『近代日本のアジア認識』

1994年3月

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アジア主義とその周辺


 

古屋 哲夫


はじめに
1アジア主義の出発点―日露戦争以前―
2対外発展の条件と方向をめぐって
3第一次大戦と中国認識
4アジアモンロー主義と石井・ランシング協定

5インドへの関心
6文明論・人種論とアジア主義
おわりに



1 アジア主義の出発点―日露戦争以前―

 まず一般的にいって、「アジア」という言葉で問題が立てられる場合には、その基底に、対決や排撃には至らないまでも、欧米に対する要求や対抗といった観点が必要であろう。しかし、明治期とくに日露戦争以前にはまだ、西洋文明を取り入れて欧米に日本の地位を対等なものとして認めて貰おうとする欧化主義的指向が一般的であり、従って、アジアを一纏めにして欧米に対抗するという発想は主流にはなり得なかった。

  しかし同時に、アジアが欧米に圧迫されて哀頽しているという認識も、維新以来広く一般に浸透しており、一部には、アジア諸民族との連帯への指向も生まれていた。その初期のものとしては、曽根俊虎らが1880(明治13)年 に設立した興亜会をあげることが出来る。ここで曽根が意図したのは、哀頽せるアジアの現状を挽回するためにアジア諸邦の合縦連衡を実現することであり、そのためにまず、中国・朝鮮人との親睦組織や中国語学校の経営に乗り出 したものと言われる。

  興亜会の活動の中心は「詩文の贈答や談論風発の社交機関」であり、その限りでは、清国公使館の参加を得ることができ、朝鮮の日本視察団に接触したり、ベトナム・ペルシャ・トルコの人々からも関心を寄せられているが、しかしアジア民族のために何を為すべきかということになると、早くも対立が表面化することになった。

  佐藤三郎の研究によれば、明治16年1月20日の同会総会において、「会員たる中国人の間から興亜会という会名が不穏当であるとの意見が起り」、亜細亜協会と改名したというが、同氏はその背景について次のように述べている(4)

 

 興亜会が社交機関としての機能を果している限りに於ては、会員たる靖国公使館員にとっても歓迎すべき存在であったが、当時、親日、親中の両派即ち開化、守旧両党が相桔抗して深刻な対立をなしていた朝鮮の現実に対して日本人会員の関心が高まり、彼等の間に開化党を援助して朝鮮内政の改革を行わしめることが興亜の方策であるとする気分が濃くなるに及んで、会員たる日中両国人の利害が一致しなくなったのは当然であり(中略)興亜会の改名問題が中国人側から提起されたことは、かかる対立が底流をなしていたものと考えられる。


 つまり、ここで日本側の考えている「アジアの挽回」とは、いわゆる近代化の方向での改革に他ならず、従って 「連帯」は、それぞれの地域において近代化を推進する勢力との結び付きを内容としなければならないということになる。そしてそれは、旧来の体制との対立を引き起こさざるを得ない。東アジアにおける旧来の体制とは、朝貢=冊封を軸とする中華帝国の秩序であり、その解体を目指す日本と、逆に再編強化を企てる靖国とが朝鮮をめぐって対立するという状況が、とくに1882年の壬午事件以後には明白になっていた。そして、朝鮮に親日的勢力が生じたことは、日本側に「連帯」を親日派との結合に短絡してしまう安易な傾向を生み出すことになった。そこでは、朝鮮との連帯の条件を探るということよりも、親日派を如何にして援助するかが問題となり、さらにそれは、日本側の「アジアにおける近代化の先駆者」という意識を強め、遅れた朝鮮を進歩させるという指導者意識を拡大することとなった。それが靖国との対立を強めることになるのは明らかであり、日清戦争への道は、こうした面からも準備されていったといえよう。

  朝鮮に対する態度と中国に対する態度とを異にするというこうした状況の下では、「アジア」というイデオロギー的呼び掛けは成り立ち得ないものであった。1885年の甲申事件以後、朝鮮親日派の力が決定的に弱まるとともに、興亜会をついだ亜細亜協会の活動も不活発になっていった。そして「アジア」を正面から掲げることなく、交流の基礎を成す語学教育、東亜同文会のような現地での拠点造り、さらには宮崎滔天のような個人としての隣国の革命運動への参加など、様々な形に分化していった。

  同時にこの甲申事件に続く時期には、ハワイ移民の盛況やアメリカ移民の本格化などを背景として、対外的関心は「アジア」に集中するよりもむしろ、移民・殖民問題に拡散するという傾向も現れている。甲申事件と同じ85年には、ハワイヘのいわゆる宮約移民が始められ、87年には志賀重昂の『南洋時事』が出版される。さらに91年には、星亨を会長とする海外移住同志会、93年には、榎本武揚を会長とする殖民協会が組織されているのも、こうした傾向を示すものということができる。

  従ってこの時期には、「アジア」という包括的な呼び掛けは成立せず、「アジア」を掲げた数少ない主張も、アジアに向けてではなく、欧米に向けた要求を内容とするものになっていた。例えば、日清戦争を目前にした時期に、自由党『党報』65号(5)には、森本駿の「我邦は亜細亜に於てモンロー主義の実行を宣言すべし」との論説が掲載されているが、ここでの亜細亜モンロー主義は、対象を朝鮮に限った狭い範囲の主張に過ぎなかった。

  この論説はまず、日本の目標は朝鮮の独立の確保であるが、それを妨害しているのが靖国であり、その間に、英露などの策動の余地が生ずると捉える。従って「清の暴状を制して朝鮮の独立を全ふし、且つ欧米の国をして之に喙を容るヽの余地」なからしめるのが日本の任務であり、そのためには「朝鮮の独立を全ふするの時に及びて、亜細亜にモンロー主義の実行を宣言すべし」というのである。他の箇所で「以て将来東亜に欧米各国の容喙する機会を奪ふべし」と述べているところからみれば、将来にはモンロー主義の範囲を「東亜」に広げたいとの意図を窺うことができるが、当面は対象を朝鮮に限定しても、アジアにおける日本のモンロー主義を認めさせたいとの願望を表したものということが出来よう。

  しかし日清戦争に勝利しても、東アジアの国際情勢は、このような願望が実現する余地のない形で展開していった。対朝鮮政策の失敗は、朝鮮にロシアの勢力を導き入れることとなり、中国への進出は、三国干渉によって後退を余儀なくされた。1898年から99年にかけての列強の中国における利権獲得競争は、日本人の間にも「帝国主義は世界の大勢」とし、日本もまた帝国主義的発展の道を歩まねばならないとする意識を広めて行くこととなった。

  そして同時に中国の将来については、「支那分割論」「支那保全論」などをめぐる論議が交わされることとなり、さらに、義和団事件に乗じてロシアが満洲を占領するに至ると、「満韓交換論」を軸として「日英同盟か日露協商か」というテーマが、対外政策論議の中心に押し上げられてくるのであった。そこでは列強の何処と握手し、何処と対抗するのか、という選択が切迫した課題として意識されているのであり、それは同時に、アジア主義が形成される条件が欠如していることを意味してもいた。

  後に『倫理的帝国主義』なる大著をものすことになる浮田和民は、こうした事態の中で、先進帝国主義国の了解を得られる範囲での平和的経済的膨脹を主とする後進帝国主義の在り方を説いているが、そこでは彼は、アジア・モン ロー主義などを唱える余地はないとの認識を前提としていた。彼は言う(6)

 

 夫れ亜細亜は亜細亜入の亜細亜なりと云ふ日本流のモンロー主義を提議せんとするも、時期既に後れたるを奈何せん。日本が今日唱道することを得べき唯一の帝国主義は、国際法上の合意に基き、欧米諸国に向って十分自国人民の権利を拡張し、又た亜細亜諸国の独立を扶植し、其の独立を扶植せんが為め亜細亜諸国の改革を誘導促進せしむるに在るのみ。


  この部分だけでいえば、浮田はアジア・モンロー主義を時期後れとしながら、しかもアジア諸国改革の指導者たることを、日本の最大の課題としているかにみえるが、しかしそれは日本人の心構えを述べているに過ぎないのであり、現実には中国大陸への膨脹においても、日本が列強に後れをとつていることを強く認識していた。そしてそのことが、彼にアジア・モンロー主義を断念させる決定的要因であったと恩われるのである。朝鮮問題と中国問題の日本にとっての差異は、次のような形で把握されていた(7)

 

 支那問題と、朝鮮問題とは同日の論に非ざる可し。朝鮮に於ては、日本は経済上又た政治上第一の地位を有し、又た有せざる可からざるの必要あり。然かも支那に於ては、経済上英国に一歩を譲り、又た政治上露国に一歩を譲らざる可からざるの位置に立てり。吾人は支那問題の為に重大の責任を有すると同時に、その責任は朝鮮問題の如く我が国民に危急切迫の繋累を及ほすものに非ざる可し。然かも最も密接の関係を有し、一方に於ける日本の失敗は、必ず他方に於ける失敗の前表たることを免かれざる可し。


 即ち、日本は朝鮮に於ては政治的にも経済的にも第一位を占めているが、中国に於ては政治上ではロシア、経済上ではイギリスが第一位であり、日本はいずれも第二位の地位を占めているに過ぎないというのである。

  しかし朝鮮に於ても、日本の地位は浮田の見るほど優越したものではなかった。同じ明治34年に、稲田周之肋は 「我は朝鮮を取り露は満洲を取る」という満韓交換論的発想を批判し、「我国民は朝鮮を我物の如く恩義するも、露国民亦半鴫に対する意気我に譲らざるなり」「説者は乃ち我若し露の満洲占領を承認すと云はヽ露は我の朝鮮併呑を助成すべしと云ふ、迂闊も亦甚だしからずや」と指摘する(8)

  つまり、日本人には朝鮮を自分のもののように考える向きがあるが、朝鮮の親日派はすでに力を失いロシアの勢力 が浸透してきているという朝鮮の情勢からいえば、ロシアが日本と関係なく実現した満洲占領を日本が承認したからといって、朝鮮に於いて日本に対抗して獲得したロシアの地位を日本に明け渡す筈がない、というわけであった。

  この批判は、現実の状況を適確に捉えているのであり、日露戦争以前には、日本側は朝鮮情勢を左右し得るような指導力を持ち得てはいなかった。従ってこの時期には、朝鮮問題こそが当面の課題であり、それを越えて、「アジア」の観点を打ち出すことは困難であった。いいかえれば、ここではまだ、アジア主義形成の条件を見出だし得なかったということに他ならないであろう。

2対外発展の条件と方向をめぐって