『近代日本のアジア認識』

1994年3月

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アジア主義とその周辺


 

古屋 哲夫


はじめに
1アジア主義の出発点―日露戦争以前―
2対外発展の条件と方向をめぐって
3第一次大戦と中国認識
4アジアモンロー主義と石井・ランシング協定

5インドへの関心
6文明論・人種論とアジア主義
おわりに



はじめに

 現在のアジア主義研究の出発点をつくったのは、1963年に書かれた竹内好の「アジア主義の展望」と題する一文であったと言ってよいであろう。この論文で竹内は、「アジア主義は多義的」であり、「一つの傾向性ともいうべきもの(1)」であるとしたうえで、次のように述べている。

 

アジア主義は、前に暫定的に規定したように、それぞれ個性をもった「思想」に傾向性として付着するものであるから、独立して存在するものではないが、しかしどんなに割引きしても、アジア諸国の連帯(侵略を手段とすると否とを問わず)の志向を内包している点だけには共通性を認めないわけにはいかない。これが最小限に規定したアジア主義の属性である(2)。


  竹内は、こうしたアジア主義の把握によって、その後の研究を「連帯の志向」を発掘する方向に導いたといってもよいであろう。そしてそこでの中心的な関心は、「侵略主義と連帯意識の微妙な分離と結合の状態(3)」に向けられることになった。

 こうした研究の方向は、確かに、アジア主義の一つの側面を明らかにしたといえるかもしれない。しかし、問題の中心が「連帯と侵略」という軸に沿って展開されるとともに、アジア主義の「アジア」の側面、つまりそこで、何故に、どのような形で「アジア」が持ち出され、主張されてくるのかといった問題が後景にしりぞけられてしまうという結果が生じたのであった。極端にいえば、「アジア」という言葉が全く使われていなくても、アジアの何等かの地域の人々との連帯の指向が見られれば、それは、アジア主義だということになる。もちろん、そうした研究の意義を否定しようというのではない。しかし「アジア主義」を対象にする以上、「アジア」という言葉によって何が語られ、そこにどのようなイデオロギーが盛られているのか、という問題を基礎に置かなくてはならないように思われるのである。

  大まかにいえば、イデオロギーを含んだ「アジア」という言葉は第一次大戦ごろから次第に多用され、満洲事変以後、第二次大戦に向かって氾濫するに至り、ついには、「大東亜共栄圈」に辿り着いたと見ることができる。つまり 「アジア」という言葉が、氾濫すればするほど、連帯への指向は薄れ、指導=支配の側面が濃厚になってくるように思われるのである。

  従って、このような問題を明らかにしてゆくためには、一度、「連帯の指向」の発掘という立場を離れて、近代日本人の「アジア」という叫び声を取り上げ、それがその時点でどのような内容を持ち、誰を相手としていたのか、と いう角度から検討してみなくてはならないであろう。

  本稿は、こうした観点から、「アジア主義」をはじめ、その周辺にある大アジア主義、アジア・モンロー主義、東亜連盟、アジア連盟などの名称で唱えられた主張を取り上げ、「アジア」なる叫びが実際には何を目指すものであっ たかを解明して行きたいと考えている。

1アジア主義の出発点―日露戦争以前―