『「満洲国」の研究』 第1部 「満洲国」の成立 第2章

1993年3月

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「満洲国」の創出



 

古屋 哲夫

はじめに
1満洲建国路線の形成
2建国過程の諸側面
3満洲国の基本構造
むすび
註釈

1満洲建国路線の形成
@出発点としての奉天軍政

A建国構想への転換


1満洲建国路線の形成



@出発点としての奉天軍政

 1931年9月18日午後10時30分、柳条湖付近の満鉄線が爆破されると、日本軍は奉天北大営の中国軍への攻撃を開始、翌19日午前6時30分これを完全に占領しているが、この純軍事行動については、すでに明らかにされているといってよいであろう。しかし、後続の部隊が北大営のほぽ制圧された「午前5時30分頃ヨリ前進ヲ開始シ殆ト敵ノ抵抗ヲ受クルコトナク午前6時頃マテニ内城東側城壁ノ線ニ進出シ一部ヲ以テ主要ナル官衙、銀行等ヲ占領7)」した、という事態については細かな内容は明らかになっていない。従って、「主要ナル官衙、銀行等」とは何処と何処か、「占領」とはどんなやり方であったか、などの問題になると、少ない材料から推理して行く他はないのである。

  のちに、リットン報告書は「9月19日奉天占拠の直後支那銀行、鉄道事務所、公共事業事務所、鉱山監理事務所等の内部又は門前に護衛を置き然る後此等事業の財政的又は一般的状況の調査行はれたり8)」と述べているが、このなかで特に重要な意味を持っているのは、東三省官銀号などの金融機関の掌握であったと思われる。10月に入ると、現地では金融機関再開をめぐるニュースが増大してくるが、それは「金庫に我(日本)軍の札を貼り銃剣の兵士が立番している9)」という状況が続いていることを示すものであった。行政機関の掌握も、このような金融機関の早急な掌握を直接の目的とするものであったと見られる。
 
  奉天を占領した関東軍が最初に行ったことは、軍が任命した日本人職員による奉天市政の接収であった。9月20日、本庄繁関東軍司令官の名によって、楽天に軍の指導に基ずく臨時市政を施行し、市政の重要役員は、市長土肥原賢二、秘書長富村順一、総務課長庵谷忱、警務課長鶴岡永太郎、財務課長三谷末次郎、衛生課長守田福松、工程・技術・事務課長吉川康とする旨の布告が発せられた10)。しかしこの時、中国側の奉天市幹部が逃亡してしまっていたわけではなかった。翌21日午前、土肥原市長以下の日本側職員に中国側課長が立ち会って「市政発会式」が行われたと報ぜられたが、同じ記事は「なお前市長李徳新氏は20日午後3時市政公署内にて土肥原市長との間に事務の引継ぎを終へ同日公署内より家族を引連れて商埠地に引越した11)」と述べ、李市長が土肥原に追放されたことをうかがわせた。

  つまり、関東軍は単に中国側の軍事力を排除しただけでなく、反抗行為に出ていたわけでもない張早良政権の行政機関をも排除して、独自の軍政を施行しているのであり、そこではすでに、局地的軍事衝突への対策という範囲を踏み越えた政治的意図があらわになっていたとみるべきであろう。そしてそのことは、つづいて23日に本庄司令官から発せられた、次のような布告からも読み取ることができる。

 

一、

市経済維持のため百元以上の大洋並びに金銀塊を奉天市外に搬出するを禁ず。之れを犯したる者は厳罰に処す。

 

二、

日本車司令官は市民救済のため緊急手段として市政公署に資金を交附する事とせり、一般市民は安心して其の業に服すべし。12)


  この布告は片倉衷の「満洲事変機密政略日誌」、9月26日の条の次の記述に連なる。

 

 廿五日夕陸軍大臣より来電あり『閣議ノ席上大蔵大臣ノ言ニ依レハ軍ハ銀行ヲ差押へ又資金ノ流用ヲ図リアル由ナルカ厳ニ禁止ス』と。元来楽天省城の銀行は速に開業せしむる為軍に於て保護しあり、之が為一時差押あるに過ぎずして資金を流用せるが如きことなく、唯奉天市政運用上彼等の懇請を容れ若干の融通を為しあるに過ぎず。13)

 
  しかしながらこの「保護」は、治安回復後に張学良政権に返還することを予定した善意の管理を意味するものではなかった。この文面だけでは、「奉天市政運用上彼等の懇請を容れ」という「彼等」とは、従来からの奉天市政幹部であるようにみえるが、実際には「彼等」は既に 土肥原市長以下の日本人に入れ替わっており、従って軍による金融資産の保護とは、その資産を張学良政権より切り離して、軍政の安定化のために利用できる状態に置くことに他ならなかった。そしてそのことはまた、張学良政権の一定の安定度を、貨幣を通じて吸収しようとすることを意味していた。

  張作霖時代の末期、1925年の郭松齢事件を直接のきっかけとし、以後の張作霖軍の関内進出、国民革命軍への敗北という事態のなかで、「奉天票の暴落」現象が深刻化していったが、張作霖爆殺事件後の満洲を掌握した張学良は、易幟によって国民革命に同調する姿勢を示すとともに、この混乱を収拾して相当程度の幣制の安定を実現していたとみられる。この問題については、西村成雄の最近の研究14)に詳しいが、当時すでに矢内原忠雄は次のように指摘していた。

 

 (張学良)政府は1929年(昭和4年)5月、東三省官銀号、辺業銀行、並に中国・交通両行奉天支店を以て遼寧4行号発行準備庫を組織せしめ………連合準備制度の下に現大洋兌換券を発行し、同年6月現大洋一元に対し奉票60元の公定相場を定めた。これにより 奉天票は現大洋票の補助貨となり、新通貨たる現大洋票の下に貨幣価値は一応安定を恢復したのであった。12)


  のちの満洲国の幣制統一が、こうした現大洋票の安定性を基礎とするものであったことは、 32年7月、満洲中央銀行の発足に当たって、東三省官銀号の現大洋券に「満洲中央銀行」の朱印を押して暫定的な満洲国通貨としたこと16)をみても明らかであった。

  関東軍はその軍事行動を拡大するとともに、出発点での奉天軍政にならって各地の金融機関 を「保護」下においた。そしてそれはそのまま満洲国に流し込まれて行くこととなる。満洲中央銀行は、東三省官銀号・辺業銀行・吉林永衡官銀銭号・黒竜江省官銀号を合併しその本支店の看板を掛け替えて発足した17)ものであった。

  要するに満洲事変当初の奉天軍政は、治安維持・抗日運動の抑圧とともに、こうした貨幣の差押えを通じて、張学良政権の安定性の基礎を奪取することを意図したものといえるが、その上に如何なる体制を作り出すのか、という点になると明確な構想が存在していたわけではなかった。満洲事変への発条となった関東軍参謀部の占領=領有化構想も、すぐさま変更を余儀なくされていった。



A建国構想への転換

 日本政府はもとより、軍中央部でさえも、国際的非難を受けることの確実な「満蒙領有化」 には反対であった。柳条湖事件当時奉天に出張していた参謀本部作戦部長建川美次少将は、翌9月19日板垣征四郎以下の参謀たちと論議を交わしたのち、20日には本庄関東軍司令官・三宅参課長と会談、「長春以北には兵を派せざるを可とすべきも吉林、銚南等は一刻も早く打撃を 加ふるを有利とすべく、又現東北政権を潰し宣統帝を盟主とし日本の支持を受くる政権を樹立するを得策とすべし18)」との意見を具申している。

  これは、吉林、銚南を満鉄線の東西両側の拠点として、南満洲を軍事的支配の下に置き、その軍事力を背景として、宣統帝を盟主とする親日地方政権を作り出そうとするものであった。その翌日の9月21日には、関東軍は吉林に無血入城し、これに呼応した朝鮮軍のいわゆる独断越境が行われ、その一部は満鉄線西側の鄭家屯に進駐19)、一時的にはさらにとう(さんずい+兆)南にも入城している20)

 9月18日から19日にかけての軍事行動が満鉄沿線で展開されたのに対して、この21日の吉林・鄭家屯進出は、戦闘が行われなかったため注目されなかったが、鉄道守備隊である筈の関東軍が、満鉄線を大きく離れて行動し始めたという意味で、重要な画期を成すものであった。

  ついで9月22日、関東軍では三宅参謀長の下に土肥原奉天特務機関長、板垣、石原、片倉の各参謀が集まって今後の方針を討議、「実質的に効果を収む」と「実現容易なり」との観点から「満蒙問題解決策案21)」を作成して、「我国ノ支持ヲ受ケ東北四省及蒙古ヲ領域トセル宣統帝ヲ頭首トスル支那政権ヲ樹立シ在満蒙各民族ノ楽土タラシム」との方針を打ち出した。この案は建川の意見を受入れたものであり、片倉は「未だ独立国にすべき迄に徹底しあらざるなり」 と付記しているが、辛亥革命が否定した宣統帝に担ぎ出すことは、中国国民政府と絶縁すること、したがって、「独立国」の方向に決定的に踏み出すことを意味していた。

  「満蒙問題解決策案」のなかには、「地方治安維持ニ任スル為概ネ左ノ人員ヲ起用シテ之ヲ 鎮守使トナス」との一項があり、そこには次のような名前が並んでいる。

 

煕   洽

(吉林地方)

 

張 海 鵬

(とう(さんずい+兆)索地方)

 

湯 玉 麟

(熱河地方)

 

于 し(くさかんむり+止) 山

(東辺道地方)

 

張 景 恵

(ハルピン地方)


  このなかで、日本側の期待を裏切ったのは湯玉麟だけであり、他はいずれものちに満洲国の要職に就いている。そしてこれらの人物について、「右ハ従来宣統帝派ニシテ当軍ト連絡関係ヲ有ス」と注記されているのであり、石原の満蒙領有化論の背後には、辛亥革命以後2回にわたり清朝権辟派=宗社党を担いで行われた満蒙独立運動の伝統が生き延びていることを窺うことができる。いわば、満蒙領有化論が軍事行動への発条の役割を果たし終えると、底流となっていた復辟派との結び付きが表面化してきたのであった。

  このような「策案」が作成された9月22日には早速、支那駐屯軍(通称天津軍)司令官に対し、天津在住の宣統帝=溥儀を「保護」下に置くよう通告、また板垣参謀が「密に奉天張景恵宅を 訪ひ最後の決心を促し」たのを始め、前記の人々に対する工作が一斉に開始されている22)

  こうした新政権樹立工作が、意識的に「独立国」の方向に切り替えられたのは、軍政のお膝元の奉天で、関東軍の統制から離れた中国側の独立運動が画策され始めたことと関連していたと思われる。

  本庄関東軍司令官は、9月20日に奉天市幹部に土肥原市長以下の日本人を任命したのにつづ いて、24日には更に、袁金鎧、于冲漢、丁鑑修、かん(門+敢)朝璽ら9名を地方維持委員(委員長、袁金鎧) に任命した。23)この間の経緯は明らかでないが、行政の空白を埋めることを目指して登場してきた彼等の動きを、関東軍側が追認したもののように思われる。ところがこの委員たちは、関東軍側の思惑とは異なった形で、新政権樹立に乗り出してきたのであった。

  9月29日の東京朝日新聞は、「東北各省呼応して/満蒙独立運動進展す/共和制建設の大勢」との見出しのもとに、満洲独立の動きの「大勢は共和制の実現に向って一大進展を見つつあ」り、そのなかで「地方維持委員会一派の計画が現在もっとも有力でありかつ実現の可能性多きものとして期待されて」いるとしてその内容を次のように報じている。24)

 

この地方維持委員会の具体案は26日早朝を以て決定を見たが、その要点は次の通りである。

一、 満洲に満洲各族を打って一丸とせる独立国を建設すること
二、 国体は共和制とすること
三、 政権の主体については公選せる委員によって民意に合する人物を選定すること
四、 国号は『中和』とすること

然して同委員会は急速にこれが実現を企図した根本方針の決定とともに直に大々的実行運動に着手し、まずその準備事業として『民意調査会』なるものをつくり東北四省にわたる民意獲得の活動を開始した。・・・・・・既にこの調査委員会には全満各地より新政権樹立打倒旧政権に関する賛意並に各種の請願、意見の具申などが続々として殺到しつつある。かくてまづ遼寧省において右地方委員会を中心として中央的政治機関を確立するとともに、他の三省に対してはその指導統制の下にまづ各省へ連関ある人物をしてそれぞれ独立の形態を取らしめ、三省の独立達成を持って電光石火満蒙独立国家建設の大目的を一挙に連成せんとするものである。


 この報道がどの程度正確であるかは問題であるが、ともかくもこの独立運動が「親日」を掲げていても、日本側、直接には関東軍の統制を受けずに進められていることは明らかであった。 そしてそれは、関東軍側にとって許すべからざる事態と考えられたに違いない。関東軍関係の文書の中で、独立国建設の方針を最初に明示したのは、10月2日に石原参謀が起案した「満蒙問題解決案25)」であった。そこではじめて「満蒙ヲ独立国トシ之ヲ我保護ノ下ニ置キ在満蒙各民族ノ平等ナル発展ヲ期ス」との方針が示されたのであるが、同時にそのなかに、「奉天城内ニ於テハ軍閥政治ニ反対スル各種ノ運動ヲナスハ固ヨリ可ナルモ……政権ヲ奉天ニ樹立スルコトハ断ジテ之ヲ許スヘカラス」との項目があることに注意しておかなくてはならない。それはまさに、さきに報道されたような地方維持委員会一派の構想を拒否することを意味していた。国体を共和制とし、民意獲得運動を基礎として、公選された委員たちによって政権の主体(頭首)が選ばれるとすれば、その過程で関東軍の関与する余地は失われるに違いなかった。

  それは、関東軍が中国人有力者を誘導するという形で着手していた新政権樹立工作を否定する性格を持つものであり、それに対抗するためには、自らの目標をも「新政権樹立」から「独立国家建設」に格上げすることが必要であった。そしてそれは同時に、「独立運動」を関東軍の独占的指導下に置くことを意図するものでもあった。

  この「関東軍の独占的指導」の確保が、中国側に対してはもちろん、日本政府に対しても絶対に譲れない一線であると考えられていたことは、この案の末尾に「万々一政府カ我方針ヲ入レサル場合ニ於テハ在満軍人有志ハ一時日本ノ国籍ヲ離脱シテ目的達成ニ突進スルヲ要ス」との一項が加えられていたことからもうかがうことができる。

  関東軍参謀たちはこのような形で、「満蒙領有化論」によって柳条湖事件を引起こし奉天を 軍政下におくと、もはや「領有」に固執することなく、状況に対応してその目標を「新政権樹立」からさらに「独立国家建設」へと急速に転換させていったが、しかしそれによって「領有化論」の発想が全面的に否定されたわけではなく、むしろその骨格は「独占的指導」路線のなかに引継がれていったとみるべきであろう。

2建国過程の諸側面