問をとりやめる―


 この間、議会とくに衆議院では、無党状況のもとでの議会運営をどうするのかが問題となってきた。前述したように貴族院では会派が存続していたが、衆議院では全政党が解党した結果、議員の集団は翼賛会議会局だけとなったのであるが、翼賛会批判が高まるとともに議会局は帝国議会の運営に介入するものではないという建て前が強調されるようになり、それとは別の議員組織が必要とされるようになった。

  結局、12月11日の議会局衆議院部の部長副部長会議では、議員全員が加盟する社交団体として、衆議院議員倶楽部を組織し、「倶楽部を母体として院内世話人を置き一切の議事進行を図ること」(『朝日新聞』昭和15年12月11日夕刊)という方針が出され、倶楽部は12月20日に設立された。ここに加盟していないと議会活動ができなくなると予想されたため、議会局に参加しなかった25名の大半もこの倶楽部には加入したが、なお7名の議員(若宮貞夫、大石倫治、田川大吉郎、尾崎行雄、加藤勘十、黒田寿男、田渕豊吉)が加盟せず、全議員の倶楽部という当初の構想は実現されなかった(定員466、議員倶楽部435、欠員24、不参加7)。

  またこれまで党派別に配分されてきた議席や控室は府県別とすることとされた。議席は議長席に向かって右端の最前列を一番、左端の最後列を四六六番とし、北海道から沖縄へ北から南に向けて割り当てることとし、控室はその議席への出入りの都合がよいように決定された。そのために12月24日の召集日には、旧党派の仲間を探すためにまごまごし、廊下のソファーが満員になるという有様であったという(『朝日新聞』昭和15年12月25日夕刊)。

  昭和16年1月21日に休会明けとなった第七六回議会では、両院において、施政方針演説とそれに続く秘密会での内外情勢の説明が行われたが、衆議院議員倶楽部は現内閣の無条件支持と挙国体制を誇示するため、施政方針演説に対する一般質問は行わないという方針を決定、翌22日の衆議院本会議は、「速ニ戦時体制ヲ強化スル」ため「政府ノ書策施政ハ悉ク此ノ大目的ニ集注スヘク議会モ亦其ノ全カヲ以テ協翼参賛ニ傾倒シ国ヲ挙ケテ時局ノ急ニ邁進スヘシ」との決議案を全会一致で可決しただけで終わり、議会の中心はただちに予算委員会に移されていった。

  この決議案の趣旨は、弁明に立った町田忠治(元民政党総裁)が「一日も早ク此ノ議会ヲバ終了スルコトニ政府モ吾々モ全カヲ盡サンコトヲ切望スルノデアリマス」と述べているように、政府に対し議会との折衝を最少限度に切り詰めて、戦時体制強化のために最大限の力を振るうことを求めたものであった。貴族院では一般質問はとりやめにはならなかったが、貴族院もこの方向に同調しており、この結果、3月1日の両院本会議で議案のすべてを議了し、会期を24日も残して自然休会に入るという、これまでの議会では前例のない異常な状況が現出することになるのであった。



(4)翼賛会違憲論と改組問題

 この議会は、法案審議をめぐってはほとんど論争も起こらず平穏であったのに対して、大政翼賛会をめぐってだけは、激しい論議が展開された点が特徴であった。

  問題はまず、翼賛会が大日本帝国憲法の枠内にあるというのなら、憲法との関連を明らかにせよ、という形で提起された。1月25日の衆議院予算委員会において、川崎克(旧民政党)は、「大政」とは「統治ノ大権」と解するほかはないが、「統治ノ大権ヲ翼賛シ奉ル機関ハ、憲法上大臣ノ輔弼ト議会ノ翼賛ト、是以外ニハナイト云フコトが明確ニ掲ゲラレテ居ル」という点を強調し、近衛首相は大政翼賛会は、上意下達・下意上達によって政府に協力する機関だといわれるが、「大臣輔弼ノ責任ト云フモノヲ果スナラバ、上意下達ハ完全ニ行ハレル」、また下意上達のためには帝国議会が存在するのであり、「若シ其ノ議会が間違ッテ居ルナラバ、解散シテ新シク国民ノ意思二問フテ代表ヲ出シテ宜シイ、参政権ノ行使ハ全ク政治ニ翼賛シ奉ル行為ソ自体ナノデアル、法律的ニハソレ以外ニハ途ハアリマセヌ」と詰め寄った。  これに対して近衛首相が、大政翼賛会は帝国議会の権限を侵すものではなく、「帝国議会ノ行ヒマスル作用ヲ補充スル」だけだと答えると、川崎は首相は「此ノ帝国議会ヲ何故ニ軽ンゼラレルヤウナ態度」をとるのか、帝国議会の会期が3か月と決められていても、政府は会期を延長することも何度でも臨時議会を召集することも、解散して新しい分子に依拠することもできるのであり、「議会が補助ヲ受ケナケレバナラヌヤウナ必要が何処ニアルノカ」「議会ト政府トー体トナッテ、憲政ヲ運用スルコトガ十分ニナシ得ル、何ゾ外ノ機関ヲ借ラナケレバナラヌカ、外ノ機関ヲ借ルコトニナレバ憲法ノ大義ヲ紊ルト云フコトハ、ドウシテモ是ハ避ケラレマセヌ」とつっぱねている。

  この日の答弁では近衛は「見解ノ相違」と逃げているが、彼らの新体制運動が、明治以来の「天皇制」に依拠する姿勢をとり続ける以上、こうした明治憲法の建て前からする批判をしりぞけることはできなかった。ついで27日には、今度は貴族院本会議で質問に立った赤池濃(勅選・同和会)が、経済新体制をマルクス派の主張と「非常ニ類似シテ居ル」と非難するとともに、大政翼賛会が「週報」(内閣情報局発行)第221号(昭和16年1月1日)にのせた「各部局の解説」を取り上げ、そこに「政策局は政府の現にとりあげている政策といふよりも、もっと根本的な恒久的重要国策の検討に重点を置くのである」と発表されているのは、「政府ノ機関が、根本的ナ恒久的重要国策ヲ検討スル能力ガナイ、或ハ能カガ不足シテ居ルト云フコトカラシテ、翼賛金ヲシテ之ヲ為サシメルノデアリマセウカ」とただした。

  これに対して近衛首相は、その「週報」はみていないとしながら、「翼賛会自身政策ヲ或ハ樹立シ、或は政策ヲ実行スルモノデハナイ」、「政府ノ定メマシタル政策ヲ国民ニ徹底セシムルヤウニ政府ト協カスル」のであって「翼賛会自身が政府ニ強要シテ、或政策ヲ実行セシムルト云フガ如キコトハ絶対ニナイ」と強調した。この答弁は、翼賛会の性格を弱めて憲法に規定された政治機構に対して無害なものとすることに力点をおくものであったが、それは、それなら政策局など不要ではないか、という翼賃会改組論を誘発することになる必至であった。

  翌28日の衆議院予算委員会では、平川松太郎(旧民政党)が、同じ「週報」に述べられているように「議会局が、政府と議会局が議会前に予算や法律について予め十分に審議して行く建前で、議会の円滑を図る」ということになれば、帝国議会は必要がなくなるのではないか、また「同時に議会人を個々に拘束するものでもない」 というのは、個々の議員は拘束しないが、議会全体は拘束するという意味ではないのか、こうした点から考えれば、「此ノ議会局ハ有害無益ナモノデアル」と断じたが、これに対して近衛首相は次のように答えている。

 

 「翼賛会ノ内部ノ組織等ニ付キマシテハ、議会デモ終リマシタナラバ、更ニ是が改革等ニ付キマシテ研究ヲ致シテ案が出来マシタナラバ、ソレヲ実現シタイト考ヘテ居リマス、特ニ議会局ニ付キマシテハ考慮ヲ致シタイト考ヘテ居リマス」


 この答弁は、この議会終了後に翼賃金を改組することを約束したものと受け取られ、翼賛会論議の軸は改組問題に移行してゆくことになった。たとえば、続いて論戦の舞台は2月3日から貴族院予算委員会に移ることになるが、2月6日の岩田宙造(勅選・同和会)の質問は、憲法問題をも取り上げているが、その力点はむしろ、大政翼賛会の組織が完成すれば、いずれの政府機関よりも大規模なものとなり、大きな力を発揮するように組織さ れているという点に向けられていた。すなわち彼は、政府の「上意下達、下意上達」あるいは「下情上通」などという説明を聞いていると翼賛会が「単純ナ伝達機関」で「取次ダケヲシテ居ルヤウニ聞エル」が「実際ハサウデハナイ」、その「機構ノ定メ方」をみると「政策局、企画局」などがあり「其所デ立派ニ政策ヲ研究シ、計画ヲ設計シ、サウシテ政府ノ政策研究ニ協力スルコトニナッテ居ル」と指摘する、そしてこのような政策を研究する組織機構には、当然に政治性、政治力が付随してくる、というのであった。

 つまり岩田は、憲法や法律の枠外でこのような大きな組織機構が、政策に関与しながら政治力を伸ばしてくることは危険だと考えているのであり、したがって「政策局デアルトカ、企画局デアルトカ云フヤウナモノヲ廃止シ」翼賛会を「間違ッテモサウ云フ大キナ働キハ出来ナイヤウナモノ」にしておく考えはないか、とただすことになるのであった。そしてここでも近衛は、「適当ナル組織ノ改革ヲ行ヒマシテ、其の目的、使章ニ副フヤウニ努力致シタイト考ヘマス」と述べて、翼賛会改組の約束を繰り返していた。



(5)選挙法改正問題と議員任期の延長

 新体制運動はあらゆる部門での改革を要求するものであったが、議会制度に関しては、昭和16年4月で衆議院議員の任期が切れるということもあり、選挙制度を新体制に見合ったものに改正するというのが当面の課題とされた。大政翼賛会議会局が臨時選挙制度調査部をおいたのも、そのような意識の反映にほかならなかった。

  改正点についてはまず、これまで選挙粛正運動を推進してきた内務省側から、「出たい人より出したい人」という観点を徹底させるために、自由立候補制を否定して町内会部落会を基礎とするピラミッド型の候補者推薦制度をつくるべきだとする案が出された。ピラミッド型というのは、まず町内会部落会単位の有権者による選挙で推薦人を選び、その推薦人を市や郡の範囲で集めその互選によって1ないし2名の郡市代表を決め、それによって府県の推薦会を構成する、そしてそこで定員の2倍程度の候補者を決定するというものであった。

  しかしこの案には当然翼賛会議会局が強く反対し、議会での成立の見込みが立たずに放案された。そこで代わって登場してきたのが、頭山満・葛生義久の意見書に端を発する家長選挙制案であり、平沼内相によって選挙法改正の中心に押し出されていった。それはすでに大正14年男子普通選挙制度制定の際にも右翼によって主張さ れていたものであり、家族制度を強固にするために、選挙権を戸主に限ろうというものであった。これにより有権者は400万人減少して1000万人程度になるとみられたが、それを補う意味もあって、さらに兵役服役者には戸主でなくても選挙権を与えるという案も出された。しかしこの案については、兵役を反対給付の対象とすることは、国民皆兵の観念に反するという軍部からの反対によって、すぐさま消えうせてしまった。

  結局、第76回議会の休会明けを眼前にした1月19日の臨時閣議で、家長選挙制を中心とする衆議院議員選挙法改正案が決定され、同時に新しい選挙人名簿の作成のため7か月程度議員任期を延長する法案が用意されるものとみられた。しかし22日になると、前述の衆議院の審議期間短縮の要望に応じて紛糾のおそれのある法案の提出をとりやめるとの閣議決定がなされ、選挙法改正案もそのなかに入れられてしまった。そして代わりに、 衆議院議員の任期を1年間延長する法案が提出されたが、現下の情勢は困難であり民心を選挙に集中させることを許さないという理由づけをしたため、いっさいの選挙をとりやめなくては理屈に合わないこととなり、翌17年3月31日までに満期となる府県会、市町村会議員の任期をも延長する法案が同時に提出され、いずれも原案どおリ可決された。

  しかし選挙法改正案とりやめの本当の理由が、家長選挙制の困難にあることは明らかであり、翌年のいわゆる翼賛選挙にあたっても、この案は再登場することなく終わった。女子にまで国家総動員の範囲を拡大してゆこう としているこの時期に、選挙権だけを逆に縮小させようとするのは明らかに矛盾であった。そして結局実現しなかったとはいえ、このような案が閣議決定にまでもち込まれたことは、この時期の近衛内閣が、いかに右翼勢力に弱かったかを象徴するできごとであった。



(6)国家総動員法・治安維法の改正と各種営団法などの制定

 ところで提案とりやめとなったなかでの重要法案のひとつに、産業別の統制団体をつくるための産業団体法案があったが、このほうは国家総動員法の改正に吸収されていった。

  総動員法は昭和13年4月1日に公布、5月5日から施行され、とくに14年以降この法律に基づく多く統制法規が出されているが、統制が生活の細部にまで広げられてくると、この法律で統制できるのは指定された「総動員物資」に限られているのは不十分であるとか、違反者への罰則が軽いから罰を受けても違反による利益を得ようとする者が出るなどといった問題が指摘されるようになった。

  たとえば、15年7月7日に「ぜいたくは敵だ」のスローガンとともに施行され、七・七禁令と通称されるよ うになった奢侈品等製造販売制限規則は、たんに製造、加工だけでなく、消費者への販売までも禁止した点で、統制の新しい段階を示すものであったが、しかし「奢侈品」は「総動員物資」ではないので、総動員法ではなく輸出入品等臨時措置法に基づく法令として出されていた。

  結局、総動員法改正案は、大幅な改正となったが、そのおもな点は次のようなものであった。まず統制の対象である「総動員物資」をたんに「物資」と改めてあらゆる物資を統制できるようにし、それに対応する形で、政府が統制協定の設定・変更、統制組合の設立などを命じうる事業を、「総動員物資」の生産、配給など「総動員業務」を行う事業から事業一般に拡大したこと、労務統制に関しても雇用主を対象したこれまでの規定から、労働者に対しても直接に命令をなしうるようにしたこと、など総動員法の適用範囲を大幅に拡大した点である。

  労務統制に関しては、この議会で別に単行法として国民労務手帳法案が成立しているが、同法は、労働者の移動を制限するために鉱山業・製造加工業・土木建築業・運輸通信業などに「技術者又ハ労務者トシテ」使用される14歳以上60歳未満の者に「国民労務手帳」の所持を業務づけるものであった。

  また、先の産業団体法案に代わるものとしては、総動員法一八条の、政府は総動員業務を行う事業に対して統制組合の設立を命令することができるとする規定を、総動員に必要な事業に対しては「当該事業ノ統制又ハ統制ノ為ニスル経営ヲ目的トスル団体又ハ会社ノ設立ヲ命ズルコトヲ得」と改正して、これに基づく勅令によって、統制団体についての基本法令を出すことが予定されていた。しかし政府部内の意見の対立や官庁間の統制権限の調整などのためその制定は遅れ、「重要産業団体令」が公布されたのは8月30日になっている。なお、総動員法違反者に対する罰則は、「三年以下ノ懲役又八五千円以下ノ罰金」から「十年以下ノ懲役又ハ五万円以下ノ罰金」 に強化された。

 しかし、国家総動員法がいくら強化されても、営利を目的とする私企業の統制にとどまるものであり、営利性の少ない危険負担の大きい事業や特定の生産品の完全独占などのためには、政府自身が乗り出すことが必要と考えられ、この議会にはそのための特殊会社設立のための法案が数多く提出されている。そしてそのなかの公共的性格が強いと考えられるものには、「営団」の名称がつけられるようになった。

  まず特殊会社としては、樺太の経済開発を目的とする樺太開発株式会社(資本金5000万円、政府半額出資、 同株式会社法)、生産・輸入・移入業者から、そのすべての蚕種、繭、生糸を一手に買い上げるための日本蚕糸統制株式会社(資本金8000万円、政府半額出資、蚕糸業統制法)、石油資源の開発促進を目的とする帝国石油株式会社(資本金1億円、政府半額出資、同株式会社法)、「支那各港間、日本支那間、支那第三国間ニ於ケル海運業ヲ営ム」東亜海運株式会社(資本金1億円、政府出資限定なし、同株式会社法)、業者から樹種または材種を指定して、木材の一手買上げを図るための日本本村株式会社(資本金5000万円、政府出資限定なし、木材統制法)が設立されることになった。

  また営団としては、帝都高速度交通営団(資本金6000万円、政府出資4000万円、同営団法)、住宅営団 (資本金1億円、全額政府出資、同営団法)、農地開発営団(資本金3000万円、半額政府出資、農地開発法)の三営団が発足することになったが、営団の場合には、政府が元利を保証する「交通債券」(払込資本金の10倍を限度)、「住宅債券」(同10倍)、「農地開発債券」(同5倍)の発行が認められていた。

  こうした戦時体制の強化は、経済面だけでなく言論・思想に対する統制をも強化することとなっており、この議会では治安維持法改正案が提出された。同法は大正14年に制定されたときは七か条であり、昭和3年の緊急勅令による改正も一条で国体の変革と私有財産の否認とが分離され目的遂行罪がつけ加えられたが、全休の条文は七か条のままであった。その後、改正の試みが成功しないままにここまできていたが、この議会に提出されたのは、全六五条の新法ともいうべき全面的改正案であった。

  改正点のおもなものを拾ってみると、まず、これまでの国体変革を目的とする結社の結成とその「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為」に加えて、その外廓にある「支援結社」「準備結社」さらには結社というほどには結介していないグループ、集団にまで処罰の範囲を広げ、あるいは、「国体ヲ否定シ又ハ神宮若ハ皇室ノ尊厳ヲ冒涜スベキ事項ヲ流布スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者」などを処罰する規定を新設して「不穏不逞ノ教義ヲ宣布スルコトヲ目的トスル類似宗教団体」をも治安維持法で弾圧することを明確にするなど、この法律の対象を画期的に拡大したことをあげなくてはならない。

  それと同時に、この法律によって有罪とされその刑の執行を終えたものでも、またさらにこの法を犯すおそれのあるもの(いわゆる非転向者)は、予防拘禁に付し、予防拘禁所で拘禁を続けるという、近代法の原則を無視した制度をつくり出したという点で、この改正は重大であった。しかしこの議会の審議は、広汎な権限を与えら れた検事の職権濫用をいましめる意見が述べられる程度で終わった。

  言論統制に関するものとしてはもうひとつ国防保安法案が成立したことをあげなくてなるまい。これは、御前会議、枢密院会議、閣議またはそれに準ずべき会議、帝国議会の秘密会の内容や、さらにはその準備のための事項をも「国家機密」とし、それを漏泄したり探知しようとする行為を犯罪として処罰しようとするものであった。

  戦時体制強化をめぐる問題としては、兵役法改正案の成立もあげておかなくてはならない。改正の第一点は、これまでの本籍地徴集主義の例外として、朝鮮・台湾・満州国などに在留する者については、本籍地に帰ることなくその地の部隊に徴兵されることとした点である。そのねらいは主として満州にあったと思われる。委員会での政府側の説明によれば、徴兵適齢者の昭和14年度から15年度への増加数は、朝鮮では4144名から5295名へと151名の増、台湾では2766名か肴3100名へと334名の増にすぎないのに対して、満州国と関東州を合わせた満州の場合には、13477名から20387名へと、じつに6910名の増加となっているのである。これは主として、満州開拓青少年義勇軍の送込みが本格化したことを反映するものであり、現地定着を促進させるためと説明されたが、この措置によって、現地で徴兵年齢を迎えた青少年義勇軍の青年たちは、開東軍のひとつの兵員補給源となるのであった。

  改正の第二点は、後備兵役の区分を廃止して予備役に編入するというものであった。これまでの兵役区分は、 常備兵役、後備兵役、補充兵役、国民兵役に四分され、常備兵役のなかがさらに現役と予備役に分けられるという構成であった。したがってこの改正によって、常備兵役が後備兵役の分まで延長されたことになるわけであり、常備兵役は、陸軍の場合には現役2年、予備役15年4か月、海軍の場合には現役3年、予備役回12年という長期にわたることとなった。改正の第三点は、補充兵に対する教育のための召集日数を120日から180日に延長するというものであり、補充兵徴集の増大を反映するものであった。

  結局この議会は、3月1日の本会議で政府提出の予算案および87件の法律案のすべてを可決・成立させて、自然休会に入っているが、予算案は、16年度予算六八68億6326万円(前年比7億6593万円の増)のはか に、臨時軍事費の追加が58億8000万円に及んでおり、臨時軍事費のこれまでの総額は223億3500万円に達していた。

3対米英戦争への道