『「満洲国」の研究』 第1部 「満洲国」の成立 第2章

1993年3月

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「満洲国」の創出



 

古屋 哲夫

はじめに
1満洲建国路線の形成
2建国過程の諸側面
3満洲国の基本構造
むすび
註釈


はじめに



 満洲国は、いうまでもなく日本人が作り出したものであり、その中心的な起動力が、関東軍であったことも、今日では、周知の事柄に属するであろう。しかし、柳条湖事件を起して武力行使に踏み切っていった関東軍も、その最初から「満洲国の創出」という目的とそのための計画を持ち合わせていたわけではなかった。

  関東軍の武力発動を指導した石原莞爾参謀の構想は、満洲の軍事占領=領土化論であり、彼は1928年10月10日に関東軍参謀に着任して以来、「満蒙問題ノ解決八日本ガ同地方ヲ領有スルコトニヨリテ始メテ完全達成セラル1)」との思想を、関東軍参謀部のなかに浸透させていったとみられる。そしてそれは、「在満三千万民衆ノ共同ノ敵タル軍閥官僚ヲ打倒スルハ我日本国民ニ与ヘラレタル使命ナリ2)」といった使命観を基礎としながら、満洲事変への道を準備するものであった。

  つまり、石原構想は、張学良軍閥の支配を「悪」とし、それを打倒する行動を「正義」と規定することによって、日本側の都合の良い時に、都合の良い方法によって軍事行動を起すことを正当化するものであった。その意味では、石原構想なしに、満洲事変を起すことは困難であったといえよう。

  しかしその石原構想にしても、占領から領有への過程についての具体的計画を合んでいたわけではなかった。披はすでに、29年7月、「第一 平定、第二 統治」の2項目からなる簡単な「関東軍満蒙領有計画3)」を作成しているが、その内容をみると、第一項では「一、軍閥官僚ノ掃討其官私有財産ノ没収 二、支那軍隊ノ処分 三、逃亡兵及土匪ノ討伐掃討」をあげ、「四、此等ニ要スル臨時費ハ没収セル逆産及税収ニヨルヲ本旨トス」との規定を加えており、 第二項では、「最モ簡明ナル軍政ヲ布キ確実ニ治安ヲ維持スル以外努メテ干渉ヲ避ケ日鮮支三民族ノ自由競争ニヨル発達ヲ期ス」との「方針」を掲げ、さらに行政組織としては、大中将を 総督とする総督府案を示していた。そしてこの構想の下で、30年9月には佐久間亮三大尉が「満蒙に於ける占領地統治に関する研究4)」を脱稿し、31年1月から2月にかけては、石原の「占領地(満蒙)統治研究会」が3回にわたって聞かれている5)。こうした石原の活躍によって、 関東軍参謀部が満蒙領有論で固められたことは、31年春の「対支謀略ニ関スル意見」に「軍事占領後満洲ニ我操縦ニ便ナル独立国ヲ建設シテ保護国トナス考ハ不可ナリ6)」と書かれていたことからもうかがうことができる。

  つまり、関東軍をリードした石原構想は、満洲国を作り出す事に反対する性格を持つものであった。とすれば、石原構想で出発した筈の関東軍は、何ゆえに容易に、満洲建国の方向に転換できたのであろうか。結論からいえば、石原の構想が、「関東軍の」、いいかえれば日本本国政府から自立した「領有計画」という性格を基礎にしている点が、この転換を可能にするものであった。

  さきの引用からもうかがえるように、石原の発想の特徴は、第一には、満蒙統治の費用は、 日本本国に負担を掛けないで現地で調達するという点に、第二には、関東軍による治安維持を統治の基本に据えようとする点にあった。前者は一方では、日本全体の総力戦体制の強化という問題に連なっているが、他方では、関東軍独自の統治を主張する基礎となるものでもあった。例えば、さきの佐久間大尉の「研究」で言えば、「占領地ノ財政ハ占領地ニ於テ自給自足シ帝国一般財政ニ累ヲ及ホササル如クスルモノトス」との規定は、「立法司法共ニ満洲軍司令官之ヲ統括シ内地政府ノ干渉ヲ受クルコトナシ」という体制を可能にするものでもあった。つまり、 この第一と第二の観点は相互に作用しながら、関東軍の独自性の強化を結果するものにほかならなかった。

  満洲事変の初期に於いて、関東車と日本政府との間に一定の対立を生じたことは、このような関東軍の独自性が現実のものとなったと意識されたことであろう。そしてここから、「日本政府から自立した領有計画」は、関東軍の独自性・主導性を媒介項としながら、「日本政府から独立した国家計画=満洲国建国」に転換して行くことになるのであった。この転換は、一見比較的容易に遂行されたかに見える。そしてその容易さは、「領有計画」の発想が引き継がれたことを意味しているに違いない。しかし如何に容易に見えたとしても、それが転換である以上、新たな観点を次々に注入して行く必要があった筈である。そこでは、「領有計画」に如何にして「満洲国の独立」という観点を注入して「建国計画」に変えたのか、それはどの程度可能であったのか、その結果なにが実現されたのか、といった問題が検討されなければならない であろう。そしてそれはまた、満洲国の実相を明らかにするための基本的作業となると考える のである。

1満洲建国路線の形成